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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」 19.スプラッシュ・マウンテン③




(ディズニーを、頼んだよ)







(僕は、ディズニー家の一員じゃないよ)

(うん、でも僕自身はもうディズニーじゃない。昔はディズニーだったけど。

 いまは、ディズニーという名前は、長いあいだに僕らが大衆の心の中に育ててきたものを指してるんだ。分かるかい?)

(うん)

(僕もそばにいて助けるから、
何か困ったときは、僕がここにいるからね)

(うん)

(約束できるかい?)

(うん)







(僕、君のためなら、何だってするよ。
いつだって君の味方になって、君が喜んでくれるように、一生懸命働くんだ。

僕は君の、一番の親友だからさ!)






 ——————
 ————
 —……





「どう考えても、あのキノコの幻覚成分が原因だろ。この郷の動物たちは、アルコールが禁止されてしまった分、マジックマッシュルームを代用品としてラリっていたんだ」

「なんちゅー郷なんだよ……」

「こういうのは田舎の方が深く根付いていることがあるな。まだじっとしていろ。下手に動いて、頭を打ったりするとまずい」

 鍾乳洞特有の、光暈のように広がる木霊に包まれて、ミッキーは瞼を開けようか、開けまいかをぐずぐず決めかねていた。視界は眠たい黒に閉ざされたまま、ぴくりとも動かない。

「あーあ、ストームライダーの身体検査に引っ掛かったらどーすんだよ。……ってまあ、今の季節は発進もないし、関係ねえか」

 石と衣服が擦れあうような音に続いて、あくび混じりに、ごろん、と横たわったらしい声。そっと薄目を開けて見ると、比較的地面のなだらかに均された洞窟に、デイビスとスコットが寝転んでいるようだった。本来なら真っ暗な漆黒に閉ざされているべきところを、ぼんやりと明るんでいるのは、ジュディの私物のスマートフォンが、懐中電灯の役割を果たしているからだろう。動物らしく、闇の中の僅かな光を反射し、黒目を煌めかせている彼に気づいて、デイビスが場にそぐわない声をかける。

「おー、ミッキー。起きたのかよ」

「うん。なんだか物騒な話をしていたね」

「私の指は見えるか。何本だ?」

「二本……」

「よし。見たところ、トリップは早めに終わるらしいな。他の奴らも、そろそろ目を覚ます頃だろう」

 くい、とスコットが親指を向けた先には、洞窟の壁にもたれて、座り込んでいるジュディ。いまだ目を覚まさないニックに膝枕を貸してやりながら、心配そうに頭を撫でている。こんなところまで来て、今さら見せつけられるアレっぷりに、さすがのデイビスも閉口せざるをえない。

「なあ、余計なお世話だけどお前ら、……本当に付き合ってねえの?」

 「くどいわねっ!!!!」


「(怖……)」

 ウサギにはないはずの牙を光らせながら放たれたその怒号に続けて、クックックッ、と笑う声が響いてくる。ジュディは真っ赤になって、ニヤニヤとほくそ笑んでいるニックの肩を揺さぶった。

「ちょっと! 起きてるじゃないの!」

「なーに大声出してんだよ、ニンジン。やかましくって、おちおち寝てられもしねーっての」

 緑色の目を細めながら起きあがったニックは、心配のあまり、顔の真ん前にまで垂れ下がってきていたジュディの耳を、ピン、と優しくはじく。そうすることで、落ち込んでいた心も元通りになるかのように。

 そこへ、二つの影法師が、闇の中からぺたぺたと近寄ってくると、それぞれの前脚が抱えていたものを、もんどり打つように地面に投げ出した。蜜のたっぷり詰まった大きな蜂の巣、それに、びちびちとのたうつ数匹の魚が、踊り狂うように洞窟の底を跳ねる。

「さあ、みんな、こっちに来いよ。食事の時間さ」

「おっほ! おりゃもう、腹ペコだぜえ」

 さすがに、イングランド中部の森で生き抜いてきた二匹はたくましい。元気な者は起きあがって、だらしのない者は——若干一名だが——芋虫のように這いつくばって、食糧を囲む。ミッキーは、ズボンの中に仕舞っておいたソーサラーハットを引っ張り出すと、真っ青な布地にきらきらと火花の走るそれを被り、ぱちんと指を鳴らした。それで充分、ぽっと周囲を明るませた魔法の焚き火を見て、デイビスは思わず、ヒュウ、と口笛を吹く。

「やーるじゃん、ミッキー!」

「Ha-hah! このくらい、どうってことないよ!」

「となると、やっぱり一番の重症は……あいつなんだな」

と、魚を貪る彼らの視線が、焚き火から離れた薄闇の中へ流れてゆく。

 そこには、横たわったまま、ぴくりともせずに眠っている影。そしてもうひとつ、長い二本の耳を垂らした影が、そばに立って、目の前に倒れている人物を、懸命に揺り起こそうとしているのだった。

「エディ、起きて、起きてったら! ほおら、ふさふさのシッポだよお! それにピヨピヨちゃんも! 見て見て見て、大サービスだってば、ほら、あっちにもこっちにも、ピヨピヨピヨ! ……ダメか」

 どこからか取り出したトンカチを、思いきり振り下ろした自らの頭から、ぴよぴよと愛らしいさえずりを残して逃げ去ってゆくヒヨコたちを見送りつつ、ロジャーはしょんぼりと肩を落とす。目の前に横たわるエディは、依然として意識が戻らない。まるで置き物のようにすら見える。

 もう一度、刺激を与えようとして手をかけたロジャーの肩を、スコットの鍛えあげた腕が、静かに引き留めた。

「ロジャー、あまり彼を揺さぶるな。嘔吐する」

「スコット、どうか、助けてくれよ。エディがこうなったのは、全部、僕のせいなんだよねえ?」

「さあ……な。とにかく、今は、下手に動かそうとしちゃいけない。彼は絶対安静の身だ」

「ううううう。エディがこんなことになるなんて——」

 さめざめと大粒の涙をこぼすロジャー。漫画的表現ではありながらも、一応、本気で胸を痛めているらしい。薄闇の中でもはっきり分かるほど赤い鼻を鳴らしながら、悔恨の言葉を呟く。

「うさぎどんについてゆくのは、とても楽しくて——嫌なことを忘れられるし——僕、このまま笑いの国に行ってしまえたら、どんなに幸せだろうって思ったんだ。

 けれどもエディは、こんなダメな僕を、一生懸命追いかけてくれた。聞こえない振りをしても、何をしても、見捨てないでいてくれたんだよ……」

 ロジャーはスコットに近寄ると、背の高い彼の顔を、上目遣いに見あげる。

「エディ、死なないよねえ?」

 切実なロジャーの眼差しを受けて、改めて言葉に詰まるスコット。微かに胸で呼吸するエディへ目を落としながら、彼は慎重に告げた。

「マッシュルームの種類にもよるが、この程度なら死なない。ただ、心理状態によっては、バッドトリップに陥るから——もしそうだとすると、彼には過酷な体験だったろうな」

「ああああ、どうしよう、エディったらもしかして、弟さんのことを思い出しちゃったかなああ? 僕、大変なことをしでかしてしまったよう。エディは僕の、命の恩人だったのに——」

 仰々しく歯の根を鳴らし、下唇を噛み締めながら、ロジャーはふたたび、大粒の涙を流し始めた。自分のズボンの裾を鼻に持ってゆき、ずもももも、と嫌な音で鼻水をなすりつけるロジャーに、後ずさって、若干引き気味のスコット。正直言って、こいつの手には絶対触りたくない。

「大丈夫だよ」

と、そばから声をかけるミッキー。彼は静かに歩み寄ると、くたびれた中折れ帽を拾いあげ、いまだ目の覚まさない病人のそばに、トレードマークのそれを、そっと立てかけてやった。

「エディは、弱いけど、強いんだ。弟さんの死にも、少しずつ向き合い始めている。まだまだ、辛い思いはたくさんするだろうけど——けれども、彼が選ぶ道を信じなきゃ。もう、後ろ向きにはならないよ」

 そう言いながらミッキーは、ぶぃいーーむ、と鼻をかんでいたロジャーの肩を、優しく叩いてやる。その静かなリズムに身を預けながら、ようやくロジャーは、おずおずと彼に向き直って、口を開いた。

「ミッキー、本当にごめんよ」

「いいんだ。謝ったりしないで」

「僕、本当は、エディのことが大好きなんだよう。だけども、彼が君と一緒にいるところを見たら、凄く悲しくなってしまって——」

 ぱちくり、と瞬きするミッキー。てっきり、愛妻との浮気容疑に激昂していたのかと思っていたが、その嫉妬心の矛先は、思いもよらぬところへ向けられていたのだ。

「それじゃあ最初から、ジェシカと僕のことは、疑っていなかったというのかい?」

「いやあ、君たちと再会するまでは、殺してやりたいと思っていたんだけど——」

「——あ、そう……」

「でも、エディに雑コラだって言われて、見直してみたら気づいたんだあ。確かに雑だね」

 かさりと、例の写真を取り出し、つくづく眺めてから、くしゃくしゃに丸め、焚き火の中にポイと放り込むロジャー。その、相変わらずの大雑把っぷりに、ミッキーはくすくすと笑いだす。

「な、なんだよう。笑わないでよう、ミッキー」

「ハハッ! だって、あんなに意地を張っていたのに、今じゃ、すっかりしおらしいんだもの。でもそんなの、天才喜劇俳優コメディアンの、ロジャー・ラビットじゃないや」

「ミッキー……」

「僕こそ、君に辛い思いをさせてごめんね、ロジャー。さあ、いつもの笑顔を見せて。君が笑ってくれないと、悲しくなってしまうじゃないか」

 そうして、慈悲深い微笑みを露わにするネズミと、涙を浮かべて唇をわななかせるウサギ。長年ディズニーの看板を張ってきたに相応しい、さすがの人格の高さを見せつけるミッキーに、周囲の者たちはホロリと同情を寄せた。

「ミッキー、お前……聖人かよ」

「許さなくていいんだぞ、こんなウサギ」

「トゥーンタウンじゃ、このくらいのトラブルは、日常茶飯事なんだ。それよりも僕は、大好きなロジャーの友達でなくなってしまう方が、ずっとずっと寂しいよ」


(((((((……仏様だ……)))))))


 優しく微笑むミッキーの後ろから、ピカーッと後光が射す。この日、なぜミッキーがウォルト・ディズニー・カンパニーの顔となっているのかを、彼らは瞬時に理解したのである。

「……おい。ネズミは、おめえのことを許してたとしても、俺が許しちゃおけねえ、よ」

「エディ?」

「あてて、こんちきしょう、随分なところに転がしやがったな。腰が……」

 と痛んだ箇所をさすりながら、ゆらりと起きあがるエディ。声は随分と掠れているが、その顔色は、悪いものではなかった。

「エディ! 起きたんだねーーーっ」

「やめておけ、エディ。まだ立ちあがらない方が——」

「兄ちゃん、肩貸せ。……あんの糞馬鹿ウサギに、是が非でも、体で教えてやらなきゃいけねえことがあるんだ」

「ええっ!? いやあーだ、エディったら、ちょっぴり大胆だなあ——」

「なにを考えていやがる、この変態クソウサギ! 歯ァ食い縛って、そこへ直れ!!」

「ちょっとちょっと、エディ、ディズニーランドで暴力沙汰は——」

 「黙れい、ネズミの小僧っっっ!!!!」


「(怖……)」

「ひいいっ、エディがご乱心だーー!!!」

 どう見ても明らかに大丈夫ではない足取りを見て、その体重を支えるスコットと、構わず目をぎらつかせるエディ。パキポキ、と拳の骨を鳴らす彼に恐怖したロジャーは、鍾乳石へひしっと掴まって、少しでも逃げようと這いあがった。よくもあれほどのスピードで登れるものだと、感心する一行が黙りこくる中、ずしり、ずしりと響く足音が、ロジャーの真下から、とんでもない重圧を携えて聞こえてくる。

「おいロジャー、卑怯だとは思わねえのか! さっさと降りてきやがれ、猿か、お前は!」

「猿でいいもん! エディに捕まるわけにはいかないんだもんね!」

「馬鹿野郎が! てめえは知恵比べもできねえ、早っとちりのクルクルパーのウサギだろうが!」

「ひ、酷いよう、エディ!」

「ならなんて言ってほしいんでえ! 黙ったままで自分の思ってることを理解してもらおうなんて、ムシが良すぎるんだよ!!」

 ロジャーは、おずおずと耳を折ると、恥ずかしそうにたった一言、

「だってエディは……僕のこと、嫌いだから——だからミッキーと、冒険を——」

「……はあ?」

 エディは盛大にずっこけた。——そりゃ、原作アニメですっかり片付いた話題だったんじゃねえのか? お前は、いつまでも昔の話題を繰り返すメンヘラ彼女かよ?

「おめえ、まだそんなことなんか考えていたってえのか!?」

「だって、だって——」

 ぐすんぐすんと鼻を鳴らしながら、やけくそ混じりに、ロジャーは大声で叫んだ。

「エディだって、本当はミッキーがいいくせに! 僕みたいに、頭から星を出すことすらできないヘッポコ喜劇俳優より、ミッキーみたいなディズニーの看板スターがいいくせにいー!!」

「馬鹿野郎、そんなこと、本気で言ってんのか!」

「僕はいつだって本気だよう!!」

「だからクルクルパーだって言ってんだ、おめえは! ……俺はなあ、おめえがスターだから助けようとしたんじゃねえ! おめえをイタチどもから匿ってやったのは、おめえがあの時俺に助けを求めて、泣いていたからだっ!!」

 その瞬間、ロジャーは泣くのをやめて、目を丸くしながらエディを見つめた。そして、いつも飲んだくれで、仏頂面をしているこの小太りの男の本心を、ようやく思い知ったのである。

「おめえよりオツムがましな連中なんざ、この世に糞ほどいるに決まってんだろ。だがな、この俺の主演映画の相棒を務められるのは、泣き虫のおめえしかいねえんだよ!」

「エディ……」

「分かったら、とっとと降りてこねえか。……ったく、いい年こいた既婚者のくせに、これ以上俺を手こずらせんなってんだ」

 黙りこくっていたが、やがてそのままの体勢で、つつー、と鍾乳石を伝い降りてきた。すごすごと近寄ってゆくロジャーは、エディの顔をちらっと見あげたが、彼の背中を、もう一匹、後押しする者がいた。

「エディの言う通りよ。素直にならなくちゃ」

「ジュディ……」

「わたしは、ずるいウサギ。あなたと違って——手段のためなら、どんなことだってしちゃうんだから」

 したり顔でウインクすると、ニンジン型のペンのボタンを押し込むジュディ。すると、洞窟に響き渡るように、ペンの中に録音された音声が再生された。


『僕、本当は、エディのことが大好きなんだよう——』


 洞窟の中に響き渡るその数分前の声を聞いて、鉄面皮のロジャーには珍しく、ニンジンのように真っ赤になって飛びあがった。

 「うわあーーーーーーっっ!!!!!」


「さ、証拠品よ、エディ・バリアントさん。押収して」

「さあて、こいつをどうするか。ベビー・ハーマンの親父にでも、高値で売っちまおうかな」

「やっ、やめてくれよお! ハーマンがコレを知ったら、一生揶揄われるじゃないかあっ!!」

「だーめだ。返してほしかったら、俺に協力するこったな」

「ああ、もう、しようがない。けれども、ほかならぬ君の命令なら……何だい、エディ?」

 ロジャーはしょんぼりと耳を垂れて、大きな青い目でエディを見あげた。そのトゥーンらしい、情けなくもコミカルな姿に、微笑して。


「トゥーンタウンに戻って、一杯やろうぜ、ロジャー。俺だけじゃねえ。みんな、おめえのことを心配しているんだ」


 それを聞いたロジャーは、大きな瞳をパチパチと瞬かせた。一瞬、時が止まったらしい。やがて唇をわななかせるなり、分厚いエディの腹に顔を埋めると、いきなり、びえーんと大声で泣き始めた。洞窟の奥の奥まで、彼の泣き声が、優しい雨のように響いてゆく。その状況に、ふと羞恥を覚えたエディは、思い出したかのように頬を掻いて、

「あーっと……もちろん、一杯やるのは、ノンアルコールでな」

とひかえめに付け足した。

 ミッキーはニコニコとして、デイビスのシャツを引っ張り、満面の笑みを向ける。

「よかったー、これでロジャーとエディの件は、一件落着だね! Ha-hah!」

「んー。あいつらが仲直りしたのはいいことなんだが……なあんか忘れてる気がしねえか?」

「何かって、なんだい?」

 ハッピーエンドを見たせいで頭がカラッポになり、首を傾げるミッキー。そう、彼らがすっかり忘れていたのは———


「捕まえたぜえ、うさ公! イェーッヒッヒッ、これでお前も、一巻の終わりさ!」

「ど、どこに連れてゆくんだ、離せよー! 見てろよ、ずるギツネ、離さなかったら後で泣きを見るぞ!」

 あれだ。


 思いっきり思いあたる節そのものが出てきて、一行はあちゃー、と目を覆った。これまでさんざん巻き込まれたあのキツネとウサギの物語は、まだ少しも終わってはいなかったのだ。

「つっても、うさぎどんが、キツネの野郎を煽ってたツケが回ってきただけじゃねえか」

「いやもう、自業自得だろ。こうなったら、ご自慢の頭で何とかしていただくしかねえや。なあ、ロジャー……」

 と、エディは溜め息をつきながら振り返り———


 「どーーーしてお前もとっ捕まってんだよ!!!!」


「えっ、エディー! 助けてくれよー!!」

 そこにいるのは、すっぽりと蜂の巣を被せられたロジャーが、じたばたと手足をばたつかせているところだった。あまりの情けなさで、涙が滲んでくる。

「うわーい、今夜のディナーは、ウサギが二匹ぃ」

「やべー、すっかり忘れてたけど、ここってスプラッシュ・マウンテンなんだった……」

「なんかもう、ウサギとかキツネとかが出まくりすぎて、本筋を忘れていたよね」

「おい、てめえら、何言ってやがるっ!! のんびりしてねえで、あいつらを助けに行かねえかっ!!」

 一行が頭を抱えているあいだに、あっという間にきつねどんたちは、暗闇へと姿を消してしまった。まあ、ここで帰るわけにはいかないというか、もうちょっとクライマックスを迎えないと、物語、締まらない。

