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善意/2万円

この前、「なんでもいいから2万円くらい募金したい!」と思うことがあった。というのも先日、アイドルのライブの終了後に、近くの席のお兄さんが俺の推しメンのサインボールをくれたのである。ライブ中に偶然キャッチしたサインボールを、俺が首に巻いていた推しメンタオルを見て渡してくれたのだと思う。ちなみに、サインボールが該当のオタクに渡るかどうかは完全にランダムな中で、俺が推しのサインボールを手にしたことは率直にいって「激アツ」である。
お兄さんはボールを渡してすぐに自席に戻っていった。俺のカバンにはお礼にあげられるものなど何もなく、驚きでまともにお礼を言えたかさえ曖昧だった。お兄さんに何も返せないのならせめて世の中に向けて良い行いを、と考えた結論の一つが「募金/2万円」であった。

家に帰って、インターネットで募金先を調べてみる。ここで当たり前のことに気づいた。募金というのは困っている人にダイレクトに・平等に渡るわけではない。お金の使い道は直接の募金先の組織の意向によって決められる。そして、俺が調べた限りでは俺の意に沿う募金先は無かった。というか、満足のいく説明をしてくれている募金先がなかった。2万円募金して、自分が本当に応援したい人へはいくら届くのだろうか。

カタログギフトに似ているなと思った。カタログギフトは、10000円払っても相手に届く頃には3000円くらいの価値になっている。決してカタログギフト業者を非難しているわけではない。便利だし、初めて知った時には何て聡明なサービスなんだろうと思った。業者が受け取った差し引き7000円には、経費と、自分でプレゼントを選んだ場合の「なんだこれいらねえよバカ」と思われるリスクを肩代わりしてくれる費用が含まれている。だけど、そのリスクを負うこと自体が俺が誰かに渡したかった「善意」なのではないかと思う。
募金も、選択のリスクを誰かに委託する過程で俺が一番渡したい善意はすり減っていってしまうと感じた。俺の財布の中身を減らせば善意を放出したという事実は残るが、それは実態のない行動に思えてしまった。「選択」の部分を自分ですることができないのは自分の至らぬ点ではある。
思えば、ライブが終演してからお兄さんがサインボールを渡してくれるまでに10分ほど時間が空いていた。「え、別にいらないです」などと言われるリスクを、少しの時間と善意をかけて越えてきてくれたのだと思う。
結局、募金という行為は、善意の伝導率が低いなと思ってやめてしまった。

ここで思い起こすと、自分もライブ前に善意を渡していた。トイレの行列に並んでいたら、後から来たオタクが迷っていたので「こっちは個室の列なんで小さい方は並ばずに入って大丈夫ですよ」と教えてあげた。俺が貰った善意にはまだ及ばないが、こういう小さなものを積み重ねるのが唯一の正解なのかもしれない。

そういえば、少し前にこんなことがあった。いつも行く温浴施設で珍しくサウナに入ってみたら、隣の眼鏡のおじさんが、お尻に敷くマットが風呂の入り口にあるから使うといいよと教えてくれた。紛れもない善意に感動して、おじさんより長くサウナにいることで善意に応えようと張り切って15分ほどサウナに滞在した。
だが、サウナを出ると様子がおかしい。湯気も無いはずなのにずっと視界がぼやけている。無知なので知らなかったが、普通の眼鏡をかけてサウナに入ると、熱でコーティングが溶けて眼鏡が使い物にならなくなるらしい。おじさんの眼鏡はサウナ用のものだったのだろう。俺の眼鏡は溶けた。おじさんは、尻マットのことは教えてくれたが、眼鏡のことは教えてくれなかった。
おい、半端なとこだけ教えてんじゃねえぞコラと、俺は思った。

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