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イヤぁな体感

昨日、ようやくイラク・ディナールのRVが公表されたようで。
とうとう来ましたねぇ、このときが。
ただ、昨日をもって支配・被支配の世界構造が終焉を迎えたと言われても、まだまだピンと来ないのが現状です。
周りを見回してみれば、相変わらずマスクだらけですし、ねぇ。
私いったいどこにいるんだっけ?と、クラクラ来ちゃいます。

さて、浮かれてばかりはいられないので話を変えますが。
これは、私だけなのかもしれないけれど。
ちょっと自分を心もとなく感じたり、なにか不安に思うことがあったり…。
そういうとき私、いつも胸のあたりがギュッとつかまれたように重苦しくなるんです。
で、これまではそれを感じると、問答無用で「イヤなこと」として遠ざけようとしてきたんですけど。
実は一昨日、いつもと同じようにそれが起こったとき「しっかり受け止めてみよう」と、はじめて思えたんですよねぇ。
で、意識を全集中して、その体感を感じてみたんです。
そしたら重苦しいし、ちょっと痛いような気もするし、確かにイヤぁな気持ちではあるんですよ。
でも、耐えられないほどではなかったんです。
実際にその体感を感じながらみそ汁をつくり、納豆をこね、目玉焼きを焼き、食事をして、食器を洗ってっていう、一連の動作をやってみたけど。
ぜぇんぜん影響されることなく、フツーにできちゃいました。
「なぁんだ、大したことないじゃん」って、思いましたよ。
なにを私、恐がってたんだろう?って。

やっぱり私たち、いらぬ定義づけをして、それを頑なに守ってしまうとこあるんですよねぇ。
いったんタグ付けした分類を、おいそれと変えられないとこ、あるんです。
だから大したことない体感を、子どものときのイヤぁな体験とタグ付けしたままに、恐れちゃってる。
それって無意識下で起こってしまっていることなので、強化し続けてきた反応(回路)を使っている限り、修正することはできません。
昨日の私のように、いったん回路の外側に出てみるしかない。
で、外側に出てはじめて気付くんです「なぁんだ、大したことないじゃん」って。
だって、考えてもみてください、私たちもう子どものときとは違って多少の痛みには耐えられるようになってるんです。
たとえばタンスの角に足の小指をぶつけると飛び上がるくらい痛いけど、それだって1〜2分その場でうずくまってれば、後は何でもなく作業を続けられる。
それくらいには、痛みに強くなれてるはずなんです。
だから、子どものときに恐れていた痛みも、いまでは大したことない。
そういうことなんだろうな、と思います。

とにかくいま、自分の中から「アンタッチャブル」に分類しているものをいったん取り出して、見直したうえでファイリングし直すタイミングが来ていると私は感じていて。
その先は「自己実現ゲーム」につながっていると思うんです。
「あなたはこれから、どんなふうに生きてゆきたいですか?」
このパワフルな問いは、きっとあなたを恐怖や不安から救い出してくれるはずです。
だまされたと思って、ぜひ考えてみてください。

ホームページをつくったので、ぜひ見てみてください。
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では、この移り変わりのタイミング、楽しめるだけ楽しんでいきましょう!

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