見出し画像

ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」Epilogue.少年よ、大志を抱け


As sure I know a time and space
そこは今は存在しないが
In a future yet to be
未来には必ずあるはずだ
When the great storms flow like a stream
凄まじいストームが溢れんばかりに迸れば
The weather and water
その気象と水しぶきに息を呑む
Amaze you, Port Discovery
ポート・ディスカバリーよ
Let it spark every dream
あらゆる夢を輝かせてくれ

A world unbound, a new frontier
果てしなく未知の広がる世界
Nature’s fury in your hand
自然の怒りでさえその手に握り
The tempest at your command
嵐すらも思うがまま
The weather and water
気象や水しぶきに胸を高鳴らせるはずさ
Amaze you, Port Discovery
ポート・ディスカバリーよ
Let it spark every man
あらゆる人間を閃かせてくれ

Count them, new tomorrow’s soaring
ああ まっさらな明日が舞いあがり
and floating up inside a dream
夢の中を幾度天翔けたことだろう
Kids will ride the thunder
少年たちもいずれ稲妻を乗りこなす日が来る
Let them send you, let them bend you
人々を導き 変化しながら進め
Become one with your destiny
お前の運命はその先にある

The giant sea and atmosphere
壮大なる海と空
Like a power in between
その狭間に立ち続けるように
Reminder that man must explore
忘れるな 人類の使命は探究であると
Discover, discover
さあ 見つけに行こうぜ
Amazing Port Discovery
素晴らしきポート・ディスカバリーよ
Let it spark everyone
全ての人間を導いてくれ










デイビス博士Dottor Davis!」

 転がるように駆けてゆく青年が、大声でその名を呼んだ。その広々としたロタンダいっぱいに響き渡る声に、しかし、答える者はいない。トブネは慎重に階段を下りて、目の前に広がってくる、広漠とした空間を見回した。まばゆいほど降りそそいでくる照明に、一瞬、くらりと眩暈がする。そんな彼の目に飛び込んでくるのは、空闊たる天井付近へ、壁いっぱいに描かれている、美しくも不思議な八枚の絵——それらは自由な想像力とユーモアに彩られ、古今東西に受け継がれてきた、飛行の魂を伝える戯画ではあるが、滑稽と言ってよいほど真っ直ぐに大空を求めるその様子は、観る者に暖かい勇気を齎すであろう。皓々と照らし出されるそれらを、しかしどこか切ないばかりに見つめる後ろ姿はなく、彼の勤務初日、展示品のひとつひとつを説明してくれた、あの優しいテノールも、どこからも聞こえてくる気配はなかった。

「デイビス博士?」

 トブネは首を傾げて、ロタンダのすぐそばにある、薄暗い控え室を通ると、しばしば特別展の開催場所となっている、がらんとしたギャラリーを覗き込んだ。しかし、床に敷かれた柔らかな絨毯が、あらゆる音を吸うだけで、壁の絵画は何も音を立てず、鳥の彫刻は静まり返り、生きた者は誰もいない。彼は溜め息を吐くと、ふたたびロタンダを横切って、古い壁紙の貼られた廊下を通り過ぎてゆき、さらに固い靴音を反響させながら、その先に待ち構えている、博物館の受付へと進んでゆく。

「デイビス博士。どこですかー」

 トブネはふたたび、周囲を見回した。ここを訪問する者たちが最初に踏み入ることになるロビーであるそこは、こぢんまりとした部屋ではあったが、しかし重要な意義のある展示品が、壁に飾られているのだった。紅い艶のある、大きなリボンと、テープカットに使われた鋏、それにこの博物館に刻まれてきた、最も初期の歴史が、油彩画の姿をとって並べられている。トブネは、そのうちの下の方にある一枚——髷を結った、着物姿の使節団が、当時の館長であった女性と向き合い、お辞儀し合っている絵画に魅せられた。へへ、日本はファンタスティック・フライト・ミュージアムと交流を持った、最も早い国のひとつだもんねー。トブネは鼻を高くして、その意義深さにぼうっと思いを馳せる。彼自身がその瞬間に立ち会ったわけではなくとも、自分の故国が、この偉大なる歴史に刻まれているというその事実は、彼の誇りなのだった。

