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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」14.アドベンチャーに、終わりはない

 神殿内の隧道から、宿営地として荷物を置いた薄暗い部屋に戻るさなかで、デイビスは突然、釘を刺すようにカメリアに命じた。

「あんた、何でも信じるって言ったよな。それなら、あいつじゃない、俺の方を信用しろよ。あいつとは一言も口をきくな」

「ハァ?」

「ハァ? じゃねーよ。それくらい簡単だろ?」

「え、えーと。通常時ならともかく、この神殿の中だと、それはなかなか厳しいのかな、って……」

 ごにょごにょと誤魔化して渋るカメリアに、デイビスは醒めた目つきのまま振り向くと、

「俺のこと、好き、って言ったよな。あの言葉は、嘘だったってわけか?」

 こ、こいつ、もしかして死ぬほど面倒くさい男なんじゃないのか、と遅ればせながらカメリアは勘づいた。いくら反抗期の子どものようだからって、何でもかんでも言うことを聞いていたら、大変なことになる、という本能的な危機感が身ぬちを走る。

「あのねー。どんなに好きな人であっても、手当たり次第に言うことを聞くのが正しいわけじゃないでしょう?」

「俺のこと好きなら、俺の願いを聞くのも嬉しいはずだろ」

「ど、どこから出てくるのよ、その腹立つ自信は。悪いけど、その希望を聞くつもりはぜんっぜんないの」

「なんで?」

「だから、あなたが嫌いだとか、そうではなくて。単純に、ジョーンズさんはこの探検のキーパーソンとなる人なんだもの」

 神経を逆撫でしないよう、注意深く語るカメリアのことを、分かった、もう良い、と切り捨てるかと思いきや、その予想とは裏腹に、デイビスは酷く寂しそうな表情を浮かべた。そんな顔するなよおおおお、とやきもきするカメリア。しかし反論しないということは、彼自身も、自分がわがままを言っているだけだと分かっているのだろう。

「え、えーとえーと。とりあえず、自分の不安を解消するために、束縛的な行為を求めるのは、有効な手立てじゃないと思うなあ」

「……別に。不安だからじゃ、ねえよ」

「なら、本当はどういう気持ちなのよ?」

 デイビスは無言で考え込んだが、数秒後に、仲間外れにされているようで、面白くない、とちいさく呟いた。

「それじゃあ私は、あなたが孤立しないように、できる限り協力してあげる。
 でもそのことと、安全にここから出ることは、一緒とは限らないよね。ここまでは、同じ意見かしら?」

「……分かるよ、そのくらい」

「で、安全に脱出するためには、ジョーンズさんの力を借りなきゃいけないってことは、分かる?」

「それは、分からない」

「そ、そこが分からないのね。じゃあ、あなたがそう思った理由を教えてくれるかしら」

「あいつの力を借りるくらいなら、自分たちだけで脱出すりゃ良いだろ。あいつは一人で何でもできる人間みたいだし、放って置けば良い。俺はあいつの何もかもが気に食わない」

 うおーーー、めんどくせーーー、とカメリアは頭を抱えて、心の中で思いっきり叫んだ。この人、私より三つも歳上よね? 子どもが駄々をこねているとしか思えない論理に頭を抱えたくなりつつ、いやいやしかし、これはきっと、彼が少しずつ心を開こうとしている証なのだと、なんとか前向きに捉えるよう踏み留まる。

 デイビスも、内心、七転八倒しているカメリアの心情をなんとなく察したのか、

「あ、呆れてるんだろ。餓鬼みたいだって」

と、二の腕で赤らんだ顔を隠すようにしながら言った。たちまち、カメリアの"面倒くさい"という意識は剥がれ落ちて、後にはキラキラとした"可愛い"という感情だけが残る。

「いいよ、俺が我慢すりゃ済む話だろ」

「それはだめ!」

「どうせ、真面目に取り合ってくれねえんだろ。いつまでも幼稚園児みたいなこと、やってられっかよ」

 ふい、と不貞腐れて背中を向けかけたデイビスを見咎め、ここで逃してなるものか、と言わんばかりに、カメリアはがしっと彼の腕を掴んだ。それを嫌がるデイビスと攻防を繰り広げ、彼らは静かに揉み合いになる。

「は、離せよー! なんなんだよ、あんた!」

「まだ話は終わってないでしょー!」

「なんでわざわざ、あんたに餓鬼みたいなところを見せなきゃいけないんだよ!」

「子どもっぽくったって良いでしょー! 私はそんなあなたが好きなんだもん、もっと自信持ってよ!」

 デイビスはさらに真っ赤になって、カメリアの腕を振り切ると、顔を隠しながらしゃがみ込んだ。

「なんだってあんたは、すぐにそういうことを言うんだよッ!!」

「あ。あは、タイミングをまずったかな。ポロリと本音が」

「いっつもいっつも、あんたが、間の悪いところで言うから!」

「ご、ごめん。そんなに私のことを意識してくれるとは、思っていなくて」

 それが最大の引き金となったようで、デイビスは完全に背を向けてしまうと、閉店するシャッターのように心を閉ざした。

「俺に近づくな! 触んな! 何なんだよお前、なんでもかんでも軽々しく言いやがって!」

「わ、わー、すっごい嫌われようだなぁ。私の鋼のメンタルも、もうボロボロよ」

 羞恥しているのは分かるけど、さすがに牽制されすぎて傷つく。それを隠すために笑っていたカメリアは、静かに、それでいて深い方向に、じわ、と傷口が抉れてゆくのを感じた。

 いかん、ここで泣いたら、またデイビスがヒートアップする。いったん冷静になろう。二人で感情任せに言い合っていても、何の解決にもなんないし。

「分かった、分かったよ、近づかないし、触りもしない。あなたが私のことを嫌なら、もう会いにもこないから。だから、そんなに私に脅えなくていいわ」

 ぱたぱたと両手を振って、努めて明るく話しかけるカメリアに、デイビスはぴく、と肩を震わせると、

「なんでそういうことを、さらっと言うんだよ……」

と、恨みがましそうに呟いた。

 ああ、また拗らせているのね、とカメリアはそろそろ慣れた様子で察しがついた。彼に関しては、いったい何が正解なのか、徐々に道を見失いかけてきている。

「好きって言ったろ、俺のこと! なら翻すなよ! 勝手に好きになって、勝手に嫌いになるんじゃねえよ!」

 叱咤の後に続く、しんとした沈黙に弱り果てて、カメリアはすっかり眉尻を下げてしまった。デイビスはけして背後を振り返ることができず、息苦しい空気に強く目を瞑る。こんな時に相手の浮かべる顔は、何度も見たことがあった。彼との会話に疲れ果てた、ほとんど理解を諦めかかっている表情が思い浮かんで、まともに顔をあげることができない。

 カメリアは静かな眼で虚空を見つめ、なにか考えごとをしていた。やがて、

「ねえ、デイビス。そんなに誰かに嫌われるのが怖いの?」

と、抽象的な問いを口にする。デイビスはゆっくりと顔だけで振り返り、横目でカメリアの表情を確認した。

「要するに、ひとりになりたくないんでしょ?」

「……………………………………………別に」

「そう? それじゃ、どう感じていたの?」

「…………」

 デイビスは、しばらくはつむじを曲げた子どものように黙っていたが、やがて、ぽつ、と小さな声で呟く。

「……ひとりは、嫌だ」

 いや、嫌なんじゃん。なぜ意味もなく嘘をついたんだ、と疑問符が浮かぶが、まあそれは瑣末なことなのだろう。

「で、あなたは私に、自分を理解しようとしてほしいのか、余計な口出しはせずにほっといてほしいのか。どっちなの?」

「……分かってもらいたい」

「ふうん。そっかあ」

 カメリアも空っぽの両手を持て余しつつ、いささか傷ついている自分の心を隠して、

「んー、なるほどね。なんだか、ちょっとだけ理解できたような気がする。……地道に頑張るしかないんじゃないかなあ」

と苦笑する。

「理解したって、何を……?」

「え、えーと。間違ってても、笑わないで聞いてくれる?」

「なんだよ?」

 デイビスが胡散臭げに片眉を跳ねあげると、カメリアは同じ目線の高さまで合わせるために一緒に屈み込んで、にこー、と微笑んだ。

「友達が、欲しいんじゃないかな? デイビスは」

 自信満々に告げた言葉だったのだが、明らかに眉根を寄せたデイビスの表情を見て、鏡に映したように、カメリアもまったく同じ顔になる。

「あ、あれぇ? 思ったより、ビミョーな反応」

「……ごめん、あまり、ピンとこなかった」

「あなたはきっと、理解者がほしいんだと思って」

「理解者は……ほしいよ」

「うんうん。だから建設的に話を進めるために、まずはひとり、何でも文句を言える人を作りましょ? その人に向かって、本心を打ち明ける練習をして、ゆくゆくは身の回りのたくさんの人に——」

「……その出発点が、あんただと?」

「……ご、ご不満ですか?」

「……」

 控えめに機嫌をうかがうカメリアの問いを持て余すように、デイビスは黙り込んでしまった。

 だって、あんた、俺に弱音を吐いたことないじゃないか。
 そんな、一方的に寄りかかるみたいな形で、あんたに恩を感じたくないし、その心を利用されたくもない。

「なんだか、物足りなさそうだね」

 そんな彼の心情を察するように、カメリアは寂しげに笑って言った。

「……物足りなくなんか、ない。でもあんたが、俺とどういう関係を望んでいるのか、分からない」

「関係、って?」

「これを機に、恋人になるための布石にしようとしているなら、やめてほしい」

 それを聞いて、カメリアから最後の笑顔の一片も消え去り、一瞬、とても哀しそうな顔になった。言うんじゃなかった、とデイビスは激しく後悔する。自分の舌から飛び出したそれが、酷く傲慢で、浅薄で、馬鹿げた発言に聞こえた。

「……あなたが考えているのと、私の言っているのは、少し、違うと思うな」

 まもなく、カメリアはふたたび微笑を取り戻すと、ゆっくりと、責める調子を帯びさせないように注意深く言った。

「私にとって、友達といえば、アレッタみたいなものかなぁ。いつもそばにいてくれて、私の心を分かってくれて」

「アレッタ?」

「あの子って、じっと黙って、何でも私の言葉を聞いてくれるでしょう? 私は、あの子の存在に何度となく救われたから。あなたにも、そういった存在が必要だと思うわ」

 なるほど、アレッタは、デイビスの頭にも実に容易に思い浮かべやすい例である。もっとも、ここに来るまでの間、何度か主人を見殺しにしようとしていた気がするが、それは勘定に入れられていないらしい。

「まあ、アレッタが友達っつうのは……なんとなく分かるけど」

「そうだよー、楽しいよ、友達がいる人生って。だからデイビスも、ぜひぜひ友達に甘えよう。おいで、アレッタ2号!」

俺の方が隼側なのかよ!?

