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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」4.常人は天才の発想を恐れ、無理解ゆえに拒絶するものだ

 さて——ここでいささか筆を割いて、キャプテン・デイビスとカメリア・ファルコが飛行している港町一帯の歴史をお伝えしよう。ポート・ディスカバリー、時空を超える未来のマリーナ。それは西部の開拓に心血を注いだ、たった一人の男の夢ワン・マンズ・ドリームに端緒を発している。ちなみに、この創生史はおよそページの1/5程度まで続く。お急ぎの方は、空白行の連続箇所まで文章を飛ばされたし。

 1848年、1月24日、西部開拓時代の冬。コロマのサッターズミルという片田舎で、ひちちかに流れるアメリカン川の底を浚っていたJ. マーシャルは、水車の下の石に埋もれて炯々と輝く、砂金の粒を発見した。噂はたちまちアメリカ大陸を巡り、歴史上類を見ない採掘者らの殺到、ゴールド・ラッシュを招く契機となる。俗に四九年組フォーティナイナーズと呼ばれる、世界の各地から渡ってきた開拓者たちである。農夫や商人、医者、詐欺師、挙げ句の果てには神父までもが熱狂し、一攫千金を夢見て一堂に西部へと集まった。この荒くれ者たちの移住により、単なる農業地に過ぎなかったカリフォルニアは、加速度的な発展を遂げることになる。

 キャンプが設営され、道路が均され、交通体系が敷かれ、蒸気船や鉄道網、それにプランテーションが現れた。人口は激増、学校や教会も建ち、カリフォルニアは州に格上げされ、一気に新興都市へとのしあがる。そして欲に目が眩んだ開拓者たちは、先住民たちを次々と虐殺し、ビッグサンダー・マウンテンと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの聖地にまで手をつけ始めた。

 肉切り包丁で切り落としたかのように険しい、鉛丹色の岩山。それが古くから先住民らの信仰を集めている、ビッグサンダー・マウンテンである。雨量は極端に少なく、乾き切った荒野のさなかに、僅かながらサボテンや罅割れた大木が生える。それでも、その入山の困難さゆえに荒らされた過去もなく、貴重な自然環境は保たれ、ベイスン・アンド・レンジ特有の植生のうちに、数々の見応えのある絶景を孕んでいた。
 苛酷とも思える岩肌は、赤土の中に何億年もの地層を封じ込めて、見事な鍾乳洞を内包し、時にはその奥底から古代生物の化石を露出させることもある。山の麓で見られる石灰棚は、釉薬を塗ったと見紛うほどに滑らかな純白さで照り、滾々と湧きあがる清冽なターコイズの間欠泉を湛えながら、その縁から夥しい数の氷柱石を引いている。岩肌には多くの野生動物が生を営み、堂々たる頭骨を日光に映えさせる大角羊ビッグホーン・シープや、黄褐色の軽快な体躯を持つコヨーテ、しばしば子を背負う姿を目撃できるオポッサム、危険なところではガラガラヘビなども棲息していた。とりわけ、コヨーテの遠吠えが響く中、人を寄せつけぬ荒々しさで聳えるメインビュートが、沈みゆく夕陽に赫灼と照らされる様は、筆舌に尽くし難い高潔さが漂っている。先住民たちが長きに渡って雷神や精霊の存在を信奉していたのも、当然といえよう。

 開拓者たちは、ネイティブ・アメリカンを追放し、このビッグサンダー・マウンテンに鉱山列車のレールを敷いた。さらにはB. T. ブリオンによって探鉱企業が設立され、ビッグサンダー・マウンテンの景色は一転、様変わりする憂き目に遭う。枕木のために多くの木が伐採され、選鉱のせいで水は汚れ、ダイナマイトは山を破壊し、そこいら中に破片が飛び散った。採掘場の周囲には酒場や賭博場、食事処が立ち並び、夜には鯨油で灯した無数の麦酒色のランプが笑い声に揺れ、従来の生物は姿を消した。そして落盤、落雷を含む超常的な事故の多発と、発掘による金の枯渇により、多数の開拓者らの痕跡を残しながら、廃坑に追いやられたのである。

 ゴールドラッシュが湧いた年代から、早数十年。秤やランプ、縄梯子、工具、ベルなどが散らばり、荒れ放題となったビッグサンダー・マイニング・カンパニーの跡地。熱狂の夢は遥か彼方に置き去りにされ、かつての面影を偲ばせるのみとなったその場所に、最後に残ったただ一人の住人、セドナ・サムは、人生の半分以上を共にしてきたパイプを噛み、彼の腰あたりまである大きな樽の上から、老いぼれて震える手で、煤けたランタンを取る。そして、その日は一匹も鯰の釣れなかった糸を巻き取り、溜め息をつくと、相棒である犬のディガーを連れて、夕方の散歩へと出発した。

 それは夢が巣立った後の、二度と過去に戻れはしない世界だった。掘り尽くされた坑道は、今はふたたび動物たちの所有地へと還り、茫々と広がる鍾乳洞は闇を吸い取り、蝙蝠が彼らだけに通じる音波で密やかに鳴き交わしている。レールの上を歩き、虚ろな靴音の反響が広がる洞窟で、何気なくサムは、角灯を上に向けた。もうすぐ、出口に差し掛かる——その視線の端に、何かがランプに煌めくのを見出したように思ったのだ。

 現場監督としてその山にダイナマイトを仕掛け、廃坑となった後も何年も歩いてきた散歩道ではあったが、天井の死角となっているそれに気づいたのは、その時が初めてだった。そして、この僅かな首だけの振り返りが、今後の歴史を決定的に分岐させたのだ。彼は一夜にして、この世で最も幸運な巡り合わせを持つ、大富豪の老人へとのし上がってしまったのだから。

 ゴールドラッシュが去り、金の価値が安定してきた八十年代。かくしてビッグサンダー・マウンテンは、歴史の表舞台にふたたび舞い戻ってくる。枯渇したと思われていた黄金。まさか、新たな金脈が見つかるとは、誰が想像するだろうか。なにせ、それが発見されたのは、多くの人間が浮かれ騒ぎ、朝から晩までひっきりなしに走らせていた、あの鉱山列車の稼働音とは真逆に位置する静けさ。ディガーの爪が微かにレールに当たる音と、ランプの芯の焦げる響き以外は、荒れ果てた山の物音のすべてを自然音が占める、そんな静寂の極北においてだったのだ。
 
 しかし、その復活した黄金郷は、一度目の狂乱的な歓声とは違った角度で受け入れられた。セドナ・サムは、早々にニューヨークの大企業と契約を締結してしまったのだ。一般人が入る余地もないほど迅速にその決定は下され、以前は開拓先として熱い眼差しを集めていたその山は、今度は投資先として、実業家たちの舌鋒を競わせる商品となる。文字通り、それは金の卵であった——遠い将来、暗黒の木曜によって株価の大暴落を経験することになる、その日まで。

 なぜ、セドナ・サムは自らの身を寄せていた山を売り払ったのか? たしかに法外な額を手にしたにせよ、自らが会社を立ち上げ、その山を管理する権利を持ち続ければ、少なくともその十倍以上の利益を獲得したはずだ。長年の山に棲み続けていたこの男は、なぜ、その千載一遇のチャンスを手放したのだろう?

 答えは至極簡単だ。セドナ・サムは老人だった。もはや金に踊らされるつもりはなかった。若い頃に熱中した夢が破れ、孤独に瞑想していた彼は、拝金主義から手を引き、過去にのみ思いを馳せるようになっていたのだった。失われた三十年の歴史。例え、残りの生涯が黄金で埋め尽くされたとして、果たして、彼の過ぎ去った青春は取り戻せるのだろうか? 彼はひとつの街が発展し、絶頂に達して、そして衰亡するまでを見た。彼の脳裏を占めるのは、ロマンが溢れていたあの時代、誰もが自分にはチャンスがあると主張し、身分も出自も関係なく頬を火照らせ、運命の平等さを信じていた、あの思い出の日々だった。木の匂い。埃の匂い。赤土の匂い。暑く、乾いた砂漠地帯の空気の中で、川辺の水で顔を洗い、朝日を頼りに川底から砂金を探す。出社して、遠慮のないベルを鳴り響かせ、山中にその騒音を反響させた。快活に働いていたアメリカの労働者たちの汗水は、真っ直ぐに未来への夢を確約し、毎日が賑わいに満ちていた。チキン・ナゲットを金塊ナゲットに見立て、ピストルを投げ置き、カードゲームで大笑いしていた日々。夜は酒場で管を巻き、日焼けを自慢したり、ウェイトレスの手を掴んで下手なダンスを踊った。俺は大金持ちになる男だ、と叫びながら。

 生きていた人々は、一人残らず未来を信じ、滔々と尽きぬ夢を語っていた。街は活気に溢れ、その人間たちを後押しした。笑いも、怒りも、涙も、別れも、すべてが未来に繋がっていたのだ。明日は必ず、金脈を見つけてやる。そうしたら、今までの労苦を超えて有り余る金貨が降ってくるのだと。そしてその青春の輝きは、あの懐かしい開拓者たちが去った今、二度と元に戻りはしないのだ。

 ————ならば自分がふたたび、あの活気に満ちた街を作ればよいのではないか?

 セドナ・サムの頭に、天啓のような思いつきが降ってきたのは、この瞬間だ。そして、それまでただ過去に籍を置き、死を待つのみであった老人は、未来を渇望し、運命を切り開いてゆく創造者として生まれ変わってゆく。元手は今、彼の両手にある。これを金庫に仕舞い込むか? それともすべてを投げ打って、人生最後の賭けに出るか? セドナ・サムは後者を選択した。そして、彼のうちに眠っていたすべての想像力がスパークし、一気に動き出したのだった——まるで彼自身がダイナマイトであるかのように。

 ビッグサンダーの街を再生させる? まさか。あそこはすでにゴーストタウンと化している。打ち捨てられた街を歩き回り、過去の幻影を想起する儀式だけが、最後の餞に相応しいだろう。それに古いものを甦らせるのは、新しいものを作るよりも至難の業だ。契約の談判をするためにニューヨークを訪れた時、知らぬ間に世界は猛スピードで進んでいたのだと悟った。ビルが立ち並び、新聞が投げ捨てられ、株の取引場では、正体は知れなかったが、何度となく同じ会社名を耳にした。リーマン、ゴールドマン・サックス、JPモルガン。移り変わる。時代は進んでゆく。そう、思い知るしかなかった。しかし彼は同時に、普遍的なものを乞うようになったのだ。二度と見捨てられることなく、邁進し、敬服し続けるもの——未来永劫に渡って通用するものを。

 それは、命の灯火が消えかかった老人による、最後に点じられた炎だった。死の闇に凍えながら、微かな吐息に揺らめきながら、彼は念入りに案を凝らし続ける。ここをしくじれば、すべては水の泡と掻き消えることを深く懸念して。
 人を参集するには、それに値するものを掲げなくてはならない。土地や資源では駄目だ。争奪戦はいずれ、何者かの勝利に終わり、そして勝利は決着を生み、勝負師は揃って街を去る。奪い合いが生じるものは、いつか終わるのだ。つまり、その街の根幹を支える主題は、有形ではなく、無形でなくてはならない。何よりもそれは、断じて金銭であってはならない。資本主義の渦に巻き込まれるようなものであってはならない。競争は簒奪を生み、いずれ底を尽き、栄光を糧に育ってきた街を、亡霊へと変貌させる。老人の望むものは、そのような種ではなかった。一時的な熱狂でなく、未来永劫に渡る熱狂を残さなくてはならない。それは彼の生命の記念碑だった。この街の理念のひとつひとつに、最後の魂を刻まねばなるまい。

 セドナ・サムは、自らの色褪せた思い出を手繰り寄せた。あれほどに懐かしく、人々が夢を見られたのはなぜなのか。果たして何が、最も正当に、人間の心を惹きつけるのか——と。

 アメリカに降り立った者たちの目の輝き。自由の国への到着に打ち震え、人種のサラダボウルの如くごった返した港から、始まりの潮風を感じ、長い旅路を経てその光景にありつき、ようやく辺りを見回した移民たち。金属音が荷物のように飛び交う港町で、新天地はすべてを変えた。イギリス人、イタリア人、ユダヤ人、ドイツ人、フランス人、ハンガリー人、オランダ人、アイルランド人、ギリシャ人、スコットランド人。その大半は貧しかったが、人々は時代を走り抜けた。がむしゃらに労働し、めちゃくちゃな英語で怒鳴り、成功者は大金を掴み、腹を抱えて笑った。蒸気船や鉄道ができた時は、ワクワクした。それは彼らの夢を掻き立てた。次世代の波がきている。そして自分はまさに今、その第一線に立っているのだ——と。現在のセドナ・サムのように、時代に取り残された世捨て人ではなく、世界は、歴史は、自分たちと一体となって進んでいるのだという、その全証明。人類の最前線とは、まさに自分たちなのだ、このままどこまでも挑戦し続けることが可能なのだ、というフロンティア・スピリットを糧に、人々は駆けた。それはまさに、夢の時代だった。

 ああ、時代の先頭に立つ街こそが、住民たちをまばゆくさせるのだ——セドナ・サムはそう考えた。だから人々は、あんなにも自信たっぷりに、誇り高く、昂然として輝いていたのだ。そして未来永劫、時代を切り開き続けるには、ひとつの産業を主軸にするだけではとても足りない。鉄道産業はいつか滅ぶ。プランテーションも、南北戦争で虫の息だ。産業は次から次へ、昨日から今日へ、今日から明日へと取って代わられる。それならば、産業のすべてを束ねる、その王者にこそ重きを置く必要がある。王とは何か? 技術の革新だ。すなわち、科学の発展こそが、すべての産業を主導しているのだ。セドナ・サムは立ちあがり、急いで自身の展望をノートに書きつけた。彼のペンの立てる音は、一晩中鳴り止むことがなかった。

 まだ日の目を見ぬ未来都市の主題は、図らずも、その後の新世紀を象徴するものとなった。「発掘」から「発見」へ。そしてその対象は、資源や土地という有形から、叡智、科学技術という無形へ転換する。金銭の強奪ではなく、互いに刺激を共有し合い、議論を経て、成果を発展させること。自分たちの成功が、そのまま即時、人類の功績へと繋がること。これは、果てることもなく、食い潰すこともなく、人々を永遠に未来へと駆り立てる動力となりうるのではないか?

