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人間らしさを模造する消費経済のアンサンブル

 この記事はアニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」の考察です。不快に感じたり面白くなかったりすることがあるかもしれませんがご容赦ください。

 まずこの物語の私なりの構造を定義しましょう。それは『CRYCHIC』がなぜ解散したのか、ということです。もちろんメンバーの一人である豊川祥子が『CRYCHIC』を終わらせた、というのはストーリー的な事実です。そして『MyGO!!!!!』にバンドが引き継がれていくことを通して各キャラクターが前に進んでいく様子を丁寧に描いた作品であることは否定できません。なので先に『MyGO!!!!!』側の物語上の成功が何を意味するのかについて順番に考えていきましょう。


不思議ちゃんの二重性

 この作品を語る上で無視できない登場人物である千早愛音について語ることは『MyGO!!!!!』側の論理を解き明かすうえで必要不可欠です。要楽奈についても後で詳しく述べますが、いずれにしても愛音を先に考えた方がわかりやすくなります。愛音が代表している立場とは何なのでしょうか?それは「表層的コミュニケーション」の立場であると思われます。表層的と書くと薄っぺらい感じがしてマイナスの印象が先行しやすいですが、彼女が誰とでも一定の距離で話し合うことができ、しかもコミュニケーションについていつもそれなりに前向きな態度を崩さないという姿勢は『CRYCHIC』における状況にはなかった要素として根本的です。彼女の人間の軸としての意志が弱いことは高松燈というパートナーによって補うことが可能であり、かつ燈の欠けている部分を完全にフォローすることができる関係性を構築できるという点においてかなり強力なシナジーを形成しています。他のメンバーは多かれ少なかれ我を押し通そうとする態度を守ろうとしますが、愛音だけは軸が弱いおかげで表層的なコミュニケーションを維持することができ、かつそれをお互いのパートナーシップのあるまとまりとして団結させる意志を与える役割を担っています。『MyGO!!!!!』のメンバーで彼女だけが宣伝と衣装の観点についてこだわりを見せていますし、他人にどう見られるかという点に関して新しい好奇心を失わないことはかなり貴重な才能です。『CRYCHIC』のメンバーは誰一人そこまで「薄っぺらく」柔軟になることができないからです。


なぜそこに入れるのか



 『MyGO!!!!!』にいるもう一人の新しいメンバーは要楽奈です。彼女はいたいところにしかいませんしやりたいことしかやらないことを体現したような人物です。それだけに彼女の性格の軸は「音楽をやって面白いかどうか」にすべて集約されています。実は『CRYCHIC』のメンバーでこのことを「目的として」加入したメンバーは誰もいません。もちろん豊川祥子が集めたメンバーなのでそれも致し方ありませんが、この「バンドをやって面白いかどうか」は「一生」という言葉のニュアンスとしてかなり先鋭的な対立を引き起こしています。彼女の反応は音楽への献身という態度についてかなり一貫した態度に基づいています。彼女が音楽を一生続けるという点に関して一度も幻想を抱いていないということを理解することが重要です。他のメンバーは条件付き留保で考えています。椎名立希ですら「燈がいる限り」という条件が暗黙の裡に入っていることは明らかです。一見すると愛音は「一生」という言葉を本気で取ることから逃げているように映るかもしれませんが、実は彼女はプレッシャーに弱いという性質において「一生」という言葉の重みを正確に測ろうとしている点で楽奈にとって「おもしれー女」に値します。なので燈がいかに音楽について人生を真剣に思い悩んでいるとしても燈だけでは楽奈にとって十分ではありませんし、長崎そよや椎名立希「だけでは」ちっとも面白くならないのです。しかし現実問題として愛音と楽奈はバックボーンを支える人物として力不足です。愛音は音楽の技術的な知識に関して経験も努力も不足していますし、楽奈はグループ会話という機会を一切持たず音楽についてのコミットメントだけで餌付けされるような人物です。そこで『CRYCHIC』の元メンバーである3人を重みづけとして信頼関係を位置づける必要があります。