 受付の前に立ち並ぶ、数多くの黄金のポールが光り輝く彼方を抜けると、建物の出入り口が、光芒を射し込ませていた。ちかりと目にあたる額縁の反射を越えて、彼は外界へと、その体を滑り込ませる。夕暮れに近い光が降りそそぎ、彼の頭上には、蒼穹が満ち溢れた。風が、さやさやと流れていた。薄い歌声が、どこからか聞こえてきたような気がした。

 そこは、大理石で覆われた、天上の世界を思わせる中庭。目に染みるような石材は、驚くほど白く浮きあがり、何にも穢されてはいない。過去の人類の偉業を讃える博物館だけあって、四方の壁面には、航空史に関係する偉人たちが、どの絵も鮮やかな青空を背負いながら、遠くを仰ぎ見ていた。バルトロメウ・デ・グスマン、アルキタス、ジョージ・ケイリー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベスニエ、フランチェスコ・ラナ・デ・テルツィ、モンゴルフィエ兄弟。人間が空を飛ぶことのできなかった時代に、確かに世界を変革した、この錚々たる面々に囲まれていると、ふいにここは雲の上で、自分は天国に紛れ込んでしまったのではないか、というような錯覚に陥ってしまう。

 彼らが無限の大空に向けて捧げた想像力は、壮大に過ぎて、恐ろしくなってくることもある。真っ白な翼——その中に、どこまでも吸い込まれ、呑み込まれ、溺れてゆくような。二度と戻ってこれなくなりそうなその絶大な光輝は、勇気のある人間でなければ、真に掴むことは難しいのだろうな、と思われた。

 だが、たったひとりだけ、それができそうな者を、自分は確かに知っている。彼が相応しくないというならば、いったいこの世の誰が、その光輝に値するというのだろう。そんな思いで——トブネは静かに、熱を込めた眼差しをそそぐ。

 その人物は、中央に植えられている松の樹の下で、白い石材に腰掛け、煙草を吸いながら、きれぎれに、小さな声で異国の歌——マーチだろうか?——を口ずさんでいる。透き通るように儚く、少年のように危うくも、初老として深い知性を湛えたような情緒に包まれ、茫洋と遠くの虚空を見据えたまま、少しも動かず、何も語らない。そしてその周囲には、何か不思議に胸を突かれる静寂が満ちていた。凄味、というにはあまりに柔らかく静かで、威圧、というほど重々しさに溺れてもいない。空虚な生命の気配というか、もっとささやかで、けれども膨大な存在感がそこに流れ込んでいる。一個の人間が浴びるにはあまりにも侘びしいその佇まいは、彼自身も気づかぬままに風に流れ、持て余しているような気がした。

 こうした折りには、トブネも思わず目を奪われ、そして昂るような感情を掻き立てられる。かっ、カッコイイっ、なんて雰囲気のある人なんだろう。やっぱり館長って人はこうでなくっちゃ、と。物思いに耽るようなその表情の意味を、自分が理解できたことは一度もなかったが、それはこの人だけが、胸に秘し隠した深淵なのであろう。そして彼以外の何者も、たやすく踏み込んで良いような領域ではない。

「デイビス博士。やっと見つけましたよ」

 そう呼びかけながら駆け寄ってゆくと、ふっ、と我に返ったように歌を途切れさせて、博士は自分を振り返った。その緑色の澄んだ瞳は、たちまち若者を見つめて大きくなる。その僅かな変化の瞬間が、トブネはとても好きだった。精神が飛翔していたのではないか、というほど遠くを彷徨っていた人間が、自分の声によって、地上へと意識を戻し、対等のように会話してくれる瞬間が。高い鼻梁に、ややきつい印象を残す、切れ長の緑の眼。均整の取れた骨格を乾いた肌が取り巻き、髪は長めのロマンスグレーに染まっている。かつてはその美貌と経歴により、全世界を風靡した飛行士だったと聞いたことがあるが、今はその顔立ちの名残は留めつつも、昔年の輝きはもはや色褪せてしまっていた。しかし彼の顔から、分かち難く結びついた年月を取り去ることは不可能だった。期待、疲弊、貫禄、苦しみ、記憶、高潔さ、誇り……それらのどれもが、ひとつひとつの皺と深く噛み締めあって離れはしない。それはまるで、彼が肉体に刻み続けてきた、気の遠くなるほどに重ねた遍歴の記念碑のようでもあった。

