高橋源一郎『黙否録(一)』について       金原甫

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若き高橋源一郎が北大全共闘の同人誌『極北の思想』第3号(1970年12月25日発行)に小説を寄稿していることは、あまり知られていないのだろうか?
『文藝』2006年夏季号の高橋源一郎特集号に、灘高時代の生徒会誌『鬼火』に寄稿された論考「民主主義中の暴力」は所収されているが、1970年の小説「黙否録」は所収されておらず、言及もされていない。
その『文藝』に寄せられた自筆年譜を参考にすると、1969年の東大闘争で東大入試が中止となり、高橋源一郎は代わりに京大を受験して落ちて、横浜国大に入学する。
年譜には書いていないが、革共同全国委(中核派)に属していたようだ。11月に逮捕され、翌年1970年2月に起訴、8月まで東京拘置所に拘置されたとある。ゆえに、「黙否録」は釈放されたあとに書かれたのではないかと思われる。

なぜ高橋源一郎が北大全共闘の同人誌に寄稿しているかといえば、次のことによる。
『越境』という同人誌があり、その同人高橋においてはその『極北の思想』への客演的な、連帯志向的な寄稿があったように思われる。高橋の小説掲載分の次の頁に、『越境』同人誌の広告もある。明年6月に創刊号を準備しているとある。連絡先のひとつは横浜市南区のとあるアパートであり、高橋源一郎が当時そこに居住していたのだろう。
『越境』同人は、高橋と野木正英、俣野広司であり、みな、灘高校の同級生の友人関係になる。そのグループの中心人物であろう、竹信悦夫は参加していない。みな、東大入試中止の影響を受けていると思われる。野木はのちに新潮社の編集者として著名になるが、『文藝』高橋源一郎特集号に旧友として寄稿しており(「季節の上で」)、参考になることを書いている。
高橋源一郎が『極北の思想』誌上に名前があるのは、同人俣野広司が北大生だったからだ(中退)。そして北大全共闘の一員だったからである。私は2018年11月にこの俣野から一回だけだが、話を聞いている。

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