音楽だけはリードする



 『CRYCHIC』においても『MyGO!!!!!』においても高松燈の言葉(詩)が音楽としての価値概念を普遍的に表していることはこの作品の本質にあります。自分の世界と世の中の価値観がずれているということの対立性を巡って自分と他人との関係性を規定することが音楽の個性にとって重要な要素である以上、叫びを書き留めることは記憶という要素に現実の形となる器を注ぎ込む行為として星空に投影される舞台装置を暗示させます。もちろん実際の社会ではそのような言葉が形になることはなく、声も埋もれてしまう以上、グループ会話の中だけで完結する表現を使って自己を「表現する」方がより「安全」であることは疑いようがありません。もしこの安全感覚に逆らって歩くのなら、人間の社会関係というものについて常に演技をするか自己を偽って沈黙するという態度に引きこもるしかなくなってしまうからです。『CRYCHIC』のメンバーが燈の言葉に引き寄せられている(あるいはそのことに遅まきながら気付く)ことは、ライブという社会化された他者に訴えかけるというパフォーマンスを実践することで自己領域の世界を歌にして伝えるきっかけになります。それは万人に届かないかもしれませんが、誰かの心に何らかの形で残ればそれが一生の思い出となって人を前に進ませる勇気を与えるような感動です。しかしこのことは社会側によって抑圧されている「呪い」を解放するという過程と機を同じくしている、ということを理解しなければ「表層的コミュニケーション」に留まることにしかなりません。燈は繊細で感受性が高く、内面性において他者を理解する心をより豊かに持っているだけに社会の呪いの側面に対して愚鈍であるということをかなり露呈します。彼女は自己を偽るよりは閉めだすことを選ぶタイプの人間であるため、人を傷つけることを自分の心に対する致命傷として共に感じる純粋さしかないので、立希のようなコンプレックスをバネにして気を強くしようとかそよのように嘘をついてまで人間関係を円滑なままにしておこうとは考えません。これは若葉睦の人間性と似ていますが、内面性が常に空虚で言葉がそのままでしか出ないのと溢れ出す感情が充満して言葉にならないというのは明らかに区別されざるを得ない特徴です。


存在を賭けて



 若葉睦という人物については立希ともそよとも縁が薄く、どちらかといえば家柄的に祥子と縁が深い人物です。しかし彼女一人だけが「燈のライブがいい」とは一度も言わないという点で意義深い立場にあります。なぜでしょうか。燈のライブが音楽的に優れていないからでしょうか。明らかにそうではありません。彼女にとって「燈のライブがいい」ことは部外者の立場でしかないということです。これは彼女が『CRYCHIC』のメンバーであったことに何の影響も与えていないということです。祥子は例え彼女自身が『CRYCHIC』を終わらせる原因になってしまったとしても、そのことが燈の言葉を否定する材料として使うことはあり得ないですし、表向きいくら否定しようが彼女自身感動を共有する立場にあります。しかし睦という人物にとって重要なのは燈の歌が自分に何を与えてくれるか、です。そして答えは「何も与えてくれない」です。なので人間関係の方に訴えるしかありません。これが『CRYCHIC』が解散した後にそよと一緒に居続けていることの理由であると思われます。そよも『CRYCHIC』の音楽が重要なのではなく、そこから与えられる人間関係の役割の方が大切でした。それは自分が「家族を助ける」役割からの脱却であり、それを動かすのが祥子の提案でしかなかったからです。これは立希のように自分の個性としての言葉を十分うまいやり方(少なくとも優れた姉よりも)で表現できないということを代わりにやってくれる八幡海鈴の「ライブ活動」という動機とは全く異なっています。言い換えると睦にとって自分の個性を大切にするという動機をライブで表現することは音楽的な技術がいくらあっても不可能です。しかしだからと言って『CRYCHIC』を積極的に壊そうとか元に戻そうとかいう動機を抱く事にもなりません。そのような感情表現の代替として音楽のライブ活動も人間関係も存在していないということが有名な俳優の娘として「いい身分」を享受している睦の無根拠さの原因だからです。これは事情を知っている人間として祥子を助けたいという感情によってはじめて機微を持つことが可能になった元『CRYCHIC』のメンバーとしてできる唯一の自己表現です。だからこそ友情という感情はそよにとってはもはや無価値なものでしかありません。

