スカイウォーカーの夜泣き

※当記事には「スター・ウォーズ」シリーズと『猿の惑星』とBBC版『SHERLOCK』についてのネタバレがあります。この程度は一般常識だろうと思われる方も少なからずいると思われますが、未見で今後鑑賞するであろう人はこれからもどんどん生まれてくるわけで、この程度でもそれなりにデリケートに扱うべきだと思う。

 2019年12月20日に公開された映画『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』をもって、「エピソードいくつ」と冒頭に記された「スター・ウォーズ」シリーズのいわゆる本編が終了した。スピンオフ作品はドラマ『マンダロリアン』を筆頭に現在も今後も継続のようだしどうせまた何年かしたら「エピソードX」から始まる本編の続編三部作等が登場するだろうが、ひとまずは今回でスター・ウォーズ「サーガ」は終了である。

 公開から一週間が過ぎた12月27日、TOHOシネマズ渋谷のスクリーン3にて午後4時からの英語音声日本語字幕版を鑑賞した。テレビ東京でかつて放送されていたゴールデンタイムの映画枠「木曜洋画劇場」では、本編後に解説役の木村奈保子が「あなたのハートには何が残りましたか?」と視聴者に語りかけて番組が終了するのがお約束だったが、『スカイウォーカーの夜明け』鑑賞後に私のハートには特に何も残らなかった。賛否両論で否定派も非常にたくさんいると見受けられる『スカイウォーカーの夜明け』だが、私もこのあと書くであろう様々な理由から自分は否定派になるだろうと観る前に予想しており、しかし最初から期待していない分、みんな思い入れ強すぎるから大騒ぎしてるんじゃない? それでもまあこれでいいんじゃない? と思えるところもあるんじゃない? などと思っていたのだが、全然そんなことはなかった。

 そもそも私は「スター・ウォーズ」シリーズの良い観客ではなかった。第1作『新たなる希望』がアメリカで公開されたのは1977年、日本で公開されたのは1978年。保育園最終学年と小学一年生の年である。その1〜2年後から親の趣味に付き合わされる形で映画館に洋画を観に行く機会も徐々に増えるが、『新たなる希望』は親が興味なかったようで観に行っていない。なお、同作の日本公開時の邦題は『スター・ウォーズ』だが、後にシリーズ化され各作品ごとに副題がついたり微修正されたりエピソード番号がついたりつかなかったりしており、それをいちいちしっかりした邦題で書くために注釈的なことを記すのはめんどくさいので現時点でのサブタイトルで記す。書き間違いもあるかもしれないが記憶に基づいて書いておりデータに基づいているわけではないのでお許し願いたい。

 その『新たなる希望』だが、初めて観たのは日本テレビの「金曜ロードショー」がまだ「水曜ロードショー」だった頃の同枠だ。テレビ初放送に合わせて事前特番が組まれ、本編が始まるまでどうでもいいお祭り騒ぎを一時間ほど見せられた。ビデオ録画の用意をしながら全然本編が始まらないのでどんどん気分が盛り下がっていったような記憶がある。その後、いよいよ本編がスタートしたのだが、これにどうにも乗れなかった。

 今改めて自分なりにその理由を考えるに、これは事前特番のせいではなく、おそらく公開時や公開前から雑誌や書籍、映画情報番組等々で紹介されまくっていた画像や映像を目にしており、本編のどこを取っても既視感にあふれていたことが大きい。確かコーラの王冠の裏側にも本編キャラクターの紹介写真がプリントされたキャンペーンも行われており、どこかで王冠のコレクションを大量に手に入れて目に焼き付けてしまっていたのも既視感の理由と思われる。また、テレビ初放送時の1983年は私は小学六年生だったが、当時はまだ物語を理解しながら映画を観るスキルがなかったこともある。既視感のある映像を話を理解せずにただだらだらと観てしまったことが乗り損ねた最大の理由かもしれない。単に感受性が鈍いのかもしれないが。

