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思い出日記3 挑戦せざるを得なかった経験 ― 初めての海外出張
初めての出張―アメリカーワクワクからの…
今から34年前、25歳の秋、先輩の見習いのような形での約2週間のアメリカ出張が決まりました。
英語力は不十分、仕事も半人前、ただただ、勉強させていただけるまたとない機会を得られたことに感謝しながら、出発の日を迎えました。
ところが当日になって、急きょ先輩が行かれなくなってしまったのです。
空港へ向かうスカイライナー(上野発成田行きの電車です)の中でそのことを知り、青くなりました。一人で何ができるだろう。英語に自信がない、不安しかない。アメリカ本土は初上陸だというのに、滞在中に5回も飛行機に乗って、アメリカを横断しなければならない…。
でも行かなくてはなりません。宿泊予約、飛行機の予約、そして現地で訪問する先や会う人たちとの約束、キャンセルするわけには行かない状況でした。
いよいよ出発
地獄のような出発までの待ち時間、軽食も水分もあまり喉を通らず、ひたすら不安と戦いながら過ごしたのを覚えています。
機は定刻通り出発。離陸して上空へ上がってからは、あきらめたというか、腹をくくったというか、次第に気分もよくなってきました。空調が心地よく、機内がガラガラだったのも良かったのかもしれません。そう、なぜかポツポツしか人が乗っていませんでした。
時間だけはたっぷりあったので、考えました。「私には無理でした」「できませんでした」と言うのは悔しい。できる限りのことをやり、少しでも成果を上げよう。旅の恥はかき捨て。おかしな英語でも何でもどんどん話して行こう。
自分自身への挑戦だと思いました。
リラックスしてフライトを楽しみ、いよいよサンフランシスコへ到着間近となったとき、前の前の席にいたアフリカ系と思われる少年が振り向いて話しかけてきました。
到着が近くなって、気持ちが高揚したのかもしれません。彼の座席の背もたれに両腕を乗せるようにして、自分は横須賀の基地に勤務しているアメリカ人の19歳の兵士だと話してくれました。里帰りするとのこと。楽しみだと嬉しそうでした。6歳も年下の男の子が兵士として外国である日本に来ているんだなあと思いました。
それと同時に、戦争、特にベトナム戦争についての曲「19(ナインティーン)」を思い出しました。ベトナム戦争での兵士の平均年齢は19歳、と語っている?(ラップ?)曲です。
当時は衝撃的な曲でした。でも曲がクールでリズムが良かったので、ディスコなどでよくかけられていました。
一方で、アメリカではベトナム帰還兵たちの多くが苦しんでいることが社会問題にもなっていました。以下は「19」のMVですが、戦争シーンや過激なシーンも含まれますので、ご覧になる場合はご注意ください。
首都ワシントンD.C.へ
いよいよ私の自分への挑戦の始まりです。最初の目的地はワシントンD.C.でした。サンフランシスコは乗り継ぎ地点。空港からは出られませんでした。まずはワシントンD.C.のホテルに3日間滞在し、全米規模のある団体の会議に出席します。
長い長い3日間でした。英語力不足でもいくつかのワークショップに参加しなくてはなりません。最初に少人数のワークショップに参加してしまい、発言しなくてはならないのでは…とビクビクしたのに懲りて、その後はずっと規模の大きなワークショップー聞いていればいい的なーにだけ参加しました。
また、2日目の夜は、大ホールでコメディアンのショーが開催されましたが、弾丸トークについて行けず、終わった後で知り合いの方に「ちらっと君のことを見てたけど、わからなかったみたいだね」と言われ、悔しい気持ちに。それでも何人かの方とは名刺交換ができ、お話ができて、達成感も感じることができました。
最終日は外へ出て散策しました。首都ですから、国会議事堂を見に行きました。広い芝生をリスが跳ね回っていました。
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現地の人との触れ合い
次に宿泊したのはボストンでした。いかにも東部の街という感じのボストン。ここを拠点に、小さい飛行機やバスに乗って、マサチューセッツ州とコネチカット州に訪問予定の場所がいくつかありました。
コネチカット州の訪問先へ行ったときのことです。ここは、ワシントンでの会議中に知り合った方の紹介で行く場所でした。
途中で一度バスを乗り換える必要があって、何もない道路にポツンと雑貨屋がある、まるで映画のシーンのようなところで次のバスを待つことに。ぼーっと立っていると、店の前に設置されたベンチに座っていたご老人が「どこへ行くんだい?」と話しかけてきました。行き先を告げると「私の運転手がついでに乗せてってくれるかもしれない」と。聞けば、病院や買い物に行きたいお年寄りを乗せて送り迎えをしてくれる車があって、おじいさんはまさにその車を待っているところとのこと。やってきた車の運転手さんもどちらかというとお年寄り。快く私を訪問先まで乗せて行ってくれました。
よく晴れた日でした。彼が「この季節のこういういい天気をmaple weatherって言うんだよ」と教えてくれました。アメリカ東部の北の方ですからメイプルツリーがたくさん生えていて、赤くきれいに色づいていました。
東部での訪問先へはすべて行くことができ、会うべき人たちにも会えて、自信がついてきました。
カジノの街リノへ
飛行機でネバダ州リノ・タホ空港へ。カジノ解禁の州ですから、空港にもスロットマシンがたくさんありました。この空港、山に囲まれたすり鉢状の地形の底部分にあるため、着陸する際に、飛行機が山肌をなめるようにらせん状にぐるぐる旋回しながら降りていきます。ジェットコースターとか、激しい乗り物が大の苦手な私は、ものすごく気分が悪くなりながら、必死に耐えて着陸したのを覚えています。二度と行きたくない空港です。
訪問先の方が予約してくれたカジノバリバリのギラギラしたホテルに宿泊しました。機内で知り合った方とちらっとカジノ場へも行ってみました。いろいろと冒険、挑戦でしたね。
サンフランシスコから帰路へ
アメリカ滞在最後の夜は、訪問先の手配の静かな小さなホテルに宿泊しました。帰る日の朝、迎えの車が来てびっくり。こちらも訪問先の手配でしたが、なぜか真っ白のながーいリムジンが。初リムジンです。このリムジンに乗ってサンフランシスコ空港まで行きました。
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帰りの飛行機のことはあまり覚えていません。すっかり慣れた感じになって記憶に残ることがあまりなかったのかもしれません。
このアメリカ一人出張旅を通して、学んだことがたくさんあります。そして、やってみなければわからない、言ってみなければわからない、その気持ちで何事にも臨めるようになったと思います。
はじめのほうで「旅の恥はかき捨て」と書きましたが、語学に関しては恥ずかしい悔しい思いをしたことほど忘れず、正しい表現が身につくこともあります。挑戦は人を成長させるチャンスであると実感した経験でした。
わたしの挑戦してよかった話、最後までお読みいただきありがとうございました。