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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」10.嵐がくれば、人は祈る

 あの人を愛する以外、この世に生まれてきた意味などないのだと思った。
 あの笑顔、あの微笑。あの人に出会って、初めて私は、世界の最も良い場所へと歩き出し、人生は真実に肉薄したのだと、信じていた。




……

 ケープコッドまで電車で揺られると、すでにとっぷり日が暮れており、腹の虫を鳴らしたデイビスを連れて、遅くまでやっているレストランを探した。たまたま、伝統的に繰り返されてきた料理大会の予選を開催していたようで、真っ白に塩をふいた村役場(タウンホール)の、暖かい花梨のような灯りに吸い寄せられてゆく。

 中は柔らかな光に包まれて、急遽飾りつけたらしい赤青のリボンや垂れ幕が掲げられており、真っ白な壁面によく映える。無論、それらは合衆国を象徴する色だが、この漁村においてはそれよりも、水兵をイメージさせる爽やかさを備えていた。広々とした吹き抜けの上部には、四枚のフォークアート(注、土着の藝術。美を追求する美術と比較して、素朴・単純なものが多い)の絵画が、色鮮やかに描かれていた。下へ目線を移すと、予選に出されているメニューが、質朴な形をした照明を浴びて、幾つか掲示されている。ハンブルク風サンドイッチ、と書かれているが、要はハンバーガーだ。これも初めて口にするらしく、カメリアといえば、お肉だぁ、と喜んでいたのだが。

「どーのーさーんーどーいーっーちーにーしーよーおーかーなー」

 チーズ・ハンバーガー、フライドチキンのハンバーガー、それに地元で獲れたタラのハンバーガー。小さな旗の立っているそれぞれを順番に指差しながら、運任せに選ぼうとするカメリアの隣で、デイビスはアルコール飲料がないことに震えていた。町役場ということもあって、酔漢はお断りらしい。注文を終えて、二人は揃って窓辺の席に座り、外から吹き込んでくる汐風に洗われながら夕食にぱくついた。

「幸せ」

「そりゃ、よかったな」

 うっとりとハートを浮かべてもそもそ咀嚼するカメリア。何やら、雛に餌を与えているような気分になる。

「暖かい雰囲気の村なんだね。ニューヨークとは全然違うなあ」

「まあなー。のんびり暮らせそうだよなあ、ここって」

 シーフードチャウダーをほこほこと飲みながら、カメリアは嬉しそうに言った。咥えたフライドポテトをピコピコと行儀悪く上下させつつ、デイビスもそれに対して相槌を打つ。

 氷河期時代の美しい砂利や砂で形成されたケープコッド湾を望むこの岬は、古来より多くの探検家たちのメルクマールとなっており、有名なところでは、十世紀から十一世紀にかけて活躍したノルマン人航海者、レイフ・エリクソンが「ヴィンランド(注、葡萄または草原の土地の意)の岬」として発見した場所だとの伝承がある。これはコロンブスの到着よりも五百年ほど早く、おそらくアメリカ大陸に上陸した、史上初めてのヨーロッパ人の足跡であろう。なお、これらを含む数々の功績を讃えられ、エリクソンはS.E.A.創設時、名誉会員として協会に迎え入れられている。

 元々、温暖な気候と風光明媚な景色で、アメリカの都市生活者が、夏に訪れる避暑地として名高い土地だ。陰気な雲に陰ることは多いが、美しい紫陽花は咲き乱れ、岬は青々とした草が繁り、悠々と広がる海岸線の彼方には、燈台の光が真っ直ぐに差してゆく。太陽以外に戴くもののないボードウォークでは、そばに幾千もの薄が茫々と潮風に震えており、時々、夕陽の落ちてゆく方角に、まばゆい雫を滴らせる鯨の尾を見ることもできるだろう。取り立てて独自の観光名所があるわけではないが、それだけにこの半島全体の空気は、一際のどかである。名産品は、その名称の由来となっているタラに加え、クランベリー、牡蠣、ハマグリ、スズキ、ロブスターなど。十九世紀半ばには捕鯨も盛んであったが、今では漁業の方が主な産業へと移り変わっており、そのほかバスケット作りを含む手工業も脈々として受け継がれている。

 ケープコッドは、こうしたガイドブックに記載されているような一通りの概要よりも、実際に村を歩いた方が遙かに面白い。村の歴史が松ぼっくりから芽生えるように自然と転がって、現在と共生しているためだ。今はその細部も闇に沈んでしまっているが、聴覚だけでも伝わるものがある。漁や塩漬けの仕事と、家族との夕食を終えたらしい住民が、瞬くランプを片手にして、庭先で感傷の漂うアイリッシュ・フルートを奏でている。どこかの軒先からフィドルの音もまばらに絡まってきて、自然の波音のみならず、微かな生活の底でも、慎ましい融和の概念が生まれていた。村のそこここには、黄緑色の灯火があって、潮に混じり、枯れた松の匂いが漂っていた。村人たちは奇妙な人生、奇妙な看板、奇妙な原酒を味わい、記憶のなかへとその郷愁を熔かされてゆく。そして、土の香りを遙かに超えて、血肉を包み込んでいる海。

「はー、癒されるわー。老後の生活を送る場所は、ここにしよっか。ね、デイビス?」

「それ、仮に俺がうんって言ったら、どういうことになるんだ?」

 さりげなく婚約を強要する発言に、胡散臭さしか感じないデイビス。彼女はこうしてたまにトラップを仕掛けてくるので、気が抜けない。

 ホールには他に人はおらず、空席ばかりが並んでいた。さすがに夜も遅くなってきて、早寝早起きだろう村人たちは、すでに自宅に帰ってしまっているようだ。彼ら以外には役場の担当者が、ゆっくりフォークを磨いたり、盆を片付けたりと、役場を閉めるまでの時間を潰している。カメリアはゆっくりと、自分の膝の上で眠っているアレッタを撫でた。懸命なように目を瞑り、彼女の腿に身を委ねている姿は、普段よりも数倍、穏和で愛らしく見える。

 と、その時。人が少ないせいでよく物音が響くその建物の中へ、扉口から、新しい人物が入ってきた。その靴音があまりに明瞭だったので、思わず振り返るデイビスとカメリア。はたと目が合い、なんとなく会釈すると、その人影はにこにこと微笑みを浮かべて近づいてきた。

「ああ、村の外からきた客人というのは、あんたたちのことかい」

「はい。何か、御用ですか?」

「大した用事じゃないんだが、ささやかながら、もてなしてあげようと思ってね」

と、手元に持っていたデザートプレートを、ちょっと上げてみせ、

「ここには、温かいデザートが、あまりないからね。あまり凝ったものはあげられないが、木の実のケーキでもどうだい。クリッター・カントリー風なんだ」

 一気に、二人の瞳がキラキラと輝いた。二十代の胃袋ときたら、人生のうちでも相当な底無しの時期なのだから、甘いものはただちに消えてしまう。砂糖とナッツをふんだんにまぶしたこの素朴なケーキも、その餌食の例外ではなかった。

「おー。ピーナッツだ、ピーナッツ」

「おっきなケーキ! おばさん、ありがとう」

 場が、ほのぼのと湧く。思ってもみないデザートの登場に喜んで、彼らは改めて、この夜の訪客を目に留めた。
 髪をひとつに引っ詰めて、丸い鼻に丸眼鏡をかけ、四十代かと思われる、中年女性。ずんぐりとした体つきで、何度も洗濯したらしい、肌に馴染んだペパーミント色のドレスに身を包み、その頬はブルドックのように少し垂れ下がっていた。取り立てて褒める部分の多くない風貌だが、しかし手の甲に浮かんでいるしみひとつにも、おそらくは彼女なりに育んだ歴史があるのだろう。誰が知るにせよ知らないにせよ、確かに大地の片隅に根を張って生きてきた、そんな過不足のない事実の重みが、萎れ始めた肉体にぴったりと備わっている。
 ひと目見て、デイビスは、この女性が寡婦であることを悟った。深く、冷たい愛の慟哭が、苦しいほどの洪水となって、素朴なドレスの下に波打っている。その寄る方ない感情と繋がりを求める思いは、目となり眼差しとなり、彼女の顔に深く食い込んでいた。

「私も、ちょっとだけご相伴していいかい」

「どうぞどうぞ」

 カメリアが余っていた椅子を引く。ちょうど窓から夜風が吹いてきて、気温が良い塩梅だった。どっこいしょ、と呟きながら、ゆっくりと椅子に座したその女性は、人懐っこい笑顔を向けて話し始めた。

「あんたたちは、アメリカの人間なのかね?」

「ええ。西海岸の方から来ました、デイビスと」

「カメリアです。貴女は……」

「マーガレット・スターバックだよ。みんなはあたしを、ペグおばさんと呼ぶけどね(注、マーガレットの愛称は他にも、メグ、マギー、ペギーなどがあります)」

「まあ、可愛らしいお名前ですね。マーガレットといえば、恋の花占いに使われるお花ですもの」

 ふうん、とデイビスは少しも興味を示さなかったが、カメリアにとっては古くから思い入れの深い植物である。しばしば、故郷の館の付近にある花畑で、他愛ない未来を占うために、マーガレットを手折ったものだった。派手ではないが、新鮮な卵のように白と黄色に分かれ、清楚なイメージのあるその花は、十七世紀末より、欧州の人々にも親しまれている。

 ペグは、まるで長年会っていなかった娘と息子でも見るかのように、柔和に目を細めて彼らを見つめた。

「そうか、あんたたちは西海岸の方から来た人たちかい。こんな田舎町に、良くやってきてくれたね」

「今ちょうど、ここは素敵な場所だねって、デイビスと話していたところなんです。……わ。美味しい」

 三人で、砂糖のたっぷり入った生地にフォークを突き刺しながら、気取らない田舎の甘さを味わう。自分の分をやや大きめに切り分けようとするデイビスは、それを阻止しようとするカメリアとの間で、早くも小さなフォークの闘いを繰り広げていた。

「ここは、漁村だからね。夏にもなれば人で賑わうんだけれど、まだ海水の冷たいこの季節は、さっぱり人が来なくてね。みんなニューヨークに流れちまうよ」

「ああ、俺たちもちょうど、ニューヨークから帰ってきたところなんです」

「そうかい、あんな大都会の後に、この田舎町に来ると、見劣りがするだろう」

 カメリアは、もぐもぐと咀嚼していたケーキを呑み込んでから、

「そうかなぁ。私は、ニューヨークもこの街も、好きですよ。どちらかというと、性に合うのはケープコッドの方かも」

「へえ、そいつは嬉しいね」

「のんびりしていて、汐風が気持ち良くて。故郷と雰囲気が似ているんです」

「そうかい、ここと同じかい。それは、さぞかし美しい街だろうね」

 カメリアの言葉に、自然と郷土愛をくすぐられたのか、ペグは自らの生まれた地への礼讃を、初めて素直に口にした。

「ええ」

 カメリアも、凛、と眼差しを張りながら言った。

「美しいです。誇るべき街です」

 そのどこか毅然とした、静かな自負に溢れた言葉を聞きながら、ふとデイビスは、カメリアの生まれ育った場所って、どんなところなんだろうな、と想像に耽った。メディテレーニアン・ハーバーだ、ということは知っているが、いかんせん、彼にそれ以上の知識はない。ポート・ディスカバリーとも縁の薄いエリアであるから、重工業が盛んな場所ではないのだろう。古き良き伝統を守り続けた、瀟洒な街並みなのだろうか。想像してみると、自分にはますます馴染みのない世界のように感じられた。

