Ave Mujicaの世界
この記事はアニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」の考察です。不快に感じたり面白くなかったりすることがあるかもしれませんがご容赦ください。
キャラクターに感情移入することの重みとは何かについての考え方があります。あるキャラクターに対してそれが「かわいい」とか「かっこいい」とか判断する評価のことです。それはあるキャラクターが愛されているかどうかを確認するための儀式でもあります。愛されていることの耳のかさなさと防衛的な頑固さの違いが何で分類されるのでしょうか。このアニメでは『CRYCHIC』の初のライブ時にSNSで感想が流れてくるのをブロックしたりミュートするべきだと提案する印象深い場面があります。それは燈に対して「必死過ぎる」という形容が与えられる場面です。立希は即座にそれを燈に対して防衛するように世間の悪口を見えないようにします。そよはそれらを無視するコツのようなものを教えて、グループの保全を図ろうとします。これはこのアニメの進行中ずっと暗黙の裡に機能し続けている登場人物の顔を隠すコミュニケーションツールの機能です。
愛音はコミュニケーションツールにおいては見栄えの表層性というその本質においてにゃむのように打算ではないにしろコンテンツ性をうまく使いこなしますし、楽奈はそこに書かれている評価にそもそも関心がなくコミュニケーションツールの使い方すら怪しいです。でも立希とそよは違います。実はこの場面に対照的になるような二つの場面があります。立希が睦に対してそよの家を紹介するように連絡をするのを「伝書鳩にはならない」と拒絶するシーンと、祥子が初華と話しているときに挿入される着信の振動と対応するかのようにそよが祥子にブロックされているのに気づくシーンです。人間関係の問題と音楽の問題を混同してはならないというシグナルです。燈はこのようなSNS上の無視のようなものをしていないと感じられるかもしれません。しかし『春日影』を演奏してそよが何を気にしていたのか、ということを考える時、ここに明らかと言っていいほどの無視があるはずです。立希は立場上燈の完全なるファンですから、燈に対する応援のメッセージを肯定できることはあってもその逆はできませんし、そよはバンドグループの崩壊の危機に対処するための方針においてしか一貫できません。なのでそれは睦だけが人間関係のパラメーターとして正確に測定していることが背後から透ける場面において決定的になっています。
私は燈の歌の「必死さ」が『春日影』という歌のすばらしさを支えていることを寸毫も否定しているのではありません。この歌詞が祥子の心情をそのまま表現するような歌詞であることも祥子自身全く否定できていません。しかしボーカルとして燈が『CRYCHIC』の解散の呪縛から抜け出して新しいバンドとしてその歌詞を歌うのを見る時、祥子自身の「その中に自分がいたら」という思いは打ち消せない葛藤としてあります。でもそこで祥子自身の家庭の事情を持ち込んでしまったら、この歌詞の意味は反転した世界の事実しか表しません。以前と変わらず、祥子自身は家庭の事情であの頃の思い出に取り残されたままなのに燈は先に行ってしまいます。はじめに燈をその心の悩みの境遇から救いだしたのは紛れもない祥子自身です。しかし今やその事実は燈が自分自身の力で羽ばたける舞台を家庭の事情の葛藤なしに好きに表現できる言葉の表層性しか一方通行のコミュニケーションを機能させません。なぜなら燈の言葉は『存在の苦悩』に関する詩であって『現実の事情』の代替表現ではないからです。そこで「なんて美しいんだろう」という時の燈の自由な心境の熱唱の演出を見てください。「あなたを離さないでいて」という言葉が完全なる容赦のなさで突き刺さっているのがわかります。そしてその場面でもう歌詞の続きを知っている祥子はライブ会場を出ています。睦が狼狽えたまま無表情で佇んでいるのは、まさにこの満たされた感情のボルテージに対応した相反する態度です。そよが勘違いしていたのは燈が祥子を「傷つけた」という部分においてだけであって、決して断絶が決定的になったという事実に関して誤解しているのではありません。
したがってそよと祥子の違いを考えるときに問題になっているのは家庭の事情の問題がグループ的な人間関係の維持に関わる部分にあるのか、音楽的な背景の観点に関わる技術にあるのかということが問われなければなりません。この場合ストーリー的にはそよは人間関係の部分で音楽を機能させることが燈の詩で完全に可能な立場に置かれているのがわかります。なぜならそよ自身の感情を吐き出せる場所が必要で、それが家の中の広大な空間性でしかないということに言語的な狭窄性があるのですから、それをグループ内の侵犯として踏み越えていけば、そよの家庭自体に現実の障害があるわけではない以上、異文化交流のような体験があれば葛藤は解決できます。だから愛音が先達としてそよに説得をすることができるのですし、音楽的な居場所を作り上げることができさえすれば、学校での閉鎖的なコミットメントに安住する必要はなくなります。しかし、睦はそうではありません。睦にとって家の敷地の広大さはどこまでいっても両親の愛情の欠乏を示しています。とはいえ、睦はそよが仮初の友情であっても、仲良くしてくれたという事実を忘れるわけではありませんから、そよがどう悪口や本音を言おうと彼女を助ける側に回ります。しかしそれは燈の言葉に動かされたからでは全くない、という点が決別の問題です。睦は単に蒔かれた種を収穫しているだけにすぎません。そこにいかなる打算もありません。そしてそのことが燈を人間関係を引き留めるための手段として利用することに繋がります。この人間を人形に貶める行動がなかったなら、そよは『MyGO!!!!!』に戻るために必要な燈の感情を受け入れることができなかったはずです。
