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ネヴィル・トランター「ユビュ王」観た感想

こんばんは。
今回は、今日観てきた人形劇についての感想やら妄想やら何やらを自分の為に残そうと思います。
人に語るような気持ちでは書くが、自分の感想の整理の為の駄文です。

今日観てきた演目は「ユビュ王」という作品で、
ネヴィル・トランター氏が演出する舞台であります。
ネタバレを多分に含みます。

ネヴィル氏はオランダに在住の人形遣いであり、
人形劇界にその人ありと謳われる第一人者なのだそうです。
正直に申しますと私は人形劇に関しては完全ににわかでして、
あまり歴史や人形劇シーンに詳しくないので
知ったような解説は控えますが、
パンフに書かれた紹介を引用しておきます。

Neville Tranter/ 俳優、演出家
1976年Stuffed Puppet Theatreを設立。脚本、美術、出演のほぼ全てを一人で手がけ、独自の人形劇の形を発展させた。ユーモラスかつシリアスな作品作り、等身大の人形を何役も演じ分ける卓越した技術で、人形遣いとして、また演出家としても世界中で称賛を得ている。
 優れた教育者として、世界各国の演劇学校に招かれ後進を育成しながらも、鮮烈な新作を発表し続け、またオペラ作品の演出を手掛けるなどその活躍は多岐にわたる。

実は私が彼を知ったのはほんの1,2か月前で、
彼、ネヴィル氏のYouTubeチャンネルの動画を観たのがきっかけでした。
そこには彼の今までの公演の動画がたくさん公開されており、その中でも私が初めに見たのはこの動画でした。

この動画を見て私は大層驚きました。
「二人いるじゃないか!」
いや、明らかに骸骨の方はパペットで、ネヴィル氏が躁演しているのですが
なんせ同時に自分自身も役者として演技しているので、あたかもそこに二人いるかのように見えるのです。
この…別々の感情を持つ二つの役を一人の人間、一つの脳でコントロールし同時に走らせるということが、こんなことが…こんなレベルで表現できるものなのか、と強い衝撃を受けました。
そして私は俄然興味が沸いて、実際に彼の公演を観に赴いたのでした。

観劇するまえに、原作となるアルフレッド・ジャリ作「ユビュ王」邦訳版も読んだ。
(と言っても実はまだ今回の劇の範囲である章までしか読んでいないのだけれど…)

ええと、そうだな、
感想を…正直どういう切り口から書いたらいいか、混乱しているのだけど…
なにせ、この混乱した気持ちに整理をつけるためにこの文章を書いているくらいなので。
そうだな、まず感想を述べるにあたって、一つ大きく包括的な、感想のフレームを召喚しようと思う…。
一言でいうなら、全てが表現として意味のあることだ、ということ…。
もちろん全ての表現物はすべからくそうであるのだが、
なにせこのネヴィル氏の舞台は脚本、演出、操演、出演、人形の制作まで、相棒のウィム・シトヴァストさんの補助があるとはいえほとんど全てを一人で担っているため、特に彼の表現ってものがストレートで純粋で「生」なんだろうと感じる。
原作こそあるといったが、その原作との違い、カットした部分と付け足した部分というものが、なおのこと彼自身の表現したいものやことを浮き彫りにしているのだ。

原作「ユビュ王」に関しての情報は、まずWikipediaから引用しようと思う。

ユビュ王』(: Ubu Roi)は、アルフレッド・ジャリ1888年戯曲
不条理演劇に重大な影響を与えた。悪意に満ちた卑劣なユビュ親爺についての演劇。ユビュ親爺が王位を簒奪してやりたい放題の限りを尽くすが追放され、諸国を放浪するという不条理に満ちた物語である。

なお、この「諸国を放浪する」場面は今回の演劇では扱われない。
またこの戯曲は、当時学生だったジャリが、学校の先生をモデルにして仲間内でふざけ半分に(?)書いたお話が基になっているとのことで、まあ正直かなりおふざけの多い話ではある。何の教養もない私が読んでも、普通に笑えて楽しく読める。
その辺のことは有識者の方の以下のnoteに詳しい。

