月刊コグマ#2 feat.幼なじみ
また2月がやって来た。この季節から4月の頭にかけてだんだんと空気は暖まっていき、たくさんの出会いと別れの準備をしているようにも感じる。
そういえば去年の2月号から「2月は梅見月という」という学びを得たのだが、ふと外に出て歩いているとちらほらと梅を見かけることが多くなってきた。
心機一転とは別の雰囲気も多く感じるのだが、その雰囲気もとても暖かくてもっと作業を頑張ろうと僕を奮い立たせてくれる。
その割にはグダグダとし過ぎてしまった気もするがそれはまぁ大丈夫だろう。
気づくと数週間もあっという間に溶けて、まだ終わっていない作業に頭を抱えることは露知らず、気の向くままに生活をしていた自分を責めたい。
少しだけ。
…
少しだけ。
ハピバ!
2月14日。
色々な場所で女の子から男の子へとチョコレートが渡される。最近では男の子が渡す場合も多くあるらしく、なんなら自分も小学校の頃は友人などに配った記憶がある。
今回はそんなバレンタインとチョコレートのお話をしようと思う。
これは去年の2月のこと。
まずはこのツイートを見て欲しい。
シャニマスでチョコアイドルとして活躍している園田智代子が森永さんのDARSとコラボをすると言ったのだ。
このコラボではDARSのレシート三枚で一口、景品の応募が出来たのだが、自分も応募してみようと始まった翌々日から近くのコンビニでDARSを買い始めた。
まず1日目。いつもより少し早い時間に家を出てコンビニに寄った。コンビニには3種類のダースが置いてある。こういうときでないとチョコレートを食べる機会もないので、まずは王道のミルクを買ってみる。
休み時間。赤いDARSの箱を開けるとチョコの甘い匂いがする。1箱に12粒。まずは1つ食べてみようと口にいれる。
すぐに溶けてしまった。ミルクのクリーミー感と鼻から抜ける香りが不思議と心地よい。もう1つもう1つと手が伸びる。
2日もすればミルクの箱は無くなり、またコンビニへと足を運んだ。
今回はダークミルクを買ってみる。
ほんのりとした苦味と口に広がるミルクの味がとてもマッチしていた。
学校で息抜きがてらチョコレートを食べることは高校1年でもやってなかったので、とてもそれが新鮮で不思議と優越感を感じる。
次の週になり、再びコンビニに寄った。
今回はもちろん白いダース!と思っていたのだが、予想以上にダークミルクが美味しかったのでまたあれが食べたいという気持ちも芽生えていた。
そして自分は迷った末にダークミルクを手にとってレジに並んだ。
学校を終え家に戻ると、机に置いてあるレシートと今朝もらったレシートを並べて写真に撮る。
一口だけだが当たってくれたら嬉しいという思いを込めて。
そして、森永のキャンペーンページに送った。
当日の2月14日にはやさしい人に恵まれていたため、同級生からもらうことが出来たのだが当選の通知は来なかった。
まぁボイスメッセージだけでも貰えただけありがたかったと思うべきか、担当がこのような活躍の場を貰えたことを喜ぶべきか。
それは分からないが、色んな意味で充実した月になっていた気がする。
時間は戻って現在。
同級生などに会う予定も無かったので今年は一つとして貰えることは無いが、きっと同じような人はたくさんいるので僕は寂しくない。
ハッピーバレンタインは略すとハピバ。
つまり、ハッピーバースデーと一緒なのだから楽しく過ごそうと思う。
貰えたみなさん、おめでとうございます。
そして普段通りのみなさん、
ハッピーバレンタイン!