「誰がどう考えても私は人間でしょ?」

「珍獣なのはてめーの方だろーがッッ!!」

 それはともかく。
 こほんと咳払いしたカメリアは、デイビスの前に正座し、訥々と話し合う。

「だって、自分を一気に理解してくれる魔法使いみたいな人なんて、現れるわけないし。こつこつと、少しずつお互いの理解を深め合ってゆくしかないでしょう?」

「……それは分かってる、よ」

「で、それをするには、友達がいいかなって思ったの。なんとなくだけど、あなたの職場は、なんだか色々と不満がありそうだし」

「俺は、CWCの問題児だからな」

「友達と遊びに行っているところ、見たことないし」

「基本、CWCの外には行かねえから」

「ご家族は、ちょっとよくわかんないけど」

「シンディっつう、俺より優秀な妹がいる」

「女の子は、みんな格好良すぎてあなたに惚れちゃうし」

「それは、確かに」

「……否定してほしかった」

「まあ、事実だから」

 さらりと口にするデイビスに、この野郎、調子に乗りやがって、とカメリアは静かに青筋を立てる。

「……俺、は。一人は……いやだ。でも最終的には、必ずひとりになる。いつもそうなんだ。人間として、どこかおかしいから」

 俯いたままそう呟くデイビスの、微かに握り締めた拳を見つめて、カメリアの胸にふっと懐かしい痛みが走った。

 知っている、気がする。
 閉ざされた心も。
 こんな時、なんて言ってほしかったのかも。

 カメリアの目は一瞬、虚ろな光を湛えて、頭上の遠い星を見るような目つきになった。けれども意識的に——唇を持ちあげて、柔らかい、光のように素直な微笑みを浮かべる。


「———うん、分かった。それじゃあ私と、友達になろうよ!」


 デイビスは、まるで脅える小動物のようにぎこちなく、目の前で誘いかける人間を見つめた。

 弱みを握られるのが怖くて、それに流されたくなくて、反射的に、何馬鹿なことを言ってるんだ、あんた、と鼻で嗤おうとして、その口角が強張っていることに気づく。

 分かっている。
 これだけは、嗤ってはならない。
 どんなに滑稽に聞こえたって、くだらない、と切り捨てたいと思ったって。嗤えばきっと、彼女の一番脆くて優しい部分を侮辱することになる。

 油断すれば、まやかしだ、と否定したくなる気持ちを、ぐっと飲み込むデイビス。けれども、やっと絞り出した言葉は、やはり自虐に満ちたものでしかなかった。

「俺みたいな奴を友達にして、あんたに何の得があるんだよ?」

「あるよー、たくさん! デイビスと一緒にいると楽しいもん。それだけだと、理由には足りないの?」

「……足りねえ、よ」

「あとはねー、お友達になれば、これからもきっとあなたと冒険できるから! 私はね、デイビス——私のフライヤーに乗って、大きな夢を見て、この広い世界を見に行ってくれる人を、待ってたんだよ」

と言って、にこっと、カメリアはより一層、幸せそうに笑顔を深めた。

「私と一緒に、世界中を冒険しようよ、デイビス。私、あなたといるとワクワクが止まらなくて、色んなものを見に行きたくなるの。

 初めて出会った日、あなたはそれを叶えてくれた。だから今度は、私が、あなたに世界を見せてあげたいんだよ」

 そうして立ちあがりざま、彼女が手を差し出したのは、きっと、しゃがみ込んでいる自分を助け起こすためだったのだろう。白魚のような指が、薄暗い中に、ぼんやりと仄白く浮かんでいる。

 それは、まるで————


(ありがとう。あなたみたいな人に出会えてよかった。きっと、一生忘れないわ)


 初めて出会った日——フローティングシティの夕暮れで、祝祭の風を浴びながら彼女が囁いた言葉。
 この人間は、いつか目の前から消えてしまいそうだと、自分を置いていなくなってしまうのではないかと、あの時、そんな切ないばかりの恐怖から交わすことのできなかった握手が、もう一度、目の前に提示されたかのようで。そして、一度目は果たされなかったにも関わらず、二度目の握手を求める手もまた、拒否されるかもしれないという不安とは無縁のように、真っ直ぐに差し出されていた。

 デイビスは、長い間、彼女の手を見つめていた。そして、永遠とも思われるような沈黙の末に、ようやく、ゆっくりと自分の手を持ちあげる。静かに触れて——躊躇いがちに、指が絡まる。あの時も、彼女はけして急かさなかった。彼が選び取るのを待っていた。そして、気づく。否定されるかもしれない状況の中、それでも自由を尊重し、相手の選択を待ち続けるということが、どれほど勇気の必要なことなのか。

 彼女は————

 ただ、俺を真っ直ぐに肯定しようとしてくれている。無条件に、何の曇りもなく。そして、長い時間がかかったとしても、きっといつか、自分の手を取ってみたくなる時がくると信じ、その未来に辿り着いた彼のために、差し出した手を引っ込めようとはしなかった。
 それは優しさを超えて、もはや魂に備わった、生来の純粋さのようなものだった。目の前の人間に対して、底なしの信頼を捧げるカメリア。彼に向かって差し出された手は、けして汚されないその精神を象徴するかのようだった。

「わっ」

 デイビスはいきなり、握り締めた腕を引っ張り、乱暴に彼女を引き寄せた。一気にバランスを崩して、座り込んだ彼の上に倒れ込むカメリア。その柔らかな全身を胸の中へと抱き留めると、燃えるように暖かな体温が押しつけられ、呆気にとられている彼女の頭を、デイビスの大きな手が静かに撫でる。

「……裏切るんじゃねーぞ。俺のこと」

 語尾の震えた、小さな言葉。カメリアは穏やかな微笑をこぼし、こつ、と彼の額に自分の額をくっつけた。髪の毛の擦れ合う、微かな音がする。

「……うん。約束ね」

 静かに告げた言葉に、彼からの返事はない。けれども少しばかり、彼女の髪を撫でる手が、どこか和らいだように感じられた。

 その誓いは、成人同士というよりは、幼子同士が友情を確認し合うかのように拙劣で、危うさに満ちたものだった。しかし、完全ではなくても、ほんの少し、思いを近づかせる。そのちいさな賭けが、この短い会話の中にも確かに秘められていたのだと考え、いずれやってくる未来は見えないにせよ、デイビスは束の間の安堵に身を委ねた。

 やがて、このささやかな約束は、彼らが永別を告げた後にこそ、本当の意味を宿してくるのだが、この時はまだその予兆もなく。

 今はただ、先のことも考えずに、一緒の時間を過ごすだけ。
 すると、腕の中のカメリアが身動ぎして、真っ直ぐに彼と見つめ合った。 

「ねえ、デイビス?」

「……何だよ?」

「さっきの話に戻したいんだけど。私からもひとつ、条件を出して良い?」

「条件?」

「私は、ジョーンズさんとなるべく話さないようにするわ。その代わり、あなたが彼と会話してくれる?」

 デイビスは戸惑った顔を見せ、明らかに気の進まない声を出した。

「俺がぁ?」

「あら、あなたのわがままをひとつ叶えるんだから、私だってわがままを言っても良いでしょう?」

「そりゃ、まあ……公平に言えば、そうだけど」

「私たちがこの神殿に入ったのは、ジョーンズさんを安全に外に送り届けるためよね? 私が話さないんだったら、デイビス、それをできるのはあなたしかいないじゃない」

「俺は……あいつのことが好きじゃない」

「大丈夫、その点もちゃんと理解しているから。困ったら私にパスすれば良いし、私は後ろから、あなたのことを見守っていてあげる。これで、万事解決、関係円満! マルっと無事に収まりましたね!」

 にっこーーー、と間近に突きつけられるカメリアの太陽のような笑顔は、その距離感ゆえに効果も抜群で、燦々と降りそそぐ後光に果てしなく毒気が抜かれてゆき、後にはせいぜい、力なく頷く気力しか残っていなかった。なんだか、思うがままに丸め込まれている気もするが、それで良いのか。

「さー、それじゃ、行きましょ行きましょ。随分長居しちゃったね、ジョーンズさん怒っていないかしら」

 ぴょこんと立ちあがるカメリアを追って、デイビスも歩き出しかけたが、不意にぴたりと足を止めて、まるでそんな自分に気づいてくれるのを待つように、じっとカメリアのことを見つめた。

「…………」

「何?」

「……最後に、もう一度聞いておきたいんだけど」

 思いっきり目を逸らしながら、デイビスは、ぼそ、と低い声で呟いた。

「ほ、本当に好きなんだよな? 俺のこと」

 一瞬、カメリアは目を丸くして、

「あえぇ? ……あ、うん、ずっとそう言ってると思うけど」

と、素っ頓狂な声で答えた。こ、このタイミングで、またその話? 限りなく面倒くさいというか、ズレているというか、なんだよコイツ、とカメリアは思った。

「本当なんだな?」

「うん」

「俺が何をしたとしてもか?」

「えーと、まー多分、だいたいのことは」

「……」

 デイビスは、身動ぎせずにじっと俯いていたが、ようやく、

「……ありがと……」

と小さく声を絞り出す。

 ほとんど消え入りそうなその言葉を聞いて、じ〜んと胸を熱くするカメリア。デイビス、あなた、お礼も言えたのね。こんなに素直な台詞は貴重すぎて、録音した音声を街宣カーで町中に垂れ流したいくらい。