「で、下卑た質問だがね。あんたら一体、どういう関係なの」

「え?」

「恋人同士なのかい?」

 ぱちくりと瞬きするカメリアとデイビス。そんな直球に訊かれたのは、初めてのことだった。

「ああ。それは——」

 すぅ、と怜悧な鳶色の眼を細めて、カメリアがおもむろにその続きを引き取り、口を開く。

「……駆け落「兄妹です。顔が似ていないのは、昔からよく言われまして」

 恨みがましそうに見ているカメリアの目線を無視し、デイビスは背凭れに寄り掛かったまま、氷だらけになったコーラをストローで啜った。

「ああ! 確かに顔立ちは違うけれど、雰囲気はそっくりだもんねえ」

 ごぼっとむせるデイビス。ご存知の通り、炭酸がむせるとかなり悲惨なことになる。鼻にまで迫り上がったコーラの泡に溺れながら、デイビスは立ち上がって、力の限りペグに叫んだ。

「似てませんよッ!!」

「あんた、気づかなかったの。そりゃまあ似ているさあ」

「兄妹ですもの。性格が似ているのは、昔からよく言われまして」

 仕返しのように、カメリアが彼の言葉を真似て冷たく言う。デイビスは彼女を睨みつけながら、ハンカチを取り出し、コーラまみれになった顔を拭いた。

「兄妹で仲が良いのは、微笑ましいね」

 ペグは哀しげに言った。

「おばさんはさあ、ずっと前に婚約者を亡くしてしまったからねえ、毎日が寂しくて仕方がなくてね。
 何とかして外の人と話したくて、こう、慌ててお菓子を拵えて、家を飛び出してきたんだよ。口には合うかね」

「ええ、美味いです。ホテル・ハイタワーのフルコースより、こっちの方が断然美味いな」

「ちょっと、デイビス」

 身も蓋もない物言いで持ちあげるデイビスを、カメリアがさすがに注意する。称賛のためとはいえ、比較対象である一方を貶すのは、あまり行儀の良いやり方とは言えないだろう。

「それは良かった。良かった、良かった」

 それでもペグは、何度も繰り返し、取り憑かれているかのように、良かった、とだけ言った。よほど外部の人間に褒められたのが嬉しかったのだろう。そこで彼らは、献身的な、ともすればお節介とまでいえそうな態度の彼女の裏に隠された、深い孤独に気づいたのだった。

「あの。おばさんは、お菓子屋さんを営んでいるんですか?」

「ああ、専門というわけではないが、お菓子も売っているね。うちは、村の雑貨屋なんだよ。生活必需品は大体手に入る。郵便局のようなこともやっているしね」

「ひええ、目が回りそう」

 驚く二人に対して、猫の手も借りたいくらい忙しいんだが、うちの猫は、朝から晩まで寝てばかりだからね、と呟くペグ。それを聞いて、カメリアは少しの間、考え込んだ。本来は何のゆかりもない旅人を、手作りのケーキでもてなしてもらいながら、ごちそうさま、とだけ言い残してさっさと帰るには、彼女の胸が痛みを覚えたのだ。

「あ、あのう。良かったら明日、何かお手伝いしましょうか」

「いいのかい?」

「ええ、簡単なことだったら、何かお役に立てるかも。夜には故郷に帰ってしまうんですが」

 言うそばから、デイビスからの目線が、矢のようにちくちくと突き刺さる。うっ、眼差しが痛い。

「店番をやっていると、なかなか自分のやりたいことができないからね。手伝ってくれるのは、本当に嬉しいよ」

「隼のこの子も、連れて行って大丈夫でしょうか?」

「暴れたり、仔猫を餌にしたりしなければ良いよ」

とペグ。なんでも、店を兼ねた彼女の自宅は、迷うほどでもなく、この役場のすぐそばの、壁を赤く塗られた家らしい。では、明日の朝にまた、という約束を取り交わして、ハンバーガーとケーキでいっぱいに詰まった胃袋を抱えながら、二人揃って夜闇に出た。

 田舎の夜は、色が深い。月は半分欠けていて、降るような星空だった。一面の深い天鵞絨に、数億の針で穴を開けたかのようで、まるでそのひとつひとつに、この星と同じような航海や冒険が繰り広げられ、その物語を輝かせているように見えた。何も障害物がなかったとしたら、頭のてっぺんから地の底まで、すべてがこの無限の群れ星に覆われていたことだろう。どうせ彼女は、綺麗ねえ、とか言うんだろうな、とデイビスが予想していると、果たしてカメリアは、綺麗ねえ、と呟いて、くるくると踊った。まだ数は少なかったが、夜道の側に繁る鬱蒼とした林の底から、蛍までもが、その健気な尻を光らせて、筋を描くように夜空へと舞いあがっていた。歩きながら、デイビスはすっかり穏やかな夜に魅せられて浮かれ足のカメリアに、厳しい口調で話しかけた。

「また、変な安請け合いをしやがって。知らねえぞ、俺は」

「えーと、まあ。これも人助けと思って」

 えへ、と取り繕った笑いをこぼすカメリア。しかし彼は怒っているというよりも、月明かりを浴びながら、何か考え込んでいるようだった。

「あんたは、あんまりあの人に近づかないようにしろよ」

「どうして?」
 
「あのおばさん、あんたを利用してる。寂しさを紛らわせるために、他人を道具にしてるんだよ。さっきだって、あんたの方から手伝うって言い出すのを待ってた」

 軒下のランプに集まってきた羽虫をちらりと目で追いつつ、そう語るデイビス。カメリアは、ほのかな光に照らし出されている彼の横顔をじっと見ながら、

「うん。知ってるよ」

 デイビスは顔をあげた。月明かりの中で、彼女は道端に落ちている石を軽く蹴った。

「いいんじゃないかな? 人間なんてそんなものでしょう。特に、傷ついている時には」

 ぽつんと言ってみせる彼女は、生来から備わった良心というのか、自分に向けられてきた甘えを簡単に許してやるような、そんな自然な友愛の精神を宿していた。もっとも、それこそが、彼女をしばしばトラブルへと巻き込む、厄介事の種なのだったが。
 デイビスは、彼女の言葉を聞くと、一瞬、酷く哀しそうな顔をした。煙草を咥えておらず口寂しかったからか、小さく唇を噛み締めていたが、やがて、

「俺も、何か手伝おうかな」

「あら。海辺でも散歩してきたらいいのに」

「いーよ。一人で行っても、退屈なだけだろ」

「それじゃ、明日は一緒におばさんの家に行ってくれる?」

「ああ」

 とデイビスから首肯を引き出すと、カメリアは心底幸せそうに瞳を輝かせ、「ありがとう」と囁いた。
 デイビスはその顔を、まんじりとして見ていた。いつも予想を遙かに凌駕して、真摯に屈託なく喜んでくれるので、そこだけが人間くささで明るくなったように感じる。ああ、人は、こんな風にあどけなく笑って、感謝するのだな、という最も基本的なことを、目の前で知らしめられた気がした。それからはもう、二人はそのことには触れず、気軽な世間話をしながら宿屋へと歩き続けた。

「じゃー、また明日ね、デイビ……ふぁ、」

「あんた……せめて別れた後であくびしろよ」

「んー。おやすみ」

 ふらふらと危うい足取りで自分の部屋に消えてゆくのを見届けて、デイビスも自分の部屋の鍵をこじ開ける。こぢんまりとしていて、窓からは夜の海が見えた。
 シャワーを浴び、歯を磨き、ベッドに寝転がると、薄暗い中でスプリングが軋んだ。枕を引き寄せ、重い頭をあてがいながら、

(楽しかったな)

ぼんやりと思った。

 いつもなら夜を徹した遊びになるだけに、一日中、朝から晩まで遊んだのは久々で、ひょっとしたら学生時代以来なのかもしれない。何か世界に対して堂々たることをした感覚とともに、微かな昂揚と、奇妙に腹に湧き返る達成感すら覚える。少なくとも今日一日、自分は寸分の隙もなくしっかり生きた、などと、若葉のように密な心持ちで語れる気がした。

 もうカメリアは寝たのだろうか、と窓を開けて、隣の部屋の様子をうかがってみたが、すでに床についたのかもしれない。窓から明かりは漏れておらず、虫の音が、星空の下に燦々と木霊していた。酒があれば、あと一時間くらいはぐだぐだと会話しても良いような気がしたが、彼女の方が数倍はしゃいでいただけあって、早々に休みたいのだろう。それによく考えると、自分だって目蓋が重たいことに気づいた。溜め息をついてふたたびベッドに横たわると、切れ切れに、今日の思い出が蘇ってくる。

 太陽の下で、海の近くで、少しばかり汗ばみながら未知の場所を歩くのは、ワクワクすることだった。カメリアに言われて、新しい物事を発見するのも面白い。ああ、俺以外の人間がここに生きて、ずっと活動してきたんだな、という当然の事実を、見たこともない世界とともに思い知らされるようで。そうした新鮮さを胸に浴びるのは、冷たい海水が染みてゆくのにも似て、自由と歓喜に満ちている。ホテル・ハイタワーの一件以外は、カメリアが終始、楽しそうにしていたのも嬉しかった。

 今回の旅は宿泊も兼ねていることから、小旅行に値するもので、それを二人きりで行くなど、もっと互いに恥じらいが漂っても良いように思うが、しかしそんな気配は微塵もなかった。夜闇に包まれたブロードウェイあたりで、波のように快い雰囲気に呑まれた瞬間もあったが、それだけだ。嫌われてはいないだろうが、恋愛を要求してくることもない。求愛を前提とした奉仕どころか、おどおどとした熱っぽい眼差しや、物欲しげに醸される沈黙も介在しなかった。そんなことよりも、ただただ、新しい世界の光景で胸がいっぱいらしくて、純粋に遊びに行くことそのものを楽しんでいた気がする。

(『愛して』って、言葉でも目でも言わないんだよな、あいつ。一度だって)

 自分に近づいてくる人間にしては、珍しいことのように受け止めながら、おそらくはそれが、長い間一緒にいても楽な理由だ、と考えた。好き勝手に振り回されるのは、それほど苦ではない。けれども、少しでも懇願の感情を向けられれば、たちまち煩わしく、場合によれば穢らわしさすら覚えたに違いない。その点、彼女は妙に肩透かしというか、くだらない妄言はワンサカと口にしながらも、切実さを匂わせるような行為はしない。正直、助かった、と思っている。色恋沙汰を求めてくる奴は重い。感情の起伏がやたら激しくて、何を期待されているのかもさっぱり分からないし、無闇に責められて、四六時中、とても一緒にいられたものじゃない。
 カメリアは、その無駄にのほほんとした気質のためなのか、瞳に浮かべるのは、男女の恋というよりは、さっぱりと下心のない友愛一色だし、意味深長な台詞をほのめかしたり、突然怒り出したりすることもない。どこか真剣味のない、というか肩の落とすような直球の戯れ言に留まって、それ以外は潔白を守り続け、深い関係への示唆を少しも持ち込もうとしないのは、不思議なくらいだった。

(たぶん、俺のことそんなに好きじゃないんだろうな、カメリアは。
 それでいいか。俺も、あわよくば、なんて思わねえし)

 ごろ、と寝返りを打ちながら、清々しいほどに将来を考えなくて良い関係に安堵する。けれどもそうなると今度は、名前のない曖昧な関係の方が、ふとしたはずみで、坂道を転がってゆきそうな予感が湧いて、ああ、一番後が縺れるやつだな、とカメリアとは絶対に色恋沙汰に走らないように決めた。それでまたつまらないことになって、ぎゃんぎゃんと喧嘩した挙句、ひとつ関係を失うのも虚しい。今も、これからも、清流のように簡素な付き合いだけしか欲しくなかった。

(こういうの、なんていうのかな。友達、なのかな)

