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蓮月さんに逢いたくて

晩年の生き方をロールモデルとしたい、憧れの女性がいます。
大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)。
江戸時代後期から明治にかけて京都で暮らした尼僧で、歌人・陶芸家として知られています。
磯田道史氏の『無私の日本人』などでご存知の方も多いと思います。

波乱万丈の人生を送り、驚くような理由で転々と住まいを変えてきた蓮月尼。
 
人生の終盤でやっと安らぎを得ることができたのが、ここ西賀茂 神光院(真言宗)です。
 
私も毎年のように訪れ、誰もいない静かな境内で過ごさせて頂いています。
 
なぜこの場所に惹かれるのか、数奇な蓮月の運命を辿りながら綴ってみたいと思います。

その前に、神光院について紹介します。

神光院の山門 
石の道標はかつて上賀茂神社付近にありました
「是より約5町北西へ 厄除弘法大師道  歌人 蓮月尼 隠栖之地」

京都三大弘法のひとつ神光院

上賀茂神社から、賀茂川を渡り西へ15分ほど歩くと「神光院」はあります。
住宅街にひっそり建つこの小さな寺院が、「東寺」「仁和寺」と並ぶ「三大弘法」の一つであることはあまり知られていません。
通称「西賀茂の弘法さん」。
 
お遍路さんが四国八十八カ所巡礼に旅立つ前に、ここで旅の無事を祈願する習わしもありました。
 
平安時代には、御所に瓦を収める職人の宿でもあったことから「瓦屋寺」と呼ばれていました。
弘法大師空海はここで90日間修行をし、去る時に境内の池に映る自らの姿を木像にしたと伝わります。
空海42歳、高野山を開く直前のことです。

本堂には弘法大師自らが刻んだ大師像「厄除弘法」が安置されています
(通常非公開)
空海はこの池を鏡にしたのだなあ…と思っていると、 バサッと音がしてアオサギが現れました。
池のほとりの山茶花は、真っ白な八重。
奥に見える建物が、蓮月の住まいでした。
(今年の山茶花はまだ咲いていなかったので
2021年11月14日に撮影したもの)

「静かなところや。なんとのう気が朗らかになります。生涯ここに置いてもらえませんか」(磯田道史『無私の日本人』p353) 
 
「屋越し蓮月」の噂を聞いた智満和尚の招きで 蓮月は初めてこの地を訪れ、終の棲家と決めました。
 
そんな蓮月は、どのような人生を送ってきたのでしょうか。
 
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蓮月の出自

上洛した伊賀の武士(藤堂新七郎が有力説)と花街の芸妓の間に女の子が生まれました。
私生児であったため、知恩院に使える寺侍(大田垣常右衛門)の養女となり、誠(のぶ)と名付けられました。のちの蓮月です。
 
知恩院の付近には多くの文人が住んでいて、可愛いおのぶは自ずと英才教育を受けていたようです。
6歳から和歌を詠む才気に溢れた少女は、幅広く深く教養を身につけていきました。
 
幼いころから人目を惹く美しさで、大きくなるにつれ、通りを歩くと男たちが後ろをついてくるほど。
おのぶはこれを疎ましく思い、逃げ隠れる日々を送りました。
 
痛快なことに、並外れた運動神経に恵まれた彼女は、剣を振るい、鎖鎌(!)まで振り回す武芸の達人になりました。
恥じらいのある控えめな性格でありながら、このような一面があったことに驚きます。
 

「自分は人を不幸にする」

知性、美貌、運動神経 … すべてにおいて恵まれていながら、彼女には常に不幸が付きまといました。
最初の結婚で、幼子三人、果ては夫までが病死。
二度目の結婚でも、夫は病で早逝します。
 
自分は人を不幸にする…自責の念から、おのぶは剃髪、尼となりました。
33歳でした。
 
知恩院から「蓮月」という法名を与えられ、同じく剃髪した養父と、二度目の夫との間にできた二人の子と共に、小さな塔頭で暮らすことになりました。
 
ところが追い打ちをかけるように、その二人の子も幼くして亡くなります。
 

美しすぎるゆえに

42歳のときに養父も亡くなり、独りぼっちになった蓮月。
住まいとしていた知恩院塔頭は尼寺ではないため、出ていかなくてはなりませんでした。
聖護院村のみすぼらしい小屋に住み、生活の糧のため和歌を教え始めました。
 
しかし、美しすぎる蓮月には、男が次々と言い寄ってきます。
容貌を損なえば、付きまとわれないだろうと、まずは眉を抜きます。
それでもだめでした。
遂に、糸を前歯に括り付け、痛みに悶絶しながら1本、また1本、と自ら抜いていったのです。

さすがに抜歯事件後は言い寄る者はなくなりました。
 

陶芸家として開花

蓮月は新たな生活の糧として、手びねりの急須を作り始めます。
そこに自作の和歌を釘で彫りました。
出来ばえは不細工で、へんてこだったようですが、京の土産物屋に頼み込んで置いてもらいました。
 
