*11 パンク
倒す、落とす、溢す。そういった類の失態ほど嫌な物はない、と思う。今年の盆に、世間の休暇に合わせてカフェの臨時営業を行った三日間の最終日、その日提供予定だったキッシュを焼く前に床に落とし、また、準備を終え、カフェへ向かおうという出発直前になって冷蔵庫の中に溶き卵を溢して失意の底に身を投げた。そうした愚痴を、カフェに着くや否やオーナーに詳らかに話した時、「屹度、疲れていたんじゃないか」と言われて、これが私の耳には新鮮に響いた。
その時の私は自覚として疲労を感じている積が無かった。体はちゃんと働いていたからである。然し確かにその週は、イベント出店で始まり、空けた一日でカフェの準備をし、三日間のカフェ営業をした先には大量注文と通常通りのカフェ営業が待っているといったスケジュールで、体も然る事ながら心や頭にも疲労が溜まっていた可能性も十分に考えられると、オーナーの台詞を反芻する内に理解が追い付いて来た。
体感としての肉体疲労は気合で不感になれても、目に見えぬ疲労の蓄積というものも確かにある。そうしてそれらが溜まると自分の意識とは無関係に、倒す、落とす、溢すという失態が引き起こされる。その時から私の中にはそうした方程式が成り立った。
今週の話である。
或る時、私は袋詰めまで済ませたパンを番重に並べ、さあ道の駅へ配達に行こうと出ようとした時になって番重の上に珈琲を溢した。私がいつも持ち歩く水筒の蓋が閉まり切っておらず、その状態で立てておいた籠の中で倒れたのである。
或る時、折角計量を済ませておいた材料の入ったボウルを作業台の上で引っ繰り返した。皸の痛々しい手では滑るからとゴム手袋をしていたのが、却って摩擦が利き過ぎるが故に、力の入れ方を見迷った右手が知らぬ内にボウルを弾いていたのである。
或る時、シュトレンを窯に入れようとした時、一つのシュトレンが生地の姿のまま天板から釜の底にするすると滑り落ちてしまった。急いで引き上げるには発酵後の生地の構造は脆い。私はそのまま十分ほど強火で焼いた後、窯を開けると道端で死んでいる狸の残像が重なり胸が切なくなった。
或る時、卵を冷蔵庫へしまおうとした拍子に、透明のパックの口から卵が二つ脱け出して自ら床へ墜落していった。
この一週間の内、私は幾度、悲嘆の絶叫と憤怒の咆哮を喉から発したか分からない。兎に角私が最も忌み嫌っている失態の数々が目立ちに目立った。「こんな日もあるか」と能天気に片付けられるのは精々初めの一度や二度で、一週間を通して畳み掛けられると愈々疲れたと憑かれたが同じ読み方をする理由を悟る程に霊的な力がこの身に働いているを疑わざるを得なかった。
過去に私は疲労の核は心労であると結論付けた事があった。肉体疲労に感じているものも、その実正体は精神的な駄目傷にあるという理論である。即ちある程度心労を抑える事が出来ている内は、肉体の疲労は気合で乗り越えられると、そういう風に私は自らを鼓舞してこれ迄も、そしてこれからもやっていく所存であるが、これをオーナー論じる「疲労が失態を生む」という説と紐付けて考えると、盆休みの時および今週の私には心労の蓄積があったと言う事が出来、こと今週に限って言えば大いに心当たりがあった。シュトレンである。
本格的にシュトレンの製造を始めた。有難い事に全国各地、市内市外から沢山の注文を承った。これは全くもって私の予想を凌ぐ数であった。まずこの数を管理するにあたって頭労の蓄積があった。無論、帳面に記録して数の管理をしているが、発注数や材料の把握に連動して、私の元来の特性である心配症が大いに幅を利かせる様になってくる。これが心労に繋がる。