「行くぞー、カメリア!」

 振り切るように大声で言って、語りかけ、さっさと道を進んでしまうデイビスの背中を見つめながら、カメリアは軽く肩をすくめた。

 まあ、地道に信頼を築くしかないよなあ、地道に。焦っても仕方がないし、のんびりいこう。
 あとは、死ぬほど拗らせてるデイビスのために、ジョーンズさんをダシにさせていただくのが気の毒だけど。教授の全面的な活躍を見たい読者のみなさん、『インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮』に乗るか、『インディ・ジョーンズ』シリーズを観よう。そしてTDRは、いつになったら復活するんでしょうかねえ。(注、2020年6月現在、TDRはコロナ禍で休園中です)




……

 カメリアとデイビス。二人ともいなくなってしまったのは予想外だったが、却ってその方が、調査に集中しやすい環境を齎してくれた。途中で目覚めたアレッタが、今はすっかり信用を寄せているらしいジョーンズの肩に乗ったが、さして反応もなく、彼の眼差しは一点から動かない。その頭脳は、今までに研究してきたあらゆる知識を総動員させて、古今東西の例とその紋章と比較し、意味を見出そうとしていた。

 二人がその部屋に戻ってくると、ジョーンズは、出掛けの時から変わらぬ姿勢で、じっと手元のスケッチを眺め、手慰みに鉛筆を上下に振っている。デイビスがカメリアの方を振り返ると、彼女の顔は凛と眉を張って、ほら行け、と目で訴えていた。

 ジョーンズの元に向かうさなかで、ふっと、ダカールの件を思い出した。あの時は、自分が駄々を捏ねる彼を叱って、カメリアに謝罪するようにと諭したものだった。全然、そんなことを言えた義理じゃなかったな、と思う。二十代半ばにもなって、何やってんだ、俺は。……けれども、これでカメリアとジョーンズが話さなくなるようであれば、その方がまだ心穏やかに探検を続けられるのかもしれない。

「も、戻りまし、た」

「ああ、気分転換になったようで良かったよ。朝食を温め直すから、食べると良い」

 と、どこか暗がった顔で、ジョーンズが食事を促しつつ、瓦礫から立ちあがり、デイビスの後ろにいるカメリアにも目を向けた。

「ファルコ嬢、君も」

 デイビスは、ちらりと横目で確認したが、カメリアは答えはせずに、軽く頷いただけだった。一応、約束は守ろうとしているんだな、と疑心暗鬼を少しばかり和らげるが、彼女は内心、冷や汗ダラダラであった。

 め、めっちゃチェックされてる。隣から、じりじりと焦げつくような視線を感じる。えぇー、こんな一言二言でも、NG対象に入るのおおお? 難易度高すぎなんですけど。

「カメリア、食おうぜ」

「う、うん」

 悶々としながら、缶の中身を口にする。今日はイワシの油漬けだった。それに軽く胡椒を振って、もぐもぐと咀嚼するが、あまり物を食べた気がしない。

「ところで、ジョーンズさんは、何を調べていたんですか?」

 と、デイビスからの質問。おおお、苦手な人物にすすんで話しかけるとは、彼にしては驚くべき進歩である。その調子よ、頑張って、と無言のエールを送るカメリアをよそに、ジョーンズは傷のある顎を撫でたまま、声を潜めてそれに返答した。

「うむ。君たちには、あまり喜ばしくないニュースだがね。ふと、ここまでの道を疑問に思って、そのヒントがないかと、壁画を読み解いていたのさ。すると、重要な手掛かりとして、この中にウロボロスを見つけた」

「ウロボロス?」

「ウロボロスは、蛇が自身の尾を噛み、円を描く象徴だ。アステカ文明では、蛇ではなく、ケツァルコアトルが自身の尾を噛んで、不老不死や永遠を表す。
 ケツァルコアトルは風の神だ。畢竟、このウロボロスは若さの泉と、渦を描くハリケーンの二つを意味しているのかと思ったが……少し、嫌な予感がしているんだ」

「というと?」

「ここに、魔宮と思わしき絵画があるだろう。そして、ウロボロスがそれを囲っている」

「はい」

「そして、神殿の入り口は描かれているが、出口はどこにも描かれていない」

「……何となく推測できてきました、あなたの言いたいことが」

 デイビスもカメリアも、徐々に冷や汗のしたたるような胸騒ぎを覚えつつ、ジョーンズの先の言葉を促した。

「そもそもこの神殿は、それほど巨大な建造物ではないんだよ。三角州の一角にあるだけの遺跡だ。一日かけたにも関わらず、端まで辿り着けないというのは、おかしな話だ」

「神殿内に、出口が造られていないということですか?」

「それだけならまだましなんだが。……ひょっとしたら、クリスタル・スカルが時空をねじ曲げ、我々を閉じ込めようとしているのかも」

 核爆級のインパクトを伴って告げられたジョーンズの憶測に、二人とも、暗鬱なオーラを背負うようにして項垂れた。ショックすぎて、ちょっと短時間では立ち直れそうにない。

「……来たな。こういう曰くつきの探検に、お決まりのパターンが」

「まあ、よく聞く話ではあるけど、実際に自分たちの身に降りかかると、絶望感が凄いわね」

「でも、俺たちはクリスタル・スカルを怒らせたことはないはずですよ」

「あ。それじゃ、聞いてみようか?」

 カメリアは喧嘩中のクラスメイトに話しかけるとでもいうように、首を傾げた。

「神様に質問する方法は、結構あるもんね。コックリさんとか、チャネリングとか、口寄せとか——」

「……それ、全部オカルトものだろ」

 デイビスは溜め息をついて、これ、使えよ、とポケットの中に入っていた無線機を、カメリアに放り投げる。

「たぶん、相手が無線機を持っていなくても、これなら通じる」

「……こっ、この無線機って、そんなに便利な機能があったの?」

「なんか、俺にもよく分かんねえんだけど。とにかく、色んなところと通じるんだよ、この無線機」

 カメリアは首を傾げながらも、物は試し、とチャンネルを適当に合わせ、恐る恐る語りかけてみた。

「おほん。クリスタル・スカルさん、クリスタル・スカルさん。もしもあなたが、怒りでもって私たちを閉じ込めようとしているなら、その理由を教えてくださいませんか」

 どことなく、コックリさんを思わせる口調が残っていることから、降霊術にかなり乗り気だったカメリアの気概が知れた。む、無線機を渡しておいてよかった、とデイビスの背筋が凍りつく。カメリアの身にクリスタル・スカルが降臨されたら、絶対に、心身ともに傀儡の如く乗っ取られるに違いない。

 神殿内は、彼女の問いかけを吸って、しばらくしんと静まり返っていたが、やがてどこからともなく、粛然たる応答が響き渡った。

《我は怒っている》

「はあ。そうですか」

 突然の怒りの宣言にも、なんかもう、疲れて反応する気が起きない。こいつも駄々っ子なのかよ、とカメリアの負う心労は、賽の河原の石の如く募るばかりだった。

《汝らの立ち去りし外界にて、古からの警告にも関わらず、我らが同胞たる、火の神、イクチュラコアトルと水の神、アクトゥリクトゥリが、掟に背いて向かい合うこととなった》

「え?」

《イラッとした》

「八つ当たりなんかい」

《貨車のレールをねじ曲げたが、それでは我々の怒りは収まらない。そこでこの神殿内の時空も、同様にねじ曲げるものとしたのだ》

「……要するに、こいつのやっていることは、幼児が駄々捏ねて、プラレール®︎を破壊しまくるようなもんだな(注、『プラレール』は株式会社タカラトミーの登録商標です)」

 三人は頭を抱えた。神々とはそういうものなのかもしれないが、理不尽にすぎて、彼らにとっては完全なとばっちりである。

「クリスタル・スカルさん、それは困ります。私たちは無事にここから脱出したいんです」

《そう言われてもなー》

「なんとか怒りを解いていただく方法はないでしょうか?」

《やっぱ、生贄じゃない?》

「それはちょっと」

《じゃ、無理》

 プイッ、と顔を逸らしたかのような捨て台詞っぷり。それまで我慢して会話していたカメリアにも、この野郎、とただならぬ殺意が湧く。

「私たちは何も、若さの泉を求めにきたわけじゃない。神殿の外に出してくれたって、あなたには何の損失もないはずでしょう?」

《元々、ここは生と死の狭間の空間だからねー。ま、もう一度こっちに来て、土下座されたら、考えてやらないでもないけど。ま、できたらの話だよねー》

 今度こそ、カメリアのみならず、ジョーンズも、デイビスも、こめかみにピキッと青筋を立たせた。

「はあ、とりあえずそちらの方に行きますから、そこで話し合いましょ。待っていてください」

《うん、ま、来れたらの話ね。その前にお宅ら、死んでるかもしれないけど。それじゃあね》

 ぶつっ、と無線を切ると同時に、カメリアが怒りのままに腕を振りあげ、無線機を地面に叩きつけようとした。慌てて腕を掴み、それを止めるデイビス。

「あのクリスタル・スカル、ここへきて急に憎たらしくなってきたわ。どうも最初から、胡散臭い奴だとは思っていたけれど」

「とはいえ、今までの道を戻るしかねえな。結構奥深くまで入ってきちまったけど、どのくらいかかるんだろうな」

 薄暗い神殿を見つめ、はあ、と溜め息をつく三人。目的を持って進むならまだしも、せっかく来た道を引き返すという行為は、ゴリゴリに精神を削がれるものである。

「ジョーンズさん、この神殿の地図はないんでしょうか?」

「冒険家の心得、その一。不正確な地図を持って探検することは、地図を持たずに踏み入るよりも遙かに危険だ」

「なるほど。つまり、ないんですね」

「また一歩一歩、確認しながら戻るしかなさそうだな。行きよりは早く着けるとは思うが……ただ、気が重いな」

 すると、それまで二人のやりとりを見守っていたカメリアが、静かに宣言する。

「地図は、あります。頭の中にですが」

 デイビスも、ジョーンズも、彼女の方を振り向いた。その時にはもう、カメリアは自らの手記を取り出して、取り憑かれたように素早く地図を描き始めていた。時折り、手を休めてじっと目を瞑り、その記憶の底を辿っていたようだが、頁を埋め尽くす頃には、ほとんどその中断もなくなっていった。デイビスは集中力を切らさないように注意しながら、彼女の手許をそっと見た。地図は、紙いっぱいに極めて綿密に書き込まれ、仕掛けられていた罠の特徴や、その範囲までもが記録されている。