蓋を蓮の葉のかたちに、取手を茎のかたちにした素朴な急須は、「蓮月焼」と呼ばれ、次第に人気を呼ぶようになります。
 
やがて贋作まで出回るようになりましたが、蓮月は「どんどん製してくだされ」と、贋作にまで和歌を彫ってあげたというのです。


引越し魔「屋越しの蓮月」

すっかり有名になってしまった蓮月は、静かな暮らしを求めて、転々と住まいを変えます。
衣は着たきり、家財道具もほとんど持たず、大八車で身軽に移動しました。
 
引っ越す度に小屋の設置を任されていた馴染みの大工は、「さよう宿替えは三十四度までは覚えています」と語ったそうです。
 

共に暮らし始めた少年

毎日訪ねてくる15歳の少年がいました。不幸な生い立ちの少年を60歳の蓮月は本当の母のように慈しみ、学問をさせ、様々な教養を育みました。
 
66歳になっても容貌なお衰えず、相変わらず転々と引っ越す蓮月のため、21歳に成長した若者は、同居を始めます。
陶芸用の土を運び、出来上がった作品を窯元まで運ぶ手伝いをしました。
 
この青年こそ、のちの富岡鉄斎です。
仏教、神道などを修め、のちに最高峰の文人画家として大成した富岡鉄斎があるのは、蓮月との暮らしに由るところが大きいでしょう。
 
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やがて神光院の住職に招かれた蓮月は、鉄斎と共に境内の一角で暮らすことになります。
蓮月75歳、鉄斎30歳です。
例の大工が、三畳敷の建物を移築し、神光院の茶所にくっつけました。
 
 

蓮月が晩年10年間を過ごした茶所「蓮月庵」
寺の門をくぐって、左手にあります。
数々の文人が彼女を慕って訪れました。
蹲(つくばい)が苔むしています。 建物は朽ちていますが、残っていることに感動します。


惜しみなく分け与える生き方

自分が創り出した陶芸作品の偽物にまで和歌を刻んであげた蓮月。
神光院でも相変わらず、誰にでも惜しみなく分け与える暮らしを続けました。
 
村の子供たちに紙を与え、絶えず訪れる文人墨客が置いていく書画を、欲しいと言う人に譲ります。
 
幕末の動乱で飢えた人々を救済するため、喜捨をすることで粥施工もおこないました。
喜捨の元手となったのは、自ら綴った短冊や画賛です。
 
殺し合いをやめるよう、西郷隆盛に和歌で直訴したことも伝わっています。
江戸城総攻撃を取りやめ、無血開城となった背景には、蓮月の思いがあったからだと『無私の日本人』で磯田氏は断言しています。
 
明治8年、ここで八十四年の人生を終えた蓮月。
明治政府による廃仏毀釈で、寺院としての機能を失った時期と重なりますが、蓮月は尼僧として静かに平和を祈っていたに違いありません。

弔いでは西賀茂の村中の人々がわんわん声を上げて泣いたと伝わります。
 

茶室の前の石碑 「蓮月尼僧 栖之茶所」
側面には「是より西五町 小谷に墓あり」

石碑の文字を刻んだのは、蓮月と暮らした富岡鉄斎です。
蓮月の慈愛の深さに思いを馳せ、万感を込めてこれを刻んだはずです。

蓮月の居所には現在不動明王が祀られています


蓮月尼の足跡を記した石碑
山門付近で「蓮月の石碑はどこにありますか?」と尋ねる方がありました。
その徳を偲んで来られる方も少なくないでしょう。


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悲惨な運命に自らを呪い、美貌ゆえの苦しみにもがき、つきまとう人気から逃れ逃れて、やっとたどり着いた隠棲の地。
 
ここまで綴ってきたことで、私が秋の神光院に惹かれる理由が分かってきました。
蓮月さんの本質を感じるからです。
 
池のほとりに咲く純白の山茶花は、私欲のない清廉な人柄と重なります。
境内を彩る紅葉は、自らの眉や歯を抜いてまで美貌を損ねようとした情念、そして内に秘めたものづくりへの情熱。

境内全体を包み込む静寂さと凛とした空気は、決して奢らず、清貧を貫いた蓮月の強さと穏やかさそのものです。
 


SNSなどなくとも、この小さな庵を中心に人々との絆が生まれ、連鎖し、慈善活動が拡大していたこと。

大声を上げたり、拳を振り上げなくとも、静かな愛をもって世の中に資することができると、身をもって教えてくれた蓮月さんがここにいたこと。

長い記事になってしまいましたが、綴ることができて、そして読んで頂けて嬉しいです。
ありがとうございました。

引用・参考文献:磯田道史『無私の日本人』(文春文庫)


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