痛みを返す友情の残り

 では結局のところ『MyGO!!!!!』のメンバーは社会的な呪いの側面を引き受けているのでしょうか。引き受けていません。ここに問題のすべてがあります。だから物語的に成功しているのです。呪いの側面が解放される前に物語を終えることでライブの成功が3Dキャラクターモデルの青春の一コマである作品を動画として保存することがアニメーションとしての余韻を食べ物のように分かち合うことを保証しているということです。言い換えれば、一般的な商業流通の現実と表現としての演出的な心情的一貫性が転倒しているということです。このことは「表層的コミュニケーション」が心の傷の手当てをすることをネットワーク生態系のスマホゲームとして購入可能な体験を積み重ねることの瞬間瞬間を徴収することで消費経済のアンサンブル学習を効率的に探索的な試行の迷子としてシミュレーションできるということに繋がります。雲行きが怪しくなってきましたね。確かに作品の中にいるキャラクターたちは青春の迷いや焦りや葛藤を美しい思い出として残すことができます。そこでは歳は取りませんし、美容が問題になることもありません。では私たちはどうなのでしようか。決してそうすることはできません。そうであるにもかかわらずSNSでは作品の感想や音楽の活動が不断に報告され続けます。もしかしたらあなたの作品は商業的に成功するかもしれませんし、大きな知名度を得ることもあるかもしれません。しかしそのことがパートナーとの時間をおろそかにすることに繋がったり自分の個性を殺すことになってもその活動を続けるのでしょうか。非人間的に表層を演じれば演じるほど人形劇の出来栄えが改善されていくことの人間的な収束点がどこかにあるのでしょうか。


ポジションハンティング

 祐天寺にゃむはこの点に関して経済的な両立をめざそうとする人物です。その代価として常に不特定多数の人たちへの自己アピールを動画として保存しておきたいと考えます。彼女のしたたかさは有名なバンドグループに取り入って人気を稼ぎたいという下心を完全に自分の個性と両立させつつ社会との衝突を避けることをわきまえている点で呪いの側面に精通しており、自分の現在の時点での価値を社会に対して正確に高値で取引したいと思っています。対照的に初華はすでに経済的にも知名度的にも「成功している」からこそ、そのことから派生する不都合を快く思っていない人物です。彼女が燈のことを気にかけるのはまさにこの青春のかけがえのないパートナーと一緒に過ごす時間が欲しいという追憶によって星の舞台を演じることが心残りになっているからです。しかしこのことは愛音のような「表層的コミュニケーション」と上手くかみ合いません。これは燈の孤独が初華のものとは異なっていることを感じさせます。心から相手のことを考えられるということは剥き出しの本心をぶつけることとは別であるということを明確に区別してしまうからこそ、優しさから行動に踏み出せない初華には祥子のことを気にかけることが燈の行動を後押ししても意味がないと悟るシーンにおいて幸せになることを祝福する言葉の皮肉が熱情的に響き渡ることになります。なぜなら人間的な意志の弱さがグループ活動としてコミュニケーションの相互性に有意義な成果をもたらすことは、経済的な競争や社会的な貧困の葛藤や矛盾を解決することにはならないからです。表層的に取り付くしまもないのです。つまり、仕事をするという関係性だけが感情的な呪いを金銭に変換するための動機付けとして憑りついてくる思い出をワークフローとして制御するためのチケットだということです。これが友情に兌換できない音楽を面白さのためにやるのか手段として扱うかどうかという点で楽奈と海鈴を別つ境界線になります。