「仕方ねえ、もうひと踏ん張りってとこだな。よっしゃあ、気合い入れて行くぜ、てめえら! 全員、出陣だ!!」

 憤然と拳を突きあげるエディの後ろで、デイビスとスコットは、額を突き合わせ、

「あーあ、これ終わったら煙草買いに行こうぜー、スコット。湿気っちまって、全滅だよ」

「しかし、どこへ買いに行くんだ。煙草なんて、ディズニーランドの中には売っていないだろ?」

「それが店頭のキャストに直接言うと、ごにょごにょごにょ……」

「何! それは本当の話か?」

 「いいから早く助けに行かねえか、てめえらーーーッッッ!!!!」


 スパァァァァンとストームライダー組の頭をはたいたエディは、彼らの襟首を掴むと、したたる蜂蜜の跡を頼りに、洞窟の奥深くへと引きずっていった。ずるずる——という不気味な音が徐々に小さくなり、水滴の跳ねる音とともに、いったん、場は暗転を迎える。





 コウモリの羽ばたく音と、赤く輝く無数の目。
 そこは鍾乳洞の中でも、最も暗いところであり、濃密な闇がのしかかってくるように感じられる場所。ぼんやりと頭上に浮きあがるのは、川の無気味な照り返しを受けて、噂話を口にする二羽のハゲタカである。

「うさぎどんは今頃、骨身に染みているようだね?」

「引き返すなら、今だ。それができればねえ」

「笑いの国は、ここさ、ここ」

「だからこうして、笑っているのさ。ヒヒヒヒヒヒ——」

 隠れたコウモリたちすら、赤い目を瞬かせて、けらけらと笑っているように見える。そしてその先にある、爆発に曝されたようなボロボロの枯れ木——これが、きつねどんの隠れ家への入り口なのだろう。蜂蜜の雫が導いてくれていなければ、こんなところに入り口があるとは、まず、訝しむまい。

 ちゃきっ、と軍事用のサングラスをかけたロビンが、どこからか取り出した黒板を、教鞭でぺちぺちと叩く。

「いいかい、我々は全部で八名。対する敵は二匹、人質も二匹。つまり、人質救助に半分割いたとしても、敵の倍の人数で襲撃できるという、圧倒的有利な状況にある」

「「「「「「うぃーーーーーっす」」」」」」

「先ほどのボートの座席通りに二人組を作り、順にAアルファBブラボーCチャーリーDデルタとして、図に記載された、それぞれの担当作業にあたること。それじゃ、隠密作戦開始だ。何か質問は?」

「はい、ロビン先生!」ミギテピーン

「ふむ。どうぞ、デイビス君」

「俺たち人間は、こんなちっこい枯れ木の中に、どうやって潜入すればいいんでしょうか!?」

 ずるーーーんっっと古典的なリアクションで滑る動物一同。小説だとすっかり忘れ去られがちなことだが、動物組と人間組の間には、明白すぎるほどの体格差があったのだった。

「俺たち、結構身長あるからなあ……」←デイビス、七十一インチ

「デカい、邪魔だとよく邪険に扱われるしな」←スコット、七十五インチ

「俺はこの中でもちいせえ方だけど、潜入は厳しいだろうなあ」←エディ、六十六インチ

「まいったなあ。図体ばかりでかくても、こういう時には何の役にも立たないんだね」

「オイ、もっと言葉を慎め、言葉を。なりたくてでっかくなったわけじゃねーぞ」

 呆れたロビンが、サングラスを外しながら、頭を掻いた。

「仕方ない。メンバーを絞って、潜入捜査は小型動物だけに限ろう」

「ええっ、そんじゃ、おれはあ? 相棒のおれを置いてくのかよお、ロビー!」

「リトル・ジョンは、さしあたって、人間組のボディガードかな。君が立っていてくれれば、まず間違いなく、悪い奴らは近づいてきやしないだろうよ」

「ちぇー。仕方ないなあ」

 ロビンになだめられ、しぶしぶ了承するリトル・ジョンの隣で、小さなミッキーは、待ち受ける潜入捜査にワクワクし、背伸びまでして高々と手を挙げた。

「そ、それじゃあ、僕もっ!! 僕はちいさいネズミだから、一緒に潜入して構わないよね、ハハッ!」

 「「「「「「「子どもはここで大人しくしていなさいっっ!!!!」」」」」」」」


「……理不尽だ……😢」

 かくして、人数で押し切って余裕ぶっこくという単純な物量作戦は見事に頓挫し、別の作戦へ方向転換せざるをえなかった。ひいふうみ、と人数を数えてみると、これで一気に五人が、潜入メンバーの枠から外れることとなる。

「となると、隠れ家に潜入できるのは、たった三匹かあ。ちっとも有利とは言えないぜ」と口を尖らせるデイビス。

「おやおや、みくびっちゃ困るね。ぼくの名前ときたら、それこそ揺り籠の赤ちゃんから腰の曲がった老人まで、ノッティンガム中に知れ渡っているんだから」

 得意げに語るロビンの肩へ、ニックも親しげに肘を置いて寄りかかって、

「そうさ、デイビス君、こういうところは一流のプロに任せときなって。おれたちは、警察。ロビン・フッドは、お尋ね者。そう簡単に負けるわけないぜ」

「お尋ね者?」

「あっ、と——」

 しまった、とばかりに、ニックは前足で口を押さえたが、ジュディの大きな耳はもうすでに、その単語をしっかりと拾ってしまっていた。少年時代から裏社会を生き抜いてきたならいざ知らず、幼い頃から警官を志し、世の犯罪者を取り締まる立場に就いているジュディは、動揺の色を隠せない。

「犯罪をしたの?」

「いや、いや、おれみたいな、詐欺師だった野郎とは違うよ! ロビンたちは、義賊だ。こいつらの行動原理はすべて、貧しい民衆を救うためなんだよ」

「民衆——」

「つまりだな、不法な税金やら小作料やら罰金やらで、しこたま私腹を肥やした奴らの財産を奪って、貧しい民衆に分け与えてるってわけ。——まあ、種別としては、その、盗賊ってことになるのかねえ。あ、あはははは……」

 何とも歯切れの悪いニックの弁解を耳にして、逡巡とも言ってよいジュディの表情を目の当たりにしたリトル・ジョンは、隣にいるロビン・フッドの横顔へ、そっと、眼差しを滑らせた。ロビンは、何も言わず、微かに苦しそうに、片側の口角だけを歪めている。まるで、明日に死刑執行を言い渡された聖人のようだったが、しかしその穏やかな笑みは、不思議なことに、どこか安堵しているようにも取れた。

「ロブ——」

「いいのさ、ジョニー。ぼくらの使命はだいたい終わった。故郷のノッティンガムは、重税から解放されて、ようやく復興の道を歩み始めたし——"ロビン・フッド"の暗躍は、必要ない。もうここらで、これまで犯してきた罪を、清算すべきなんじゃないかな」

 そう囁いたロビンは、リンカーンの町で染めた、シャーウッドの森のように深い緑の生地に、赤い羽根飾りを挿したお気に入りの帽子を脱いで、その頭を垂れた。

「ぼくらを逮捕するかい、小さなウサギの警官さん? そいつが君の仕事なんだろう?」

「…………」

 ジュディは、その長い耳を垂れ下げて、しばらくその紫色の瞳でロビンを見あげている。やがて、柔らかな毛に覆われているその口を開いた。

「……潜入は得意なのよね、ロビン?」

「? ああ、もちろんさ」

「わたしたち警察は、困ってる。そしてあなたは、この危険な事件に、協力を買って出てくれた」

 言いながら、ジュディは、ロビンの手にしている帽子をまるで王冠のように彼の頭に被せてやると、赤い羽根の位置を少しばかり直してから、握手を求める前足を差し出す。

「あなたは、わたしたちの正式な捜査協力者。ズートピア警察は、その勇気と正義心に対して深く感謝するとともに、必ず、協力者の情報の完全な秘匿を約束します」

 ロビンは少しの間、目を見開き、前足を差し出したままの彼女を見つめていた。それから、始めはこわごわと、やがてその強さを確かめるように、ロビンとジュディは握りあった前足を上下に振る。ジュディのきらきらと輝く紫の瞳が、ロビンの勇敢で知恵深い褐色の瞳と絡みあう様は、まるで鉱脈の異なる二種類の宝石が、この洞窟の奥深くで、初めて出会ったかのようだった。

「いい相棒を持ったね、ニック」

 言葉少なに、ロビンは旧友のパートナーを褒めた。ニックはただ、微笑んで、肩をすくめるだけにとどまった。

「さあて、それじゃ、気合い入れて行くか。こいつが、スプラッシュ・マウンテン最後の仕事だぜ」

「みんなで力を合わせて、戻りましょ。クリッターカントリーの、あの青空の下へ!」

 「「「「「「おーーーーーっ!!!!」」」」」」






 チカピンの下をくり抜いたきつねどんの隠れ家は、二階建てとなっており、その一階部分の中央で、景気良く、焚き火が燃えていた。上に吊られて、グツグツと煮え立った鉄鍋からは、泡が吹きこぼれ、すでに涎の出そうな匂いが立ち込めている。

 狭いアジトの合間を忙しなく立ち回り、きつねどんは超特急で支度を進めていた。テーブルクロスの上にせっせと食器を並べ、中央には、花まで飾りつけている。それに、どこからともなく聞こえてくる、シャッシャッという、耳障りな音。錆びた鎖を引っ張って、床に嵌め込まれている小さな扉を持ちあげると、階下でエプロンをしているくまどんに、きつねどんが軽快な声をかける。

「おい、どんくま、包丁は研いだか!」

「もうすぐだよ、キツネの兄貴、バッチリだからあ。ふっふっふっ、どんなものも叩き切っちまうこいつで、骨まで八つ裂きにしてやるんだあ」

 舌なめずりで口がだくだくと濡れているくまどんが、嬉しそうに言葉を返すと、ふたたびシャッ、シャッ、という音が響き始めた。刃の鋭さは、身震いするほどだ。

「さぞかし切れ味が良さそうだ、頭から爪先まで、真っ二つにできるかもな。へっへっ、その調子で、引き続き頼むぜえ」

 満足そうなきつねどんが目を戻す先は、これから調理にかかろうという、メイン・ディッシュ。縄で何重にも縛られ、十字架にくくりつけられているうさぎどんは、哀れ、これほどまでのピンチに陥っても、少しも身動きが取れはしない。そこへ、ゆらゆらとその生え揃った牙を壁に投影しながら、勝者の笑みが近づいてゆく。

「これで誰が一番利口か分かったな、え? うさぎどんよ!」

「な、何をしようってんだ、ずるギツネ、離せよお!」

「おおっと、そうはいかねえ、パーティーの大切なお客様なんだからなあ! 今まで積もり積もったお前への恨み、今こそ晴らさせてもらうぜえ!」

 引き裂いたように口をにんまりと歪ませるきつねどんと、ガタガタ震え出すうさぎどん。そんな折り、ミステリアスな影がひとつ。

「やれやれ、物騒な台詞だねえ。いかにもヴィランズのアジトって感じだな」

「曲者め! 誰だっ!!」




『COBRA THE SPACE PIRATE』©︎寺沢武一


 「本当に誰!?!?!?!?」


「お楽しみのところ失礼するぜ。今日のパーティーに招ばれた気がしてな」

 まるでブローチの一種であるかのように、胸元にキラリと光る階級章を直し、ニックは決めポーズを取った。皮肉げな笑みとともに腕を組む、よくDVDパッケージとかで見るような、お馴染みのアレである。

コレ


「名を名乗れい!」

「あー、とにかく……ニック・ワイルド、巡査になって、まだほんの一年ほど。人質の解放に参上、ってとこだ」

「てめえ、うさ公の仲間だな!?」

「赤の他人を助けてやるのが、警察ってもんさ」

「なら、赤の他人をボコボコにしたがるのが、極悪人ってやつだ! おれさまのパーティをめちゃくちゃにしようとしたお礼は、高くつくぜ!」

と、テーブルから掴み取った凶器が空を駆け飛ぶのは、相手がのけぞるより、数秒早い。ビイィィン、と頬の数センチそばへ突き刺さったフォークに鳥肌を立たせながらも、ニックはその凍りついた表情を、なんとか作り笑いに変えてみせた。

「やれやれ、落ち着いて席につけやしない。どうしてそう、平和に話し合いができないかな」

「てめえにはお茶一杯出す気なんてねえよ!」

「そうだな、おれはお茶より、冷たいフルーツクーラーが好きなんだ。スーベニアカップに入れて頼むぜ」

「さっきから何をトンチンカンなことを言っていやがるんだ! いいから、とっととここから出ていきやがれ!」

「まあまあ、そう結論を急ぐなって、いったん話し合おうぜ? なにせ——暴力は何も解決しないからな」

と呟き、ゆっくり持ちあげてゆくのは、署から支給された拳銃リボルバー。百戦錬磨のきつねどんも、さすがにこの反則技には、全力で抗議せざるをえなかった。

 「卑怯だぞ!!!!」


「こうでもしなきゃ、あんたと話ができないもんでね。とにかく、ウサギを殺すのはお勧めしない。今の時代にゃ、法律ってもんがあるんだ。
 なあ、投降するつもりはないか、きつねどん? そうすりゃ、少しは罪が軽くなる」

「罪? このおれさまに、何の罪がある?」

「お前らのどっちが正しくてどっちが間違ってるかだなんて、言うつもりはないさ。ただな、ムカつくかもしれないけど、喧嘩はやめようぜって言う奴は、必要だと思うんだ」

「ほざけ! おれはそうやって首を突っ込む輩が、大っ嫌いなんだよ!」

「そりゃーまあ、気持ちは分かるけどさ……」

「それに巡査、だって? ぺーぺーの新米サツ公なんかに、このおれは撃てやしねえ。おれたちは、同じキツネだろ? 今までさんざん草食動物に煮え湯を呑まされたくせして、そいつの味方をするっていうのかい」

 草食動物、という言葉を聞いたニックの顔に、微細な変化が生じた。表情を固く引き締めているものの、その緑色の目は、明らかに、別の何かに気を取られている。

「そんな拳銃なんざで、おれが待ちに待った復讐をやめると思うか? ちょうどいい、今日は祝祭だ——うさ公と一緒に、てめえも火炙りにしてやるよ!」

 まさにその瞬間、炭となり果てた薪が崩れ、家主の叫びに応えるように、焚き火が大きく燃えあがった。凄まじい燃焼音と温度、そして洞窟中を眩ゆく染めあげる、悪魔のような焔の光。ぎくっ、と肩を震わせたニックは、一瞬、注意が疎かになったのだろう。あっという間もなく、その前足からすり抜けてゆくように、円を描きながら拳銃が落下してゆく。

 かあん、と乾いた音が響き渡った。緊迫に満ちたその場所では、金属らしく冴え渡るそれは、まるで絶望を告げる音のように聞こえた。回転しながら地面を滑り、その銃身にめらめらと燃え盛る焔を映し込む黒鉄は、素早く拾いあげるキツネの前足の中に収まる。しかしそれは、ニックのものではない。真っ直ぐ掲げられた銃口に、うさぎどんも、恐怖でガチガチと歯の根を鳴らしている。いつもは皮肉めいた笑いばかり浮かべているニックの顔に、この時ばかりは、地獄へ叩き落とされたような表情が滲んだ。

「ハハー! ウサギなんぞと馴れ合ううちに、すっかりお粗末になっちまったもんだなあ、ズートピア警察官!」

「待て待て待て、ここは穏便に話しあおう。暴力じゃ何も解決しないだろ?」

「ほざくんじゃねえ! こんな拳銃をおれに突きつけてきたくせに、説得力がねえんだよ!」

「いやまあ、おっしゃる通りとしか言いようがないんだが——」

 勝者の高笑いを響かせて、形勢逆転、今度はきつねどんが銃を片手に進み出て、ニックが発砲を恐れ、じりじりと後退してゆくこととなった。今にも火を噴きそうに反射する銃口に押され、ニックは手をあげながら、次第に追い詰められてゆく。二人の濃密な影が、燃えあがる焚き火を浴びて、洞窟の壁に大きく躍り狂った。

「こうなったのは何もかも、てめえの自業自得だ。まぬけなウサギの肩入れをするたあ、キツネの名が廃るぜ! キツネの風上にも置けねえ野郎だ!」

「おいおい、おれは何も、好きこのんでウサギを助けるわけじゃない。それでもって、キツネだからという理由で、自分の行動を決めるわけでもない。ここへきたのは、単におれの仕事が、警官だったってだけのこった。そうだろ?」

「なあに寝ぼけたこと言っていやがる! ファウルフェローの親分から、てめえのことは存分に聞いてるんだぜえ?
 ニコラス・パイベリアス・ワイルド——昔は、多少名を馳せた詐欺師だったんだって? そんな裏社会の腐り切った野郎が、警官になろうなんてえのは、厚顔無恥にもほどがある。とんだお笑い草だぜ!」

「そりゃそう、ここは笑いの国。おれにとっちゃ大真面目な選択なんだが、あんたにゃ、臍で茶を沸かすくらいおかしくったって、仕方ないかも」

「だったら、とっととこっちへ寝返れ! てめえにゃサツなんて似合わねえ! ちいっとばかり、こいつの肉を分けてやってもいいんだぜえ、なにせ若くて、柔らかくて、汁気たっぷりだろうよ、このうさ公は。虫ばっかり食ってるっていう、ズートピアの腰抜けの連中どもも、ちったあ、食欲を刺激されるってもんじゃあねえのか?」

 勿体ぶった言い回しとともに、きつねどんの鋭い牙の合間で、粘っこい涎が糸を引く。それに目を奪われているうちに、とん、と壁際に背をつけ、自身がついに、逃げ場所を失ったことに気がついた。

 ニックはうさぎどんの方へと視線を流し、ごくりと大きく喉を鳴らした。うさぎどんは、必死に首を振る。そのこめかみから、また一雫、滲み出る汗がしたたってゆく。二人の足元で、炎は鍋を沸かしながら燃え続け、薪が膨らんだかと思うと、時折り、癇癪玉の如く高らかに水分を爆発させる。そのたびに、薄暗い底に皓々とする焚き火は、無数の火の粉を撒き散らし、哀しげに歪んだニックの眼球を干上がらせていった。


 ———俺は、ふたつ学んだよ。まず、何があっても、傷つかないようにすること。

 ———それ……と?

