ニケ… 翼ある少女:第30話「カウントダウン… 飛び立つヘリと浮上する原子力潜水艦」
「Mr.北条、これから日本政府との約束の時間の19時までは、どうなさるおつもりですか?」
出勤してきたチャーリー萩原が、すでにオフィスの自分のデスクで椅子に座っていた北条 智に聞いた。北条は毎朝、誰よりも早く出勤している。それが彼のスタイルだった。
「そうだな… 私もそれを考えていたんだが、正午過ぎには『クラーケン』に搭乗するためにオフィスを出るつもりだ。それまでは退屈だが、ここで時間をつぶすしかないな。君はどうするんだ?」
逆にチャーリー萩原に対して質問した。
「私ももちろん『クラーケン』にはお供しますが、それまでは今後の『作戦ニケⅡ』の展望について検討してみるつもりです。」
そう言うチャーリー萩原に対して苦笑しながら、北条が言った。
「君も私と同じく仕事の虫だな。よし、私も付き合おう。まず、ニケについてだが日本政府はどう出てくるだろうな? 君の意見を聞かせてくれ。」
チャーリー萩原は待っていたとばかりに、北条の質問に淀みなく答える。
「私の推測では、まず日本政府は時間の引き延ばしを図ってくるでしょう。また、核テロ犯行予告声明を出したテロ組織『underworld』について調べるのに昨日から躍起になっているでしょうね。」
北条はチャーリー萩原から話を引き継いで言った。
「しかし、世界中を捜したってそんなテロ組織は存在しない。
だが、東京湾状に投棄されていたSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の筐体は本物だ。
さぞかし連中は焦っているだろうな。約束の時間はどんどん迫ってくるんだからな。」
チャーリー萩原が、ニヤリと笑みを浮かべて頷く。
「まったくです。実際の所、連中に同情してしまいそうです。
しかし、Mr.北条は時間の引き延ばしなどには応じるおつもりは無いのでしょう? こちらがニケの正体が15歳の少女である『榊原くみ』という事が分かっているという事も、日本政府は承知している訳ですよね?」
今度は北条が頷いて返事をする。
「もちろん連中は承知しているさ。
向こうには、私の無二の親友で優秀な部下だった鳳 成治がいるんだからな。
ヤツは『underworld』がこの北条 智の隠れ蓑であることにも、とっくに気付いているに違いない。
ヤツなら私の思考パターンを読んで、こちらの先回りをする事も可能だろうな。」
「ヒューッ!」
チャーリー萩原は口笛を吹いて、身を乗り出した。
「その鳳 成治という男は、Mr.北条をそれほどまでに心酔させる男なのですか?」
北条は一度ため息をついた後でニヤリと笑って言った。
「ああ、味方でいるなら真に頼もしい奴だが、敵に回すとこれほど恐ろしい奴はいない。君や私と同レベルの頭脳と度胸だ。」
「信じられない…と言いたいところですが、Mr.北条がそういう冗談を言う方で無いのは十分に承知しています。
となると、かなり厄介な男が敵の中にいるという事ですね。これはやりがいがあって面白い…と言うのは不謹慎でしょうか?」
チャーリー萩原は挑戦的な瞳を北条に向けた。
「いや、君ならそう言うだろうと思っていたよ。鳳 成治は君や私の様な男には、相手にとって不足の無い奴だと言って間違いない。
楽しめそうだな、チャーリー。」
「はい、Mr.北条。鳳 成治という人物がどれだけ私達を楽しませてくれるのか、非常に興味深いです。
私は本当にワクワクしていますよ。」
「ふふふ、そういう事だ。私は親友のアイツが敵に回ってくれた事に感謝しているくらいなんだ。」
二人は互いの顔を見つめて大声で笑った。
ここで腕時計を見た北条がチャーリー萩原に対して言った。
「ぼちぼち『クラーケン』に向かおうか、チャーリー。」
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場所が変わって、ここは首相官邸の地下にある危機管理センターでる。
ここには今回の核テロに対する緊急対策本部が設置されていた。
