令和喜多みな実・野村尚平 写真小説『さくら』
何だってこうも頭ん中でがらんがらんと音が鳴るのか。私のは空洞が、隙間が、 とにかく大きいから頭蓋骨と脳が擦れて鳴っているに違いない。
いや、脳ががらんがらんと鳴るのだろうか。固くないのに。柔らかいのに。
「どう思う、先生」
「その音は僕には聞こえないし、それはきっと理科や科学だろう。理系の範疇だ」
こういう返事をする人なのだ先生は。とにかく難しい顔をして、暑かろうが寒 かろうが捲った長袖のシャツは皺が入って今日も情けない。もっと情けないのは こうやって保健室でしょっちゅう休んでいる。だから好きになったんだ。
チャイムが鳴った。一回目からを数えていなかったのでこれが始まりか終わり か分からない。先生が深くため息をついたので、きっと終わりで次に始まるんだ ろう。いや、始まってしまった事に対するため息かもしれない。
「お前は行かないのか」
「何処へ」
意地悪で言ったんじゃない。ただ本当に私は摘んで話されると分からなくなる。
気が向いたら来いだなんて言って保健室を去った。
廊下に出てみると、見慣れない顔の生徒が友達と購買部へ向かって競走している。下級生は箸が転んでも可笑しいんだろうな。箸が転んだくらいでは笑わない私は彼らより随分とお姉さんかもしれない。
教室のドアを開ける。分かってはいたが誰も私の顔を見ないし席だって無いんだ。つまらない、本当につまらない。変わらない、いつまで経っても変わらない。
またチャイムが鳴るとすぐに先生が来た。私と目が合うと後ろの方を指さした。一つだけ余った机がある。そこに座るのが嫌だった。押しピンが転がっているかもしれないし、引き出しに入れておいた教科書はきっと没収されている。運良くあったとしても読むに耐えないほど濡れているか。
先生がどんな反応をするか見たくて、教室の後ろにある背の低いロッカーに腰掛けた。足をぶらぶらと揺らしながら授業を受ける。他の見てみぬふりをする大人とは違う。先生は15日と書かれた黒板の日付を覗いてチョークの手を止める。 出席番号で当てようとしているのが分かったが私は黒板の問題が分からなかった。
すると他の人がすらすらと答えた。きっとあいつは5番か25番か、それ以外の数字なのにきっとふざけたのだ。回答を奪われた事も、当てられたところで答えられなかっただろう事も悔しかった。
昔は一日が長く感じた。途方もなく、家を出るのが億劫だった。終わりが来ないと知っていたからだ。
国語の授業だった。小さな声で頭を掻きながら一癖も二癖もある字を埋めていく。こちらが騒がしくしているのもお構いなしに話し続けるのを見て、この人も 同じなんだと思った。一日が途方もなく長く感じて、早く終わらせたくて仕方が ないのだと。どうにか聞き取れた一文に誤りがある事を告げると、深い眉上の皺 がより一層濃くなった。分厚いセルロイドの眼鏡が何度も手元の資料と黒板を行き来する。ふっと顔を上げて笑いながら
「すまん」
と言った。さっきまでとは違うほんの少し大きな、張りのある声だった。
分からない問題は飛ばしなさい。何度も言われているはずのそれが私には出来ない。放課後までその日に出された問題を答えられないでいた。そこに加えて他の者の宿題が重なる。西日がいつの間にか少し暗くなるのを確認して下校しようとすると、決まって先生は教室にやってくる。
「もう出ます」
「好きに使えばいい」
そう言ってまた険しい顔をして答案用紙の採点を始める。私の席と先生の教卓は随分と距離があった。そこには幾つもの机が隔たりとなって、今日もあなたに 手が届かない。
ねぇ、先生。先生に恋人はいますか。もしいらっしゃるなら、どんな方ですか。 私と違って普通の人ですか。
もしいらっしゃらないなら、どんな方が好きですか。私では駄目ですか。答えてくださらないのは、私が子供のままだからでしょうか。私が大人になったら、 先生は私を見てくれますか。
いつしかまたゆっくりと日が落ちていた。それに先生も気付いて、帰り支度を始める。鞄に筆記用具を詰め込んで大きな欠伸をしてドアに向かう。
ふと歩みを止めて振り返り、私と目が合った。最初にお会いした時と同じような優しい顔で、先生は笑った。
返事をもらえた気になった私は、先生の後をついて歩く。ご近所さんで、何度かお会いしましたね。いつも缶コーヒーを買ってくれましたね。暑い日に飲むホットのお話、寒い日に飲むアイスのお話が好きでした。
先生、ねぇ先生。もうご自分を責めないでください。誰も悪くありません。あの日に頭が痛いって話したのも、先生だから言ったんです。あのがらんがらんと鳴るのはきっと先生を呼ぶ大きな鈴だったんです。先生はヒーローですから。本当は心配して、いつも様子を見に飛んで来てくださるのが嬉しかった。でも心配をかけるのが嫌で、大した事ないって診てもらわなかった私が悪いんです。
先生、ねぇ先生。でも返事がないと、一人で話している私が馬鹿みたいです。
「さくら」
「はい」
「今年も綺麗だ」
「来年も、きっと」
忘れた頃に先生は、私の名前を呼ぶ。
■令和喜多みな実プロフィール
野村尚平(右)、河野良祐(左)のコンビ。
2008年結成。野村の特技はギター/ベース。河野の特技はボイスパーカッション。
2019年 MBS「オールザッツ漫才2019」優勝
令和喜多みな実INFO
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著者/ 令和喜多みな実・野村尚平
画像提供/一般の方から
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