 ———世界が、キツネのことをずるくて信用できないと決めつけるなら、何をしても意味がないってことさ。


 あの朝焼け、薄い霧を透かして、黄金の光芒がすべてを晴らしてゆく世界。しとどに湿ったレイン・フォレストを照らしながら、長い夜を超え、凍えるように迎え入れた朝。太陽はまだ光しか送り込んではくれず、黎明が射し込んでくるロープウェイの彼方で、目の前を反射していった幾つもの粒子は眩しく、肌寒さに震える頬に貼りついてくる。あの瞬間の何もかもが、ゼロに近かった。醜いことも、清らかなことも、まだ何もなかった。その束の間の静穏も、日が昇るにつれてだんだんに尽きて、いつしか車の通り過ぎる気配が地を満たしていった、あの一連の光景が、脳裏の奥深くを過ぎ去ってゆく。

 あの時の、心細く光りかがやく霧の粒と、今、足元を飛び交っている薄暗い火の粉を見間違うなんて、おれも歳だな、と感じながら、それでも束の間のあいだ、遠いあの日の夢を見ていたように思った。なぜ、他人に気を許してしまったのだろう? あれからもう一度、自分は彼女から、幻滅を味わい——そして、警官の制服に身を包んでいる今がある。

 ニックの前足がそっと、自分の青いシャツを撫でて、その手触りを確かめた。支給された合服には、麻が入り混じり、その左胸には、すべての警官がつける、美しい金の星を煌めかせた階級章。炎を照らし返して、炯々と光を放っているそれは、紫の眼をしたウサギがつけてくれたものだった。指でかすかにそれをまさぐりながら、やがて、柔らかな毛に包まれたその口を、おもむろに動かし始める。

「時々、思うよ。何が正解なのかって」

「ああん?」

「こいつはおれの独り言。……詐欺師だった頃は楽だったなあ、なーんにも怖いものなんてないし、馬鹿な期待をして裏切られることもない。その日その日だけのことを考えていれば、気ままに暮らしてゆける。無敵だったし——

 ———……惨めで、とても孤独だったよ」

 訥々と打ち明けるニックの眼に、もはや、きつねどんの姿は映っていなかった。ぱちぱちと爆ける火の粉が、彼の陰翳を静かに揺らめかせる。自ずと呟かれたその言葉は、果たして、何に捧げられていたのだろう。ニックは目を細めて、遠く、ここではないどこかを見つめ続ける。

 まるで、過去の自分に。
 あの時、口輪を嵌められ、告発する言葉さえ封じられた動物の一人である、自分に。

 そして、強制的に拘束され、歯を剥き出しにして抵抗したり、観念したように哀しげな瞳を晒した、多くの肉食動物たちに。それらがスクリーンに映し出されながらも、何の疑問も持たず、ただセンセーショナルな質疑応答を続けるばかりの、大勢の草食動物たちに。

 この社会には、光の面と闇の面があって、自分は生まれた瞬間から薄暗い方に置かれていたのだ、と知ったあの時。そうして何万匹も、何十万匹も続いている疲弊した行列の中を、自分もまさに参加させられて、歩いてゆかなければならないのだ、と悟ったあの日に。

「撃ってみろよ」

「なに?」

「たぶん、こうやって死にたかったのさ。誰か、この行列を終わらせてくれ、もう苦しんでいるところを見せないでくれって、夜が来るたびに祈ってた。だからおれは……」


 ———たったひとつ、彗星のように正義をつらぬいて死にたい。


 初めてそれを知った日は幼くて、泣きじゃくる夜闇の中から投げかけられる光といえば、遠い空にまたたいている、ほんの数個の星屑だけ。だからこそ、すべてを破滅させるような強さで、願ったのだ。

 おれの誇りは、おれだけのもの。
 誰にも穢させない、おれだけの怒り。
 世間が何を言おうと、手出しをさせやしない。おれにも、おれが大切に思う人にも、笑いながら道端を通り過ぎてゆく人たちにも、誰にだって。

 闇に手を染めている時も、その願いが、心の隅を照らし続けていたのだろう。そしておれの縄張りに、一匹のウサギが飛び込んできた時、おれの運命は変わり始めたんだ。

 だから、制服に身を包んだ。
 だから、階級章を胸に輝かせた。
 おれの人生は、おれの銃口そのものだ。

 連綿と続いてきたこの憎悪を、この足枷を、滅ぼすために生きてゆく。
 赦しよりももっと狂おしく、破壊よりももっと激昂した道を選んで、爆ぜる火の粉を浴びている今がある。

「なんだ、ついに観念したってえのか? それとも、気でも狂ったのか、この——!」

「狂ってなんかいないさ。お前はお前の道を行くように、おれはおれの道を行く。お望み通り、撃てよ。正しいものなんて存在しない、勝つか負けるかがあるだけだ。

 ——なあ、そう思っているんだろ? そこにいるウサギを叩きのめすために、力を選んだんだろ? お前が自分の勝利を証明したいのなら、撃てばいい。

 けれども、俺の選んだ道は、こんな形で死ぬものじゃない——」

 光り輝く焔の光と、頬を吹きなぶる火の粉が、まるで呼ばれているかのように、言葉を語る彼の方に向かって吹く。風向きだけで判断すれば、そこに、薄暗い洞窟からの出口が開いているのかもしれない、と思うことだろう。その時、きつねどんは不意に、こいつは何かを超えているのだと悟った。銃口を前にして、自暴自棄にでもなったのだろうか? しかしその眼の色は落ち着いていて、不思議なまでに据わっている。おかしいのは、その精神なのだ。恐ろしく大きな、正体が何かも分からないものに身を捧げていて。


 そしておれは———こいつに勝てない。




「さあ、撃つんだ! 引き金を引け————ジュディ・ホップス・・・・・・・・・!」





 銃声は、予期せぬ方向からあがった。血も凍るように洞窟をつんざく響きとともに、一瞬の衝撃が、きつねどんの構えていた拳銃を弾き飛ばしたのだ。慌てて拾いあげようとする寸前で、その拳銃を踏みつける、小さな灰色の足。見れば、冬の星のように澄んだ紫の瞳を輝かせ、一羽のアナウサギが、堂々たる姿勢で、銃口を突きつけているのである。その深い穴からは、微かな硝煙がゆっくりと渦巻きながら立ちのぼり、焦げ臭い匂いが漂ってくる。

「油断したわね、キツネさん? おっとと、動いちゃだめ。あなたの後ろには、わたしのパートナーがついているってこと、お忘れなく」

「小癪なウサギめ——!」

「ついでに言っておくと、そっちの拳銃は空っぽよ、ざーんねんでした。いーい、キツネさん、これだけは覚えておいて」

 ジュディは、とんとん、と空の拳銃を踏みつける足で軽くステップを刻むと、どこか相棒を思わせる小狡い表情で、ニヤリと笑った。


「———わたしたち、ジュディとニックはね。いかなる時も、二人でひとつなの」


 そしてジュディは、そしてそのポケットから、黄金の星を輝かせる警察手帳を掲げて、い昂然と告げた。


「ブレア・フォックス、ブレア・ベア。殺ウサギ未遂、および公務執行妨害で、現行犯逮捕します」


 それが、事実上の勝利宣言だった。突きつけられた星を見つめるきつねどんに、もはやいかなるなす術は残っていない。

「チックショウ、覚えていやがれ!」

「た、助かったあ——」

 後ろ手を取られたきつねどんの、お約束すぎる捨て台詞とともに、緊張から解放されたのか、それまで突っ張っていたうさぎどんの耳が、はひー、と萎れて、安堵の溜め息をついた。

「午後二時三十五分、犯人確保。ニック、ZPDに応援を呼んで」

「舐めんなよ、とっくに要請済み。あとほんの数分で着くってさ」

「さすがはわたしの相棒ね」

 いつもの通り、腕組みをして得意げな顔をさらしていたニックの頬に、ちゅ、と柔らかなものが触れる。ニックが目を見開いて振り返った時には、もうジュディはきつねどんの後ろ手を取り、身柄確保に専念していた。

「ニック、ジュディ。どんな調子だい?」

 梯子の上から、ひょっこりと顔をだし、お気に入りの帽子を振ってくるロビン。ニックはにっこりとして、その前足を振り返す。

「やーあ、ロビン! ばっちり、問題なしさ!」

「こっちも、ロジャーを見つけたよ。屋根裏に縛られていたようだ」

「いやあ助かったよー、なんだい、駆けつけてくれるなら、言ってくれればいいのに! 僕ほーんと、ハラハラしちゃったよう、これからきつねどんの胃袋のシミとなって、生きていかなきゃいけないのかなって——」

「(こんなところまでうるさいなあ)」

 嫌な顔をしながら、ロビンは、人質を縛めている縄を調べた。これが、くまどんの怪力で結ばれたものなのか、ガッチリと固くて、なかなかほどけない。

「脱出防止アニメロープなんだよう」

「ご都合主義だなあ」

「原作映画の設定だよ?」

「だから、それを言っているんだよ」

 慎重に縄の結び目に手をかけるロビン。緊張のせいなのか、空気が妙に暑い。垂れ落ちる汗を拭いながら、その石のように固い縄を軋ませる。

「思い出すなあ、あの日も、こんな風にジェシカと倉庫に縛られて、そうしたらエディが——うぷぷ、とんでもないおかしなダンスを披露して、イタチどもを笑い死にさせたんだっけ。オホホ、思い出すだけで笑えてきちゃったよう、待っててねえ、愛しのエディ! 今行くからねーーーっ!!」

「(ほんと、うるさいウサギだよなあ……)」





 「ぶえっくしょーーーーいっ!!!!」


「噂をされるとくしゃみが出るって、本当なんだな」

「ああ。奴のキンキンするような声が、こんなところまで響いてきやがるぜ」

 暗い川岸に立っていて冷えたのか、ずずー、と鼻水をすするエディ。横から無言でティッシュを差し出してくれるスコットの足元で、リトル・ジョンとミッキーは、平和に、鍾乳石でおはじきをして遊んでいた。

「だけど、安心したよ。ロビンはなんとか、ロジャーを見つけることができたみたいだね!」

「うほほ、おれの相棒だからなあ。そんなことは、朝飯前さ」

「あっ。やられちゃったあ」

 華麗なるジョンの手捌きによって弾かれたミッキーの石が、ぽちゃん、と間抜けな音を立てて、そばの川に落ちた。たぷたぷ、と揺らめくその水の流れを見ているうちに、ふと、ミッキーは疑問を口にする。

「それにしても、ここからクリッターカントリーの麓まで、どうやって帰ったらいいんだろう?」

「んー……今までの道を戻って、下山するしかねえんだろうなー……」

 考え込むデイビス。そういえば、そんなこと、まるで頭の中になかった。

「いっちょ山頂から、真っ逆さまに落ちてけば楽なんだがな!」

「もー、冗談はよしてよ、デイビスったらー!」

 HAHAHA、とのんきに笑いあいながら肩をばしばし叩く、デイビスとミッキー。その目の前を、すいー、と丸太がよぎってゆく。

 そして、

 登ってゆく。川にはありえない、物凄い勾配を。めっちゃギシギシいってるし。よく見ればそこには、ビーバー・ブラザーズの手によって、黒いベルトコンベアが張りめぐらされていて、ボートが運ばれてゆく暗黒の遠いその先には、白い、眩ゆい光が射してきていた。

「「「「…………」」」」

 なんとなく、教訓を覚える。どんな言葉も、口に出した途端、フラグになりうるものなのだと。





 ジュディがきつねどんに手錠をかけている間、ニックは、そういえば、とこぼした。

「ブレア・フォックス、ブレア・ベア……あれ。おい、くまどんはどこだ?」

「奴には、包丁を研いでもらってるぜえ。キヒヒヒヒ、今頃は岩さえ両断できそうな切れ味に仕上がっているだろうよ」

「げえっ。凶器持ちかよ——」

 思わず、身震いするニック。警察学校で対処法は教わってはいるものの、いざ現実のこととなると、さすがに心臓が早鐘を打ちそうだ。

「油断しないで、ニック。追い詰められた動物は、何をしでかすか分からないわ」

「ああ。とりあえずニンジン、そいつをくまどんの目に入れないように、隠れ家の外へ——」


「聞こえちゃったよお。ねえ、兄貴ィ、どうしてそんなずるい奴らに、捕まっているんだあい——?」


 ぞくり、と。
 全身が粟立つように、張り詰める空気。

 振り返るより早く、冷たいものが、とすっ、と横切った。紛れもなく、何かが斬り落とされる。あまりに呆気なく。あまりに当然のように。べろり、と何かが剥ける感覚。
 実に軽い音を立てて、地面に落下するそれ。焔の余映を浴びて、滑らかに光る包丁は、確かに、自身の胴を切り裂いたのだと。

 遅れて、理解する。

 間違いない。
 あと数センチで、自分の命は飛んでいた。

「ニック!」

「大丈夫! ……ベストが裂けただけだ」

 完全に——

 殺す気、か。こちらを。
 やばい、と脳内の警鐘が悲鳴をあげている。明らかに、今までとは空気が違った。隙を見せれば、本気で、襲いかかってくる。

 振り向くと、そこに立っているのは、彼ら小動物クリッターではとても太刀打ちできない、巨大な影。その手には、耳を掴まれたうさぎどんが、苦しそうにうめき声をあげていた。

「キツネと、クマと、ウサギの物語は、ハッピーエンドには、ならなそうだねえ?」

 ゆっくりと。
 残酷に。
 口ずさむように語られるのは、惨劇の予告。

 ゆらりと、不気味に呟いたその後ろ足が、火傷も恐れず、焚き火をひっくり返す。途端、矢のように火が燃え広がり、狭い洞窟の中を、みるみるうちに、灼熱と眩ゆい光が包み込んだ。なのに、どうしても足が麻痺している。夢を見ているように、脳が動かない。何してるのよ、とジュディが腕を引っ張り、咄嗟に、ニックの意識が戻った。顔を炙るような勢いで、一気に室温が跳ねあがり、煙が立ちのぼってゆく。

「ロビン!」

 ニックは真っ先に、ロビンの安全を危惧した。煙は上に行く。ものの数分で、上階にいる者の意識を刈り取るだろう。

「大丈夫! ……予定通り、ぼくはロジャーを助ける。君たちは、きつねどんとくまどんを!」

 叫び声が返ってくる間にも、焔は怪しい迫力を増して、ますます灼熱で周囲を燃やしていった。

 それはまるで、長年の怨恨の焔。
 クリッターカントリーを焼き尽くすための。
 そして、復讐を遂げるための、醸成された執念。

「ウサギは、みんな、死んでしまえばいいんだ。いつまで生きられるかなあ。みんな丸焦げになっちゃうのなあ」

 ニヤニヤと、笑みがこぼれてたまらない口に反して、どこか哀しみを秘めた目が、陽炎を透かして、まばらに揺らめいて見えた。

「うさぎどん」

 ぬめりとした声で、くまどんが楽しそうに、陽気に、彼に囁く。

「おれ、嬉しくて嬉しくて、仕方ないんだあ。ようやく君に、笑いの国を、見せてやれるよお」

「ひっ——」

「さんざん、おれたちを、馬鹿にしてくれたよねえ。このおれが、クリッターカントリーで、一番の、グズだってえ? それじゃあ、そのグズの手で、ゆっくり、ゆっくり、殺してあげるからねえ」

 その長い耳を引きずって、焔の中に消えてゆく。彼の体躯は、まるで炎熱を感じていないかのようである。

「待て、どこへ行くんだ! うさぎどんだけじゃないぞ、お前だって——」

「ニック、行っちゃだめ! もう焔が回っているのよ!」

 ごうごうと唸り始める火に負けないように、ジュディが金切り声をあげる。しかしニックは、目を見開いたまま、くまどんの背中を見つめたままでいた。焔の中に消えてゆくくまどんは、どこか、違う方向を見ているように思ったのだ。





「……ちょっと。なんか、焦げ臭くねーか?」

 暗闇の中に立つのも飽きて、徐々に退屈し始めていたデイビスの言葉が、皮切りだった。くんくんくん、と全員が鼻をうごめかせ、そして、洞窟の壁に、彼らは見る。明らかに焔と思われる光と影が、チラチラと躍っているのを。

「え? え? え? ちょっと、これって何かの演出?」

「また、カリブの海賊が、スプラッシュ・マウンテンに混じってきたのか?(注、その昔、ディズニーランド私設の消防署長は、『カリブの海賊』の火災シーンのリアルさに仰天し、緊急時の演出自動停止システムを要求したというエピソードがあります)」

「いいや、違う。本当に燃えてるし、本当に焦げ臭い。これって、間違いなく……」

 鼻をつまんだスコットの言葉で、全員が顔を見合わせた。そう、言うまでもなく。


 「「「「火事だーーーーーーっ!!!!」」」



 もうどうのこうのと言っていられるレベルではない。一刻も早く、ここから避難する必要がある。その時、ジリジリと音を立てて、無線機が鳴り、慌ててデイビスが、電源を入れる。

《聞こえる、みんな!?》

「おい、ジュディ! いったいどうなってんだよ、これは!?」

《わたしたちのことは構わず、早く逃げて! くまどんが、隠れ家に火を放ったの! このままだと、あなたたちの方にまで煙が広がってしまうわ!》

「逃げろ、つったって——」

「大丈夫かい!? そっちはどんな様子なんだい、ジュディ!?」

《わたしとニックは無事。だけど、ロビンが——彼だけ二階にいるの。火の手が回るのが早すぎて——彼が今、どんな状況にあるのか、掴めない》

 それを聞いて、ミッキーは素早く、横を振り向いた。洞窟の闇の中に、顔色を失い、真っ青になっているリトル・ジョンの姿が見える。

「ロ、ロジャーがどうなってるかも分かんねえか!?」

《ごめん。まだ、そこまで分からないわ……》

 ショックを受けながらも、何とか口を動かしてみせた。

「あいつは、トゥーンだからな。尻に火がついたって、何とかなるような奴だ。だけど、ロビンは……」

 その続きを察して、デイビスも、スコットも、ミッキーも、言葉を失った。薄闇の中に佇むリトル・ジョンの大きな半身は、微かな焔の余映を浴びて、いつもの柔らかな目は、大きく見開かれ、焦燥の火に焼き焦げてゆくかのようだった。

 彼が結論をくだすまで、そう長くなかった。ぐっと唾を呑み込むなり、凛と声を張って、メンバーに告げる。

「みんな。逃げよう」

「だけど、もしもロビンが——!」

「心配すんなあ、あいつは、天下のロビン・フッドだ。おれの相棒が、そう簡単に殺されてたまるかよ」

 そう、力強く言い切ったリトル・ジョンは、やがて広がりつつある焔に、瞳を揺らめかせながらも、その場にいる全員に、静かに言い渡す。

「ロビン・フッドは、英雄だ。お尋ね者だが、英雄だ。自分の手が悪事に染まるのも厭わず、多くの貧困に喘ぐ民を助けようとしてきた。

 おれの使命はさ。同じ泥沼に浸かりながら、あいつの心を信じてやることなんだ。どんなことだって、ロブならできる、絶対に悪党になんか負けるはずがないって、……そう、信じてやることなんだ」