どれだけ管理している積でも、何か何処かに忘れがある様な気がしてならない。これだけでも十分な心労な所へ、直接心労を生むものもある。孤独感である。然しこれは大変不思議な孤独感で、同じ様に一人工房でプレッツェルやライ麦パンを作っている時には感じない孤独感を、シュトレンを作っている時にのみ生まれるのである。これは全くもって正体不明であるから対策も分からぬ。延々とシュトレンを作っている内に、みるみる頭が狂いそうになっていく感覚がある。旧い西洋の画家がアトリエで独り白画盤に向かっている内に気が狂い始めアブサンに溺れる感覚は知らぬが、どうもそれに近い様な気がしてならない。知らず知らず、至る所に気を張っている内に神経が擦り減っているのかもしれない。それで珈琲を溢したり卵を落としたりしているのかもしれない。その癖、十二月には軽井沢での出店に向けて二百に迫るシュトレンを独り焼こうとしているんだから、まあ、好きでやっている内は気が狂おうがアブサンに溺れようが到達したい所へ到達させておくのが我ながら賢明である。
兎に角謂わば、頭と心が一杯の状態で体ばかり平気な顔で働かそうとすると何処かに無理がかかるとかそういう絡繰なんだろう。私があと五人いれば、と思う事屡々。
さて、散々今週を然も最悪たる一週間であったかのように描いて来たが、実は同じくらいに嬉しい事もあった。誰かが言っていた、好調な時には悪い事も起こりやすいんだと。これも不思議である。
或る時は、私の地元でライ麦を育てている夫婦の所へライ麦の観察に伺った。聞けば九月に駅前のイベント出店、十月にカフェに来店してくれて私とも顔見知りになっていたこの夫婦は、八月に移住して来たばかりで、畑の土壌改良の為にライ麦の種を蒔いた矢先、ライ麦パンを焼く私と知り合い、この度、ライ麦の成長を皆で観察して、来年麦が実った暁にはパンを焼いて食べませんかという話にまで進展した何とも不思議な縁のある夫婦である。私にとっても実際にこんな身近でライ麦の成長過程を観察できる機会があるとは思ってもいなかったから、大変幸運な出会いである。
或る時は、遠方に住むアナログゲームクリエイターの女性からシュトレンの注文が入って嬉しかった。この人との間にも実に不思議な縁がある。御互いに認識があったのは彼是八年前、SNSの内だけの人であったのが、昨年彼女の作品のプレイヤーインタビューにドイツに住んでいた私が抜擢され、その時に初めて電話で話をした。同世代の頑張りが刺戟になる、と言うように私にとっても彼女の頑張りは刺激になる。実際、先日新作が発売された時には早速予約をし、それが今週手元に届くと、表紙の絵を、全体のデザインを見るだけでパワーを受け取った様な心持になった。が、未だに私は彼女と会った事は無いのである。そんな人からシュトレンの注文が入ったのは、私が先手でゲームを購入した義理である可能性も否めないが、顔も知らぬが縁ある相手とエールを送り合う様でなかなか不思議な嬉しさがあった。
或る時は、いや、これはカフェでの話であるから土曜日なのであるが、新潟からの御客が二組あった。一組の夫婦は、一月ほど前に一度来店された際に食べられなかったキャロットケーキを求めて改めて足を運んで下さったらしかった。もう一組の夫婦は、パンも残り僅かになった頃になって来店して、「ライ麦のパンはもうありませんか」と言った。聞けば、ライ麦のパンを求めて態々来て下さったらしかったのであるが、何処で知って頂けたんですかと聞くと、何でも以前に友人がこのカフェで買ったパンが美味しかったと噂を回してくれて、それで色々と調べて来たんだと言った。相当隈なく調べてくれたのだろう、ふるさと納税の出品は勿論、こうして綴り続けて来た文章も読んでくれているんだと言った。どうも大変にパンが好きと見えて、随分と話し込んだ。応援の言葉も戴いた。それが実に楽しかった。そして何より私の知らぬ新潟の何処かで、私のパンの良い噂が流れているというのが嬉しくもあり、また有難かった。
工房で独り白画盤に向かうのも一旦佳境である。確かに延々黙々と孤独な作業に勤しむは精神衛生的にも良いとは言えぬ。然し、このシュトレンが渡った先で、些細でも幸福の演出の一端を担えると思えば、枯れた憑かれたも嘆いている場合では無い。大変大衆的で綺麗事の中央を射貫く様な文言で頗る恥ずかしいが、私のパンを機に嬉々として喋る御客の表情や言葉は、本当に私の何物にも代え難い喜びであり、原動力である。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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