この方のnoteにも書かれているし、パンフに載っていたネヴィル氏本人のメッセージ、あとこれもパンフに載っていた批評(当劇は先に海外で公演されている)にもあったが、この「ユビュ王」という戯曲はシェイクスピアの「マクベス」を多分にオマージュしているそうで、今回の脚本では冒頭にユビュが王になることを予言するゴーストが現れる所などが原作よりさらに「マクベス」的になっている…という。が、恥ずかしながら私はマクベスを知らない…のでこれについては彼がなぜそうしたのかわからないので書けない…。

今回の劇では、常に舞台の中心に王冠が置かれており、それが暗示する「権力」や「地位」の周りでそれに魅せられた人間達がわやくちゃするというこの物語を象徴しています。この王冠に、ネヴィル氏扮するユビュの従者「ノーバディ」が触れようとすると、幽霊が現れ、「お前の主、ユビュは王になる!」と予言するところからお話が始まります。
そして古来からすべてのお話のお約束として、作中でなされた予言は必ず現実になる、というわけでユビュが現王を殺し王位を簒奪するお話が繰り広げられるわけなんですが、個人的にまずこの冒頭のシーンはどこなのか、と疑問に思いました。
ユビュはポーランドの竜騎兵隊長(偉い)なのですが、偉いとはいえ王冠にそう簡単にアクセスできるとは考えにくいですし、その従者が王冠に触れる機会というのは現実的ではないです。
よって…一つの可能性として、
おそらくこれはノーバディの夢の中なんじゃないかと思いました。
実際後半にノーバディは自身の、おそらくイマジナリーフレンド的な存在である「くまさん」(ベア)に、「僕が王様になる夢を見たんだ」的なことを話すシーンがあります。
冒頭のシーンでは王冠を見つけただけで王になってはいないんですが、こういった王や王冠に関する夢を彼は度々見ていたのかもしれません。
(ただこの時、ノーバディはこの夢を「悪夢」と言っていた。僕が王になんてなれるわけがないと言いながらも「キングノーバディ」という呼び方に目を輝かすアンビバレンスなシーンだった。)
このノーバディとくまは原作には存在しないため(普通の野生の熊は出てくる)、基本的にネヴィル氏が書いたセリフでありシーンでありキャラクターなので、彼に注目するとネヴィル氏の表現したいものが特にわかりやすい、いやわかりやすくするためのキャラクターなのかなと思いました。
ネヴィル氏演じるノーバディは無口で、おどおどして、弱気な従者です。
そんな彼が夢の中(おそらく)で王冠を見つめる時にだけ見せる、息をのんだような横顔に、会場全員の眼が釘付けになるのを私は首筋に感じたような気がした。(かなり前の方の席で観ていたのだ)

またこの王冠から現れるゴースト、こいつは何者なのか?ということも私は気になりました。
前述したようにマクベスのオマージュシーンであるということなので、マクベスに明るい方なら自明なのかもしれないのですが、とりまここでは私の考えた、もとい妄想したことを開陳いたします。
私が気になったのは一つに幽霊の造形です。
この幽霊の頭には何かアンテナみたいなものが刺さっています。あるいは生えています。

見づらくて済みませんが

そして、左下に映っているのが「ユビュ」なのですが…
おわかりいただけただろうか…
画面左下、ユビュ親父の頭にも何かアンテナのようなものが生えている事に…
ということは、このゴーストはユビュのなれの果てなのでは⁈
そういえば心なしか顔も似ているような…!そうでもないような…
さらに関連して、原作ユビュ王ではユビュ親父の「くそったれ!」というセリフから始まるのが当時衝撃的だった、とのことで、これは本作を象徴するセリフなのですが、 
ネヴィル版ユビュでこのセリフはこの幽霊から発せられます。
おいこれもうゴースト=ユビュ親父説で決まりだろ…
しかし、そうすると時系列がおかしい訳でして、
ユビュのなれの果て、死んだあとの幽霊が、これからユビュは王になるぞ!と予言するというのはどうなのでしょう?
もちろんノーバディの夢の中?だし幽霊なので時系列は無視できるものと考えればこの説もありなんですが…
それにもう一つ、このアンテナに関して、
以下はユビュの妻、ユビュに王位簒奪をけしかける「ユビュおっ母」を収めた写真なのですが、