 犬のように嬉しそうに話しかけてきたトブネへ、彼もまた微笑を返すと、天使の言語と謳われる美しいイタリア語で、流暢な警句を口にした。

「よーお、トブネ。餓鬼じゃねえんだ、博物館の中を走り回るなよ」

 先ほどまでのただならぬ寂しさが嘘のように、博士はくしゃりと明るく笑っていた。破顔すると、その表情は何とも言えずに解きほぐれて、見違えるほどに優しい印象になる。

 トスカーナに移住して十数年になるので、さすがにイディオムも発音も遜色ないが、それにしても言い回しはぞんざいと言えるまでに軽い。もっとも、母語である英語で話している際も同様に飄然とした語り口だったから、これが彼のスタイルなのかもしれない。少し真似てみようと思い立ち、家で秘かに練習したこともあったのだが、なんだかミーハーのようで、やめてしまった。そんなことをしなくても、自分は充分、他の人間よりずっと博士に近い立場にいるのだから。

「いいじゃないですか。ここは、開園ダッシュが禁止されている東京ディズニーリゾートじゃないんですよ」

「すげえメタ発言をぶち込んでくるな。今度はいったい、何で騒いでいるんだよ」

 不思議そうに尋ねる博士へ、待っていましたと言わんばかりに、トブネは新聞を差し出した。

「夕刊です」

「……ああ、そりゃどうも」

 そんなことかい、と肩を落として、博士はそれを受け取る。

「新聞にこの間の広告が掲載されましたから、見てもらおうと思って。いいインクを使っただけあって——ほら、青空がとっても綺麗じゃないですか?」

 二人は、白い石の上に開かれた新聞へ、吸い込まれるように目を落とした。紙面いっぱいに広がる、少しセピア色がかった、まばゆい黄昏の光が滲む青空——それはちょうど、今頭上に広がっている空の色と同じだった。そしてそこには、地に立つ人々の眼差しを天空へと誘なう、一羽の美しい隼が描かれていた。


『カメリア・ファルコ 没後百周年記念展

 メディテレーニアン・ハーバーで活躍した稀代の天才発明家、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコがこの世から旅立って、まもなく百年の歳月が経とうとしています。

 ファルコは、その最大の作品ドリームフライヤーによって、航空史に革命的な影響を与え、深い人類愛と世界平和への想いを込めて、数多くの発明品を遺しました。歴史に翻弄されながらも空を愛し、魂の自由を信じ続けた彼女の功績は、今なお、現代の飛行士たちを勇気づける礎として、燦然と光り輝いています。

 空を飛ぶこと、それは人類が抱く、普遍にして至高の夢です。ファルコが叶えようとしたのは、誰の上にも広がる青空を通じて、世界中の人々が夢を追い求め、平和に生きてゆくことのできる未来でした。彼女が人生を通して託した空の上の物語を、肖像画や思い出の品々、研究資料を通して振り返ります。

ファンタスティック・フライト・ミュージアム九代目館長 ドクター・デイビス(元ストームライダーパイロット、現S.E.A.終身会員、航空宇宙工学博士)』


 博士はしばらく、新聞に印刷されている、黄昏がかった懐かしい色の青空を眩しそうに見つめていたが、やがて目を外して、よかったらその見開き、持っていっていいぞ、俺の手許にあっても仕方ねえからな、と言った。

「あ。よかったあ。そう言ってくれなかったら僕、ゴミ箱から漁るところでした」

 にっこーーーと輝く笑顔で語るトブネに、デイビスは引き攣った笑いを返しつつ、携帯灰皿で煙草の火を揉み消した。いつもながら、トブネの抱く身も蓋もない情熱には感心する。彼のそれは蒐集癖にそそがれていて、何か自分で新しいものを創ろう、という方にはさっぱり興味がないようだった。良く捉えれば、この博物館の初代館長が抱いていたそれと似ているのかもしれない——が、その情熱の傾け方には、随分な偏りがあると言える。