 セドナ・サムの青写真は、みるみる速度を増して膨らんでいった。彼の故国はアメリカだったが、知らない国の話を聞くのが楽しかった。新しい街では、平等の精神を継承しよう。ここは自由の国、アメリカだ。その最も高邁な思想を、何よりも体現しなくてはならない。その一方で、先住民の扱いも、酷く胸に迫る思い出に変わっていた。元々、あそこはネイティブ・アメリカンの土地だった。たくさんの人間が血を流し、土地を追われた。二度と同じ轍は踏むまい。動物が追われた。水が汚れた。新しい街では、自然と調和せねばならない。すべての善良なるものを取り返し、深い悔悟を反省へと展開させる。そして彼は、若き日より抱いていた自分自身の夢に、ようやくけりをつけられるだろう。

 それはひとつの神話だった。人々が共感し、熱狂し、真にそれに向かって自己の能力を奉仕させることが可能な未来都市。この都市モデルには、古き良きアメリカン・ドリームと、西部開拓時代の血塗られた歴史を、再度浄化した上で繰り返そうという、人間の——否、人類の信念が込められている。従って、このマリーナの根底には、アメリカという国の高邁な理想と、残虐な歴史とが混在し、それら双方は街の方向性を表す次の言葉でもって、一挙に贖われるのだ。

 科学こそが、未来を切り開く。
 今度こそ、人類は過ちを犯したりはしない。
 二十世紀、人間は真に素晴らしい生活をものにするだろう。

 それは、ある意味では懐古だったのかもしれない。エデンへの回帰。自分たちが破壊した、誰しもの空想のうちに眠るユートピア。そしてまた、セドナ・サムの人生から失われたもののすべて。人を惹きつけるに足るシンボルと計画、それに輸送経路があれば、必ず街は発展する。その信念を片手に、セドナ・サムは自身の夢に向けて、次のステップ、すなわち人集めに奔走することになる。

 1889年、エッフェル塔の完成。パリに渡ったセドナ・サムは、その際の技術者たちや、万国博覧会の機械館を訪れていた科学者らを掻き集め、必死に口説いた。彼の脳内で温め続けてきた、未来都市の構想を。そこにおいては、技術と芸術が一致し、人々は永遠に未来を追い求め、自然との調和を理想とし、壮大な理想郷を体現するのだ。博覧会のテーマにも通じるその言葉は、時に笑われ、時に人の心を惹きつけた。彼の熱意に共鳴した者たちは、次々と船に飛び乗り、自由の国へと渡航した。

 機械的文明を象徴するアール・デコ様式、鉄骨やガラス張りが特徴のヴィクトリア様式、そして自然生物——とりわけ海洋生物の模倣を取り入れたマリーナの近未来的なデザインは、こうして多種多様な移民の手により出来上がった。哀しいかな、ポート・ディスカバリー建設の父、セドナ・サムの生涯は、志半ばにしてここで尽きる。理想の街を見果てぬままに倒れた老人は、ディガーの黒々と濡れた目に見守られたまま、自己の夢を後世に託し、息を引き取った。この夜、老人の相棒が響かせた遠吠えは、ビッグサンダーに生きるコヨーテを彷彿とさせるほど悲痛なものだったと語られる。彼の莫大な遺産は、ほとんど手をつけられぬまま、鉄道の建設に充てられた。この時利用された蒸気機関車は、やがて電気機関車エレクトリック・レールウェイに取って代わられる。このマリーナでの電気生活は、まさしく電流のように新世紀の街に駆け巡ることになる。

 偉大なる創世の父が消えても、未来都市の構想は終わらなかった。寧ろそれは多数の人間の手により、独自の進化と拡大を経て、さらなるインスピレーションを吹き込まれていった。勇壮な人間の大志、自然との調和、科学の平和利用。この三点が、街の基本テーマに取り入れられ、さらに以下の四つの基本理念が住民たちの行動原理として策定される。

 一、敬虔であり、かつ自ら驚嘆すること。
 二、公平であり、かつ自ら透徹していること。
 三、聡明であり、かつ自ら体験すること。
 四、刺激的であり、かつ自ら愛すること。

 この港町ポートを潜り抜けて、我々は次世代に入る。我々科学者と藝術家は、結託して永久に未来に貢献し、そして人類は更なる飛躍の原動力を得るだろう。ポート・ディスカバリー、時空を超えた未来のマリーナとは、すなわち、永久に「未来」を目指し続けるユートピアのことだ。過去との対話と、未来への邁進。これこそが、このポートに類稀な太陽の明るさを射し込んでいる。ヴィクトリア様式のガラス張りドームは、ここにおいて、住民たちに思いもよらぬ貢献を働くことになる。日光を取り入れるその開放的な造りは、より一層のこと、自然の驚異を目の当たりにさせ、彼らの研究意欲を育んだのだ。海への敬意。山への敬意。天上への敬意。これらの感情は、ガラスを通して常に住民たちを啓蒙し、階段や、パラソルや、テーブルの上など、街のそこかしこに浅瀬のような反射光をたゆたわせ、自然の讃歌で満たし、人々の敬愛を駆り立てた。

 ポート・ディスカバリーは、希少種の植物や、海洋生物の保護にも積極的だった。世界最古の種子植物であるウォレマイ・パイン(別名、ジュラシック・ツリー)、メコノプシス(別名、ヒマラヤの青いケシ)の栽培は有名であるほか、絶滅が危惧される魚やイルカについて、先駆けて保護に乗り出したのも、ポート・ディスカバリーである。そして自然研究の果て、科学者たちの未だ尽きない挑戦の先にあるのは、自然との闘争問題の最終的な解決。すなわち、自然災害による被害防止こそが、最重要課題として取り上げられた。当然ながら、一筋縄ではいかない課題ではある。自然とは世界そのものであり、自然の掌握とは、すなわち世界そのものの制御とも考えられる。換言すれば、だからこそポート・ディスカバリーの人間たちは、壮大な夢を見たのだと言えよう。

 有史以前より、人類は自然の手によって様々な悲劇に見舞われた。ヴェスビオ火山の火砕流、アンティオキアを揺るがした大地震、ヴェネチアにおける高潮の浸水、大浪によるガルガンチュア号の転覆、北大西洋に頻発するハリケーン、ケープコッドを襲う嵐、コリンガを壊滅させたサイクロンなどなど、枚挙に暇がない。噴火、高潮、洪水、嵐、地震——空から、海から、大地から。古来自然はありとあらゆる形で、人間の命を脅かしてきた。ひとたび自然がその凶暴な手を振るえば、いとも呆気なく、桁違いの数の生命が刈り取られてきたのである。S.E.A. は、それら自然科学の研究をいち早く推進していた科学機関である。特にポンペイに関する様々な記録を元に、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとしたプロメテウス火山の噴火制御には、数百年に渡る実績がある。しかし本拠地はヨーロッパのメディテレーニアン・ハーバーに構えられており、アメリカにおけるストーム被害の研究は、遅々として進まなかった。その役目をポート・ディスカバリーが引き継ぎ、ストームを含むあらゆる気象研究が、歴史上、類を見ない規模で開始されたのだった。

 気象研究任務を一心に受けた施設は、こうして誕生した。気象コントロールセンター、通称CWCは、今やポート・ディスカバリーのシンボルである。そして研究の最大の結実として、ストームライダーが完成し、街がフェスティバルに沸いているのは、皆さんご存知の通り。そう、ストームライダーとは、十九世紀末に芽吹いた未来都市の夢の、最後のパズルピースなのである。

 ポート・ディスカバリーに生きる人間は、明日は今日よりも美しいということを、微塵も疑っていなかった。なぜなら実際に、彼らの人生は、一日ごとにめくるめく行進を携えていたのだから。その快活な明るさに全身で浴しながら、彼らは着実に前へと開拓していた。明日はまた、新しいことが完成し、新しいことが成功し、そしてまた新しいことが発見されるのだと。未知への好奇心、未知への渇望は、彼らの士気を高め、団結させ、競い合わせ、激しい崇拝の上に明日への勇気を張り巡らせた。そしてストームライダーは、嵐に立ち向かう恐れ知らずの軌道によって、彼ら科学者たちの情熱を牽引する。未来への方角へと。

 果たして、高邁な夢を育むポート・ディスカバリーの理想と現実が、この先どのような道を辿るのか——それはこの物語を通じて、次第に明らかとなるだろう。
 長くなったが——ここからが本編である。
 夕刻前、ポート・ディスカバリーのガラス張りのドームも、建築物を支える鉄骨も、柔らかな春の陽射しを浴びて燦然と輝く。それは恐らく、セドナ・サムが死ぬ前に一目見たかった景色であるに違いない。






 そして——フェスティバルの只中にこの日初めて降り立つ、十九世紀の人間、カメリアはといえば。

「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 絶好調、だった。なにしろ彼女の目の前には、元の時代では見たことも聞いたこともない商品がずらり。そして彼女の肩には、ようやく機嫌を直したらしいアレッタが、止まり木代わりに羽を休めていた。どれほどカメリアが狂喜したことか——とはいえ、側にいるデイビスには、未だに奇声を立てて威嚇するのだが。

「うーん。隼は頭がいいから、自分への仕打ちをしっかり覚えているのね」

「執念深いと言ったらどうだ?」

「何でもいいのよ。だって、戻ってきてくれたんですもの。私のアレッタが!」

 柔らかにぬかるんだ夕空の下で、濃い太陽の明かりを浴び、カレットの粒を煌めかせる海上遊歩道。その上を、カメリアはくるくると踊った。広がるドレスに、花の匂いが掻き回され、「宝石の塔」とも称されるエキウムの芳香は、陽の光よりも豊かな生暖かさを振り乱した。唐突なカメリアの動きにも慣れているのか、アレッタはその場で軽く飛翔し、彼女の動きが収まるのを待つ。なるほど、確かにコンビネーションは良いのかもしれない。カメリアのそばをつかず離れようとしない隼の態度は、生物の種を超えた友人なのだと納得させるに充分だった。

「やあシニョリータ、良い服を着ているね。前世期の年代物かい」

 スナックワゴンでチュロスを販売していた男が、小躍りしているカメリアに声をかける。青い艶の光る禿頭で、林檎色の唇が妙に美しい男だった。

「このドレス? 素敵でしょう。動きやすくて、お気に入りなの」

「そいつはいいね。上等な仕立てだ」

 男は電子煙草をくわえてワゴンの上に身を乗り出し、挨拶代わりの会話を交わした。どうだい、ポート・ディスカバリーのご感想は?

「夢のような街よ。ここではみんな自由で、生き生きとして、未来に向かって励んでいるのね。この街ごと、ポケットに入れて持って帰りたいくらいだわ」

 カメリアは素直に敬服し、深く安らいだ顔を見せた。自らの街に絶大な自尊心を抱いている男は、それを耳にして幸せそうに語る。

「そうだろう? 俺たちは、一度も肌の色で揉めたことがないんだ。みんな平等に機会が与えられ、科学の発展を信じているから、喧嘩する必要なんかないんだよ。ご覧、だから誰も彼もが目がきらきらとさせて、フレンドリーだろう?」

 確かにポート・ディスカバリーの人間はお喋り好きで、誰彼構わずよく話しかける。とりわけカメリアは、出で立ちがどうも人目を惹くのと、その親しみやすい笑顔のせいか、挨拶を投げかけられる回数が抜きん出て多く、後ろから見ていて面白いほどである。ハーイ、どこに行くの? 可愛い隼を連れているね。そのドレス、最高のファッション・センスだわ。ポップコーン、ちょっと食べていかない? この店の商品が、一番安いんだよ。カメリアは、矯めつ眇めつ、店に出入りし、説明を聞いたり、試食を楽しんだりした。

 一方で、デイビスの方は、カメリアをさらに超える周視にさらされていた。マリーナに住む誰もが、この男こそが、先日のストームから街を救ってくれた英雄だと知っている。それにあの日、ゲストとして同乗していた住民による噂話にあっという間に尾鰭がついて、彼の評判は鰻登りだったのだ。サインをねだられたり、写真を乞われたり、割引するからぜひ寄って行ってくれ、と誘われたり、とにかく人がごった返して歩きにくい。スーツケースをロッカーに預けてきてよかった、と思う。子どもたちはデイビスの後をついて回り、ジャンプしながら彼のパイロット・スーツに指紋をつけようとしていた。明日、学校で自慢するつもりなのだろう。人々との話に夢中になっているカメリアは、どんどんと声をかけられる方向に進んでは、混雑で行き先を阻まれているデイビスに気づき、慌てて戻ってくる、ということを繰り返した。

「凄い活気ね!」

「今日はとりわけ、人が多いな。いったん別行動にして、後から合流するか?」

「あら、せっかくだもの。一緒に行きましょうよ」

「俺も案内してやりたいのは山々なんだが、この人混みじゃ、ろくに身動きも取れないだろ」

「デイビス。…………………あなた、まさか」

 カメリアは、隠されていた事実に気づいてしまったかのようにハッと両手で口を覆い、小刻みに震え出した。

「私と一緒に行くのが、恥ずかしいのね。みんなにからかわれ、肘で突つかれ。あらぬ関係を疑われて」

「違うっ!」

「いやん、照れてしまうわ。それならそうと、早く言ってくれればいいのに」

 頬に手をあてがって赤面し、大きく宙にはぁとを描くカメリア。ピンク色に輝く粒子の線が、キラキラと目に見えるようだった。

「こんなこともあろうかと、口紅を持ってきたの。ベッラ・ミンニ・コレクションで買った限定品よ。これでいつ、街の英雄とスクープになっても、完璧だわ」

「カメリア。このボケは、一体いつまで延々と続けるつもりなんだ?」

「だってあなたが、『かー、これだから時代遅れの女は、最新の俺とは足並みが揃わねえぜ、ペッペッ。人混みにまいて、消えちまうか。どうせ翌朝には、怪しいマッサージ屋にドナドナされているか、湾の海底から簀巻きで見つかるかのどっちかだろうぜ、ワハハハハ』なんて言うから」

「ンなこと言ってねえよッ!!」

 閑話休題。
 野次馬に揉まれてすでに皺くちゃの格好になっていたデイビスは、荒れた髪の毛を手櫛で整えながら言った。

「分かったよ、一緒に行こう。ただこの人混みではぐれやすいからな、絶対にフラフラ離れるんじゃないぞ。——って」

「デイビス。どこー?」

 何をどう瞬間移動したのやら、先ほどまで隣にいたはずの彼女が、今は蟻ほどに小さく、雑踏の中でキョロキョロと辺りを見回していた。ああ、そういう奴だったよな、あんたって——と涙目になりながら、デイビスは彼女の確保に向かう。

「駄目じゃないの、デイビス。言ったそばから迷子になっちゃ」

「もはや、何も語るまい——」

「あ、そうだわ。忘れないうちに」

 カメリアは自分のポケットをごそごそと漁った。

「はい。フライトの約束の、お駄賃よ。欲しいものを見かけたら、これで何でも買ってね」

 彼女のしなやかな手によって、彼の掌の上に乗せられた紙幣は、磯の匂いを含んだ風を浴びて、呑気にぱたぱたとはためいていた。
 祭りの小遣いをたかる。いよいよ名実ともにヒモである。というか、親からお小遣いを貰うガキなのかよ、俺は。——デイビスは、周囲から持て囃される現状とは正反対の財布事情に、我が身のことながら情けなくなった。

「ほら、日が暮れてしまうわ。早く行きましょう」

 デイビスの腕を掴んで、くいくいと引っ張ってゆくカメリア。子どもが未知の世界を冒険するような感覚なのだろう。その流れで、いつのまにか手を繋いだりもしてしまっているわけだが、それがあまりに恥じらいも躊躇いもゼロで、自然と掌に馴染むのに驚いた。今日が初対面とはいえ、手を繋ぐのは二度目だからか、それとも彼女が単にそちらの方面に興味がないからか。まあ、変に意識されるよりはいいかと、デイビスはすり抜けてしまいそうな手に力を込める。

 ここ、HYDRA-7、通称フローティングシティは、街全体が海の上にある、ポート・ディスカバリーの中でも最も新しく建造されたエリアである。深海探査や海底レースを目的とした潜水艇発着場ベイ・エリア等の埠頭も含め、浅瀬の海底に柱を設置し、その上に建設された人工島となっている。さらに街の一部は浮島構造をとっていて、常に海上に浮遊させることによって、風力発電に最適な位置を確保することができるのだ。これが、このエリア一帯が浮遊都市フローティングシティと呼ばれる所以である。現在はストームライダーの完成により、嵐を懸念する必要もなくなったため、大気中の都市建設も計画されている。宇宙船地球号スペースシップ・アースの概念を提唱したバックミンスター・フラーにより、初めて地上に齎された「浮遊都市」の発想。それは数々の研究者たちの功績によって、今、ようやく真に実現しようとしている。

