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あの日から生き延びて

1月17日 ― 神戸市で被災した日であり、その11年後、母が他界した日 ― がまた巡ってきました。
 
全焼により戻る家が無くなった私たち家族(当時は母と三姉妹で暮らしていました)のため、各地から数々の支援が寄せられました。
今年で三十年。今も思い出すと、当時と変わらぬ感謝が溢れてきます。
 

少し落ち着きを取り戻してから、母はお礼の刺繍作品を作り続けていました。
いずれも Olympus社製 または Violay社製の刺繍キットですが、一針一針に感謝を込めて、絵画のように額装して送り届けました。
  
転々と引っ越すことになったわが家の分も、また一から、何年もかけて、繍い上げてくれました(写真はその中の一部です)。

見出し画像にした『コツウォールの秋』は私がリクエストしたもの
最晩年の作品


そして母は、何故かこの日 — 1月17日 — を選んで旅立ちました。
 
後にはたくさんの糸が遺されました。


刺繍を引き継ぐ者がいないまま、
糸は箱に入ったまま、19年間眠っていました。
 
 

先月のクリスマス頃のこと ―
“刺繍糸は刺繍用、という概念を外して、編み物に使ってみよう”
そう思い立ちました。

どんな風景でも再現できるよう、様々な色相・彩度・明度で染められた糸。
グリーンだけでも一体何種類あるのだろう…
眺めていると、アイディアが湧いてきます。
「色」は創造意欲をかき立てるものですね。

36色の色鉛筆とまっさらな画用紙を前にした時の、ワクワクする気持ちと同じです。
 
編み図なしで、無心に編んで、オリジナルのコサージュが出来上がりました。

別々に暮らしている妹たちにも


まるで母との「二人羽織」状態で編み上げた気がします。
私の手を通して顕れた、母からのプレゼント。
 

帽子に似合う飾りも編んでみました。

滑らかな手触りと光沢が刺繍糸の特徴


『不器用コンプレックスのかたまりが初めて編み物をした日のこと』で綴ったように、私は手芸とは程遠い世界で生きてきました。
それが、ある日突然、衝動に駆られて始めて以来、生活の中に無くてはならないものになりました。
 

千手観音のごとく、たくさんの得意分野で私たちを育んでくれた母。
わが身は、その母の分身。
そう考えると、私は母の「編み物の手」を譲り受けたようです。
 
すぐ下の妹は、母の「料理の手」。
一番下の妹は、母の「植物を慈しむ手」。
 
二人とも前職とは180度違う第二の人生を歩み始めています。
どちらも、新たな「手の使い道」に目覚めたようです。
人が和み、癒され、楽しんでくれるようにと。


 
 震災直後の避難所から、怪獣が暴れたような道なき道を20時間近くかけて救い出してもらった日。
身を寄せたお宅で、蛇口から出る水に歓喜したこと。
ただ、水が出る、その有難さ。
両手にすくって感じた冷たさと共に、今も鮮明に蘇ります。
 

生活することに懸命だった年月を経て、
ある程度の豊かさを享受できるようになっても、
日常のありとあらゆることが、決して当たり前ではないことを、今なお痛切に感じています。


失った物の中から、一つだけ挙げるならば、
大切なアルバム。
それでも、写真は全て無くなっても、思い出は消えずに脳裏にあります。


失くした物より、残っているもの、与えて頂いたものの大きさを思うことで精神の正常さを保ってこれたと思います。


30年前のあの日、家族の誰も欠けることがなかった奇跡。
炎に囲まれた阿鼻叫喚を思えば、生かされたことは本当に奇跡としか思えません。

そして母がほんとうに千手観音になり、今も私たちと繋がっている奇跡。

そのことに感謝しながら
いつもと変わらない日常を大切に、今日を生きます。










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