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閲微草堂筆記(470)乾隆甲辰の火事

巻十八 乾隆甲辰の火事
 乾隆年間の甲辰の年(1784年)、済南(現在の山東省済南市)では火事が多かった。

 四月の末、南門の内側の西横街でまた火が出て、東から西へと燃え移っていった。小路は狭く、風の勢いが強かったために路の両脇にあるものは全て激しい炎に包まれた。

 張某という者がおり、彼の三間の草屋は小路の北側にあった。火がそこまで及んでいなかった時には、まだ妻子を連れて逃げ出すことができたはずだった。しかし母親の棺があったため、張某はなんとかこれを違う場所に移そうと画策した。もはや避難することができない状況になると、夫婦と息子、娘の四人は棺に縋り付いて泣き叫び、その身を殉ずる誓いを立てた。

 時に、参将の撫標は軍を指揮して消火にあたっていたが、かすかな泣き声を聞きつけた。そこで自身の軍に命じて裏手の建物の屋根に登らせ、声を頼りにその場所に向かわせた。綆(つるべなわ。井戸の釣瓶につける縄。)を垂らして引き揚げようとしたが、張夫婦はともに叫んで言った。

「母の棺がここにあるのです!どうして見捨てることができましょう!」

 その息子や娘たちもまた叫んで言った。

「父母が父母のために殉ずるというのです!私たちも父母のために殉ずるべきではありませんか!」

 そして綆を登ろうとはしなかった。
 にわかに火が及び、標の軍は屋根を飛び越えて避け、間一髪で逃れることができた。しかし、張の家はすべて灰燼に帰したと思われ、遥か遠くを眺めて嘆息するしかなかった。

 鎮火してから様子を見に行くと、張某の家はどっしりと構えてただ一軒のみ残っていた。
 そもそも、突風が急に巻き起こり、火は北に向きを変えて張の家をぐるりと回った後、隣の質屋を焼いてまた西へと戻ったのだった。

 鬼神の加護無くして、どうしてこのようなことがあり得るだろうか。

 この話は癸丑の年(1793年)の七月、徳州の山長であった張慶源君が記録して私に寄せてくれた。
 これは私が「灤陽消夏録」に載せた寡婦の話(「乾隆庚子火事」)と似通っているが、夫婦と息子、娘たちが心を一つにして願ったもので、最も得難いものであろう。

 そもそも、「二人心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。」というが、まして六人であればなおさらである。
 貧しい家の娘が一声叫ぶだけでも雷霆が落ちる。まして六人全員がまことの孝行者であるならば、なおさらである。

 誠意が極まり、三霊(天、地、人)を感動させれば、寿命が定められているとはいえ、挽回せざるを得ないのである。「人定勝天(人の強い意志は運命にも勝る)」というが、これもまたその一つである。
 事は異聞であるが、常の理といってもいいだろう。

 私は張慶源君とは面識はないが、張君は人づてに文を託し、この話を私に伝えようと努めてくれた。そこから張君の趣向を知ることができよう。よって、字句を添削して改め、この一編に収めることにした。

 また、太常(官名)の呂含暉が言うことには、都のとある民家で、棺を安置していたところ火事に遭遇した。棺を運び出せる路はなく、担ぎ上げて助けようとする人もいなかった。
 そこで家中の男女で、鍬などの農具を手に、力を合わせて部屋に穴を掘ると、その中に棺を置いてその上を土で覆った。
 穴を覆うとすぐに火が及んだ。建物は焼けたが、棺は穴の中にあって無事だった。これは、火が上へと向かう性質があるためである。
 これは臨機応変な機智といえる。

 張君の孝行の話にちなんで、附して記録しておくことにする。

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