子供用掲示板みて思ったこと
最近の子供の動向を勉強したくて、とある子供用掲示板サイトを見ていた。
それで色々思うところあったので記したいと思います。
まず一つに、月並みだけど、10歳くらいになると
みんな色々考えているんだな~ということ。
「将来どんな大人になりたい?」という質問に対して、
まあ職業を答えている子が多かったのだけれど、
やはり「ユーチューバーになりたい」という回答は多かった。
(実際ベネッセの調査で将来の夢一番人気である)
私もまずまずの老害なので、はじめは「やっぱり楽しくて自由そうだからと安易に考えているのかな」などと失礼ながら思っていたのだが、
(まあ実際楽しそうの一念で夢語ってる子もいるだろうし、それはそれで夢とはそういうものなのだからそれでいいと思うけれど)
実際の書き込みを読んでいると、
「自分が精神的につらかった時、落ち込んでいるとき、好きなYouTuberの動画を見て元気や勇気をもらったから、自分も人にそういう気持ちをあたえられるようになりたい」と言う風に書いてあったりして、
自分の浅はかな思い込みを恥じた。
YouTuberとかVとか、私の世代でいうと漫画アニメとか、ことサブカルチャーというと、上の世代から見るとなんだかおちゃらけた軽薄なもののように感じてしまいがちであるが、上記の様に誰かの気持ちを動かすというパワーについてはある種スポーツ選手や医者の仕事にも比肩しうるというか、それで救われたという人がいるのならば方法の如何に関わらずその結果には同等の価値が認められるはずである。
また「高速道路の管理職員になりたい」とか、「放射線技師になりたい」とか、「ワクチン作る人」「雀士」「国土交通省長官」「ユニバーサルデザイン考える人」「障碍者支援施設職員」「ドルフィントレーナー」など、
自身の固有の経験に基づき生じたであろう、バリエーションに富む夢が綴られており、
10年も生きればそれぞれ違った人生を歩んでいて、その経験というのはたとえ私が何年多く生きていようと得られない、希少で敬うべきものだと感じた。
職業でない「なりたい大人」としては、「子供の気持ちを理解できる大人」というのが多かったように思う。
特に親について、
「自分の子供時代のことを持ち出して説教する」
「価値観が昭和だなって思う」など、ジェネレーションギャップを感じて、
「大人はわかってくれない」と感じている子供は多いようだ。
まあこれはどの世代も同じだとは思うが。
個人的に心に残った「なりたい大人」は、
「人に嫌われても生きていける大人」と
「面白くなくても優しくなくても自分を信じて生きていける人」です。
私もかくありたい。
また、他の質問への回答では「ジェンダーレス」という気風も強く感じた。
質問が大人による「娘が男の子の格好をするので心配」のような内容だったせいもあるが、
「女の子でも一人称俺、僕は普通、自分・友達がそう」
「制服もスラックスが選択可能で、何らおかしいことではない」
「個性を尊重すべき」というのがほとんどの回答。
一番鋭く感じたのが、「今の大人たちはいろいろ言葉を使って理解しようとしている風だけど、我々(子供)の方がそういうのもっと自然に理解している」(意訳)という感じの回答。
先日NYタイムズ誌が、私は文脈がわからないが、
女性を「非トランスジェンダー女性」と表記して波紋を呼んでいたことを思い出す。
ネイティブ世代という言い方があるけど、結局時代や世相というものは構成する世代が変わっていくことで大きく変化していくのかなと感じた。
育ち切った人間が基本ソフトを書き換えるのは難しい。
以前ガンダムの富野監督がインタビューで、
「世界を変えようと思って一生懸命アニメを作ったけど、思ったようには変えられなかった。でも何十年もしてから、政府の偉い人から賞をもらったりした時、アニメを見ていた子供たちが大きくなって偉くなって初めて、世界に確実に変化が起きていることを実感した」(意訳)的なことを言っていたのを思い出した。
またそのサイトには短い小説投稿ページもあったので覗いてみた。
なおそのページは盗作が投稿され収拾がつかないので現在は投稿できなくなっている。
私が少し見た中にも明らかに剽窃のものがあった。
他のティーン向け投稿サイトでも盗作は過去に大きく問題になっていたし、
著作権意識については未だ「ネイティブに」理解されてはいない傾向なのかもしれない。
しかしもちろんちゃんと自作であろうという作品がほとんどであることは強調しておきたい。
小説の内容に関して驚いたのが、
かなり多くの作品で登場人物(特に主人公)が死ぬことである。
開く前は「恋愛ものとかが多いのかなー」とか思っていたのだが、
私の肌感覚としては多くの作品で、
①主人公がいじめや家庭、恋愛などにおいて苦境にあり、
②そのつらさを吐露し、
③その後自殺する、
というプロットを踏襲していると感じた。
(プロットと言っても、投稿作のほとんどはとても短いもので、
形態としては小説というより詩に近いように思う。)
他のあらすじでも、病死、事故死、他殺に関するお話が多い。
(なお例によって、死を扱わない作品もあったことは明記しておく。)
これに関しては、そのサイトに居る人たちの傾向ということもあると思う。
他の場ではまた違う興味の子供が集まることも大いにあるだろう。
同時に、「死」と言うのが一つの極致であり、
まあオチとして使いやすいというのもある。
それでなくともやはり、登場人物の死はインパクトがあり、
実際世の多くの作品でそのパワーは遺憾なく発揮されているので、
お話を創作する際にはあらゆる形で死を使うのは
言ってしまえば基本のキだなとも思う。
そういった方法論は別にして、
個人的には彼らの創作のメインはストーリー上の、
「死の前段階」にこそあるとも感じた。
死に至る前のつらい感情を吐露する部分には
実感がこもっているものも多いように感じたのだ。
大げさに、「この叫びに大人は耳を傾けなければならない!」とか
「彼らには救いが必要だ!」とか言うつもりはないけれど、
こういう自分の感じた事、日頃思っていることを吐露し、
そのまま言葉、ないし絵に表現するというのは
創作の原初のありかたではないかと感じた。
死や苦しみを扱うかどうかに関わらずだが、
世の中のほとんどの創作物、創作者は、
きっとこのようにして始まったのではないか。
そして世に出回る大人の創作やプロの仕事も、周りにきらびやかな装飾を施し、また洗練された技術で裏打ちをしているだけで、
核にあるものは同じなのではないか。
あるいは装飾部分だけを取り扱い、核の部分は漂白、脱臭、ないし
初めから存在しないものこそが…場合によってはプロの仕事たりえるのかもしれない。
まそのへんの哲学は人それぞれあろうと思うけど、
ともかく私は長らく忘れていた、創作の源流みたいなものに触れられたのは
非常に刺激的だった。
あと絵を描いている子たちでは、
まだアナログで描く子も多いんだなというのが驚きだった。
もうみんなデジタルでしか描かないのかと。
ガジェットが高価というのと、
アプリの使い方を覚える、慣れるのが難しいというのが主な理由のようだ。
確かにデジタルは便利だけど、とっつきやすさや簡易さ、直感的具合では
アナログに軍配が上がるようだ。
私が以前お話したことのある、
主に子供へ向けた人形劇団を運営しておられる方が、
「子供」ではなく「小さなひと」と呼んでいた。
小さくても若くても、大人に負けない、時には大人をもしのぐ感受性や思考力、発想力、豊かな内面世界を持っていることに敬意を表してのこと(意訳)だと話していたが、
その気持ちがわかったような気がした。
今回は以上です。