そして 枯れる ①
後悔することを 馬鹿なことだとは思わなかった。
人は後悔の渦の中でかろうじて生きているもので、そこから抜け出すことはつまり死ぬことと同じだと思った。それは後悔を美化するということとは違って、ただ人間という生き物に期待していないだけだった。人間は、どこまで突き詰めても、どこまで易しく見ても、愚かな生き物だと思った。
そうやって、カラッと乾いた空気の中を、ひどく遅い速度で歩くように生きてきた。
5歳くらいのときに、親が離婚した。今まで、帰れば母親が居て夕食が用意され、家族5人揃ってご飯を食べていたのに、その当たり前はあっけなく消えた。姉と兄と私と母の4人でリビングに集まり、正座しながら母の話を聞いた。離婚の理由は、そのとき確かに聞いたはずなのに、母がどんな顔でどんな言葉で説明をしたのか全く思い出せない。ただ、普段滅多に泣かない姉だけが泣きじゃくっていて、その泣き声が耳障りだった。兄は最後まで俯いて黙りこくったままだった。その場に父が居なかったことが何故かすごく気にかかった。姉も兄も私も父に引き取られて、母とは数ヶ月に1回程度、養育費を渡しに来るときにしか会えなかった。連絡は取り合っていたから、会いたいと連絡することは出来たけれど、なんとなくそれは嫌だった。会いたいと伝えることは嫌だったくせに、「大好きだよ」という言葉は毎日伝えた。今になって考えると、母の関心が父以外の男や自分たち以外の子供に向けられることを無意識に恐れていた気がする。その時もう既に私達に対して関心が無い状態だったかもしれないのに。
父は、育児という育児はあまりしてくれなかった。ただそれは完全な育児放棄とは言えなくて、たとえば手料理が食べたいと言えば たまには作ってくれたし、金銭面で不自由することは無かった。だが、授業参観には来なかったし遠足や部活の試合で食べる弁当などは作ってくれなかった。そういう時はいつも、コンビニで買った菓子パンやサンドウィッチを食べた。子供3人分の食費は1日1000円で、その1000円札を 父は毎日冷蔵庫に貼り付けて仕事に行っていた。静かなリビングで食べる冷凍食品、暗い部屋で飲むコーラ、朝ごはんに食べるグミ、全部 嫌いでは無かった。美味しかった。周りからは不憫で可哀想だと慰められることもあるけれど、自分のことを可哀想な子供だと思ったことは、ただの一度も無かった。だけれど、お腹をしっかりと満たせるほど食べようと思うと、3人で1000円は少なすぎた。万引きをして、店員に見つかった時は、なんとなく自分のことを哀れだと思った。
小学校高学年になるまで、自分の顔を気にしたことは無かったけれど、周りに特別視されるようになって初めて、自分は周りとは違うのだと感じた。幼稚で真っ直ぐな言葉を投げかけられる度にその感覚は強まっていった。顔を褒められるときはいつもマスクをしているときだった。
恥ずかしかった。こんな顔で一丁前に化粧をして着飾って街を歩く自分が、ひどく身の程知らずな気がした。自分の顔が憎たらしくて仕方なかった。
もし私が正常な顔で生まれ育っていたならば、もっと人生はピアノを弾くような軽快さと高揚感を持っていたと思う。
中学の頃は所属していたバスケットボール部で活動するために学校に行く日が週に1,2回で、それ以外はほとんど休んだ。なぜ休みたいのかという疑問に対する答えは、当時の自分では「面倒臭いから」という言葉でしか見つけられなかった。その一言の中にいくつもの理由や感情が含まれていたことを、最近になって知った。ガヤガヤとうるさくて、分かりやすいメリットもない。学校に行きたくない子供が、学校に行くべき理由をきちんと理解することは とても難しいだろう。学校の外にも世界があることを知って、ますます学校という場所が つまらなく感じられた。今は、学生の頃の勉強や、学校と言う空間、規律ある中の集団行動が 大切だということを理解できるようになった。
学校に行かなくなってから頻繁に非行仲間とつるむようになった。夜は家を出て先輩達と遊び回り、ほとんど車中泊のような状態だった。家に帰る理由は 風呂と着替え程度のもので、家族とも顔を合わさず、もはや家と言っていいのかもわからないような状態だった。当時は、その感覚も好きだった。どこにも属していないような気がして、身軽で自由で楽しい気がして、満足していた。きっとあの時の私は本当に心から満足していた。大人はこういう生活を「寂しさを一時的に埋めているだけ」「自分に酔っているだけ」と言うけれど、私達 人間は今を生きることしか出来ない。過ぎた時間を振り返って説教をすることは簡単だけれど、私達は今まさに ここに生きている。未来のことは誰にも分からない。だからこそ過去の私を 私自身が否定してしまっては可哀想だと思った。私は私なりに、私という人間を生きてきたのだから。