届かない仕事人

 この作品には音楽を通して自己と向き合うことの大切さを訴えかけるエピソードがいくつもあります。『MyGO!!!!!』のメンバーには全員それがありますし、そのことで自分自身の殻を破り、前に向かって進むことの価値がメンバーの個性と例えギスギスした形であったとしても両立しています。しかし自己と向き合うことが自分自身のやりたいことを押しつぶすための圧力にしかならない場合はどうすればいいのでしょうか。一見するとこのことは『MyGO!!!!!』メンバー内でコミュニケーションに関することは愛音が辛抱強く相手に話をするように迫り、逆に愛音が重圧に負けそうになるたびに燈がそれを引き戻すという役割によって他のメンバーが燈を補佐することで克服されているように見えます。しかし祥子に関してそのことはついに何の成果ももたらしませんでした。ストーリー的な展開からすれば祥子が自分の事情を話したがらず、最後の最後になって家庭内の困難にバンドメンバーを巻き込みたくないという意地で問題を解決しないようにしていると見ることもできます。ですがこの作品の読解を通じて『CRYCHIC』が崩壊し『MyGO!!!!!』が成功したのは家庭内の不幸な問題を社会的に訴える手段として音楽を自己表現に使わないという心情的な分離によって葛藤を抑え込むことに成功したからだ、ということが明らかになってきました。このこと自体が社会的な何らかの腐敗や構造的な欠陥で引き起こされているかもしれないという点にはいったん眼を瞑りましょう。なぜなら祥子のかつての『CRYCHIC』のメンバーに対して浴びせる容赦ない嘲笑は自分自身への皮肉として何度も現実と向き合ってきたことの無力さの集約として純粋な感情をぶつけられることに対する苛立ちに起因しているからです。確かに『CRYCHIC』の各メンバーは祥子に対しての何らかの感情的な矛盾に近づくことがあります。しかしそれは結局はすれ違いに終わり、そのことが積み重なって瞬間が永遠に対する重みになっていきます。ここで祥子が『CRYCHIC』において果たしていた役割を考えてみることは有意義であると思います。それはメンバーの感情的な利害関係を調和させることであると言えます。というのも心情的にはバラバラで思っていることがすれ違っているのにバンドとしての機能を果しえていたのは祥子の人間的な総体的観点での器が大きいからであり、自己に対する感情的な真摯さという点で燈の言葉を見いだした理由も、それが歌詞であるか単に文字として書き出しただけであるかは別にして葛藤の対位法的な理解能力の深さに属する事柄だからです。ここでピアノとギター(エレキギターも)やドラムの認識構造の違いについて理解しておくことは重要であると思われます。独奏とアンサンブルというカテゴリの違いは調性重複であるかパート分割であるかという音律上の違いがあり、声の要素がポリフォニーであるかモノフォニーであるかということは音楽性の認識においてかなりの違いをもたらすからです(私は専門家でないので間違っていたらすみません)。それは人間的な欲求の重なり合いに関する垂直的な時価性の集音ではなくて単独の個性的な浮動性を追求する形でしか声が装飾的に響き合わないというアドリブの問題に対するノリの違いです。祥子が『MyGO!!!!!』側の燈の演奏を見て自分の不要さを完全に認識するのはこの感情の発露の行き場にどこにも自分の役割がないということを燈への誇らしさとして自分の胸に言い聞かせることの結果として在ります。


運命の分岐路

 自己認識ではなく自己管理のマネジメントが重要である場合に、演劇の脚本に対して調性を舞台装置の動きで取り入れることは人形劇の構造を反復することになります。私は『BanG Dream!』というコンテンツの長年のファンではないため『Ave Mujica』という曲に個人的な思い入れがないので完全にアニメの演出だけで判断しますが、美少女キャラクターの3Dモデルの利用に関する世界観設定とうまくマッチしていると思います。もちろん『MyGO!!!!!』の未完成さに対する『Ave Mujica』の完成品としての性格付けも含めたうえでの感想です。この感想が月並みなのはアニメーションで演劇を行うのは演劇性を映像表現の整合性から犠牲にしたうえでの物語の積み重ねで語られる断片的な思いの選択性というインタラクティブが求められるからです。ある意味ではここで感想を綴るという行為自体がそのようなインタラクティブ性を反映していると言えるかもしれません。しかしこのアニメは自己破壊の衝動を有しており、感想を述べる行為の重みというものをキャラクター消費の交換可能性に代替させるというやり方で「一生」の言葉を付き纏わせます。これは本質的にキャラクターを選択できないということであり「美少女」という感情伝達に特化した技術媒体を効率的に利用する上での意識体験を分離するというメタ構造に依拠させることが必要であるということです。それはこのアニメが父と美少女あるいは性的に無関係な反転した「ホモソーシャル」の空間性だけで成立するフィクションであるということを思い起こすということです。ストーリー的な「現実の父」だけでなく現実の舞台の裏で祭りとしての宴会の打ち上げをやることの意味においてすらこの作品の終幕の構造としてそれがふさわしいかどうかはかなり疑問に思わざるを得ません。しかし消費構造に対する暗示を説明する手段として問題を構成する場合、この自己破壊はかなり有効な裏切りを許容すると言えます。なぜならこの作品の「成功」が意味するところは複数の意味であり得るからであり、そのことによって現実にキャラクターとしての自己が演劇性としての独自の生命を独奏的に誕生させるかもしれないからです。その「キャラクター」の誕生の幸せを祈ってこの文章を締めさせていただきます。ここまで読んでくださってありがとうございました。


無名のあなたへ

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