 トブネは頬擦りせんばかりに新聞を抱きしめ、ぱたぱたと見えない翼を背にはためかせながら、恍惚として呟いた。

「いいなあ、僕感動しちゃうなあ。歴代の館長の中でも、カメリア・ファルコの経歴が、一番泣けるんですよ。あの時代、天下のナポレオンと対立して以来、迫害を受ける中でもずっと孤独に発明を続けて、ようやく五十歳で、S.E.A.の終身会員として迎えられた場で演説したんですよ。

 その時の彼女のセリフを知っています? 『人類が真の自由に辿り着くための階として、大空は我々をひとつの情熱のもとに繋げ、永遠の高みへ導く。何者も、時空を超越して形成される我々の連帯を妨げることはできない。明日を生きる人々へと運命を切り開くために、我々は今日へと眼醒めるのである』。格好良いなあ、最高ですよ、カメリアは」

「おー、凄い凄い」

「死の床に伏せった彼女の、最期に漏らした言葉が、また泣けるんですよね。『役目は果たした。あとは未来を待つだけ』。かーっ。かーっ、じゃないですか、これ。
 きっと臨終の間際には、遠い未来の人々が、自由に空を飛んでいる姿を思い描いていたんだろうなあ」

「はいはい。格好良いねー」

「聞いてるんですか、人の話を? カメリア・ファルコはねえ——」

「お前、その話をもう二十回も三十回も俺にしてるだろっ!!」

 堪りかねて叫ぶデイビス博士。二人が中庭を背に、ロビーをくぐり抜けた後でも、トブネはまだくどくどと話し続けた。

「何十回語っても、カメリアの素晴らしさは尽きることがありません。僕の一族はみんな、カメリアの大ファンなんですから」

「はいはい。凄い凄い」

「ねえ、これ、デイビス博士がご自分の手で書かれた紹介文なんでしょう。口ではそんな冷たく言ったりしてるけど、デイビス博士も本当は、カメリア・ファルコのことが大好きだったんですよね。僕、切り取って自室に飾っちゃおうかなあ。これはデイビス博士からカメリア・ファルコへの、愛に満ちたファンレターのようなものですからね」

 休みなく語られるトブネからの言葉に、デイビスはうんざりとした様子で振り返ると、くしゃくしゃと髪を掻き回した。

「なーに言ってんだ、そんなのは全部儲けのためだよ、儲け。今年の年末はポート・ディスカバリーに帰省して、ありったけの金を空中レースに賭けるんだよ。カメリアは常設展の中でも人気があるから、賭け金なんか簡単に集められるだろ」

「うわぁ、さすが博士、去年の大敗から何も反省しちゃいませんね。凄いなあ、格好いいなあ」

 このように、トブネは何でもすぐに感激するという奇癖があった。何か間違った方向に突っ走っているとしか思えない、圧倒的ポジティブ人間。好きな物事については毎日毎日称賛の嵐で、感情の表現方法も、それはそれは著しいものであった。ある深夜、徹夜をしていたデイビスが博物館を歩いていると、カメリアの肖像画の前ではらはらと涙を流しているトブネを発見した際には、ギョッとして駆け寄り、慌てて懐中電灯の光を向けて、彼を叱り飛ばした。

「馬鹿っ、お前、こんなところで何してんだよ。まさか警備員の目を掻い潜って、ここまで来たのか!?」

「カメリアの夢を見ちゃって、いてもたってもいられなかったんですよー。『日本からはるばる会いに来てくれてありがとう、トブネ君。どうか、デイビス館長を支えてあげてね』って、僕に言ってくれたんです」

「夢の内容はどうでもいい。不法侵入だろーが。帰れ!」

「嫌です!」

「はぁ?」

「僕は今夜、ここで一晩明かすって決めました。心ゆくまで、彼女と向かい合うんです。もう少しで、カメリアの魂と会話できるような気がします!」

(……へ、変態だ、こいつ)

 ぽかーんと、呆気に取られるデイビス。雇用面接時には、カメリアの思いを熱く語るトブネに圧を感じ、雇わざるを得なかったが、その安直な選択を、彼はすぐさま後悔することになる。とにかく涙脆いのである。

