見出し画像

初投稿:軽度障害者の話って意外と少ない気がしたので書いてみた。

はじめまして。正垣源です。
パラリンピック種目であるパラバドミントンの選手として活動しています。

数年前までは国際大会にも出場させて頂いていたのですが、残念ながら東京パラリンピックの出場は果たせず。

今は怪我やコロナ等でしばらく国際大会からも遠ざかっていますが、再びその舞台を目指しながら、感じたことや考えたことをお伝えしていけたらなと思います。

普通になりたかった子供時代

突然ですが、私は右腕の肘から先がない状態で生まれてきました。
…いやパラ選手を名乗っているので何が突然やねんというツッコミはさておき、当時はパラリンピックという言葉もメジャーではない時代でした。

2歳から通っていた保育所にて、活発だった私は友達とサッカーに明け暮れ、5歳からは地元のサッカークラブに入れてもらうことに。私以外の全員は健常者でしたが特に問題はなく、自分が障害者であるとはほとんど思うことなく過ごした保育所時代でした。

ところが小学校への入学直後、その状況が一変します。

「何で手がないの?」
入学直後から、腕のない私を見たクラスメイトからは毎日のように質問責めに。特に1年生の頃は会話の半分が右腕の話じゃないかというくらいの勢いで、最も人気のリクエスト(?)は「右手を触らせて」でした。
それにもまあ応じていたのですが、クラスメイトからの年賀状でも「明けましておめでとう。今年も右手触らせてね」と書かれていた時はちょっと疲れ始めた記憶があります笑

何を言っても、何をやっても、自分は性格や能力ではなく”腕がない人”という印象が先行してしまう。

子供ながらそんなことを考えるようになり、とにかく”普通”になりたいという気持ちが強かったのをよく覚えています。
低学年の頃は、鍵盤ハーモニカ、リコーダー、縄跳び、鉄棒などなど、何らかの特別対応を要する場面が多々ありましたが、学年が上がるにつれ次第に不自由さはなくなっていきました。
勉強は特に問題はなく、休み時間は友達とドッジボール、放課後は友達の家に行き一緒にテレビゲーム。サッカークラブでは4年生の頃にキャプテンを務めるまでになっていました。友達も私の腕がないことなど、ほとんど忘れていたことでしょう。

腕がないという障害者の自分ではなく、そうでない自分を見て評価して欲しい。当時の私はこのような気持ちがとても強かったのを覚えています。

本当の自分?とパラバドミントン

この思考は大学入学後や社会人になってもしばらく続くことになります。
中学入学後に勉強時間を増やすと(※進研ゼミの漫画を真に受けたことが原因)成績が伸びて自信がつき、現役で神戸大学理学部に合格。
サッカーは中学で辞めてしまいましたが、高校から始めたバドミントンでは部内1番手となり、腕がない自分ではない、本当の自分を手に入れたとすら思っていたかもしれません。

神戸大学進学後も順風満帆。
地球惑星科学の勉学に励み、体育会バドミントン部で汗を流す日々で、小学校時代よりも遥かに障害と無縁の生活を送っていました。
そんな時に偶然、日本障害者バドミントン協会の強化コーチと出会います。

「今すでに国際大会に出場できる競技レベルにある」
そのように言われたとき、嬉しい反面、正直かなり悩みました。

これまで健常者として不自由なく生きてきたのに、今さら障害者バドミントンをやるべきなのか?

いろいろと葛藤がありながらも、そのような台詞は優勝してから言うべきだろうとも考え、大学3年生の頃に日本障害者バドミントン選手権に出場しました。結果はシングルスで準優勝。大学院進学後に国際大会へ出場するようになります。当時のバドミントンはパラリンピックの種目ではなかったため、世界選手権とアジアパラ競技大会が大きな目標でした。

そのような状況でも、まだ障害者ではない自分を見てもらいたいという思いは強く、就職活動もいわゆる障害者枠を頑なに避け、大学の友人たちと同じようにいくつかの企業にエントリー。
今思えばもっと柔軟に考えても良い気もするのですが、当時の私の関心事はもっぱら、「腕の障害を度外視した上で、自分の市場価値を知りたい」というものでした。

その結果、理化学研究所の定年制事務職員として内定を頂き、研究者を運営面からサポートする仕事に邁進することになります。
いわゆる総合職だったため仕事の責任は大きく、当時に発生した研究不正の問題の対応にも追われ、やがてパラバドミントンとの両立が困難になっていきました。

そんな中、パラバドミントンが東京2020パラリンピック競技大会の新種目になったというニュースが飛び込んできます。

自分にしかできないこと

私の幼い頃の夢はサッカー選手になることでした。
サッカーを辞めてバドミントンを始めた後もスポーツは好きだったものの、その道は諦めてしまったのですが、今こそ本格的にスポーツの世界で挑戦したい。

その気持ちが強くなるのと同時に、日々の業務で接していた研究者達からも刺激を受けます。
ご想像の通り、彼らのほとんどが学生時代から学業で優秀な成績を収め、大学受験という画一的なフィールドでは国内トップの結果を出しています。しかし、今の彼らが生涯をかけて挑戦しているのは、研究という誰もやったことがないフィールドを探求し、自らの才能を信じてその道を切り開く取り組みでした。

あの優秀な研究者たちでさえ、自分だけのフィールドを必死に探している。
私にはパラバドミントンという世界で戦えるフィールドがあるにもかかわらず、「”普通”になりたい」「障害がない自分を評価して欲しい」と葛藤している。このままでは、自分の可能性を閉ざしている。

そのようなことを強く考え、私は3年以上勤務した理化学研究所を辞めることにしました。

ちょうどその頃、東京パラリンピック効果で民間企業のパラアスリート雇用が広がっており、転職活動は非常にスムーズだったと思います。
職場のメンバーや研究者達からも盛大に送り出してもらい、本当に幸せな気持ちでキャリアチェンジができました。

障害の受容

「自分を障害者だと思っていない」
かつての私がそうであったように、このように感じている軽度障害者の声を私もよく耳にしたことがあります。そして、パラスポーツの存在を知っても、そこに参加することを最初は嫌がる選手も決して珍しくはありません。

もしかしたら、日本の学校教育が"みんな同じ"を求めるため、それにたまたま不自由なく適応した障害者には、この傾向があるのかも?なんてことを考えたりしています。東京パラリンピックの開催をきっかけに、多様性と共生社会が大きな社会テーマとなっていますが、実はこのテーマと正面から向き合えていないのは、他ならぬ当事者なのかもしれません

現在の私はパリパラリンピックを目指して引き続き選手として活動しつつ、学校での講演や、選手と意見を連盟運営に反映させる”アスリート委員会”という組織の活動に取り組んでいます。
また、数年前までは地元の障がい者バドミントン協会の事務局長として大会開催もしていました(今も役員として携わっています)。

いわゆるデュアルキャリアと言えるかはわかりませんが、研究者たちを運営面からサポートしていた経験をパラバドミントン界にも還元したいという気持ちがあり、"自分だからこそできること"を模索しながら活動しています。

東京パラリンピックには出場できませんでしたが、パラバドミントン選手としてアスリート社員になって一番良かったと感じているのは、本当の意味で障害の受容ができたことだと感じています。

長くなりましたが、私の自己紹介を兼ねた初投稿は以上になります。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?