 穏やかな口調だったが、その声の中に宿る、焔ほどにも強い信頼を悟って、一同は心を決めた。とにかく今は、ジョンの決断を重んじるしかない。

「よし、脱出するぞ! 全員、袖を濡らして、口元を手で覆え!」

 エディの掛け声に、全員が急いで手または前足を川に突っ込み、しとどに濡らした。

「あっ、ちょっと待って! 忘れてた!」

「何やってるんだ、デイビス!?」

 すう、と腹いっぱいに息を吸うと、ありったけの声で叫んだ。

「おーーーい、ブレア・バルチャーズ! 早く逃げろ!」

「……ああん?」

 今日はゲスト、こないなーと、完全に油断して居眠りしていたはげたかどんたちは、その声に反応して、ぱちりと目を開いた。

「おい、ニンゲンがオレたちに命令すんな」

「命令してないって! 親切心で言ってやってんの!!」

「火事なんて、怖くないさ。この立派な翼がありゃ、炎から逃げられるからねえ」

「ばかっ、炎以上に怖いのは、一酸化炭素中毒なんだよ。目に見えないし、上昇気流に乗って上にあがるから、お前らが真っ先に危ねえぞ。早く逃げねえと、ハゲタカなんて、あっという間にチリチリのバーベキューになっちまうんだからな!」

 しかし、思ってもみなかったことに、これが彼らのスイッチとなったらしい。折り畳まれていた漆黒の翼が、ぴくり、と動く。

「今、ハゲっつったな?」

「「「「「えっ」」」」」

「気にしてるのに。毎週、クリニックに通ってるのに」

「ご、ごめん。つーか、ハゲタカって名付けたのは、俺じゃねーよ。文句はどっかの学会に言ってくれ」

 脱出直前だというのに、何、この雲行き? ずりずりと後ずさるデイビスの背後で、あちゃーと額を覆うスコット。要するにこの男は、またもや余計な引き金を引いたのだ。

「お前……本当、トラブルメーカー……」

「こ、こんな展開、先読みできるわけないだろ!? 言っとくけど、俺は悪くねーぞ!」

「みんなも、笑いの国が、見たいかい? エヒヒヒヒヒヒヒ……」

「誰にでも、笑いの国は、ある」

「でも、なんだってうさぎどんは笑ってないのさ?」

「奴はもう、顔面蒼白——」

 そこまで語ったはげたかどんたちは、ニンマリと笑いあい、ばさり、と不気味な闇色の翼を開くと。

「「というわけで、笑いの国へ、行ってらっしゃい!!」」

 「「「「「どわーーーーっっ!!!!」」」」」


 バサァ、と広げれば二メートルにも達するハゲタカたちの翼に押されて、一行はころころと転がるおにぎりよろしく、川を流れてゆく丸太ボートの、ガラ空きのシートに、転がり込んだ。おあつらえむきに、がっちゃんこと安全バーが下りる。さすがはディズニーの安全性だ、ガタガタと暴れてもびくともしない。

「おい! 固定されちまったぞ!!」

「そんなピタゴラスイッチみたいな偶然で話を進めるつもり!?」

「どどどどどどうなってんだよ、これえ!?」

「こ、こ、このままじゃ、丸太と一緒に、ベルトコンベアで——」

 リトル・ジョンがそう言った瞬間、がくん、とボートの角度があがった。急勾配。髪をすっと引かれるような重力感とともに、ぎしり、と、足元から、何やら確実に聞こえてはいけない音がしている。そして、それを止める手段は、ない。

「——いやいやいやいや、手段がないわけねえだろうが!! ここは天下のディズニーランドだぞ!? 安全対策くらい、用意してあるに決まってるだろ!!」

「そそそそそ、そうだ、無線機! 無線機で、OLC運営部に緊急脱出の要請を——!」

 慌てて、ミッキーが取り出した無線機を——

 ぽちゃん。

 と呆気ない音を立てて、はげたかどんが奪い去ってから、滝の下に落としたのを聞き、一行の目が点になる。

「そそそそそ、そうだ、こんな時こそ、ご都合主義の魔法だ! お前の力で消火してくれ、ミッキー!」

「はっ、そそそそそうだ、僕には、ソーサラーハットがあったんだ!」

 そしてミッキーは、ドラ○もんよろしく、素晴らしい集中線を背負って、そのキラキラ輝く帽子を取りだした。

「任せて! これさえあれば、どんな火事だって——」

 ぽちゃん。

 と二度目の呆気ない音を立てて、飛沫がほんのちょびっと、滝の向こう側に見えた。あとは、虚しい沈黙が広がるばかりである。


 「「「「「どうしよーーー!?!?!?」」」」」



 どうしようもこうしようもない。物理の法則通り、このまま上がって、滝を落ちるだけだ。ベルトコンベアがキリキリと巻き上げられるたびに、否応なくボートは迫り上がってゆき、乗っている彼らの心臓までもが、キリキリと痛む。しかも何のゲストサービスなのか、行く手の右側には、炎に燃え盛る隠れ家の内部がバッチリ見えた。

「あーっ! 隠れ家の壁が透けて見える!」

「マジックミラー式なんですか!?!?」

「おい、見ろよ! ジュディ、偉いぞ! ちゃんときつねどんを捕まえているじゃねえか!」

「でも、ニックも、ロビンも、ロジャーの姿もないよ! みんな、焔の中に取り残されているんだ!」

 赤い焔の光に彩られて、壁に映るのは、きつねどんとジュディのシルエットのみ。それもいつまでも見ていられずに、じりじりと、コンベアが巻き取られ、隠れ家は後ろへと通り過ぎ、代わりに対面するのは、絶望感だった。どんどんと迫りくる眩しい光が、彼らの脳を、真っ白に呑み込んでゆく。

「もうダメだーーーー!!!!」




 ところ変わって、隠れ家の二階。
 炎と煙の立ちこめる中で、ロビンは、ロジャーに向かって、きり、と弓矢をつがえた。

「動くな!」

「ちょちょちょちょお!?!?!? 何やってんの!? 僕は的のリンゴじゃないんだよーーーっ!!!!」

 ついに自らの破滅を悟って、大声で喚きまくるロジャー。しかし、弓を納める気配はない。瞬間、ロビンの凛々しい瞳が光る。タン、という鋭い音とともに、壁に突き刺さった弓矢は見事、ロジャーを貫く寸前で、その縛めの縄を引き裂いていた。ぱらり、と縄がはち切れる。急いでそれを取りのぞくロジャー。た、助かった。

「やっ、やったあ! 僕——自由だあ!」

 勝利の雄叫びをあげるロジャーに反して、ロビンはぐっと腰をかがめ、咳き込んだ。煙を吸いすぎた……辺りをあえなく崩れてゆく炭と瓦礫が、凄まじい煤煙を立てて、ロジャーとの空間を埋め尽くしてゆく。涙ぐんだ瞳で、ちらりとその障害物を見た。容易に近づけない。

「ちょっと! 何してるんだい、頭がおかしくなっちゃったのお!? 早くこっちに来ないと、煙に巻かれて、死んじゃうじゃないかあっ!!」

「逃げろ。後は心配するな——」

「心配するなって、命令されてもしちゃうもんなんだよおーーーっ!!」


「君は、ノッティンガムに行ったことはあるかい?」


 ロジャーの動きが、止まった。その声には、この場に相応しいものではない、不思議な懐かしさが込められていたから。
 狂おしく渦巻く黒煙の彼方から、それは切々と聞こえてくる。故郷を語る、万感の愛おしさを込めた声。

「美しい村だ。でも貧しくて、酷い村だ。お城は豪華だけど、民衆たちの住む家は、目も当てられない。子どもの誕生日に、なけなしの貯金で買ったプレゼントを、保安官が、笑いながら強奪してゆく。……そんな光景を、日に、何度も目にしたよ」

 それは、まるで絵本を読むように。
 遠い昔話を聞かせるように。

「ぼくはね、誕生日は——せめても、誕生日だけは。この世に生まれてきてよかったねって、そう祝ってあげたかった。生まれなんて関係ない。王様だけが祝われて、乞食は何人も死んでゆくなんて、そんなことは、けして許されることじゃないんだ。

 例えこの身が、最低の悪党に堕ちたとしても。


 ———あの村に棲む子どもたちの喜ぶ顔を、見てみたかったんだ……」


 それは、数百年を超えて伝わる、ロビン・フッドの物語。自分の生まれ落ちた世界は貧しく、自分の立ち向かわなければならない時代は悲しかった。

 それでも、自分の手で、希望は創りだせるから。煤で真っ黒に汚れた前足を見る。痩せた土に触れ、めくるめく黄金に触れ、こちらに向かって微笑んでくる子どもたちの頬に触れた、この手だけが、信頼できるすべてだ。

 そして、汚れた肉球へと向かってばらばらと火の粉や煤が落ちてくる、さらにその上。徐々に焔が呑み込もうとする天井の先に、僅かに、白い世界が光る。

 あれがきっと、かつては鶏冠チカピンと呼ばれていた、この山頂に根を張る枯れ木の、頂点。まるで煙突のように、空へと突き立つ空洞の切っ先。もう、自分に残された逃げ道は、あそこしかない。

「リトル・ジョンに伝えてくれ。……ありがとう。君のような相棒に出会えて、本当によかったって」

 「そんな死亡フラグみたいな台詞を僕が伝えなきゃいけないのお!?!?!?」


「さあ! ぼくは、君を助けるためにここまで来たんだ! 早く、そこから飛び降りろ!!」

 悲痛さを込めた大声で命じられ、ロジャーは躊躇しつつも、窓辺へと後ずさっていった。どっちにしろ、彼にしてやれることは、もう何もないのだ。それなら、ここで無駄死にするより、一匹でも多く避難する方が、賢明というものだ。

 ロジャーは意を決して、窓に足をかけた。老木を切り抜いたその四角い空隙の前を、ぴゅう、と風が通り抜けてゆく。震えるロジャーの後ろ足は、震度5並みだ。しかしそれを笑える者など、一人としていはしないだろう。

 だって、
 滝壺まで、
 どう考えても、


 ———ビル五階分の高さはあるから。


 おまけに、滝壺の周りには、めっちゃ茨が生えまくってるし。え、これ、飛び込んだら死ぬんじゃね? 詰んだ。詰んだわ、コレ。完全にオワタ。滝壺にどんどんと吸い込まれてゆく丸太の行く末が、上からはまるで見えないのが、恐ろしすぎる。

「ちょっと、ロビン!? 僕も君も、人生崖っぷちだけど、ハッピーエンドになるんだよねえっ!?」

 返事はない。ただ、すべてを蝕む炎の声だけが、轟かんばかりに響く。

「ディズニーランドで、バッドエンドは許されないから! 『白雪姫と七人のこびと』を除いてねーーーっ!!!!」

 ほとんど半狂乱のようになりながら、ロジャーは叫んだ。やはり焔の彼方は、轟音に閉ざされながら、沈黙したまま。ごくり、とロジャーは生唾を呑み込み、改めて真下を見つめた。自分の運命は、自分で決着をつけるしかない。

 燃え盛る炎の中で、ロビン・フッドは手早く準備を進めていた。こうした時の手筈は、常人より、よほど慣れている。脱出防止アニメロープを矢に結びつけると、弓をつがえ、その照準を、白い光のすぐそばへ。深い音を立てて、一瞬、焔の中を閃いた矢尻が、狙い通りの壁へと突き刺さる。目の前に垂れ下がる縄は、光への道しるべ。これが途切れれば、自分はもう二度と、光の中へ這いあがることができない。

 蘇ってくる。かつてリトル・ジョンと、初めての貴族の館に忍び込んだ夜。これでマリアンとは、一生結婚できないだろうな、と思いながら——それでも、闇夜に煌めく星は数え切れないほどに美しく、かっぱらってきた宝飾品と清々しい夜風に囲まれて、さんざん二人で大笑いしたのだ。草原に寝そべると、蛍の光と、無数の虫の声が彼らを包み込んだ。自由と、解放と、重罪の夜。

 どこまでも真っ暗な宇宙から、降るように輝いている星々。あれに比べたら、地上の輝きは、とても綺麗なものじゃなかった——黄金は汚れ、貨幣は欲にまみれ、宝石は腐り切ってる。それでも、ほつほつと灯るノッティンガムの家の明かりは、ぼくらの眼には優しく、疲れ切った泥棒たちを労ってくれるほどに暖かかった。そしてその時、有名無実の法律ではなく、その温度の方が世界の真理なのだと、悟ったのだ。

 生きるとは、光だ。
 星のようには生きられなくても、星を目指して、この大地を歩いてゆく光だ。

 けれども、この燃えるような確信を、誰に伝えればいい? リトル・ジョンも、マリアンも、今はノッティンガムでの思い出が過ぎてゆくだけで、けして届きはしない。

 足元に散らばった瓦礫が、陽炎の中に揺らめく。次第に崩落してゆく隠れ家の中、ロビンは、誰の耳にも聞こえぬ声で呟いた。

「世界は変わる。きっと、よりよい方向に変わる。
 なあ、リトル・ジョン、そうだよな?

 …………そう、信じさせてくれよ——」







「ボゴ署長!? 緊急事態です、現場から火災発生! 犯人の一人は確保したものの、もう一人は人質とともに、炎上中の家屋内部に立て篭もり中! 至急、応援を要請します!」

《こちらはすでに、全速力で現場に向かっている。耐えてくれ、あとほんの少しだ!》

 きつねどんも身じろぎしたが、すぐにジュディの膝が押さえつけ、体格差をものともせずに、隠れ家の外へと引きずってゆく。焔からは大きく距離を取っており、風上だった。ここでなら——巻き込まれることはない。

 ざわざわと嫌な音を立てて、眩ゆい火炎の勢いは増してゆく。破壊、燃焼、蹂躙。そのすべてが、溶け落ちそうな熱風の中で混じりあい、焔の彼方に消えたくまどんの姿を、覆い隠していた。

「やい、おれごと焔で丸焼きにする気か、サツ公! そんなのは絶対に許さねえ!」

「暴れないで! 安心して、ここなら絶対に安全だから——」

「そのままきつねどんを確保していろ、ジュディ! あと数分待てば、ボゴ署長たちに、そいつを引き渡すことができるんだ!」

 言いながらニックは、弾倉を開き、抜いていた銃弾を素早く詰めると、その拳銃をホルダーへ収め、激しい炎へと向かっていった。

「ニック!」

 悲鳴のような声が、その場を切り裂いた。火の粉が舞う。木の一部が崩れ落ちる。真っ赤に揺らめきながら轟音を立てている炎と、その金の蒔絵のように眩しい粒子を浴びながら、ニックは、自分を呼び止めようとするのを懸命に堪えているジュディを振り返り、今までに見たこともない優しさで微笑んだ。

「鏡見ろよ。ヒドい顏してる」

「ニック——」

「必ず帰ってくる。なあ、もう子どもじゃない、立派な警官だろ? 長年の夢が叶ったんじゃないか。

 だから、そんな顔をして泣くなよ——ジュディ・ホップス」

 舞い踊る火の粉の眩しさと、移ろう影に彩られた笑顔が、苦しいほどに彼女の網膜に焼きついているうちに、ニックは、焔が渦巻く世界へと飛び込んだ。今生での別れの言葉だったと、ジュディが気づいたのは、彼がいなくなってから、数秒経った後だった。いまだ、瞬きをすれば、あの笑顔が消し難いほどに浮かびあがるのに、目の前には何も残らない。

 一人、その場に取り残されてからも、ジュディは物音ひとつ立てなかった。熱く、噎せるような空気が充満する中、油断すれば震えそうになる吐息を抑える。どれほどの時間が経ったろう。遠くに薄く、サイレンの音が近づいてきたかと思うと、しばらくして、どやどやと、洞窟中に響き渡る足音が聞こえてきた。屈強なアフリカ水牛——ボゴ署長の低い声が、酷く頼もしく、ジュディを包み込む。

「よくやった、ホップス部長! ブレア・フォックス、これからあなたをズートピア警察署に連行し、取り調べを行う。あなたには黙秘権があり、あなたの行った供述は、法廷において、あなたに不利な証拠として用いられることがある——」

 悪夢から覚める声のように、淡々と聞こえてくるミランダ警告は、ジュディの大きな耳をすり抜けていった。これほどの大捕物など、今までに経験したことがないというのに、何の喜びも、感銘も湧いてこない。だって彼はまだ、焔の中から帰ってきていない。

「ワイルド巡査はどうした?」

「ブレア・ベアと、ブレア・ラビットの救出に向かっています。まだ、中に——」

 そう呟くジュディの、後ろ足が、微かに震えていた。見かねたボゴ署長が、いつになく労わるような身振りで、彼女の小さな肩を叩く。

「よくやった、ホップス部長。君はいったん、ブレア・フォックスと一緒に、署に戻れ。ここの始末は、私たちに任せるんだ」

「は……い……」

「この煙だ……消火には相当な時間がかかる。残念だが——最悪の事態も、覚悟しなくてはならないかもな」

 何気なく呟かれた言葉こそが、彼女の意志を呼び覚ますトリガーとなった。ふら、とパトカーに向かおうとした只中で、彼女の思考は停止する。全てが真っ白になったかのように。

 最悪の事態?
 ニックが、死ぬってこと?

 いいえ、ニックだけじゃない——ブレア・ラビットも、ブレア・ベアも、みんなまとめて、焔に巻かれて、死ぬのだ。もはや火事は、それほどまでの規模に達しようとしていた。くまどんの狂気に気づくのが、遅すぎた。初めから犯人確保に集中していれば、彼のことを守れたのかもしれないのに。


 ————諦めるの?


 彼女の瞳に、焔が躍る。


 ————本当に、諦めるの?


 それはきっと、彼女の、道しるべとなる言葉だ。
 迷えばいつだって、その言葉が、胸の奥から響いてきた。俯いてしまいそうになる彼女に、声援を送る言葉。希望の光でもって、進むべき道を指し示してくれる言葉。

 ここで終わってしまったら、あの時と同じ。哀しいことは正されないまま、何も、何も解決しない。何も、苦しみが癒やされはしない。


(あんな奴らがいるから、君はいつもキツネ避けを持ち歩いているわけか? そうさ、初めて会った時からちゃんと気づいてたぞ!)