鳳 成治は太田首相の直々の指名により、この緊急対策本部の特別指令官を任命されたのである。
ここにいる者達の全てが慌ただしく動いていた。もちろん、司令官である鳳 成治本人は言うまでもなかった。
彼は昨夜はほとんど寝ていなかった。
鳳 成治の元には、警察庁からも自衛隊統合幕僚本部からも人員が派遣されており、指揮系統に必要な機器や通信連絡網も最新式の設備が投入された。
今すぐにでも戦争が始められそうな警戒レベルの緊急対策本部であり、中の雰囲気も実際に戦争状態の様な緊張感に溢れかえっていた。
現在、17時である。『underworld』からの日本政府に対して指定された時間まであと2時間だった。
少し早いが、中にいる者達全員に弁当が配布された。
皆が食事をしている最中に、鳳に対して伝令がやって来た。この伝令は陸上自衛隊から派遣されている若い隊員の様である。鳳司令官の目の前で、踵を合わせる音を大きく響かせ、最敬礼をしながら伝令が言った。
「鳳特別指令官! ただいま首相官邸に安倍賢生殿と、お孫さんの榊原くみさんが到着されました!」
鳳 成治も伝令に対して軽く敬礼を返した。若い隊員につられて自然と力が入ってしまう。
「ご苦労様、二人を通してくれたまえ!」
伝令がもう一度最敬礼をして部屋を出て行った。
少ししてから、成治にはなじみの深い二人の家族が入って来た。成治にとって実の父である大陰陽師の安倍賢生賢生と、姪の榊原くみの二人である。
二人が…というよりも殺伐とした緊急対策本部室に場違いな、明るい栗色の髪に青い瞳のスラリとした美少女の榊原くみが入って来た途端、中で働いていた男性スタッフだけでなく女性達の口からも歓声と共にどよめきが上がった。口笛を吹いている者までいた。
そんな自分への関心に気付くことなく、くみは物珍しそうに緊急対策本部室の中を、その青く美しい瞳で見回していた。
祖父の賢生は外野のどよめきに咳払いをして、「しっ、しっ」と追い払う仕草をした。
それが周りにいた者達の笑いを誘い、場違いな二人の登場によって緊張感の漂っていた現場は和やかな雰囲気となった。
司令官である成治は、この二人の登場が緊急対策本部内の緊張とギスギスした雰囲気を和らげた事を嬉しく思い、微笑みながら父と姪を迎えた。
「よく来てくれた、二人とも。歓迎するよ。ははは、もう皆には歓迎されているな…くみちゃんはね。」
笑って歓迎の意を表した息子の成治に対して、大きな目をむきながら賢生が言った。
「何を言っとるんじゃ、お前は! 女性陣から歓迎されとるのは、くみじゃなくてわしの方じゃ!」
「分かった、分かった… でも本当によく決心をして来てくれたね、くみちゃん。」
父に対しては苦笑した成治だったが、自分の美しい姪には優しい目を向けて微笑んだ。
くみは誰もがうっとりとする様な美しい微笑みを浮かべた後、真剣な表情に戻って成治に対して言った。
「成治叔父さん、お疲れ様です。
それで…私は何をすればいいの?」
隣りにいる賢生も大きく頷きながら成治の顔を見ている。
「くみちゃん、BERSを使って君を何度も襲わせたヤツが今回の核テロの主犯なんだが、そいつが君の身柄を引き渡せと日本政府に要求してきた。
東京に核ミサイルを撃ち込むと脅迫しながらね。」
「うん、大体の事はお祖父ちゃんに聞いたわ。それで、日本政府は私を引き渡す決心をしたのね。」
目の前の美しい姪を見つめながら、成治はしばらく開いた口を閉じることが出来なかった。
この娘は何という少女なのだろうか…? 誰もが口に出すことを憚るようなことを当の本人がサラリと言ってのけた。
しかし、成治にしてみれば言いにくい事を言わずに済んだ訳でもあった。咳払いをして成治が答える。
「君は非常に物分かりのいい少女だね。びっくりさせられるよ。
それじゃあ、僕もストレートに話そう。敵の主犯の名前は北条 智という。
僕とは大学時代からの親友で一緒に仕事もしてきたヤツだ。非常に頭のいい男で一筋縄ではいかない。
だから僕はヤツに対して駆け引きしたり、裏をかくような事はしないつもりだ。君をヤツの要求のまま引き渡す…」