 それから少し後、おそらく中学生の頃だと思うが、現在はヤマダ電機(YAMADA IKEBUKUROアウトレット・リユース&TAXFREE館)が建っている場所にあった今はなき池袋スカラ座にて、第2作『帝国の逆襲』と第3作『ジェダイの帰還』の二本立てを観た。注釈的にタイトル変更について書かないと先に書いたけど、この時の第3作の邦題は『ジェダイの復讐』だった、ということは書きたくなったから書く。書いた。繰り返すけど第2作と第3作の二本立てである。封切時ではなく、少し遅れての二番館的上映での鑑賞である。劇場内は割と空いており、コアなファンから感じるような熱気は特になかった。第1作『新たなる希望』は前述の通り鑑賞済みではあったが、前述の通り私が「スター・ウォーズ」に対する熱がない状態は継続していた。しかし『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』については、各種メディアで紹介された画像映像を熱がないためか興味深くしっかり見ていなかったようで、この二本立てのときは『新たなる希望』ほどの既視感はなかった。それどころか『帝国の逆襲』のラストが「次回に続く!」になっていて、リアルタイムで観ていた人たちはこの状態で3年間待たされたのか! 俺は休憩挟んだらすぐ続きだからいいけど! と驚いたものである。

 驚いたついでに思い出したので書いておくと、続く『ジェダイの帰還』(繰り返すけど当時は『ジェダイの復讐』。以下やっぱりこっちの方がしっくりくるから『ジェダイの復讐』と書きます)のオープニングロールの文字が日本語に差し替えられていたのにもびっくりした。映画自体は英語音声日本語字幕版である。オープニングロールだけ日本語である。日本語の文字が宇宙の彼方へ飛んでいくのである。マニアの方はきっとこのバージョンも観たいだろうし、というかとっくに知っているであろう。私はここが日本語になっているバージョンを観たのは後にも先にもこの時の『ジェダイの復讐』だけだが、本編の映像そのものを、たとえそれが文字情報だとしても差し替えられるのはあんまり好きではない、という自分のいささかめんどくさいこだわりに気付かされた瞬間でもあった。

※もしかしたらオープニングロールが日本語に差し替えられていたのは『帝国の逆襲』だったかもしれない。その場合は『ジェダイの復讐』のロールは英語のままである。二本立てのどちらか一作品がそうだったのである。正確にどっちだったかは忘れてしまった。

 なのでNetflixで配信されている『アイリッシュマン』も英語音声日本語字幕で観ているのに一部本編内に最初から入っている文字情報が日本語に差し替えられているのにはほんと興醒めしちゃった、ということをついでに書いておく。そういえば『シャイニング』も冒頭のオーバールックホテル全景のところで日本語字幕だけで「コロラド」って出るんだけどあれももともと英語テロップで「COLORADO」って入ってたんじゃないの? どうなの? 差し替えるんじゃなくてもともとの本編テロップを残した上で日本語字幕をつけてくれないかな? と毎回気になりちょっとイライラする。

 と長々書いたものの、『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』初見時の思い出といえばこれだけである。この時も熱狂できなかったのである。のめり込めなかったのである。

 それからしばし「スター・ウォーズ」の新作は途切れた。他のメディアではスピンオフ作品があれこれ出ていたようだし、映像メディアでも本来テレビムービーとして製作された『イウォーク・アドベンチャー』や『エンドア/魔法の妖精』が日本では劇場公開されたりもしたが、当然観ていないしそれが「スター・ウォーズ」のスピンオフだと知るのも公開からしばらくしてからだった。かつてはゴールデンタイムの映画枠で大々的に放送された本編シリーズも、年末年始の穴埋め深夜枠で放送されていたりもした。ある年なんてある局で『帝国の逆襲』を放送しているのに、別の局ではその裏番組に『ジェダイの復讐』が流れる、なんてこともあった。正確にはちょっと時間がずれていたと思うが、『帝国の逆襲』がまだ放送中なのに『ジェダイの復讐』が始まっている、という状態だったはずである。こうして私は「スター・ウォーズ」熱にはまれないまま、世間的にも「スター・ウォーズ」シリーズは過去のヒット作として徐々に忘れられているという印象があった。

 大学生の頃にアジア方面へのバックパッカー旅行が趣味に加わった。ある年、バンコクで違法コピーゲームソフトを大量に売っているサパーンレックという市場(2015年消滅)の近くにあるケンタッキーフライドチキンに入ったところ、トレーの上に乗ったチラシに「スター・ウォーズ」のキャラクターがプリントされていた。なにやら日付も記されていた。これがCGを使って『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』をリニューアルした「特別篇」の宣伝だったことを知ったのは帰国してからである。相変わらず「スター・ウォーズ」に興味のなかった私はこれらを一切観に行かなかった。行かなかったが、「特別篇」のおかげもあってか世間的に「スター・ウォーズ」復権の兆しは感じられた。