では音楽性について立希と祥子が話し合うことがあるのでしょうか。まさにここが立希のコンプレックスに重なる部分であるということがわかります。つまり燈の言葉に強く動かされるという点で彼女が姉と祥子の呪縛から抜け出すために必要なものは、正確に『CRYCHIC』を解散させるということであり、そのためにそよを利用しなければならないということが彼女を説明不足に陥れている原因です。このことを彼女は海鈴に来てもらうまで気づきませんでした。これは彼女が燈の言葉を見いだすという点で祥子の役割を代替したいと思っていたということです。燈が何に悩んでいるのかを見ずに、彼女の音楽の個性を表現するために使う部分がそよをして立希は燈さえいればいいと言わしめた原因です。それはもはや姉のコンプレックスではなくて完全に祥子に対するコンプレックスであり、だから燈に過剰なまでに肩入れをすることになっているのです。これは楽奈がいたから音楽のことを純粋に考えるように引き戻された、という部分が決して少なくない部分です。しかしそのことを海鈴はどう思っているのでしょうか。これは海鈴が立希と一緒にバンドをやりたいと思っているかというより、同じバンド仲間として音楽の個性の代替性を表現する友人を見つけたいという感覚に訴えるものであったはずです。しかしもはや立希は海鈴にとってのバンド仲間を代替する要素ではあり得ません。彼女は人間関係に関しては仕事本位で考えますからそのことを表に出すようなことはありませんが、立希が海鈴と初華が話しているのを問いただすシーンで、初華に対して焼きもちを焼いているとからかうシーンで全く感情の変化がないように見えて、海鈴の感情が見えています。立希は自分のバンドのメッセージを読むのに忙しくてそのことから来る帰結を考えません。もちろん海鈴は純粋に立希のことを「よかったね」と思っています。睦のそよにかけた言葉と重なる言葉です。そして立希はまさにそこで拒否をしないという点で、彼女の音楽に対する夢中さが友情の代替にはならないと表現してしまうことになります。
燈が音楽のパートナーとして楽奈に認められるまでになった愛音と一緒にいるのは、この作品の「運命的」な部分に当たります。もし燈と愛音が出会わなかったなら、彼女が『CRYCHIC』の過去のライブ映像を見て燈の歌を聞かなかったなら、この物語は始められることすらなかったでしょう。そして燈が一人になったとき歌の力の勇気を与えてくれた初華の言葉がなかったら『MyGO!!!!!』のメンバーが戻ってくることがあり得たか保証できません。これは燈が『CRYCHIC』のメンバーとの思い出で懸命に頑張る姿を見せる場面です。しかし祥子と初華の出会いが過去の美しい思い出にあるとしても、『CRYCHIC』が解散した時に側にいたのは彼女ではありません。例え初華がデビューした時に常に応援しフォローしてくれた人物が祥子であったとしてもです。初華はこのことを純粋にただ知りませんでした。おそらく仕事の忙しさやパートナーであるまなに翻弄されることもあってそれなりに適応した生活を送ることになっていたはずです。しかしそのことは祥子側の事情を一切知らないことによって流されてきた時間に当たります。確かにそのことについて祥子が初華にもっと早く話していたら、アニメで語られたのとは別の結末を迎えたかもしれません。しかし時は無情にも過ぎ去り、そのことに遅まきながら気づいたころには『CRYCHIC』はすでに解散しており、祥子は燈とは一緒にいない時間を音楽的に打ちのめされた状態で過ごしています。初華は単に連絡を待っていただけです。確かに他人の事情を深く聞かないというのは部外者にとってそれなりに有効な社会的規則です。そのことに手遅れになるまで放置するとしても忘れ去られたままならばやはり同じことです。それはつまり自分のバンドグループで感情的な世界に浸ることでも、アイドル活動について努力を絶え間なく行っているとしても見過ごされている闇があるということです。時間が金銭で買えないとはよく言われる話です。ではアイドルやバンドユニットのキャラクターに感情移入するために時間を費やすこともそれと同じなのでしょうか。この作品を視た人間なら、それを否定的に回答するかもしれません。しかしこの作品の内部でバンド活動の光と影が正確に交差した反映をキャラクターモデルで演出しているとしたらどうでしょうか。それはあなたの願いを投影した物語として快楽を貪っているだけではないのでしょうか。我々はこの作品を「一生」見続けているのでしょうか。ただ新しいコンテンツが供給されているだけということを否定する材料があるのでしょうか。ブロックされている感情に対して誠実であることは、作品を面白いとして鑑賞する立場と同一であり続けることができるのでしょうか。恐れられていることがあるとすればそれは作品をフィクションとして想定することではなくて、自分の人生が誰かの夢としての役割を演じたままであることです。キャラクターに話しかけられていることが自分自身のことだと錯覚する構図が劇構造のヒエラルキーとして厳密に設定されているのなら、そのことを打ち消す魔法の言葉があるのでしょうか。奇跡のような日常がほんの一瞬だけでも達成されるような詩の力が話題の呼び声に囁かれて手を取り合うような妄想の世界が顕現する可能性を無残な現実で曳き壊すべきでしょうか。選択はまだなされていません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?