 カメリアは黙ってその手記を手渡し、ジョーンズの確認を求めた。

「これは——精確なのかい?」

「距離や方角は信用できたものではありませんが、道順は確かです」

 自信、というよりは、事実を口にする際の、確信を秘めたような淡々とした物言いに、ジョーンズも真摯に眉根を寄せ、大いに精神を集中させて読み解いていた。
 一方のカメリアは、精神統一から解放されて、一気に虚脱感に襲われたのか、静かに息を吐いて肩の凝りをほぐしている。その姿を見ていると、なぜかデイビスの胸は、暗雲のような不安に呑み込まれてゆく。


(馬鹿なんだよ、私。全部信じちゃうんだよ。何を言われたって)


 ————あんたは、馬鹿じゃない。いつも俺の遙か先を行ってる。出会った時から、いつだって、ずっとそうだった。

 自分の力で夢を見て、自分の力で道を切り開いて。他人を傷つけてばかりの俺なんかとは違う。同じなんかじゃ、ないんだよ。


 また心がざわめいて、胃がじわじわと、喪失感に蝕まれてゆく。ジョーンズは慎重にその地図の内容を確かめ、自らの記憶とも符合しているか、検分していたようだったが、まもなく、

「試しに、地図の通りに、少し戻ってみようか。内容が正しいとすれば、この道を一本進めば、ふたたび魂の泉の近くまで繋がるはずなのだが」

と提案した。

 そこで荷物をまとめ、慎重に新たな道を進んでゆくと、果たして、見覚えのある光景が広がってきたが、その道の中途で、視界を埋めるとあるものが、彼らの進路を妨げていた。

「あれ? 大岩で、通路が塞がってる」

「おかしいな、これは、昨日罠が作動して転がってきた岩か? こんな中途半端なところで、停止していたわけはないのだが」

 ジョーンズはランプの光を仔細にめぐらせて、通路と大岩の合間に、うまく身をねじ込ませれば、向こう側に進むことができそうな隙間を見つける。洞窟の壁に足を引っ掛けて、器用にもジョーンズは、その手前まで登り詰めた。

「ファルコ嬢、君の地図だが、しばらく私が借りていても良いかね?」

 大岩の向こう側へと出る直前で、思い出したかのようにジョーンズが振り返り、カメリアに問う。

 えーと、会話してもいいよね?

 というカメリアからの無言の確認に、デイビスは頷いた。

「大丈夫です。私たちは、どうしましょうか。一緒に行きましょうか?」

「そうだな……いや、マリオン、君はここで待っていてくれたまえ。私だけで行く」

「マリオン?」

 戸惑ったカメリアのあげた声色に、どき、とデイビスの胸が冷たくなった。
 ジョーンズは不思議そうに振り向いてから、すぐに自らの言い間違いに気づいたらしく、冷静に訂正した。

「ああ。……すまない、ファルコ嬢」

 そう言うと、ジョーンズは岩の彼方へと消えてしまった。残された二人は、並んで壁に寄りかかり、彼の帰りをじっと待つより他にない。

「ねえ。さっき言ってたマリオンって、誰なんだろうね?」

「昔の女だろ。どーでもいいだろ、昨日会ったばかりの奴の言うことなんて」

「別に、気になる訳じゃないけどさあ」

「じゃあ、あいつに媚びを売るのはやめろよ。なんだよ、昨日からずっと、あの大学教授を狙ってる女生徒みたいな態度で」

 明らかな当てこすりを聞いて、温厚なカメリアもさすがに黙っておられず、ムッとしたようにデイビスを振り返った。

「媚びなんか売っていないでしょう?」

「どうだか。別の女の名前にも、すぐさま反応していたじゃねえか」

「知らない名前が出てきたら、普通は誰のことだろうって思うでしょ。そこに特別な意味なんかないし、気にしてるわけでもない」

「へえ。それじゃあ俺が、昔の女の名前であんたを呼んだとしても、あんたは平気なんだな?」

 その発言は、彼女にとって、これまでとは異なる意義を孕んでいたらしい。カメリアは急に、涙を堪えるような顔つきになりながら、


「———どうして、そんな意地悪を言うの?」


と、静まり返った神殿の中で、デイビスに問いかけた。

 まずったな、と彼は舌打ちしたい気分になった。こんなに薄暗い、不気味な遺跡の奥底で、何を馬鹿なことを言い合っているのだと。痴話喧嘩にも似たその諍いには、堅苦しい気配が混じりそうになるほど、茶番めいた阿呆らしさが増してくる気がした。
 デイビスは肩をすくめ、露悪的な物言いで彼女に答えた。

「なんだよ。気にしないって、あんたがそう言ったからだろ? それなら、誰に対してもそんなことが言えるのかって、疑問に思って口にしてみただけだよ」

「だからって、わざわざ私にそんな当てこすり言わなくたって。そんなの——」

 真剣な、ともすれば必死とも響くような声色に、デイビスは冷たい目線を向けて聞き入った。

 なんと言うのだろうか。

 全然信用してくれないのね?
 人の心を試して楽しい?
 私が泣いたら満足なの?

 ああ、そうだよ、と言い切って、終わりにしてしまいたい。どうせこうした険悪な会話で、少しずつ、互いを嫌ってゆくようになる。それよりも今ここで、茶番を打ち切ってしまいたい。彼女の手を煩わせた挙句、惨めな姿に幻滅されるくらいなら。


「———そんなの、私のこと大好きな証拠じゃない」

「ああ、その通りだ———

ンンンンンンンンンンンン??????」


 すげなく顔を逸らすつもりが、思いっきり目をひん剥いて彼女を振り返ってしまったデイビスは、その瞬間なぜか、あ、負けた、と確信した。それは、あらゆる悩みにヒョッコリと羽が生え、パタパタとどこかへ飛んでいってしまうような敗北で、悶々と積み重ねていた前提さえも、呆気なく崩れ去ってしまうのだった。

「歪んだ愛に溺れそう(うっとり)」

「変わった性癖の持ち主だなあ」

 ぱたたた、と毎度お馴染み、背中に架空の翼をはためかせて陶酔するカメリアに、デイビスはぽかんと口を開けていた。こいつ、本当にアホなんだろうか? 俺にはそのポジティブさが、まるで理解できん。

 それと同時に、彼女の明るさに照らし返されるように、自分の醜さが浮き彫りになるようで、思わず視線を逸らした。カメリアといると、時々、計り知れぬほど息苦しくなる時がある。けれどもそれはきっと、彼女の問題なのではない。

 俺は、くだらない喧嘩をふっかけて、何を期待していたんだ。そもそも、俺が何を口出しする権利がある?
 何の義理もないくせに、随分なご身分だな。だからお前は、誰からも愛されはしないんだ。

 そうして、しばらく黙り込んだデイビスの顔を、カメリアはそっと下から覗き込み、いつもの通り、両手でしっかりと彼の手を握り締めながら、

「大丈夫、心配しないで。ちゃんと、わかるよ」

と、柔らかな水のように嫣然と微笑んだ。

「……………………愛が?」

「そ。愛が」

 にこにことして言うカメリアの能天気さに、デイビスは心底呆れ返った様子だったが、何も反論はしなかった。なぜか、彼女を試すだけ無駄だ、という気持ちが湧き起こってきて、けれどもそれは拗ねたようなものではなく、どこか肩の荷を下ろすように自然で、しかし自己嫌悪だけが残る感情だった。

(俺のくだらないわがままなんか、聞かなくて良い)

(俺みたいな奴に、あんたが気を遣う必要ない)

(あんたにとっても、俺は問題児なんだろ?)

(見捨てたって、良いんだ。俺のこと)

 どうしてその一言が言えないのだろう。
 いつも涙が滲みそうになって、それを押し殺すのに必死で、言葉など消えてなくなってしまう。けれども、こんな情けない理由で泣くのは、絶対に許されない。精神薄弱で、気持ちの悪い人間だと、嗤われて、失望されて、好意も何もかも失ってしまう。けれどもそれは全部自分の責任なのだから、弱さなど、けして他人には見せてはいけない。

 まもなく、ジョーンズがふたたび、大岩の隙間から身をねじ込ませて、彼らの前に降り立った。その表情は陰鬱として、どこか苛立ったような焦りも感じられる。

「だめだ、道順は正しいのだが、行く手が塞がっていた。元の道には戻れなくなっている。
 もうクリスタル・スカルの場所に引き返すことはできない」

 ジョーンズは、フェドーラ帽を取り、埃や汗で汚れた髪を掻きあげた。

「ここは、クリスタル・スカルの手の内だ。私たちの味方なんかいない。
 元々、君たちは無関係な存在だったのに——すべて、古代の神々を見くびった私のせいだ」

「い、いいえ。俺たちは、勝手にここに侵入しただけですし」

「すまない。……少し、一人にさせてくれ。解決策を考えたい」

 ジョーンズは薄暗い部屋の隅に座り込むと、両手で顔を覆い隠し、物思いに沈んでしまった。今までの精悍な姿からは考えられないほど意気消沈しており、自らを責める罪人のように見える。当然だろう。自分の救助にきた人間らまでも、奈落の底へと引きずり込んでしまったことになるのだから。そっとしておいてやろう、とデイビスはカメリアを引き連れ、彼から距離を取る。その荒んだ胸中を想像すると、デイビスの胸も、同じ苦しみに痛んだ。

