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「踏んではいけないあの線」攻略法【阿礼】

本文章は共感力の高い人にはおすすめしない。この文章をよんだことにより、私と同じ「線」が見えるようになってしまう可能性があるからである。


「踏んではいけないあの線」って何?

某魔法学校のような伏せ方に困惑した方もいるだろう。しかし、今回私がとりあげる線に名前はなく、文字通り「踏んではいけない線」以上の意味を持たないのである。私は今まで無数の「線」に行く手を阻まれてきた。具体的に言うと、一定の物や模様を構成している線、あるいはそこから感覚的に見える「対角線」や「延長線」を踏んではいけない!と感じてしまうのである。
同じ悩みを持つ人は一定数いるらしい。生活への影響度は人それぞれだが、私の場合は単なる癖のようなもので、強迫観念はなく「できれば踏みたくないんだけどね~」程度のものである。実際、誰かと話しながら帰るときなど、地面に注意が向いていないときはほぼ気にならない。
今回は私が見ている「踏んではいけないあの線」を可視化(見ている線を可視化・・・?)し、元凶である「線」と向き合っていく。法則も見つけたいが、全部適当だったらどうしよう。

《一例》上野駅ー大学ルート攻略法

最寄りの上野駅から大学までは歩いて15分ほどである。丁度よい距離なので、道中でいつも見ている「踏んではいけないあの線」を踏まずに大学までたどり着く方法を教示しよう。

オレンジ色=実際にある「踏んではいけない線」
緑色=線や角から出て見える、感覚的な「踏んではいけない線」
水色=補助線

破線と実線の使い分けはあまりできていない。

改札を出た!

このころは国立西洋美術館でモネ展が開かれており、外まで大行列

上野公園の公園改札を出たところ。本ルートの最初にして最難関の場所である。ここではタイル一枚一枚の対角線が見えているほか、マンホールの持ち手を結ぶ線の延長線も踏んではいけない判定されている。奥から出ている線のような刺客に気を付けつつ、タイルの枠線を踏みながら歩くのが無難である。

広場に出た!

影は消せなかった

上野公園の竹の台広場(噴水があるあそこ)に出た。タイル内の対角線は見えることもあるが気にならず、代わりにタイル自体が太い対角線を構成している。このように見える理由は不明である。交差点は太くて避けられないので、真ん中を通らないように気を付けながら進む。

「原初の地面」はありがたい

(舗装されているので、とても原初ではない)

広場を抜けると、地面はタイル張りからコンクリート張りに代わる。ならしただけの道は「線」が少ないので非常に気が楽である。歩きづらいと不評のでこぼこ道などはむしろ、ゲームでいうと1-1のような易攻略ステージである。とはいえ、人の手が入っている以上何らかの直線は存在するため、気を抜いてはいけない。角の二等分線に注意。

最近増えた罠

影が減りこちらも夏は拷問に…

あと少しで着く!と思ったのだが、その前に最近整備された小広場を超えなければならない。以前は竹の台広場と同様のタイルだったのが、今年の夏の工事で複雑化してしまった。さすがにすべての線をよけることはできないと分かっているのか、踏んではいけない判定されるのはいくつかの直線とコーンの角から延びる線だけである。しかし、歩くたびに少しずつ「線」が変化している。やはり適当である。

着いた!

着いたぞーーー!
ここまでの試練を乗り越えてきた私を歓迎するかのように、簡単な地面のつくりをしてくれている。ここで重要な存在が、小さな黒い正方形のタイルである。これが目立つ対角線を放ってくれるおかげで、一つ一つのタイルに目をむけなくてもよくなるのである。

以上が私の上野駅―大学ルート攻略法である。今回示した線は一例にすぎず、その日の気分、歩く速度、人の多さ(障害物の多さ)などによって変容する。いちいちこのようなことを考えながら歩くことを大変に感じたかもしれないが、この癖とは10年以上付き合っているため、実際は無意識に「線」を見てよけてしまうのである。

考察(なし)

疲れたので省略する。また、法則によって固定化することで「線」の強制力が強くなり、私の生活に悪影響を及ぼすことを恐れたためでもある。

「あの線」が見えることのメリット・デメリット

メリット

1.地面に落ちている物によく気が付く
道の端で死んでいたネズミを見つけて保健所に報告したり、隣を歩く友人がミミズを踏むのを回避したり・・・私は公衆衛生の保持に貢献しているといえるだろう。ただ、「線」が見えるようになったのが先か、下を向いて歩くのが先かはわからない。後者であれば少し哀しい。

2.真ん中がわかる
地面に限らず様々なものに対角線はみえるため、例えばデッサンの時に画面の中央を感覚的に正確に捉える力は高い・・・・・・・・かもしれない。(要検証)

デメリット

1.まっすぐ歩けない
「線」をよけながら歩くと、どうしてもふらふらしてしまう。一人で下を向きながら歩く私をみつけたら話しかけて解放してほしい。

2.疲れる
基本的には無意識の行動だが、毎日見ていると嫌になる時もあるだろう。

結び

いかがだっただろうか。私と同じ症状(病気ではないが)を持つ人がいれば、ぜひ教えてほしい。初めてのnoteで至らない点も多かっただろうが、最後まで読んでくれた皆様にお礼を申し上げる。また、note云々以前に自身の語彙の貧弱さを痛感した。精進精進!


おまけ:「あの線」誕生秘話

いったいいつから「線」が見えるようになり、また避けなければならないと思い込んでしまったのだろうか。この記事を書いていて思い出したのが、実家のとある「角」だ。

母に写真を頼んだが、「ここは私のこだわりの角♡」と言われてしまった 設計士との喧嘩の末勝ち取ったらしい

実家のリビングはフローリングで、一段高くなったところに畳敷きの空間がある。その段差の角なのだが、明らかに「線」が出ている。(誰が何と言おうと出ている。)幼少期の私はまだ無数に延びる線は見えずとも、この角から出る線だけは絶対に跨いでいた。
では、なぜこの角に「線」を見てよけたのか。ここからはすべて仮説である。まず、この角が家の構造においてほぼ唯一の、直角以外の角なのである。そして主張が激しい。もちろん当時の私はこんなことを考えてはいないが、異質な存在に特別な意味を持たせようとするのは自然なことだろう。
よける意味については、単なる遊びの一環であることのほかに、「尖ったものに触れないようにする危機回避の結果」説を唱えたい。実際この角には何度か痛い目にあわされたことがある。何度もここで躓くうちに角に触れないようになり、その危険予測の範囲が延長線上へと広がっていったのではないだろうか(床をスライドすることも多々あったため・・・)。
もちろんこの仮説を裏付けるものは何もない。なぜあらゆるものに線が見えるようになったのかもわからない。私の代わりに推理してくれる人を募集する。



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