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こんにゃくもフグも美味しく食べられるんだから
ハマりたての推しがいるとその熱量がどうしても目立つし周りから見ると推し変したんだなって思われるかもしれないけど、長く推せば推すほどその人のこと好きなことが特別なことじゃなくて自分の一部になってる、アイデンティティの中に馴染んでってるだけなんだと思う。
私は学生時代ドイツに来たくて来たくて、それはもう毎夜枕を涙で濡らすくらいにじれったい思いをしたものだけど、ドイツに住んで計8年ちょっと、最近はすっかりドイツに住めている有り難みも薄れてしまい、事あるごとに「日本一時帰国したい〜」などとボヤいている。
でもそれってドイツが嫌いになったり、ドイツに来たかった理由であるドイツ語への愛が薄れたわけじゃなくて、自分の毎日の中に当たり前にあるものになったからというだけ。時間の経過と共に起こるのは普通で、悪いことじゃないよね。
毎日「すげー!ドイツだ!」って興奮してたら気持ちが保たないもんね。仕事中とか注意力散漫になるだろうし。
それと同じで、今まで推して来た人たちに対しても、ふとした瞬間に「やっぱ好きだなあ、知ってたけど」と再確認して、人生のつらい瞬間に確実に支えられていた記憶を思い出したり、推しの喜ばしい出来事の一端を担えた瞬間を思い出したりしてまた心に花が咲くような気持ち。
いつかもし会えたりしたら、「その節はありがとうございました」と言いたいけど、推しからしたらなんのこっちゃわからないし、そもそもそんな文字数推しを目の前にして言える気がしない。せいぜい「すきです」の四文字が限界だろうな。
そもそも、推しってなんなんだろう。
人によって言葉の定義は異なるんだろうけど。まあ「推し」って言葉に限らず、「好き」って言葉にだって、その他のどんな言葉にだって言えることだよね。
私の中の「推し」とは何かを頑張って言語化してみよう。
私は語学学習が好きだ。
それまでただの文字列――もしくは漢字やローマ字以外の、自分にとって初めましての文字が使われる言語であればただの模様――にしか見えていなかったものが、学び始めて少し経つとある時点で急に意味を持った単語の群れに変わる瞬間が何より好きだ。
新しい言語を学ぶと、その言語を使って誰かと交流したり情報を得たり、ひいてはその言語の使われている国や文化を知っていったりと、使い古された表現ではあるけど、今まで知らなかった世界の扉が開かれたような気持ちがする。
私にとっては「推し」もそれにとても似た感覚。その人のことを好きになるまでは素通りしてしまっていた日々の瞬間や事物が、急に特別な意味を持って自分事になる。なんなら、今まで食わず嫌い的に好ましく思ってなかった人や物に対しても、「そういえばこれ推しがハマってるって言ってたな」とか「そういえばこの人推しと仲良しなんだよな」とわかるや否や「いっちょ試してみるか」「この人のラジオもいっぺん聴いてみるか」などと突然自ら進んで知ろうとしだしたりする。そして「あれ?意外と好きやったな〜」と思うことも多く、その結果好きなものがどんどん増えていく。
推しとは私の中ではそういう存在のことを指す。今までだって確実にそこに存在していたのに自分が気付けていなかった事物への扉や、そこに飛び込むためのチケットをくれる人。
その人のおかげで今まで素通りしていたものが突然煌めきを持って私の目に留まるようになる、それが私にとっての推し。
特にエンタメ関連で、歳を取る毎に「無理」なワードや流れやノリが増えていく中で、誰かのことを特別に好きになって、その人を中心に波紋が広がるようにどんどん自分事として捉える事物や人物ができるっていう現象はとても貴重だし、ありがたいことだなあと感じる。
推し出すと(仮に推す前にすでにお名前は存じ上げていたとしても)急に推しのお名前が美しい詩だと感じるようになるのも興味深いよね。
推しがそのお名前を授けられた日、あまりに尊いから国民の祝日にした方がいいと思う。そのお名前に込められた名付けた方の願いとか祈りとか、その名前と共に生きてきた推しの生い立ちとか考えると、完全に四肢を大地に投げ出して天を仰いでしまう。地球に感謝せざるを得ない。
かつてとある推しのリアコをしてた時、「直接会ったこともない人のこと本気で好きって意味分からない、表に出る時はそりゃいいとこしか出さないでしょ、その人のことなんにも知らないじゃん」というような内容を知り合いから言われたことがあったんだけど、そんなん相手が誰だってそうじゃない?!?!?!と言わせていただきたい。
例えばクラスの隣の席の人を好きになったとして、あなたは相手のこと全部知ってんの?全部知ってないと好きにはならないの?
理屈抜きで好きになって、好きになった後に、だから知りたいと思うんじゃないの?
