思考のフラクタル性
考える余地はあるけど、思索の中間点として書き留めてみる。
僕にとって「下界」という観点が世界の見方を大きく変えてくれる。
山に登り、辿り着いた頂上の岩に立って、目線より下に雲や海、歩いてきた稜線、歩き始めた駐車場、風力発電、もっとその先の小さくなった街がある。
頂上で、忙しない日常から離脱する浮遊感を物理的に体験する。
それは日常に戻っても変わらない。遠景に山並みが見えたとき、ふと山のことを考えたとき、山頂での景色と感覚を明確な記憶として想起する。その記憶の中の上から見た街が、今それを思い出している自分のいる街と重なる。記憶の街を思い出していくと今いる街に辿り着き、その街の中の自分は記憶の街を思い出している。1ループ、2ループ…と想像が循環してゆく(もしくは螺旋状に進んでゆく)。
日常を包む街が広大な景色の一部分であることを意識すると、気が楽になったり、物事が考えやすくなったりする。そんな日常を相対化する見方を「下界思考」と勝手に名付けている。
ふとフラクタルについて考えているとき、下界思考がフラクタルな性質に当てはまるんじゃないかと直感した。
フラクタルとは雪の結晶、シダの葉、リアス式海岸などに見られる、拡大する前と拡大した後の像が同じパターンになっている性質を指す。
一本の線が三又に分かれており、その三又のうちの一本の先端を拡大すると小さく三又に分かれており、小さい三又のうちの一本の先端を拡大するとさらに小さく三又に分かれており……というのが一例になる。
遠くから見た景色と近づいて見た景色が同じパターンを持つ、というのは下界思考の過程に似ていると感じる。
記憶の中の上から見た街があり、それを拡大していくと今いる街に重なり、その街の中の自分の頭には記憶の中の上から見た街があり……
無限に拡大のループを辿る思考はフラクタル的と言える気がする。
何かの学術分野を学んでいくとその中に細分化された分野があり、その一つを学んでいくとさらに細分化された分野が現れる。奥に進むほどに複雑さが増す広がりもフラクタル的かもしれない。
何に繋がるかは分からないけど、思考のメモとして残しておきたい。