 吐き捨てるように、ニックは行ってしまう。
 群衆たちを押しのけて、わたしの知らない場所へ。わたしの助けられない、どこか遠くへ。

「…………ニック…………」

 ジュディは、からからに干上がった喉から、微かに声を漏らした。自分のコンディションを確かめるには、それで充分だった。ジュディは地を蹴り、自分より数倍大きな体躯を持つボゴ署長の腕を掴む。

「———待ってください、ボゴ署長!」

「ホップス部長!?」

 ボゴ署長の網膜に映るジュディの眼が、爛々と光る。焔の勢いに負けぬほどに熱く、彼女は必死に言った。

「わたしの仕事は終わりました。しかし、相棒の任務が、まだ終わっていない。ワイルド巡査は、ブレア・ベアの確保と、人質の解放を任されています。彼からの報告があるまで、ここを動くわけにはいきません」

「ホップス部長。気持ちは分かるが、このままじゃ、君の精神が先に——」

「大丈夫です。これがわたしとワイルド巡査に与えられた仕事なんです。そしてそれは、まだ終わっていない。……何も、終わっちゃいないんです」

 もう、二度と傷つけたくない。
 けして、あんな顔をさせたくない。

「わたしが警察官を夢見たように、これが、ニック・ワイルドの選択した道。
 例え彼が、殉職を迎えたとしても。

 ———この目で、ワイルド巡査の選んだ道を、見届けなければなりません」

 膝をつかない。よろめきもしない。小柄なアナウサギにとっては、その焔はあまりにも大きく、向かいあう体は小刻みに震えていた。しかし、その大きな紫の瞳からは、一滴の涙もこぼさずに、焔のような眼差しを張って、自らの責務を果たさんとしていた。

 負けない。
 誰も死なせるものか。
 一人だって、死者を出してなるものか。

「———ボゴ署長、わたしに救出の許可を! 犯人、人質、警察官、全員の命は、必ずわたしが守ります!」

「ホップス部長……」

「お願いします! わたしたち警察は、動物たちを守るためにいるんです! ここで諦めたら、何にもならない。——わたしは、みんなを助けたい!」

 世界は、きっと変わるから。
 すべての動物が笑える世界に、きっと歩いてゆけるから。

 だからニック、どうかお願い。


 明日の世界を、信じさせて———







 くまどんは、素早く目を走らせた。目に映るもの全てが、凶器に見える。この灼熱の中にいるだけでも、うさぎどんにとっては、拷問のような苦しみだろう——だが、それだけで済ますつもりはなかった。できるだけ、苦痛の長引く方法がいい。しかし、はっと気づくと、そのこめかみには、硬く毛を抉るような銃口が押しつけられていた。その金属部分は、炎熱を受けて、いっそ氷のように錯覚するまでに、熱くなっている。

「言っとくが、こいつは脅しじゃない。撃たなければ、全員死ぬ。撃てば、そこのウサギと、俺が助かる。

 ただな——幸運なことに、三匹とも助かる方法も、まだ残ってるみたいなんだ。どうする? いっちょ、そいつに賭けてみたくはないか?」

 抑えられた口調が、爆ぜる焔の轟音に炙られて、まるで陽炎のように揺れる。反応のないことを察して、ニックは静かに、言葉を続けた。

「人質を離せ。もうお前に勝ち目はないんだ」

「銃を下ろせよお、裏切り者のキツネめえ——」

「人質の解放が先だ!」

「おれはこいつと、心中する覚悟なんだよお!」

 だめだ。完全に、目が据わっている。単なるきつねどんの腰巾着のように捉えていたものの、これほどまでに彼らの仲間意識が強いとは、思ってもいなかった。
 拳銃を持つ手が震えた。おれはいったい、何をやっているのだろう? 銃口を向けて、言葉で脅して——はたから見れば、おれだって、凶悪犯と同じことをしているだけだ。

「いつもいつも、こんなずる賢い奴らにだけ味方しやがって。お前らの信じている正義なんざ、みんな都合のいい、嘘っぱちじゃないか。おれたちを一番見下しているのは、聖人ヅラをしている、警察なんだ!」

「違う! おれたちは、この社会に生きる動物たちのことを、みんな平等に——!」

「いつだって、馬鹿にされるのは、おれたちの方だ! 笑いの国なんかどこにもない! 人生は、生きることは、いつだって不公平だ!

 だけど、おれは知ってる! おれたちは馬鹿じゃない! 馬鹿じゃない! キツネの兄貴が、おれにそれを教えてくれた。おれたちは、馬鹿にされるべきじゃない。そんな生き物なんか、どこにもいない! おれたちが、この郷で一番、賢いんだ!」

 悲鳴のように訴えられるその言葉の数々を聞いて、ニックは、喉から込みあげる酸っぱい何かを感じた。この感情に相応しい名前があるとすれば、それはただひとつ——共鳴、だ。

「聞いてくれ。おれは、いつだってこの正義が正しいなんて、信じちゃいない。だけど——だからといって、そっちの道に戻るのを、肯定するわけにはいかないんだよ」

 言い聞かせたところで、くまどんは、微動だにしない。ニックは辛抱強く、掠れた声で囁いた。

「おれは、お前を殺したくない。お前にウサギも、殺させたくない」

「兄貴が……」

「きつねどんは、助かる。めちゃくちゃになってなんかいない。きつねどんの人生は、きつねどんだけのものだ。それはどんな動物にだって、けして穢せないことなんだ」

 その時、微かに、くまどんの目に何かが戻ってきた。意思のかけら、ともいえる何か。おそらくは、彼の言葉を聞いて、大好きだった友だちの姿を思い描いているのだ。


「お前ときつねどんは、また、このクリッターカントリーを、思う存分に遊べるんだ。友だちに、戻れるんだよ」


 そう——

 きっと明日は、今日とは違う日になるから。誰にだって光はそそがれて、ずぶ濡れの後は、太陽が待っている。きっと、そうやって生きてゆくことが許されている。

 そして、まさにその瞬間、焔の中に消火器の煙を引き連れて、ジュディが駆け込んできた。ニックも、くまどんも、振り返る。煤まみれになって咳き込みながらも、ジュディはなんとか、声を振り絞って叫んだ。

「ニック! もう大丈夫よ!」

「ジュディ!」

「きつねどんは無事に、署に連行したわ。あと残るは、あなたたちだけ。ここにいる全員で、助かりましょう」

 彼女が語る背後には、確かに、焔の中に道が続いている。それは細く、頼りなく、今にも熱風の揺らめきに掻き消されてしまいそうだったが、けれどもこの酷暑の出口へと繋がる、最後に残された希望の道だった。

「早く! ブレア・ベア、こっちへ来るのよ!」

 真っ直ぐに、自分へと向かって差し伸べられた前足。その小さな前足を、くまどんは見つめた。

 白い毛に覆い尽くされた前足。
 自分のは、黒い毛に覆い尽くされている。

 白と黒。
 相容れない距離。
 その違いを超えるように、ジュディは囁く。

「わたしは、罪を犯したわ。贖いようのない失敗もした。でも、戻ってくることはできるの」

 ニックもまた、前足を伸ばす。白と黒のそばへ、赤茶の色が加わった。

「踏みとどまってくれ。頼む。お前の怒りを、棒に振るな」

 その、差し伸べられる前足。
 けして笑わない。馬鹿にするつもりなどない。
 くまどんが初めて、瞳を揺らして、けれども悪あがきをするように、頭を振り乱した。

「おれは——悪いことはしていない」

「分かってる。だからこそ、ここで何もかもを終わらせちゃだめよ。生きなきゃ!」

「こいつだけは——命に換えても——丸焼きに!」

 焔は燃える。叫び声のように。恨み事のように。正義の問答のように。

 決死の交渉が続けられるその瞬間、しかし転機は、思わぬところからやってきた。それまで黙っていたうさぎどんが、急に涙を流しながら、大声で懇願し始めたのである。

「い、いいとも! 丸焼きにでもなんでも——でも、あの茨の茂みにだけは、投げ込まないでくれ!」

 「「「はあ?」」」


「おいら、棘でチクチクされるのが大っ嫌いなんだ! 吊るし首でも皮剥ぎでも、何でもいいよ。でもお願いだ、あの茨の茂みに投げ込むのだけは、勘弁してくれ!」

 こっ、こっ、このウサギは——その時、自分たちが危機的な状況にいるという事実も忘れて、開いた口が塞がらないニックとジュディをよそに、その叫び声を拾ったくまどんの耳が、ぴくりと動く。

 彼が呟いたのは、たった一言。






「茨の、茂みぃ——?」





 小さく——
 緩慢に——

 唸るような声で。

 そして、この宇宙の森羅万象を知悉している神は、次の事象を、同時に書き留める。すべてが起こったのは、まさに、決定的なその瞬間だったのだ。


 ロジャー・ラビットも——

 うさぎどんも———

 デイビスたちを乗せた、丸太のボートも——


 放りだされる。
 何もない、虚空へと。
 重力のない世界へと。

 あっ、と。ニックとジュディの、声にならない叫びが、聞こえた気がした。しかし当然、それは間に合うはずもなく、焔とはまるで違う、さわやかな外の風が、全員の頬を吹きなぶる。





一瞬の、眩しい光———




 目に沁み入るほどに真っ白なそれを、デイビスは、酷く懐かしいものとして受け止めた。そして広がるのは、圧倒的なまでに鮮やかな蒼穹。

 空か。ああ、空か。
 心洗われるような空。今まで、ずっと洞窟の中にいたもんな。

 そう感じたのも、ほんの束の間。まるで背骨が消し飛んだような、ぞくりとする無重力。そして、低く轟く轟音が背中を滑り、凄まじい破壊力で駆け抜けていった。







ドドドドドドドドドドドパシッドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ






















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シュパアアアアアア————



 「つめってえええええええええ!!!!」

 「何! 何!?!?!?」

 「一瞬光ったのは何!!!!!!」


 どう考えても悪意のある一面の霧が、顔を盛大にびしょ濡れにし、頭の中にあったすべてが吹っ飛んだ。何が起こったのかサッパリ分かりかねるまま、ボーゼンとして短い洞窟をくぐり抜けた彼らの上には、ふたたび、秋の真っ青な空が広がっているのだった。

「……見事なダイブだったな、デイビス」

「いや、今回は、俺の操縦のせいじゃないんだけど……」

「分かってる。ディズニーランドって、こんな不可抗力もあるんだって、今知った」

 ぽた、ぽた、と顎からしとどに雫を滴らせながら、妙な冷静さで会話するストームライダー二人組。あーっと……なんつーか、なんだこれ? なんとなく、今までさんざん大笑いしていた、あの陽気な小動物クリッターたちに化かされたような思いさえしてくるのは、気のせいなのだろうか。

「それより、スプラッシュ・マウンテン残留組の方はどうなったんでえ!?」

 バッと、安全バーに苦労しながらも、何とか滝の上を見ようとするエディ。身をひねって眩ゆい蒼穹を仰ぐと、そこには相変わらず、切り立った崖の上から黒煙を噴きあげる、鶏冠チカピンの枯れ木があった。

「……ロブ」

 リトル・ジョンが、微かな絶望を込めた声で囁く。そしてその隣で、ミッキーが目に入れたのは、このピンチを打ち砕く、素晴らしい可能性を秘めたものだった。

「あっ、僕の無線機と帽子だ!」

 彼の指差した先には、流れる水上にぷかぷかと、無線機とソーサラーハットが浮いているではないか。急いで、しゃかしゃかとボートを動かして、世紀のチートアイテム、魔法の帽子を回収する。

「よおぉーし、これさえ手に入れれば、こっちのものだ!!」

「頼むぜええええ、ミッキー!! こんなマジックができるのは、お前とジーニーとエルサとマーリンとイェンシッドとブルー・フェアリーくらいしかいねえ!!」

「そこは嘘でもいいから、僕だけしかいないって言ってよね!!」

 ボート横のスイッチを押し、安全バーがあがった。ミッキーは丸太ボートのへりに立つと、蒼光を爛々と放つ帽子を被り、高々と両手をかかげる。そう、映画『ファンタジア』より、『魔法使いの弟子』のワンシーンとしてたびたび引用される、あの有名なポーズである。

「いっくぞおーーー!! これが、期間限定で通常時よりも更にびしょ濡れになる スペシャルバージョン——スプラッシュ・マウンテン"びしょ濡れ MAX"の先行公開だ!!」

「詳細は公式リリース(http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20220309_01/main/0/link/20220309_01.pdf)参照!!!」

「水よ、我が魔力にしたがえ! 荒れ狂う焔を鎮めよ! ミッキー・マウスの名において、この指の先に集え!!」







 「ウォーターフォール・スプラーーーーーーーーーッシュ!!!!!!!!」




 旧約聖書曰く——


「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」
(『‭‭出エジプト記‬』第十四章二十一節〜二十二節、新共同訳‬‬より)


 世に膾炙したこの神聖なる表現を、そのままネズミの魔術に適用させることは、多くの反感を買いそうな行為ではあるが、遠くから見れば、それはまさしく、奇蹟とも見紛う光景だった。

 あたかも、水を司る海の神ポセイドンが、黒煙をあげる天の神ウラノスの暴虐を、包み込むかの如く———

 真っ直ぐに天を示すミッキーの人差し指から、目をあざむくばかりの火の粉が噴きあがったのと同時、みるみるうちに、湖から数百もの激越な水柱が立ちあがったかと思うと、一斉に天高くへと飛翔してゆく。それが嚆矢となった。クリッターカントリーから立ちのぼるその涼やかな音に、この日、パークにいた誰もが、遠方からでも見えるその魔法の淵源を、振り返ったのである。

 1992年5月13日。折りしも、東京ディズニーランドに、クリッターカントリーがオープンしたのと同じ年、米アナハイムの夜を席巻した『Fantasmic!』は、豪華絢爛なラスベガスの噴水ショーに対抗するため、当時最先端技術を誇るレーザー光線やウォータースクリーンを駆使したナイト・エンターテイメント・ショーとして、その長き幕をあげる。甘く力強いデュエットに乗せて、想像力の素晴らしさを謳いあげながら、音楽、花火、炎、水が一体となって繰り広げられてゆく、夢の世界。数多の幻想が、まるで魔法のペンキを塗りたくるかのように、宇宙を形作ってゆく。
 さしずめ、空想的なものの力を信じる、ディズニー・コンテンツの集大成——とでも言おうか? しかし、単なる称揚にとどまることなく、その途方もない力を観客たちに体感させるためには、まさに、壮大な夢と魔法を、実際に目の当たりにさせなければありえない。そして今、このスペクタクル・ショーに携わった人間たちのすべての情熱が、ここに集う。通常時と異なるのは、我々の頭上に、燦然たる太陽が輝いているということ、ただそれだけである。

 圧倒的に虚空をねじ伏せる水量、局所的に地面を揺るがす大地震と、心臓を叩き続ける、凄まじい轟音。彗星は翔けめぐり、次々と水底から光が射して、まるで母なる太陽へと還るかのように、激しい光線を振り撒いてゆく。次から次へと、水が、光が、命を得てゆく。誰もがその景色に目を奪われ、何か、物凄いことが起きているのだという事実に、我を忘れて立ち止まらざるをえなかった。まもなく、力強く噴射する逆さの瀑布は、そのまま、巨大な水のカーテンとなって、高さ五十三メートルもある山を、完全に外界から遮断した。それはまさしく、一ミリの縫い目もない天然の防壁陣バリアである。かくしてスプラッシュ・マウンテンは、鮮やかに太陽を照り返すウォータースクリーンに、その全貌を封じ込められたのだった。

 そして——世界最高の魔法使いとも称されるミッキー・マウスの真骨頂は、ここからである。すい、と指揮者を思わせる流麗さで指を滑らせると、それまでの猛々しい世界が、一変する。付き纏うのはportamento——滑らかに次の音へと推移して、さらに冠せられるのは、espressivo——表情豊かに。その指揮に生命を芽吹かせ、水のヴェールは生き生きと跳ね回り、リズムに合わせて揺らめき、うっとりするようなしぐさで踊り始める・・・・・。後はもう、水の舞台が繰り広げられるばかりだ。それは柔らかな幾重もの膜でもって、内部に揺らめく焔を和らげ、膨大な流水のうちに、灼熱の温度を押し流してゆく。まるで無機物の世界で繰り広げられるワルツか、さもなくば、抒情的なバラードか。テンポはAdagio、滑らかな水面を伝って、次々と魔力を送り込まれてゆく水が、ロマンチックな五色に照らされ、太陽を映し込んで透き通るその表面は、舐めればとろけるような味がしそうなほどである。したたる水滴はシャンデリアの如く、水でできた無数の箒たちが、その手に持ったバケツを振るう。ぱしゃり、と涼しい水音が響き渡るほかは、不可視のピアノの旋律が、その身のこなしからこぼれ落ちてくるばかり。魔法とは、かくも美しいものであったのか——観衆はその優美さの虜となり、壮大な水がしたたらせる一挙一動に、恍惚の溜め息をつかざるを得ない。

 それは、人を魅惑する魔法だった。
 ミッキーの魔法の真の強さとは、威力ではない。その夢々しさにこそ、宿るのだから。

 誰もが見惚れ、空想の世界を旅し、我を忘れる。そう、真のエンターテイメントとは、想像力と創造力の冒険だ。普段は押し込められているイマジネーションの扉を開き、ひろびろと自由に遊ばせて、現実を生きるだけではけして辿り着けない真実に触れ、魂からの驚嘆を知ることだ。そうして、見たこともない光景に心を奪われているうちに、本来の目的である消化活動はおおよそ落ち着いて、スプラッシュ・マウンテンの山頂付近から立ちのぼる黒煙は、もはや線香一筋ほどもなかった。decrescendo、そしてritardando。徐々に静けさを取り戻していった郷は、小鳥のさえずりまでもが、はっきりと聞こえるようになり、かくして夢は、うつつへと着地する。固い地面、水車の回転、鮮やかな落ち葉の転がる音。その地上の平和を受けて、ついにスプラッシュ・マウンテンは、凄まじい水量でずぶ濡れになっているその姿を、きららかな陽射しの下にさらしたのだった。

 新たなエンターテイメント・ショーと勘違いした観衆から、どよめきとともに、怒濤の拍手が沸き起こる。ミッキーの内に秘められた魔力に気圧されて、さすがのデイビス一行でさえも、ボーゼンとしていた。同時に、体力も気力も使い果たしたミッキーは、魂を昇天させて、ぱったりと倒れる。

「うわあ、ミッキー!」

「さ、さすがに、疲れたよう……」

「ファンタズミックなんて、ここ最近、やってなかったもんな」

「うん。使っていない筋肉を使ったよ……」

 ともあれ、これで、一件落着の方へ近づいたのでは? ショーの物凄さに圧倒されて、なんとなく気抜けした感じのところへ、鳥のさえずりが翻り、平和な虹の橋がかかる。そこへ、ひとつの影が落ちてきたかと思うと、みるみるうちにそれは大きくなって、彼らの頭上へと迫りきたのである。


「アッハハハハハ! それーーーっ!!」


 場違いなほどさわやかな笑い声とともに、大きな耳を生やした影が飛び込んできて、彼らはまたもや水飛沫をぶっかけられ、全身びしょ濡れになった。えーっと、俺たちはなぜ、二度もスプラッシュを受けなければならなかったんだ? 全員が疑問符を浮かべている中、いち早く、エディが怒鳴り声を響かせる。

「ロジャー!」

「アッハハハ、心臓が飛び出るかと思ったよお! でも安心して、この僕にかかれば、無事着水! ね、エディ! 褒めて、褒めてえ!」

 大はしゃぎするロジャーは、どこで調達してきたものやら、生意気にも浮き輪に乗って、ニコニコしているではないか。見たところ、どこにも怪我をしていないどころか、むしろ洞窟の中にいた頃より元気百倍である。