 と、デイビスはそこまで突き当たって、友達って、何をすれば良いんだ、とふと疑問に思う。奉仕も束縛も、支配欲もない、対等な関わり合いなのか? 対等ってなんだ? どうすれば彼女と対等になれる?
 その時、頭の中に尻尾を振るポメラニアンが出てきて、瞬く間に彼の脳内は乗っ取られ、あ、カメリアだ、と思ったらもう駄目になり、それ以上想像するのが馬鹿らしくなった。新しい土地に全力ではしゃぐ犬と、それに引っ張られて一緒に駆け出す主人。それからはもう、そのイメージしか描けず、対等などという高尚な観念は、たちまちどこかへ消えてしまった。

(カメリアが犬なら、俺は何なんだろうな。人間としてずっとまともなのは、あいつの方なのに)

 睡魔の中でそれを考える余裕もなく、徐々に意識は溶暗して、うとうとと眠りに落ちていった。



……

 明くる朝、鶏の声で目が覚め、店の掃除をしていたペグは、ぺちゃくちゃと話しながら近づいてくる若者の声を耳にした。

「おはようございます、ペグおばさん。お手伝いにきましたよ」

「カメリア! おはよう、待っていたよ」

 転がるように戸口から走り出てきたペグは、カメリアに手を伸ばして力強く抱き締めた。これほどまでに歓迎されると予想していなかったカメリアは、その熱烈な抱擁にじ〜んとした。これだけで、手伝うと言った甲斐があったようなものだ。

「ああ! お兄さんの方も、来てくれたんだね」

「ええ、一緒に手伝ってくれるって」

 カメリアの背後で、デイビスが軽く会釈する。妹が何かしでかさないかと心配で、ついてきたのだろう。

「さあさあ、入っておくれ。朝食は食べたかい? まだ? そこのシリアルは、いくらでも食べて良いからね」

 と誘われて入った先は、広々と開けた紅板張りの店で、おそらくはあちこちの村人からいらない棚を掻き集めたのだろうか、壁際に並べられた種類の違うさまざまな棚に、台所用品や雑貨などの日用品が所狭しと置いてあった。部屋の中央には、木製のカウンターが設置されて、そこで物の売り買いをするようだ。気取りがなく、実にのびのびとしたカントリー風のその店は、彼女の拵えてきた小さな世界であり、同時に、思い出を収めた大切な箱でもあるのだろう。奥にはキッチンと階段があって、そのまま彼女の生活の場へと続いているらしい。

 アレッタを止まり木に休ませて(旅行前に持参してきた)、カメリアは楽しそうに品揃えを見て回った。すると、棚の陰からよろめくように現れた四つ足が、その小さな体に見合わぬ大きな口を開けて、消えそうな声で鳴いてみせた。

「カメリアー、猫だ、猫!」

と、元来猫好きなデイビスは、はしゃいで言った。まだ仔猫だった。白砂糖とキャラメルで彩られたような薄い色素の毛並みは、艶やかに流れることもなくふわふわと立っていて、硬い半透明の髭を撫ぜれば、ちいさな頭を擦りつけながら、甘噛みするように彼の指を齧ってきた。デイビスはすっかり心を奪われたようである。地面に下ろすと、赤い板張りの床に軽い爪の擦る音を立てながら、軽やかなリズムで後を追いかける。

「ははっ、こいつ、ついてくるぜ。人懐っこいなー」

 誤って蹴らないように注意を払いつつ、デイビスはゆっくりと歩いて仔猫と遊んでやった。時々立ち止まっては、その尖った耳や顎を掻いてやる場面は、なんとも微笑ましい。その様子を春うららに見つめ、カメリアは縁側でお茶を啜るように安楽な表情に浸されていた。

「なんて平和な光景なんだろー。青い海、白い雲、戯れる猫と青年。ハイクでもひねることができそう」

「お。じゃあぜひとも一句、詠んでみてくれよ」

「けえぷこっど
 ひねもすのたり
 のたりかな

 かめりあ」

「……盗作じゃねえか」

 くだらないことを言い合っているうちに、太陽も次第に高く昇ってきたらしい。窓から櫨染色の清冽な光線が差して、宙を舞う埃が煢然と輝いた。牛乳を貰い、働く分のカロリーを摂取した二人は、元気に満ち溢れた眼でペグのそばに近寄った。

「今日お手伝いできることは、何ですか?」

「そうだね、やってほしいのは郵便物の仕分け、お菓子作り、畑仕事くらいかな」

 とデイビスたちに言いながら、ペグは深い胸のうちで呟いた。
 ——そう、やるべきことはたくさんあるのだ。
 そういった義務で繋ぎ止めておかなくては、ふと、考えてはいけないことに囚われてしまいそうで。

「愛国者の日(Patriots' Day)がもうすぐだから、カードとクッキーを作りたいんだ」

「わあ、そんな風習があるんだ、楽しそう!」

 カメリアははしゃいだ声をあげたが、これは別に風習でも何でもなく、ペグがただ好きでやっているだけのことだった。田舎にはイベントが少ないので、行事には力を入れたくなるのだ。

 愛国者の日(パトリオット・デイ)とは、独立戦争の端緒となる一七七五年四月十九日、レキシントン・コンコードの闘いの勝利を記念して、マサチューセッツ、メーン、それにウィスコンシンの三州で制定された祝日のこと。レキシントンの民兵とイギリス軍が激突したこの戦闘は、マサチューセッツ湾、植民地ボストン近郊に秘かに集めた、植民地側の武器弾薬をめぐる武力衝突で、面白いことには、最初に対峙した時、道端には数十人の見物人が立っていて、この歴史的事態を見学していたという。開戦は一発の銃弾により告げられた。今では誰が撃ったか分からない発砲なのだが、小規模ながら独立へと至るための最初の勝利を収めた闘いの幕開けとして、以降、愛国精神を煽るものとしてアメリカ政府に大いに喧伝されることになる。

 記念日は毎年、四月の第三月曜日が担うので、この年は四月二十日、つまりあと四日後にまで迫っている。一見のどかなケープコッドにおいても、武器庫に大砲等の武器を隠し持ち、何人かの民兵が参戦したため、七月四日の独立記念日に匹敵する、重要な祝日として扱われていた。かくも歴史的な背景を持つため、村人の愛国心は人一倍強い。村の外れの花で溢れた広場には、赤と黒に塗られた、当時の簡潔な形の大砲が飾られており、また村役場には剣や絵画など、多くの記念品が眠っており、素朴な木造の一軒家には、ほとんどと言って良いほど星条旗が垂れ下がっている。それは諸外国との競争心や、政府への熱狂的な忠誠に基づいているのではなく、土臭く、根っこを疑われたこともなく、ほとんど土俗信仰に近い愛国心だった。彼らは神々に祈りを捧げるのと同じくして、勇邁な精神を刻んだ先人たちを追悼したのである。ちなみに、昨夜立ち寄ったクックオフ・コンテストの予選も、このパトリオット・デイに合わせて開催されたものである。

 同じアメリカ国民であるデイビスなのだが、独立気運の高まる歴史が根づいた村とは対極の、太平洋側の新興都市に生まれついたため、遠い昔日に対するこの誇り高い祖国愛は、どうもぴんとこなかった。ケープコッドは過去を、ポート・ディスカバリーは未来を志向している。教育も、無論一般的な歴史は習うけれども、その熱の入れようは、マリーナの今後の支えとなる学問の方にこそ重きを置かれているので、州を跨いだこの村の土着の気風は、ほとんど外国の文化のように新鮮に思える。反対に、カメリアの故郷たるイタリア北西部、ルッカの街は、古代ローマやルネサンスからの典雅な伝統文化に深い矜恃を持って守り通してきたので、同国出身の彼よりもむしろこの空気感には馴染みがあった。差異があるとすれば、ルッカは貴族や聖職者らの培ってきた、絢爛華美たる雰囲気が流れているのに対し、ケープコッドはとにもかくにも庶民的、ということであろうか。それぞれの土壌を譲らないこれら三つの郷土が、しかしすべて同じ港町である、という事実は、どこか不思議な共通点のようにも思われた。

 この日、ペグの焼こうとしているクッキーは、代々彼女の家に伝わるレシピを下敷きにしたもので、とかく、それぞれの家庭の伝統的な味を第一としたがる田舎町においても、大層評判の味だった。彼女の最も得意としているのはキャンディらしいが、その他にも甘いもの全般、ドーナツやキャロットケーキ、ジンジャー・ビスケット、アップルパイ、菫の砂糖漬け、そのどれもが一級品であり、店の一際大きな棚によく見えるように陳列されていた。ジャム、マーマレード、全粒のブレッドなど、そのまま食卓を彩るものも置いてある。

「お菓子の家みたーい」

「いいなー、全部美味そう」

 涎を垂らしそうな顔で棚を覗き込む二人。ペグはその姿を微笑ましく思いつつ、

「それじゃあ、クッキーから作ろうか。材料を言うから、その分をぴったり測って、このテーブルの上に置いていっておくれ」


〜クッキーを焼こう〜


「何、この掲題?」

「小学生向けのレシピ本みたいだな」

 ペグからエプロンを借りたカメリアとのデイビスは、自然と始まろうとする料理教室に?マークを浮かばせた。

 ペグは、今まで自分が書きつけてきたらしい、ボロボロになったレシピのメモ帳を開くと、その中の一ページを読み上げた。

「では、言うよ。薄力粉、2,600g。砂糖、1,400g。卵、20個。バター、1,800g。レーズンが——」

「ちょちょちょ、ちょっと待って」

「なんだい、カメリア?」

 カメリアは我慢し切れずに手を挙げた。

「あまりにもアメリカン・サイズ過ぎないですか? 薄力粉2,600gって、いったい何個分作るつもりですか」

「何を言っているんだい。ここは、アメリカだよ」

「いや、それにしても適正量ってものが——」

「カメリア」

 横にいるデイビスが、キラリと目を輝かせた。

「これが、俺たちのスタイルなんだ。公式WDWがYouTubeにあげたチュロスのレシピ(注、これhttps://youtu.be/NI1FhdWtQuw)も、馬鹿みたいに量が多いんだぜ」

「そんな、誇らしげに言われても」

「俺たちを舐めるな。なんでもビッグなほど燃えあがるという、謎のメンタリティでアメリカ人は繋がっているんだ」

 なぜか妙な迫真性を持つデイビスの力強い言葉に、カメリアは反論する意欲をなくした。

「まずは材料だね。協力して、テーブルの上に並べるんだ」

 そこからはせっせと、肉体労働が始まった。

 デイビスが粉類の分量を測り、カメリアがひたすらに卵を割る。ペグは、いそいそと酒に漬けた干し葡萄を持ってきた。田舎のお菓子は、なぜか乾果を入れがちである。それをつまみ食いしたカメリアが、目をキラキラと見開いたことから、漬け具合は問題ないのだろう。

「二十年以上も前には、片田舎のこの村にも、あんたたちみたいに元気で、活発な少女がいたのさ」

 室温に戻したバターへ、砂糖、卵を入れ、よく練り続けながら、ペグは物語り始めた。横から小麦粉を入れつつ、カメリアはじっと彼女の語り口に耳を傾ける。

「彼女は、世界中を冒険したいと望んでいた。こんな田舎じゃなくて、いつか、世界へ飛び出して。馬に乗ったり、駱駝に揺られたりしながら、どんどん遠くへと向かって。そうしていつか、世界の果てまで辿り着きたいと、そんなことを夢見ていたんだ。
 そして、運命の恋が彼女をとらえた時、彼女の人生はまったく変わってしまった。彼は、この世のすべてを知っていた。アラビアの海岸、人魚のお城、魔法の泉が湧きあがる土地。彼女はその船長のことが、好きで好きでたまらなくなった」

