20年を振り返る

我が家は現在、60歳の母と90歳の祖母の三人暮らし。
父親は産まれた時からいない。
怒りの沸点が低い母と、頑固な祖母。B型の母によると、変わり者のAB(祖母)とは気が合わないらいしい。
母の口癖「老人は頭が固くて性格が悪い」
祖母の口癖「あの子は子供っぽくて自分勝手」
いつも喧嘩の原因は些細な事で、ドアが数センチ開きっぱなしとか、今月のカードが支払えないとか、母の私物を祖母が勝手に片付けたとか、毎日ネタはつきない。

大声で喚き散らす二人を横目に私はいつも無視を決め込むが、あまりにも酷い日は仲裁に入る。仲裁と言っても元はといえばあんたが~~みたいにただ矛先が私に切り替わるだけだけど、それでも二人の終わらない喧嘩を聞くよりはまし。
私は昔から大きい音がとても苦手で、すぐに気分が悪くなってしまう。
毎日毎日こんな光景を見ていると、もう誰かに怒ること自体が馬鹿らしくて、そんなことに時間と精神を使うなんて勿体ないと思うようになった。どうせ何を言い返しても火に油を注ぐようなものだから、私は適当に相槌を打って聞き流して、今日も荒波が静まるのを待った。
私だって1人の人間で、怒ったり悲しんだりいっぱい悩む事もある。決して誰かのサンドバックになる為に生まれてきた訳じゃないのに。

記憶の中では、私が小学生の頃までは母も綺麗で優しかった。仕事が終われば毎日学童に迎えに来てくれたし、休みの日は一緒にお出かけした。
でも私が中学生になって、病気が分かって、学校に行けなくて一日中家に引きこもるようになってから、母は変わってしまった。
精神病というのは何度病院に行っても簡単には治らなくて、私は毎晩自傷行為を繰り返して、殴られて蹴られて罵声を浴びせられて、家族みんなが限界だった。
そうかと思えば、今はどこにいて何をしているのかと毎日大量の鬼LINE。悪い意味で過保護だった。

どれだけ嫌なことを言われても手をあげられても首を絞められても母の事は嫌いになれなかったけど、ずっと母が何を考えているのかわからなくて怖かった。

こんな状態でもなぜか高校は奇跡的に受かって、友達と呼べる子もできて、初めて学校に行くことが楽しいと思えた。
休むことも減ったし、一人で電車に乗れるようになった。
それでもあの頃の優しい母はもういないと思う。
恋人ができた事を報告すれば、
「楽しいのは今だけ、どうせあんたはすぐ捨てられるんやから」
と言われた。

祖母は自分の意見が全て正しいと信じているような人だった。
昔と今では価値観が違うから仕方のない事なのかもしれないけれど、けったいなメイクだと散々馬鹿にされたし、初めて自分で服を買いに行ったら趣味が悪いといわれた。
祖母は若い時分、服を取り扱う商売をしていたから、その頃の絶対的な自信がいまでも残っているのだと思う。
だから私はずっと、祖母や母が選んだ服をされるがままに着ていた。
全く自分の好みではなくても、皆の機嫌がよくなるならいいと思っていた。
自分の意見が批評される苦痛の時間を味わうくらいならその方がよっぽど楽だった。自分自身を否定されるようでそのたびに死にたかった。
でもほんとは私、中性的な格好が好きで、スカートよりもズボンを履きたかったの。

私がいっこうに自分の意見を言わないからか、二人はどんどん我が強くなった。
私がなにもしなくても、身の回りのことを全てしてくれるようになった。
何も言わなくてもご飯を用意してくれて、歯ブラシを持ってきてくれて、服と靴下を準備する。私はもう高校生。
世間からみて十分に過保護の域だと思う。
その状況に甘えて反発しなかった私も悪いのだけど、祖母も母も、私をうまくコントロールできていると機嫌がよかったし、こう、うまく言葉にできないけれど、二人にとって私はまだ1人じゃ何もできない子供でいなければいけない気がした。

そしてその過ちが、現在の私を生み出してしまった。
料理も洗濯も1人でできない、否定されることの恐怖から、自己肯定感が極端に低い、依存心が強い。
社会にうまく溶け込むことができない。

機嫌がいい日は一見どこにでもいるような明るくてちょっとお茶目なママ、孫想いの少し心配性なおばあちゃん。だから嫌いになれない。

でも苦しい思いもたくさんした。
憎んだし本気で殺したいと思ったこともあった。
大人になった今でも、誰かが暴力をふるうのを見たら昔を思い出してひどくみじめな気持ちになる。あの頃の恐怖がまだ忘れられない。

私は時々、行き場の無い感情が溢れてどうすればいいのか分からなくなって、苦しくて、もう死んでしまった方が楽なんじゃないかと思う。
それはもちろん家族の問題に限った話じゃなくて、恋愛とか自分自身のこととか、悩みは尽きない。
でも、やっぱり自分が普通のレールからズレてしまった根本的な原因は、ここにあるんじゃないかと思う。

ただでさえ我が家には「父親」という存在が欠けている。

父親がいない家庭で発生するリスクについて。

1つ目、家族を守るという庇護者の役割が不在なので、子供は不安やストレスへの耐性がつきにくい。うつ病のリスクが上がる。
2つ目、三者関係を築けないので、一対一の状況での独占欲が強くなる。社会にうまく馴染めず、協調性が欠けやすい。
3つ目、自己肯定感が低くなりやすい。