 当時友人知人が「スター・ウォーズ」をどう語っていたのかはさっぱり覚えていないのだが、復権のおかげか、『ファントム・メナス』の予告編が解禁された後、友人の数名から長らく待っていたかのように期待を寄せていることを聞かされた。「スター・ウォーズ」に興味がないと自分で思っている私としてはどうでもよかったのだが、この頃はミーハー気質が育ってきていたのと、話題作は一応抑えられるなら抑えておいても良いのではないかという考えも持ち始めていたこともあり、映画館に足を運んだ。旧作を観直したかどうかはさっぱり覚えていないが、『帝国の逆襲』は『新たなる希望』よりメリハリがあるという自分なりの評価がこの頃からあったような気がするので、きっとレンタルビデオで観直したとは思う。

 その『ファントム・メナス』は「スター・ウォーズ」創始者のジョージ・ルーカスが『新たなる希望』以来久々に監督にも復帰した作品だが、『新たなる希望』同様にメリハリがないと感じた。『帝国の逆襲』にメリハリがあったのは監督がルーカス自身ではなかったからだろうとの推測もした。何がメリハリがないって、アミダラが策謀を巡らせて、実は私じゃなくて影武者でした! という場面である。観ていれば影武者を立てているのはまあわからんでもない気もするのだが、とはいえ一応あそこは登場人物だけでなく、我々観客にも「そうだったのか!」と少しは驚かせる前提で構築されている場面である。にもかかわらず全然そんなことを感じさせることもなく、ただ淡々と事実が明かされ劇中人物たちは一瞬驚くがその後は何事もなかったかのようにお話は進み、観客は今の場面って必要だったかなという気分のまま取り残される、そんな印象を受けたのである。ルーカスって自分で脚本を書いて自分で監督をしているはずなのになんだこの脚本の意図をつかめていないかのような演出は。クレジットされていないゴーストライターでもいるんだろうか。などと思ったのである。『ファントム・メナス』ではとにかくジャージャー・ビンクスが観客から嫌われてしまったが、最大の問題点はジャージャーよりも、こういう何かが覆されてギョッとする場面が全く効果的に演出されていないということだ、と思ったのである。

 こうしたこともあり、続く『クローンの攻撃』も『シスの復讐』もさしたる期待はせずに、でもミーハーなので観に行った。『クローンの攻撃』は試写会に応募したら当選したからという理由もある。『ファントム・メナス』のような致命的な欠陥は特に感じなかった。お花畑をゴロゴロ転がる超古臭いラブロマンス演出もそういうものだろうと受け入れられた。それどころか、ヨーダがライトセーバーを振り回して活躍する場面は、『帝国の逆襲』の初登場から22年、ついにヨーダがやった! と感慨深い気持ちにもなってしまった。場内はその場面で拍手喝采、私も空気を読んで拍手をした。

 とはいえ「クローン」って英語のクローンのことそのままか、遥か昔の遠い銀河の地球と関係ない世界の出来事のはずなのに、「クローン戦争」って地球言語の英語のクローンに基づくものか、とちょっとした違和感を持ったことは記しておく。そりゃ英語圏の映画だし地球の映画なので劇中言語が英語ではあるが、それはわかっちゃいるけどお約束と判断して観ているので、「クローン戦争」という固有名詞的なものまで英語に基づいているのはどうなのか? と思ったのである。伝わりづらい感覚かもしれないので伝わらなくてもいいけど違和感だけは表明しておく。

 忘れないうちに書いておくとこれよりずっと後のスピンオフ映画『ハン・ソロ』でも同様の違和感があった。姓のなかったハンが独り者だからという理由で「ソロ」と名付けられるのである。一回流して観ただけなので私が間違っているだけでそういう意味ではないのかもしれないけど、間違っていなかったとしたら、独り者だからソロだとしたら、これまたあまりにも地球基準なのではないか。とはいえ便宜上の劇中言語が英語なわけではなく「スター・ウォーズ」世界の言語が偶然英語にそっくりという無理矢理な裏設定があるとどこかで目にしたような薄ぼんやりとした記憶もあり、だとしたら仕方がない、かもしれない。

 『シスの復讐』は『ファントム・メナス』と『クローンの攻撃』よりはメリハリあったかな、ルーカスも連続で監督したことで演出力アップしたかな、と思った。特にそれ以上の感想は、あったかもしれないけど当時のことは覚えていない。ただ、観た、そしてやはり熱狂はしなかった。だが新作公開の度に旧作を観直すということはしたので、この時期に「スター・ウォーズ」知識や各作品への自分なりの評価が徐々に固まっていったのは間違いない。