Dive Into Deep
この期間中に何処かに行きたいと考えていた。具体的には水族館か動物園。そのどちらかに。
卒業式の前日までずっと家にこもっているわけにもいかない。
しかし誰とどこに行く予定も立てていないので、誰かが家の外へ連れ出してくれる訳もなく。
ある晴れた日、急に「よし、水族館に行こう」となり身支度を済ませて自分から外に踏み出した。
沼津駅を降りて歩くこと30分。周りの魚屋などに囲まれていたため少し迷った後に見つけた。
ここが深海水族館。
入るとすぐに、深海に棲んでいる魚たちが顔を出す。普段の水族館では見ないような魚も多く存在し、とても興奮をした。
カサゴやクエ。
そして、名前も忘れた
色々とみていくと、一つ何もいない水槽を見つけた。しかし、札にはカエルアンコウと書いてある。再び水槽の中を覗いてみるも見つけられない。
そのまま1~2分ほど水槽の中を眺めていると少し異様な雰囲気の岩を見つけた。
なぜか目があっている気がする。
うわっいる。と思わず呟いてしまった。
しかし、よくよく見るとどこか可愛い気がする。これが愛着というのだろうか。
2階に上がると、古代の魚シーラカンスのことについて多く取り上げられたコーナーに着いた。
ここでは冷凍(たぶん)のシーラカンスが飾られていたり、シーラカンスはどんなものを食べていたのかを知るために、内臓器官があったり。
水族館で働いている人が、シーラカンスについての解説をしているイベントがあり、そこで数分聴いていたのだが、ここでいちばん驚いたのはシーラカンスには脊椎骨が無いということだ。
じゃあどのように体に情報の伝達をしていたのか、という疑問が思い浮かび話を聴いていくと、脊椎ではなく脊柱という部分がありそこで脊椎の役割を果たしているらしい。
その他にも話していたのだが、そのイベントでこれだけは覚えて帰って欲しいと言われたことがある。
それは、シーラカンスは脳ミソが小さいということ。これはシーラカンスだけではなく古代の生き物である恐竜たちにも当てはまることなのでとても納得することが出来た。
そうして2階も見終わり、水族館を出ると日が射していた。ずっと暗いところにいたので久しぶりに日を浴びた感じがする。
腕を伸ばしたくなり、大きく伸びをした。
深海魚も上へ向かうとこんな気持ちになるのだろうか。そんなことはないだろうが、そう考えると少しだけ深海魚たちに親近感が湧いた。
コグマ! コグマ!
今、持っているものの中で一番長い付き合いのものは何だろうと思い考えていると一つ、コグマのぬいぐるみを思い出した。
このコグマのぬいぐるみは、自分のアカウントには必ずアイコン画像として入れている
なのだが、コイツと出会ったのは保育園時代、つまり約12年前の話に遡る。
卒園式の時に親がたくさんのものを先生から貰っているのを見て、子供ながらに大変そうだと他人事のように見ていたあの紙袋の中にアイツはいたのだ。
卒園祝いに保育園近くにあったレストランへ向かうと、今思えば初恋だったであろう女の子とその家族を見かけた。さようならとありがとうを伝えて自分の席に着いたことを覚えている。
お祝いのレストランから帰ってきて、その紙袋の中を漁っていると袋に包まれたアイツを見つけた。
アイツの体の中は洗濯バサミで出来ているので、体の横を摘まめば腕が開く。
小学校に入学すると部屋には勉強をするために、デスクライトなどが置かれたのだが、それを利用してそのライトの部分に掴まっているような様子でアイツを飾っていた。
小学校に入学して幾年か経った後、そういえばと思い保育園時代のものを保管している引き出しを開けてみると目立ったものが一つ入っていた。
それは白と黒のパンダのぬいぐるみで、見た目はクマの少しだけシュッとしたような姿だった。
もしやと思いパンダの体の横を摘まんでみる。
すると、ソイツも腕が開いた。
そこから自分の机の上には二人ぬいぐるみがついて来るようになった。
そこからまた数年経って「タンタンの冒険」に出てくる犬のスノーウィのぬいぐるみ(名前はジャック)が出てきて再び机の上が賑やかになった。
その後新しいメンツは増えることなかったが、二人はずっと机の上に掴まって、一人は机のすぐ隣で自分が勉強をする姿を見てきたのだろう。
もし、トイ・ストーリーのようにおもちゃ達が動き出すのなら、彼らは何を思っているのだろうか。デスクライトの上や隣から僕の字を見下ろして、何を感じていたのだろうか。
それは知るよしもないが、僕のことを誇らしげに思ってくれていたら嬉しい。