 シティの雰囲気は、雄壮にして革新的である。機運に満ち、奇抜で、大胆で、未来志向のさなかにも深い芸術への教養や憧れが見受けられる。街の下には海水が潜っているため、少しでも風が吹くと、心の躍るような匂いが立ち込めてゆく。港湾付近は、急激に迫り上がって磯となっている地形を大いに利用し、磯を埋め立ててしまうのではなく、あえて建造物を海上から浮かせたピロティ式構造を多く採用することで、一階部分を水場として開放し、海洋生物の保護や自然との共生に役立てていた。そのため、科学都市ならではの最新の研究施設が栄光を輝かせている一方で、それら建造物を支えている鼈甲色の支柱を海水が洗い、柱の根本の潮溜まりタイドプールには、イソギンチャクやヤドカリ、蟹、ヒトデ、微生物、波に揺れ動く海藻などの別の生態系が観察できる、というのは、フローティングシティならではの光景と言えよう。海という隣り合う別世界への入り口とも称されるこの潮溜まりは、シティに満遍なく張り巡らされた海上遊歩道からだけでなく、陽光がよく入るガラス張りの屋内からであっても、存分に眺めることが可能である。これが自ずと海への関心と驚嘆を駆り立てるのか、科学者の中でも海洋研究者たちの割合は抜きん出て高く、日夜、海流や水質、生物等の盛んな調査が進められていた。これらのデータは、海と決定的な因果関係にある気象研究にも応用され、CWCがその中枢を担っている。

 無論、海は研究対象だけではなく、経済活動を支える豊富な資源としても重要である。ロブスターや牡蠣、キングクラブ、ムール貝、帆立、タラ、フジツボなどは、このフローティングシティには欠かせない名産品である。これらは、埠頭のそばの市場で氷の上に冷やされているのを買い求め、活きの良いうちに口へ放り込み、フレッシュな白ワインとともに食するのが最高の楽しみ方であるとされる。変わり種を求めるなら、ディスカバリー・ギフト付近のワゴンの方がより興味深く覗けるかもしれない。ストロベリー・ポップコーン。目にも鮮やかで、一帯に強烈な匂いが漂う。冷凍マンゴー。夏場は唇に貼りつきやすいので注意。うきわマン。潜水艇で獲ってきたエビ入り。寿司ロール……これは二人とも、どんな食べ物なのか、よく分からなかったが……そして、結露がつくほど冷やされたジンジャー・エール(これがポート・ディスカバリーの最も国民的な飲み物だ)。市場から少し離れた海上遊歩道では、これらの軽食は基本的にワゴンで販売されているため、寛ぎたい時にはそばのベンチやテラステーブルについて、海を眺めながら齧ることができる。他にも、潮風に吹かれて空想科学小説を読んでいる者もいれば、オカリナの練習をしたり、新しい建築デザインのスケッチをしている者もいる。何をしようが、自由なのだ。露店ではめいめいが好き勝手に音楽をかけている。何かあるたびに色とりどりの紙吹雪が宙を舞うので、アレッタが時折り、ちいさなくしゃみをこぼした。

 アイディアを尊ぶ街であるだけに、元々食品は一風変わったものが多いのだが、それが駄菓子ともなると、いよいよ奇想天外なものが揃っていた。デイビスによれば、無闇に目新しさを追いかけるせいで、味は二の次であるため、よくよく注意して買った方が良いとのこと。菓子だけを集めたショップのガラスケースに並んでいるそれを、二人が順に覗き込んでみると——

 食べられる試験管(おすすめはニンニク味)。
 火花を撒き散らすポップキャンディ(舐めると危険)。
 歌うファッジ(噛むと悲鳴を上げる)。
 空飛ぶレモンパイ(宇宙まで飛んでゆくそうだ)。
 鼻に塗っても味が分かるクリームソーダ(ぱちぱちいう感触まで伝わってくる)。
 甘いものがしょっぱく、しょっぱいものが甘くなるヌガー(つまみ食いを懲らしめるため)。
 一時的にジャンプ力が上がるリコリス(体育の授業にうってつけ)。
 噛んでも噛んでもジュースが湧き出るチューイング・ガム(味は食べてのお楽しみ)。

 などなど——

 試食しながら、二人は眉間に皺を寄せた。どうにもじっとしていられない、ポップで奇妙な感覚——まさに新体験と言ったところか。迷った末に、カメリアはリコリスだけを買うことにした(ちなみにデイビスが食べたところ、吹き抜けの天井にまで手が届いた)。

 その後は、科学の実験器具を取り揃えたショップに移動する。あくまで民間人をターゲットとしているため、ピンからキリまで、ガラクタがしこたま置いてある。科学者であり、かつ発明家でもあるカメリアにとっては、最高に心が躍る内容だ。ざっと羅列してみるだけでも、以下のような品揃え——

 錬金術フルセット、ライティングペンダント、科学大辞典(カメリアが最も欲しがっていたが、重すぎたので諦めた)、潜水艇の模型、ストームライダーのミニチュア入りストームグラス、小型プラネタリウム、古生代生物の飼育器、炎色反応の実験器具、ネオンドーム、鉱物石鹸、銀河帯の地図、海底のジオラマ、ミラーボールライト、プロメテウス火山の噴火史の模型、伝統的な天球儀、水質検査薬、琥珀のコレクション、幻灯機、海底レースのモノクロフィルム、偉大な科学者たちのポートレート。

 特に彼女が夢中になったのは、気象観測用の、簡易な望遠鏡や無線機である。教育向けなので、本格的なそれよりも性能は落ちるとは言え、その造りに妥協はなく、金属色に照り輝く美しいパーツを寄せ集めて細工されていた。カメリアは天にも届くほど喜んで、無線機を耳に当て、いつまでも興味深そうに耳を傾けていた。

「大声を上げなくても、お話ができるの? これを持っているだけでいいのね?」

 カメリアは興奮した声で、無線機のマイクに向かって話しかけた。

「聞こえる? デイビス」

「ああ。聞こえるさ、カメリア」

 子どもを連れた保護者のように、カメリアに付き合ってやるデイビス。彼女は無線機を抱きしめ、大切そうに微笑んだ。

「凄いわ。いずれは手紙に代わって、これが台頭してゆくことになるのね。人間の発明力は、本当に素晴らしいわ。どうしたらこんなことが思いつくというの」

 デイビスは、自らの生まれ育った土地を褒められ、まんざらでもない様子だった。そこで、珍しくしかじかと世話を焼き、あの紫色のは風力発電のコイルだとか、こっちでは人を襲わないサメが寄ってくるとか、随所に見受けられる港町の特色を、余すことなく案内しようとした。一見すると軽薄にも見られがちな容姿だが、その顔を喜び勇んだ色に塗り潰し、科学のおかげでこんなことも可能になったのだと、誇らしげに話に熱中しているのは、どこか心温まる姿である。こんな顔もするのね、とカメリアは意外に思った。ある時は、彼女よりも年上らしく。ある時は、活発な少年のように。そしてまたある時は、困難を弾き飛ばす英雄の如く、くるくるとその印象を変えている。出会ってまだ間もないはずだが、これほど多くの宝を胸に秘めている人物だとは思いもしなかった。

 カメリアはとにかく、目に入るもののすべてが驚異と感嘆に満ち、力強く昂揚に導くように思われた。彼女は、自分の故郷についてもまた、深く愛をそそいでいたのだが、そこは歴史を重んじ、長い伝統を慈しみ続けてきた土地だった。人々は家族の絆こそを至宝と捉え、日に灼けた手で葡萄を摘み、海辺に魚を干したり、花に満ちた階段を登ったりした。しかしここを歩いていると、彼女の今まで過ごしてきた世界は、杏色の過去の中に断片を煌めかせ、ささやかな小石となってしまう。ここはまったく違う。同じ海沿いとはいえ、こうまで志すものが異なるとは思ってもいなかった。祝祭の華やかな活気に包まれて、どんな想いも、どんな故郷愛も、ぬかるみ始めた海風のうちにさらけだされてしまい、そしてすべての物事が遙か遠くから見つめられる今、それらは永遠の相対性のさなかに結晶して、住んでいる街も、見たこともない街も、それがどんな街であれ、とめどもなく愛おしく感じられるのだった。柔らかに揺籃を繰り返す汐のさざめきは、ぺちゃくちゃと交わされるお喋りと綯い交ぜになり、陽射しが揺れ動く時には、それでもまだ、今が午後も半ばであったことを思い出したかのように、ふと科学者たちの眼鏡が優しく煌めいて映える。そして街の往来に立つ者は、いまだ見えぬものに頬を撫でられ、満遍の黄昏に包まれたように暖かいのである。

「カメリア! こっちからだと、浮島に昼寝しているアシカが見えるんだ」

「デイビス、待って。あそこのお店も見たいわ」

 二人は光と翳をくぐり抜けながら、吹けば飛ぶように稀薄なシルエットを、通り過ぎる人々の靴に踏ませた。景色は何度でもその本質を入れ替えて、彼らに人生の展望を提示し続けるかのようだった。デイビスと連れ立ちながらも、カメリアは過ぎてゆくそれらに目を留めた。清潔で機能的な、明るい印象を与える住民たちの服——今はマリンブルーの色合いが流行のようだ——オープン・キッチンから流れてくる沸騰するように暖かい石鹸の匂い——恐らくヨットクラブのダイニングに据えられた発明装置が、シャボンで食器を洗浄しているのだろう——その隣では、車椅子に乗った老婆が、夫とともにエレベーターに乗り込む——次はどこへ行こうかと、ガイドブックを見つめながら——何より、開けた水平線の彼方まで遠大な大海原を、麦粒のように小さな船舶が横切ってゆく様は、カメリアの好奇心を熱く駆り立てた。街ひとつ変わるだけで、これほどまでに世界が様変わりするというのなら。海の向こうは、一体どれほど広いのだろう? いつか、フライヤーを完成させ、その先へどこまでも飛んでゆくことはできるのだろうか? デイビスに手を引かれながら、カメリアは魂を奪われたような顔で世界を見ていた。鴎の声を浴びて、静かに軋んでいる跳ね橋は、彼らの靴底を軽やかな響きで支え、ホライズン湾の上を渡って、より遠くへと導いた。桟橋の下に見えるエメラルドグリーンの浅瀬や、孤独な陽溜まりに置かれたままのガラステーブル、湯気を立てて運ばれてゆく深海魚の肝臓の煮込み、パラソルの裏に乱反射して揺れ惑う波紋。これらの時代における痕跡が、息せききって攪拌され、やがて何もかも見えなくなってしまうほどに、彼らは無我夢中で互いを追いかけ、一歩、また一歩と、無尽蔵の階段を駆け登っていった。それはまるで二羽の蝶が、鼓動の高鳴りの中で戯れつつ、少しずつ天へと向かい始めるのに似ていた。マリーナという宇宙で、離れ合い、またよりを戻すかのように、いつまでも終わらぬ追走を続ける二人は、その地を流れる無限の時を踏み締めながら、果てしない祝祭の渦に呑み込まれてゆくのだった。

 人間の住まう土地において、平和、と呼べるバロメーターとは、何だろうか。

 思想の自由さ? 戦火がないこと? 衣食住が足りていること? 犯罪発生数が少ないこと?

 もしも卑近な例に限るのであれば、それは恐らく、誰もが安心して、自分の心惹かれるものを見つめることができる——ということになるのかもしれない。今、人々は地球の端に座り込み、思い思いの歓びを瞳に映している。眩むような斜陽の暖かさと、磯の匂いのする時空とは分かち難く入り混じり、彼らの目に、いよいよ春の祝福を呈した。空はどこまでも遠大に、物憂い菫色から蜂蜜色をとろかし、風の中へ広がる大地を、人々が横切ってゆく。琺瑯めいた蒼い頭上より、王者の帰還のようにはためいているフェスティバルの垂れ幕、電波を送受信し続けるアンテナ、海風に吹かれる太古の植物のうねり、デッキテラスに靴を鳴らして注文を持ち帰るウェイター、春風にはまだ冷たい干鱈のマリネエスケシャーダに、フォークをくぐらせている女性。軽口が流れ、子を叱る声が流れ、電話の通話も、旋律も流れている。やがて、太陽が暗がるほどになると、夕方の底に灯りが入り始めた。線虫のように幾条もの尾を引くディープブルーのネオン、どこまでも遠く開かれた橋の上で、光るストームライダーの模型を売りさばく商人たちによって、海の底さながらに神秘的な光で満ち溢れたその空間。ウォーターヴィークルのエリアから絶えることのない、爽やかになだれ込む滝の音や、幻想的な青のライトに照らし出された中を、潜水艇がゆっくりと浮上し、輝く雫を滴らせて波紋を生む。ああ、またこの時がやってきた、とデイビスは思った。それは街全体の何もかもがノスタルジアに包み込まれる、魔法の時間。虹色の暈を放つ電気石のような街燈、彼らの頭上を超えてゆくあの鉄骨のアーチは、最後の蒼穹の向こうに湛えた藍色の澱みを、香ばしい玉葱のような濃い匂いに染め上げていた。眩しいほどに狂おしいその香りは、生きるのに夢中である人々の鼻腔をくすぐってゆく。あふれる音楽が街を包み込むだろう。街はその愉悦に我を忘れ、すべての心細さを手放すだろう。あと一時間もすれば、夜に酔い痴れるあの途方もない恍惚のうちに、マリーナの未来全体が没してしまうだろう。

 カメリアは足を止めて、周囲にほとほとと光り始める街灯を見る。灯りの基調は黄色に統一されているものの、その色調も情緒も、僅かずつ違うのだった。琥珀色、真珠色、灯火色、橙色、トパーズ色、鼈甲色、麦穂色、シャンパン色、黄金糖色。夕焼けに達するかどうかの不完全な色彩の空に、それらは、人々の生活を象徴するものとして燈された。何年も何十年も、このように生き続けてきた末に、マリーナの人々は文明の最先端を歩んでいる。そして、街を取り巻く海面にもまた、幾千もの灯りが反射し、空と海の双方が、このマリーナに生きる人間の営みを、壮大な連関のうちに守護しているように思われた。

 目の前に広がる、未来的な、けれどもどこか懐古の感覚が漂う建造物たち。合金の放つ重厚な金銅色と、海を思わせるように深い青緑色が、夕陽に照らされたポート・ディスカバリーの大部分の建築を彩る。それらは紛れもなく、マリーナの住民たちの郷愁を掻き立てる、街の代表的な色合いでもあった。そこを、無数の星の海が泳ぐ。金銅と青緑、正反対の色を、おびただしい灯火の浮遊が結びつける。三次元の銀河の内部を漂っているかのような夢想が、暗がり始めた街を包み込む。いつのまにか、隣に彼女のいないことに気付き、デイビスは黄昏の中をふと振り返った。遠くからでも、すぐに彼女は見分けがついた。他の人間はみな、路上や手許の商品しか見ていないのに、彼女だけは茫然と立ち尽くしたまま——幾つもの照明が灯る空しか、その眼に映りはしないようだったから。彼女が眼差しを向けているのは、透き通るように蒼い——まもなく縹渺たる夜を迎え入れようとする、魂まで見透かされそうな藍色。あと少しで混沌に呑み込まれてしまいそうな、宇宙を思わせるその深みは、しかしこれほど多くの人々が行き交う中で、彼女しか目をそそぐ者はいなかったのである。

 凛、と立つ彼女の後ろ姿は、夜へと開け放たれる窓辺に垂れた、風にはためく帳のよう。いつか、満天の星へ向かってひらりと飛び立ってしまいそうな、そんな危うさと神秘性を孕んでいた。
 彼女を呼び戻そうとして、静かに近づいてくるデイビスの気配を背に感じながら——カメリアは、背後を振り返ることなく呟いた。