 アレッタとの交流を描いた絵画を目にしては潤み、父親との文通を読んでは嗚咽をこぼし、伝記が仲間と抱き合うシーンに差し掛かればハンカチを絞り、彼女の遺髪を見ては号泣し。何をどうやったらそこまで入れ込めるんだ、と困惑すること多数。いつかカメリアの遺留品が無くなってるんじゃねえか、と危ぶんで、閉館前にはこっそり不足がないかチェックしている。

 テラスに展示されているドリームフライヤーに至っては、興奮して、黄色い声を上げて、その場で失神した。マジでこんな人間がいたのかよ、とデイビスは自分の目を疑った。そのままトブネは、酸欠のあまり、救急車で運ばれていった。付き添いで彼を見守っていたデイビスは、ベッドで譫言のようにカメリア、カメリアと呟くトブネの姿に、動揺を隠せない。故人だから良いものの、もしも彼女が生者であったなら、完全にストーカーである。

 まあ、よく働いてくれるからいっか。そう自分を納得させることにする。これほどの情熱を傾けているのだ、学芸員としてカメリアの項を説明するたびに、イタコよろしく取り憑かれたような語り口には、涙を誘われる客が続出だった。常設展のカメリアの人気がうなぎ登りなのも、そのせいだったりするのかもしれない。次回の特別展では、相当の観客数が見込まれるはずで、それを見越したデイビスは、異例の早さで宣伝広告を打ったのだった。

 特別展で何を展示するかを検討し、その貸与を依頼するのは、館長の重要な仕事であった。生前、カメリアが飛行して訪れた数々の地域とは、非常に友好的な関係を続けており、あたかも植物の種を埋めたかの如く、歴史的交流の始まりが芽吹いて、今は暖かな花を開かせていた。まさしく、必要は発明の母というべきか、ドリームフライヤーで国境を超え、多くの苦難に悩まされる人々と出会うことで、彼女のイマジネーションは爆発したらしい。各国で残してきた発明品は、レオナルド・ダ・ヴィンチはおろか、トーマス・エジソンのそれさえも優に超え、故国イタリアで開発した数の数百倍をくだらない。自動収穫機。羊を一列に並べる笛。簡易救急箱。目的地に必ず着陸する気球。太陽光によるスパゲティ茹で機など、思わず笑ってしまうものもあったが、時に爆弾処理用の機械や、葬送曲を組み込んだ子ども用のオルゴールなど、ふと彼女の置かれていた状況を察せざるを得ないものもある。その他にも、ともに畑の土壌を改善したり、水路を整備したり、子どもをドリームフライヤーに乗せたりと、文化や科学技術の交換は枚挙に暇がなく、生涯に渡って途上国の発展を支援し続けたカメリア・ファルコは、現地の人間なら誰もがその名を知っていて、石碑や博物館、小さな記念館が建てられている場所も少なくない。やがて襲いかかる貧困や革命、世界大戦といった悲劇的な試練の中でも、それらの足跡は宝石のように残り続け、この大地に息衝く人々を鼓舞したのである。今回の特別展を前にして、そうした国々を回り、遺留品の貸与を交渉する必要があった。ケニア、トルコ、ロシア、モンゴル、インド、タイ、日本、オーストラリア、アルゼンチン……まさにカメリアの足跡を辿る世界旅行である。彼の行なっている研究はしばらく打ち止めだろうし、開発メンバーとも予定を合わせなくてはならない。まーた忙しくなるなあ、とぽきぽき首の骨を鳴らしながら、デイビスは月単位のスケジュールを思い描き、そして胸に込みあげる懐かしい感情に気づいて、ふっと微笑を浮かばせた。

 そんなことは露知らず、嬉しそうに見開きの広告を畳んだトブネは、大切にそれを懐へ仕舞った。

「はぁ。とりあえず、代々空田家に伝わる神棚に飾っておこう。神棚にカメリア、なんちゃって」

「ちっとも上手くねえよ、それ」

 デイビスはひとつ溜め息を吐いて、この博物館とも関係の深い、トブネ一族の家系図をふと思い出そうとした。

「お前の一族って、やたら覚えにくい名前なんだよな。父親は、空田飛造(そらだ とぶぞう)だったっけ?」

「いえいえ、空田飛造は、僕の曽祖父でして。その息子の、空田飛昰(そらだ とぶぜ)の次女として、空田飛和与(そらだ とぶわよ)が生まれ、さらにそこから僕、空田飛音(そらだ とぶね)が誕生したんです」