画面左、おっぱい丸出しなのがユビュおっ母

おわかりいただけただろうか…
ユビュおっ母にも同じアンテナがついているではないか…!
一体なんなのだこのアンテナは…?
そもそもアンテナ含め、この主役の二人かなり刺激的な造形である。
顔もかなり怖いし、女性のキャラクターをこんな月代にしてしまうとは…!
この写真ではわかりにくいが、ユビュ親父も頭頂部が禿げている。
そこにアンテナがぶっ刺さってて、あたかも二人して脳手術でもして何か埋め込まれたかのようである。
もしかして…このぶっ刺さった物をアンテナと仮定するならだが…
これはやはり受信機としてのアンテナであり…
彼らは何かを受信して操られているのかもしれない…
一体何に?
それはこの物語を観て、王位の簒奪というモチーフを考えるに…
なにか強欲さ、権力を欲する心なのかもしれない。
このアンテナは、人間を突き動かす、抗いがたい本能的貪欲さと、それを否応なく受信し、なされるがまま操られるしかない、無力で愚かなヒューマンビーイングを象徴しているのではないのか…
まさに遣い手に操られる人形のように。
そうすると先述のゴースト君は、特定の誰かではなく、王冠に分かちがたく宿る人間の貪欲さの権化とも考えられるかもしれない…。
本当のところはわかりませんが。

ともあれ、その後の展開でこの二人の王位簒奪作戦に巻き込まれる人物が登場します。大尉です。

登場時はベジタリアンだった

彼が面白いキャラクターで個人的に好きです。
常におどけたようなキャラで、こびへつらったような笑い方や声がキャラクターにピッタリです。
大尉ってくらいだから軍人で、ユビュ親父に爵位?か何かをちらつかされ協力することに。
しかし王位簒奪後はユビュ親父に約束を反故にされた挙句投獄されてしまう不遇なキャラ。
ユビュ親父が彼にこんな仕打ちをしたのはまあおそらく妻(ユビュおっ母)と不貞をしていたからなのですが、誘ったのはおっ母の方なんだよなあ。
そしてユビュが彼を投獄しようとした時、ユビュおっ母の方は大尉を王位簒奪の功労者として称えようとしていたんですよね。
だからユビュ親父を操って王女になったユビュおっ母だけど、大尉の投獄は予定外で、ユビュはユビュでただ言いなりではないのだ。
彼女としては王女になって大尉ともよろしくやる生活が理想だったのかな。
いや、普通に王になったユビュも除くつもりだったかも。
そうすると彼女の誤算はユビュ親父が、自分と不倫する大尉に思うより大きい憎しみを抱いていたことなんだろうか。そしてそれはユビュ親父のおっ母(自分)への気持ちの大きさを見誤っていたということとも考えられはしないだろうか。
後に投獄された大尉をこっそり解放したのもおっ母だし、
後にユビュ親父に戦争しろと焚きつけて、戦争でユビュ親父が死んだら大尉と一緒に新しい生活を始めよう的なことも言っていたユビュおっ母。
これら一連の行動が、強欲な彼女のことだからなにか大尉を利用するための策ではとも考えたが、あまりメリットにならなそうに思うから、
彼女は大尉とのことを結構真面目に…という言葉遣いが正しいかわからないが、意外と真剣に考えていたのかな。
簡単に言うと遊びじゃなく多少なりとも実際的愛があったのかも。
最後には大尉を指して「別のおもちゃを見つけるわ」的な発言もあったように思うが、彼女のほんとの気持ちははかりかねる所がある。
少なくともユビュ親父はそんな大尉が気にくわなかったのであろう。
でもそこでユビュおっ母ではなく大尉だけを罰するという態度に、ユビュ親父のおっ母への何か想いがくみ取れる気もする。
ユビュ親父は妻の不貞に初めから気づいていながらも、そのことで直接的にユビュおっ母を責めるシーンはあまりなかったように思う。(なくはないが)
そういえば原作ユビュ親父はユビュおっ母のことをかなり悪しざまに言っていたが、
ネヴィル版ユビュ親父はユビュおっ母のことを悪く言うシーンはあまりなかった気がする。(なくはないが)
登場時、あのどぎつい見た目のユビュおっ母に対し
「You look lovely」というユビュ親父のセリフに、私は笑っていたけれど。
あれはただ恐妻へのご機嫌取りとかでいっただけのセリフではなく、少なからず彼の本心だったのかもしれない。
そう考えるとこのお話は、彼らの愛と欲望が緻密に因果して転がっている物語ではないかということに気づかされる。
彼ら人形のすべての言動に彼らの欲望と愛憎が原動力として隠れているんじゃないのか。
正直原作のユビュ王はスラップスティックな不条理劇ということで、人物の行動原理や因果関係は丁寧には説明していない部分があるように思う。
特に顕著に思うのが前述した大尉が牢から逃げ出すシーン。
便宜上シーンといったが、原作にはそのシーンはない。
原作大尉は単に金銭上のトラブルからユビュ親父に投獄され、次のページではすでに大尉はロシア皇帝と話しており、セリフで「やっとのことで抜け出した」と説明するにとどめている。
この隙間をネヴィル氏は、ユビュおっ母と大尉の不倫、その愛という線で繋ぎ、そのことからさらにユビュ親父のおっ母への偽らざる気持ちを導き出し、このユビュという傍若無人なアイコンを一つ人間的で親しみやすいキャラクターとして再構築したのではないか。

