古代ギリシアの芸術 【演劇、特に悲劇について】
芸術、といえば何を思い浮かべるだろうか?
絵画?音楽?彫刻?文学?演劇?ダンス?
…まあ、これは人それぞれだと思うのだが、今回はこの壮大で美しい虹のふもとについて、ほんの少し語りたいと思う。
金の皿
芸術にいわゆる「美術」が含まれるようになったのは、18世紀も終わりに向かう頃だ。つまり、「美術」というのは長きに亘って「芸術」ではなかった訳だ。芸術がArtsで美術はFine artsな時点で、注釈付きのArtsなのである。
では、何が芸術だったのか?
「詩作」である。
今回は古代より伝わる詩作についてをまとめ、再発見された16世紀以降、芸術において参照されていないものはないとまで言われるアリストテレス『詩学』を中心に、芸術、ひいては詩作(演劇)の源泉を辿る。
詩学は悲劇について述べていながら、悲劇の死後書かれた。つまり、アリストテレスの時代にはすでに悲劇は存在せず(と彼は考えており)、だからこそ悲劇を俯瞰的に語れたとも言える。
詩人と創造
詩作とは何か。
簡単に言えば、言葉による創作全般…、叙事詩、抒情詩、その他諸々。
今回、主として取り上げようというアリストテレスは、この中で最も優れたものとして「悲劇」をあげた。そして、この悲劇について述べることがすなわち、詩作一般について述べることであるとして『詩学』を著した、と言っていい。
なぜ、詩作が芸術で美術は違ったのか。
古代ギリシアにおける美術が詩作に比べて下等のものであった。それは当時、創造の根源はムーサの霊感であり、外的に与えられるものであったためである。
今日的な芸術に美術が数えられるようになる上で、大きな役割を果たすカントは『判断力批判』(1790)において、「美術」の可能性を説明するために「天才」について論じている。そこで彼が美術は天才に起源を持つと主張したとき、創造の根源は外的に与えられたものではなくなった。これは、自然美とは異なる「芸術美」を生み出す美術を、詩作や音楽と同等に扱う考えである 。『判断力批判』でも扱われるが、ここで前提となっているのは「技術は自然ではない」ということである。
何が言いたいかというと、つまり、美術も技術の一種である。
芸術をあらわす「Art(英・仏)」や「Kunst(独)」の語源はそれぞれ、知的・肉体的に目的を達成する手段を意味するラテン語の「ars」、ギリシア語の「techne」であり、直訳するならば「技(術)」だ。美術は肉体労働を伴うために詩作と同様の芸術とは見られていなかった。文学・音楽は創造的な「芸術」であった一方で、美術は肉体的な「技術」であった。
古代ギリシアにおいて、創造とは外的にムーサの霊感から与えられるものであり、人間の技術によるものではない。神に憑かれ虜(マニア:一種の狂気)になることで詩人は詩作したとされている。技術によって形を与える「美術」は芸術とはみなされず、詩人と美術家は区別された。
ムーサの霊感
ムーサって誰?ということになる。
ムーサ(Μοῦσα, Musa)は、ギリシア神話で文芸(μουσικη)を司る女神グループのことだ。ミューズ (英・仏: Muse)とは同一であると考えていい。薬用石鹸のやつです。
このグループは3柱とか7柱とかいろいろ言われているが、今回は、今日最もベーシックなヘーシオドスによる分類から9柱として紹介する。彼は紀元前700年頃、叙事詩『神統記(θεογονία , Theogony)』にそれをまとめている。
ホメロスと並ぶ最古の叙事詩人ヘシオドスが唱いあげるギリシア諸神の系譜。宇宙の始源、太古の神々の生誕から唱い起こし、やがてオリュンポスの主神ゼウスが、凄惨な戦いののち、ついに世界の統治者として勝利と栄光を獲得するに至るまでを力強く物語る。ギリシア神話、宇宙論のもっとも基本的な原典。
無論、ヘーシオドスは吟遊詩人であり、神から言葉を授かっている人。前章で、詩はムーサから与えられたものであると説明したが、彼がここでムーサを称賛しまくっていることからも、詩人たる彼自身、ムーサの寵愛を一身に受けていたことを感じられる。
① カリオペー(Καλλιόπη , Calliope)=叙事詩の神
② クレイオー( Κλ(ε)ιώ , Clio) =歴史の神
③ エウテルペー( Εὐτέρπη , Euterpe)=抒情詩の神
④ タレイア (Θάλεια , Thalia )=喜劇・牧歌の神
⑤ メルポメネー( Μελπομένη , Melpomene)=悲劇・挽歌の神
⑥ テルプシコラー (Τερψιχόρα , Terpsichore)=合唱・舞踊
⑦ エラトー( Ἐρατώ , Erato )=独唱歌の神
⑧ ポリュムニアー( Πολυ(υ)μνία , Poly(hy)mnia)=讃歌・物語の神
⑨ ウーラニアー (Οὐρανία , Urania)=天文の神
サミュエル・ウッドフォード〈パルナッソス山にあるアポローンとムーサたち Apollo and the Muses on Parnassus 〉(1804年)
悲劇とは
と、美術がまだ芸術でなかった古代ギリシアで芸術の名を恣にしていたのが、詩作つまり演劇だった。ほらほら、演劇見たくなってきたでしょう??
