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閲微草堂筆記(392)掌中の粟 

巻十一 掌中の粟
 とある郎官の船が衛河で転覆し、妾が一人、溺れ死んだ。
 その屍を引き揚げたところ、両の掌(てのひら)にそれぞれ粟(あわ)がひと掬い、握られていた。
 皆はこれを不思議がった。

 すると、河畔に住む叟(おきな)の一人が言った。

「これは別に怪しむに足りません。水に沈んだ者には、上が暗く、下が明るく見えるものでございます。驚き慌てると、人は必ず明るい方から出て行こうとして、手で土を掻くのです。それゆえ、溺死した人の検死をする際は、十本の指の爪の間に泥が詰まっているかいないかで、その人が生きたまま水に投げ込まれたのか、死んでから棄てられたのかを見分けるのです。これは先に粟を運んでいた船が水底に沈み、粟がまだ腐っていなかったために、このように掌いっぱいに粟を握っているのでございます。」

 この論は、微に入り細を穿っているものといえよう。
 ただ、上が暗く、下が明るく見える理由までは言及することができていない。

 按張衡の『霊憲』には、「太陽はたとえると火のようである。月はたとえると水のようである。火はすなわち、外に向かって光を発し、水はすなわち、光を内側に含んでいるのだ。」とある。

 さらに、劉邵の『人物志』には、「火や太陽は外に向かって照り、その内側を見ることはできない。金属や水は内側に光をとどめ、外に向かって光を発しない。したがって、水中で上が暗く下が明るく見えるのは、もとより水の持つ性質なのである。」とある。

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