「美しい街だわ」

 陶然とした声だった。わななきながら、感に堪えかねたように吐息に乗せて。

「未来が、こんなに美しい世界だなんて思わなかった。私は、本当の意味で、未来を信じてはいなかったのね。けれどもこの街にいる人々は、呼吸をするようにそれができるんだわ」

 ライラックから薄い葡萄色へ、微かに染まり始めた空に、数羽の鴎が舞っていた。マリーナ中のスピーカーから流れる、切ないほどに勇壮な交響楽が、彼らの耳の底で渦を巻くように膨らんでゆく。周囲の音に紛れて、カメリアの呟きは掠れたように掻き消されていった。

 デイビスは、街の雰囲気に呑まれて立ちすくむカメリアと隣り合うと、優しく囁いた。

「ああ、綺麗だろ。毎日、この時間が一番いい時間なんだ。家に帰ったり、夕食に出かけたりして、海沿いの道をそぞろ歩く。人々がこんなに楽しそうにしている街は、世界中でただひとつ、ポート・ディスカバリーだけだ」

 デッキに設けられた手すりに寄りかかり、浅瀬の波打つ様を見つめるデイビス。彼らの半身にも、揺らめく波紋の繊細な光が、絶え間なく反射していた。その後ろを、さざめきながら、科学者たちが通り過ぎていった。海洋研究でもしているのだろう、ラテン語の学名が、次々と彼らの会話に入り混じる。

「この街の住民は、奇人変人ばかりで。……でも、最高に居心地が良くて、明るくて、気のいい奴らばかりなんだ。

 みんなこの街に対して、誇りを持ってる。この街のことが好きなんだ。そして、明日をもっと良くしたいって思ってる」

 自分の持っている秘密を分かち合うみたいに、デイビスは夕陽を浴びながら、ほんの少し頬を染めて笑った。

「みんな、それぞれ興味のあることは違うけれど。俺の場合は、飛行機乗りになって、このポート・ディスカバリーで働きたいって思った。ストームライダーのパイロットの募集が始まった時、すぐに志願したんだ。自分の力で空を飛んで、故郷のマリーナを守れるなんて、最高だろ? 入所が決まった時は、夢のようだと思ったよ。人生で一番嬉しい瞬間だった。

 良い街で、良い仕事をしたい。そして——人々のために、平和な未来を齎すことができればって、今でも思ってる。俺にできることはこれくらいだけど、それでもずっと憧れていた、俺のやりたいことのすべてなんだ」

 そう言って、デイビスは足下の海水の中に、落ちていた小石を軽く放り投げた。柔らかな水音とともに、どこまでも煌めく海の中を落ちてゆく石。小魚の影がちらちらとして、デッキの支柱にむした海藻を食んでいる。

 カメリアは、街に浮かんでいる無数の灯りを瞳に映し込んだままで、デイビスの双眸を仰ぎ見た。遠い月の重力に導かれて、何度となく砕け散る漣へ乱反射した街燈は、今にも吹き消されそうなバースデー・キャンドルのように、彼女の瞳の奥を、無限に揺らめかせた。柔らかな巻き髪が、彼女の首すじにもつれて、背後へと流される。肩に乗っているアレッタが、くるる、と小さな声で喉を唸らせ、数枚の羽を散らした。

「それが、あなたの夢なのね」

 カメリアが、会得したように呟いた。

「そうさ。夢を持っていない人間なんていない。そう言ったのは、あんただろ?」

 少し得意げな表情で、カメリアの顔を覗き込むデイビス。大きく目を見開いていた彼女も、デイビスの緑の眼に凝っと見つめられて、静かに口許を緩める。けれども彼は、何か引っかかるような違和感を覚えた。それが分かるのは、ほんの数秒後。微笑を作っているカメリアの頬を、静かに、宝石のような涙が伝っていった。

「……カメリア?」

 デイビスは狼狽して、カメリアの名を小さく呼んだ。彼女の方でも、あまりに呆気なく滑り落ちたそれに驚いている様子だった。泣くことに溺れるでも、必死に耐えようとするでもない。あれ——とすり抜けるようにこぼれた言葉が、妙に脳裏に焦げつく。

 どうしたんだ? と低く話しかけるデイビスに、カメリアはふるふると首を振った。その間も、新たな涙が目尻から溢れて、透明に頬を濡らしてゆく。デイビスは困惑した様子で、自分の懐を探った。

「心配しないで、あなたからハンカチを借りているし。それにもう泣き止むから。平気平気」

 頬を落ちる涙を乱暴に拭って、カメリアは取り繕ったように柔らかな笑顔を向けた。ほらね、とでも言いたげな表情だ。しかしデイビスは、涙よりもむしろ、貼りつけられたその笑いの方にこそ、強い悲痛さを感じた。気を張らなくては、前へ進めなくなるような。自分を強烈に鼓舞するような、そんな寂しい笑顔だった。

 我ながら何の役にも立たない慰めだと、そう分かっていながら——それでもデイビスは、カメリアに声をかけずにはいられなかった。

「……えっと。あまり無理するなよ。俺、そっちを見ないようにするから。だから——」

「大丈夫。……あなたの言葉がとっても綺麗だったから、少し涙ぐんじゃっただけ。ごめんね、驚かせちゃって」

 もう一度、ふわりとデイビスに向けて笑うと、カメリアは気まずくなった空気を誤魔化すように顔を逸らし、隼の羽毛を優しく撫でた。頬に滑り落ちた髪のせいで、彼女の表情はうかがえない。後ろの方のどこかで、歓声が聞こえた。きっとファン・カストーディアルが、大道芸でも披露したのだろう。

 微かに冷えてきた汐風が、口笛とともに、人々の拍手の波を運んでくる。遠い喝采に包み込まれながら、カメリアのまだ濡れている鳶色の瞳は、何よりも清冽な眩しさで、デイビスの姿を映し込んだ。

「ありがとう。あなたみたいな人に出会えてよかった。きっと、一生忘れないわ」

 紙吹雪やリボンの舞う中で、彼女は、手を差し伸べた。透き通るような微笑だった。デイビスは何も言えなかった。ただ、人々の歓声の渦に紛れて、このまま何もかも消えてなくなってしまいそうだと。痕跡も、気配も、跡形もなく。手に力を込めたとしても、風のようにすり抜けて、透けていってしまいそうな錯覚を覚える。そんな胸騒ぎが、デイビスに、彼女の手を取ることを躊躇わせた。

 カメリアは急かさなかった。ただ無言で、彼が手を握り返してくれるのを待っていた。その目を見つめていると、あまりに純粋な瞳の奥底に、吸い込まれてゆく気がする。

 昼間に繋いだ時とは違う、電燈に照らし出されてやや黄色く見える、淑やかな彼女の指。

 意を決したデイビスが、ようやくその手を握ろうとした時——

「おい。奴じゃないか?」

 にわかに周囲が騒ぎ立ち、人々の囁き声が空間を満たした。出し抜けの喧騒を耳にして、それまで互いを見つめ合っていた二人も、眼差しを動かした。

 新しいファン・カストーディアルでも現れたのかな? と考えるデイビス。しかし、そのように歓迎一色に染まった雰囲気ではない。どちらかというと、怪奇現象でも起きたかのような。今までの祝祭のムードとは毛色の違う、なぜか縁起の悪い——

「ドクター・コミネだ」

「まさか?」

「生きていたのか」

「シケの日に風読みに出たっきり、漂流していたという噂を聞いたが」

 ——不穏な単語が、彼らの耳をかすめてゆく。それまで安穏としていたデイビスの身動ぎが、ぴたりと止まった。

「有名人かしらっ?」

 くるりと首を回しながら、ワクワクしたその顔に滲み出る、若干のミーハー色を隠せないカメリア。それに気を取られて、目の前で滝のように汗を流しているデイビスには気付いていないらしい。

「なーあ、カメリア。そろそろあっちへ、夕食でも食べに行かないか」

「え? デイビスってば、どうしたの、急に?」

「いいから行こう、席が埋まっちまう前に。ここはとっととおさらばするぞ」

『おやあ? そこにいるのは、CWC勤務のキャプテン・デイビス君ではないかね?』

 くゎんくゎんとエコーを伴って響く、聞き覚えのある声色に、全身の血の気が引いてゆく。咄嗟にデイビスは回れ右をし、カメリアの手を掴んで明後日の方向へと歩き出した。

『おやおや、知らないフリをする気かね? 相変わらず姑息な真似をする男だ。キャプテン・デイビス、キャプテン・デイビス、君は完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめて、大人しく出てくるがいい』

 勝ち誇ったような男の声が、スピーカーで何倍にも音量を増幅されて追いかけてくる。畜生、メガホンを持っていやがる、とデイビスは歯噛みした。選挙活動をする政治家よろしく、優雅に演説をしながら階段でも降りてきているのだろう。空間を独占するほどにけたたましい声には、節ごとに音程の揺さぶりが混じり、奇妙なアクセントをつけていた。

「デイビス、あの人、お友だち?」

「やめろカメリア、絶対に目を合わせるな。あいつは、このマリーナで最も頭のおかしい奴なんだぞ」

「そりゃ、なんとなくおかしいってことは分かるけど——」

 ぼそぼそと素早く言葉を打ち交わす二人。そこへ、一瞬にして黒い影が身を躍らせる。気づいた時には、二人の間には、大きな壁が。おや、と思う間もなく、割り込んできたシルエットが華麗に白衣をはためかせ、俯き気味に眼鏡のブリッジに指をかけていた。

「どっどど どどうど どどうど どどう。呼ばれて飛び出る、愛と希望の伝道師。人はこう呼ぶ、フローティングシティの風来坊と。私が風力発電所の大プロフェッサー、ドクター・コミネです」

「はい?」

「拍手は結構、ギブ・ミー・チョコレート。アイハブ・ハッピー・スイートハート、ソーセンキュー」

「…………………………なるほど、よく分かったわ。さっきデイビスの言っていた意味が」

 バレエを思わせるポーズで、二人の間を分断している男。周囲の注目を浴びてご満悦とも言ってよいその表情は、確かに頓痴気(注、トンチキ、と読みます)な輝きに満ちていた。鈍感なカメリアでさえ、何やら面倒臭さが服を着てふたたび姿を現した、という事態を察した。しかも今回の相手こそ、正真正銘、本日一番の非常識を詰め込んだ、とっておきの大砲だったのだから。

 前髪に白いメッシュが入った、艶やかなおかっぱ頭に、牛乳瓶の底のように丸い銀縁眼鏡、歯車付き。研究用の白衣に蒼いネクタイを締めている姿は、確かにミステリアスな雰囲気だが、それほど奇抜な見た目とは思われないかもしれない——少なくとも、このポート・ディスカバリー界隈においては。しかしこの人物こそ、マリーナで最もクレイジーと称される科学者であり、また厄介なことに、それを誇りとして生きているはた迷惑な男でもあった。どうも極東からやってきたと噂されているが、それが本当であるかは誰にもわからない。なぜなら、彼のすべてが胡散臭いからだ。

「ふふん、風上から妙な香りがすると思って、風の泣き声を頼りに辿ってみれば。相変わらず武骨なオイルの臭いがぷんぷんだな、キャプテン・デイビス君? この清らかなフローティングシティの風を、醜悪なガソリンの悪臭に染めないでくれたまえ」

「悪いが俺に与えられた仕事は、ストームの消滅なんでね。文句ならポート・ディスカバリー市長と、CWCに言ってくれ」

 鼻と鼻が擦り合うほど顔を突き合わせて(注、マオリ族の挨拶をしたいのではない)、ヘドロの如く禍々しいオーラを渦巻かせる二人に、周囲の人々は思わず迂回した。いつのまにか空いた、往来の不自然な穴。引き潮のように、半径十メートル以内に人が近寄らなくなっている。

 このようにドクター・コミネは、キャプテン・デイビスの最大の天敵として君臨していた。彼らを突き合わせることは、犬と猿を同じ檻の中に入れる行為に等しい。それゆえにフローティングシティの住民たちは、二人が道端で出くわすのを天災のように感じている。争いは、常に同じレベルの者同士でしか発生しない——簡単に言えば、コミネとデイビスは「同次元のバカ」というのが、フローティングシティに生きる者たちの暗黙の了解だった。そして当事者たちは今日もまた、ネチネチと見苦しい諍いを始める。

「はてはて、君の乗っていたストームライダーは海の藻屑になったと聞いたが。CWCは、いい加減、税金の無駄遣いをするのはやめたらどうだね? 我らがウインド・ワンダラーズの所属する、風力発電所に投資するのが、君たちにできる最後の人助けといえよう」

「風力発電所も——CWCの——息がかかってるだろうが。建設費や設備や初期観測データは、どこの機関が提供してやったと思ってるんだ」

「その後、独占市場を懸念した市長の命によって、インフラ周りはCWCから独立したのだよ。おお、恐るべき無知かな、可哀想な青年よ。だいたい、研究もせずにチャラチャラと婦女子などを引き連れていては——おっと」

 そこで初めてコミネは、デイビスの後ろに立っているカメリアに目を留めた。彼女が着ているドレスは、シンプルなハイウェストが特徴のエンパイア・スタイル。彼女の前時代的な装いは、コミネの目にも珍しかったのだろう。上から下まで、舐め回すように眺めて。とりあえず、彼のセンスに照らし合わせた結論は、合格——ということだったらしい。彼の頭上に、両手で大きなマルが描かれる。

「なるほどよく似合っている。古き良き時代の、勇敢な女性飛行士ファッションじゃあないかッ! キャプテン・デイビス君、パイロット・スーツを着た君と装いを揃えさせてデートとは。君のコスプレ趣味の裏に秘められた性的嗜好が垣間見えるよ」

「言っている意味がまるで理解できないんだが?」

「何気に最低なことを想像しているわね」

 とりあえず、コミネが何か一言でも口にするたび、スプリンクラーのようにツッコミどころが周りに散布される、ということは分かった。二人がかりであっても追いつかない。

「しゃらくさいッ!!!」

 どん、とコミネが長い杖のようなもので地面を叩く。

「細かいことはどうでもよいのだ。このカザミスティックを見たまえ!」

「はぁ。これが?」

「ふふふ、何とも美しいスティックだろう? それもそのはず、この作品は発明コンテストに出品して、奨励賞を受賞したのだよ。

 なのに! 優勝はストームライダーとかいう、図体がデカいばかりの発明品がかっさらいやがって、あの女ァ! カザミスティックの方が、カザミスティックの方が、何億倍もファビュラスでエコロジーでスペクタクルじゃないか。暗いところで光るんだぞ。ラブリーな風の判別には、苦労したんだぞ」

 往来のど真ん中でよよと泣く中年男性の姿は、不気味以外の何者でもなかった。テンションの乱高下に気を取られて、一向に話が進まない。

「気が済んだなら、俺たち、もう行っていいか?」

「だめだ! 今日こそ決着をつける日だ。CWCよりウインド・ワンダラーズの方が、秘めたる可能性が上なんだ。もっと予算が欲しいんだあぁ」

「そんなこと言われても。直接、市長に談判しに行けよ」

「いや、この公衆の面前で、私はCWCの顔と勝負し、どちらの擁する科学者が天才なのかを裁定するッ!
 必要なのは公平な目を持つ審査員だ。そう、そこのクラシックなコスプレをしたお嬢さん。君にジャッジを務めてもらいたいのだよ」

