神沢杜口(かんざわとこう)の言葉①
病弱だった前半生から一転、80歳を過ぎても健脚を誇った江戸時代の俳人・随筆家の神沢杜口の言葉を紹介します。
神沢貞幹という名でご存知の方も多いと思います。
この言葉からは、ただ呑気に暮らしている人という印象を受けますが、実は波乱万丈の人生を送った人なのです。
まず、その半生を紹介します。
神沢杜口 江戸中期(1710-1795)
京都東町奉行所の与力・目付を約20年間努める
与力は部下である同心を束ね、奉行を支える役職。目付は旗本らを監察する要職です。
相当の収入(換算すると年棒1千万円以上)を得ていました。
40歳、病弱を理由に辞職。文筆家を志す。
安定した地位を捨て、俳諧の世界に身を置きながら、随筆を書くための取材活動を始めます。
44歳で妻に先立たれますが、その後も独身を通します。
子供たちまで次々と亡くなってしまい、末娘からの同居を勧められますが断り、18回も京都市中を転居しながら取材を続けました。
そして書き上げたのが、江戸時代の一級資料と評される『翁草』です。
62歳、随筆『翁草』100巻完成
『翁草』は全200巻に及ぶ随筆集。
その前半を完成させたのが、取材を始めて20年以上を経てのことです。
単なる随想ではなく、歴史・地理・有職故実などを網羅する、百科事典に相当するものです。
後に、森鴎外が複数の作品のモチーフをここから得ました。
78歳、天明の大火で『翁草』の追加原稿100巻焼失
天明の大火は皇居をも焼き尽くし、焼失家屋18万余に達する大災害でした。
これにより財産全てを失った杜口。
苦労の結晶である『翁草』後半100巻の草稿も灰燼に帰したのです。
杜口は一から取材をやり直し、大火の実地調査も兼ねて原稿を書き始めます。
79歳、マラリアに罹るも回復
危篤となり、病床に親族が集まったのですが、奇跡的に回復しました。
80歳を過ぎても各地を取材旅行
1日に20~28kmも歩いて取材していたと伝わります。
いつ倒れてもよいように、迷子札を付けて旅に出ていたとか。
82歳 焼失していた原稿100巻を再度完成させる
被災地ルポルタージュを加えて、82歳で100巻の書き直しを完了。
85歳 天寿を全う 諡(おくりな)は神沢貞幹(ていかん)
江戸時代の平均寿命にさしかかる頃に人生の舵を切り、老齢で大作を書き上げ、しかも灰燼に帰した原稿を書き直す、というミラクルを可能にしたものは、一体何だったのでしょうか?
もともと病弱だった神沢杜口は、貝原益軒の『養生訓』に従い、実践していました。
その結果、貝原益軒の言葉「短命ならんと思う人、かえって長生きする」を証明する結果となりました。
多くの秘訣を一言で言えば、「気」を滞らせないこと。
杜口は「体調がすぐれない人は、気分を安らかにして、雑念を払って歩けばよい。これを続ければ、薬を使うよりもはるかに効果がある」という言葉も残しています。
逆境に見舞われた時も、悶々と苦しみの中に閉じこもってはいませんでした。
現実を受け止めたうえで過去への執着を手放し、淡々と前へ歩み始めたのです。
書き上げた100巻分の草稿を焼失したとき、すでに78歳。ふつうならショックで心が折れ、身体もみるみる弱り、寝たきりになっても当然です。
しかし杜口の場合、この時 新たに「次の目標」が生まれたのだと思います。
作品が完成すればそれで終わりですが、もう一度完成に向けたプロセスが始まったことが、むしろ彼に生命力を与えたのだと想像します。
だからこそ、翌年マラリアで危篤になっても、生還したのでしょう。
杜口はジャーナリストでありながら、俳諧、謡曲、碁、香道も嗜む趣味人でした。
大火の後、直向きに取材をやり直し、被災地の現状という最新情報を加えた原稿100巻を書き上げるプロセスは、もはや「仕事」の域を超え、趣味との境界の無い、生きる喜びになっていたのではないでしょうか。
「独り」は寂しい孤独ではなく、自由。
心の風通しを良くして楽しんでいれば、大丈夫!
杜口はそう語ってくれているようです。
たとえ病気があったとしても、心のあり方が大切だと私は解釈しています。
参考文献:
立川昭二『足るを知る生き方』(講談社 2003)
帯津良一『長生きできる?江戸時代の常識にとらわれない生き方』(AERA.dot.,2019.1.25)
下記のサイトも参照しました。