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「cocoon」の記憶。
マームとジプシーという劇団の「cocoon」という作品を、昨日、観た。
今日マチ子さんの漫画「cocoon」を原作にした舞台。2013年8月に東京・池袋で上演され、そして今年、2年ぶりに再演された。
その2年前の初演で、私は「cocoon」の出演者のひとりだった。今回の再演ではスケジュールが合わなかったためオファーをお断りすることになってしまったけれど、そのおかげで昨日観客として観られたことは良かったと思う。
*
沖縄とか、ひめゆりとか、そんな言葉は一切出てこないけれど、それを容易に思い出せるような内容の、戦争の、兵士のお世話をする看護隊の、女学生たちの話。
2年前の舞台「cocoon」では、私はその女学校の先生の役だった。
昨日の舞台を観ながら私は、2年前のことをたくさんたくさん思い出した。
今そのことを、「cocoon」の記憶を、私が演じた先生の記憶を、ここに少し書こうと思う。
こういった文章を書くのは慣れていないのでうまく伝わるかわからないけれど。
書いてみる。
*
延々と繰り返される賑やかなお喋り、未来への夢や憧れ、些細なことに悩んだり迷ったり、そんな毎日が当たり前に許されていいはずの16才の女の子たちの学校生活。
それは昔だって今だってさほど変わらない風景だろう、と思う。
音楽の授業の終わり、真面目に歌わない生徒に山崎先生は説教する。
「そういう年頃なのかもしれないけど、でもちゃんと歌わないと。つらいとき糧になるのが歌だから。歌は裏切りませんよ、先生も何度歌に助けられたことか、、、」
けれど、そんな日々も徐々に変わっていく、自分たちの意思とは無関係に。なんのためだかよくわからない大人の都合で、少女たちの笑顔に満ちた日々は崩されていく。
突然の空襲や訓練で、だんだんとまともな授業はできなくなり、美術や体育の授業がなくなり、、、そして生徒のひとり、サトコが聞く。
「先生、音楽もなくなっちゃうって本当ですか?」
先生は、私は、こう言う
「んー、まだなんとも言えないんだけどね」
なくなるとわかっていても、そうとしか言えない。
*
戦況が悪化し、ついに女学生たちは負傷した兵隊の世話をするために働くことになる。
「お国のために、勝利の日まで頑張ってくるからね!」
けれど待ち構えていたのは、、信じたくない現実。
親と離れ、ガマ(防空壕)の中で、負傷した兵士のウジ虫を取るも、怒鳴られ、ノコギリで足を切断する手伝いをし、一日一回ピンポン玉ほどの大きさのおにぎり1個しか与えられず、敵の攻撃が止む束の間を狙って切断した腕や足を穴に捨てに行き、脳症患者の兵士に抱きつかれ怯え、友達が栄養失調になって目が見えなくなっても、運ばれてくる兵士がどんどん増えていっても、友達が死んでも、母の手の石鹸の匂いも思い出せないほどになっても、それでも、
それでもいつか自分たちが戦争に勝ち家に帰れると信じていた16才前後の少女たち。
生きるも死ぬもない、地獄のような世界で、
「でも、ガマの中にいれば安心」と、
「ここなら繭に守られているみたいだから」と、そう思っていられた女学生たち。
そんな日々がどのくらい続いただろう。
*
ある夜、突然先生は、先生役を演じた私は、生徒たちに言わなければいけなかった、
「軍より直接の命令です、動揺せず従ってください」
「本日をもって看護隊は解散します」
「各自で班をつくり夜明け前にこのガマを出るように」と。
更なる戦況の悪化を見込んだ軍が、ガマを基地として使うための退去命令だった。
一瞬で不安に包まれた少女たちの、一人一人の目を見ながら、私は言う、
「南の岬を目指して行きなさい、前線を抜ければ安全なはずです」
そして、
「誰かが途中で負傷しても、」
私はこの子たちに一体何を言ってるんだろう、と思いながらも、
「・・・残していきなさい」 と。
絶望を見抜かれぬよう、溢れる何かを必死にこらえて、言う、そう言うしかなかったから、
「ひとりでも多く生き残るんです」
「海へ、海へ向かって走りなさい」
生徒の誰ひとりだって死んで欲しくなんてなかった。けれど、このガマを追い出されたら、ひとりも死なないなんてそんなことが起こり得るなんて期待は1パーセントも持てないこともわかっていた。
私は一体なにを、、
感情なんか込めなくたって、泣くもんかと思っていたって、このセリフを言う時には涙がボロボロとこぼれた。
そしてその晩、空が白んでくるまで、みんな輪になって歌をうたった。
*
地獄のような、この国の状況について深く考えたり怒りをあらわにしたり訴えたり、そんな余裕なんてまるでなかった。
先生だって少女たちと同じように地獄の中で働かされて、先生だって少女たちと同じようにガマから追い出されたのだ。