「私に?」

 カメリアが、首を傾げながら自分を指差した。

「おほん。あなたは科学者ですね?」

「そうとも言えるけど」

「ならば問題なかろう。ふふふ、聡明な君はどちらを選ぶのか。クールでゴージャス、科学の女神に求婚されている、この世に降り立つ愛の戦士こと、ドクター・コミネか。それとも貧相で万年すかんぴん、シャクトリムシのように女性の脛を齧り続ける、貧乏神の権化こと、キャプテン・デイビスかっ!」

「ふっ——」

 思わず俯き、震えそうな肩をすんでのところでこらえるカメリア。

「貧乏神の権化……奇天烈な言動の割には、なかなか観察眼のある科学者だわ」

「オイ」

「ほほう。出会って数分で、私の内に秘められた才能を見抜くとは」

 コミネの眼鏡のレンズが、妖しく光る。咳払いをしておかっぱ頭を櫛で整えた彼は、紳士よろしく、改めてカメリアの肩を抱き寄せた。

「ふふん、クラシックでレトロでプリミチブな出で立ちだが、なかなか目の付け所のあるおじやうさんだ。さあ、私と一緒に、偉大なる風について語り合おう。レッツ、カゼンジョイ」

「…………はぁ」

 同じ科学者ゆえに噛み合う——というわけでもなく、ひとまず無難に返事をしておくカメリア。彼女に持っていたカザミスティックを渡しながら、気取った手振りで、コミネは杖の上部を示した。

「古き良きお嬢さん、このカザミスティックの、最高にビューティフルな先端部分を見たまえ。目にも綾な彫金細工、ふふふ、私が夜なべをして施したのだよ。その中央に、宝石があるのが見えるかね?」

 コミネの示した杖の先には、風力発電所のシンボルとなっている風車。実物は、垂直軸ダリウス型の風車を改造し、さらにオールに見立てた四つのブレードを羽根の周囲に取り付けることで、静謐ながらも高い発電効率を可能にしていたが、この杖の先に括り付けられているのは、さらにそれを簡略化したオブジェである。メルクマールともいえるオールが取り払われている代わりに、中央部には地球儀アクア・スフィアに似た珠が、キラリと光っている。

「このカザミスティックは、世界に一本しかない、超画期的な発明品でしてねー。良い風が吹いてくる方角を教えてくれたり、観測場所の風の種類を色で示してくれるスグレモノなのだよ」

「でも、何も変わらないじゃない」

「慌てちゃいけないよ、お嬢さん。カザミスティックの本領発揮は、ここからなのです。ええと、今日はドクターEKがいないから、私が風乞いをするしかないな」

 きょろきょろと辺りを見回したコミネは、おもむろに、奇妙なダンスを踊り始めた。より一層顕著に、音を立てるほど周囲の人波が引いてゆく中で、なにかの宗教儀式のように、風起こしの舞を延々と踊り続けるコミネ。それはまるで、この世に繰り広げられる最も簡易な地獄の縮図だった。本人は至って真剣なのだろう、険しく眉間に皺を寄せ、時折り、優雅なポーズとともにこめかみから汗が滴っていた。ただでさえ遠巻きにしていた観客たちは、見てはいけないものを見てしまったかのように一同に目を逸らす。願わくば、俺もあっち側に混じりたい、とデイビスは切にそう願った。前世でどんなに深い罪を犯したら、隣に踊り狂う中年男を侍らせたまま、剣山のような眼差しを集めなければならないのだろう。この空気の中で、通常通りの働きを見せるのは、機械だけだった。コミネの奇怪な舞に反応したように、カザミスティックの宝石に緑色が灯り——哀しいほど高らかに、チャリーンと音が鳴った。

「ふむぅ。のんびりとした風か」

 コミネは宝石を見つめ、口を尖らせる。その瞬間、カメリアの身ぬちを、天啓の如く衝撃が走り抜けた。地震を感知したナマズのようにぶるぶると震えるカメリアを、ん? という顔で覗き込むデイビス。

「どうした。いったい何を受信してるんだ?」

「な、ななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななななな、なんてセクシーでチャーミングでフィロソフィックな作品なのかしら」

「は?」

「このコンパクトな容積。地球を連想させるフォルム。何より、流体気学と人間の心理を絶妙に配合させた発想力。プロフェッサー・コミネ、素晴らしいわ。私はあなたと出会うために、このポート・ディスカバリーにやってきたんだわ!」

嘘だろぉ!?!?

「ふっふっふっ、そうだろうそうだろう。賢明な人間にしか理解できない世界が、このカザミスティックには詰まっているのだよ。どうだね、カゼンジョイを体験したご感想は」

「ああ偉大なる神よ、あなたの御心に感謝いたします。尊敬するダ・ヴィンチの精神を引き継ぐ世紀の天才にお目にかかれるとは、この世はまだまだ捨てたものではなかったのね。Deus vult, sapientia virtus est, id summum bonum est. (訳、主はそれを望まれた、叡智は徳なり、最高の善なり)」

「あーのーなー」

 ぐらぐらと目眩のする感覚を覚えながら、デイビスは二人に向かって大声で叫んだ。

「俺のウインドライダーの方が、凄かっただろーがっ!!」

「ふはははは、この勝負、もはやどう転んでも勝利は私のものだ。君は所詮は袋のネズミ——いや、ここは袋のミッキーマウスと言うべきか」

「凄いわ。まだキラキラしてる。一体どんな仕組みだというの」

「ここのボタンを、こう押すと」

「どうなるの?」

「なんと、キャンディが飛び出してくる」

「なんて斬新なアイディアなの!」

「餌付けされるなーっ!!」

 とてつもないたやすさで丸め込もうとされているカメリアに、デイビスは本能的な危機感を抱いた。スティック、キラキラ、ラブリー、そして駄菓子。オイオイ、これって女児の趣味のど真ん中じゃないのか——とデイビスの頭をめぐる悪しき予感。彼女の精神年齢は、本気で五歳児程度しか育っていないのかもしれない。

 そしてもうひとつ、嫌なことに気付いてしまう。鼻高々と自らの発明品の宣伝文句を謳うコミネ。こいつ、カメリアに似ていやがるんだ。というよりも、彼女のエキセントリックなところだけを煮詰めたら、こんな人間になるというべきか。嬉々とした様子で飴玉を舌で転がし、中年男性おじさんの与えるオモチャに買収されているカメリア。その姿がちいさなコミネの分身のように見えてきて、デイビスは怖気を振るいながらカメリアを引き剥がした。

「そいつに触るなー。近寄るなー。同じ空気を吸うなっ! 馬鹿が感染るッ!!」

「それは違うわ、デイビス。嫉妬は、確かに科学者の情熱を駆り立てるけれども、多くの場合は迷宮に誘うのよ。天才科学者に対しては、素直に脱帽するのが最良の手よ」

「俺は、こんな奴に嫉妬なんかしていないッ!!」

「うふん、常人は天才の発想を恐れ、無理解ゆえに拒絶するものだ。そして迫害された天才は部屋に引きこもり、さめざめと孤独に涙するのだよ」

「哀しいことね」

「哀しいことだ」

 前世からの宿縁を疑わせるような完璧なコンビネーションで、彼らはデイビスの意見を排斥した。馬鹿と馬鹿を掛け合わせると、どこまでも地底深く潜ってゆくという見本である。

「それにしてもこの街には、神に祝福された天才ばかりが集うものだわ。ドクターの空想力と、デイビスの飛行機の操縦技術。二つが組み合わさったら、どんなに素敵な化学反応が起きるかしら」

「どきっ」

「おい、何を言うんだよ。俺はこんな奴と一緒に仕事する気はねーぞ」

 慌てて抗議するデイビス。コミネも同意見を寄せていたが、デイビスの存在というよりはむしろ、別のところに原因があるようだった。

「わ、私は飛行機にあまり乗ろうとは思わないのだよ。ほら、馬鹿は高いところを好むって言うだろう? つまるところ、天才指数の低さを高度でごまかしているのさ、そうだともそうだとも。だから空のフローティングシティが完成したとしても、私は海上に住み続ける。そうさ、文字通り、地に足をつけた貴公子としてねッ!」

「要するに、怖いんだろ?」

 事実を上手く言いくるめる表現が見つかったため、酷く満足げな表情を浮かべるコミネ。横からデイビスの言い当てた図星は、聞かなかったことにしたようだ。というか、数少ない自分の信奉者ファンが目の前にいる時くらい、せめてカッコつけたい——という、彼なりの虚しくもいじましい努力だったりする。

「へーえ、ふーりょくはつでんしょのけんきゅーいんさんで、こーしょきょーふしょーのひとはいないのかー。あ、そーいえばはつでんよーのふーしゃって、すっごくたかいところにあったよなー。あのふーしゃにふーせんがひっかかりでもしたら、どちらのけんきゅーいんさんにたいおーをおねがいすればいーんだろーなー」

 そして、その努力の結晶をぶち壊そうとする、大人気なさを材料に捻出したような人間が一人。両手を頭の後ろにやりながら、つらつらと棒読みで呟かれた疑問。ソボクな子どもの皮を装った、凄まじく低俗な嫌がらせである。

「……デイビス君。キミという男は、自分の性格がどんなに陰険なのかを自覚しているのかね」

「あー、たかいところをとびまわるのがおしごとのボクにはてんさいかがくしゃのおにーさんのいうことがむずかしすぎてさっぱりわからないなあ。こまったこまった、いったいボクはどうやっていきていけばいいんだろー」

 耳の穴をほじりながら、そ知らぬふりを決め込む。完全に形勢逆転した——その風向きの変わり目を、肌で察しながら。敵の弱点を突く、というか、鼻っ柱を折る、というか。そういった汚い手段に、とにかくデイビスは長けていた。

「……高いところは、嫌いなの?」

 見るからに興奮を削がれた様子のカメリアは、哀しげにコミネに訊ねた。そして今、嘘一枚の皮を被った大人であるコミネは、だらだらと冷や汗を伝わせながら明後日の方を向き、胸を張った。

「ははははは、まさかまさか、この私は偉大なる気象研究者なのだよ。怖いものなんてあるはずが——」

「うんうん。それじゃあ、これから俺たちと、フライトに行けるよな?」

 ぽん、と。優しく、そして不気味に。デイビスが背後からコミネの肩を叩く。

「立ち話もなんだし、ウインドライダーで、場所を移してさ。ウォーターフロント辺りで食事しながら、朝まで風のことを語り合おうじゃないか」

 無論、悪質なブラフなのだが、当の相手は引き際を一切過たなかった。美しく揃った歯を輝かせ、爽やかに手を挙げて、コミネは青春のワンシーンを思わせるようなスローモーションで跳ね橋を駆け抜けていった。

「ははははは、私はそろそろ行かなくてはいけないようだよ。世界中の風が、天才科学者を呼んでいるようだからね。♪きのふの風 けふの風 恋の風 金の風 夢も涙も 吹きとばし からっ風野郎 あすも知れぬ命——」

 フェードアウトしてゆく科学者の背中を見守って、デイビスは醜くほくそ笑む。ふっ、勝った。

「どうしたのかしら?」

「悪霊退散、だな」

 これにて一件落着——なのかもしれない。とにかく、不毛な小競り合いは幕引きに。周囲の人間たちもようやく日常を取り戻し、往来に空いた穴を埋め始めた。

 くだらないことに時間を取られてしまった、とデイビスは腕時計を見つめた。六時過ぎ。カメリアはまだまだ店を覗き足りないらしく、気にする素振りを見せていたが、デイビスはと言えば、宿敵に出くわしたせいで、胸に渦巻く暗澹とした思いが収まらず、ウィンドウショッピングをするどころではなかった。

 何より——

『私はあなたと出会うために、このポート・ディスカバリーにやってきたんだわ!』

 あれはどういう意味なのだ。
 未来の世界を見たいというから、ここまで時間をかけて案内してやったのに——よりにもよってあの変人、コミネの方に共振するなどとは、到底納得がいかない。

 お手洗いに行ってくる、と一時的にいなくなった頃合いを見計らって、デイビスは近くの露店を覗き込んでみた。どれもこれも、彼にはよく分からない、煌びやかな装飾品ばかり。こういったアクセサリーよりも、先ほどのカザミスティックのような発明品の方が、気を引きつけるのだろうか? ま、カケラほども色気のねえ奴だしな、と見回している視界へ、ふと、アクセサリーボードに留めてあるブローチが目に入った。宝石がついているわけでもなく、せいぜい、艶々としたエナメルがモチーフを煌めかせているだけ。しかしだからこそ、ほとんど飾り気のない彼女には、抵抗なく受け入れてもらえそうなシロモノではある。

(考えてみりゃ、今日は奢ってもらってばっかで、あいつに何か渡してあげたことってなかったな。……出会って早々、ヒモみたいなことしかしてねえな、俺って)

 ……と、そこまで考えて、デイビスは伸ばしかけた手を引っ込める。いやまずい。せっかく生活費の足しを手に入れたところなのだ。これ以上財布の中身を空にしては。

 煩悶する彼の脳裏に横槍を入れるように、数時間前の会話が蘇ってくる。ペコの口から放たれた、針むしろのような言葉。それが悪魔の翼をぱたぱたとはためかせて、執拗に彼に囁いてくる。

『前からろくでもない人間だとは思っていましたが、デイビスさん、ついに女性にたかるヒモになったんですねえ。ダメ人間から、クズ人間にレベルアップしたわけですかあ——』

「ぐっ。……も、妄想の中でさえ、最悪のタイミングで登場しやがって」

『ま、僕はどっちでもいいんですけどお。でも今日のデイビスさんって、タクシー代も、賄賂代も、当面の生活費も、まるっとカメリアさんから搾取してるわけですよねえ。いやあ、デイビスさんの厚顔無恥っぷりも、なかなか堂に入ったものですねえ。恐れ入りましたあ』

「ううううう——」

 実にいやらしく的確に、ちくちくと彼の自尊心を刺してくるペコの幻影。そしてそれに対抗してくる凄まじいまでの自意識を、抑えつけるために必死で呪文を唱える。

 俺はラブコメの主人公なんかじゃない。
 俺はラブコメの主人公なんかじゃない。
 俺はラブコメの主人公なんかじゃない。

 これは、単なる故郷からの土産であって。オホホホホ、あなたわたくしのことが好きなのね——と頭の沸騰した令嬢を高笑いさせるような、メロドラマの意味を込めたものじゃない。

 あの馬鹿が勘違いしたら、全力で否定すりゃあいい。それだけのこと。何の意味もないんだ。

 彼は息を吸い込んで、露店の奥に向かって声を張りあげた。

「すみませーん。ここって、物々交換はできますか?」

「モノによるよ」

 ぬっと、奥から老婆が顔を出した。顔に刻みつけられた皺の節々に、海千山千の匂いがする。思わずデイビスは、数歩後退した。おいおい、なんでこんなチャラチャラとした女子向けの商品を、ミイラみたいに干からびた婆さんが売っていやがるんだ。

「高価なものを貰っても、釣り銭は出ないから注意しなよ。どれが欲しいんだい」

「このブローチと、この古銭を交換したいんだけど」

 ちらと腕時計を見ながら、デイビスは早口で言った。そろそろカメリアが、化粧室から帰ってくるはずだ。老婆は口をへの字に曲げて、偽札じゃなかろうかと、店の電球に透かして、たっぷり数十秒は受け取った紙幣を眺めている。

「はー、ぽーとでぃすかばりーにすむ若者よ。夢に満ちた青春きっぷを、こんな安物のぶろーちに使っていいのかね。こいつを換金すれば、きゃばくらでも、ぱぶでも、みらこすたでも、どこにでも行けるというのに」