「さーて、これからどうしようかしら。楽しい魔宮探検徒歩ツアーは、まだまだ終わりそうにないわね」

 なるべく気が塞がらないようにと、努めてカメリアはのんびりとした声を出して、俯いているデイビスに語りかける。この探検のさなかでは、ムードメーカーとしての役割を意識している彼女だが、この陰鬱な雰囲気は、そのような台詞だけではとても取り除けるものではないだろう。

「ごめん、カメリア。あんたを巻き込んで」

「大丈夫よ、あなたのせいじゃないもの。まったく、ホント腹立つわよね。あのクリスタル・スカルって。再会したらぶちのめしてやろうかしら」

「でも、あんたは俺についてきてくれたのに、俺……あんたに恩返しできたことなんか、一度もない。今まで、一度だって」

 その言葉に、初めて、カメリアは顔をあげた。

「俺はいつだって、あんたを利用することしか考えていなくて。あんたは気を遣って、色んなことを言ってくれて、色んなことを俺にしてくれるのに……俺は、俺はあんたに、何も返せやしなかった」

 薄暗い神殿の中、ほつり、ほつりと雫が滴る音に混じって、デイビスの揺れる声が響き渡る。


「ごめん、な。こんな目に遭わせるなら、俺が一人で行けばよかったんだ」

 苦しげに紡がれたデイビスの言葉に、カメリアも覚えず、ふっと鎧を解いて、彼と見つめ合った。それは、何らの目的に捧げられた表情でもなく、ただ長らく彼を慮って浮かべていた笑いもやめ、ようやく本来の心から滲む弱さを露わにした、そんな顔だった。その頬の上には、清水のように繊細な笑みが漂い、瞳には少しだけ哀しげな光を宿していた。

「平気よ、私はあなたに会えるだけで嬉しいの。例えここで終焉を迎えるにしても、あなたと一緒なら、そんなに悪いことではないのかもしれないわ。
 それに、あなたを一人にしてしまうより、隣で少しでもあなたの恐怖を慰められる方が、私にとってはよっぽど良かった」

 言いながら、自分のそばに歩み寄ってきたアレッタを腕に止まらせ、その美しい羽をそっと撫でる。

 お前は生きるのよ、とカメリアはアレッタに心の中で話しかけた。ごめんね、もう二度と陽の下に連れて行けないし、大空を飛ばしてやることもできないかもしれない。でも、水や食糧があるここなら、お前は充分に生きてゆけるはずだから。アレッタは、そのつぶらな眼をじっとカメリアに向けたまま、何も語ることはなかった。

 一方、孤独な思案に塞ぎ込んでいるジョーンズは、何のアイディアも浮かばないままに、貴重な時間を無駄にするしかなかった。
 自分はどうなっても良い——だが何としてでも、若者たち二人は無事に帰らせなければならない。そうした使命感が、却って彼の頭脳を鈍らせ、新しい仮説を枯渇させていた。実際、ほとんど頭は働いていないと言って良い。ただ、苦しいばかりの罪悪感が、彼の精神を追い詰め、本質を捉える眼を曇らせていた。

 しかしやがて、彼は静かに頭をもたげた。解決策が思いついたわけではない。どこかで、甘えた声が聞こえたように思ったのだ。けれどもそれは、人間のものではない。もっとずっと昔から知っている、全身に響き返る声。

 ジョーンズはその正体の知れない懐かしさに惹かれるように、薄闇の中に浮かびあがる影を見出し、微かに目を瞬いた。


「——————インディアナ?」


 それは、一匹の牡のマラミュート犬だった。黒、灰色、白の混じった毛に覆われ、狼を思わせるその毅然とした顔つきに、目だけが酷く人懐っこかった。その大型犬は、柔らかな巻き尾を地面に横たわらせ、じっと、物も言わずに彼のことを見つめていた。その全身は、静かに光を放っているかに見え、まるで、それ以上は近づいてはいけないことを知っているかのように、神聖な位置を守っていた。

「インディアナ、どうしてここにいるんだ」

 犬は何も言わなかった。ただ、長い間目を合わせた時、いつもそうしていたように、無欲に首を傾げ、豊かな毛量に満ちた尻尾を微かに揺らしていた。

「どうした。何を待っているんだ? そんなに遠くにいたら、寂しいだろう。こっちにおいで」

 言いながら、ジョーンズの喉に、懐かしくも熱いものが噴きあがってくるのを感じた。インディアナの、真っ直ぐな黒い眼。それはいつも、直接、心そのものに呼びかけるものだった。期待に満ち、裏切られることすら考えたことのないような明るい瞳は、ジョーンズの眼から一度も離れようとはしなかった。やがて、インディアナは四つ足で立ちあがると、そわそわとその場を忙しなく行き来しながら、ジョーンズに向かって、低い声で一度だけ吠えた。

 じわり、と全身の細胞が震えるように記憶を蘇らせると同時に、たちまち、心が幼少時代に戻ったかのように、鼓動が膨れあがってゆく。インディアナは、誘っているのだ。遊びに行こう。一緒に、冒険に出かけようよ、と。それは、幼い頃の彼ら二人が、ともに目を輝かせて壮大な世界へと飛び出してゆく、その最初の合図だった。

 自分と冒険に出かけたのは、もう何十年も前のことであるはずなのに、インディアナは、それらの思い出のひとつひとつを、けして忘れたことがないようだった。遊ぼう、という無邪気な誘い。けれども、同じことを人間に伝えられるよりも、インディアナのしぐさや表情からそれを感じ取る方が、何倍も深く、心に染み込んできた。ジョーンズが野球に打ち込む際も、手作りのトロッコで線路を走り抜ける際も、インディアナは常に一緒だった。人間の友人たちに混じって、当たり前のように、インディアナがそこにいてくれた。

 もう記憶もないほどかつて、ジョーンズがインディアナと初めて出会った時、まだ鼻はピンク色で、もちもちとした体は綿のような毛に覆われ、弱々しく、両手に簡単に収まってしまうほどだった。父親のヘンリーが抱き締めると、その生き物は、小さな舌でちろちろと彼の頬を舐めていた。それから、ともにベビーベッドの中で成長し、歩けばすぐに転んでしまうほど幼かった体は、たちまち彼の身長を超えて大きくなり、逞しい四肢の被毛を風に靡かせていた。

 壁の向こうから、太く吠える声が聞こえると、彼はすぐに教室を抜け出し、小学校の窓から飛び降りて、落ち葉の上で待っているインディアナの首元を乱暴に掻き撫でた。インディアナは、少し荒い息をしながら彼を見あげ、行こう、と彼が言ってくれるのを待っていた。そしてジョーンズは、インディアナとともに、新しい世界に向かって駆け出していった。

 それは、今後の国を股にかける旅に比べたら、冒険とも言えぬものなのかもしれない。風の渡る野原や、人気のない山道。けれども二人にとっては、そこは未知で溢れていて、どれほど探検しても夢の尽きることはなかった。次々と奇妙な落とし物を拾ってきては、ジョーンズの前に並べるインディアナ。今思えば、自分の好奇心を満たすためだけに、それを持ってきてくれたのかもしれない。変なの、と彼が腹を抱えて笑っている姿を、インディアナは自らの子供でも見守るかのように、静かに見つめていた。力いっぱい競走すると、その美しい疾駆は、ジョーンズがとても追いつけたものではなかった。狼を思わせる凛々しい肢体に、素早く耳を動かす様、それに併走から遅れると、所在を確かめるように振り返るあの優しさ、嬉しくて嬉しくて堪らない、というようなあの全身の生気。インディアナは、最初の冒険の仲間であり、そしてかけがえのない相棒だった。他のどんな人間にも、どんな生き物にも置き換えることなどできない。父との会話が交わされない孤独を忘れさせてくれたのも、母の死に直面した時、一晩中涙を舐めてくれたのも、この犬だった。あの時、地球上で自分のことを一番愛してくれたのは、父ではない。間違いなく、インディアナだった。

 覚えている、帰宅する彼をいつも一目散に出迎え、飛びかかろうとして数度足踏みし、教えられたことを思い出したかのように、ふと行儀良く座り込むしぐさ。しかし尻尾だけは、その嬉しさを隠しきれぬように、勢いよく振られていた。そのてらいのない愛情には、いつも彼の心に、真っ直ぐに射し込んでくる。年老いて、引きずるようにして彼の後を追いかける時も、いよいよ何も食べられず、彼がそばに寄るだけで嬉しそうに吠えかける時も、いつも彼を見るたびに喜びに打ち震え、その瞳は、他のすべてのことを忘れたように輝いた。それは、死の間際においてすら、そうだったのだ。

 ————僕だって、君のことが大好きだったんだ、インディアナ。
 もっともっと、君を喜ばせてやりたかった。僕は君を誰よりも愛してるんだって、全身で伝えてやりたかった。

 彼が隣にいる時、ジョーンズは誰よりも自分自身に戻ることができた。父親と同じヘンリーではないし、ジュニアでも、ジョーンズ教授の息子でもない。自分以外の誰も、関係ない。僕は僕なんだ、ということは、他のどんな人間でもなく、インディアナが教えてくれた。

 そして今——昔年の日と同じように、インディアナは無邪気に笑いかけていた。あのピンと立った耳、キラキラと感情をいっぱいに湛える黒い瞳、舌を出して満面に浮かべる、何の飾り気もない純粋な笑顔。何も変わっていなかった。もう何十年も前に死んだはずなのに、全身が、そのシルエットを覚えていた。喰い入るようにその犬の姿を見ていたジョーンズは、突然、喘ぐほどの哀しさが衝きあげ、封印してきた彼の死に対する感情が、洪水のように胸に押し寄せてくるのを感じた。

「インディアナ、だめだ。君は、こんなところに来てはならない。ママのところに帰るんだ」

 インディアナは軽く爪の音を立てて、まるで彼が子どもの頃と同じ、遊ぼうよ、とでもいうように振り向き、大きな尻尾をゆっくりと振った。それはいつも向けてくれる、彼がこの世にいてくれて、とても嬉しい、というような笑顔だった。