以前私が読んだ記事ではこんなことが書いてあった。

私は特に父親への執着心が強い。
大人になった今でも父親に関する情報を全く知らないからこそ、好奇心が残っているのかもしれない。
その執着が私を援交に走らせた。

私は今回このnoteを最後のまとめというか、自分の人生史における全てを記録してから終わりたいと考えているので、一応父親について書いた文章もここに貼っておこうと思う。

20年間ずっと寂しかった。
過去の私はもう戻ってこないんだよ。
私ずっと寂しいまま大人になったんだよ。
愛してほしかった。もっと近くで私の事見ててほしかった。

そんなに寂しいならさっさと会えばいいじゃんって思う。
でも、でももし会ったとして、理想通りじゃなくて、全然いい人じゃなくて、もう他の家庭もってたりして、私の事なんて眼中になかったら、心が死ぬ。
あ、愛されてなかったんだって思った瞬間、私が私でなくなるような気がする。
いっそのことあなたが死んでたら割り切れるのに。

長いよ、20年って。
その間に積もった思いをあなたは受け止めてくれるのかな。

逆にすごくいい人で、私の事を片時も忘れたことがなかったら。
それはそれでしんどいかもしれない。
だってそれならもっと愛されてるって思いたかった。
無理にでも会いに来てほしかった。
もう失った時間は戻らない。いま側にいてくれたらなって思ったその瞬間はどうやったって戻らない。

軽率に半端な覚悟じゃ会えないの。

でも、いつかもし会えたら、これだけは言いたい。
私はずっとお父さんに会いたかったよ。って

それでも目の前にいない相手を愛することはできないから、代わりに今の私は「彼氏」の存在に依存している。

こんなに重い感情を背負わせてしまって、彼氏には少し申し訳ない。
ただ私にとって、本当に安心して一緒にいられるのは家族でもなくあなたなんだ。友達はもちろん大好きだし一緒にいて楽しいけれど、彼氏にするみたいなスキンシップはできない。

ま、その彼氏に浮気されてたんですけどね。
それでも私はあなたを許すしまだ愛しているし、信用できるように努力するつもりではある。
こんな私を受け入れてくれる人はそういないだろうから、全てをあなたに捧げるくらいの覚悟で毎日ぎりぎりを生きている。

そういえば私はずーっと男運に恵まれなかった。
それもそうだろう、こんな地雷だらけの扱いにくい女を選ぶくらいだから相手もまともな訳がない。

初めての彼氏は、1年間お付き合いした。
とても優しくて、私の全てを受け入れてくれて、私の母とうまくやっていけるほどには器量のいい人だった。
それでも別れた理由は、年齢詐称。25歳ではなく、35歳だった。
当時の私、18歳。オワリです。

2番目の彼氏は、半年ほどお付き合いした。
私にしては珍しく、アプリで出会ったわけでもない、高校の同学年。
礼儀や上下関係を重んじる古風な感じの人。一緒に修学旅行もまわったしバイクの後ろに乗せてもらったこともあった。
それでも別れた理由は、元ヤンだったから。
目が笑っていないこと、近付いてはいけない圧倒的なオーラにやられてしまった。

3番目の彼氏も、半年ほどお付き合いしただろうか。
友人に紹介され、社会人と大学生という多少の壁はあったものの、それなりに楽しくやっていた。
それでも別れた理由は、人間性の不一致、価値観の違い、生まれ育った環境の差。
やっとまともな理由である。

他にもまだいた気はするけど、あんまり本気の恋愛でもなかったのだろう、そこまで覚えていないので割愛する。

ろくでもない恋愛、ろくでもない人生。

そして現在、大好きな彼氏の浮気、中絶。
私もそんな馬鹿な女ではないから、このネタを一生こすろうとは思っていないが、まあ忘れることもないだろう。

骨折して登校した保育所時代。
メガネと出っ歯を理由にいじられ続けた小学生時代。
不登校の中学生時代。
援交がばれ警官とラーメンをすすった高校時代。
親が唯一ずっと認めてくれた絵の才能を生かしてデザイナーになった今。

ろくでもない人生。
それでも、なんやかんや楽しかったのかもしれない。いや、わからない。

友達と行った西成は楽しかったし京都はもう飽きるほど遊びに行った。芸大の文化祭にも行ったしみんなでクリスマスパーティーもした。
みんなと食べたたくさんのラーメン、おいしかった。
苦しかったこともたくさんあったけど、楽しい時間はその何倍も多かった。
私はいい友人に恵まれて、優しい先輩たちのいる職場に就職できて、自分を変えてでも離れたくないと思えるほど好きな人にも出会えて、やっぱり幸せな人間なのかもしれない。
家族ガチャは少しハズレかもしれないけど、日本という比較的安全な国に生まれただけでもラッキーだろう。

私は今後どういう人生を生きるのか、それは誰にもわからないけど、できる限り自分のことは自分で幸せにしてあげたいと思う。

いつか自分を傷つけることをやめることはできるのだろうか、それともどこかで人生を終わらしてしまうのか、考えたって仕方ない。
毎日を自分らしく、いつ死んでも後悔のないように生きていきたいと思う。
20年、生きた自分へ
よく頑張ったね。ありがとう。

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