「恋?」

「ああ、恋さ。一生に一度の恋だった」

 デイビスは、ペグの夢見る眼差しをどこか羨ましげに見つめながら、真っ黒に萎んだ干し葡萄と、漬けた酒も香りづけとして、琥珀色の池ができる程度に生地に入れた。芳醇なアルコールの匂いが辺りに漂い、辺りは酔い痴れるような揮発で満ちた。それをさくり、さくり、と混ぜ合わせるたび、生地は酒と触れ合い、微かに鬱金色に濡れて輝いた。

「あれは……なんというのかね。足下から風が吹いて、全身の細胞が一斉に生まれ変わってゆく感覚。それがふくらはぎを通って、二の腕にまで達した頃には、この動悸からは永遠に逃げられない、もうだめだ、かつての自分には戻れない、と悟ってしまうのさ。何もかも遅かったんだ。手遅れだったんだよ。その激しい確信に抗うことは、不可能だった」

 カメリアは、不思議そうにペグの話を聞き入り、そしてその語り口に絡み取られるように、自らの生涯を振り返った。果たして、それほどに熱烈な経験は持ち合わせたことがなかった——しかし、物心ついてから一貫して、彼女の胸をずっと高鳴らせてきた飛行への憧れには、それに似通った情熱がある。きっとその思いの対象を人にして、結晶化させたのが、彼女の言及している「恋」なのだろう。

「おばさん。それからあなたは、どうしたの?」

「それから——」

 ペグは言葉を切ると、生地をまとめて粉を振り、ふと、その手を休めた。

「求愛したよ。頭のおかしいくらいにね。この男を逃したら、自分は間違いなく破滅すると思った。夜、漂流しているさなかに突然、北極星が目に飛び込んできたみたいだった。縋らなきゃ、溺れる。何も掴めなきゃ、残るのは虚しい、真っ暗な海の底と同じようなものだ。

 本物の恋だった。彼のためなら、何でもした。命さえ賭けても良い、この男と生きたかった。まだ何も手に入れていないのに、彼を失うこと以上に怖いものなどなかった。私は、あの男が怖かった。なのに、清らかに見えて堪らなかった。

 分かっているさ、こうした向こう見ずで、何が燃料なのかも分からない恋こそ、男は受け入れてはくれないものだってね。彼は私を遠ざけた。それはそうだろうね。唯一の救いは、私が貧乏だったってことだ。金持ちだったら、あらん限りの金を貢いで、そのせいで彼に軽蔑されただろう。例え伴侶として選ばれなくとも、彼には一個の個人として、尊敬されたままでいたかった。

 私は求めるばかりで、何も与えられなかった。
 でも、歯止めが効かなかった。この愛をどうやって伝えたら良いのか、何も分からなかった。ただ、彼の前に出ると、この世にはなんて綺麗な人間がいるんだろう、と——それ以外の事実が、全部真っ白になって、何も思い浮かばなくなってしまう。愛以外の言葉が何も見つからない。彼の前で、本当に私は愚昧だった。ただ、愛している、としか伝えられなかった」

 眼鏡をかけ、頬の肉の垂れ下がり、飾り気のない出で立ちをしたこの中年女性の口から、思いがけないほど熱いマグマのような言葉が滑り出た。
 カメリアは今度こそ、符合する記憶が皆無のようで、困り果てたように俯きながらも、なんとか想像力を総動員して思い描いてみようと試みていた。その側で、ニヤニヤとデイビスが意地悪い笑みを浮かべながら、

「カメリア。無理に理解しようとしなくて良いんだぞー」

「わ、わかんないよー。そんな状態」

「はは。あんたには、縁遠い感情だよなあ」

 奇妙に疲れ果てたような声色で、デイビスがぽつりと笑って言った。カメリアは結局、それほど熱烈な恋愛に自分を置き換えるのを諦めたのか、

「でも、そんな風に愛してるって言われるの、夢みたいだけどなあ。私ならすぐ舞い上がって、婚約まで取り付けちゃいそう」

と、相手の方に想像をシフトさせ、ぱたぱたと架空の翼をはためかせていた。

「そうかあ? 実際にンなこと言われても、面倒臭いだけだぞ」

「えー、デイビスってば、ドライだなあ。情熱的に告白されるのって、憧れじゃない?」

「あのなー。大人になったら、そんな野暮でリスキーな真似なんかしたくないんだよ」

「大人なら、ちゃんと思っていることくらい口にしてほしいわ」

 やいのやいのと、若者たちの繰り広げる平和な議論を見守りながら、ペグは苦笑混じりに肩をすくめ、

「私も若かったのさ。田舎の娘だから、恋愛に纏わる駆け引きだのも知らなかったしね」

「でも、ここから交際に発展してゆくのでしょう?」

「ああ。きっかけは、私がお菓子を作ったことさ。あれはそう、私が亡き母から教えてもらった、バタースコッチ・キャンディだった」

 ふっと目を遠くにやりながら、その作り方を教えてもらった時のことを、彼女は記憶の彼方から呼び戻した。心を込めて飴を練ると、魔法がかかるのよ、と亡き母は言った。大好きな人に贈る時には、たくさんの想いをそそいで、世界で一番美味しくしてね。そうしたら、どんな人も頬っぺたが落ちて、たちまちあなたに恋をしてしまうわ。

「本当は彼のために作ったものだが、受け取ってもらえなかったら、心が死んでしまうと思った。だからクリスマスの前に、ケープコッドの村人に向けて、キャンディを売ったんだ。これが予想以上の盛況振りでね。評判は、寄港してきた彼の耳にも届いたらしい。

 あの日のことは、よく覚えているよ。静かに雪の降る夜に、ふと戸口を見ると、帽子を脱いだ彼が立っていて、肩に微かに雪を乗せたまま、まだキャンディは残っていますか、と尋ねるんだ。

 生憎、その日はすでにキャンディを切らしていた。けれども、ちょうど今から作りますから、と断って、客人には暖炉の火に当たってもらい、その間に砂糖を煮溶かして、キャンディを作った。船旅を終えて凍えた体に、炉端の温かさが染みたんだろう。彼は何も言わずに、ただじっと腰掛けたまま、真っ赤な熱と光をパチパチ放って躍り続ける、炎の揺らめきに目を凝らしていた。私もまた、彼に何も言わなかった。しかし、同じ部屋に彼がいるという事実に、涙がこぼれそうになった。

 ゆっくりと、まだ温かい、紙で包んだキャンディを手渡すと、彼はありがとう、と呟いて、私に代金を支払った。戸口まで見送りに行くと、彼はちょっと頭を下げて、夜の雪の中を、宿の方角へと消えていった」

 聞いている間、若者二人は並んで頬杖をつき、何か合点したようににやにやと笑みを浮かべ、彼女の甘い過去のイマージュに想いを馳せた。

「それから私は、お菓子のレパートリーをこつこつと増やして、マフラーや手袋なんかも、村人に売り始めた。彼は徐々に、他の客に混じって、この店に通い詰めてくれた。簡単な世間話もした。店の中でなら、緊張も溶けて、彼とまともに会話できた。他の客に時間を取られて、あまり話せないこともあったが、そんな時には店を出て、また次の日に訪れてくれた。

 春になる頃には、客足が少ない時であれば、たまに海岸の散歩に誘ってくれるようになった。舟に乗って、お菓子を食べて。少し沖へ遠出することもあった」

「それじゃあ、これは、彼との思い出のクッキーなんですね」

「ああ。あの人は、これを食べながら、水平線を遠く眺めるのが大好きだったんだよ」

 ペグはそれ以上、昔話を語るのを打ち切った。昨夜、婚約者を亡くした、と語っていただけに、その結末も大方の予想がつく。デイビスもカメリアも、それを知っていたために、続きを促すような真似はしなかった。

 壁に掛かった時計を見て、生地を寝かせ終わったことに気づいたペグは、麺棒でテーブル一面に延ばして、カメリアとデイビスに型抜きの金型を渡した。この工程が一番楽しい。若人二人も、お揃いで結んだエプロンを粉だらけにしながら、鉄板の上に星の形をした生地を置いていった。

「デイビス、何作ってるの?」

「ストームライダー。確か、こんな感じなんだよなー」

「じゃあ、私もフライヤーを作ろ」

「アクアトピア」

「アレッタ」

「エレクトリック・レールウェイ」

「真面目に作ってくれるかい?」

 次々とできてゆく粘土作品に熱中し始めた二人を叱咤するペグ。すると、その中の不格好なクッキーたちのひとつに、ふと彼女の目が吸い寄せられた。

 恐らくそれは、ニューヨークで見てきた豪華客船を模したものだったのだろう。しかし、彼女の位置からすれば、転覆しているようにしか見えないその角度は、深い記憶のうちから、何か不吉なことを思い起こさせた。

 冷たい水。
 海を渦巻かせる、あの巨大な鯨の尾。
 助け出された時の震え。
 そして、駄目だ、見つからない、と叫んだ、あのボートの上の誰かの言葉。

 カメリアは、船を模したその生地を何気なく丸め直して、ぽこんと星の形にくりぬいた。それきり、テーブルの上から船は跡形もなく、消えてしまった。すべては、こうして無くなってしまうのだろうか。大切なものも、残骸も残さずに……ただ記憶だけを、生きる人々の脳裏にこびりつけて。

(あんたはいつも夢見る目つきで、まるで霧の中に生きているようだ。ペグ、いつになったらこっちの世界に戻ってくるつもりだい。みんな、あんたの帰りを待っているんだよ)

 あれは、誰が彼女に語ったことだったのだろう。
 霧。確かに、それに似ていた。彼女は、ケープコッドは、朝の霧のようだと思っていた。素晴らしい朝焼け、霧の漂う世界、波の音も潮風も何もかも溶けて、霞の粒に吸いつかれるような、あの冷たい快さ。世界はまるで、朝の景色のように彼女を包み込んだ。毎日、太陽が昇り、生きる彼女の姿を照らし出した。いつもいつも、この村の朝は、そのようにして、地上のすべてを光で満たしていた。

 けれども、ぱちゃりと海にもぐり、波に揺らめく真っ白な光が、蒼い天鵞絨へと拡散してゆき、やがて洞々と暗黒に包まれた水が世界を支配する時、その爽やかな朝の空気は、一切が感じられないものとなろう。深い深い海の底では、腐食した沈没船が、折れたマストを傾かせ、後は死んだような沈黙に侵されているだけなのだろう。

 水。
 それがどうしても、彼女を完全な理解から阻む。
 手を伸ばせない。水の奥底に、手を入れられない。すべては凍えて、光すらも届かない。
 海の底は、自分の助けられなかったものすべてが眠っているようで、あの日以降、二度と覗き込むことができなかった。

「おばさん、見てみて。星がいっぱい」

 カメリアが嬉しそうにクッキーを並べた天板を見て語りかけ、そしてペグは我に返った。

「昨日の夜も、こんな風に星がたくさんありましたよ」

「ああ……ここは明かりが少なくて、綺麗に見えるからね」

「ひとつくらい、地面に降ってくれば良いのにねー」

 にこにこと話すカメリア。なぜかその表情を見つめることができずに、ペグは俯いたままでいた。カメリアの笑顔は、何か封じ込めていたものを刺激し、思い出させる。

 これだけの量のクッキーである、型抜きが終わってからも一苦労だ。天板に並べては焼いて、引き出し、冷まして、を繰り返すうちに、ウロチョロとするデイビスがむしろ足手まといで、行く先行く先、ちょうど良いところへ立ち塞がってくる。

