良い教育って何?
教師にとっては、子どもたちに対して良い教育をしたいと思うものだろう。
しかし、その「良い教育」とは何なのか疑問に思った。
私たちは、数々の教育を様々な教育段階において受けてきた。
その中で、あの授業はよかったな、とか、あの授業はわかりにくかったな、あの行事楽しかったな、部活での青春は忘れられないものだったぜ、などなど学校での記憶は様々にあるであろう。
その中で、私たちが受けてきた教育で良かったと感じているものは、果たして良い教育なのであろうか。
ここでは、良い授業ではなくて良い教育とした。良い授業に関してはまたどこかの機会で。
例えば、文化祭等の行事で、子どもが楽しかったと感じることはよくあることで、子どもたちは良い青春の1ページを作り出したわけである。しかし、それが楽しかったと感じることばかり強調されている恐れはないのか、
その状態が果たして良い教育だったのだろうか。
答えは、必ずしもイエスではないだろう。
教師側は、もちろん楽しんでほしいと思ってはいるとは思うが、それが一番の教育の目的、したいことだったのだろうか。
一方で、子どもは行事を楽しむことが先走ってしまっているのではないか。目標、目的というものが見失われている状態で行事が行われているのではないか、とも考えられる。
そもそも、教師側と子ども側で目標、目的の一致が図られていたのかというところも気になるポイントではある。
そのように、教師側と子ども側で良い教育に齟齬が起きてしまうということはあるのだろう。
それでは、果たして良い教育とはなんなのだろうか。
ひとつは、目的が達成された教育ということは言えるのではないか。
目的ですから、それを達成するために様々な活動や教育が行われるわけであるため、それが達成されればそれは悪い教育にはもちろんならないであろう。基本的にしたいことができたのだからそれは良い教育になるのではないか。
少し注文を付けるのであれば、その目的が事前に教師と子どもの間で共有されていると尚良いのだろう。そうすれば、子どもたちもその目的を意識しながら活動ができるであろうし、目的の達成に繋がりやすいのではないか。
さらに言えば、目的を子どもたちに決めてもらうことも必要なのではないか。
それは教育の双方向性に繋がるであろう。子どもたちが話し合いを重ねて、最終的に結論を出して目的を決める。その活動が民主主義社会において重要な能力の育成に繋がることや、自分たちで決めたことなのだから、達成することに務めなければならないという意識も出てくるであろう。
このように、目的が達成されたということは目に見えて、というか、わかりやすい良い教育であったということになるだろう。
他にもあるだろうが、一つ思うこととして、教育の成果は目に見えないものが多いのではないか。そして、即時性のあるものばかりではないのではないか、ということである。
つまり、良い教育かは分からないものが多い。その教育が良かったのか悪かったのかなんてことはわからないことが多いのではということである。
クラスで一致団結しようという風に教育をしていったとしても、それは将来どこかでいろいろな人と活動するときに役になっているのかもしれないが、それは教師においては知り得ないであろうし、教育を受けた側も、あの時の教育のおかげだ、だなんて思わないであろう。
そして、そのようなものは学校での教育が行われてすぐにそのことが生かされるとは限らない。教育の効果が出る時期が学校卒業してからということもあるだろうし、その効果が連続して出るということもあるだろう。
そのため、即時性があるとは限らないし、効果が出る時期もよくわからない。
っということで、良い教育とは、これが良い教育だ!っというものもあるにはあるだろうが、それはほんの一部なのではないかということだと感じました。
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