 ということで改めてこの時期に固まり今もあまり変わらない私なりの「スター・ウォーズ」旧三部作評価を手短に書いておく。『新たなる希望』はやはり何度観てもこれ一作で完結するように作られているが、シリーズが延々続けられることになっただけある映画史的にエポックメイキングな作品であることは間違いないだろう。特にそれまで子ども向け低予算B級映画のジャンルだったスペースオペラを莫大な予算を投入して徹底的にハイクオリティな映像技術で作り上げたという点で。ただし繰り返すけどルーカス自身の演出力には首を傾げたくなるところもあり、これほど気合いが入った映画にもかかわらずサラサラと流れてしまう場面が多すぎる。

 『帝国の逆襲』はシリーズ化の第一歩となる文化としての「スター・ウォーズ」史的に重要な一本であり、シリーズ化するにあたって世界観を大幅に拡大再構築する必要があったからだろうけど、急激にハードでシビアな雰囲気が良い。監督がアーヴィン・カーシュナーに交代したことが影響しているのか、主に編集のタイミングと構図が前作とは比べ物にならないレベルでかっこいい。初見時に驚いてしまった「次回に続く!」も、絶対次回作が作られる前提でやっていて堂々としたものだなあと感心する。

 とはいえ今では既知のものとして一般常識とすらされている、ルークがダースベイダーの息子だった、しかもルークとレイアは兄妹だったという展開は、アーヴィン・カーシュナーの演出と相まって相当に劇的なものであり、やはり本作を観ていない方々には絶対に伝えてはいけないレベルのネタバレ要素だと思うのである。『猿の惑星』の旧ビデオソフトのジャケットに自由の女神が描かれていたのも相当酷かったけど、あれほどには話題にならないのがおかしいレベルの、未見の方々には事前には伝えてはいけない、面白さが半減してしまう決定的なネタバレだと私は確信している。

 なので「どの順番で観たらいいのか」との問いにこの血縁関係を自明のものとした上で物語られるエピソード1から観るべしなどと答えるのは愚の骨頂、というかもっと公式に456123の順で観るべしと言い続けるべきなのではないか。もちろんどれから観たってそれぞれの自由ではあるのだが、作り手の元々の意図を尊重しなおかつ観る側の楽しみ方も考慮したら、絶対にエピソードナンバー順で観るなどあり得ないだろう。なお念のために書いておくが私が非難しているのはエピソード1から観てしまいかねない状況であって、456を先に作ったことではない。むしろこういう時系列を入れ替えて作ること自体は面白いと思っている。

 ということで続く『ジェダイの復讐』改め現『ジェダイの帰還』だが、クライマックスが森林でのアナログ感溢れる戦いというのはなんとも物足りない。別にああいうのが悪いわけじゃないんだけど、仮にも「スター・ウォーズ」というタイトルであるのなら最後の戦いはあそこじゃないんじゃないのか。ルークとダースベイダーとパルパティーンのラストバトルがあるからいいのかもしれないけど。あとはあんまりよく覚えてないというか相変わらずそこまでのめり込んでいないため割とどうでもいいと思っているのだが、とはいえ特別篇で加えられたジャバ宮殿でのCG丸出しのクリーチャーの大騒ぎはダサすぎると思う。

 新三部作が完結して、また空白の時期に入った。だが新三部作開幕までの「スター・ウォーズ」がどんどん過去のものになっていった時期とは裏腹に、21世紀の空白期間はこれまでの6作品が神格化されていく時期だったように感じる。夜中の穴埋め番組的な扱いも記憶にある限りはなかったし、観ていないし読んでいないけどスピンオフアニメやスピンオフ小説が以前よりしっかり系統立てて紹介されていたようだし。あとでなかったことにされたりしてるものもものすごく多そうだけど。

 そんな状況下で突如ルーカスが「スター・ウォーズ」の権利をディズニーに売却したというニュースが流れ、そこからあまり間を空けずに新たに三部作を作るという発表があった。旧作が神格化されていたこともあり、とにかくものすごく盛り上がった、かのようにウェブニュースを中心にそういう意見を目にした。そして公開された『フォースの覚醒』の予告編は、私のような距離をとっている者にすら期待を抱かせるものだった。特に二つ目の予告編。ここまで「スター・ウォーズ」とは距離をとっていると書いていた私もこれにはやられた。終わり近くのタイトルが出る直前の場面のことだ。