そして私は生徒の手を取って海へ向かって走る。
走る、走る、走る、走る、ひたすら、走る。
敵に見つからないように、爆撃に当たらないように。
舞台の上には本物の砂がひかれていて、20人ほどの少女たち、そう俳優たちは、その砂の上をひたすら走った、そして叫んだ。
友達の名を何度も叫び、「早く!」「こっち!」「走って!」と叫び、
敵の銃弾が当たり負傷して足が動かなくなったエッちゃんは、仲間に「行って!」「先に行って!」と叫ぶ、
「私、もう頑張れない、だめな子で、お母さんごめんなさい、、」
そうしてエッちゃんは近くにあった大きな石で自分の頭をかち割って死んでしまった。
本物の汗と、本物の砂とにまみれ、足がもつれて転んでしまう人もいたし、私も実際転んだし、迫真の演技とかそんなんじゃない、必死だった、ただひたすら必死だった。
うまく言えないけれど、
必死に敵から逃げるとか、
必死に生きるとかじゃない、
もちろん、必死に演技するでもない、
みんな、必死に、走っていた。
走ることが生きることだった。
走ることが生きたいと思っていることだった。
走るのをやめるのは死を選ぶってことだった。
死にたくないんじゃない、生きたい、死んでたまるか、私は生き残るんだ、生きなくちゃいけない、生きるんだ、生き残るんだ、そういう熱で走っていたように思う。
*
けれど。
わずか数名、やっと海に辿り着くも、安全だと思っていた海にはすでに戦艦がひしめいていた。もうこの先に道はない。
女学生たちが集団自決する手榴弾の音が響いてくる岬の先で、先生は一人、ひしめく戦艦を見ていた。
怒りと悔しさと絶望と情けなさと悲しみと、、そういう類の感情がごちゃまぜになったものが私の全てを支配した。
でもそれは敵軍に向けられたものなのか、この国に向けられたものなのか、自分自身に向けられたものなのか、それもわからなかった。
あの子たちに私は先生らしいことを何か一つでもしてあげられたんだろうか、、
私たち大人は、こどもたちに一体なにを、なにを、、、
そして私は、岬に身を投げた。
*
これで、私の「cocoon」の記憶、山崎先生の記憶はおしまい。
劇場を一歩出れば、そこは池袋の街で、「cocoon」はただのお芝居で、ってことも当然わかってやっているし、
本番が終われば「お疲れさまー」なんて言って共演者と缶ビールを飲んだりもするし、
でも、2年たってもこんな風に、疲れるくらいに思い出せるってのは、そんな舞台の記憶はなかなかない。
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これを書いてたら、非常に疲れたけど、でも同時に、さあやろう、っていう何かが湧いてくる。
やっと立ち上がって、部屋の窓の外をみた。
今は、2015年8月15日 23:00過ぎ、窓から見えるいくつかの戸建ての家では、リビングであろう1階の窓や、寝室であろう2階の窓から、やわらかな明かりが漏れていて、
静かな夜風の中に、蝉の音や車の通る音が聞こえる。これが今だ。
今、だ。2015年だ。
戦争なんて想像でしか今の私は受け入れられないけど、
現実として受け入れざるを得なかった人たちが過去には、そう現在にもまだ、いて、
でも、
生きるんだ、って気持ち、が、
実際に戦争を体験して生き残った人たち相手に現代の若者が勝てるわけないじゃん、
みたいなことには、同意したくは、ない。
それが自分のこどもへ、
これから産まれる子らへ、
伝えていかなくちゃいけない、のでなく、
結局全部、伝わっちゃうんだと思うから。
今私が考えていること、
思っていること、
大事にしたいこと、
守りたいと思っていること、
変わっちゃいけないと思ってること、
変わるべきだと思っていること、
そして、時間がたつにつれて薄まっていく感情も想いも、
無関心も投げやりな態度も。
*
戦争という、こんなにも大それた出来事を扱った作品を目の当たりにしないと、私たちは命の尊さとか生きることの素晴らしさとかを感じられなくなっているのだろうか。
そうじゃない、と思いたい、私は。
*
最後になりましたが、
2013年に初演時に、この「cocoon」オーディションから千秋楽までの稽古場の日々を、原作者の漫画家今日マチ子さんが「稽古場日記」として「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載してくださいました。
http://www.1101.com/cocoon/
よかったら覗いてみてください。11回「音をつくる」の回に私と息子の絵もちょこっと描いてくださっています。
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