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視点の分岐
いま、世の中は確かに二極化していると思う。
どちらがいいとか、悪いとか言うつもりはないけれど。
いまみたいに様々な事象に対する捉え方が、対極的な構図になっていることは、かつてない気がする。
もちろんこの構図の最たるものは、世界中を巻き込んだ“はびこり騒動”をめぐるアレやコレやなのだけれど。
他にも真偽を含め、対極的な位置づけになっているものが少なからずある。
たとえば陰と陽、光と闇などといった対極的なありようのものを見るときに大事なのは「どこに視点を置くか?」ということで。
一方の視点にフォーカスしてしまったら、なかなかもう一方の視点に移ることはできない。
たとえるなら、だまし絵のようなものだ。
上の絵、若い女性に見えますか?それとも老婆に見えますか?
いちど、若い女性に見えてしまったら、老婆の姿はなかなか見えてこないはず。
このような、いわば“視点の分岐”と呼べるような現象がいま、世界中で巻き起こっていて(たぶん、そのように誘導したい者がいるのだろうけれど)。
ご多分にもれず日本でも、家族や友人など、違う視点を持つ近しい人たちのあいだでいさかいが起こっていると聞く。
かくいう私も意気消沈するような出来事が少なからずあって、やはり私たちには他者を変える力はないのだなぁと、改めて認識させられた。
そういった経験を経て、いま思うのは。
自分の考えや選択を疑わず、とにかく信じ続けることと…。
そしていまこそ、他者との“共存”を意識することが大事なのではないかということだ。
意見が違っても、お互いを尊重し、共存する。
排斥せず、受け入れる。
この感覚が、きっといま、とっても必要とされているんじゃないかと思う。
誤解しないでほしいのは、「近しい人とは別れちゃダメ」って言いたいわけじゃなくって。
たとえ別れる決断をしたとしても、同じ地球の、同じ日本を生きている者どうしであることには変わりないのだから。
お互いに気持ちよく、共存していこう。
二極化の時代だからこそ、そういう意識が大事なのではないかと思う。
これはつい先日、「自分と意見が違う人とはうまく関われるはずがない」と勝手に決めてしまった自分への戒めであり。
人間関係に“勝ち負け”を持ち込みがちだった自分との、決別の意思表示であり。
たとえ排斥されたとしても、決して自分からはし返すまいという、決意表明でもある。
ディスり合いは、互いにエネルギーを消費するだけで、何も生まない。
居心地が悪ければ、そっとその場を離れればいい、それだけ。