イタい記憶
ずっと、ぼうっとしたり休んだりすることに対して、後ろめたさのようなものを感じてきました。
「常に生産的なことをしていなければならない」と、追い詰められているような感覚があったんです。
でも原因が分らなくて、対処できずにきたのですが。
昨日、ようやく理解できました。
やはり、子供時代の経験による思い込み(ブロック)が原因だったのですが…。
これがまた、とぉーってもイタい記憶によるものだったんです。
私の父は公立中学の教員だったため、周りの人たちを頭ごなしに扱うところがあって。
私が幼稚園から小学生に上がるあたりのころ、幼い私の目から見ればあっけに取られるほどやぶからぼうに「食事中はテレビを点けてはいけない」と、言い出したことがあります。
それだけならまだ良かったのですが、その命令はどんどん厳しくなってゆき「食事中は話をしてはいけない」終いには「食事中は笑ってはいけない、とにかく黙々と食え」と、モルモン教の戒律のように先鋭化してゆきました。
しかも、それがなんと二・三年にわたり、間断なく続いたんです。
いま振り返ると、とんでもない暴挙だと言わざるを得ませんが。
残念ながら当時の家族の中には、父にもの申せる人は存在しませんでした。
その悲惨な経験によって、幼い私の中には、どうやら2つのブロックができたようです。
ひとつは、食事そのものが苦痛になってしまったこと。
これはもちろんいまも尾を引いていて、私は食事を楽しむということができない大人になってしまいました。
けれどそれはそれで、食事に時間を奪われることなく好きなことができるのであれば、別にいいかなと思っています。
問題は、ふたつ目のブロックのほうで。
何もないところから“有”を生み出すクリエイターにとって、なにを置いても大切な時間である、「ぼうっとする時間」が持てなくなってしまったこと。
幼い当時の詳しい記憶が残っているわけではないので、半分は想像ですが。
根っからのおばあちゃん子だった私がまだ五歳だったとき、当のおばあちゃんが亡くなってしまい、それから間もなくのころに…。
おもむろに始まった強制的な「感情の封じ込め」により、私がいちばん苦痛に感じていたのは喜びのない食事そのものではなく、どこにも意識を向けておくことを許されない状況のほうだったんだと思います。
絶えず父が家族を見張っている気配を感じる中、緊張を強いられ、意識を宙ぶらりんにさせておくしかなかった。
それが、意識を宙ぶらりんにさせておくこと、つまりぼうっとすることを苦痛と結びつける原因になってしまったのでしょう。
それをこれまで、延々と引きずって来てしまったわけです。
でも昨日、ようやくそのことに気付いたので、それだけでだいぶ気分が軽くなった気がします。
そういえば会社員時代、ガンダムを操縦している先輩に、踏みつぶされそうになる夢を見たことがあります。
それって、幼いころの父の記憶を、その先輩に重ね合わせて見ていたのかもしれません。
ようやくそこから自由になれると思うと、喜びしかありません。
このブロックを手放すことによって、いろんなことから解放される予感がしています。
ホームページをつくったので、ぜひ見てみてください。
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