「何じゃと… それは本気で言っとるのか、成治!」
それまで黙って聞いていた賢生が、赤い顔をして息子を怒鳴りつけた。成治は父に向き直って答えた。
「本気だよ、親父… 僕はニケをヤツに引き渡す。残念だが、これは正式に決定した事なんだ。
僕の提案によるんだが、すでに日本政府の決定事項でもある。」
まだ何か言おうとする賢生の左腕をくみが引いて制した。
「いいの、お祖父ちゃん。私もそのつもりで来たんだから。東京…いえ、日本を私一人の命で救えるんなら喜んで行くつもりよ。」
くみは優しく微笑んで祖父に言った。
賢生は何かを言いかけたが、くみの真剣な目を見て身体を後ろに向けてしまった。
その後ろ向きになった身体は、背中が小刻みに震えていた。
「お祖父ちゃん…」
くみの美しく澄んだ青い瞳から一すじの涙が流れた。しかし、くみは涙を拭うことなく毅然とした表情で成治に言った。
「それで、成治叔父さん、私がしなければならない事の手順を教えてちょうだい。時間はあまり無いんでしょ。」
「ありがとう、くみちゃん… 竜太郎兄貴とアテナさんは素晴らしい娘に君を育てたんだな… 僕も叔父として君を誇りに思う…」
そう言った成治の目からも涙が流れていた。
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18時30分、首相官邸屋上のヘリポートから海上保安庁の第三管区海上保安本部所属の特殊救難隊(Special Rescue Team, SRT)が保有するユーロコプター EC 225 『オオミズナギドリ1号』が飛び立った。
中には鳳 成治、安倍賢生、そして榊原くみの姿があった。
三人を乗せた『オオミズナギドリ1号』は、『ニケ』こと榊原くみを引き渡すべく、核テロ組織『underworld』の指定した東京湾へと向かった。
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同時刻、東京湾沖の海中に潜む原子力潜水艦『クラーケン』の中には北条 智とチャーリー萩原の姿があった。
「よし、カウントダウンだ。艦長、『クラーケン』を今の水深300mから水深100m以上まで浮上させる事は可能ですか?」
狭い艦内の発令所で北条 智が原子力潜水艦『クラーケン』の艦長であるアーノルド・ウエストランド大佐に聞いた。
「現在『クラーケン』のいる浦賀水道は最深部が650mほどですが、三浦半島の観音崎と房総半島の富津岬を結んだ 線より北側まで進みますと最深部は70m程度となります。ですからMr.北条、それ以上のラインを北へ進んでしまいますと『クラーケン』が海上自衛隊や海上保安庁の哨戒によって格段に発見されやすくなってしまいます。
そうなると、『クラーケン』が拿捕もしくは最悪の場合に撃沈される事態が生じます。その危険は冒せません。
このオハイオ級クラスの原潜で、その深度の潜航では必ず探知されてしまいます。それだけは勘弁していただけませんか。」
ウエストランド艦長は北条に頼み込む様に訴えた。
「ふむ… 仕方がありませんな。それでは観音崎と富津岬を結ぶライン上の水深100mで『クラーケン』を待機させて下さい。」
東京湾の中央付近まで潜航する事を考えていた北条 智にとっては、不満ではあったが仕方が無かった。
原子力潜水艦『クラーケン』は約20ノット(時速37km)の無音航行を保ったまま、北条 智の指定した深度の目的水域まで静かに潜航しながら浮上して行った。
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『次回予告』
核テロリストが日本政府に対して回答を指示した午後7時…
くみは固い決意の元、テロリストの指示した東京湾に向かった。
いっぽう原子力潜水艦『クラーケン』の中では北条 智がクーデターを起こし、『クラーケン』を掌握してしまう。
次回ニケ 第31話「狂気の北条 智、原潜クラーケンを掌握する」
に、ご期待下さい。