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自由でいる

そうか、私「ガマンして受け入れる」ってことをずっとやってきたんだな。
まぁ、子ども時代はそうせざるを得なかったんだけど、大人になってもずーーっとそれ続けてきた。
というのもねぇ、サディズムに育てられたから、威圧的に迫られると「仕方ない」ってあきらめるクセがついてた。
それ以外、選択肢がないって思い込んでたんですよねぇ。
でも、いまはもう、大人になってるわけだから。
威圧的な人とは、別に関わる必要なんてない。
「イヤだから、やめてください」って言って、それでもやめずに威圧的に迫ってくる人とは、なにも好き好んで関わらなくていい。
「やめてくれないのであれば、もうあなたとは関われません」って言ってもいいんですよね。
そのことに、ようやく気が付きました。

いや、たぶん前にも気付いてはいたんだよなぁ。
でも受け入れてなかったというか、受け入れられてなかった。
なぜなら受け入れてしまうと、自分のイタイ過去を総否定することになるから。
いや、頭では考えた覚えがあるんですよ、子どものころ「家出しようか?」って何度も何度も考えたことはある。
だけど、できなかったんですよねぇ、自分ひとりで生きてく自信がなかった。
結局それ、私の中で「選択肢はない」って思いを、強化するはたらきをしちゃってたんですよねぇ。
「甘んじるしかない」って無力感で、そもそも低かった自己肯定感を、さらに押し下げる結果になってた。
だからそういったイタイ経験を、まずは思い出したくなかったし。
さらに「威圧的な人とは関わらない」って選択をして、過去のイタイ自分を否定したくなかった。
いや、本当は否定することになんかなるはずないのに「否定することになるような気がして」選択肢を増やすことができなかった。
だから、そこを閉じたまんまで生きてきたから、ゼロポイントもズレてたし。
何より、自分の内側からわき上がってくる「これやりたい!」って気持ちも、分らなくなってた。
なるほど、そういうことだったのかぁ…。

だからここんとこ、サディズムってものに向き合わされてきたんだ、これまでの社会そのものがサディズムに侵されてて。
子ども時代の家族も、みんなそうだった。
だから私の中の「他者像」もすべて、それを反映した、入れ子状態になってた。
支配・被支配の関係は、私の中の世界観だった。
「搾取されて当たりまえ、甘んじるしかない、それ以外の選択肢はない。」
そう思わされてきたし、思ってきた。
なるほど、それを私いま、上書きしようとしてるんだ。

任意なものに、従う必要はないんですよね。
威圧的な人と、関わる必要もないんです。
「やめてくれないのなら、もう関われません」って言っていい。
そのことを私、三年以上も掛けて学んできたんだ。
「従わない」「関わらない」って言える状況を守ること、それが人権を守るってことだし、自由でいるってこと。
私、それを知らずしらずやってきてるし、ようやく「これから先もやっていく」って言えるようになりました。
なんかやっと、しっかりと息が最後まで吸えるようになった気がします。
あーー、スッキリした。

今日は、ここまで。
もしも最後まで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございました。

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