そしてこの大尉についてもう一つ言いたいのが、彼の手について。

見づらいが両手がこんな感じ

手袋のような感じだが、指は棒のようで何か非人間的な造形にも思える。
端的に言うと、ロボットのような。
そして似たような手を持つキャラは他にも登場する。
以下の画像後方に映る、王子ブーグルラスだ。

毎度見づらくて申し訳ない

ご覧の様に、左手だけが「大尉式ハンド」である。
彼はユビュ親父に殺される王様の息子で、
のちに簒奪者ユビュ親父打倒のために担ぎ上げられ、
民衆の支持を得て戦う正統王位継承者である。
登場時からユビュ親父の胡散臭さに気づき嫌っていた。
彼は王子で高貴な身分なので、通常ならこういうごつい手袋は似合わない。
それが片方だけ嵌めているというのは何か意味があると思うのだが……
この二人に共通することと言えば後半ユビュを相手に軍を率いて戦うことだ。
ユビュおっ母に開放してもらった大尉は、その足でロシアに向かい、
ユビュ親父に殺されたポーランド王の従兄弟であるロシア皇帝ウラジーミルに謁見する。
このウラジーミルがかなり面白くて、ロシア語でまくしたてるのだが、
会場で表示される日本語の字幕に「(ロシア語で何かしゃべっている)」的な表示があるだけで、何を言っているのか大尉にはわからない。
ので毎回そばにいるネヴィル氏(この時は状況的にノーバディ役ではなくなにか側近的な存在なのかな、と思っていたのですが、ノーバディがユビュおっ母の命を受けて大尉と一緒に行動していたとも考えられるのかな…)に通訳してもらうのだ。

↑当該シーンから再生。
よく聞くと「プーチン」と言っているような言っていないような。

そしてこの会話の中で、大尉は皇帝にユビュ打倒のために王子ブーグルラスに助力してくれるように請願する。
すると皇帝は大尉に「何を差し出すか」と聞く。
それに応えて大尉は「剣と詳細な地図?」を渡すという。
そしてその後、ブーグルラスが立派な剣をもって登場するシーンが以下。

youtubeよりキャプチャ

おわかりいただけただろうか…
彼はおそらくロシア皇帝経由で手にしたおそらく大尉の剣を、左手…
つまり「大尉式ハンド」に装備しているのである。
これはつまり、大尉が保持していた軍事力を彼が手にしたことを象徴しているのではなかろうか。
彼は登場時はただ父から王位を継承するのを待つだけの、その時が自動的に来るのを夢見る甘ったれた王子で、
父である先王に「敬意の足りない最近の若者」と叱られる子供だったが、
父の死後、民衆やロシア皇帝の力を借り、戦争に関与していくのだ。
とはいえ父を殺した怨敵を倒すとか、簒奪された自分の国を取り戻すためといった暴力的なヒロイズムは特にネヴィル氏のユビュにはそぐわないように思う。
彼は能動的に戦争に身を投じていったのではなく、群衆に祭り上げられ流れに抗えぬままそういう立場や役割を演じるしかなかった、最後まで一人の子供に過ぎなかったんじゃないだろうか。
だからこそ上に貼ったキャプチャのシーン、
剣を掲げ軍隊を率いることになった恐らく何らかの式典のシーンで、
彼は何も言わなかったのではないか。
否、正しくは、なにも言えなかったんだろう。
使命感を帯びて戦いに身を投じていったのであれば、きっとその思いを熱く口にして軍と自分自身を鼓舞したはずである。
そうじゃないから王子はただ茫然と自分の掲げた剣を眺め、置かれた王冠と剣を見比べていただけだったのかもしれない。
そう思ってみると、このシーンの彼の場違いなあどけなさといったら全く眼をそむけたくなるほどに感じる。