「インディアナ!」

 インディアナは駆け出した。その尾は冒険欲と好奇心に満ち溢れ、活き活きと風に翻っている。

「ジョーンズさん!?」

「インディアナ、戻っておいで!」

 慌てて立ちあがろうとして、怒濤のような愛情が胸を塞ぎ、一瞬、呼吸が熱く震えた。涙がぼろぼろと流れ落ちてきた。思い出そうとして溢れてくるものではなかった。それは、これほど彼が愛してくれたにも関わらず、自分はそのとめどもない愛情に応え切れていたのか分からない、という激しい罪悪感にも似た愛おしさだった。彼のことは、もっと幸せにできたのかもしれない。一秒たりとも離れず、自分が大人になった後でも、いつまでもいつまでも、思い切り冒険に連れ出してやるべきだったのかもしれない。

 あの日の夜、おやすみ、と語りかけてもじっと目を見つめてくるので、ベッドの中から手を伸ばし、頭を撫でてやると、柔らかな巻き尾を振ってそれに応えた。濡れた鼻。熱心に掌を追うように擦りつけ、もっと撫でてほしい、と訴えかけるような甘え方。目が覚めた時、もうそこにインディアナの魂はなかった。名前を呼びながら、薄暗いベッドの下に隠れていたその身体を引っ張り出すと、インディアナの死体は、寝そべったかたちのまま硬直していた。何かを言いさしたように口を少し開き、いつも素直だった黒い目は焦点を合わせず、この世の何も見つめてはいなかった。

 どうして、独りにしてしまったのだろう。抱き締め続けてやればよかった。最期を見届けてやればよかった。そして、その死後の顔に歪められた表情が、寂漠を極めた真理であったこと、少しさみしげな、苦しげな、諦めたような色を顔に固めて、永遠の骨董品の如く沈黙する真理であったこと。朝にさえうっすらと震えながら無欲に見つめてくるあの友人は、死を甘受して、この世からいなくなってしまった。不思議そうに瞬きをしながら、絵空事を知らないあの丸い眼球で、彼を見つめ返す姿。あの眼差しが断絶された日に、彼は初めて、相棒の死の意味を知ったのだ。

 しかし今、その哀しみですら、別の世界で起きた夢のように思える。インディアナは、まるで遊び慣れた道を知っているかのように、暗闇の中を駆け抜けた。そして、幼い彼が道を見失わないように、足音が遠くなればその場に立ち止まり、低く吠えて、彼を未知の冒険へと促すのだった。かつての元気で健康な体を取り戻し、力強く、はち切れんばかりの喜びに身を浸しているインディアナは、若さの泉などといった幻想は、まるで考えたこともないのだろう。それよりも、ただ飼い主と遊ぶことだけを求め、楽しくて仕方がない様子だった。

 生と死の狭間、その異次元の空間を、ふたつの魂が駆けてゆく。過去も、現在も、未来もなく、走り続けるその時間は、永遠のように感じられた。暗闇のうちで、インディアナだけが、光のように優しく主人を導いていた。その生き物が隣に寄り添ってくれることは、自分が生きることよりも当たり前で、ひょっとしたら、自分の魂よりも、ずっとずっと愛おしかったのかもしれなかった。

「ここは……」

 インディアナはようやく速度を緩め、舌を出して荒い呼吸を繰り返していた。彼の導いてきたその広間は、確かに、神殿の終着点のように思える。信じがたいように辺りを見回しているジョーンズの後ろを、ぜえぜえと息を切らせながら、全速力で追いかけてきたデイビスとカメリアが、汗まみれのままにへたり込んだ。

 広間の中央には、あの伝説の通り、若さの泉が、滔々と広がっていた。しかしインディアナは、その水の効力にはまるで関心を寄せてはいなかった。そんな不思議なものを見つけた自らの手柄を褒めてもらいたがるかのように、数度、誇らかにその声を反響させた。

(……では、単なる伝承ではなかったのか。本当にここには——)

 暗闇を照らし出す、蒼く清らかな漣。大きな盆の中に、その水は段違いに明度が高く、宝石のように輝いていた。自ら発光しているとしか思えない、その煌々たる波紋は、ほかにいかなる光源もない広間を押し包み、柱や天井に、神秘の薄光の筋を描いている。若さの泉は、確かに目の前にあった。

 そこは、けして前人未踏の部屋なのではない。ほんの少しばかりの人が、ここに辿り着いたのだろう——永遠に生きたいという欲望は、けして人間たちを、この神秘的な場所へ導こうとはしなかったのだから。清らかな泉の縁には、生前の宝飾品や、食器、貝殻などの思い出の品々が捧げられている。恐らくそれは、愛しい人々の死をけして受け入れることができず、その記憶を追って、神々の世界へと迷い込んだ先人たちの痕跡。彼らはこの泉の波紋に、若き日の愛する者の姿を思い浮かべ、最も黄泉に近いこの場所で、涙していたのだろう。自らの死をも厭わず、もう一度会いたい、言葉を交わしたいという願い。その深い哀悼の意に守護されたこの部屋は、今まで一度も、自らの延命を求める欲望に穢されたことなどないのだった。

 その切なる想いが詰まった薄闇に、心が引きずり込まれそうになる。生きてふたたび会いたい者など、いくらでもいる。母親、考古学の師、前妻。しかし、彼らの人生は彼らのもので、その輝きは己の魂とともに、真珠の門の彼方に安らかに眠っているということが信じられる。けれども、目の前のこの犬だけは違う。インディアナは、今もなお自分を求め、ともに生きることを期待してくれているのだ。まるで、互いにひとつの生涯を分かち合い、ジョーンズには自分が、自分にはジョーンズが、どちらが欠けてもだめなのだ、と信じ切っているかのように、その身を彼へと委ね、全身で次の冒険へと誘っているのだった。

 インディアナは、ようやく追いついてくれたことを嬉しがるかのように、前脚をあげてぴょんぴょんと飛び跳ね、その泥だらけの肉球を、ジョーンズの衣服に擦りつけた。立ちあがれば、大人に匹敵するほどに大きな体をしているのに、その魂は純粋な子どもそのものだった。限りなく人生を捧げ、愛情をそそいでくる姿は、生前と何も変わらない。ジョーンズは膝をつくと、その温かく大きな全身を、力の限り抱き締めた。人生で最も濃い十数年をともに過ごしてくれた友人への想いが、あの穀物のような香ばしい匂いとともに、胸いっぱいに広がった。

「インディアナ、だめだ。僕はもう、君とは遊んであげられないんだよ」

 インディアナは尾を振りながら、その欲のない顔をジョーンズに近づけた。言葉が分からないこと、それがインディアナの一番の優しさであり、哀しさでもあった。インディアナは、長く湿った鼻をジョーンズに押し当てて頻りに匂いを嗅ぎ、何か困ったものでも見つけたかのように、彼の頬を流れ落ちる涙を、熱い舌で舐め始めた。かつての幼年時代と同じように、ジョーンズは彼の柔らかな首を、精一杯の力で掻き撫でた。

 いつだって、インディアナは自分の心を見つめてくれた。人間のように、言葉でも理屈でも同情でもない。ただ、その無言の優しさ一色で。インディアナは、単なる友達ではない、ジョーンズと同じ魂の一部、同じ魂の分身だったのだ。

 インディアナの死後、ジョーンズは、父と同じヘンリーの名を捨て、名前を問われれば、必ずインディアナと答えた。犬の名前を名乗っているのか、と笑われたこともあった。けれども、けしてこの相棒の死の哀しみからは立ち直れなかった。笑う者は笑えば良い。その名で人に呼びかけられる時、いつだって、彼も一緒に頭をもたげて、同じ方向を振り向き、ともに生きているような。そんな虚しい錯覚が、あれほど自分を愛してくれたにも関わらず、たった一人でこの世を旅立ってしまったこの生き物に示してやれる、ただひとつの愛情の証であるような気がしたのだ。

 デイビスは、彼の背後からおずおずと話しかけた。

「ジョーンズさん、いきなりどうしたんですか」

「何?」

「誰に話しかけているんです?」

 気づくと、彼の腕の中は空っぽで、そこには何物も存在してはいなかった。先ほどまで、その頬を舐めてくれた舌の濡れた熱も、もはやどこからも与えられはせずに、涙は伝うままとなっていた。

 けれども、まだ残っている。インディアナの懐かしい匂い。そして、服に引っかかっている——長い、あの懐かしい色をした毛。それは、たった一本だけだったのだが、それだけでも、忘れがたい記憶の呼び水となって、ジョーンズの心を包み込んだ。

(インディアナ。まだ冒険は終わっていないのだと、僕に伝えにきてくれたのか)

 この世でたった一匹の犬が掻き消えてから、どれほど世界は色褪せて見えただろう。そこに彼の姿はなく、もうあの愛情に満ちた眼差しも、自分を見つめることはない。しかし、自分が人生を歩む中で、徐々に過去へと置き去りにしてきた多くの思い出が、ふたたび息を吹き返し、彼の生来の冒険心を、強靭な勇気とともに駆り立てた。

 ジョーンズは袖で頬を拭うと、ゆくりなく立ちあがった。

「ファルコ嬢、相当に急がせてしまって悪かったが——ここに至るまでの、地図を描けるかね」

「あ、はい」

 カメリアはふたたび手記を取り出して、道順を追記した。駆け抜けてきた道のりについて、慎重に方角を思い出しながら、その歩幅によって、おおよその距離を割り出してゆく。手渡された地図を見て、ジョーンズは強い確信を得たように頷いた。

「彼女の地図が正しければ、ここは、最初にクリスタル・スカルが鎮座していた誘惑の広間の、ちょうど裏側となる」

「あいつ、やっぱり自分の背後に、若さの泉を隠していやがったのか。卑怯だなあ」

「それだけではない。運命の門も、そのすぐそばにあるな。入り口に近かったので盲点だったが、案外、これが出口なのかもしれない」

 ジョーンズは自らの鉛筆で、入り口の門、若さの泉、そして運命の門を線で結び、三角形を描いた。

「なるほど、すべてはひとつに集結していたわけだ。入り口、出口、そして若さの泉。そのいずれをも守る神殿の番人として、クリスタル・スカルは三点の中央に配置されていたのだな」