「た、頼むから早くしてくれ。時間がないんだ」

「おや? ……あんた」

 老婆はデイビスの手を引き寄せ、鑑定用の虫眼鏡でまじまじと掌を観察した。

「あんた、稀に見る金運の悪さだねえ。こんな酷い金運線を持っている奴は、そうそういやしないよ。あーあー、それに生命線。こいつもこの先危ないねえ。近い将来、あんたの身に、きっと良くないことが起きるよ」

「手相なんかどうでもいいから、早く、そのブローチを売ってくれッ!!」

「せっかちは、自分の首を絞めるよ」

 まいどー、という声に見送られた彼の掌の上には、リボンと包装紙でラッピングされた小箱が、ちょこんと載っていた。

 か、買ってしまった。それは気恥ずかしいとか、なんて言って渡そうとか、そういった甘酸っぱい感情ではなく、明日からの生活をどうするか、という、ただひたすらに背中にのしかかってくる現実的な問題であった。自分は、もしかしたらとても後悔するのかもしれない。それでも、翼を生やして飛んでいった紙幣は、もう戻ってきやしないのだ。

「デイビス? ねえ、頭上にハエがたかってるけど、大丈夫?」

 そっと投げかけられた声に、彼は振り返った。貧乏っぷりが負のオーラとして漂っていたのを、カメリアが捕捉したらしい。若干ヒキ気味に寄ってきた彼女の目線は、たちまち、デイビスの持っている箱に注がれる。

「あっ、お土産買ってるー。気に入ったものが見つかってよかったじゃない」

 にこにこと手を合わせるカメリア。それを制するように、デイビスは無造作にその小箱を押しつけた。俺、馬鹿みたいな顔をしているんだろうな——と思いながら、彼は早口で呟く。

「あ、あんたにだよ」

 カメリアは不意を突かれたように、きょとんとしてデイビスを見た。汐風が柔らかに海を渡り、音もなく彼らのうなじの後ろを吹き抜けてゆく。

「特別な意味があるわけじゃないぞ。ただまあ、俺の発言であんたを泣かせちまったみたいだし、ヒモって言われたまま終わるのも気分が良くないし」

 語尾を細くして、つらつらと言い訳を重ねるデイビス。
 それを聞いて、カメリアは———

(……う)



 凄まじく目をキラキラと輝かせてみせるという——古典的な反応をしてみせた。



「やだ、デイビスったら。これがあなたの秘められた本心だったのね……(うっとり)」

だあああああっ!! 頼むから鬱陶しい勘違いしないでくれよ!! いいか、これには何の意味も含まれてないからな! 単なる! この土地の! 土産物!! 分かったか!?」

「うん、了解了解! 俺のことを永遠に忘れるなっていうメッセージが込められてるわけね?」

「びっくりするほど何も分かってねえ!!」

 デイビスは、早くこの恥ずかしい儀式を終えてしまいたいという気持ちでいっぱいだった。それを重々承知してながら、カメリアは何気ない調子で切り出す。

「ありがとう。でもちょうどよかった、私もあなたに、プレゼントを買ってきたんだよね」

「え?」

「フライトとか、街の案内とか、いろいろお世話になったでしょ。お礼にと思ってね」

 カメリアが差し出した両手。そこから、繻子のリボンが滑らかな艶を流して垂れ下がっている。
 デイビスはぱちくりと、目を瞬いた。

 近くのベンチに並んで座り、お互いからのプレゼントの箱を、膝の上に置く。同じくらい小さな箱。ほとんど重さもなく、吹けば飛んでいってしまいそうに軽いものだった。

「せーので、開けるか」

「そうだねー」

 二人はリボンを解き、蓋を開けて——ずっこけた。デイビスの箱の中には、鷹のブローチ。カメリアの箱の中には、金糸雀のブローチ。羽の広げ方から首の角度まで、比較するまでもなく、そっくり似ている。

「……覗き見してた?」

「まさか。そっちこそ」

「俺はしてない」

「私もしてない」

「……………………」

「……………………」

 気まずい雰囲気。とりあえず二人とも、ブローチを同じ右胸につけてみる。普段はあまり装飾品を身につける習慣はないが、胸元に輝いている印象は、それほど悪いものではなかった。

「今日の日の思い出ね」

 ブローチを指でいじりながら、カメリアはぽつりと言った。空は暗がり、空を鎌の形に切り取る、シトリン色の月がのぼっていた。

「もう帰るのか?」

「そうね、もう少しここにいたいけど。そろそろ家族が心配するから」

 ベンチから立ち上がると、アレッタが待ち構えていたように声をあげた。早く帰ろう、とでも呼びかけているのだろう。カメリアは柔和に目を細めて、アレッタを撫でた。

「分かった。送っていくぜ」

「あら、紳士ね」

「大分離れたところまで来ちまったからな。あんただけじゃ、帰り道もわからねえだろ」

 そう言って一緒に立ちあがりながら、デイビスは奥歯に挟まったような、言い知れぬ掻痒感を覚えた。
 はて、今日の間に、何かドジでも踏んだろうか。自分は、とてつもなく重要なことを忘れているような。

「帰り道は、どこに行けばいいの?」

「ああ。電車が通っているから、エレクトリック・レールウェイの方に——」

 そう言いかけて、デイビスはハタ——と気づく。

 帰りの乗車賃をも含んでいる、カメリアから貰った古い紙幣。
 自分がたった今、それを使い切ったということに。




……

 目を上げ、無言で数える。二、四、六……全部で二十八名。事前に欠席を伝えてきた一人を除き、全ての座席が埋まっている。
 役者は揃った。この舞台の演出家ディレクターの役を任された彼女は、自らの手首に巻きつけた繊細な銀の腕時計を見て、開始時間を迎えたことを確認した。

 きゅっと引っ詰めた黒髪に、皺一つないダークグレーのスーツ。窓から降り注ぐ夕陽を浴びて、一本の乱れもないヘアセットが、微かに七色の光を放って見える。薄い色の唇に、特徴的なほど高い鼻。そしてトレードマークである縁なし眼鏡の奥では、深海のような瞳が、書類の文字を反射していた。きつめの美人——と言えるのかもしれない。中年のスコットよりもさらに五つほど歳上だが、それでも若い頃の面影は留めており、何よりその姿勢の良さが、花瓶のように美しいシルエットを会議室に落としていた。

 アイリス・サッカレー。

 完璧な指令、多角的な分析、そして何より聡明な頭脳を誇るこの女性は、ストームライダーに纏わる最高責任者として、ミッションの司令官を任されていた。確かに上層部からの信頼は厚いものの、その厳しさには比類がない。現場にいなくても基地ベースなどと呼ばれているのは、彼女くらいのものである。おかげで、彼女の本名を覚えている部下は、CWC内に殆ど存在しないと言っても良いだろう。

「では、ストームライダー墜落事故の報告会を行います。お手許に事故報告書が配布されているかと思いますが、念のため、ご確認を」

 窓際に座っていた一人が挙手した。

「その前に、当事者たるキャプテン・デイビスはどうしたのかね? 彼の証言も耳に入れるべきだと思うが」

 鋭い目で見つめ返したベースは、想定内の質問に対して、凛とした口調で言い張った。

「彼には謹慎処分を命じています。それに、まだ人前に出られる精神状態ではありませんので。代わりに彼からは、始末書と報告書を」

「パイロット職の降板について、示唆したことは?」

「いえ。寧ろ早く飛びたいと申しているため、無理矢理休息を取らせているのです」

「あれほどのフライトを経験した中で、まだ飛びたがるとは、驚きだな。私たちとしては、安心したとも言えるが」

「根っからの飛行士なのだろうな」

 少なくとも、今回の事故により死傷者はいなかったし、精神に傷を負った者もいなかったのだ——その事実が共有されるだけでも、大いに胸を落ち着かせるに足る価値がある。会議室の空気が一気に安息で緩む中で、ベースは頑として口をつぐんでいた。ちっとも安心した、などとは言えない。あなたたちは部外者だから、そんなことが言えるのだ、と。ポーカーフェイスの下に自らの苛立ちを隠しながら、場がふたたび沈静するのを待って、報告書を読み上げた。

「それでは、まずは事故の概要から。発進した機体は二機。ストームライダーIと、ストームライダーIIです。前者には、キャプテン・スコットが、後者には、キャプテン・デイビスがパイロットとして搭乗していました。そのほか、ストームライダーI、IIともにそれぞれ百二十二名のゲストが、観測デッキに同乗。出発の準備は入念に行っており、全員がシートベルトを装着していることを確認しております。

 出発は、15:45。26分後の、16:11に、ターゲット捕捉。同時に、ストームライダーIが海面に着水。原因は、ストームが発生させた積乱雲からの落雷の直撃により、右舷エンジンから出火、燃料タンクおよびディメンション・スタビライザー破損のため。同時刻、ストームライダーIIは、ミッションのメイン機に切り替わりました。これはストームの発達速度を憂慮した、パイロットの独断によるものであります。16:12、ストームライダーII、管制塔間での無線の切断。原因は分かっていませんが、ストームの帯電によるものでしょう。この後、無線の使用不可時間は、16:17まで続きます。

 16:15、ストームライダーIIによるストームディフューザーの発射。直後、ストームからの再度の落雷により、位置座標制御のコントロールエラー発生。ストームライダーIIに衝突しましたが、パイロットがこれを振り落とし、予定通り発射から30秒後に起爆。

 同時に、爆風によりディフューザーの破片を右舷エンジンに巻き込み、ForeignF ObjectO DamageDによるストームライダーIIのエンジントラブル発生、ホライズン湾へ目掛けて急降下。16:18、エンジンの作動が回復するまで、パイロットはフゴイド運動とダッチロールを操縦桿その他の操作のみで制御します。エンジンの正常動作直後、僅かに機首を上げた後で、再度トラブルに見舞われましたが、その際にはすでに充分に高度を落としていたため、落下の衝撃が少ないままに海に着水。ストームライダーI、ストームライダーII、ともに死傷者ゼロ。以上が、今回の事故のあらましとなります」

「しかしこうして聞くと、無味乾燥なものだね」

 参集者のひとりが呟き、会議室に朗らかな苦笑の輪が広がった。ポート・ディスカバリーにおいて、事故の顛末を知らない者はない。全二百四十四名のゲスト、特にストームライダーIIに登場していた百二十二名のゲストが、生き証人として具に噂を駆け巡らせていたからだ。細かい状況については微妙な差異があるものの、大筋は共通していた。そして失敗を恐れず、未知のものを面白がる傾向のあるマリーナの連中には、そのいきさつは武勇伝としてしか聞こえなかった。会議室の参加者たちも例に漏れず、前向きな意見か、せいぜい機能改善の声ばかりを挙げている。

「初発進にしては、上出来なのでは」

「耐落雷にまだ改良の余地がある。それに、やはりゲストの同乗には肯けない」

「そうだな、そこには異論がない」

「となると、観測デッキは不要となるな。この空きスペースを利用して、別の機能に利用できるんじゃないか」

 めいめいに意見を交わしているようで、その実、議論にもならぬ程度の同じ方向性の発言。その中で、最も慎重派である一人が、会議の遅々たる進行に苛立ちを覚えたように、大きく話題を切り出した。

「ストームライダーの改良は、引き続きCWCで進行してもらうとして、我々には別の重大な課題があるように思うが。すなわち、今後レベル5より強大なストームが接近してきた場合の対応に関して、CWCの基本方針と、各施設および官僚の連携を決定しなければならない。すでに風力発電所に勤務するコミネ博士から、詳細な報告書が提出されている」

「……内容は仔細なんだが、使われている用語が、何が何だか分からなかったな。のんびりした風、さわやかな風、ラブリーな風だとか何だか」

 一同に渋い顔をして、資料のうちの一枚を読み返す参加者たち。最初に用語解説はなされているものの、いざ真面目な書面にちりばめられているのを見ると、自然と力が抜けてくる。

 いち早く彼の研究報告の結論を重く受け取ったベースは、他の参加者たちの困惑を引き継いで、論旨を要約した。

「コミネ博士が我々に警告したのは、風力の移り変わり、および風の形態の変遷から予想できる、ポート・ディスカバリー近海の気象全体の変化です。フィールドワークで実際に取得したデータと、海洋の温度や海流のデータを元に、今後数年のストームの予測についても割り出しています。

 特に風の形態については、長年現場における研究を重視してきたコミネ博士でなければけして得られなかったデータです。CWCでも無論、瞬間的な風速の観測データは蓄積しておりますが、全体として、どのように気流の変化が発生しているのかまでは計算できておりませんでした。これは博士の非常に意義ある功績です」

「そう——これを受けて、キャプテン・デイビスの処遇を決定せねばならない」

 ふたたび、慎重派の男に発言権が返る。会議室に居並ぶ官僚たちの中でも、この男が最も聡明だ、とベースは値踏みしていた。過激な論に陥ることなく、冷静にリスクを指摘し、他の意見を募る。こういった人物こそが、場の雰囲気を掌握するのである。

「私の意見では、ドクター・コミネの警告する規模のストームが襲来した場合に備えて、そのミッションの基本内容を策定し、安全保障委員会に提出しておいた方が良いように思う……特に、成功の鍵を握るパイロットの人選については。ストームが発生してから、ピークに到達するまでに、一刻の猶予も許されないだろう。速やかにミッションに移行できるよう、CWC内での念入りに計画を検討し、ターゲット把捉から発進に至るまでに必要な意思決定要素を、なるべくゼロに近づけるよう努力してもらいたい。

 恐らくストームライダーは、今回の打撃の比ではない被害を受けるはずだ。選抜されたパイロットには、事前に覚悟をしてもらった方がいい。遺書も必要だし、家族との別れもあるだろう。

 しかし、疑問がひとつ残る。ミズ・サッカレー、君はCWC内で最も腕の立つパイロットとして、キャプテン・デイビスの名を挙げているようだが、我々にもその根拠をご教示願いたい。果たして彼は、その任務に値するほどの技量を持っているのか」

「そうだ、なぜキャプテン・スコットではありえない? キャプテン・デイビスはまだ、二十六歳にしかならないと聞くぞ」

 別の人間が、キイキイと甲高い声を荒げた。

「報告書を見る限り、今回のストームライダーIの墜落は、パイロットの腕前とは関係ない原因で発生したようだ。先のミッションで判断するには、早すぎるのではないかね? このポート・ディスカバリーの存続を左右するほどの、重要な任務を預ける人間だ。これほどまでに若い人間に任せようという、CWCの意図が分からない。言わば、我々の命をその人物に預けるわけなのだから」

 ベースは、ひやりとするほどに凍りついた眼差しで、発言者の目を見つめ返した。蛇に射竦められたカエルの如く体を縮こませた発言者は、何か地雷を踏み抜いたのかと思ったが——ベースの冷たい眼差しは、必ずしも自粛を促すような意味を込めたものではなかったらしい。平静な表情のまま、ベースは口を開く。

「ええ、ですからここにいる皆様方には、ビデオをご覧いただきます。これは、コクピット・レコーダーから回収した、先日のミッションにおけるストームライダーIIのフライトの記録です。

 残念ながら、ストームの発する電磁波によって通信が阻害されると同時に、録音も止まってしまいました(嘘、本当はあるけど酷すぎるのでカット)。幸いにして、映像は確認できましたため、本日はこちらをご覧いただこうかと。なぜ我々が、キャプテン・デイビスをこれほどまでに高く評価しているのかを、きっと皆様にもご理解いただけるでしょう」