さて、古代ギリシアにおいては、人間は模倣する本性を持つために、再現を好み、再現によって最初に学ぶと考えられていた。アリストテレスが『詩学』の中で繰り返し、詩作を「一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)」 であると述べるように、詩は人間の行為を再現する。それを鑑賞した人間は、人生に対する向き合い方や考え方を学ぶ。
『詩学』 における悲劇は「人間の意志と行為を、精神的な力の間のさけがたい葛藤から生ずる苦悩の相において表現し、事件の全経過を通じて悲壮の美をあらわす種類の戯曲」である。
竹内敏雄編『美学事典 増補版』、弘文堂、1961、p.395
悲劇において作者は、複数人の複数の行為から一つの連続的な構造を読み取り、それを一つの行為として劇中で再現することを達成している。
悲劇を通じて観客は、登場人物が不幸に値しないにもかかわらず不幸に陥る時にあわれみ、またそれを見て自分も同様に不幸に見舞われるのではないかとおそれる 。その結果、魂の浄化(カタルシス)が生じ、観客は一種の教訓を得るわけである。結末で生じる主人公の不可逆的敗北は、悲劇的葛藤に結末をつけるとともに、その人格・精神の高い価値を表現する。
つまり悲劇とは、結末が悲しい話ではなくて、めちゃくちゃ苦しい精神的葛藤に不可逆的な決定が下される話なのだ。
有名な悲劇
有名な悲劇をご紹介する。
悲劇というとおそらく、シェイクスピアを思い浮かべる人が多いだろう。シェイクスピアが悲劇なのかメロドラマなのか、みたいな議論は活発かつ複雑で私ごときでは説明しきれない。
ので、今回は、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』を参考にギリシア悲劇・エリザベス朝悲劇・ラシーヌまでの古典主義悲劇の三種に絞ってまとめたい。
【ギリシア悲劇】
●ホメロス《イーリアス》《オデュッセイア》原点にして、最高とされるこちらの二作。ギリシア神話のトロイア戦争を元に英雄譚を描く。
●アイキュロス《ペルシア人》《縛られたプロメテウス》《オレステイア三部作》
もともと1人(+コロス)で演じられていた悲劇に2人目を登場させた。アテナイの興隆期を生き抜いたひとでペルシア戦争等も経験している。
●ソフォクレス《アンティゴネ》《オイディプス王》《エレクトラ》
登場人物が2人だった悲劇を3人に変え、さらに三部作形式もやめ、作品内で緻密に筋を立てた。運命と対峙する人間の瑣末さや虚しさを悲壮的に描く。
●エウリピデス《メデイア》《ヒュッポリュトス》《トロイアの女たち》《オレステス》
倫理的価値のない世界に生きる人間の本質的な無意味さを描く。情熱的かつ官能的な作品が多い。デウス・エクス・マキナの手法を多用した。アリストテレスはエウリピデスから悲劇は死んだとしている。彼の創作の根底にあるソクラテスの理想的世界観によって神への信仰が消えたためとするが、実際にエウリピデスは神に対してやや否定的立場をとる。
【エリザベス朝悲劇】
●マーロー『タンバレン大王』『エドワード2世』
欲望に取り憑かれ、挫折と共に死にゆくルネサンスの典型的人間像を無韻詩で描く。エリザベス朝悲劇の草分け。
●シェイクスピア『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』
言わずと知れた、悲劇の巨匠。個人的には、現近代の不条理劇へとつながるような喜劇群がなかなか興味深い。エリザベス朝演劇では、観客と舞台の間が近く、より親近的に鑑賞できるエプロン・ステージが導入された。
【ラシーヌまでの古典主義悲劇】
●ラシーヌ『アンドロマック』『フェードル』
フランス古典悲劇を完成した。宿命的情念による破滅への進行を内面から描く。反対派の策略で貶められたりもする。
公演/劇団情報
劇団いちいち
Twitter:https://twitter.com/gekidan_11
Mail:theater111999@gmail.com
※お問い合わせやご依頼は各SNSのDMまたはメールまでお願い致します。
劇団いちいち 春ごもり公演
『吐息のおもかげ』脚本・演出:豊田莉子
【日時】2022年
3月5日(土)14:00 / 18:00
6日(日)12:00
※開場は開演の30分前です。
※上演時間は80分を予定しております。
【場所】東山青少年活動センター 創造活動室
【料金】※当日券は各+300円です。
学生前売:1000円(要証明)
一般前売:1500円
【予約】カルテットオンライン
編集後記
悲劇、いやぁ…、ね。むずい。今回は概要をさらう形になりました。
ギリシア悲劇はギリシアの神々を前提としているし、シェイクスピア悲劇(悲劇ではないという論もあるが今回の論点ではないため一般的な感覚として悲劇とする。)はキリスト教を基盤としています。現代日本人にとって神の存在が馴染みが薄くなってしまったが故に理解しにくいですが、その緻密さはやはり目をみはるものがあります。
ギリシア悲劇や哲学が好きな方に、『吐息のおもかげ』をぜひお勧めしたいです。
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