 そして公開から数日してから観にいった。結果、自分が観たかった、映画として隙のない「スター・ウォーズ」がついにやってきた! と感じた。特に前半の見せ場、ファースト・オーダーの襲撃から逃げるレイとフィンが新型の宇宙船に乗り込もうとしたら目の前で爆破され、仕方なしに足を向けた旧型宇宙船=ミレニアム・ファルコンがどばーんと映し出されておなじみの旋律が流れる場面が最高。以降もあらゆる見せ場でルーカスが采配を振るっていた時代にはなかった見事なカット割りや場面転換の連続で、これはいいぞ、と思ったものである。

 だが良かったのはそこまでだ。2年後に公開された『最後のジェダイ』を観るにあたり、あるいは観た後だったか、復習のために『フォースの覚醒』を再見した。隙のない映画という印象は同じだったが、隙がなさすぎて画面に映っていること以外にも世界には様々な人々が同時に存在しそれぞれ同時に自分の生活を営んでいるというイメージがこの作品では全くできないことに気付いた。具体的には中盤あたりでファースト・オーダーが名前忘れちゃったけどなんだかすごい光線を出す武器で文明のある惑星を次々撃ってしまう場面があるでしょう、あそこでよその文明都市が画面に登場した際、この宇宙にはこんな人たちもいたのか、全然想像できなかったよ、と感じてしまったのである。

 ルーカス時代の作品は結構隙だらけであり、そこにぼんやり感があって完成度に微妙なところを感じていたのだが、恐らくはそれがゆえに世界の、宇宙の広大さ、とらえきれなさが背後にあると思わせる雰囲気のようなものがあったのではないか。きっちりしたものが好きなのに矛盾してしまうのだが、理屈ではなく感覚的に私がそうとらえてしまう、ということである。

 そして『最後のジェダイ』だ。本作は従来のシリーズのお約束を打ち破るところが評価されるべきだという意見と、こんなの「スター・ウォーズ」じゃないという意見で賛否真っ二つ。しつこく繰り返すけど私は「スター・ウォーズ」に思い入れがないので、面白ければ「スター・ウォーズ」として成立しているか否かはどうでもいい立場だったが、そういうのとは別の次元でこりゃねえだろうと思ってしまった。兎にも角にもフィンとローズの隠密行動が映画の頭からクライマックス前ぐらいまでずーっと描かれた挙句全部無駄足。ここのどうしようもなさにどうなんだこれ、と思ってしまったのである。このメインとなる展開があまりにもフォローしようがなくとてつもなく酷く、そのせいで『最後のジェダイ』は全くもってダメだなあと思ってしまった。

 とはいえ一箇所、ここまでの過去7作品を凌駕するアイデアというか展開というか思想というか、とにかく圧倒的に素晴らしいところもあった。前作から観客の興味を引っ張ってきたレイの正体が、何者でもないただの人である、と結論づけられるところ、ここである。貴種流離譚なんてどうでもいいのである。というかそもそも、『新たなる希望』で世界中の人々、特に若者たちに共感されたのは、田舎惑星から出ていけずこのまま一生を終えるのか? と絶望感を抱えながら二つの夕日を見つめる、何者でもないどこにでもいるただの青年ルークの姿だったはずで、にも関わらず『帝国の逆襲』でそのルークが実はダースベイダーの息子だったとしてしまう展開がそもそもどうなんだよ、と思うわけである。結局選ばれし血筋だからこそという話だとしたら、『新たなる希望』でのルークに共感した観客の気持ちを全く無視する、あるいは踏みにじることになるんじゃないのか。『帝国の逆襲』も来年で公開から40年が経つ古典であり、ルークとベイダーが親子というのも決定事項として受容されていて、今更あれはどうなのと指摘するようなものでもないと言われるかもしれないが、それでもなお私はあれに不満を抱えているのである。それもこれもほぼ間違いなく『帝国の逆襲』から始まるシリーズ化のための世界観拡大のための後付け設定しまくりによる弊害であり、ルーカスは最初から全○作としてこの壮大な物語を構想していた、すごい! とか阿呆なこと言ってるんじゃないよ、とも思うわけである。