「この人は遠い存在だから好きになっちゃダメ」とかそんなコントロールができるくらいなら、人類の歴史上恋愛が原因でこんなにたくさんの人が身を滅ぼしてないのよ。
自分の好き!の気持ちだけを優先して、好きな相手のこと考えず行動するのはダメだよね。でも好きでいるだけなら、なんで「これは許される《好き》でこれは許されない《好き》」とか分類されにゃならんのだ!
ふざけるな、ふざけるなよ!!あんた誰なんだよ!!誰かに許されようがなかろうが関係なく私はあの人のことが好きで、あの人のこと好きな自分が好きなんだよ!お呼びじゃねーから、おととい来やがれ!!!
先日、半年ほど前にハマったばかりの推しに関する話の流れで、「愛が暴走しそうでこわい」と親友にLINEでこぼしたことがあった。親友は「あなたは愛の手綱をちゃんと握っているから大丈夫だよ」と言ってくれたのだが、これは私にとってはかなり衝撃的だった。
え、そうなの?そんなことないよ、親友は私のことが好きだから過大評価してそう思ってくれてるだけでは……と思い、「マジでそんなことない。最近は毎日推しのDMに愛のポエムを送りたい衝動に駆られるのをなんとか抑え込んで、それを推し短歌というかたちでなんとか落とし込んでる。愛が加害になってはならないと意識しているけど、愛それ自体がもう加害なのかもしれない」と返信した。「そういうとこが手綱握れてるってことだと思うよ!愛は加害かもしれないが、その加害性を認識してなるべくよいかたちで影響するよう努めているとこが好きだよ(中略)相手のことを、当たり前だけどちゃんとひとりの人間としてみているとこが好き」と返事をもらい、目から鱗が800枚くらいぼろぼろ落ちた。そっか、そうなの?これが愛の手綱を握れてるっていうことなの?そうだったの?と。
私は気を抜くとすぐに推しを神格化しがち。神格化というのは「尊敬」ではあっても一人の人間として「尊重」するということからは一番遠いところにあるのかもしれない。すぐに神格化しそうになるたちだと自覚しているからこそ、そうならないよう常に強く意識してる。
意識しないと暴走しそうな思いを抱えている自分が恐ろしく、いつか推しに害が及ぶのではないか、こんなファンがいることは推しにとってよくないことなのではないかといつも怯えて暮らしていたのだけど、どうやら私は手綱を握れているらしい。でもそうやって言ってもらったことに喜んで安心して両手をバンザーイ!と上げたことによって手綱をうっかり離してしまったりしたら元も子もないので、今後もより一層自分の愛の監視を強めていきたい所存。
「愛は加害かもしれないが、その加害性を認識してなるべくよいかたちで影響するよう努める」という親友の言葉はたしかにストンと自分の中に落ちてきた。畑から引っこ抜いてきたそのままのジャガイモを、土にまみれたまんまで「食え!!」と相手の口に突っ込むのはありえないけど、そのジャガイモを綺麗に洗って皮を剥いてほくほくに蒸してバターと岩塩をぱらっと振りかけ、お気に入りのお皿に盛り付けてとっておきのカトラリーを添えて「よければお召し上がりください……」とお出しするだけなら、もしかしたら美味しいかもしれないもんね。推しにはいつでも美味しい物を召し上がっていただきたいものね。
こんな文章を数ヶ月かけてちみちみと少しずつ書き溜めているうちに、私の中でエポックメイキングな出来事があった。「ワーキャー」と評されてしまうかもしれないと思っていた推し方のひとつについて、推しご本人が「健全だ」とおっしゃっているインタビューが掲載された雑誌を目にしたのだ。正解でも不正解でもなく、「健全だ」と形容してくださったことにも感激して、しばらくその次の行に目線を移すことができなかった。
今後もその推し方を「ワーキャーがよ」と罵り謗る人がいるかもしれない。でももう私はきっと気にならないだろう。だって他でもない本人が、私のその気持ちに花丸をつけてくれたから。点数ではなく花丸を。
推しはきっと、ファンを救ってやろうとも励ましてやろうとも思っておられないんだろう。そんなねっちりした思いではなく、もっとさっぱりした発言だったんだろうと思う。
でもだからこそ、さっぱりきっぱりそう言ってくれる推しのことを悲しませたくも傷つけたくも煩わせたくもないと、改めて強く決意するきっかけになった。まだハマってから日は浅いけど、この人たちが私の推しでなんと誇らしいんだろうと数え切れないくらい思ってきた。私も推しに誇ってもらえるファンでありたい、とまでは大口は叩けないけど、せめて推しの足を引っ張るような存在にはなりたくない。
健全だと言ってくれたあなたの言葉に恥じないように、これからも精一杯愛の加害性を押し殺し、力の限り美味しく調理してみせよう。
こんにゃくもフグも調理次第で美味しく食べられるんだから、きっと愛だって不可能じゃないよね。