 言いながら、ベースは空中にホログラムを投影した。七色のぼんやりとした六芒星の破片が一枚に集まり、やがて透明な光壁スクリーンを創造する。そして亡霊のように動き始めたその中の合成影像が、光量や角度等の幾度かのテストを経て、完全に焦点を結びあわせた。レコーダーに収録されていた、あの日の光景——ストームライダーIが墜落してから、ストームライダーIIがストームディフューザーを発射し、海上に不時着するまで。失われていた過去が、目の前にまざまざと蘇る。

 さすがに悲鳴を漏らすとまではいかないものの、息を呑む微かな気配が、さざなみのように広がる。肌が粟立つ——見ている映像が、本物なのかどうか。自分は騙されているのではないかと。

 まるで会議室の空間自体が荒れ狂い、あらん限りの力で上下左右に揺さぶられているような。実際の光景よりは幾ばくか臨場感は失われているのだろうが、それでも迫力や緊迫感、何より鉄の輪が首にかけられているような死との肉薄は、いともたやすく操縦者の意識を刈り取り、錯乱の淵へと突き落としてゆく。そして、その全ての障害をコンマ数秒の差で切り抜ける、パイロットの超絶技巧。あまりに大胆にすぎる操縦は、鋼鉄の悲鳴が聞こえるかのようだ。しかし、自暴自棄になったかのような乱暴さに見えて、一秒毎に遅れて証明される障害物の軌道が、彼の驚異的な反射神経と操縦コントロールの双方を裏付けていた。もしもあの速度に僅かでも怯めば、もしもあの急激な方向転換に少しでも怖気付いたなら。そんなおぞましい仮定が、幾つも浮かんでは消える。何より、これほどの緊迫感の中で、すべてのテクニックが精確極まりない。暴走するストームライダーに嬲り殺される——その寸前で機体を制御し切ったパイロットは、最後まで主権を譲り渡すことはなかったのだ。

 誰かが放心したように、ぽつりと声を漏らした。

「天才——だな」

 ホログラムが終わった後も、戦慄が走り抜けた後の独特の虚脱感が、会議室を圧していた。何人かが冷や汗を拭う。ある意味で、怪物的、とも言える境地を目の当たりにした人々は、慄然とした空気に呑まれ、何も考えが浮かばなかった。ベースさえ、ただ静かに眼鏡の上に夕日を滑らせ、何も言葉を発しない。

「ミスター・スコット。君は今の映像を観て、どう思うのかね」

 出し抜けに、と言っても良い指名。目の前で流された映像にただ失語するしかできない参加者たちは、彼と同じ専門職からの意見が必要だと判断したのだろう。長らきに渡って会議室の端に腰掛け、飛び交う意見を聞いて沈黙していた彼は、腕を組んだまま、重い口を開いた。

「私が申し上げたいことは、たったひとつです。——良いパイロットであるのに必要な条件とは、何か」

 声を張り上げている訳ではないが、腹の底から響くような声は、静謐な口調であってもその場にいる全員に整然と届く。

「パイロットには、操縦技術だけではなく、判断力が必要です。判断が必要なタイミングは多岐に及びますが、最も難しく、それゆえに多大な意味が課せられるのは、進退に関する決断です。進むか、退くか。そして、言わずもがなですが——重大な判断は、常に、重大な責任を伴う。それについては、ここにお集まりの皆さんが、よくご存知の通り」

 水を打ったように静まり返った会議室。全員が、スコットの一言一言に深く傾聴し、その意味を魂に刻み付けている。

「キャプテン・デイビスは、上官である私の操縦技術を超えています。いえ、私どころか——現状、世界最高の技術を持ったパイロットと言っても良いでしょう。神懸かり的なコントロール、エンジンが停止してからの、機体の傾斜のみによる大胆にして微妙な制御、ヘリコプターが出現した時の咄嗟の回避。特に驚愕すべきは、ストームディフューザーの振り落としです。何をどうやれば、あんなことが可能なのか。映像を初めて見た時、私も目を疑いました。誰しもが、機体を揺らさない・・・・・訓練は積んでいる。しかし、機体を揺さぶるなどといった操縦は、一回も練習などしていないはずです。それを彼は、本番のただ一度で成功させた。それも着々と、死へのカウントダウンが宣告されている状況下で。並大抵の精神力ではありません。……けれども、彼も人間ですから、当然ながら欠点はあります」

 いったん、スコットは言葉を切り、心なしかその声色を暗くする。

「悲しいことに——彼には、どこで退くかの決断力がない。あのミッション。私がもし同じ立場にあったなら、いったんゲストを下ろして、再度ストームへと赴いたでしょう。しかし彼は、目先のことに意識を奪われ、その選択肢を自ら潰した。初めての発進ということや、ゲストを同乗させている緊張、ストームが発達していることへの焦りもあったのでしょう。しかし、多くの人間を危険に陥れたという事実に、変わりはありません。彼のパイロットとしての資質は、酷くアンバランスなのです」

「今回の件は、かなり特殊なケースだと思うが、それでは通常業務の場合には、彼の欠点はどのように作用するというのだね」

 別の声が、横から割り込んだ。スコットの顔が微かに歪む。何かに耐えているのか、それとも苛酷な想像をじっと頭の中で押し進めていたのか——しばらくデスクの上に広げた書類を見つめ、一度顰めた表情を崩さなかったが——やがて、意志を固めたように、続きを語り始めた。

「例えば、通常の航空機を操縦する時、離陸決心速度を超える間際で、エンジン・トラブルが発覚した場合に、コンマ一秒でブレーキをかけるのか、それとも一度離陸してから引き返した方が良いのか。どちらにしても、大事故は免れないかもしれない。リスクは、滑走路を飛び出すか、あるいは墜落するかの二択であり、無になるわけではない。怪我人が出る可能性は防ぎ切れませんし、それどころか、彼自身の命も崖側に立たされ、生きて帰れるかの保証はないのです。

 だがそれでも、パイロットは決断しなければならない。タイミングを逸することなく、論理に穴を開けることなく、その二つを兼ね備え、迅速に。例えその選択について、誰から非難を受けようとも——犠牲が多いのはどちらなのかを考え、最悪の事態を常に想定し、全力で回避しなければ。それこそがパイロットの責務なのですから。

 このように私が厳しいことを言うのは、何も彼が特別だからではなく、むしろその反対で、これは世界中のどのパイロットにも公平に背負わされている宿命だからです。それに、道を誤らないということは、他の乗客やポート・ディスカバリーを救うというだけでなく、彼自身を守るということでもある」

 スコットはそこまで言うと、静かに目を瞑る。

「罪悪感と、誹謗中傷バッシング。——パイロットには最も恐ろしいものです。職業の息の根を止められるだけでなく、社会的地位を失い、人間として完全に孤立する。もしも彼が死傷者を出した場合、待っているのは地獄です。人間である以上、ミスは必ず犯します。しかし彼にはそれが許されない。これほどまでに名前がポート・ディスカバリーを駆けめぐってしまっている以上、彼に対する悪罵は、輪を掛けてグロテスクな言葉で埋め尽くされる」

 そうスコットが締め括ると、会議室はふたたび、静寂に満たされた。しかし今度は、全員が同じことを考え、そしてそれを口に出さずにいる、という状況だった。

「進退の見極めがつかない、か——」

 スコットの論は、少なからず会議室の空気を変質せしめた。
 参加者の一人が、ゆっくりと片手を挙げる。

「例えばそれは、進むしかない、と命じられた場合に、最良の結果を出せるのはキャプテン・デイビス以外にはいない。ということで良いのかね?」

「——YES そういうことです」

 迷いなく、躊躇なく。低い声色のまま、スコットは即座に回答した。
 それを受けて、誰かが呟く。

「なるほど、最終兵器というわけか」

 さすがにそこから先は言葉を濁した。人間を兵器扱いする発言内容のおぞましさを、遅れて自覚したのだろう。図らずとも、言葉の綾には収まり切らない居心地の悪さが、その単語にはこびりついていたのだ。

 誰もが分かっている。
 ストームライダーとは、恐ろしい乗り物だ。

 自然を制御し、支配しようとする禁忌タブー。住民たちが避難する中、たった一人で嵐に立ち向かわねばならない、パイロットのプレッシャーと危険性。それを英雄という言葉で飾り立て、最悪と言える手札を一転、人類の切り札として輝かせている。
 命を賭す職業は、消防士や警察官など、他にいくらでもある。しかし大規模な自然災害を未然に阻止すること、そしてその責任の所在がこれほどまでに一極に集中した職業は、ストームライダーのパイロット以外には存在しない。

 だからこそマリーナは、徹底的なブランディングを行なったのだった。……フェスティバル全体が、このストームライダーの存在の危うさを宣伝で塗り固めている。ストームライダーは素晴らしい。とりわけパイロットは、自然対人類を象徴する英雄なのだと。事実、CWCの中枢にいる者以外は、その大々的なキャッチコピーを信じ込み、いともたやすく、ストームライダーの完成に諸手を挙げて祝福したのだ。何ひとつ、嘘をついた訳ではない——けれどもその本質は、一度も明らかにされたことがない。それにポート・ディスカバリーの楽観的な性質が、ミッション自体の危険性とあらざるべき形で組み合わさり、諸外国へのPRを強烈に後押ししてしまったのだった。加えて、ストームライダーは、完成から最初の発進に至るまでの一年間で、すでに計り知れない経済効果を生み出していた。そして先日、機体の大破こそしたものの、ストームの消滅成功を見せつけることまでできた。これは、今後の道を良い意味でも悪い意味でも決定づける、多大な影響を与えてしまったと言えよう。

 それはポート・ディスカバリー構想の父、セドナ・サムが最も恐れていた資本主義の波に、今まさに飲み込まれようとする、人間たちの哀れな姿だった。しかし彼らは、拝金の姿勢を取ったのではない。理想はいまだに汚されていなかった——すなわち、人類の未来に貢献するということは。経済効果を生み出すということは、税収が増え、より多くの金額を科学研究に投資できるということだ。なぜ、その高邁な原理を否定することなどできるだろうか? それにストームライダーが、高度な技術と高潔な理想に支えられ、かつてない存在感で未来を切り開いているのは、事実なのである。だから問題は、プロジェクトの目的ではなく、安全性についての充分な議論なのだろう。しかし不幸にも、自分たちが仕掛けたコマーシャル活動に深く浸かり切ったマリーナの人々は、あまりに美しすぎる夢に惑溺し、科学のうちで最も重要な批判的精神の立場に戻ることができなくなっていた。冷静に事態を見極めていたのは、むしろ当事者たちの方であった。この会議室においては、二十九名の参加者のうち、僅かに二人——ベースとスコットのみが、これからどのような闇が待ち受けているのかを理解している、数少ない人材だったのだ。

 ベースは、俯いたままのスコットを見た。彼もまた、自身の嘘を許さない人間だった。真実を前に沈黙するか、それとも本当のことを語るか。そして報告会の形式を取っている今、彼は、すべてを陳述する、ということを選択して、ここにいた。それこそが、ベースが、この男を最も信頼する理由だった。決断するのに必要なだけの聡明さと、一度決めたことを守り続ける、鋼鉄のような意志の強さ。その選択の判断材料には、倫理観だけでなく、政治的な要素も含まれているのも、キャプテン・デイビスとの違いであると言っていいだろう。スコットは、綺麗事だけで生きてはいない。曲がりなりにも史上初のストームライダーのパイロットとして選出された彼は、操縦技術だけでなく、その人格も大いに買われていたのだ。自らに対して徹底的に厳しく、妥協を許さない姿勢は、確かに同僚としての信頼に値するが、その実、なぜか悲哀を感じずにはいられなかった。

 だが現在、それを言うのは、彼の役割ではない。スコットはもう、背負いすぎるものを背負ってしまっている。だから、それを負うのは、パイロットではなく———

「キャプテン・デイビスは、責任を持って、私が管理をします。無論、発進命令も」

 ——私の役目だ・・・・・。そう思い直したベースは、会議室全体に向かって、氷のような声を張り上げた。

「CWCは、ポート・ディスカバリーの住民たちを守ることを第一の使命とした機関です。多大な投資の恩恵を受けていながら、存在意義を果たさぬ組織は、存続させる価値もありません。

 対超大型ストームの指揮官は、キャプテン・デイビスが手札の中で最善の選択肢です。すべての指揮権を彼に委譲し、ストームのレベル4以上の発達を確認してから二十四時間以内に発進を命じます。メイン機が墜落ロストした場合に備え、キャプテン・スコットも常時待機。全滅の場合は、最優先で市長に緊急連絡を行います。ストームディフューザーやストームライダーの残骸が突き刺されば、死の危険性があります。住民たちは老若男女問わず、発進前に必ず避難を完了させるよう、厳守願います」






 廊下は、赤光で満たされている。

 少しのハイヒールの音が、鼓膜を覆い尽くすほどに響くような気がした。妙に——今日は耳につく。けれども、その音に気を逸らせば、ほんの束の間だけ、頭を空っぽにしてしまうこともできる。

 夕焼けは、嫌なことを思い出す、とベースは思った。遠い日、墜落事故で死んでいった父。遺体は回収できなかった——あまりに損傷が激しすぎて。泣き崩れる母、家族が寄り添う空っぽの棺に、幼い彼女の置いたロケット・ペンダントが、斜陽を受けてきらきらと反射していた。それだけが、唯一現場から見つかった父の遺品だった。

 あの日以来、自分はがむしゃらに働いてきた。人の命を守りたい。もう二度と、哀しい死を経験したくない——と。研究と会議に打ち込む日々。少なくとも自分は、一定の成果を出すことに成功したと言えるだろう。事実、ストームライダーに纏わるほとんどの道を整備し、叩き台を作り上げたのは、彼女だった。まさに、CWCの基盤ベースとして生きてきたわけである。彼女なしには、このポート・ディスカバリーのシンボルたる研究機関は、存在しなかったはずだ。

 その自分が、いつのまにか——人命を守るために、別の命を天秤にかけている。

 仕方がないことなのかもしれない。守るなど、簡単に発せられる言葉ではないから。危険の中に飛び込まなければ、その意義は掴めなどしないのだから。自分の仕事は、理想や綺麗事ではなく、常に現実に根差したところにあるのだ。そう納得させようとしても——パイロットたちの顔を思い浮かべるたびに、凍るような自責を覚える。彼らは空に憧れ、目をキラキラさせて訓練していた。その彼らに対して、自分は指揮を執らねばならないのだ。
 
「ベース」

 優しく、穏やかな声が呼びかける。振り返った表情が、憔悴し切っていた——というよりは、ぼんやりと、白昼夢でも見ていたかのようである。彼女らしくない放心具合を心配して、スコットは静かに肩を叩いてやった。

「忘れ物だぞ。大事なものなのだろう」

 スコットが差し出したのは、子どもが祭りの時にせがんで買ってもらうような、いかにも安っぽいロケット・ペンダント。金メッキの塗装がはげかかり、内部の金属が覗いていた。かつて、彼女が棺に納めたものと、対になっている玩具である。軽く礼を口にして、彼女は懐に仕舞う。これを置き去りにするなどと、自分はよほど呆然としていたのだろう、と他人事のように思いながら。

「大丈夫か?」

 いつになく低い声を出したスコットに、ベースは顔を上げた。スコットの優しい漆黒の目は、夕日の中で柔和に細められ、彼女へと静かに眼差しを注いでいる。ひりつく舌をのろのろと動かし、彼女は機械的にスコットに返答した。彼に余計な心配させてはならない。

「ええ。すべては、あなたと事前に打ち合わせた通りに運んだわ。予想通り、キャプテン・デイビスの処罰の話は、一度も出なかったわね」

「ああ。帰り際、謹慎処分は厳しすぎるのではないかと、何人かから声を掛けられたよ。だが実際、処分を下さなければ、確実に会議中に疑義の声が上がっただろうな」

「そうでしょうね。今のうちから、パイロットへの鬱憤を溜められてはまずい。その飛び火が、経費の使い方にまで及ぶのは、何としてでも避けたかったのだもの」

 淡々と、言葉を紡ぐベース。その言葉の強さとは裏腹に、まるで人形のように意思を感じられない同僚に対して、スコットは慎重に声をかけた。

「しかし、あれでよかったのか。予算は潤沢だったのだろう? 経費からあれほどの金額を——」

 彼は迷ったように、その言葉の続きを口にする。



「———パイロットの生命保険にかけるなんて」



 ベースは、何も答えなかった。ただ、ガラス玉のような目に夕焼けを映し、自分の裁量を思い返していた。彼女の決定により、遺族に手渡される額は、従来よりも桁が一つ跳ねあがることになる。
 ストームライダーの修理、改良、採用の規模拡大など、費用の使い道は他にも星のように思い浮かぶ。それらのすべての意見を押し切って、ベースは一番にその項目の増額を決定した。どんな人間も、彼女の吹き荒れるような威圧感に、何も口を挟めなかった。

「ストームライダーのミッションには、それだけの価値があるわ。それに、あなたのようにお子さんがいるご家庭にとっては、この先充分な暮らしを保証できるだけの金額は、何よりも必要なのではなくて?」

「それはそうだが、しかしさすがに、機関が補償するべき限度を超えている」

「良いのです。これがCWCからパイロットに手向ける最低限の礼儀であり、誠意なのですから」

 夕日のうちに遠い眼差しを向けながら、彼女はスコットの娘の顔を呼び起こしていた。可愛い女の子だったと、ベースは思う。子どものいない彼女にも、その娘がいかに愛され、両親を愛してきたかがよく分かる。もしもスコットが命を落とした時、あの夕焼けの中で泣き腫らした自分と同じ思いを、スコットの娘は経験することになるだろう。けれどもその時は、自分が、スコットにはそれを命令する。全住民が避難する中、嵐に飛び込めと、そう命じるのは彼女の役目だ。——遠いあの日、乱気流に巻き込まれて死んでいった父は、今の彼女を見て、何を感じるだろう?

