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映画の登場人物として生きる

「たとえ世界がどうなろうと、それに惑わされず、毎日を上機嫌で過ごしましょう」

そんな、スピリチュアル方面の人たちの主張に。

以前の私は、とても違和感を覚えたものだ。

世界が大変な事態におちいっているのにも関わらず、自分だけ上機嫌でなんていられるはずない、と思っていたからだ。

これが、「映画の登場人物として生きる」ということだ。

自分の視界に入っている、この“目に見える景色”の外側には、いわゆる“世界”が存在しているものだと信じて疑わず。

そこで起きている“現実”は、やがて自分の身にも影響を及ぼし得ると、潜在意識にすり込まれていて。

それゆえニュースとして無制限に垂れ流されるオカルトを、自動的に自分の身に置き換えて変換し、恐怖心にさいなまれてしまう。

思考も同じだ。

いわば“思考製造器”とも形容できる脳が生み出す思考を、片っ端からつかんでは巻き込まれ、漠然とした不安や不足感を補充し続ける。

『刻々と時間は進み、それとともにヒタヒタと決定的な終末が近付いてくる』

『生きるために必要な富も資源も限りがあって、大半はもう人の手に渡ってしまっているため、すでに残り少ない』

そう思い込まされていることにより、単なる“出来事”は、余さず“大問題”として捉えられ。

世界で起きている“現実”を、恐れずにはいられない。

でも、本当にそうなのか?

もしも私たちが見ている目の前の景色の外側には、何も存在しないとしたら?

“思考”として生み出し続けられているものが、何の脈絡も背景もなく、ただただ自動的に生成される無意味なものだとしたら?

私たち自身が目に見える風景や、その中で起きている現実を、つくり出しているとしたら?

信じろ、と言いたいわけじゃない。

ただ、ほんの少しだけ、疑ってみてほしい。

あなたが「明らかな真実」として捉え、疑いすらしなかった、その“現実”ってものを__。

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