 そしてまた、気を取られているところに、凄まじい飛沫がぶちあがった。もはやびしょ濡れどころではない。大波が襲いかかると同時に、今度はバケツを引っ被ったような量の水がなだれ込んで、下着までじわじわと染みてくる。え、今何が起こった? 放心状態の彼らの方へ、穴の貫通した葦の茎の先が、右へ左へと水を掻き分けて近づいてくる。いったい、これは何だろう? おそるおそる顔を近づけたリトル・ジョンの顔に向かって、それはいきなり、水鉄砲をお見舞いしてきた。突然、びしょ濡れにされた驚きで、しばらくは水をしたたらせながらも、とうとう、リトル・ジョンは腹を抱えて笑いだした。そこには、耳の中の水を叩いて追い出しながら、まるで悪戯が成功したように得意げに笑っている、英雄ロビン・フッドの姿があったのである。

「ハッハッハッハッハッ! いやはや、肝を冷やしたぜ、ロブ! てっきり、お陀仏かとな」

「いやいや、ロビン・フッドは死なないよ。こんなピンチくらい、シャーウッドの森で、何度も君と乗り越えてきたじゃないか」

 温かく、どこか切なそうにその親友の姿を見守りながら、リトル・ジョンはそっとつぶやいた。

「おれには分かってたよ。ロビン・フッドは、最高の盗賊だってことがな」

 すると、相棒を振り返ったロビンもまた、優しく微笑んで、

「そいつは光栄だ。だけどもね、それはいつだって、体の大きい最高の友人が、ぼくのそばについていてくれるからなんだけどね——」

と答えながら、ボートの舳先にあがってきつつ、ぷるるっ、と水を飛ばした。


「花王の提供でお送りします!!!!」


 乗るしかない、このビッグウェーブに。……と思ったのかどうかは知らないが、大々的にスポンサーを宣伝する叫び声とともに、横倒しとなる怒濤をまともに受けて、とうとう、丸太のボートはひっくり返った。一匹の例外もなく川に叩き落とされ、ぶくぶくと泡を漏らしながら沈んでいった彼らは、ついに匙を投げるに至る。あ、これもう、無理だわ。下手に岸辺にあがるより、もうこのままボートにしがみついて、下流まで流されていった方が気持ちいいかも。川底を蹴り飛ばし、イルカのような勢いで、全員一斉に、水面から顔をだす。ぷはあっ、と肺いっぱいに空気を満たしたその瞬間、目の前は雫で眩しく輝き、そして中心に、大騒動の発端となったキャラクターが浮かんでいるのを見つけた。

「それに——うさぎどん!」

「アッハハハ、騙されたな、くまどんめ! 茨の茂みは、おいらの故郷! クリッターカントリーは、おいらが生まれ育った、ふるさとなのさ!」

 ん、なんか視線を感じるような? 不思議に思ったうさぎどんが、辺りを見回すと、じとーっと睨めつける周囲の眼差しが、彼のずぶ濡れの毛並みに、ちくちく突き刺さってきたのだった。

「……で、君たち、誰だっけ?」

「だーかーらー! サラ婆さんに頼まれて、お前が帰るように説得しにきたって言っただろ!?」

「そうだったっけえ? でもこれでホラ、おいらは帰るしかないんだし。冒険は、これにて終了!」

「…………ハァ」

 明らかにイライラしているエディの溜め息を受けるように、デイビスが、説教役を引き取った。

「もうこれで分かっただろ、スプラッシュ・マウンテンを出てゆくなんて、どれだけ馬鹿な真似だったんだろうって?」

「アハハー、了解だよ! さあ、みんなで一緒に帰ろう。クリッターカントリーは、とてもいい郷だ! 美味しいものだって、楽しいコーラスだって、絶叫ポイントだって、なんだってあるもんね!」

「調子のいい奴……」

 呆れ果てるほどに楽天的なうさぎどんは、まあ、このクレイジーな郷の代名詞、と言えるのかもしれない。ちょっと納得、いかないけど。


 「ジャンピン・スプラーーッシュ!!!!」


 もういいだろ、水は。最後の仕上げとばかりに、二匹分の水飛沫がどぼどぼと上がり、全員沈んだ。ざばっと水面に顔を出すと、そこには、厳しい仕事を終えてきたズートピア二人組が、真っ黒な煤を流しながら、ぷかぷかと浮かんでいた。

「ジュディ! ニック!」

「あの二匹はボゴ署長に引き渡したわ、もう大丈夫。……いつの日か、きつねどんもくまどんも、きっと帰ってこれる」

「なあ、それより、……なんでこんなところで、みんなぷかぷか浮いてるんだ?」

 ニックからの、あまりに当然といえば当然の問いに、みな、顔を見つめあう。

「クリッターカントリーに新しくできた、流れるプールだよお!」

「なわけねえだろうが、調子いいことばかり言いやがって、タコッ! おめえのせいで、俺たち全員、どんだけずぶ濡れにされたと思ってるんだ!」

 「ァ゜オ゜ッ」


 ポコッ、と殴りつけて、チカチカと眩暈の衝撃を飛び散らせるロジャー。そして、その頭上に輝き、ぐるぐると回っているのは——

「あっ、ロジャー。星だ!」

「えっ、星だって? ホントぉ!? ぼく、スターを出せるようになれたのお!?」

 ロジャーは、ばしゃりと水飛沫をあげて、自分の真上を仰いだ。そこには、まるでジュディやニックの胸許に輝く階級章のように、美しい金色の星が、チカチカと点滅しながら、宙を翔けめぐっていたのである。


「見ろよ、エディ、ピカピカのお星さまだ。僕がほしかったのは、これだったんだ……」


 うっとりと、夢を見るように、ロジャーは自分の頭から生み出した星を眺めて、熱い息を漏らした。その輝かしい星々に、ミッキーが人差し指で魔法をかけると、それらは白銀の尾を噴きながら、歓喜を表すように螺旋を描いて、素晴らしい勢いで駆けめぐった。クリッターカントリーのあちこちに魔法の粉を散らして、星々は、優しい夕焼け空を照らしだす一員となる。

 まるで、人々の夢を叶える流れ星のように。

「あははははは! ミッキー、凄いや!」

「Ha-hah! これは、みんなが無事に冒険から帰ってこれたことへの、お祝いさ!」

「……ふふ」

 驚いたことに、いつもは仏頂面のあのスコットですら、微笑みを浮かべているのである。全員が振り返って、そちらを見た。

「へえー、スコット、珍し! 笑ってやんの」

「何を言ってる。笑ってない」

「おい、笑ってたじゃねえか! 嘘つくんじゃねーよ!」

「笑ってないって言ってるだろ!」

「ハハッ! もう、いじっぱりなんだから!」

 みんながキラキラと光る水に濡れて騒ぐ中、笑いの代表格たるロジャー・ラビットが、そのすべての明るい声を引き取るように、満面の笑顔で言った。

「好きなだけ大笑いしようよお、たくさん笑った方が、人生勝ちさ。
 笑いは、僕らの武器なんだ。腹を抱えて笑うってことには、すんごい力があるんだから!」

「あ〜あ、まったく、好き放題言いやがるぜ。俺たちは大変だったんだ、この馬鹿ウサギが」

「まさか、またユーモアのセンスを失ったんじゃないだろ、エディ……?」

 にこりともせずに睨みつけるエディを目にして、ロジャーはおそるおそる、機嫌をうかがうようにしながら、その清らかなブルーの目をパチパチと瞬かせた。しかし、次の瞬間にエディが行動に移したのは、周囲をもっと驚かせることだった。彼はロジャーの首を掴むと、ぐいと引き寄せ、大きな吸引音を立てて、とびきり濃厚なキスをしたのである。

 太陽のように明るい笑みを浮かべて、水面をただようロジャーが、大声で歌う。トゥーンの大好きな曲、『Smile Darn Ya Smile』だ。そして、総勢、三人の人間と七匹の動物が、川のたゆたいにしたがって、ついに流れ着く。大麦の垂れたような夕焼け空が美しく、葉も、さざなみも黄金に煌めき、したたるのは黄金の雫、ツタをくねらせるいばらも、垂れ下がるオークリーフも茜色に染まり、バイユーの向こうに見えてくる外輪船は、旅芸者を乗せた、ジッパ・ディー・レディ号である。


 ♪ジッパ・ディー・ドゥー・ダー
 ジッパ・ディー・エイ
 なんて素晴らしい Wonderful day
 お帰りなさい うさぎどん
 みんな君を待っていた

 家出の旅を終えて
 生まれ故郷の 茨の茂みへ
 ジッパ・ディー・ドゥー・ダー
 ジッパ・ディー・エイ
 幸せだね さあ帰ろう


 夕暮れは、家に帰る時間だ。沼のほとりに建てられた小屋で、今日も動物たちが奏でる、アコーディオンやバンジョーの愉快な音を聞きながら、自然の匂いに包まれて、ぐっすりと眠る。それがクリッターカントリーの日常で、この世の暖かいものはすべて、この郷にあると思えた。そしてうさぎどんは、揺れる川面の上に提燈を吊るした小屋の上で、ワニたちに紛れて、古くからの小さな友だちがいることに気づく。

「グランマ・サラ!」

 きっと、うさぎどんがいなくなってからというもの、ずっと胸を焦がして、帰りを待ってくれていたのだろう。そこには、郷の仲間たちと一緒に縫ったらしい、手作りの横断幕が掲げられている。

 

WELCOME HOMEおかえりなさい
BRER RABBITうさぎどん


 呆けたようにその文字を見あげているうさぎどんを、小動物クリッターたちが協力して、岸辺へと引きあげる。グランマ・サラは両手をひろげて、ちいさな体で、うさぎどんに飛びついた。

「まあまあ、お帰りなさい、うさぎどん。ほれ、そんなにずぶ濡れになって、どうしたの。
 ずいぶんと大変な旅だったのねえ。あなたのために、温かいスープを作って待っていたんだよ」

 いつもの声色であり、いつもの口調であり、そしてあまりに慣れ親しんだ、いつもの笑顔。

 その胸を衝く温もりに、つんと鼻の奥が痛くなり、うさぎどんは、目の前がぼんやりとした黄金にぼやけてくるのを感じた。その雫が、グランマ・サラにしたたらないようにそっと拭いながら、いつもの声色を装って、囁いた。

「ごめんよ、お婆ちゃん。おいら、これからもずっと、ここにいるよ」

「まあま、すっかり殊勝になっちゃったこと。でもね、たまには家出だって、楽しいもんよ。さ、みんなで、お食事にしましょ。そうして、今日繰り広げてきた冒険の話、みんなにしてあげてちょうだい」

 笑って、エプロンの紐を結び直すグランマ・サラを、そっと手のひらの上に載せながら、うさぎどんもまた微笑を浮かべて、橙色に染まるこの郷を見る。

「そうだね。本当に今日は、素晴らしいジッパ・ディー・ドゥー・ダーな一日だったよ」

 スプラッシュ・マウンテンから流されてきた他のメンバーたちも、続々と岸にあがる。帽子を絞って水気を切るロビンに、一匹の美しい雌ギツネが、両腕を差し伸べて水辺に駆け寄った。

「ああ、あなた——!」

「マリアン! 君がどうしてここに?」

 ロビンは驚いて、ふたたび、川岸に尻餅をついてしまったが、マリアンは自分の服の裾が濡れるのもまるで気づかぬように、彼にひしと縋りつくばかりである。ぐぬぬ、美人、と歯噛みするニックと、すかさず、針のように鋭い横目で、相棒を牽制するジュディ。

「おれがこっそり、手配しておいたんだよお。だってほうら、今日は、こんなにたくさんの動物たちが、集まってきているんだ。祝宴を開くには、ちょうどいい機会だろ?」

「祝宴? 祝宴って、何のことだい?」

 リトル・ジョンの言葉を耳にし、マリアンを立たせる手助けをしながら、ロビンは、きょとんと目を瞬かせた。隣のニックが、肘で、彼の脇腹を意味深につつく。

「おいロビン、お前、幼馴染のお姫さんと結婚したんだって?」

「ああ、まあ……」

「水くさいじゃないか。キツネ友だちのおれを、式に呼んでくれないなんて」

「そうだそうだ、スプラッシュ・マウンテンだけに、水くさいぞ」

「やかましいわ」

 要らぬ茶々を入れるデイビスの頭を、ばこん、と殴るスコット。ロビンはすっかり困惑してしまい、

「みんな、悪いけど——ぼくらの式の費用は、まだノッティンガムが重税の影響から立ち直っていなかったから、全額、寄付に回してしまったんだ。君たちを招待できるような規模の結婚式なんて———」

 ところが、ロビンの躊躇いがちの言葉は、途中で行き先を失った。彼は眼差しの先に、懐かしい友人の姿を見つけ、驚きのあまり、すっかり次の言葉を忘れてしまったからだ。

「あれ!? タック神父! どうしてここにいるんだ!?」

「結婚式には、神父が必要じゃろう。それにほら、わしだけじゃないぞ」

「レディ・クラック! トビー! スキッピー! アラナデール! それに、ノッティンガムのみんな——」

 そこに並んでいるのは、彼があれほどまでに愛した、ノッティンガムの気のいい連中ばかりである。タック神父が代表として、咳払いをして喉をきれいにするなり、威厳たっぷりに申し渡す。

「君は本当によくやってくれた、我々の誇るべき、立派な英雄だ。だから——」

「お返しに、ここにいるみんなでやるんだあ。ロビン・フッドとマリアン姫の、とびっきりの結婚式をね!」

 リトル・ジョンが大声をあげた、次の瞬間、視界は、驚くばかりに白くなった。動物たちが、後ろ手に隠し持っていたバスケットの中から、わあっと真っ白な米粒を振り撒いたのだ。

 雨あられと降りそそぐライスシャワーの中で、ロビンとマリアンは、互いの瞳を見つめあった。こんなにも多くの拍手と歓声に包まれているのに、世界中で、たった二人きりになってしまった気がした。見つめあう相手を中心として、周囲のざわめきは遠ざかり、想いはめぐる。

 そして、子どもの頃から泥だらけになって森の中で遊んできた、あの二人の遠い年月が、太陽のように眩しい記憶として、全身を噴きあがっていった。ヒナギクの花を手折り、指輪にこしらえて、幼いながらに膝をつき、結婚を申し込んだ——今、懐かしい日々も、古き善き時代のバラッドに歌われるように、夢の泡となって弾けてゆく。ロビンは、目を潤ませて見つめるマリアンを、その腕の中にしっかり抱き締めると、そのヴェールの下の、涙に満ちた笑顔に触れた。目の前にいる新妻も、新婿も、輝くばかりに美しかった。

「ロビン、あなたの命は、わたしの命よ!」

「愛するマリアン、この場を借りて、今一度、君に言うよ。——ぼくと結婚してくれるか?」

「ええ、ええ、もちろんよ、あなた以外の殿方なんて考えられないわ! ああ、今日はなんて幸せジッパ・ディー・ドゥー・ダーな日なんでしょう。わたし、あなたを愛しています!」

 マリアン姫は、込みあげる感動のままに、夢中で夫であるロビンの首をかき抱くと、あふれる涙を拭った。その背を優しく叩きながら、永遠の伴侶である彼女の頬に、そっと口を押し当てた。柔らかな拍手が降りそそいだ。

 ノッティンガムの名高きロビン・フッド、彼の繰り広げた愉快な冒険について、ハワード・パイルはその前書きで、このように記している。


 ———こつこつとまじめな人生を歩み、ほんの一瞬でもなにもかも忘れて想像の世界で浮かれさわぐなど恥ずかしいと思っている方や、人生に罪のない無邪気な笑いなど不要だと考えている方には、この本はむいていない。……ここは、想像から生まれた国だ。しかも、飽きたら、ぱっと消すことのできる、じつに心地よい場所なのだ。そう、本を閉じれば消え去り、傷ひとつ負わずに日々の生活へもどっていくことができる。
 さあ、なにものにも縛られない国とのあいだにかかっている幕をあげよう。親愛なる読者よ、さあごいっしょに。いらしてくださるとはありがたい、では、どうぞお手を。(*1)


 我々もまた、偉大なる先人の残した、この教訓の通りに従おうではないか。想像の国の中では、この素晴らしい結婚式に参列できない者など、一人もいはしない。花の天蓋をくぐり抜け、喜び勇んでこのクリッターカントリーに駆けつける動物たちの誰もが、幸福な行列に加わって、この美しい花婿と花嫁に、清らかな純白の花を撒き散らすことができる。同じように我々も、手渡された籠の中の花くずを引っ掴んで、手に手を取りあうこのキツネの夫婦を祝福し、これから彼らの培う素晴らしいロマンスに想いを馳せることができるだろう。空は晴天、降りそそぐ自然の光に合わせて、天高くのぼってゆく雲雀や、短く笑い転げるような鶫たちが、十重二十重に軽やかにさえずり、森のすみずみへと響き渡ってゆく。まるで、この伝説を語り継いでゆく吟遊詩人たちのように。そして、眼に涙を浮かべて見守る参列者たちは、勇敢なるロビンとうるわしきマリアン姫が、星のように光る指輪を交わし、神父の前で無事に果たされた誓いのキスを皮切りにして、飲めや歌えの大祝宴へと突入していったのである。

 どんぐりをくり抜いた豆電球が、懐かしい菫色の夕空に包まれた郷を、煌々と彩る。グランマ・サラのキッチンの煙突からは、ふたたび湯気が噴きあがり、熱く、たっぷりと出汁をとったスープの匂い、草の香り、地面の固さ、風の音、亀はひっくり返って、太鼓代わりに自分の腹を叩き、七面鳥は強烈にけたたましい歌声を披露して、自作の曲を演奏する機会にありつき、大喜びをするいぬどん、あらいぐまどん、やまあらしどん。ジッパ・ディー・レディ号の旅芸人たちも下船して、ノッティンガムの連中とともに、大騒ぎを繰り広げていた。

 けして華やかではなかったが、そこには素朴さと、歓喜と、黄金の陽射しのように深い愛が溢れていた。そして、みな揃ってギターを弾き鳴らし、手慣れた身振りで、ディズニーランドの片隅に流れている、あの懐かしいメロディに胸を震わせるのである。同じように我々も、すべてを忘れて、またとないこの日を歌い騒ごうではないか。過ぎゆく一日は、流れる水のよう、一度限りのその夢に身を浸し、甘美な喜びに溺れようではないか。人間も動物も関係なく、手拍子、それに足拍子を交えて、今宵はすべてが美しく見える。例えそれが束の間であっても、そのひとときは信じることができるだろう、命は互いに愛する限り、その喜びを分かちあうことができるのだと。

「お祝いだあ! 万歳、ロビン・フッド! ヤッホー!」

「マリアン姫にも万歳! ブラボー、ブラボー!」

 文字通り、愛用の弓をヴァイオリンの弓にし、花嫁のために旋律を掻き鳴らすロビンと、春の花の如く踊るマリアン姫。親友の幸せを見届けて、胸をいっぱいに膨らませたリトル・ジョンは、隣にいるオンドリの吟遊詩人に向かって、愛嬌たっぷりに合図した。

「派手にやろうぜ、どうだい?」

 それを受けたアラナデールは、ニッコリ笑うと、鉤爪の生えた脚を楽しそうに踏み鳴らし、マンドリンをいっそう音高く奏で始めた。ネコは笛吹き、ブタは酒樽でコントラバスを、ウサギも鍋やポットを吊り下げて叩きまくり、リトル・ジョンも、マリアン姫の乳母であるレディ・クラックの羽先を握って、軽快なステップを踊り始める。誰もがおどけ、誰もがリズムを刻み、誰もが食事を楽しみながら舌鼓を打つ。そうして、夕暮れの下に笑顔のあふれ、ざわざわと川風に吹かれる祝宴は、そう——きっとこれこそが、"笑いの国"というもの。アラナデールは、片目を瞑って、こちらに笑いかけた。

「ハッハッハッハッ、どうだね、みなさん。これで——めでたし、めでたし!」


 ♪Love goes on and on
 愛は永遠に続いてゆく
 Oo-de-lally, Oo-de-lally
 ウッドラーリ、ウッドラーリ
 Golly, what a day
 なんて日だ
 Oo-de-lally, Oo-de-lally
 ウッドラーリ、ウッドラーリ
 Golly, what a day
 なんて日だ!


