閲微草堂筆記(400)天生墩
巻八 天生墩
嘉峪関(現在の甘粛省西北部。万里の長城の最西端)の外側には戈壁(ゴビ。満州語で砂漠のこと)があり、その広さは直径百二十里ほどで、すべて砂が堆積したものであり、土は一寸たりともなかった。
ただその砂漠の中には巨大な阜(おか)がひとつあり、名を天生墩といった。兵卒がこれを守っており、冬には氷を積み、夏には水を貯めて伝令の往来のために備えていた。
初め、威信公の岳鍾琪が西方に遠征した折、この天生墩のことを元は山であったのが砂が飛んできて埋もれ、わずかにその山頂が露出しているものだと思った。山であれば必ず水があるはずだとして、兵卒を遣ってこれを掘削させたが、数十丈掘り進んだところで、突如、鋤を持った兵たちがすべて下へと堕ちてしまった。穴の上にいた者たちが下を覗き込んで耳を澄ませると、雷鳴のような風の音が聞こえてきた。そこですぐに作業をやめた。その穴は今、すでに崩れてしまっている。私が辺境の地を離れる時には、まだうっすらとその跡らしきものが見えた。
按ずるに、仏教には地水風火穴の説というものがある。
私は、陝西のとある者が改葬しようとして墓穴を開くと、中の棺がすでに半分焼き焦げていたという話を聞いた。千総(官名)の茹大業は直にこれを見たそうだが、いずれも地中の火に焼かれたようだった。
また、献県で劉氏の母親が亡くなった時、合葬しようとして墓穴を開くと、その父の棺がなくなっていた。痕跡を辿ると、棺は七、八歩離れた場所にあり、さかさまになって地面に埋まっていた。亡き姚安公はこれを目の当たりにしたという。
また、参知(官名)の彭芸楣が語るには、彼の郷里で改葬しようとした者がおり、棺の中を見ると、中の骨がすべて隅の一か所に集まっていて、まるで薪を積んだかのようになっていたという。これはそもそも、地中の風が吹いている場所だったのだろう。
これらの話から、大気は地中を運行しており、陰の気は水に化し、陽の気は風と火に化すということが分かる。
水と土は同じ陰の類に属し、ともに一つの気から生じているため、どこの地中にも水があるのだ。
陽の気は地中では陰の気に包まれていて、その勢いが微かなものは、物を焼いたり移動する性質が陰の気によって無力化してしまう。
その勢いがわずかに強いものは、凝集して硫黄や丹砂、砒石の類を生成する。
その勢いがもっとも強いものは、鬱積して火や風を生む。しかしこれは常に一か所に集まっているため、どこでも見られるというものではない。