「ロストリバー・デルタ(三角州)らしい配置ですね」

「つくづく、この神殿はよく練られて建築されたものなのだな。しかし、彼に謁見する前には、清めの水で身を浄化しなければならないのだが——」

「あ、そういえば水質調査をしようと思って、清めの間の水を持ってきていたんだった」

「よし。それを体に振りかけて、再度クリスタル・スカルに会いに行こう」

 かくして、試験管の中の清めの水を数滴ずつ頭に振りかけた三人は、柱の裏側に隠し通路を見つけると、身をくねらせながら、ようやく最初の誘惑の間のそばへと抜け出した。そして彼らのすぐ横に現れるのは、とぐろを巻く大蛇を模した台座の上に鎮座し、橙色の光を放つ透き通った骸骨。

《いらっしゃい》

 相変わらずの口調である。カメリアは鼻息も荒く、クリスタル・スカルに掴みかかりそうな勢いで詰問した。

「クリスタル・スカルさん、あなた、私たちに嘘ついたわねー! 波紋は罠だって、最初に言ってたじゃないのよー!」

《たまには、嘘をつきたくなる時もある》

「裏切り者ー!」

 ところが、水晶髑髏はいけしゃあしゃあとした声色で、反対にカメリアに問いを突きつけた。

《ほほう、裏切り者、とは? 元より私は、お前たちになんの約束もしていない。
 第一、お前たち人間が、我の言葉を責められるのか》

「え?」

《我よりも、お前たち人間の方が、よほど己を偽っているようにも見えるが。だからこそ、お前たちの精神は、表面からは悟れぬほどに濁り切っている。そうだろう?》

 水晶髑髏は、その歯根までもが浮きあがっているおぞましい顎に笑みを浮かべ、カタカタと頭蓋を動かしながら語り始めた。

《まずは左の、帽子を被った男。お前は、母親の死を引きずり、実の父親との確執から逃げ回り、冒険に明け暮れようとする哀れな子ども。その人生のすべてが、父親の影からの逃避に彩られている。一見すれば勇猛果敢だが、その実、お前の心は、いまだ少年時代に囚われたまま》

 ぞく、とジョーンズの背筋が冷たくなった。その淡々たる言い回しは、実の父親に似ていた。研究に没頭し、自分の家庭を顧みず、母親や息子の声にも固く背を向けたままのあの男。それを前にすると、自分が世界中から見捨てられ、ただただ、寒い空気の漂う場所で、誰かに拾われるのを待っているような気分になった。

《そして真ん中の、緑の眼を持った青年。お前は自らの弱さも受け入れられず、他人の憐憫に縋るしかない、ちっぽけな人間。理解を求めながら、見透かされるのを恐れ、人を跳ね除ける。他人の言動をねじ曲げて解釈し、まともに感情を返すこともできない》

 デイビスはぐっ、と息を呑んだ。そんなことは、自分だって分かっている。けれども、他者にもそれを指摘されたという事実に、渦巻くような冷たい絶念が、脛から腿へと這いあがってきた。誰も彼もが、自分のことをそう思っているかもしれない。ここにいるカメリアも、ジョーンズも。

《最後にそこの口やかましい、ひょうろく玉の女》

 と、満を辞してのご指名。先ほどからクリスタル・スカルに喧嘩を売ってばかりだったカメリアは、ひょうろく玉と来たわね、と、すでにこの時点でイラッときている。



《————お前は、生きてもいないし、死んでもいない。いったいお前は、何者なのか?》

「——え?」



 明らかに一人だけ異質な問いかけに、カメリアは表情を失って固まった。言及されている事柄に、一応の心当たりはある、が。

「ええっと、大岩に轢かれてペラペラになっても死ななかったのは、作者がギャグ要員として安直に私を利用したからでして——」

「……虚しいな、自らギャグの解説をするのは」

 デイビスがカメリアへ憐憫の眼差しを差し向ける。いったい何の公開処刑なんだ、これは、と目を覆いたくなるような惨めさである。

《分かっただろう? いかにお前たちが、薄汚れた欺瞞と欲望にまみれた人間なのか。
 貴様らの魂はせいぜい、この神殿の供物になる程度の価値しかない。この中に、運命を切り開くだけの強さを持った者など、一人もいやしないのだ》

 クリスタル・スカルの宣告めいた言葉に、ジョーンズも、デイビスも、黙って奥歯を噛み締め、深い劣等感に彩られていた。だがしかし、カメリア一人だけは違っていた。彼女は、琥珀のように燃え盛る目を見開き、その紅い唇をわななかせ、クリスタル・スカルを睥睨していたのである。

 それは昂然たる、炎のような怒りだった。髪を逆立たせ、肌からは瞋恚が滲み出て、瞳は炯々として闇に燃えている。それは、この神殿から出さぬようにはぐらかし続ける不誠実さというよりも、むしろ、安直に人間の心を暴き、精神を裁定し続ける、その傲慢な神の欺瞞にこそ向けられていた。

 そしてカメリアが、震える吐息とともに口を開きかけた、その時————

 神殿の暗闇の遠くから、獰猛な咆哮が響き渡った。同時に、石と爪がぶつかるような足音が、一目散に迫ってくる。その声の持ち主は、風のように彼らの足元を疾駆し、一瞬ばかり、人間たちの脚に大きな体を掠めて走り抜けた。ジョーンズだけではない。デイビスにも、カメリアにもはっきりと目に映ったそれは、黒と灰色と白の、あの懐かしく柔らかな毛並み。

「インディアナ!?」

 その獣の影は、自らの友人を侮辱した者を打ち倒そうとするかのように、激しく吠え立てながら水晶髑髏へと飛びかかり、鋭い牙を剥き出しにした。その鼻面に押されて、水晶髑髏が落ちた。それは勢い良く坂道を転げ下り、甲高い音を立てて石像の足にぶつかった。インディアナはなおもその後を追って、犬歯を水晶に突き立て、けして最愛の友への冒瀆を許そうとはしなかった。

「今だ、運命の門を開けるんだ!」

 そのジョーンズの声に弾かれたように、三人は左手側へと駆け出し、その崩壊した部屋に鎮座する巨大な門を切り開く。背後に、インディアナの孤独な吠え声が響いていた。僅かばかり開かれている門を掴んで、渾身の力を込めると、轟音とともにゆっくりと運命は切り開かれてゆき、その先に続いている道を露わにした。

 出口!

 明らかに今までとは違う様相の通路。天井高くまで舗装されたその道は、彼らを元の世界へと導いてゆくようである。デイビスもカメリアも、ようやくほっとした息をこぼした。そのまま駆け出そうとして、ジョーンズは一瞬、迷ったように足を止め、インディアナの方を振り返った。その僅かな間が、命取りとなったのだろう。瞬間、彼の立っていた地面が、瓦礫もろとも崩れ落ちてゆき、その崩壊に巻き込まれて、彼の体もぐらりとバランスを崩した。

「ジョーンズさん!」

 デイビスが大声で呼びかける。嵐のように石材の破片が深淵へと降りそそぎ、辺りには凄まじい土埃が立ち込めた。咄嗟に、地面に這っていた蔦を掴んだジョーンズは、ぶら下がるようにして完全な落下を免れた。しかし、落盤した先は何も見えず、インクで塗り潰したような暗闇に閉ざされている。

 落とし穴、か——油断するのではなかった。こうした出口の間際こそ、最も危険だというのに。

 ジョーンズは舌打ちしたい気持ちを抑えて、側にいるはずの二人に向かって、声を投げかけた。

「おーい、明かりをつけてくれ!」

 デイビスは急いで、懐のライターを取り出し、闇を払うようにして小さな炎を掲げた。怪物を思わせる影が素早く移ろう中、頭上に重々しさを感じ、二階があったのか、と驚愕する。そしてその階上から、破格の存在感で覗いているのは。

「げっ、何あれ……!」

「こんなところにまであるのかよー!」

 記憶に新しい、例の大岩である。しかし今回は、昨日の数倍の大きさを誇り、今にも崩れかかりそうに彼らの上に迫っていた。

「わ、私、岩を止めてくる! ここであの岩が落ちてきたら、全員潰されちゃうもん!」

「あ、ああ。気をつけろよ、カメリア」

 つーか、止めるって、どんだけ馬鹿力なんだ? どちらかといえば細い体型であるだけに、またペラペラに轢かれるんじゃないか、という予感が胸を過ぎるが、すでにカメリアは天井から垂れ下がる蔦をするすると登って、落ちる瞬間を待ち構える大岩の、設置された前に立っていた。す、すげー、と感心するデイビス。その素早さときたら、蔦から蔦へと移動する猿並みである。

 あ、よかった、ちゃんとつっかえ棒が効いてる。カメリアはほっとして、大岩の周囲を見回した。確かに危なっかしいにしても、この棒が機能している限りは、彼らに襲いかかってくることはなさそうだった。

「ううん、きっと、これが出口を守る最後の罠なのね。ということは、どこかに起動の仕掛けもあるはずなんだけど。ねえ、どう思う、アレッタ?」

 アレッタは何も言わずに、その脚で、壁際に設置されていたボタンを押した。途端に、呆気ない音を立ててつっかえ棒が外れ、ぐらり、と大岩が転がり込んできた。

「嘘でしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?!?」


 その超重量の塊を、ガッ、と背中全体で受け切ったのは、火事場の馬鹿力とでも言うべきか。骨が軋むような悲鳴をあげる中、アレッタは自分の身に迫る危険を感じ、さっさと飛び去ってゆく。