 アラナデールの真緑の翼が歌わせるマンドリンに合わせて、うさぎどんはニンジンを齧りつつ、Mr.ブルーバードに向かって口ずさんだ。

「♪Zip-a-dee-doo-dah, zip-a-dee-ay! おいらのおうちの言うことにゃ——

 まあ、まあ、なんてことはない、生まれ育った茨の茂みで、これからも楽しく暮らしてゆくために、戻ってきたってことなんだな!
 これにて冒険も幕引き、目指していたのは、おいらの故郷。向かうべきところは、最初っから、ここだったってわけなのさ!」

 Mr.ブルーバードは、心浮き立つような調べに耳を傾けながら、無事に戻ってきた愛する友人に向かって、そっと問いかけた。

「君がここに帰ってきてくれて、本当に何よりだよ、うさぎどん。ところで——出発前、君があれほど楽しみにしていた、スプラッシュ・マウンテンの冒険はどうだった?」

「そりゃあ決まってるとも、なんといっても、我が家が一番だ! そもそも、トラブルから逃げ出そうなんて考えるのが、間違いの元なのさ。トラブルのないところなんて、ないんだよ——ウフフフフッ、おいらの親友、リーマスおじさんにも教えてやろうっと!」

 小動物クリッターたちは、この日ばかりは解禁された酒を、ラケッティの倉庫から運びだして、このクリッターカントリーに、即席の酒宴会場を開いた。訪れたゲストたちにもジョッキを振る舞い、あっちの岩の上でも、こっちの木の影でも、終わらぬ笑い声が満ちてゆく。


 ♪Oh-oh-oh-oh-oh, Try everything
 Oh-oh-oh-oh-oh, Try everything
 Oh-oh-oh-oh-oh, Try everything
 Oh-oh-oh-oh-oh, Try everything...


 私物の紫色のiPodから流れるポップスに合わせて、小さく鼻歌を口ずさんでいるジュディは、野菜スティックが入ったコップから、パキッと新鮮なニンジンを齧ると、隣の席へと回した。

「さ、あなたも」

「うへえ、野菜スティックなんて嫌いだ。バグバーガーのサンドイッチの方が、よっぽどいいな」

「文句言わないの! 上質なバニーバロ産よ? 体にだって、うんといいんだから」

「おれは酒だけでいい。ニンジンだなんて、まっぴらごめんだね」

「もう! ニックったら——」

と、いつも通り眉を顰めながらも、カクテルグラスの底に沈んでいるマラスキーノ・チェリーを見つめるジュディは、大層上機嫌な様子である。少し酔っているのか、その瞳はぼんやりと煌めき、色とりどりの紙吹雪が蝶の如く飛んでくるたびに、その奥底に動きが射した。アメリカ河で、カヌーの上に立ったガゼルが、赤い幾つものスパンコールを縫いつけた衣裳を煌めかせながら、ミッキーが魔法をかけた、生きる噴水に囲まれながら踊っている。素晴らしいステージだ。眩しいスポットライトが飛び交い、動物たちが両手をあげて飛び跳ねる。そんなことは気にも留めぬように、ジュディの鼻から切れ切れに紡がれる歌が、周囲の喧騒の中から浮き立つように聞こえてきた。そんな彼女へ、ニックはずいと鼻先を近づけると、勝ち誇った態度をひけらかして、

「そうそう、ところで小耳に挟んだんだが、お前さん、おれの救助活動を許可されるまで、てこでも現場を動こうとしなかったんだって?」

「なっ——」

「ボゴ署長が、ニヤニヤしながら教えてくれたぜ。いやあ、実に真面目な巡査部長さんだねえ。そんなにおれの仕事ぶりが信用できなかったか?」

 ニックのあまりに率直すぎる、というか含意の分かりやすすぎている物言いに、ジュディは、耳のてっぺんまで真っ赤になりながらも、早口で捲し立てた。

「当たり前でしょ! 言っとくけど、年齢差なんて関係ないんだからね! あなたは新米警察官! わたしの方が、キャリアはうんと上! いつでも目を光らせていないと、どんな酷い失敗をしでかすか分かったもんじゃないわ!」

「へええ、そうかい。世話焼きの上司に目をつけられちまって、なんとも可哀そうなもんだねえ、このおれも」

「あのねえ! 今回はなんとか助かったからいいけど、次こそ、あんな危ない真似は、わたしの許可なく勝手に——」

 しかしその時、ぽふ、と大きな肉球が頭の上に載せられる。そのあまりの重さと熱で、ジュディは、火傷したように胸を衝かれた。

 自分の小さなそれとは、まるで違う前足。
 けれども、同じように平和を願い、世界をより良くするために働いている前足。

 それは、こんなにも温かくて、懐かしい重みを持っているなんて、知らなかったから。同じだけど違う、違うけれども同じ。どんな動物かなど関係ない、今、隣にいる彼は、一緒の時間を息衝いて——確かに、命を宿している。

 あまりにも当然な、けれども価値を持ちすぎるその事実に、胸をいっぱいに詰まらせるジュディ。そんな彼女に目を向けることもなく、自分のカクテルの水面を見つめたままのニックは、まるで独り言のように囁いた。


「もう泣いてもいいぜ。おれからの言葉、遺言だと思って、最後まで守ろうとしてくれたんだよな。——ありがとう、ジュディ」


 潤んでいた目元を隠すように、うつむいた。といって、いつまでも鼻を明かされてばかりの彼女ではない。他愛もないといった様子で、カクテルピックの刺さったチェリーをくるくるともてあそびながら、

「ねえ、ニック。あなた、結構わたしのことを好きになってきてるって、気づいてる?」

「へええ? 初耳だなあ、そんなこと」

「あら。もしそうだとしたら、とってもおまぬけなキツネさんよね」

 冗談混じりにそう溜め息をついて、そのままチェリーを頬張ろうとするジュディの前足を、ニックのそれが、引き寄せるようにして止めた。不思議そうに振り向く彼女の方へ、ぐっと乗り出して顔を近づけてきたニックは、あのいつもの緑の瞳を細めると、おどけたように肩をすくめてみせる。


「ああ、もちろん知っているさ。———ずうっと前から、な」


 どこか挑発するように、ゆっくりとした調子で言い含められたそれを聞いて、一拍置いたジュディも、だんだんと表情を和らげていった。そうして、ニヤリと笑みを交わした二匹が、手元のカクテルグラスの脚を同時に掴むと、一気に空になるまで干したのである。

「うぃー、ひっく。酒のある人生は、極楽だなあ」

「のんきに呑んでる場合じゃねえよ、エディ。俺たちは、対ヴィランズの計画を練らなくちゃ」

「ああん? ヴィランズだとお?」

「もはやすっかり忘れてるだろうけど、俺たちがロジャーを探していたのは、ヴィランズに対抗するためなんだぜ。最終目的は、シンデレラ城を奪還して、ミニーを取り戻すことなんだから」

「そんな当初の目的、読者の誰も覚えてないんじゃねえのけえ」

「だからわざわざ、長ったらしい説明台詞にして言ったんだよ」

「そんなら——ひっく、ロジャーに聞いてみようぜ。あいつは馬鹿な分、常人の思いつかないようなことをするアイディアマンだからな」

 頭に紅葉を乗せて、それまで、秋の宴会を楽しんでいたエディは、ふらふらと立ちあがると、披露宴でお祭り騒ぎとなっているクリッターカントリーを、ゆっくり徘徊し始めた。ロジャー・ラビットは、すぐに見つかった。動物たちの真ん中で、曲に合わせて、頭で皿を割り続けるという謎の一発芸をやっている。けたたましく陶器の割れる音を鳴り響かせている彼の蝶ネクタイを、ぐいんとゴムの引きちぎれそうなほど引っ張って、エディはぎりぎりと歯軋りを見せた。

「このお調子者め、いったい何をやっていやがる、ロジャー!」

「やーあ、エディ、言われた通り、お酒は一滴も呑んじゃないよ、えっへん! それに何だい、このビアビールときたら、とんでもなく美味しいものがこの世にはあるんだねえ! そうだ、いいことを思いついたぞ、これをトゥーンタウンに持って帰って、ターミナル・バーで販売しよう! たちまち、君のツケもなくなるほどのだーい繁盛だよ、まいったなあ、僕って、なぁーんて頭がいいウサギなんだろう——」

「ええい、分かったから捲し立てるなって、落ち着け。実はな、おめえに相談があるんだ。ほら、ミッキーの話していたヴィランズの件、ちっとも解決しちゃいないだろ?」

「ヴィランズ!」

 ロジャーは急に二メートルほど飛びあがって、その頭からカンカンに熱された湯気を噴きあげるなり、じたばたと手を振り回した。

「そうさ、こうしている場合じゃない! 恐ろしい奴らの手から、ミニーを取り返さなくっちゃ!」

「待ってよ、ロジャー! 後先考えずに、シンデレラ城に突っ込んだりしないでよ——!」

 機関車の如く鼻息も荒く、今にもシンデレラ城に突進しかねないロジャーの足に飛びつき、ずりずり、と数メートル引きずられながら、ミッキーは息も絶え絶えに叫ぶ。

「いきなり突入したら危ないよ。敵のメンバーは、ジャファーに、アースラに、マレフィセントに、白雪姫の女王! おまけに、ハデスまで——」

「なるほど、なるほど。ということは、敵はヴィランズ全員参加の、オールスターズってわけだね?」

「そうだよ! 無謀になって突撃してゆくのも、よくないと思うんだ。僕らには、もっともっと、たくさんの味方が必要なんだよ」

「それじゃ、どうする?」

「どうするって——」

 と、ここまでの応酬をしてきて、特に素晴らしいアイディアがあるわけでもなく、黙りこくるミッキー。彼らの気まずい沈黙を打ち破ったのは、空中からふよふよと漂ってくる、文字通り蛍光色の灯りと、腑抜けた宣伝文句であった。

「スプラッシュ・マウンテン落下時の記念写真でーす。一枚、一四〇〇円。台紙つきは、一枚、一六〇〇円でーす。買ってくださーい」

 ブンブンブーン、と飛んでゆくフィニアス・ファイアーフライの、妙に気の抜ける声。それと同時に、サンプル写真が配られる。ぺらり、とめくってみたそれには、丸太のボートで滝壺へ突入してゆくデイビスたちのおののき顔が、実にまぬけな表情で写っている。

「うっ。撮られるってことが分かっていれば、もう少しまともな顔で写っていたのに」

「思えば、ロジャーの馬鹿騒ぎも、雑コラ写真から始まったし。俺たちってほんと、写真に対して、いい思い出がねえよなあ……」

 あまりの写真写りの悪さに、鬱々とする面々の中で、ロジャーだけが、宵空の下をゆっくりと点滅しながら浮遊してゆく、フィニアス・ファイアーフライの尻を見つめていた。そして突然、それと同じくらいの明るさをともなって、彼の頭上に、ピッコーンと眩ゆい電球が照り輝いたのである。

 「ひらめいたあっ!!!!」


「「「「え?」」」」

 ミッキーも、デイビスも、スコットも、エディも、全員がロジャーを振り返った。またよくないことを思いついたんじゃ……? という空気がだだ漏れの中で、ロジャーだけがたった一匹、陽気にフリフリと腰を振る。

「ヴィランズに対抗するために、一致団結すればいいんでしょお? それなら、やるべきことはただひとつ。こっちだって、オールスターズで対抗だあ!」

「ええっ、本当に、そんなことができるのかい?」

「ミッキー、僕らには、僕らの得意領域があるんだって。万事解決、夫婦円満、スーパーカリフラジリスティックイクスピアリドーシャスな手段を考えたよお!」

 不安だなあ、そう顔にハッキリと書きながら、トコトコ後ろをついてゆくミッキーをよそに、ロジャーは自信満々に胸を張ると、地べたに座って披露宴で浮かれている、クリッターカントリーの住民のうちの一匹を呼び寄せた。

「ちょーっと君たち、ゴニョゴニョゴニョ。こんなことはできるかい?」

 少し考え込んだその住民は、辺りを見回してから、満面の笑みで親指を立てた。

「任せとけ! 必要なスタッフは、全員揃ってるよ!」

「決まりだあっ!! はーい、みなさん、ご注目うっ!!」

 パンパン、と手を打ち鳴らし、そこに集まった大小数百の住民たちの真ん前で、偉そうに咳払いするロジャー。それにつられて、なんだなんだ、面白そうだと、へべれけに酔った動物たちが集まってきた。

「これからみなさんに、協力してほしいことがあるんだよお。大丈夫、ちょっとの練習で、一生の思い出に残るはずさあ。えーっ、楽器ができる人は、オーケストラに。歌が得意な人は、コーラス隊にっ!!」

「なんだなんだ?」

「何を演奏するんだい?」

「安心しなよ、ちっとも難しくないんだからあ! いいかい、みなさんに演奏してもらうのは、偉大なるアラン・メンケンが作った、この曲さ!」

 ロジャーはいきなり、だらけたズボンの中に手を突っ込むと、バッと両手を広げて、幾つもの楽譜をばら撒いた。少し生温かいのが気持ち悪いが、必要な内容は、すべてそこに記載されているらしい。酒の勢いも手伝って、派手なパフォーマンスを振る舞うロジャーに対しては、やんややんやの大喝采だった。

「うそお……すげえ」

 おいおいおいおい、今までどこに隠し持っていたんだよ、そのマネジメント力は。楽譜を拾った住民たちが、試しに冒頭を口ずさんでみたり、ぎこぎことチューニングを始めたりする傍らで、ロジャーはミッキーの持っていた無線機をひったくると、ピッポッパッ、と適当な番号を押して、お目当ての電話に繋がるのを待った。

《ハロー、こちら、マルーン・カートゥーン・スタジオです》

「ハーイ、お元気? こちら、ロジャー・ラビット。えーっと、社長さんを出してくれる?」

 ふさふさと、短いロジャーの尻尾が振られて三往復、無線機の向こうからは、年老いた一人の男の声が聞こえてきた。

《替わったぞ。ロジャー、何の用だね》

「やーあ、C. B. マルーン、元気かい? 僕ったら、すっかり頭からお星様を出せるようになっちゃってえ、うふふ、これでまた、君のスタジオで大活躍ができるよう! それでねえ、実は君んとこに、相談があってね。ゴニョゴニョゴニョ」

《ええっ? ロジャー、落ち着けよ。それはその……犯罪だと思うんだが……》

「もーう、ごちゃごちゃ言わないでおくれよ、『Tummy Troubleお腹が大変!』を筆頭に、偉大なる短編アニメでこの会社を再興させてやったのは、誰だと思ってるのお? そっちがその気なら、僕はディズニー・アニメーション・スタジオに、完全移籍したって構わないんだからね!」

《ロジャー……本当に……こっちに責任は追及されないんだろうな?》

「大丈夫、どーんと任せておいてよ! 大いなる正義のためには、多少の無茶もやむなし、ってやつなんだからね。それじゃ、バーイ、マルーン。またよろしくう」

 ぽちり、と無線機を切り、通話でくっついた自分の脂を、丁寧に袖で拭き取るロジャー。強引にことを進めようとする彼の手腕は、大したものだった。まるで魔法にかかったかの如く、みるみるうちに手筈が整ってゆく。

「あー、あー、あー、マイクテス、マイクテス。本日は晴天なり、本日は晴天なり、犬ときどき猫が降るでしょう、うるさい一日になりそうですね。うん、これでよしっと。そろそろ、始めちゃおうかな」

 どこからともなく運ばれてきたマイクに電源を入れると、軽く声を吹き込んで具合チェックしたロジャーは、両手を揉みあわせて、満足そうに微笑んだ。

「カメラ、配置!」

 フィニアス・ファイアーフライが、ちかちかとお尻を点滅させた。

「オーケストラ、用意!」

 頷き合うのは、ジッパ・ディー・レディー号に乗船していた、楽団員たち。ヴァイオリンやコーラスも、準備万端である。

「そして、本日の主役。オッケー、っと」

 水玉模様の青い蝶ネクタイを、満足げな顔で結び直したロジャーは、ぴんと髭を弾くと、自慢の白い歯を完璧に光らせる。

「さ、ほら、カメラの前に立って!」

「え、本当に、何が始まるの? 僕たち、何も分かっていないよ」

「説明はあとあと! だけどバッチリ、これで君の目的は、達成されるはずさあ。おーい、C. B. マルーン! 全チャンネル、準備完了だよね?」

《なあ、ロジャー……本当に、やるんだな……?》

「つべこべ言わずに、ほらもう、位置について! いっくよー、本番五秒前! 四……三、二——(いち)——」



 ♪𝑇𝑎𝑙𝑒 𝑎𝑠 𝑜𝑙𝑑 𝑎𝑠 𝑡𝑖𝑚𝑒〜
 𝑆𝑜𝑛𝑔 𝑎𝑠 𝑜𝑙𝑑 𝑎𝑠 𝑟ℎ𝑦𝑚𝑒〜
 𝐵𝑒𝑎𝑢𝑡𝑦 𝑎𝑛𝑑 𝑡ℎ𝑒 𝑏𝑒𝑎𝑠𝑡〜




「ん……? なんか聞き覚えがあるんだけど、この曲——」









 「待って待って待って待って!!!!」

 「これはヤバイこれはヤバイこれはヤバイこれはヤバイ!!!!」


 完全に電波ジャックを繰り広げる中、きらーんと、番組ロゴ(注、大人の事情により本物を使用できません)が魔法の光で輝くと、ナレーションがおむもろにスポンサーを告げる。