 それから2年経ち、昨日、現時点で完結編とされている『スカイウォーカーの夜明け』を観た。『帝国の逆襲』以降、シリーズ化のために後付け設定が作られまくってあれこれ大変だった状況を反面教師として、もうちょっとうまいこと処理できていた、なんてことはなかった。むしろルーカス時代の後付け弊害なんて目じゃないレベルで後付け感丸出しだった。レイはただの人じゃなく実は黒幕パルパティーンの血縁者でした、すごいでしょ? びっくりしたでしょ? 後付けだけど、というのがもう致命的に決定的にクソみたいにダメだが、監督交代劇、その都度のストーリーの作り直し、それらがなんのためらいもなく公式に発表されたりして、一作一作が後付けであることを公式に認めているような状態なのもよろしくない。本当は後付けのくせして最初から考えてましたよみたいな発言をしてしまうルーカスより正直ではあるとはいえるのだが、こんなに後付け後付けでやるなら最初に三部作と発表したのは一体なんだったのか。三部作と発表してしまった上に各作品の公開スケジュールまで発表してしまったがためにそれに合わせて終わらせるための完結編を作るという本末転倒感がもう間抜けさを際立たせているではないか。語りたい描きたいものに必要な分量、ある程度の全体構想、そうしたものがあってこそ何部作のボリュームかが見えてくるのではないのか。ビジネス的な事情もあって先に三部作と決めたとしても、だったらせめてそれに合わせて三部作の構成を事前にそれなりに練っておくべきではないのか。ウェブニュースによればパルパティーンが再登場するのも『最後のジェダイ』完成後に決まったことらしい。熱心なファンは「あの謎ってどういうことなんだろうか」と必死で推理推測推察するわけで、にもかかわらず作り手はその回答をその時点で用意していない。実にナメくさった態度である。私は推理推測推察はしていなかったが、レイが何者でもないただの人で血筋の物語を否定するという展開に感動とまではいわないけど良さを感じたのである。後付けで否定されたのである。はっきり書けば実に不愉快である。

 なおBBC版『SHERLOCK』の第3シーズン第1話「空の霊柩車」は前シーズン最終話で死んでしまった主人公が実は生きていた、でもどうやって? というお話なのだが、その内容といえば、「作り手の我々が決めたことが後付けで真相になるけど、真相がどうであれ続編が作られる以上死んだと思われた主人公は確実に帰ってくるんだから真相なんてどうだっていいんだよ、でも推理推測推察してくれたファンの気持ちもわかるからどれも真相の可能性があると考えてもらっていいよ」というシリーズ物ならではの状況自体をメタ視点込みで見事にドラマ化した素晴らしい傑作だったと思う。

 とはいいつつ、やはり怒涛の映像で見せるのが「スター・ウォーズ」シリーズの本来の楽しみ方ではあろう。そこが気持ちよければまあよかろう。そんな気持ちではいたのだが、これがまたなんというか、実に引っかかりなくサラサラと流れていく。特撮技術はとんでもなく発達したが、メリハリのなさはまるでルーカス時代の「スター・ウォーズ」のようだ。結果、『スカイウォーカーの夜明け』を観ている二時間半、私はただ流れる映像を観ているだけだった。気持ちが全く盛り上がらなかった。ただ終わらせるためのお話が終わりに向かって進んでいるなあと思っただけだった。期待とともに面白がれた『フォースの覚醒』を監督したJ・J・エイブラムスが監督に再登板されたとは思えないほどただただサラサラ進むだけだった。旧三部作への忖度は相変わらずだが『ファントム・メナス』からのプリクエル三部作は相変わらず放置されているかのようなラストシーン(ルークの故郷へは行くけどアナキンの故郷は無視)もどうかと思う。

 賛否両論とされているようだが、はっきり書けば「賛」とする人の気持ちがわからない。いわゆるにわかファンが「賛」としているのならまだわからないでもない。しかし旧三部作時代からのファンですら「賛」としている方も少なからずいるようである。ファンじゃない俺ですらこうなんだからファンを自認するならもっと怒った方がいいと思うぞ。逆に、これで良しとするならスピンオフ小説とかも読めば同じように面白がれるだろうになんで映画版だけを聖典扱いするんだよ、789は他のスピンオフ同様にルーカスが関わってないのに、『スカイウォーカーの夜明け』なんぞで感動するんなら「スター・ウォーズ」なら何でもいいってことなんじゃねえのかよ、などと思ったりもする。

 結局ディズニー版三部作は、『フォースの覚醒』の二つめの予告編と、なんらかのイベントでそれが公開された時の観客のリアクション、これが最高であり、それを超える高揚感はなかったのではないか。

 そして最後まで私は「スター・ウォーズ」シリーズをあたかも実在の世界であるかのように熱狂的にのめり込むことはできず、ずっと「映画」として受け取ることしかできなかった。客観的な自分で構わんという気持ちもあるが、熱狂できる人たちを羨ましく思う気持ちもある。はたから見れば私ものめり込んだ上で文句をいっているように見えるのかもしれないけど。


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