「邪魔っ」

「三人もいると、狭すぎるんだよ」

「もー。何か、別のことをしててよね」

 というわけで、キッチンから追い出されたデイビスは、仕方なしにグリーティングカードの整理を行うことにした。極彩色の絵の具で描かれた手紙は、開くと仕掛けが飛び出して、大砲を避ける猫の切り絵や、青い軍服を着たレキシントン民兵がすっくと立つ。商品化されたものを贈ってもいいように思うが、わざわざこの日のために、ペグはせっせと、自分の手でこさえたらしい。カードの端には丁寧にも、春の挨拶を担うメッセージが、虫眼鏡を使わなければ分からないほどの小文字で書かれていた。

 この店は、郵便局も兼ねているので、郵便物の仕分け棚を参考にして、封筒に宛名を書きつける。D. Duck、Mr. & Mrs. J. W. Ellis、と順繰りに見ていると、ふと、とある小包の隅に、「MICKEY MOUSE」と書かれた文字を見つけた。

 はて? どこかで聞いたことのあるような。
 鉛筆を耳に挟み込んで、じっとデイビスが考えに耽っているその時、開け放しにしてある店の入り口を、ふらりと影法師が遮ってくる。日に焼けた中肉中背の男性で、田舎には珍しく、清潔な黒いコートに身を包み、髪を丁寧に後ろに撫でつけてある。この辺り一帯の治安判事、ジェームズ・W・パーシーだった。彼は、いつも定位置にはいないペグの姿を目で探していたのだが、そこで仕分け棚の前に立っている、見慣れない顔に気づいて、首を傾げた。

「あれ? 店番を雇ったのかい」

「今日は特別でね」

「君、天使みたいな顔しているな」

「そりゃどーも。用件は?」

「宿酔の薬を二日分」

「あいよ」

 宿酔って、二日酔いか。どの薬がいいのかな、と薬棚の瓶を見つめていると、奥から、大皿を持ったカメリアが、てとてと、と音を立てて近寄ってきた。

「おまけに、クッキーはいかがですか? 少し余っちゃったの」

「やあ、お嬢さん。あなたもペグのお手伝いかね」

「ええ、今日だけなんですけれど」

 さくりと良い音を立てて齧りながら、地元の民ならではの、よほど勝手の分かっている様子で、棚の右端の、下から二番目、とデイビスに指図した。薬瓶を開けて、軽く匂いを嗅ぐデイビス。その間に、何気なくカウンターに置かれた封筒の、糸ミミズののたくったような彼の字を目に留めて、

「失礼だが、ミスター。この宛名は解読できるのかい?」

「えー? ちゃんと読めますよ」

「しかし、こんな文字は見たことがない。何かの暗号なのかい?」

「仕方ないだろ、筆記体なんてほとんど使わないんだから。はい、二日分」

 紙袋に包んだ薬を乱暴に押しつけると、パーシーがばらばらとカウンターに小銭を置いた。それを分類して、きちんと数えるデイビス。

「デイビス。冷めないうちに、あなたも一枚どうぞ」

「お、やった。いただきー」

 軽率にデイビスが手を伸ばす。ちょうど小腹が空いてきた頃だった。ほくほくと湯気を立てているクッキーは、まだ火傷しそうに熱いが、その分ほんのりと甘さを増している。

「彼にあげるのはもちろんペグズオリジナル。なぜなら彼もまた特別な存在だからです」

「何言ってんだ? あんた」

 クッキーをつまみながら訝しむデイビス。舌にざらつくのは、頬の奥へと染み入るように素朴な味で、レーズンが甘酸っぱく、少しラム酒の香りがした。

「美味しいでしょ? ねえねえ、美味しい?」

「あーもう。おちおち、ゆっくり食えやしねえ」

 纏ついてくるカメリアを鬱陶しげにいなしながら、デイビスは手元にあった牛乳とともに、クッキーを飲み下した。仔猫のタフィーが、素早く棚から降りて、クッキーの皿から立ちのぼる香ばしい湯気を、羨ましそうに眺めている。そんなふわふわとした額のそばへ、ひら、と何かの純白の花びらが舞い込んだ。窓辺から迷い込んでくる風に吹かれ、春の日差しの中で戯れる若者二人が目に入って、キッチンから何気なくその景色を見つめていたペグは、ああ、と胸を突かれた。

 もしも、あの人と一緒になれていたのなら。
 あの子たちのような、たくさんの元気な子どもに囲まれて、それぞれが別々の生命を得ながら、私と夫のそばで笑っていただろう。

 こんな風に、ひとりぼっちになるはずではなかった。
 やがて村も深い翳に彩られて、きっと夜にはもう、この若者たちも店からいなくなってしまう。

「なあペグ、ちょっとおいで」

 店の奥の台所に立ちすくんでいるペグを、パーシーが軽く手招きした。彼女はクッキーを焼きつつも、空き時間を利用して、客人の分も含めた昼食作りに取り掛かっているところだった。台所の戸口まで呼び寄せたパーシーは、声量を小声の程度にまで落として、

「あの子たちは、君の親類なのかい?」

「いや、旅人で、手伝いに来てくれただけだよ」

「そうかい。よく馴染んでいるようだがなあ」

 パーシーは目を細めて、後ろにいる二人を振り返った。

「良い子たちだろう。兄妹なんだと」

「こんな季節に、この田舎まで何しに来たんだ?」

「さあ、詳しくは知らないよ。昨日はニューヨークで遊んでいたそうだがね」

 エプロンで手を拭うペグに、パーシーはふと眉根を潜めて顔を近づけ、耳元へ囁くように静かに語りかけた。

「君も、余計に寂しくなるばかりだろう。あんなに若い子たちと一緒にいては」

 どこか、諌めるようなその言葉に、ペグは裏切られたような苦痛を覚えた。
 分かっている。自分は、空想の家族を思い描くために、あの若者たちを呼び寄せただけなのだと。もてなすためではなく、ケープコッドの思い出を作ってもらうためなどでもない。

 改めて、パーシーの肩越しに店の様子をうかがうペグ。肩を並べてカウンターに座り、カードの絵柄を一緒に覗き込んでいる二人の後ろ姿が見えた。髪の色も瞳の色も、顔立ちもまるで違うけれど、こうして並んでいるのは双子のようだ——その仲の良さには、彼女の中にも覚えがあった。

 そして、ふと記憶が歯車のようにひとりでに動き出して、古い日々の透明な画を重ねた。遠くにいるあの娘の、物怖じもせずにしきりに懐く様子は、若い頃の自分を髣髴とさせた。まだ人生の憂き目を知らないあの娘はペグで、あの青年は、遠い日の船長だった。かつてを思い出すたび、心が吸い込まれるように感じて、声を出せない。

 それからみるみる、ペグの鳩尾から、愛を掻き毟られる感覚が起こった。青年の方が、まるで絵画から抜き出てきたような風貌をしていて、あの人とちっとも似ていなかったのが幸いだ。しかしそれも当然なのだろう。あの激しい後ろ姿、あの善良な微笑み、あの穏やかな眼に燃える灯火は、誰に真似できるものでもない。彼だけが、あの焔を宿して生まれ、そして海の底へと引きずり込まれていった。以来、誰の目の中にも、同じ優しい焔は見出せず、もう二度と生まれることもなく、あの眼差しは深い深い暗闇へと呑み込まれてしまって、還ってこない。

「ペグ」

 パーシーが、静かに彼女の肩に手を置いた。

「思い出してはいけない。そんな顔をしてはだめだ」

 ペグは何も答えなかった。この臓腑を抉るような哀哭を、止める術を知らない。

「ケープコッドは、君を必要としている。——君だけでも、生きて帰ってきて、よかったんだ」

「分かっているよ。だからね、私は、ケープコッドのために生きているのさ。助けてくれたあんたたちに命を捧げて、恩を返すことにしたんだ」

「私が言いたいのは、そんなことじゃないよ」

「それじゃ、何を言いたい?」

 パーシーは、険しく眉根を寄せながら、少しばかり間を置いたが、しかし不意に、燕のように素早い息に乗せて、


「君は(・・)、何のために生きたいんだ?」


 ————何のために?

 彼女の心は、ケープコッドと過去の思い出と、その二つに分かたれて、それ以外の選択肢がまるで思い浮かばなかった。この漁村には、ニューヨークのようにきらきらしい夢などない。ただ松林を通り抜ける潮風や、村人の奏でる笛の音が、時間と融和して過ぎてゆく夢を形づくる。

 ゆめ。
 彼と結ばれるという夢も、多くの子をなし、毎日を賑やかな声に包まれたいという夢も、すべて海の中に取りこぼしてしまった。二度と取りに行けない夢は、それとともに、心の中の一斉に泡立つような喜びも、どこかへ失くしてしまったようだった。

 けれども、思い浮かべれば、それは確かに肉体に痕跡を残していた。彼が口を開く度、情熱的な戦慄が稲妻のように身ぬちを走る、あの瞬間は、今も全身から抜けてはいない。足許に縋るように恋を語るペグに、さしもの彼も、困ったように眉根を寄せて微笑んだ。

 私には果たして、何があなたをこうまで盲目にさせるのか、分かりません。私は、そのような言葉に値する人間ではありませんよ。

 荒くれ者の多い船乗りには珍しいほどに、地味で、清貧で、物腰の柔らかな男だった。随分と歳の離れていたが、ケープコッドに立ち寄るたびに丁寧に挨拶をした。二人でよく散歩したのは、夕暮れ前の時間帯だった。赫灼と燃え落ちる夕陽は、空気を半透明の紅に汚してゆく。ある時になって、彼は彼女の手を握った。熱く、塩だらけの、硬い手だった。そのあまりの熱に、ヒナギクが萎れてしまうような錯覚を持った。彼と彼女は、それから何も言わずに、蒼海のそばをひたすらに歩いていった。

 この男が、生まれて初めての恋だった。
 吹き渡る秋の空気のような、空虚の音の鳴り止まない恋だった。
 彼は、強烈な魅惑を宿しながらも、どこか侘しさに包まれていた。この男には、迫りくる風圧のような何かがあった。それがペグを魅する。まるで、陰惨な曇り空の中から、橙色の火柱を覗かせる夕暉のようだ。どんな船乗りも、どんな金持ちも、この男が魂に隠し持つ、時の止まったような色には敵わないと思った。

「どうして生きるか、だって?」

 ペグは、過去のほとぼりがまだ身ぬちに残るままに、低く問い返した。

「どうして生きるかなど、分からないさ。ただあの人は、時々、生きている私に贈り物をしてくれるから。それを取りこぼさないようにしないと」

「忘れた方が良い」

 パーシーは声を潜め、けれども確固たる口調で、ペグに囁きかけた。

「もう、数十年も前のことだろう。亡くなったばかりの頃であれば、私もこんな残酷なことは言わなかった。けれどもあんたは、歳月が経っても、ずっと引きずったままだ。無理に忘れるより他に、仕方ないじゃないか。君は、君の生涯を棒に振る気なのか?」

「だけど、ジェームズ」

「ペグ、私は君の幸福を祈っているんだ。君の人生はまだ、十二分に可能性に満ちて、未来へと残されているんだよ」

「でも、出てくるんだ。夢に出てくるんだよ。私はそれが見たくて、毎夜、彼がここを訪れるのを待っているんだ」

 これほどまでに琴線に触れる内容を、外部の人間である若者たちに聞かれたくなくて、ペグは低く声を抑えながら、背の高いパーシーを見上げて言った。

「船が村に帰ってくるのと、同じだよ。待ってくれる人がいなければ、彼の魂は深海に見捨てられたも同然だ。けれども彼は夢の中で、ここに帰ってくる。だからせめて心だけでも、家に迎え入れて、寂しくないようにしてやらなくちゃ」