14歳頃から薬物を乱用するようになった。いつも生活の中に緊張感があった。不眠症になって 寝付きが悪く 寝れても1~2時間毎に起きてしまう。自分が寝ているのか起きているのか 夢を見ているのか現実に居るのか、わからなかった。自分の無力さ、不細工な顔、馬鹿な頭、とにかく全てが煩わしかった。何をしていても、それがたとえば遊びでも、強迫観念のような、苦しい空気があった。薬物は そういった感覚を少し緩めてくれたし、自分を許してあげられるよう促してくれるみたいだった。
非行や犯罪、薬物乱用を繰り返す生活は18歳頃まで続いた。つるむ人が変わったり家庭環境が変わったりしても、どこにも属さないでいたいという気持ちは変わらなかったし、実際、あの頃の私はとても自由だった。もちろん自分の将来を考えて不安になるときはあったけれど、そういうときはいつも「不安な将来が実際に訪れる前に死ぬだろうから問題は無い」と自分を納得させた。正直、この感覚は今でもあって、たとえば「死こそ救済」と唱える人が居るが、私もそう思うことがある。生きているより、死ぬほうが、どう考えたって合理的だと思う。
私の学力と出席日数でも通える高校は、通信制高校くらいしか無かった。入学試験は面接のみで、中学のことや高校で頑張りたいことを聞かれた。猫背は直せなかったが、太ももの上で綺麗に手を重ねて、足を閉じて、口角を上げた。私は、言葉だけはスラスラ出てくる。どんな場面であろうと、思ってもいないようなことを雄弁に話すことが出来た。「夢はありますか」と聞かれたときだけ、「ありません」としか言うことができなかった。
13歳から18歳までの間に、何回も警察に補導や逮捕をされた。身元引受人として父親が迎えに来る度に、不思議な気持ちになった。その不思議な気持ちを形容する言葉を、私は今もまだ知らない。
18歳の2月、警察に逮捕された。
3ヶ月程度は同じ留置所の同じ部屋に居た。入浴は5日に1回、裁判所に行く日や取調べが無い日は何もすることがなくて、朝選んだ3冊の本を丁寧に読み込んだ。上下ピンクのスウェット1枚のみしか着ることが出来ず、寒くて、歯がガタガタ鳴った。看守に反抗したことは一度も無く、看守たちが「70番」と私を呼ぶ時の声は、他の囚人に向ける声と比べて少し優しい気がした。取り調べをする刑事にも反抗はしなかった。澤田という若い男性の刑事が私の担当を受け持っていて、「澤田」と呼び捨てにしたり部屋の気温が寒いとワガママを言ったりしたけれど、いつも笑って許してくれた。澤田は私をイジることが多くて、澤田の上司はいつも 私と澤田のことを「猫と猫の喧嘩みたいだ」と笑っていた。
父親との面会の直後に取調べがあった日は、涙を我慢できなくて 澤田の前で泣いてしまったのだが、バカにされるかと思っていたのに 澤田は私が泣き終わるまで何も言わなかった。泣き終えて ぐちゃぐちゃの顔で澤田の顔を見たとき、ようやく澤田は「寒くないか」とだけ聞いてきた。「寒い」と答えると笑って暖房を付けてくれた。
3ヶ月の留置所生活を終えて、次は鑑別所に移送された。鑑別所の先生たちは全員優しかった。
昼間は課題や面接があった。面接官の人に、自分が育ってきた環境や今までやってきた悪事や心情や価値観などを話す。こんな話はゴミのようにあるはずなのに、新鮮な反応をするので、腹が立った。リアクションを求めて話をしている訳ではなく、聞かれたから答えているだけだったから、不必要なものが目の前に置かれて邪魔だと感じた。
審判の日は入所してから約4週間後にある。その審判で、不処分なのか、保護観察になるのか、逆送になるのか、少年院になるのかが決まる。審判のときは、父親が同席した。父親の前で自分が行った犯罪行為を淡々と読み上げられ、それら全てに「間違いありません」と言わなければならなかった。父親が可哀想だと思った。少年院送致であることはほとんど前から分かっていたから、その決定を下されたときも、何も反応しなかった。父親の顔は見ることができなかった。今まで、毎日顔を合わせていた訳では無かったのに、これから約1年間会えないと思うと、やはり寂しく感じた。