↑当該シーンから再生。
一体、表情のない人形で、セリフのないシーンで、この胸を締め付けるような痛々しさを表現することができるものなのか…。
つまりこの王子の非対称の手は、若くして政争の具となり訳も分からんまま巨大な力をその手にすることを余儀なくされた、一人の子供という存在を体現したデザインだったのかもしれない。
大尉ハンドに選ばれたのが右手でなく左手だったのはおそらく剣を掲げる時の躁演のしやすさから逆算的に選定されたものと思われるが、
もしかすると特別な意味もあるのかもしれない。
けどそこは本当にさらに勝手な妄想になるので今回は置いておく。
ともかくこういう周囲にまだ抗いがたい王子の子供的無力さを見抜いていたからこそ、ユビュおっ母は親父に「ブーグルラス王子には優しくすればいい」と懐柔策を提案したのかもしれない。
彼には正義があるから、戦えばあんたは負けるよとも。
ユビュおっ母は全体を通して周りの人物をよく見て理解している印象がある。
それが彼女に周りの人間を操る力を与えているのだろうが。
正直こんなダメそうなユビュ親父がどうして竜騎兵隊長(偉い)になれたのか、と思ったが、ユビュおっ母の政治力がそうさせた側面も大きいのかもしれない。

話を手の造形に戻すと、他のキャラクターにもそれぞれ特徴がある。
まず先ほど話に出たロシア皇帝ウラジーミル。

片手が毛で隠れてしまっているが、そこまで違いはないと思われる。ちょっとラッパーっぽい

腕を組んだようなポーズで、尊大さと排他的な印象を覚えないでもない。
ポーズは固定で、手の躁演はなかったように思う。
手を入れて桑演するユビュなどは五本指だが、手を入れないパペットたちは四本指である。
海外のカートゥーンなどで散見する四本指デザインだが、日本にはこの文化がなく個人的にも見識がないので意図はわかりかねる。

次にユビュに殺され王位を簒奪されるポーランド王ヴァンセスラス

また片手しか映っていないが、左右は対称的である

彼の手は基本姿勢で外側にぴょこんと、キューピーちゃんのように跳ねており、チャーミングな印象を受ける。
彼はパンフで「善人だが頭は悪い」と評されているとおりかなりいい人で、
ユビュ親父を自分に忠実で素晴らしい紳士だと信じている。
また人生は何て美しいんだ!と歌いながら登場するほどの幸せ者である。自分は民に愛される王で、王女も息子も自分を愛してくれるし、
自分も自分を愛している!とのたまう。
しかし反面、息子に口答えされると「母親そっくりだな!」と言ったり、子供にアンタはバカだと言い返されたり、家族との関係はあまりよくなさそうに思える。もしかしたらそんなだからユビュなんかを信じ切ってしまっていたのかもしれないな…
そんな彼だからこそ、ユビュを信じたまま殺されてしまうのはとても悲しい。
最後に王とユビュが会話したシーンで、パレードの喧騒の中ユビュが「死ぬ準備はできたか!?」的なクリティカルなセリフを言うが、王には聞こえず聞き返す、というやり取りがこれまた笑えるのだが、この会話の中ユビュは時折王ではなくその頭に頂く王冠を盗み見る演技をしていたように見え恐ろしかった。
初めは彼を殺すのを渋っていたユビュは、板挟みの上で様子がおかしくなり(この様子がまた面白いのだ)、王にどうかしたのかと心配されるほどだったのだが、(この時ノーバディは「主は酔っているのです」と弁明してくれた。全編通して彼は意外と機転が利く。そしてそれに対し王は「酔ってるのか!昨日の余と同じだな!」というが、これはたまたまじゃなく毎日のように深酒しているんじゃないのか…やはり家庭内の環境は良くなさそうに思える。)
ともかくこのユビュが苦しむ板挟みは忠義心や良心からともとれなくはないが、どちらかというとただひとえに臆病だったからのように思う。
なぜなら彼は王を殺した後、王を顧みることが無かったからである。
首尾よく王位を簒奪した後は、彼はストレスから解放されたかのようにユビュおっ母と高笑いしていた。
ネヴィル氏の「ユビュ王」では「coward」(意気地なし、臆病者、弱虫、軟弱者、腰抜け、ふ抜け、ひきょう者)という言葉が何度も出てくる。
特にユビュ親父とノーバディに対して使われることが多かったように思う。
では、この王暗殺計画をはじめからそばで聞いていたノーバディも、脳内のくまさんに「誰も殺したくないよ」的なことを吐露していたが、彼のこの気持ちは臆病さだったろうか?
そうではない気がする。
ユビュに斧で王が殺される瞬間、はっ、と、くまさんの眼を覆うノーバディの演技がとても印象的だった。
またユビュ親父はおっ母に言われ、王子の側についたロシアに宣戦布告を迫られているときも、戦争はしたくないと悩んでいたが、死ぬかもしれないから、と言っていたのでやはり個人的臆病さによると思われる。
そんな彼の背中を押したのは「顧問官」さんである。

