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閲微草堂筆記(408)墓中の硯
巻八 墓中の硯
族兄(一族の中の同年代で自分より年上の者)の次辰が言うことには、族祖(一族の祖父)である征君公は、諱(いみな)を炅といい、康熙年間の己未の年に博学鴻詞科(天子自らが題を課し、文章に優れたものを抜擢するもの)に推挙されていた。しかし彼は生まれながらに自由奔放な性格であり、遊覧の妨げになるのを嫌い、仮病を使って試験を受けなかった。
彼はかつて登州(現在の山東省煙台市と威海市にまたがる地域)まで行って蜃気楼を見、その後とある村塾でしばし休息をとった。
ふと見れば、机の上に古い端渓硯が一面ある。その背面には、狂草(草書の中でも最も字形が崩れて自由な書体)で十六文字が刻まれていた。
万木は蕭森として 路は古く山は深し
我は其の間に坐し 上堵吟を寫す
(生い茂る木々はどこかもの寂しく、路は古く山は深い。
私はその間に坐して上堵吟を書き写す。)
硯の側面には「惜哉此叟」の四文字が書かれており、その者の号であると思われた。
征君公が硯の由来を尋ねると、塾の講師は言った。
「村の南の林に、怨念を抱いて死んだ幽鬼がおりました。夜道を行く者がこれに出くわすと必ず病に罹りました。ある日のこと、村の衆はその幽鬼が出て来るのを待ち伏せ、そこの杖でこれを打ちのめしたのです。そしてある墓の場所まで追い詰めると、幽鬼はそこで姿を消しました。皆で掘り起こしてみたところ、墓の中からこの硯が出てきたというのです。そこで私は粟一斗とこれを交換したのです。」
按ずるに、『上堵吟』の作者は孟達(三国時代の軍人。一時劉備に仕えたが魏に下り、その後謀叛をおこした)である。これはきっと前朝の旧臣であったのが、一度は降伏するもその後謀叛を企て、ついには敗れて山野へ逃げ込みそのまま死したのだろう。
この者は生きている時ですら、すでに進退窮まっていたというのに、死してなお自らの姿を隠さなかったために墓を暴かれるという憂き目にあったのだ。
真に頑迷で霊験のない幽鬼である。