「『舞台裏のハセベ』と恐怖のモスラ」形式:エッセイ 2018/04/05


2018/04/05「『舞台裏のハセベ』と恐怖のモスラ」

小さい頃、私はウルトラマン、ゴジラなどの特撮ものが怖くて見られなかった。
何か大きな恐ろしいものが街に出現し暴れるということは恐怖でしかなく、その姿を目にする度にどうしようもない絶望的な気持ちになっていた。それは悪の怪獣に限った話ではない。ウルトラマンだって私にとっては悪魔を練って固めた破壊神でしかなかった。割りと小学校の遅くまで「将来の夢はウルトラマンコスモス!」と言っていた弟の気が知れなくて仕方がなかった。
中でも飛び抜けて一番恐ろしいのは、映画モスラである。映画を見たことはないので、それがどんな話かは知らない。ただどこで目にしたのか胸に強烈に焼き付いているのは、巨大な気味の悪いあの蛾と、崩壊した東京タワーに巨大なサナギが巣くっている光景。その画は荒い画質で、それを思い出す度に「もすらーっやっ」という女性の声が聞こえる。
とにかく怖い。全てが怖い。今でも脳裏に出てきてはゾッとして胃が痛くなり眠れなくなるので、できるだけ思い出さないようにしている。いわばトラウマだ。

今、この感覚が私の宝物だ。
演劇や映画などのものづくりに従事しているせいで、自分の感覚が完全な作り手側にまわってしまっている。もうその恐ろしい映画モスラの制作の裏側を詳しく知りつつある。着ぐるみの中におじさんが入っていると思うとかわいく思えないのと一緒で、モスラへの恐怖が今、薄らぎつつあるのだ。

今日Twitterで「舞台裏のハセベが・・・」というツイートを目にした。これが今改めてこのようなことを考えているきっかけである。

ハセベとは、とある人気ゲームを原作にした演劇作品のキャラクターである。このツイートをした友人は、その演劇作品の舞台裏の映像を見たらしかった。
結論、舞台裏に『ハセベ』はいない。『ハセベ』を演じている俳優さんがいるだけだ。
しかし友人は、舞台裏で様々な準備をしたりするその俳優が、完全に『ハセベ』に見えているのだ。私そのいくつかのツイートを目にし、3度は読み返した。それくらいに信じがたかったのだ。
彼女は夢を見ている。語弊を恐れずに言えば、思い込みをしている。その俳優さんは何を着て何を喋ろうが、彼女にとって『ハセベ』以外の何者でもなく、街でその俳優さんを見かけたら「ハセベ!」と声をかけるに違いない。彼女は完全なる作品の観客として、制作側が狙った通りに、正しく作品を受け取ったのだ。受け取った結果が多少のめり込んでいるとは言え、いわば大正解だ。
私はそれを作る側に関わらず、その受け取り手の大正解を、不思議に思ってしまった。若干嫌悪して受け入れがたかったほどである。逆に舞台に出ているハセベすら、ハセベを演じている俳優をしている一人の男性としか見えない。
この友人のツイートをきっかけに、知らぬ間に自分になくなってしまった感覚を思い出し、自分の感覚や価値観に危機感を持った。このままではただ作るという行動に満足する人になってしまう。いつの間にか、私は業界の関係者や評論家に誉められる作品作りがしたくなっていたらしい。でも作品を作る理由はの根底は、人を感動させたり、明日仕事をする活力を生み出したいからだ。それには消費者の感覚を忘れてはならない。友人は、毎日毎日仕事を頑張っている。仕事をしている彼女は人間がキャラクターに見えている狂った女ではないはずだ。きっと真面目で仕事のできる全うな社会人なのだ。その友人が『ハセベ』を見るときは、仕事の苦労も忘れて、作品の世界に没入して確かな幸せを感じ力を得ている。それが作品の力であり、私がものづくりをする目的だ。

私の中で、唯一残っている、完全な作品の受け取り手として感じられていた作品、感覚こそ違えど、友人にとっての『ハセベ』、それがモスラだった。
モスラが『モスラ』でなく「蛾の人形」に完全に思えたその時、私は恐怖のトラウマから抜け出し、同時に作品を作り鑑賞する能力を、完全に失う気がするのである。









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