僕は僕で、この出会った思い出を風化させることをするつもりはない。そして今このようにアイコンとして彼らは大活躍なのでこれからももっと使っていけたらと思う。
親から子供が巣立つように、いつかは彼らから離れる日が来るのかもしれないが、それまでは大切に扱っていきたい。
だから、君たちもこれからも僕がコケないように見守っていて欲しい。
猫のような暮らしを
とても暇だ。同年代の頑張っている奴らもいるなかでこんなことを言うのはずるい話だが、最近はとても暇である。
自由というのは何にも縛られるものが無く自分の過ごしたい通りに過ごすことの出来る状況を言うような気がする。
ならば今の自分はどうだと自分自身に問いかけてみるが、暇ではあるが自由では無いと返ってくる。では自由とは何なのだろうか。
まず、先ほど述べたこの「過ごしたい通りに過ごすことの出来る」ということに焦点を当てて対比してみることにしよう。
自分の現状はまさにナマケモノ。とくにやりたいこともなく、やるべきことも(一応)終わらせ暇を持て余している。
昼になりご飯を食べて歯磨きをして部屋に戻る。夜になりご飯を食べて歯磨きをして風呂に入って布団に横たわる。
そんな毎日。外に出ればすぐに疲れてしまうのも納得のだらだら感。
では次に自由とはどんなものなのか。
自由の象徴として鳩…ではなく猫を上げてみることにしよう。
アイツらを見ていると、今の自分のように部屋でうだうだとしているわけではなく、何か好奇心を背負って行動しているように感じる。
どんなことにも楽しさを追及しているようで少し羨ましい。
1人で散歩に出ることも出来る。その散歩に行った先で別の猫に出会い、何かで遊んで過ごしているかもしれない。
気ままに動いて、そこで楽しみを見つけて、それに馴染んで。家に帰って飼い主に甘えて。
そんな生活に不思議と尊敬すら感じる。
猫といえば、Dive Into Deepで話した水族館に向かう道でこんなことがあった。
地味に広い公園の横をGoogle Mapさんが通り道として案内していたのでそれに従って歩いていた時のこと。
前から三人ほどのおじいさんのグループが歩いてきていた。こんな平日に出歩く人はめったにいないので、高齢の方々が歩く姿を見るのは至極普通のこと。なのでそこまで注目していなかったのだが、そのおじいさんたちの足元を先行して歩いている白い毛玉が一匹、ちょこちょこと視界に入ってきた。
リードがついているわけでもないし首輪がついているわけでもない。けれど、そのグループの1人のおじいさんに寄り添うように前を歩いている姿を見てとてもほっこりとしたのを覚えている。
それを見ると、自由というのは信頼できる誰かがいてこそ生まれるのかもしれないと感じた。
ならば野良猫は自由では無いのかというとそれはまた別の話だろう。
彼らは自分自身を信頼しているように感じるからだ。
ここまでを総括すると、
信頼できる誰かがいれば暇は自由に繋がるらしい。そして、信頼する人は誰でも良いのだ。
何ならそれは自分だって。
何もないモノクロの世の中、地獄みたいな喧騒の世の中。けれど、猫のような暮らしを取り戻すことが出来たなら、自由を手にすることも可能なのではないか。
ならば、ひとまず自分は暇から自由にするために信頼できる人を増やしていこうと思う。
目指せ、猫化。
feat.幼なじみ
自分に、この人だ!という幼なじみがいないことに最近気がついた。
というのも、保育園3年間、小学校6年間、中学校3年間、高校3年間その全てを終える今、ずっと関係が続いている人というのがいないような気がするのだ。
よく青春漫画の中で幼なじみというのはとても重要な役割を担っている。それはライバルであったり心置きなく話せる親友であったり恋仲であったり。そんな人たちだろう。
自分が愛知県にいたころ、中学が終わるまでの12年間は一応幼なじみはいたが正直な話そこまで大きな関り合いもなかったと思う。
そもそもの話幼なじみの定義が曖昧な気がする。
自分にとって幼なじみというのは保育園時代から続いている人間関係のことを指しているのだが、小学校からの関係を指しているものもあるのでそもそも関係として難しいと感じる。
なので今回は保育園時代の友人たちにスポットライトを当ててみようと思う。
自分の覚えている幼なじみに当たる友人は2人。
1人はスポーツ万能で小学校の頃から野球チームに入っており、同じソフトボール部だった時は彼がいれば勝利は間違いなしというようなとても優れた選手だった。