「ペグ、それは君の妄想だ。彼は魂は天上だ。神が、彼のことを暖めてくださっているんだ」

「私は神よりも、自分の手で彼を慰める方が確実だと信じるよ。誰よりも彼のことを分かっているのは、私なんだ」

「ペグ。君は、自分が彼を見殺しにしたとでも思っているのか?」

 ペグは一言も口をきかずに、哀しげにパーシーの顔を見つめた。

「昔の君は、世界は広くて、何でもあって、素晴らしい可能性に満ち溢れていると信じていた。このまま、心を閉ざし切ったままで良いのかい。それが彼の望みなのかい」

「そうだよ、彼はそれを望んでいる。あの人はいつものように、ここで私が彼を出迎えてくれるのを期待している。それに応えるのが、私の役目だ」

「ペグ、彼がそんなことを望むはずがない。そんなものは悪霊だ!」

「仕方ないだろう!? 死んでいるんだ、心の底の欲望が剥き出しになったって、ちっとも不思議じゃないじゃないか。誰かに見捨てられたくない、そんなのは人間の自然の感情だろう? ジェームズ、確かにあの人は善良だったさ。けれどもいつだって、他人の幸福だけを望み続けるわけじゃない。あの人は私たちみんなと同じ人間なんだ、天使のように扱わないでくれ。あの人は生きている!」

「良いかい、私の言葉を聞きなさい。もしもこの場で、君の人生を救うか、彼の命を復活させられるか選べるなら、私は迷わず君を選ぶ。なぜなら君は生きているからだ。彼は海の底だが——君は今、この村に生きているからだ。ケープコッドの住人である全員がそうだ。君はその愛情を、本当に感じたことがあるのかい」

 ペグの腕を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめるパーシーの眼差しは、海に飛び込んでくる真昼の光線のようだった。それが、頭の中に藍色の波紋と、泡立つ音を蘇らせるようで、ペグは思わず顔を逸らす。
 パーシーは何も言わず、ひたすらに彼女の中に、彼に受け答える勇気の湧き起こるのを待った。ペグは震えながら、パーシーの手を解いて言った。

「なぜみんな、私に生きろと言うんだ。生きているさ。……あんたたちがそう言うから、引きずるように毎日を生きているんじゃないか」

 沈黙の中に佇む、ペグとパーシー。遠くで、娘の明るい笑い声がした。それは、午前の光と戯れるようで、その間に滔々と何かを語っている青年の声も、葉を揺らしている風に入り混じりながら聞こえた。

「ケープコッドは、灯台の町だ。古くからずっと絶えることのなかった海難者たちを、ここに帰らせなくてはならない。
 このちんけな村の、たった一人だ。過去の思い出に縋って、死んだように生きる人間がいても、それで良いとは思わないか」

 パーシーは、痛ましげに彼女の肩に手を置いて、親密に、けれども深く俯いた。

「また来る。……良い一日を」

 挨拶を残して去ってゆくパーシーのいた場所を、ぼんやりと見つめながら、ペグは力なく佇んでいた。

 目を瞑ると、あの深い藍色の世界に、揺れ動いては微睡むような光を投じる波紋が見える。あの景色を忘れることは、世界の栓を引き抜くようなものだった。すべてがその空虚の孔から消失して、干からびて、消えてしまう。

 タフィーが、彼女の足元で、小さく鳴き声を上げた。カカオ色の爪を絡ませてくる仔猫を抱きあげながら、生きなくてはならない理由は、たくさんある、だから役目は果たしている、とペグは自らに言い聞かせる。

 命の種を播き、命を収穫し、命を渦巻かせて、自分は生きている。だからきっと、大丈夫。明日も生きてゆけるはずだ。ふらりと台所を出て、店のカウンターの方に歩み寄る。何か青年の冗談を聞いて、鈴のように笑っていた娘。その二人は、そばに近寄ってきたペグの気配に気づいたようだった。

「グリーティングカードの整理は、順調に進んでいるかい?」

「ええ。まだ半分くらいですけれど」

と、封筒を並べてみせる青年。ペグは、そこに書かれているデイビスの筆記体を見て、絶句した。

「よし、昼食を食べたら、仕事を変えよう。デイビス、あんたは裏の畑仕事を手伝ってくれ。カメリア、あんたは店番と、カードの宛名書きだよ」

「昼食の準備も、手伝いましょうか?」

「ああ、もうすぐ終わるから、大丈夫だよ。しばらく休憩していてくれ」

 タフィーを床に下ろして、キッチンに去ってゆくペグを見届けてから、デイビスは自分の書いた封筒を見つめ返し、

「……俺の字、汚ねえのかな?」

「そうねえ、世界に革命を起こすような斬新なセンスを感じます」

「で、実際のところは?」

「…………(癶ν癶)」

「分かった。もう良い」

 デイビスが、心なしか涙ぐみながら背を向ける。手持ち無沙汰になった二人は、昼食を待つ間、窓からひょっこりと頭を出して、裏手の庭を覗き込んだ。

「畑には、何があるのかなー?」

「そうだね、カリフラワーとか、かぼちゃとか、セロリとか」

「素敵! セロリ大好き」

 遠くから彼女の問いに答えるペグに、カメリアは楽しそうに春風に吹かれて、作物の収穫期を想像していた。十月あたりには、すっかりケープコッドの葉も色づいて、作物はうっとりとした重さで揺れていることだろう。きっとこの畑は、美しい生命の結晶で溢れているはずだ。キッチンからは、野菜をよく煮込んだスープの匂いが漂ってきた。窓辺のレースが揺れては、カメリアの頭をさらうように流れ、くすぐったそうに彼女は微笑んだ。

「さあ、昼食にしよう。そこの隼には、生肉が良さそうだね」

「はーい」

 とたとた、と後をついてくる若者二人。食欲旺盛らしく、昨夜あれだけ食べたのをすべて消化して、昼食を待ちきれないようだった。

 やがて季節は変わる。季節はめぐる。そして彼の亡くなった季節が訪れる。
 赤い、渦のような紅葉に抱かれて、村は黄金の丘のように染まり、息すらも豊穣で苦しいほどだ。

 芽吹いたものは枯れ、色付いてしまう。胸から抜き取れないほどに紅く、鮮やかに、それ以外に考えられないほどに。



……

「よし。じゃ、畑仕事を開始するか」

 袖をめくりあげたデイビスは、店の裏手にある庭の前に立っていた。
 といっても、デイビスは客人なので、やってもらうことはそれほど本格的ではない。雑草を毟り、水をまけばいいだけだ。畑は手入れされているので、雑草も根が深いものはほぼ存在しなかった。鼻歌混じりで終えられるような仕事である。

「Everybody's got a Laughing Place, A Laughing Place, to go-ho-ho...

 ん?」

 腰を叩きながら、あらかた抜き終わり、最後の雑草を引き抜こうとしたところで、その草が、風以外の挙動で不自然に動いているのに気づく。モグラかな? と首を傾げて、根を掻き分けながらそれを抜くと、手のひらサイズの何かが二つ、ポロリと地面に落ちてきた。

 うおー、栗鼠だ。とデイビスは少し感動して見つめる。背中に白と黒の線条の入った、二匹の茶色のシマリスだった。アメリカでよく見られるのはもっぱらハイイロリスで、これは十九世紀半ばに逃げ出した個体がどんどんと繁殖してゆき、森を超えて生息範囲を広げるようになったのである。しかしシマリスは珍しい。愛くるしい黒い瞳と、微笑ましさに溢れたしぐさ。あちこちを齧ることから、害獣扱いされることも多々あるが、しかしやはりその姿は眺めていて飽きることがなかった。
 それによく見ると、個体差まで見出せた。一匹は栗色で艶があり、大きく開かれた目が特徴的。一匹は頭がふさふさとしていて、鼻血が出てしまっているのか、鼻が赤く染まっていた。

 とりあえず出血の具合を看てやろうと、デイビスは明るい体毛をした方の栗鼠に手を伸ばしたが、これが実にすばしっこい。影が落ちただけでたちまち逃げ去ると、今度はその手の周りをくすぐるようにちらちらと回る。そして、しきりに小さな尻尾を動かして、なぜか彼のポケットの中を指差していた。

 ひょっとして、これか? とデイビスは、ポケットに入っていたポート・ディスカバリー製の無線機のスイッチを入れて、畑の上に置いた。すると二匹は、たちまちチョロチョロと近寄ってきて、すとんとスピーカーの上に腰掛けるなり、無線機を叩いたり、マイクの凸凹で体をマッサージしたりしている。

《あー、あー。マイクテス、マイクテス》

《It's fine today, it's fine today(本日は晴天なり)》

 ぽかんとするデイビス。自分たちの声が満足に無線機から返ってくるのを聞こえると、二匹の栗鼠はけらけらと腹を抱えて笑い転げた。

《わー、本当に通じるよお! ミッキーの言った通りだねえ》

《凄いやー、さっすが魔法使いの弟子だよねえ。ハーイ、デイビス。元気にしてるー?》

《僕たちー、チップとー》

《デールですう》

《あはははは》

《うふふふふ》

 また頭がおかしくなったのか、俺は、と顳顬に手をあてがうデイビスに構わず、チップとデール、と名乗ったシマリスたちは、くるくると彼の手の近くで戯れた。

《僕たち、同じ夢の海に集う仲間じゃないかー!》

《仲良くしようよー!》

「はあ、よろしく。なんで俺の名前を知ってるんだ?」

 彼らに向かって小指を差し出し、栗鼠たちからすれば丸太のようにしか見えないその一本指で握手しながら、デイビスは疑問を尋ねてみた。

《だって、ずーっと君を見守ってきたんだもん。僕たちは君と同じ、ポート・ディスカバリーからやってきたんだよ!》

「なんだって?」

《昨日から、フライヤーの庇に掴まって一緒にフライトしてたのに、デイビスとカメリアったら、全然気づかないんだから!》

《超怖かったよねー!》

《吹き飛ばされるかと思ったねー!》

《あはははは》

《うふふふふ》

 このあはは、うふふ、という笑い声は、どうやら台詞とセットらしい。これが最も幻聴らしさを醸し出していて、端的にいえば不気味である。自分は本当に狂ってしまったのだろうか。カメリアを呼んで、この栗鼠たちが実在するのか確認してもらおうか。

《あっ、ダメダメー。そんなことしたら、アレッタも一緒に来ちゃうでしょー》

《僕たち、隼からしたら、格好のオツマミにしか過ぎないもんねー》

《きゃーっ、おかしい! あはははは》

《うふふふふ》

「笑い事なのか、それは?」

 割と生死に関わることのように思うが、箸が転がってもおかしい年頃なのか(本来は女性に使う形容だけど)、何でもけらけらと笑い飛ばしている。彼らの目に映る世界ときたら、それはそれは愉快なものなのだろう。

「つーか、ずっと見守ってきたって言ってたけど、俺と面識ないだろ? 俺、野生のシマリスなんて、今まで見たことないぜ」

《そんなことないよ! いっつもお世話になってるよー》

《小腹が空いた時には、まずデイビスのロッカーにお邪魔するよねー》

「あーっ。まさか、俺のフライト用のピーナッツが減り続けてたのって——」

《千葉県産だったねー、あれはー》

《さっすが、舞浜の住人だねー。次は、味噌ピーナッツがいいなー》

《ぴーなっつ最中も、候補に加えてよー》

「伝わりにくいローカルネタはやめろーっ!!」

 見つけたら犯人を絞めあげようと決意していたデイビスは、ようやく食い逃げ犯を目の前にして、ハラワタの煮え繰り返る思いだった。自分の掌ほどしかない二匹のシマリスに向かって、涙ながらにねちっこく叱りつけるデイビス。遠くから見れば、阿呆の所業にしか見えないだろうが、そんなことはどうでも良い。