「どーして今回は、アレッタの裏切りにばかり遭うのよー!」

 友情を儚む世にも虚しい叫び声に、さすがのデイビスも哀れむしかない。普段あれほどカメリアが愛をそそいでいるにも関わらず、アレッタの振る舞いなど、いざという時にはこんなものなのである。
 後ろに体重をかけて、全力で抗うが、元より傾斜のつけられているその床で、力を込めて踏み縛り続けるのは相当な難儀である。やがて彼女が下敷きになり、大岩が階下へと転がり落ちてしまうのも、時間の問題と思われた。

「カメリア!」

「わ、私は大丈夫だから。早く、ジョーンズさんを!」

「分かった。待っていろよカメリア、すぐにそっちに行く!」

 デイビスは大声で彼女を鼓舞すると、ジョーンズが何とか落ちることを免れている穴に、慎重に近づいていった。周囲の床も、地盤を失ったせいで脆くなっている。亀裂の入っている石材が、時折り、ぴしりと音を立てて、暗闇の底へと吸い込まれてゆく。

「急げ、逃げろーッ!! 早く——!」

 しかしデイビスは彼の指示に背いて、躊躇う素振りも見せずに、自らの手を差し出した。その緑の瞳は、青葉のように生命力を湛えて、ジョーンズの双眸を見つめている。道連れをも辞さないその真っ直ぐな眼差しに、ジョーンズは一瞬、言葉を失った。

「デイビス君、君は間違っている」

「間違っていません。これで、正しいんです」

「なぜ、言うことを聞かないんだ。私は、もう大人になって何十年も経った。若い頃にはできたことも、すでに体がついていかず、次第に老い始めている。今死んだって、心残りなど何もない。

 だけど君たちはそうじゃない、私と違って、たくさんの未来がある。こんな暗闇で、誰も知られずに死んではいけない。君たちの人生は、これからなんだ」

 ほとんど遺言とも取れるジョーンズの言葉だったが、デイビスは静かに微笑んで首を振り、彼に向かって辛抱強く語りかける。

「俺は、人を守る仕事に就いている人間です。例え、俺がこの先、どんなに立派な人間になったとしても、あなたをここに置き去りにしたという過去があったなら、自分で自分をけして許せなくなる。
 それに悪いことばかりじゃありませんよ、ジョーンズさん。大人になるにしても、ひとつだけ良いことがあります」

 ジョーンズは瞬きをして、デイビスの声に耳を傾けた。

「ここを出たら、みんなで酔い潰れるまで、しこたまビールを呑むんでしょう? そうなったら、あなたの奢りですよ。インディアナ・ジョーンズさん」

 ジョーンズはしばらく絶句していたが、やがて苦しい息の下から、光の滲むように微笑んで言った。

「……そうだな。”みんな”で、逃げよう」

 とはいえ、大の大人一人を、デイビスだけで引きあげるには、到底、人手が足りなかった。ジョーンズは、この三人の中で、最も体重が重いのである。現に何度か、手が滑り、ふたたび蔦にその体を任せねばならないことがあった。それに、下手に引っ張り出そうとすると、さらなる床の崩落を呼ぶ。埒があかないな、とデイビスは歯軋りをした。ジョーンズの掴んでいる蔦も、じわじわと壁から剥がれかかり、いつ千切れてもおかしくないように見える。

「ふんぎぎぎっ!」

「だ、大丈夫か、カメリア?」

 ゴリラのような声とともに岩を堰き止めようとするカメリアに、デイビスが語りかけた。女性一人の力では、さすがに無理があるだろう。

「来ちゃだめ、デイビス!」

「カメリア!」

「これ……もうそろそろ、限界……!」

 いかにギャグ要員として奇跡を起こし続けてきた彼女といえども、キツイ段階に差し掛かってきたらしい。
 その必死、というか血管の切れそうな表情を見て、デイビスは拳を握り締め、ついに腹をくくった。もうどこにも、逃げ場はない。

「よし、全員で、この穴の下に飛び降りるぞ」

「なんだと?」

「このまま岩に押し潰されるよりは、穴の下に出口がある可能性に賭けた方が良い。みんなで一緒に、この下に行きましょう」

「正気かね……?」

「どうでしょう。もうやけくそかもしれません」

 ふっ、と挑戦的に微笑んだデイビスは、乾いた自身の喉を湿らせるように、できる限り低く慎重に語りかけた。

「でもカメリアは、もう岩の下敷きになるしかないし、あなたもそろそろ、腕の力が限界みたいだ。
 俺だけひとり生き残るくらいなら、仲間と運命を共にした方が、せいせいするんです」

 言うと、デイビスは、大岩の真下に立って、ひとり奮闘しているカメリアに視線を投げた。

 暗闇の中で見つめ合う二人。

 飴色の瞳に、緑の眼が。
 緑の瞳に、飴色の眼が。

 互いに互いの眼差しを映し、そしてその瞬間に、考えていることがすべて、通じ合った気がした。

「何でも信じるって、そう言ったよな。あんた……」

 デイビスの言葉に、全意識を集中させて耳を傾けるカメリア。
 その顔は汗にまみれていたが、デイビスの美しい緑の眼を見下ろしたまま、信念を込めた瞳で、力強く頷く。

 デイビスは両腕を広げ、彼女に向かって叫んだ。

「来い、カメリア!」

 それを合図として、カメリアは地を蹴り、鳥が舞い立つようにして、デイビスの方へと飛び降りた。それと同時に、支えの失った大岩が動き出し、風を切りながら彼らの上へと迫ってくる。デイビスは、速度のついた彼女の全身をしっかりと抱き留めながら、勢いのままに、背後の穴が広げている深淵へと倒れ込んでいった。ジョーンズも、彼らが落ちてゆくのを確認して、同時に手を離したと見え、全員の体が宙に放り出される。そのぎりぎり真上を、轟音にまみれた大岩が通り過ぎてゆく。胃の浮くような浮遊感。それはなぜか、初めてウインドライダーを大空に飛ばした、あの夢のような瞬間を、ふっと思い出させた。


 これまでか。
 悪くない、人生だった————


 と、カメリアを抱き締めながら、暗闇の中へ落下してゆくデイビス。一瞬、稲妻のような白光が、閉じた目蓋を剥ぐように閃く。そして死を覚悟した彼らが、走馬灯を思い浮かべる余裕もなく。

どさささささささささささささささっ


と衝撃を殺しながら転がり落ちた先は、妙に整備されており、現像室を思わせる部屋。一番下敷きになったカメリアが、くぎゅう、と奇妙な鳴き声をあげる。ご丁寧にも、衝撃を吸収するマットを敷かれ、朦々と土煙が立ちのぼるその部屋は、正直、先ほどの穴の上から五メートルも落ちてはいないだろう。電線が引かれ、現代文明の香りさえ感じられるさなかを、ぱたた、とアレッタが優雅に舞い降りる。あれ、なんだ、ここ? そこへ、栗色の中折れ帽を被ったキャストが、彼らのそばへと近寄ってきた。

「はい。Panasonicの者です」

「あ?」

「綺麗に写真、撮れましたよ」

 三人は、差し出された写真を見た。フラッシュの中で、暗い穴に落ちてゆく彼らの姿が、バッチリ映し出されている。

「パコさんが解放されたので、早速、魔宮探検ツアーが再開されたんですよ。観光客用に、出口でのドッキリ記念写真サービスも復活しました」

「……まったく懲りていなかったのだな、あの男は」

 頭を抱える三人。昨日の今日でツアー再開とは、その執念と行動の迅速さには凄まじいものがある。

「……どうする? 記念に買ってく?」

「そうだな。せっかくだし、買って行こうか」

「あ、ディズニードルはだめです。日本円だけです」

「……では、クレジットカードで」

「ありがとうございまーす」

 かくして、旅の土産物を入手した三人は、釈然としないながらも、その写真を荷物の中に仕舞った。まあ、ふとした時にこれを見れば、魔宮から生還できた今日という日を思い出し、励まされることもあるかもしれない。

「それじゃ、俺たちはこれで」

「お世話になりました」

「ああ、色々とありがとう。パコのツアーの件に関しては、私が説き伏せて、なんとか中止に持ち込もうと思う」

「……大変ですね、変な助手にあたると」

 長かった神殿を出て、燦々と降りそそぐ太陽の下、彼らは別れの挨拶を告げる。ユカタン半島の陽射しは暑く、虫や鳥が鳴き交わしている。神殿の外は、その日も、茹だるような一日の中に生命の営みを繁栄させていた。眩むほどの気温の中、長期間の魔宮の調査を終えたにも関わらず、脱出後にも新たな難が待ち受けているジョーンズを思うと、デイビスもカメリアも同情を禁じ得なかった。

「まあ、これも時が経てば、良い思い出になるのかもしれないな」

 そう言って、光の下で、改めて購入した写真を見つめるジョーンズ。落ちてゆく三人を捉えた光景の端にある、薄暗い神殿内にしては奇妙に白飛びした、曖昧な線——それは、単に撮影時のフラッシュの悪戯だったのかもしれないが、ジョーンズの目には、微かに、柔らかな毛に包まれた、懐かしい形の尻尾が映り込んでいるようにも見えた。

 デイビスは、そわそわと躊躇っていた様子だったが、やがて心を決めたように、

「一緒に冒険できて、楽しかったです」

と、小さく付け足した。

 ジョーンズは、自身のトレードマークとも言えるフェドーラ帽を脱ぐと、いきなり、彼の手を強く握り、微笑んで力強い握手を交わした。

「とんでもない、私もとても楽しかったさ。しかし、ここまで無事だったとは、初めてにしちゃ上出来だ。冒険家としての素質は、充分にあり、ってところかな」

 デイビスは、深い新緑に輝く瞳で、外の光の弾ける、ジョーンズの生き生きとした青い瞳を見つめていたが、やがて彼も、毅然とした微笑を返して、握られた手に力を込めた。

「波乱万丈の世界と、そこにひしめく未知の驚異は、私たちの心を沸き立たせ、この世がいかに果てしなく、理解しがたく、生きるに値するのかということを教えてくれる。

 人生は素晴らしき冒険旅行Life is an astounding journey。アドベンチャーに、終わりはないのさ」





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