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閲微草堂筆記(443)虎石
巻十八 虎石
木蘭(清朝の皇族の狩場。現在の河北省承徳市と内モンゴル自治区の境。)で官木(朝廷で用いられる木材)を伐採する者たちが遥か遠く、向かいの山の上に数頭の虎を見た。
そこは険しく切り立った絶壁で、数里ほど迂回しなければたどり着くことはできなかった。そのため、彼らは虎を畏れず、虎もまた人を畏れなかった。
ところが、ふと見ると別隊の者たちが虎のいる場所に突っ込むようにして進んでいる。こちら側にいる皆は恐怖で戦慄し、足踏みをした。
しかし、別隊の者たちには虎が見えていないようで、虎にもまた人が見えていないようだった。
数日後、二つの隊が顔を合わせた折、話はそのことに及んだ。
別隊の者は言った。
「確かにその日は遠くにお前たちがいるのが見えたよ。遠くで騒いでいる声も聞こえたなぁ。だけども俺たちに見えていたのは大きな岩がいくつかだけで、虎は一頭も居なかったよ。」
この者たちは、虎に噛まれる禍を免れるという運命だったのだろう。
しかし運命がどのようにして虎を石に変えさせることができるというのか。これはきっと人の寿命を掌る者がいたに違いない。
しかし司命(寿命を掌る神)は空虚でいて実体もなく、冥漠としていて知覚がないものである。これがどうやって虎を石に変えることができるというのか。
したがって、これは天と鬼神によるものである。
天と鬼神は寿命を掌ることができるが、これを人々は「天はすなわち理である」、「鬼神は二気の良能である」と言う。
もしそうであるならば、理と気とは渾然一体となって伸縮しており、たまたまこうしたものに出くわすと、気性の荒い人食い虎も石となって聳え立つことになるのだろうか?
私には考えも及ばないことである。