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海より大きなクジラはおらん、山より大きなクマは出ん

先回の投稿で年末年始のバタバタと書いたが、実は父が亡くなった。父は若いころや晩年に会社勤めをしていたが、私と暮らしている間は関西エリアの西〇〇(詳細は伏せる)という街にある公認市場の一角で果実店を営んでいた。なので私は自分を『くだもん屋のせがれ』と思っている。親父と呼ぶ人を亡くしたことを曲にした長渕剛の『西新宿の親父の唄』がある。歌詞に感情移入するところが多く、今回実家への往復中に何度も聞き口ずさんだ。本投稿はこの歌詞に寄せて自分のために書きたいと思う。


身体は弱くはなかったがよく咳をする西〇〇のくだもん屋の親父が死んだ。酒とタバコが好きで、私は店の手伝い中によくタバコを買いに行かされた。銘柄はハイライト、私自身がタバコを吸うようになってそれが強めで香り豊かな味わいのものだと知った。狭い世界にいるよにみえて視野は広く、まわりの大人より大人らしく見えた。政治や社会の斬り方は鋭かった。

葬儀は流行りの家族葬で親近者だけでこじんまりと執り行った。正月にしては温かく澄んだ青空が清々しい日だった。生後6か月のひ孫も初めて新幹線に乗り遠くから駆け付けて父を送ってくれた。遺影の親父はまさにそれを喜んでいるような笑顔だった。

親父がくだもん屋をやめると聞いた時は何だか寂かった。姉の結婚に際し「商売人の娘じゃ申し訳ない」という思いがあったようなことを母から聞いた。消費税導入の負担もあったろうし、小売店の時代の終わりも見えていたのかも知れない。店をやめて5年も経たずに大震災に見舞われ市場は全壊となった。思えばいい時にやめたのかも知れない。それもまた親父の鋭さを感じる。葬儀の後、店のあったあたりを母を連れて見に行った。店の跡地にはマンションが建ち、高度経済成長の象徴のような30棟を超える市営団地群は全て取り壊され数棟の高層住宅になっていた。よく行ったタバコ屋はあったが店のシャッターは閉じられていた。

周りからも声があがるほど親父は長男である私に厳しかった。繊維関係の仕事に就いていたこともあり身なりやマナーには口うるさかった。だらしなさや不真面目さには特に厳しく、よく「しゃんとせい!」と叱られた。それでも遊びやユーモアの大切さを教えてくれたのも親父で、大きくなれ大きくなれと子に語りかけ、チャレンジの時にはこう言って励ました。

 「海より大きなクジラおらん、山より大きなクマは出ん」

「よそはよそ、うちはうち」と自分たちが大切にすべきものへのブレがない親父だった。私は酒に弱いがもう少し親父と飲む機会を持ち、そういう場でしかできない話をしておけばよかったと後悔している。大学進学と同時に家を出てから再び親父と暮らすことはなかったが、私は常に親父に対して恥ずかしくない生き方をしているかと自身を確認していたように思う。尻込みする自分、逃げ出しそうになる自分に親父の言葉で支えられた。

 「海より大きなクジラおらん、山より大きなクマは出ん」


親父は幼いころを満州で過ごし、引き揚げを経て昭和、平成、令和を生き抜いた。私たち子には一切語らなかったが壮絶な人生だったと思う。自分には構わずただただ家族の幸せを願っていた。晩年は子、孫、ひ孫の暮らしや成長の邪魔にならないことを第一に考えていたように思う。私の海外赴任を知らせた際、どの国にいつからと説明する前に「わしらのことは一切構わんでええから」と返ってきたのはとても親父らしかった。

そんな親父なので死ぬときは長期連休中だと私は密かに思っていた。昨年12月29日に家族で介護施設にいる親父を見舞った。いつもの通り「お前んとこどうや?」と聞かれ「順調にいっとるで、子供たちもしっかりやっとるよ」と答えた。いつもは「わしもぼちぼちやるわ」が定番の返事だったがこの時は「そうか、、、そら安心したわ」と言って眠りについた。その言葉を最後に翌朝未明に逝った。

葬儀は年明けの1月4日となり親族の年末年始を奪うことになったが、それぞれは仕事や学校を休むことも周りから過度に気遣われることもなく連休明けには平常に戻った。やっぱりこのタイミングだったかと驚くと共に、信念を貫いた親父には「あっぱれ!」としか言いようがない。私は家族に「平常通り暮らせばいい。新年おめでとうと言われれば、おめでとうと返せばいい。何かに誘ってもらえたならありがたく喜んで行けばいい」と言っている。それが親父の思いだと確信を持っている。

親父、ありがとう。もうなんも心配することないで。棺に駒入れといたから向こうでゆっくり将棋楽しんでな。わしら残ったもんも自信もってしっかりやってける。
「海より大きなクジラおらん、山より大きなクマは出ん」
からな。

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