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冬至を迎えて
無事キッチンのDIYが完了して、翌日。
今日は、スピ系の一部で「ゲートが完全に閉まる」とされる、冬至だ。
いずれにせよスピリチュアルというのは、目には見えないものごと、いわゆる“感じる”ことでしか受け取ることのできない事象についての話なので。
五感に限定してつくられている“言葉”を使っての表現はたいへん難しく、どうにか伝わるようにと、比喩や抽象を駆使する以外にない。
この“ゲート”という表現ももちろん例外ではないので、肌感覚に合って受け取りやすい人と、そうでない人がいて当然。
その前提で、これはあくまで私の受け止めだけれど…。
私の目にはこの世界、だいぶ二極化が進んできているように見える。
つまり信じているものにだいぶ開きが出てきて、それを通して見ている“現実”も当然、大きく変わってきている。
そして、その開きはこれから、どんどん大きくなってゆくことになる。
なぜなら、常識という“メガネ”が変わっているだけでなく、“前提”をも変わってしまっているからだ。
というのも、一方は「“現実”は外的要因によってつくられており、自分ひとりがどうにかできるものではない」という前提で自分や世界をとらえており。
もう一方は「私が見ているこの“現実”は私自身がつくっており、その中に登場する他者のつくる“現実”とは、相互に影響を及ぼし合っている」という前提で生きている。
つまり“現実”なるものに対し、客体と主体、真反対の立ち位置を取っているということだ。
だから当然、同じものを見たとしても、とらえ方がまるで違ってくる。
あたかも、まったく別の“現実”を見たかのように…。
それがすなわち「見ている世界が違う」ということではないかと、私は思う。
フォーカスしているものが違えば、同時に目にしたはずの風景も、まったく違ったものになり得る。
受け止めが180°違えば当然、話だって合わない。
片方の立ち位置に立てば、もう片方はまったく見えない、想像すらできない。
だから、もう片方の立ち位置へとジャンプするのは、とてつもなく困難になる。
“ゲート”という比喩は、このことを指しているのではないか。
まぁ、もちろんこれは、私なりの解釈ではあるけれど。