《夢の通り道。本日は特別復刻版、全チャンネル共通の生放送です。夢がかなう場所、東京ディズニーリゾートがお贈りします(CV.はな)》

 だめだー、もうここまで言い切ってしまっては、どうにもならないじゃないか。ぽかーんと口を開けたままのエディ、思いっきり頭を抱えるデイビス、眉間の皺をつまんで嘆息するスコット、顔を覆って崩れ落ちるミッキー等々、バラエティ豊かな反応をともないながらも、番組は粛々と進行せざるをえない。

《ようこそ、みなさーん! 世界一幸せな場所、東京ディズニーランドへ。こちら、ロジャー・ラビット、宇宙で一番すンばらしい、喜劇俳優のウサギのトゥーンさ! 僕にファンレターを送りたい人は、千葉県浦安市舞浜1-1、トゥーンタウンの『ロジャーラビットのカートゥーンスピン』宛によろしくう!》

 いや、そりゃ、もっとたくさんの味方が必要だとは言ったけど——こうして、全国のテレビを電波ジャックしたマルーン・カートゥーン・スタジオの所業により、画面の中で元気よく飛び跳ねるロジャーと、顔を青くしているミッキーたち面々が、ついにお茶の間に放映されるに至ったのであった。


「ママー! パパがテレビの中に入ってるー!」

「あらあら、うふふ。今日もいい男ねえ」

 新しく生まれてくる子の靴下を編みつつ、ソファに座りながら視聴する、平和なスコット一家。


「え、あ? これってデイビスじゃん!」

「あいつ何やってるんだ、こんなところで」

「イメージキャラクターにでも抜擢されたのかしら。まったく、教えてくれれば良いのに、あの子ったら」

 デイビスの実家にて、食卓を囲む妹と父母の会話。


「おい、エディとロジャーが出てるぜ!」

「なんだ、ついに金に困って、探偵業から転職したのか?」

「おい、もっと音量大きくしてくれ、ドロレス!」

「ちょっと、カウンターに上がるのはやめてちょうだい!」

 がちゃがちゃと皿を鳴らしてテレビの前に詰め寄る、酔客でごった返したターミナル・バー。


「あらあ、ベース。これって、キャプテン・デイビスと、キャプテン・スコットじゃありません?」

「おかしなことをおっしゃい、あの二人はやむに止まれぬ事情で、長期休暇と聞いていますよ。まさかそんな状況下でテレビに出るなんて、愚かに過ぎる真似は——」

《え、えーっと、聞こえてる? 俺、ストームライダーパイロットの、キャプテン・デイビスです!》

 途端、ブーーーッ、と口に入れていたアイスコーヒーを、CWCの重要書類にぶちまけたベースは、秘書にドン引きされているのも構わず、齧りつくようにディスプレイを独占して、放映されているその光景に唖然とした。

 間違いない、マイクを握り締めている真剣な顔と、うんざりしながらも彼に引きずられて画面に映り込む姿は、どう見てもデイビスとスコットである。しかも、背後には、クリッターカントリーの象徴たるチカピンヒルの枯れ木、そして水飛沫の跳ねるスプラッシュ・マウンテン——彼らがどうしてこんなところに?

《この場を借りて、みんなに伝えたいことがある。今、東京ディズニーランドは大変なことになっているんだ! ヴィランズがミニー・マウスを誘拐した。奴らはシンデレラ城を陣取って、ミッキーを亡き者にし、この王国を乗っ取ろうと企んでいる!》

《Warning、Warning。あー、そんなわけでゲスト諸君、シンデレラ城はしばらくの間、立ち入り禁止だよ。その代わりと言っちゃなんだけど、シンデレラ城ミステリーツアー、期間限定の大復活。往年のファンたち、こいつは見逃せないね!

 宣戦布告、宣戦布告。只今より、ロジャー・ラビット、エディ・バリアント、キャプテン・デイビス、キャプテン・スコット、そして我らがスーパースタア、ミッキー・マウスの五名は、この事態に反旗を翻し、シンデレラ城とミニー・マウスを奪還することを、ここに宣誓いたしまあす!》

《あー、ヴィランズを見かけた際は、バリアント探偵事務所までご一報を。ベテラン私立探偵まで繋がります》

と、渋い声を放つエディが指差す下には、電話番号のテロップが。ますますベースは脱力して、ずるるんっとスライムの如く肩を落とすしかなかった。

「……ベース。こんなこと、事前に聞いていました?」

「聞いているわけないでしょ! あの子たちもいったい何考えているのかしら、こんなの半年間減給、いえ、もっと重い懲罰を課さないと——!」

「でもお。こんなに大々的にディズニーランドへの協力を打ち出されてしまったんじゃ、懲罰なんて課したら、CWCとOLCとの関係性が、悪くなるんじゃないですか?」

「…………」

「ま、いいじゃないですか、ストームライダーはこの季節、発進の機会ゼロだし。そもそも現実のストームライダーなんて、だいぶ前にクローズしちゃったしぃ」

 「この小説の中のストームライダーは永遠なんですっ!!!!」


「(おー怖……)」

 激しくデスクに拳を打ちつけて鼻息を荒くするベースに、秘書は思わずドン引きして、彼女から距離を取った。そんなポート・ディスカバリーで繰り広げられている平和な一コマには構わず、テレビの中の番組放送は、ロジャー・ラビットのナレーションによって続いてゆく。

《どんな敵や、苦しみを目の前にしても。笑いこそが、僕らの武器なんだ。さーて、勝負しようじゃないか、ヴィランズ諸君、善が勝つか、悪が勝つか? トゥーン諸君にゲスト諸君、君たちの協力を頼んだよ!

 さあさあ、この中継は、全世界に放映されています。皆さま、とくとご注目! じゃんじゃん写真を撮って、SNSに載せておくれよ!

 え? SNSだけじゃ物足りないって? この様子をナマでご覧になりたい方は、ぜひとも東京ディズニーランド、東京ディズニーランドまでお越しください! どうかみなさん、僕たちに熱い声援を!》

《ほら、スコットもなんか言えよ!》

《えーっと……サラ、すまないが、体に気をつけて。クレア、いい子にしておうちで待っているように》

《Ha-hah!》

 お馴染みの笑い声ひとつ、きりりと眉を吊りあげたミッキーは、番組の締めといわんばかりに、敢然たる口調でこう訴えた。


《ミニーは、僕の誰よりも大切な人です。僕らが必ず助け出して、この王国に平和を取り戻すんだ。絶対に、悪い奴らには負けないぞ!》


 と、かっこよくポーズを決めたところで、静止。キラキラとしたSEとともに、カメラは、かつてのチカピンヒル、現、スプラッシュ・マウンテンへとズームアップしてゆく。

《愉快な仲間たちが、悪との闘いを繰り広げるところ。ここは、夢の通り道です(?)》

 終わっ、た?
 終わっ、た。

 全員、テレビ用の作り声を解放し、ぜーはーぜーはーと息を荒げて、続けて流れるディズニーリゾートのCMを見つめる。なんとも抒情的なオルゴールの音色とともに、壮大なオーケストラが『星に願いを』を奏で、光ったところで、

「ハハッ——」

と自ずと笑いが込みあげたのか、ミッキーがくすくす笑いだした。

「お、おい。笑うなよ、ミッキー」

「だってみんな、あんなに顔を真っ赤にして、慌てて喋って——ハハハハッ! こんな面白いこと、ほかに見つかるわけないじゃないか!」

 ついに全員にまで大笑いが派生して、げらげらと地面を笑い転げた。そこへ、さっそく、無線機に電話がかかってくる。

「ハーイ、こちら、ロジャー・ラビット!」

《ああら、ロジャー、無事に見つかってよかったわ。さすがバリアントさんは、腕利きの探偵といったところね》

「ジェシカー! ボクの天使!」

 背後では、無線越しに熱いキッスが繰り広げられている。ミッキーは顔を赤くしていたが、他の三人は悠々と背を向けて黙殺した。あまり見られたものではない。

《トゥーンタウンは、さっきのテレビ番組の反響で、大騒ぎよ。きっと、どこのテーマランドも、凄いことになっているわ》

「よかったあ。それで、トゥーンタウンは平気なのお?」

《ええ、トゥーンタウンのイタチどもは、ばっちり、刑務所に収容されているんですもの。あなたも、早く帰っていらっしゃい。特別なニンジンケーキを作ってあげるわ》

「ねねね、エディも僕ンちに、ニンジンケーキを食べにくるでしょお?」

「ああ? おれぁ、ニンジンなんかはあんまり——」

「そんなこと言わずにぃ、ね、ね、ね? ドロレスも呼んで、みんなで楽しくケーキをつつけばいいじゃない!」

 こいつ、やかましい鳥のようにぺちゃくちゃと——ふたたび、懐かしいイライラが募ってゆくのが分かったが、それがロジャーのいいところとも言えるのかもしれない。彼のそばにいると、悩みやら問題というのが、だんだん、馬鹿らしくなってくるのだ。

「そんなわけで、ミッキー、坊主、兄ちゃん。俺が旅に同行できるのは、ここまでだ。世話になったな」

「え? エディ、行っちゃうの!?」

「これで、ヴィランズの目撃情報が、じゃんじゃん事務所に入ってくるはずだからな。それを片付けるのが、俺の仕事だ。それと、必要になったら、またすぐに電話をかけてくれ。いつでも駆けつけるからな」

「トゥーンタウンのことは、任せておくれよ! 僕がマルーン・カートゥーン・スタジオに掛け合って、映画の始まる前に、ヴィランズに関するCMを流してもらうようにするよ!」

「わああ、ありがとう、ロジャー!」

「それに、ワッキーレディオ・トゥーンタウンにも。使えるものは、全部使っておかなきゃねえ」

「本当に助かるよ。君が、こんなに素晴らしいアイディアを思いついてくれるなんて」

「万事、任せておけよ! 友達のピンチには助けに行くのが、トゥーンタウンの仲間ってもんじゃないか!」

 どーんと胸を打つロジャーの額を、ぺちんと叩くエディ。ロジャーは、きゃん、と目を瞑った。

「浮気を疑ってたおめえが言うな、ロジャー」

「ジェシカのことは、また別だよう」

「どれどれ、新しい情報は入っているかな。今の留守電サービスは——」

 魔法をかけたかのように、徐々に暗くなってきた星空が広がる下、試しにエディが、無線機の電源を入れてみると、耳のつんざくような再生音が、一斉に反対側の耳まで突き抜けた。キーンと耳鳴りの続く鼓膜を押さえながら、エディは何とか、口を動かす。

「さっそく、さっきの電波ジャックに反抗して、ヴィランズが騒いでるってよ。おい、てめえら、次の目的地は、ウエスタンランドだ」

「あー……ひとつひとつ、退治しに行くっきゃねえなー、こりゃ」

 呆れ返って溜息を吐くデイビス。アメリカ川の彼方、ビッグサンダー・マウンテンのメインビュートは、赤橙色の山を聳えさせている。すでにライトアップが始まって、なんとも寂しくも、偉大な景色だ。その山頂を見つめていると、そばにいるミッキーが、期待に溢れた眼で話しかけてきた。

「僕はまだまだ、君たちと冒険ができるんだよね?」

「ああ、もちろん、そんなの当たり前だろ? むしろ、これからが本番ってとこだろうな」

「うん——」

「ヴィランズからミニーを取り戻すまで、何があっても、俺たちは一緒だぜ!」

「うん! そうだね!」

 そう言って、ぎゅっ、と握られた手に、何か切実な力が込められているような気がした。ミッキーは嬉しそうに鼻を擦りつけてくると、拳を握り締めて、大きくそれを突きあげた。

「僕らで力を合わせて、ヴィランズをやっつけよう!」

「それじゃ、クリッターカントリーより、ミッキーたちの壮行を祈って。かんぱーい!」

 今しがた、放映された懐かしの番組にテンションMAX、酩酊も手伝って、大小、さまざまな動物の乾杯の手があがった。それを呑み干しながら、若干酔いに頬を染めたデイビスは、軽やかに笑う。

「はは、こんなにたくさんの奴らが応援してくれるなんて、ありがたいよな。なー、ミッキー……」

 と、隣を見て、その言葉が途中で尽きる。

(……寝てる)

 すやすやと、安らかな寝息。そうだ、そういえばミッキーは、まだ子どもだった……そろそろ夜が近くなり、冒険を終えて、ようやく、眠くなってきたのかもしれない。
 スコットはミッキーを抱きあげると、柔らかな草原の上に運んでやり、自分の上着をかけてやりながら、自らもそこに横たわった。

「そっとしておいてやるか。疲れたんだろう」

「まあ、そうだよな。徹夜明けで山登りして、スプラッシュ・マウンテンを冒険して、ファンタズミックをやって……今じゃ、夜通しでお祭り騒ぎだし」

「かく言う私も、もう眠くて仕方ないな。今夜は久しぶりに、いい夢が見られそうだ」

 滅多にないあくびをひとつ、ふわあ、と大きな伸びをしながらこぼすスコットを見て、でっけー黒豹みたいだなあ、とぼんやり考えていたデイビスは、そこではたと別のことを思いだし、勢いよく起きあがった。

「あーっ、そうだ。スコットに借りてたやつ、返すの忘れてた!」

「ん?」

「白雪姫の女王と対決する前に、あんたが渡してくれた、ブードゥー人形!
 いやあ、その……悪いな……随分と……傷ついちまったんだけど……」

 ボロッ、と糸のほつれた人形を懐から取り出して、気まずそうなデイビス。一瞬、あまりのボロさに絶句していたスコットだが、やがて苦笑して、そっと、その人形をデイビスの手の中に押し返した。

「やるよ。俺よりお前の方が、これから先、そいつを必要とするだろう」

「え? な、なんでだよ! 大事なものなんだろ?」

「大事っちゃ大事だがな。だからこそ、お前にやる」

「だから、なんでそんなの——」

「単純だよ。俺の怨念が籠もってる」

と言って、彼に背を向けるように寝返りを打つスコット。デイビスはしばらく人形に目を落としていたが、やがて、ふたたび口を開いた。

「なー、スコット?」

「どうした?」

「こいつさあ、あの呪術師の魔術にかかって、動きだしたんだよ。それで、俺を守ろうとして……ずっと一緒に、闘ってくれたんだ」

「ホーンテッドマンションらしい怪奇現象だ。悪いがまったく心当たりがないな、そんな摩訶不思議なことは」

 平然と言ってのけるスコットに、いよいよデイビスは呆れ返った。普段は強情だの、天邪鬼だのと俺に文句を言うくせに、本当に天邪鬼なのは、どっちなんだか。まあ、コンビを組んでいるだけあって、こういったところは、似たもの同士なのかもしれないな、と微笑が込みあげてくる。

「でもさ、もしこの人形に、怨念・・、ってやつが籠もってるんだとしたら。

 それがあんたの本心——ってことになるんだろ?」

「……さあて。どうだかね?」

「けっ、クール気取りやがって。まーったく、いつまで経っても素直じゃねえんだよなあ、俺の相棒さんはよー!」

 大した感情もなく呟くスコットの背中を、ばしーんと叩くデイビス。その手刀が良くないところに入ったらしく、ごふっ、と嫌な音を立てて、スコットは思いきり咳き込んだ。それを気にも留めず、デイビスは寝転んだまま足を組み直して、小さく鼻歌をうたう。そのハミングが、微かに、人々のざわめきや笑い声に紛れて掻き消えてしまいそうだった。

 スコットは何も言わなかった。ただ少しばかり、泣きたそうに顔を歪め、遠くの星を見つめていた。やがて、真っ暗な虚空に向かって、ぽつりと低い声が落ちる。

「デイビス。この騒動が終わって、ポート・ディスカバリーに帰れたら、その時は……」

「え?」

 彼が振り向く間もなく、その頬に、鮮やかな光が散った。ほとんど同時に、ばらばらと無数に弾ける音。そして、火薬の爆発を受けて、次の尺玉を撃ちあげる射出音が響き渡る。辺り一帯のスピーカーからは、今日一日を振り返るような音楽が響き渡り、パーク中を歩き回っていたゲストたちは足を止めて、遙か上空に繰り広げられる、その日最後の、光の藝術を仰ぎ見た。子どもは目を見開き、大人は童心に返る。このひととき、ディズニーランドを訪れている人々の心は、大空を通じてひとつになる。

「おおー、花火じゃん! ははっ、絶好の位置取りだなー! 見ろよ、スコット。ちょうど、俺たちの真上に打ちあがってるぜ!」

 デイビスは、クリッターカントリーの天頂に煌めく大輪の光彩に、夢中になって吸い寄せられた。その眩しい緑の瞳は、星々を凝ったかの如く、キラキラと輝いている。青臭い匂いのする草原に横たわったままのスコットは、遠いものを懐かしむかのように彼の横顔を見つめていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。大地を揺るがすように、上空を焼き焦がすかのように、花火を打ちあげる音は続いていた。

 滴り落ちる闇夜の火花は、赤に、青に、金色に、緑に瞬きながら、彼の夢の海に反射し、魔法の粉を振り撒いた。星雲のように煌めき、彗星のように駆けめぐり、流星雨のように降りそそぎ、そして、それを戴く彼方には、無数に敷き詰められた黄金色の街灯を超えて、シンデレラ城がある。デイビスも、スコットも、その白亜の石壁に光彩を反射させている、美しい王城へと目を向けた。そして、夢と魔法の王国に生きる誰もが、夜の闇に包まれたまま、この火花の饗宴に心を奪われるのだった。


 例え、笑いの国を見失う時があったとしても、俺たちの笑顔は、ここにある。
 涙でずぶ濡れになっても、きっとその果てには、鳥のさえずりが聞こえ、虹がかかる。そして俺たちはふたたび、一緒に腹を抱えて、大笑いする朝を迎えることができるんだ。

 だから今は、星に願いを。
 どんなに真っ暗な世界に見えても、頭上に広がる星々は、必ず、俺たちを見守ってくれている。それは俺たちの光だ。生きる希望だ。そして、その美しさが、明日へと繋がり、この闇の中に太陽を輝かせてくれるんだって、信じよう。


 その時。

 シンデレラ城の上に星が輝いたかと思うと、それはきらきらとした長い筋となって、城に魔法をかけながら、大きく弧を描く橋を渡していったような気がした。

 デイビスは瞬きをした。
 しかし夜空はどこまでも美しく、花火の音と光にまぎれ、その闇夜を、大輪の華で埋め尽くしてゆくのだった。





《第一部、完》






*1 『ロビン・フッドの愉快な冒険』ハワード・パイル、三辺律子、光文社、2019年

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