「私たちは、ストームを甘く見ていました。 先日のストーム——ブリーフィング時点では、レベル4でしたが、時を追うごとにどんどんと発達していった、悪魔のような自然災害。不謹慎にも、良い機会だと思ったのです。もしもストームライダーの初年度が保守にのみ費やされたのなら、ポート・ディスカバリーの人間たちは、納得しないだろうと勘付いていたから。

 指揮官があなたなら、デイビスを連れていっても大丈夫だと思った。そして彼の性格を知っていたにも関わらず、重大なミッションに参加させ、ゲストを抑止力の材料にするなどと、馬鹿げた真似をしでかしたのです。ゲストの命も、パイロットの命も……人命を何より軽視していたのは、私だったのです。司令官がそのようであっては、ミッションは始まる前から、崩壊の一途を辿るようなものです。そしてあの事故。死傷者がなかったのは、単なる偶然でしかありません。

 私は、もう二度と過ちを犯しません。どんな可能性も侮りません。住民たちの安全を最優先にし、いかなる決断も恐れません。

 そして、もし万が一の事態が起こった場合、我々の責任とパイロットの苦闘の証は、せめて金銭の形で遺族に届けます」

 ——そう、スコットに打ち明けた言葉こそ、彼女の吐露する本心だった。おそらく数時間前、デイビスが何よりも告白することを欲していたもの。あれは、彼がベースと心を通じ合わせる、最後のチャンスだと突き付けられたように思えた。けれども、彼女は自らの考えを、けして彼と分かち合うつもりはなかった。あのように、空を飛ぶことを真っ直ぐに望んでいる——自分とは決定的に、フライトの持つ意味を違えた人間とは。……そして彼は、彼女が彼に本音を明かす意志がないことを悟ったらしく、そのまま背を向けて飛び立ってしまった。

 キャプテン・デイビスと呼吸が合わないのは、当然なのかもしれない。彼はいつでも全力でぶつかってくることを望んだ。けれども自分は、胸に渦巻く本音をおくびにも出さない。さぞかし、口うるさいだけで、説得力のない司令官に思われたことだろう。日に日に、キャプテン・デイビスが自分への反抗心を募らせ、彼女の制止が効かなくなることが伝わってきた。スコットはそれを見て、横から助け舟を出してくれた。頭を冷やせ——と。たった一言で、デイビスは彼の言葉に従った。その事実に、酷く傷ついたことを覚えている。はなから、彼と彼女との間には信頼関係がないのだ——キャプテン・デイビスが、自分に服従するつもりがないのは当然だ、と。

 自分は、キャプテン・デイビスが憎いわけではない。むしろ、その反対だった。パイロットの平均年齢を大きく下回る歳で着任した彼は、無線から聞こえてくる声でさえ、時にはっとするほどの若さを感じることがある。彼にしてみれば、管制塔から下される命令を復唱しているだけなのだろう——だが彼女にとっては、まるで血を分けた息子が喋っているかのような、奇妙な幻覚を携えて聞こえてくるのである。

 そして、先日のミッションにおける重大なアクシデント。百二十二名を背後に抱え、まだ二十代にしかならない彼一人が牽引しなければならない閉鎖環境。爆発、衝突、墜落の危険性、およそ考えられる限りの命の危険が降りそそいできた。例え生還したにしても、パイロットには、大きな精神的外傷が残るのが普通なのだ。彼には休暇を与え、休息してほしかった。現にその翌日から、デイビスとスコットには休暇を二週間与えた。だが彼は宿舎に留まり、通常通り働き続けた。遊びに行く金がないのだと、朗らかに笑っていたデイビス。本当の理由がそうではないことは、誰がどう見ても明らかだったのに。

 スコットには内緒にしてくれよ、と念押ししていたデイビスは、表向きはスコットの部屋に悪戯を仕掛けるのだと嘯いていたが。実際のところは、ストームライダーのパイロットが二人とも不在になるのを懸念して、宿舎に居残ったのだろう。そこまでは、良いのだ。また時期をずらして、もう一度彼に休暇を取らせれば済む。けれども、休暇中の彼の行動は、彼女の想定していた範囲を遥かに超えていた。

 見ていられない、とベースは思う。彼の姿は、棘のように痛ましく、胸に刺さった。私のせいではない。私が命じたわけでも、煽ったわけでもない。彼はただ、自分の思うがまま、自由奔放に過ごしているだけだ——それなのに。

 腕が鈍るからと事もなげに答えて、機体を整備するデイビス。
 資料室に入り浸り、過去のストームを調査し尽くすデイビス。
 シミュレーション・システムに篭り切り、何度も何度も、あの日のミッションと同威力のストームに立ち向かうデイビス。

 何より。毎日、修理中のストームライダーIIを愛おしげに眺め、戦友か、ひょっとしたら宝物のように、自分の相棒との思い出に浸り、次はもっと上手く飛ばしてやるよ、と語りかけている後ろ姿。あの、機体をそっと撫でる癖。巨大な無機物への贖罪とも見紛う、あの静謐な眼差し。人のいない格納庫の中で、微かに夕焼けの赤光に照らされながら、ひたすらに発進命令を待ち続けているデイビスは、まるで幼い子どもが親の写真に語りかけているように、物寂しく、孤独なものだった。

 彼はまた飛ぼうとしている。

 馬鹿な。気づいていないだけで、彼の精神はボロボロになっているに違いないのだ。ふたたび飛ぼうなどと思うはずがない。それとも、本当にフライトを夢見ているのだろうか? こんな短期間で復帰しようとしたら、フライトの際にはフラッシュバックやパニックに陥り、下手すれば大事故に繋がる可能性だってある。なぜ、わざわざ自分を追い詰めるようなことをするのだろう? 怖くはないのか? 不安にはならないのか? そして、目の前を埋め尽くす疑問の果てに、ようやく彼女は悟る。あの日のフライトが、どんな現実を露わにせしめたのか。

 自分・・こそが、あのストームに直面して、恐怖したということ。勢力だけではない、いかなる責任を負った状況下で、彼女が指揮を取らねばならないかに気付いてしまったのだ。パイロットを死の危険に追いやったのは、自分だ。ゲストを危機に晒したのは、自分なのだ。もしもキャプテン・デイビスの操縦技術がなかったとしたら、一体どうなっていたのか? 考えるまでもない。全滅だったのだ。そして彼女の恐怖とは反対に、彼はフライトへの渇望に憑かれて、止まらなかった。あらゆる命の灯火を掻き消すはずのストームは、むしろ彼の底なしの意欲に、火をつけたかのようだった。青い炎の如く燃えながら、デイビスは危険な道を独り進んでゆこうとする。まるで、人生は短いことを知り、そのわずかな間に、自らを燃やし尽くそうとでもいうように。

 キャプテン・デイビスのフライトへの情熱は、並のパイロットの比ではない。……そう理解するには、あまりにもタイミングが遅すぎた。だって、彼はもう正式なストームライダーのパイロットに選出されてしまい、才能はすでに街中に知れ渡り、これ以上の道はないと信じている。彼には、もう他の可能性など残されていないのだ。街中の全員が、そしてベースも、彼自身さえもが、キャプテン・デイビスを英雄の舞台に押し上げようとしている。

 ベースにとって、あの日のミッションは、すべてが自分の判断ミスだった。失策ばかりの、ずさんな計画。夢に躍らされて、事態を手ぬるく考えていたとしか思えない。けれども彼にとってあのフライトは、初めての功労として讃えられた、大切な思い出なのだろう。それが苦しい。ベースは、司令官である自分こそが全責任を負うべきだと思った。それなのに、デイビスは栄光に浴するとともに自己の操縦の腕前を憎み、スコットは部下の躍進を誇らしく思うとともに、自らの今までの教育に反省を見出した。ストームライダーIIの前で俯いているデイビスの後ろ姿に、あなたたちが背負い込むことではない、と何度叫びたかったことか。

 そして今日。自分を止められる者は誰もいない、それを証明したい、というだけの理由により。彼はゲストを連れて、空へ飛び立っていってしまった。早く復帰しようと、躍起になって荒療治を求める訳でもない、ただそれだけが自分の本能なのだと、誇らしげに語りながら。

 もしかしたら彼は、本気で飛行士として生まれついたのかもしれない。
 ふたたび、危険さを危険だとも思わずに飛ぶことを望むのかもしれない。
 それは麻薬を打たれ、危機察知能力の壊れた兵士のようなものだった。何も怖いものはなく、限界も知らない。司令官たる彼女が自らの直接の死因となることも、最後まで意識することなく。

 ベースには、それが怖ろしかった。
 ストームライダーの発進は止められないとしても、せめて正当に自分を憎んでほしかった。お前のせいだと非難し、憎悪の限りを叩きつけてほしかった。彼の無念を刻み込みたい。許さないでほしい。何も言わずに、彼女の不条理な命令に疑問を持たないまま、屍にならないでほしいと。

 あの時。フライトを許可しないのはどうしてだと、彼に尋ねられた時、ベースは咄嗟に出まかせを言った。「あなたは普通ではない」とは、言えなかった。

 異常だ・・・
 あなたは、人間として、パイロットとして、どこかおかしいのだ———とは。

「辛い立場を背負わせてしまってすまなかったわね。ストームライダーの役割とパイロットの安全について、どうやって折り合いをつけるかは、考えなくていいわ。
 あなたは自己の安全を主張する側であり、CWCとしての決定を考慮する側ではないの」

 眩暈がするほど赤を滲ませた斜陽の中で、ベースはスコットに静かに告げた。彼はチームメイトであると同時に、彼女の守るべきものでもあった。自分は、窮地に陥ったパイロットの、死と直面する恐怖を肩代わりすることはできない。同じように、けして、彼女の重荷を一緒に背負わせて良い人物ではないのだ。

 出会ってすぐに、この男には軍の経歴があると見抜いた。
 デイビスも、退くべき場面で、冷静ではいられない人間だと分かっていた。
 それでも、彼女は二人を通した。彼らが欲しかった。ストームライダーは、それほどまでに複雑な操縦技術を必要とする飛行機だからである。

 CWCは、あまりに脆いものの上に立っている。それでも、進むしかない。退くという選択肢は、この段階に来ては、ありえないのだ。

 ベースは、懐に微かに当たるロケットの存在を感じながら、苦しい口調で呟いた。

「あなたのことも、デイビスのことも。必ず私が守れるように、最善を尽くすから」





……

 エレクトリック・レールウェイの赤く塗られた車体も、夜の灯りを浴びて、微かに艶めくだけとなっている。海辺の駅で、彼よりも一足早く、彼女はホームに降り立った。

「今日はありがとう。楽しかったわね」

「いや、こっちも付き合ってもらって楽しかった。さっ、さっ、最後の最後まで、あんたに小銭をせびったわけだが——」

「お金は別にいいんだけど、早いところ、貧困を脱却できるといいね。あなたの所持金、本当にシャレにならないから」

 震えるデイビスの肩を叩きながら、カメリアは本気で彼の行く末を心配した。いつか、そのへんの路上で野垂れ死にしているんじゃないか、と嫌な想像を思い浮かべながら。

「無事、元の時代に戻れるかな?」

「大丈夫よ。アレッタもそろそろ眠そうだし、きっと、真っ直ぐに家に帰らせてくれると思うわ」

 二人は、カメリアの肩に留まっている隼を覗き込んだ。完全に眠っているわけではないが、うつらうつらと、丸い目を瞬かせている。思わず、彼らは声を潜めて微笑み合った。

「こうして見ていると、可愛いんだけどなー」

「ふふ、あなたもずっと一緒にいたら分かるわよ。アレッタがどんなに頼りになる友人かってことがね」

 羽毛に覆われた小さな頭にキスを贈りながら、カメリアはそう言った。その感触で、少しばかり目が覚めてしまったようだ。媚びるように低い声を漏らしながら、軽く翼をはためかせるアレッタ。彼女からの愛情を受けて、鳥とは思えないほど豊かな感情を示している。

「ねえ。最後にひとつ、聞いていい?」

「なんだ?」

「どうして。私にくれたブローチを、金糸雀にしたの?」

 思いもよらない質問に、デイビスは虚をつかれて、少しの間考えをめぐらせた。わざわざ尋ねるということは、答えに何かしらの期待をしているのだろう。だが、そのブローチを目にした時、何となく、彼女に似ていると思ったのだ。それ以外の理由など、さして思いつかない。

 やがてデイビスは、自分を見上げているカメリアに向かって、正直な思いを口にした。

「あんたは、自由を求めていると思ったから」

 カメリアは何も言わなかった。ただ、ほんの少し目を見開いて、デイビスを見つめ返していた。その鳶色の瞳は、あと少しで、今にも何かを語り出しそうだった。

「出発しますよ」

 駅員が、彼らに声をかけた。デイビスはホームに残る彼女に手を差し伸べて、力強く握手を交わす。さきほどコミネの乱入により妨げられた、それが彼と彼女に相応しい挨拶だった。

「また来いよ。今度は、ストームライダーに乗せてやるぜ」

「楽しみにしているわ」

 合図の笛が鳴った。がたり、と車体が動き出す。窓から身を乗り出して手を振るデイビスに向かって、同じように笑みを浮かべたまま、カメリアはそっと夜の風の中に呟いた。

「さようなら。未来の街の、素敵なぱいろっとさん」

 ひとりプラットホームに取り残されながら、カメリアは、いつまでも、人気のない駅に立っていた。電車は徐々に速度スピードを上げて、薄暗い夜の淵に吸い込まれ、見えなくなった。






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