「千葉半立種は、高いんだぞ。なけなしの金を使って、奮発して買ったんだぞ。一粒換算でどれだけするのか、分かってんのか」

《しょーがないよ、もう食べちゃったんだもん!》

《まったくケチだなー、もっと広い心を持てば良いのに》

「お前たちが言える立場じゃないだろ!?」

 盗人猛々しいとはこのことで、栗鼠たちは平然として耳をほじくりながら、デイビスの懐の狭さを糾弾した。苛立ちを抑え切れないデイビスは、無線機の上から栗鼠を追い払おうとするも、それすらからかわれるようにチョロチョロと回避される。憎たらしいことこの上ない。

 ところがその時、シマリスたちはここへきて、ふっと、不思議なことを口にした。

《でもさあ、フライヤーが、ちゃーんと正しい時空に辿り着けたのは、僕たちのおかげと言っても過言ではないよねー!》

《そうだよねー! 僕たちに感謝して、土下座してもらってもいいくらいだよねー》

「はぁ? どういうことだ?」

《ねー、デイビス。フライヤーのタイムスリップが成功したり失敗したりするのって、どうしてかって考えたことあるう?》

「どうしてか、って……あれはまだ、研究中の試作品だからだろ?」

《分かってないなあ、デイビス。実はフライヤーの設計は完璧で、もうとっくの昔に完成してるんだよー。でも今のままじゃ、本当のSoaringには、まだまだ足りないよねー》

「足りないって、何がだ?」

《そーれーはー》

《ひーみーつー!》

 かくっ、と肩を落とすデイビス。肝心なことは、全部隠し事なんかい。そういえば前に、無線機が変な奴と通じた時も、大事なことは伏せられていたっけ、と思い起こす。

《だってそれを発見するのは、カメリアにとって、とても大事なことなんだもん!》

「あいつにとって?」

《デイビスの拗らせっぷりは今に始まったことじゃないけど、カメリアも色々と闇が深いからなー!》

《うんうん。これを機に、僕たちみたいにパーッと能天気になれるといいよねー!》

《ちょっと待ってよ。能天気なのはチップだけだろ?》

《何をいうんだよ。頭がお花畑なのは、デールの方じゃないかー》

《なんだとー。この、へちゃむくれ!》

《ノータリン!》

《短足!》

《出っ歯!》

「け、喧嘩はやめろよ。不毛すぎるだろ」

 デイビスは二匹の間に掌を立てて、睨み合いを遮った。すると栗鼠たちは、まるでアスレチックでもあるかのようにその手によじ登りながら、ふわふわの腹毛を擦りつけ、ぴこぴこと尻尾を動かした。

《ま、カメリアは大丈夫。なんだかんだで、一人でも切り抜けていける人間だから!》

《うんうん。一方のデイビスは、自分のことをよくよく見つめ直した方がいいよ! そのままだと、お先真っ暗って感じだし!》

「て、てめえら、言わせておけば、勝手なことを……」

《きゃーっ、あはははは。デイビスが、怒ったー!》

《うふふふふ。チップ、逃げろー!》

 そしてチョロチョロと逃げ惑うシマリス。体の小ささを利用して、迷路のような畑を実に器用に駆け抜けてゆく。疲れてんのかな、俺、とデイビスは溜め息をつくしかなかったが、そこへ、デイビスー、とペグ家の窓から顔を出したカメリアが、にこにことして彼の方を見つめる。

「大丈夫? ぐったりした顔してるね。何と遊んでいたの?」

「……栗鼠が、喋った」

「はあ?」

 心底胡散臭そうに、カメリアは半目になってデイビスを見た。

「ねえ、もう畑仕事は終わったの?」

「ああ。雑草は全部抜き終わったよ」

「じゃあ、灯台に行かない? おばさんが、ケープコッドに来たなら、灯台を見ないと意味がないって」

 というわけで、天気が良く汐風の強い中を、三人で海辺に向かって歩いていった。朝からずっとペグの店にいたデイビスとカメリアにとっては、これがケープコッドの最後の観光の機会になるだろう。

 カメリアは三人のうちの先頭に立って、光の筋の交錯の中をはしゃいでいた。鼓動よりも遙かに小刻みに震える汐風を浴びながら、薄すみれ色の晴天をバックに、燃えるような鳶色の髪を靡かせているカメリア。言葉はほとんどないに等しかったが、それでも胸を浸す自由や、安堵感は、きっと同じものを分かち合っていた。

 デイビスはその後ろを、渦巻く煙草の余韻を棚引かせながら歩き続けた。暮れつつある陽の中で、ぱさついた髪を靡かせ、眩しげに切れ長の双眸を細めたまま、微かに口を窄めて吸っている姿は、奮うほど高潔に見えた。それは、カメリアもペグも同じことだった。彼らの顔面の柔らかな起伏の上を、同様の橙黄色に炙られ、ある処は影が落ち、またある処はほのかに照り映えて、少しばかり暖められて見えた。彼はただじっと、太陽を見つめていた。彼らの歩くたび、付近から水が吸われて、泥が盛りあがる。海鳥の声を吸って、デイビスの髪は、ダークブロンドに輝いて見えた。しかしもっと夕日にあかあかと輝いて見えるのは、カメリアの鳶色に流れる巻き髪や、ペグの鋭く光る眼鏡の縁だった。

 カメリアは手を伸ばして、ペグが灯台の前の階段を登るのを手伝い、自らも軽々と登っていった。足音が本当に闊達で、ふわりと塩まじりの陽の光を浴びると、一瞬、どこまでも透明な風の中に巣立ったように見える。

「うわー、綺麗!」

 灯台の下に立って、鉄柵の向こうを望み、大声で感嘆するカメリア。海の遠くで、柔らかな橙黄色の夕暉が、みずみずしい灯りを纏う。憂愁を秘めつつも、なぜか陶然と見惚れてしまう色合いで、微睡むような暮色を湛えながら、しかし光は強烈だった。太陽は、重い渋みを吐露するようなオレンジの輝きで、奇妙な滑らかさと解放の感をもって、烈しい光輝の渦を逆巻かせた。雲の翳は円やかに洪水を漏らし、地上に斜交いの陽が溢れてゆく中、海の照り返す光芒は少しばかり、彼らの肌に立体的な陰影を染み込ませた。

 カメリアは慎重に柵をすり抜け、方状節理により大量に積み上がった、灯台の足下の花崗岩の上に座り、ぱたぱたと足をばたつかせた。

「見て見て、デイビス。人魚!」

 どう考えてもそうは見えないが、彼女の頭の中では尾鰭が生えているらしい。角の取れた白灰色で、ひじきのように黒い斑の多い花崗岩にも、一面に橙色の陽が照って、元の色を失っていた。風化した岩肌に含まれる石英や長石は、彼女の手の下で、滑らかに夕日を反射している。

「落ちるなよー? 誰も助けてやれねえからな」

「うん!」

 と言いながらも、堆く積まれた花崗岩を注意深く下り始めたカメリアは、ドレスもなんのその、といった大胆さで、海面まで近づいてゆく。今に大きな水音が聞こえるんじゃないかと、デイビスははらはらしながら見守ったが、意外にも無事に下まで辿り着き、頻りに海の中を覗き込んでいた。

「あの娘は、少しお転婆だね」

「少しどころじゃないですよ。朝から晩まであの調子です」

「好きな男がそばにいて、甘えたい年頃なんだろう」

 ふと、デイビスは両眼を細め、ペグを振り向いた。まるで濃霧に微かな陽の光がかかって、その薄明るい眩しさが、彼の眼に射してきたように見えた。彼は煙草を吸ったまま、

「迷惑ですね」

とだけ言った。ペグは、その率直さに笑い出して、

「あんたはさぞかし、恋人を泣かせてきたんだろうね」

「向こうが勝手に泣き出してくるんです。でもあいつとは、そんなことにはならない」

「なぜだい?」

 ペグが問い返すと、デイビスはふと虚ろな目をして下を向いてしまい、煙草を弾くように、注意深く指で弄っていた。特に灰が溜まっているというわけではないが、これは、何かを考え込む時に行う、彼の癖だった。そのそばから、ざばっと、水面を洗う大きな音がした。海に接する崖の下で、若干髪を濡らしながら、その両手で、うねうねと悪魔のような触手を蠢かせ、大量の塩水を滴らせている軟体動物を頭上に掲げ。

「デイビスー。見て見て、タコを捕まえたよ! タコ、バーベキューして食べるー?」

「いったんそういう関係になったら、互いに始末に負えなくなるでしょう。嫉妬、不理解、独占欲、怒り。どうせ、禄でもない方向にもつれて、縁を切るに決まってる」

「……ごめん、ちょっと別のことに気を取られて、あんたの話を聞いていなかったよ」

 ほとんど同時に声が重なったにも関わらず、カメリアの方に注意を全部持っていかれたのは、絵面のインパクトというものだろう。何をどうやったら、あの巨大な生き物を素手で捕獲できるのかも分からない。

 彼も煙草を吸いながら、物も言わずに崖下のカメリアのことを見ていたようだが、やがて、

「おばさん。他の人からは、あいつはどう見えますか」

と、謎めいたことを口にした。

「なんだって?」

「カメリアは、どういう人間なんですか?」

 真正面からペグを見つめるデイビス。彼女には、その問いが、単に容姿のことを指しているのか、それとも別の何かを示しているのか、把握しかねた。しかし真摯にペグの返答を待っている眼差しは、どこか少年のように滑稽なひたむきさがあり、そしてそれを頑なに信じ込んでいる様子は、ある意味では無邪気な人間とも取れた。

「美人ではないが、まあ良い子なんじゃないか。時々、変なことをまくしたてているけどね」

 デイビスは少しの間、ペグを見ていたが、やがて視線を前に戻した。際限もない黄昏のなかで、物憂くよろめく風が、髪を吹きなぶった。威厳に溢れた遙かな天空の中で、唇に短い煙草を咥え、頭上に向かって蒼白い煙を滴らせる彼の立ち姿は、パーシーの語った通り、確かに現実離れしていて、超越的だった。冷たさと純真さを兼ね備えた、眉目麗しい顔立ちの奥底からは、何か、極めて険しい表情が射して、ともすれば見えるもの全てを憎悪しているようにも感じた。そしてその感情は、広々漠々たる光芒に甚振られ、息苦しいさなかで、無残にも死んでゆくように思われた。

 デイビスはいきなり柵から身を乗り出し、彼女に向かって、海に帰してやれよ、と声を張った。カメリアは素直に従い、赤いタコを海の底へと戻して、別れを告げるように軽く手を振っていた。それから花崗岩に掴まりながら、ゆっくりと灯台の方へと引き上げてくる。
 ペグは、幾つかの船が漂う、柔らかになみされた水平線を見つめていたが、やがて、

「可哀そうだね」

と呟いた。デイビスは黙ったまま、まるで最初から何も聞こえていなかったように、吸いさしから立ちのぼる紫煙に揉まれていた。

 まもなく、カメリアが柵のすぐそばまで登ってきた。何かひと仕事を終えたような、良い汗かいたぜ、といった満足げな笑みだった。

「私、明日から漁師としても生きてゆけそう」

「逞しすぎるだろ。ターザンみたいだな、あんた」

「たーざんってなに?」

 カメリアは花崗岩に腰掛けながら、夕陽の中でドレスの裾を絞った。タコの件で濡れてしまったのだろうが、この程度で済むのはむしろ驚異的というべきか。

「まあ、落ちなくて良かったよ。灯台の周りはまだ大丈夫だが、岩の鋭い場所もあってね。もう、二度と戻ってこれないところもあるから」

 ペグは安心したように呟き、ふと、続きを口にするまでに間を置いた。デイビスは彼女を振り返った。カメリアもころんと裏返り、花崗岩の上にうつ伏せになって、眼鏡の奥に秘められているペグの瞳を見つめた。