ねじ曲がった鼻が表すものは…


彼はかなりイカレた人物でして、ユビュおっ母に言われた宣戦布告について悩むユビュ親父に、戦争って興奮しますね!的な、流血はエクスタシーですね!的な、いざ開戦!オーガズムタイム!的な発言をする好戦的な輩です。
観てるときは笑ってましたが、こんな助言で戦争始まるの怖すぎる。
このユーモアで糖衣された核心という構造が、ネヴィルさんのストーリーテリングの強力な武器だと感じます。
また開戦に当たりSNSで相手の名を汚す、という発言もあって笑ったが、
これも現実に起きてること過ぎて同時に背筋がぞくりとするものすごい切れ味のあるセリフだ。
そうして物語は戦争という最終局面へ向かいます。
が、その前に、時系列は前後しますが忘れてはならないわき役がいます。
ユビュの支配するポーランドに住む市井の人、ボトムとフェステです。

ボトム
フェステ

ボトムはユビュの暴政を恐れ、納税していないフェステが真っ先に吊るし首だと身を案じ、ブーグルラス王子を盛り立ててユビュの打倒に協力しようと持ち掛けます。
フェステは王子は若すぎるから、きっとユビュには勝てないと言いますが、
ボトムは僕たちが王子に協力すればきっと勝てると返します。
僕たちずっと一緒にいるために戦おうと。
美しいシーンです。
無力な虐げられる民が力を合わせればきっと暴走する権力に打ち勝てるというメッセージなのかもしれません。
しかしこれがその先のあの哀れなブーグルラス王子の剣のシーンに繋がることを思うと、この世界のメカニズムにやるせない気持ちになります。

そして戦争の最中には、決別した大尉とユビュ親父が再び相まみえます。
大尉はユビュに剣を抜けと言いますが、ユビュはそうはしません。
大尉の言うようにやはり彼が臆病だったからでしょうか。
「少なくとも俺はタマがある、自分の妻に聞いてみろ!」と
核心的なセリフを大尉は言います。
これはユビュにはとても屈辱的だったことでしょう。
これにユビュは答えません。
その後大砲的な音が響きその場はカオスとなり、
次に大尉がバックボードの裏から現れた時、彼は後ろから剣で貫かれます。
この時、大尉を刺したのは誰だったろう?
剣は刀身だけで、持ち手は見えないのです。
戦場の混沌の中で、誰か名もなき兵士に殺されたのか、それとも…
臆病だがそれゆえに手段を択ばずやることをやるのがユビュなのかもしれない。

そうしてユビュは戦争に敗れ、ポーランドは王子のものになりますが、
ユビュ夫妻はどさくさにまぎれ失踪し、船で新天地へ逃亡します。
向かう先に見えた大陸は、ネヴィル氏の故郷オーストラリア。
不倫とか政争とか戦争とかいろいろあったけど、結局最後には一緒にいる二人が何だか愛おしく感じさせられます。
水平線を見つめ語るユビュおっ母は
「アンタあそこでまた王になれるかもよ」的なことを言いますが、
ユビュ親父は王はもうこりごりだと言います。
これからは誰でもない、ノーバディとして生きる、と。
それを聞いたおっ母は戦争のさなかいつの間にか姿を消した従者ノーバディのことを口にします。
「知ってた?あいつ夢があったんだよ。王になるって夢が。」的な。
ここでも彼女は人を良く見て理解している。
なぜだか私はこのセリフがたまらなく好きで、何度も頭の中で反芻してしまいます。
このセリフがなぜ良いか…なぜこんなにラストシーンにふさわしい余韻をもたらすのか…
そこに理論が、方法論があるのならぜひ聞きたい!という気持ちはありますが、
同時に聞いてしまいたくないような気もします。