彼は彼でとてもツンデレでぶっきらぼうではあるのだけど、人と関わりたいからこそ出てしまう行動だと感じることが多々あり、その様子を見ていて微笑ましかった。
小学校5年生だったか、急に彼から映画を観に行かないかと誘われたことがある。同じ部活ではあるもののいわゆる暗黙の格差があり、学校生活内ではあまりたくさん話すことが出来ていなかったのでとても嬉しかった。
中学校では住んでいる地域の関係で別々に離れてしまったのでその後、彼の動向を自分は知らない。
もう1人は女の子で小学校の頃から吹奏楽部に入っており、彼女は確かチューバを担当していたはずだ。
小学校は2クラスしかなく、その子とは親同士が仲良かったのでそのまま彼女とも多くの話をしていたことを覚えている。
また、彼女には弟がおり自分の弟が彼にお世話になったこともあるので少し恩があり頭が上がらない。
中学で自分は吹奏楽部に入り、チューバを担当するようになる。
彼女はユーフォニウムを担当することになるのだが、そこで初めて彼女がもともとはチューバを吹いていたのを知った。
そこからは彼女をとても慕うようになり、分からないことがあるとよく相談をして、意見を交換しあうなど、たくさん関わってきた。
しかし、高校生になり静岡で過ごすようになったので、引っ越し前に彼女の連絡先を聞くのを忘れていたため連絡を取ることが出来ず、そこから彼女の動向を知ることは出来ない。
このように中学までは続いていた関係も高校に入ってからは全て途切れてしまったので、自分の中の「幼なじみ」という言葉に相応しい人はいないように感じるのだ。
今、彼らに会って当時のように仲良く話せるのかと聞かれると想像は出来ないがぎこちなくなってしまうのではないかという気がする。
けれど、心の奥底ではまた会いたいと思っている自分もいるので、ふるさとに帰るつもりはさらさら無いが(えぇ!?)再び会えたなら笑顔で。
これは幼なじみの彼女らに限らず、もう会えないふるさとの友人たちもこれから別れる静岡の友人たちにも通じること。
そしてこれからも自分は思い出を出しに、これを読んでいる君をフィーチャーしてこの月刊コグマを綴っていくとしよう。
まとめ:はるべと咲くや
冒頭でも話したとおり、歩いていると綺麗に紅く白く咲いた梅の花をよく見かけるようになった。
以前まではこの時期、ずっと学校やら部活やらで同じ道しか通っていなかったので、通り道にある家から伸びている梅の木を歩きながらに眺めていたのだが、今月は遠くまで歩いて行ったので多くの春の兆しを見ることが出来た。
Dive Into Deep で深海魚を見た帰り道、一本大きな梅の木を発見した。
綺麗な薄桃色が周りの緑と春らしくなった冬空の元で映えている。その光景がどこか暖かく、少し寂しげな雰囲気を醸し出しているようにも感じる。
昔の和歌にこのようなものがある。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今をはるべと 咲くやこの花
現代語訳すると、難波津に花が咲いた。冬の間はこもっていたが今はやっと春になったので梅の花が咲きました。という訳になるらしいのだが、この歌がこの時期にとても合っていて、聞いていて少し親近感が湧く。
出会いがあれば別れがあるのは分かっている。
今までは出会いを求める側だったのだが、今年は別れを惜しむ側になってしまった。
新しいところへ向かうとなるとやはり浮かぶ心配は、大学生活が上手く行くのかということなのだが改めて考えてみると高校に入学するときもこんなことを考えていた気がする。
ならば、きっと大丈夫。高校ではエンジンのかけ方を少し間違えてしまった気もするが、それを礎にこれからは間違えないようにしていけば良い。
まだまだこんなガキが言うのもなんだが、自分達はまだ若いのだからたくさん経験してたくさん失敗してたくさん修正していく。それをすることが出来るだろう。
失敗の度合いがいきすぎてしまうと、最近の迷惑なZ世代の事案に含まれてしまうので流石にそこまではいかないように気を付けなくてはいけないが。
手を伸ばすことを忘れないように。いつのときかこの月刊でも書いた「傷つく覚悟」を自分は大切に生きていきたい。
そのためには、フラれることを恐れずに好きな子に告白をするとかそこらへんをしっかりとしていかなくては。
いつまでもうだうだしていては仕方がない。
そろそろベッドの上から降りて明日の支度をしなくては。
それでは次は桜の咲くときに。
笑顔で会いましょう。