「ああ、そうか。ジャパニーズの名前って、慣れねえなぁ」

 ややこしい家系図を頭の中に浮かべながら、うーんと唸るデイビス。単に紛らわしい一族であるだけとも言えるが、日本語はせいぜい挨拶くらいしか知らないデイビスには、そのことがよく分からない。ま、いいや。ウラヤスにある、オリエンタルランドなる民間企業との交渉の際には、トブネも連れて行こう。日本語を話せるスタッフは、S.E.A.では貴重な存在なのだから。

「でも、僕は幸せだなあ、こんなに大々的にカメリアの記念展を開催してもらえる時代に立ち会えて。カメリアが生きていたら、デイビス博士のことを、さぞかし誇りに思ったでしょうね」

「そうかあ? あんまり大したことはしてねえけどな」

「していますよ! だって、こんなに輝かしい肩書きを持っている人、他に見たことないですもん。S.E.A.の終身会員であり、ポート・ディスカバリー史上最高のパイロットであり、次世代飛行機開発の最前線で活躍している天才科学者。次々と革新的な飛行機を世に送り出して、技術は大幅に刷新され、フライトのコストは劇的に低下。デイビス博士の登場によって、世界はまさしく、空の時代になりました。

 カメリアをヒロインとするなら、さしずめ、デイビス博士は航空史のヒーローですね。ま、この博物館の館長に選ばれるのも、当然だなー。デイビス博士が亡くなった時には、僕たちS.E.A.が総出をあげて、このミュージアムで特別展を開催しますからね」

「アホッ、いくら年老いてきたからって、てめえの雇用主に縁起でもねえことを言うんじゃねえよ!」

「あそこのあたりに写真を飾るのがいいかなあ。僕のデイビス博士フォルダから、一番良い写真を持ってこよう。やっぱり、S.E.A.の就任演説の時のかなあ。あー、やばー、若い頃の博士、カッコイイ! 映画俳優みたいじゃないですかー」

「……おい。聞けって、人の話を」

 こいつ、誰かを彷彿とさせるんだよなー。興奮したら脳みそがカラッポになって、人の話を素通りするとこなんかそっくりだ、とデイビスは頭を抱えた。まさかこの歳になってまで、こういう奴に悩まされるとは思っていなかったけど……ツッコミだらけの生活は、初老の身には地味にこたえる。

「そもそも、お前、学芸員の仕事はどうしたんだ?」

「今日、全然人がこないんですもん、やることなんてないんですよ。やっぱり特別展の合間は、閑古鳥が鳴いちゃいますよね」

「あーそうか、悪いな、暇させて。それじゃ、見回りいくか、見回り」

「わーい、デイビス博士とお散歩ですね。楽しいなあ」

 犬か? 犬なのかコイツは?
 どっと疲れを覚えながら、デイビスはロタンダを通り、特別展用の部屋を抜け、テラスへと向かった。博物館にしては異様な広さを誇るそのテラスは、しかし最も想像力に満ちて、今にも空へと舞いあがれそうな、魂の憧憬を露わにする場所であった。

 扉を開けた瞬間から、心が、風の中に吹き飛ばされそうだった。眦が切り裂かれたように、とめどない陽射しが溢れて、脳の隅々までもを照らし出す。コツリ、と靴音を立ててそのバルコニーへ踏み出すと、いよいよ眩しさは度を超えて、彼の視野の中から影を消失させてゆく。そこからは、メディテレーニアン・ハーバーのすべてが見晴るかせた。全身の溺れるような薄明るさの中に、太陽が燃えていた。あふれる陽射しのまばゆさは和らいで、僅かに薄蒼と金色の入り混じる、遠い虚空の色が、今は辺りに滲むばかり。視界の底に夢のように映り込んでくるのは、この博物館の正門から、崩れかかった古代ローマの遺跡の柱、丘の斜面を埋め尽くすように広がる花畑——出荷のために丁寧に植えられた、葡萄蔓の通り沿いの華やかな花壇もあれば、自然のポピーやラッパズイセンが風に揺れ、時々、地元の子供たちが遊んでいる草原もある——そこを長い階段で下ると、やがてザンビーニ・ブラザーズ・リストランテのテラス席が左手側に見え、さらに反対側には、黄金に煌めく湾が、膨大な反射を伴ってあざやいでいた。薨るような橙黄色の薄い雲が、イカロスの翼のように半天を支配し、その微かな翳は海に落ちて、光芒と、雄壮な波頭とを一面に溶かしていた。どんなに愛しても、海の鴻大さはけして尽きることがなかった。汐風は、この世界のあまりに大きすぎる虚無を満たして、時々、震えの走るほどに陽射しと戯れた。量り知れぬ大海原の波の光を、ゴンドラや、蒸気船が小さく陰らせている。あらゆる人々の命が、このくっきりと浮き立つ景色の中に現れ、そして消えてゆく——そんな永遠の運動が、この世を包み込んでいた。