「ここはのどかだが、災害の多い土地でね。嵐は多いし、冬は寒さが厳しく、夏にはホオジロザメが出るし。捕鯨も危険で、何人もの船乗りや漁師が命を落としたよ」

 ぼそりと、まるでこの村を襲ってきた悲劇のすべてを見てきたかのように呟くペグ。彼女の語るところによれば、この付近には、千を超過する沈没船が海底にあるのだという。水深が浅く、岩礁も多いため、座礁の末に船から放り出されたり、磯に叩きつけられたりと、ニューヨークからボストンへと向かう船乗りたちが、何人もこの海の犠牲となった。彼らは船とともに海の深くへ散り、そして二度と帰らなかったのだ。灯台は、彼らを無事に故郷へ導く生の道しるべであると同時に、それら死した者たちへと捧げられる、静かな墓標でもあった。

「多くの人が、ここで死んだ。波に呑み込まれ、海の底に沈んでいった」

 悠々たる風に流されている海鳥を見つめ、ペグは呟いた。波の弾ける音が聞こえた。潮騒は揺さぶられ、無数の水飛沫が岩に降りかかった。

「嵐が、やってくる。そのたびにこの村の人たちは、神に祈ったものだよ。どうか、無事に明日の太陽を見つめられますように、と」

 デイビスは、彼の生きる世界とは違う時代の中で、限りなく満ちている夕日を浴びながら、はたはたと白髪の混じり始めた髪を揺らしている、沈黙に伏したペグの横顔を見つめた。


(————……ストームライダーの、原点だ)


 それは、最も素朴な形で発露した、この地上で生を営む人々の願い。

 生きること。故郷とともに生きること。
 嵐の下には、数十年をかけて愛し、この海のそばで結ばれた男女もいる。そして、かつての面影に縛られ、身動きの取れぬままに、その地に取り残された人間もいるのだと。

 ストームは、そうした些末な空の下の物語を、容赦なく呑み込んでゆく。この橙黄色も、海の波も、灯台の明るさも、何もかも巻きあげて。まるでそこにある歴史も、人間も、最初から何もなかったかのように。

 大地から飛び立ち、大地のために闘う飛行機。それは、遙かまで続く自由の天空の下で、何年、何十年と複雑な地を歩き回り、豊饒な生を営む数々の人々の人生と結びついている。そうした人々の物語を掬い、数え切れない、空の下の物語を守り、肯い、この先も続かせてゆくために、ストームライダーは生まれた。ポート・ディスカバリーの華々しい宣伝文句とは反対に、それはもっと泥臭く、深刻で、切ない発明だった。

 そうか、とデイビスは承知して、一面に瞬く閃光を振り撒く、夕日の沈みかかった深い海を見つめた。

 ストームライダーがもっと早く生まれれば、救えた命もあったんだな。
 そしてその人々は、この海の底に沈黙して眠っている。もう二度と、誰の手でも引き揚げてやれないまま。

 スコットは、そんなことを考えてみたことがあっただろうか?
 俺は、どうしてストームライダーに乗るんだろう。
 誰の想いを背負って、ストームライダーは大空を飛ぶんだろう。

 汐風の中で静かに瞑目するデイビスの胸に、いつかどこかで、誰かの唱えた、あの神秘的な言葉がよみがえってきた。



 ———そのフライヤーは、人々の想いに応える飛行機。たくさんの夢と魔法が詰まっているんだね。けれどもそれは、人々が太古から育んできたイマジネーションがなければ、けして蓄積されなかったものなんだ。



「嵐がくれば、人は祈る」

 呪文のように呟くペグ。

 爽やかな、目に見えない汐風とともに、潮騒が押し寄せて、波頭に無数の泡を浮かばせた。あたかもそれは、生命史の動きに呑まれてゆく、矮小な命たちの弾ける声に聞こえた。大海原は、ガラスの破片の如く波打つ存在たちの豊饒さの下に、深海魚すらも息を潜める、闇黒の海底を押し隠して、轟いていた。

 太陽は沈み続けた。一刻も休むことなく。一度も止まることなく。
 時が流れるにつれて影は伸びてゆき、地を侵蝕し、すべてのものを深い闇の底に沈める。潮が満ち、海水が迫り上がるのと同様に、その果てしなく光のない暗黒が、村全体をひたしてゆく。

 ニューヨークは眠らない街だ。
 けれどもケープコッドは眠る。潮騒を繰り返し寄せながら、ランプはひとつ、またひとつと焔を掻き消して、本物の夜を呼び寄せる。

 そして誰もいない時間、誰もいない沈黙が、村人たちに愛された、この赤い、切妻屋根の家にもやってくる。

 肘掛け椅子は揺れず。
 暖炉の火を掻き起こす手も見当たらず。
 時計の針の音よりも響くものは、何もない。

 仔猫のタフィーは、すでに棚の側にあるベッドに丸まり、熟睡していた。近くの水飲み用の皿に、少しばかり、新しい水を足してやる。
 軋む床板の響きは、たった一人分しか聞こえない。静かに階段を登ると、ペグは蝋燭を吹き消し、誰もいないベッドに横たわり、そして、深い深い眠りの中で、彼女だけしか触れられない夢を見た。

 夢はいつも、彼女の深い願いを映し出す。
 叶うか、叶わないかも、正しい夢が何かということも、どこか遠くへと流れ去ってゆき、ただ見えてくる世界には、彼女の想いだけが描かれてゆく。それは最も胸に秘められた絵の具で塗られた、鮮やかな夢のキャンバスだった。

 朱い、赤い、緋い、赫い、紅葉の渦が、その真っ直ぐな並木路を取り巻いていた。人は絶え、枯れ葉の躍る音以外に、物音ひとつしない。永遠に続いてゆく路と、地面に照り映えるほどに見事な赤の洪水が、目の前の視界を埋め尽くす。溺れるほど重く、鮮やかに枯れ果てて、何もかもが肥沃の祝祭に閉ざされている。ペグを引き留める者はいない。彼女は知っていた。ケープコッドは、たった今収穫期を迎え、豊穣であると。だからこそ、彼女の行方に気づく者はいない。長い旅路に出たとしても、誰も泣いたり、憂えたりせず、ただ歓喜と祝福に浮かれ騒いで、微笑んでいる。

 村は、もう何の心配もいらないのだ。彼女はずっと長い間、彼らの少しずつ成長してゆく姿を見つめてきた。転がる松ぼっくりや、森厳と響く野鼠の声や、塩まみれになった手で顔を拭う漁師たち、そのゆっくりと松林に消えてゆく伝統的な海の歌を。けれども、もう役割は果たして、自分の存在なしで生きてゆく。目の前が開けてきたように感じた。すべての重荷はなくなり、これでやっと、望んでいた方向に歩き出せる、と思った。

 ペグは、走るたびにどんどん若返って、息を切らせるという苦しいことも、何かどきどきとした少女めいた喜びに変わっていった。それは、彼に会いに行ける、と確信していたからだ。いつもそうだった。こうして、恋の中を生きていた。今も生きている。激しい感情の嵐の中で、生きている。

 やがて、懐かしい後ろ姿が見えると、彼女の胸は切り裂かれるように波打った。大きく、彼の名を呼びかける。彼は振り返った。完全にその体がこちらを向く前に、彼女は彼の胸の中に飛び込み、強く強く抱き寄せた。彼は低い声で笑って、彼女の髪を撫でていた。その暖かな手つきに、涙を浮かばせた彼女は、微かに彼の腕の中で身動ぎして、あの頃と同じように訊ねた。


 ————私のこと、好き?

 ————ああ、大好きさ。

 ————私と、結婚してくれる?

 ————ああ、ずっと一緒に暮らそう。


 夢だけは、彼女がどうにもできないあの他者の感覚、彼が、自分とは別のことを考え、別の人生を背負って、今、目の前にいるのだ、というあの抗いようのない存在感を携えていた。だからこそそれは、彼なのだ。彼女は、洪水のような孤独に終止符を打ち、ようやく安堵で微笑んだ。長い長い人生を、ひとりではなく、別の人間とともに生きたかった。それによって初めて、彼女は生きた人間へと戻れる気がした。甘い喜びも、胸の張るような嬉しさも、何もかもが込みあげて、今までの苦しさと綯い交ぜになった。日常にまみれた瑣事やまやかしを抜けて、本当のことに辿り着く、夢はいつもその最後の瞬間だった。覚えている、この魂が響くような愛おしさも、何かに感謝せざるを得ないような幸福も。彼に受け入れられ、愛されるということは、それだけの意味を孕んでいた。

 空虚の銃弾を撃ち込まれたような秋の気配を嗅ぎ取り、それに包み込まれているうちに、生きるという意味が、過去と同じように彼女の体を駆けめぐり、躍動してゆくのを感じる。

 村は秋だ。
 何も心配はいらない。
 彼との間を引き離すものは、何もない。

 泣き続ける少女のペグを、彼は優しく引き寄せ、その背中をそっと叩いた。枯れ葉の匂いがした。潮の匂いもした。彼の服は、濡れてなどいないし、冷たくもない。ただ、とくり、とくりと、あの愛おしい鼓動が胸を流れているのが聞こえる。さあ、海の向こうの国の話をしよう、と彼は言った。君に話したい物語が、たくさんあるんだ。世界は、無限の冒険に溢れて、美しい。

 紅葉は激しく騒いで、そのうちの何枚かが、地に乾いた音を立てて落ちた。風はなおも、その枯れ葉を揺すぶり、宙へと巻きあげた。頭上には、揺れ動く蒼い波紋が、最後に見える水面のように輝いていた。



……

 フライヤーはゆっくりとポート・ディスカバリーの夜景を望みながら、草を靡かせている滑らかな丘の上に着地した。庇に目を向けると、栗鼠の影が仲良く二つ、ちらと透けて見えていた。

「おやすみなさい、デイビス」

 カメリアは手を伸ばして、彼と握手した。握り交わした手を上下に振りながらも、思わずその後ろに気を取られるデイビス。彼女の後ろを、フライヤーの柱を伝って、チョロチョロと降りてゆく二匹の姿が確認できた。

「……カメリア」

「何?」

「次はいつ、こっちに来るんだ?」

 目線をぼんやりと栗鼠に奪われたまま、何気なくそう口にしたデイビスは、カメリアの顔を見て初めて、自分の言葉の内容にはっと気づいたように、しどろもどろになって弁解した。

「お、俺だって心の準備があるんだから。大変なんだよ、あんたと一日中、一緒にいるのって」

 そう言った言葉はすべて本心だったのだが、果たして彼女はきちんと納得してくれたのだろうか。ニヤニヤと笑っているカメリアの顔が鼻につく。

「また、すぐ会いに行くわ。あなたが寂しくて号泣しちゃわないうちに」

「二度とこっちに来るなッ!!」

「またね、デイビス」

 ひら、と手を振って、カメリアはふたたび、夜空に飛び立った。フライヤーの扱いにも慣れてきたようで、今はもうシートに腰掛けずに立ったままでも、庇に掴まりながら軽く地を蹴るだけで、宙に舞いあがることができた。
 デイビスはその場に佇んだまま、フライヤーが星の彼方に吸い込まれてゆくのを眺めていた。見ていると、本当に魔法のかかったようで、ピーターパンもこうやって、海賊船を軽々と操ったのかなあ、なんて思っていた。





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