ここまでいろいろ私の妄想を垂れ流してきましたが、その考えや疑問について、もし可能なら作者に「答え」を聞いてしまいたい欲求はもちろんとてもあるのですが、(そして彼は問えばきっと答えてくれるであろう。その選択も否定しないであろう。)あくまで私のごく個人的な感覚としてですが、少なくとも暫くは、そういう間違いない確かな答えを求めてしまうのはちょっともったいないという気がするのです。
船の上のユビュ夫妻の会話の最後に、
「このお話のmoral(モラル)は?」「そんなものないよ」
的な少しメタ的なセリフがあります。ちょっとここの字幕がどうなっていたか忘れてしまいまして、私は英語にも疎いので調べたのですが、
weblioというサイトによるとmoralの意味は
(善悪の基準になる)道徳(上)の、倫理的な、道徳を教える、教訓的な、善悪の判断のできる、道義をわきまえた、道徳的な、品行方正な、(性的に)純潔な、貞節な
だそうです。
素人判断なので間違っているかもしれませんが、この場合「教訓」とか「寓意」とかの意味が近いのではないかという気がします。(間違ってたら教えてください)

そう解釈すると、こんなに思わせぶりで、エモくて、人間の営みを克明に描写して、考えたり感じたりをまるでナイルの流れのように豊かに、観るものにもたらすお話を書いておきながら、ネヴィル氏は最後にこんなセリフを言ってある種我々の考えのカタい部分をひっくり返してきてるわけです。
実際我々オーディエンスはお話に教訓を求めがちなところがある気がしますが、
そういう、言葉は悪いですがまじめくさった、むっつりした顔になっているのなら、このお話はもっと簡単に考えてもいいのかもしれないぜと、やさしくほぐして可能性を吹き込んで、頭や心に余地や膨らみを持たせて帰そうという、ネビル氏のホスピタリティなのかもしれないと思うわけです。
だとするならやはり…観劇後の疑問や考えについて、確定的な答えを求めて試験の模範解答を見たいときのような欲求は、ひとまず我慢して、あーかもしれないこ―かも知れないといつまでも考えを転がして、
せっかくネヴィル氏が作ってくれたこの甘やかな不確定性を、やがて消えてしまうまで味わうのが、良い作品に出合うことができた人間にひととき許された、この上ない贅沢なんではないかという気がするのです。特にこの作品に関しては。

そして船上の二人のシーンのあと、本当に最後のシーンがあります。
ノーバディがベアを呼ぶが、ベアは現れない。一体どこへいってしまったのだろう。
舞台中央に置かれた王冠を一人見つけたノーバディは手を伸ばし、瞬間、バックボードの陰から刀がきらめき、刹那にすべての照明が落ちる短いシーンで、これはとても印象的です。
照明が落ちた後の闇に残像が浮かぶように、見る者の心にはっきりと、写真のごとく焼き付けられ忘れられない素晴らしい演出です。
初めて観た時から、やはり私はこのラストシーンは何時で、どこなのだろうと思いました。
やはりノーバディの見る夢の中、しかしきっと夢のままでは終わらないものと考えることもできますし、
あるいはもっと抽象的で概念的で、時や場所を限定しない、ビジュアライズされたテーマそのものだととらえることもできます。
その二つは相反しないかもしれない。
あるいは意外と実際にポーランドの城の中に忍びこんでいるのかも。
冒頭のシーンでもいち従者が王冠にアクセスするのは現実的じゃないから夢じゃないかと書いたが、
ブーグルラス王子初登場のシーンではノーバディは件の王冠を眺める王子の後ろに突然出現して驚かせたりしているので、
ノーバディは割と城の中を自由に歩いている節がある。
からあながち夢じゃないのかもしれない。
これは城の警備がザルなのか、それとも…
ただ確かに感じた事は、一時王だったユビュはノーバディとして生きたいと言い、ノーバディは王を夢見ているというアイロニックな円環のイメージ。
「誰も殺したくない」的なことを言っていたノーバディが、
最後には王冠に手を伸ばしてしまうこのラストは、
パンフに載っているネヴィル氏のメッセージ、
わたしのユビュは、良いニュースで終わる。
この世界のユビュでさえ、永遠に君臨するわけではない。
しかし、遅かれ早かれ、他のユビュが現れるだろう

との言葉をよく表したシーンだと感じます。
でも、名乗るたびに「”誰でもない”とは変な名前だ」と言われていた彼、「キングノーバディ」というくまの言葉に目を輝かせていた彼、
「王になって”崇高王ノーバディ”に改名するのが夢だった」とユビュおっ母が言っていた彼、
ノーバディが本当に欲しかったのは王冠じゃなくて、
誰かが呼んでくれる自分だけの名前だったんじゃないのかな。
またこの言葉に関して、”いいニュース”とは誰にとっての事なのかな、とも思いました。
暴君ユビュが倒されたこと?ユビュ夫妻が新天地で前向きにやり直すこと?
その両方?

ストーリー全体を通して感じた事は、ユーモアの分量がとても多いということです。
これはとくに二回目に見たときに感じたのですが、
一度目に見た時もユーモアはたくさんあって確かに笑って観たのですが、
どうも2度目に観た時は記憶より多いなという印象を受けました。
体感7:3くらいで笑わしてきてるんじゃあないか?
これはユビュ王という原作がそうだからということもあろうとは思いますが。
そのうえで私が自分で自分に驚いたことは、1度目に観た後印象に残っていたシーンは、どちらかというとグッとくるシーンとか、セリフとかの方が多かったことです。特にノーバディがベアに語り掛けるシーンは全部グッときた。
これは個人的に非常に重要なことで、端的に言えば
「人は笑えた事より感動したことの方がよく記憶に残る」ということを感覚的に、肌で理解できたということです。
これはもしかするとお話を書く人間にとっては危険なことで、
何かに感動したその経験が、人を「お話書き」にさせた時、
記憶に強く残った感動シーンばかりを再生産してしまう可能性がある。

一見、記憶に残らないような描写は省いて記憶に残る良いシーンが多い方が良いじゃんと思えますが、
ここで問題なのはじゃあなぜ一流の人間が7:3で笑わしてるのかということです。
そういう人たちは10:0で感動的寓話を書く選択肢もあるんですが、そうはしない。そこには当然理由があり、それは単純に10:0の感動話だとみんな見てくれないということ。
もちろんそういう作品もあるでしょうし、それを可能にする方法論や才能も存在するでしょうが、確率的にというのかまあ多くの場合より難しい選択だと思われる。
それは注意深く書かれていれば面白いかもしれないが、楽しくはないことが多いからだと思う。
先ほど糖衣の中の核心と言ったが、口に苦い良薬は飲みにくいものだ。
よって何らかの瞬間的楽しさをちりばめることが必要な訳だが、この点に関してネヴィル氏の武器はそのユーモアなのだろうと思う。
理屈としては理解していたつもりだったが、ほんとに思っていた以上にユーモア成分が多くて驚いたというか、こんなにやっていいんだというか、ここまでやっても感動シーンの印象が強いのだからここまでやるべきなんだというか、仮に記憶に残りにくいとしても、否だからこそ重要な要素なんだなと学べたいい経験になりました。
そして「みんな見てくれないから」という卑屈じみた言い回しをしたが、もっと利他的に、オーディエンスを楽しませるためにどうしたらいいかという心遣いをすれば自ずと、結論は収れんするであろうと思います。

ええと、ここまで長々と主にストーリーと人形の造形を絡め述べたが、
他にも冒頭くまさんが白旗を振っているのはなぜかとか、
そもそもこのくまさんはノーバディにとって本質的にどういう存在なのか、
ファーストシーンでゴーストがノーバディに言う「泳げるか?」の真意とは…等考えることは尽きないが夜が明けたのでこのくらいにしておく。
さらに当然、はじめに私の興味を引き付けた躁演や演技、演出も素晴らしい。
これについては完全に素人なのであまり深く語れることは無いかもしれないのだが、
素人目にみても明らかに凄いことが行われている。
初め私は「二人いるじゃないか」と驚いたと書いたが、彼は両手に人形をもち三人のキャラクターを同時に演じる。
その演技、また声色の使い分けも特筆すべきと思う。
これは実際彼の動画のどれかを観てもらえればわかることと思う。
もしまた感想の続きを書く機会があれば書きたいな。
また、これを機にマクベスも履修してみようかしら。

それでは。


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