 ふわりと、海の香りが漂った。
 まるで、たった先ほどまで、誰かが不思議な夢を見ていたような。ここにくると、そんな苦しいほどの光が、真っ直ぐに胸の中へと射してくる。デイビスはテラスの手すりに寄りかかると、背後を振り返り、この美しい港町を望むようにテラスに置かれている、九機のドリームフライヤーを見た。発明家は、この飛行機を酷愛していたようで、何度もなく改良を重ねながら、七十を超える地域で創造し、現地の住民たちに託していた。不思議なことに、動力に関する痕跡はどこにも残っていないにせよ、それは素晴らしい高度まで飛行し、子どもたちを喜ばせたのだ、という言い伝えが必ず残っている。しかし例えば、紛争が終わった、他の輸送経路ができたなどの理由で役目を終えると、どの土地においても、ドリームフライヤーはさっぱり飛ばなくなってしまう、ということもまた、まことしやかに語り継がれていた。そうして飛行機としての命を終えたひとつひとつを、S.E.A.は長い時間をかけて丁寧に収集し、この博物館で補修を行った後で、保管した。このテラスで陽の光に照らされているどの飛行機もが、同じドリームフライヤーではあったが、見てきた光景も、浴びてきた風も、そして何より、乗せてきた人々の人生も、それぞれに違うはずだった。

 トブネは、そんなドリームフライヤーの周りをくるくると動き回って、まばゆい夕光の中で影を引きつつ、状態を確認していた。自己の長い睫毛を光へと透かしながら、その嬉しそうな若者の顔を、デイビスが静かに見つめる。神が、子を見守るかのような眼差しであった。

「あ、見てください。ここの塗装、剥げてるー」

「ああ、こりゃ子どもが、手持ち無沙汰でいじったんだろうな。ま、ゲストの手を傷つける心配はないか」

「ねえ、ゲストたちを自由にドリームフライヤーに乗せちゃってもいいんですか? これって、なかなかに貴重な展示品だと思うんですが」

「いいんだよ、やっぱり空を見ながら乗ってみないと、ゲストはワクワクしないだろ? これは藝術作品じゃない、人を乗せるための飛行機なんだからさ。それに、ドリームフライヤーは誰でも自由に乗れるように、ってのが、カメリアからの遺言だったわけだし」

「はーい、僕知ってます、それ! 『このドリームフライヤーは、身分、国籍、宗教、財産、人種、年齢、思想、肉体、そしてその胸に秘めたすべての悩みに関係なく、人々を風の中に舞いあがらせる。この飛行機に必要なのは、飛行への飽くなき情熱と、世界平和への願い、それのみである』」

「……さすが、カメリア・ギークは違うなー」

 おざなりに拍手してやりながら、デイビスは若干の恐怖を覚えつつ賞賛した。

「ま、乗るのは誰でもできるが、飛べるかどうかとなると、話は別だがな。イマジネーションがない人間には、ドリームフライヤーは動かせねえ」

「へ? そうなんですか? でも僕、乗っても、何も起こらないんですけど」

「だからまあ、それは、そういうことなんじゃないか」

 振り向くと、トブネがあまりに泣きそうな顔をしていたので、慌ててハンカチを取り出して、ずびずびと鼻を啜らせてやる。

「分かった、分かった。今俺が開発中の飛行機ができあがったら、一番にお前を乗せてやるよ、な? それでいいだろ?」

「デ、デイビス博士ぇ……」

「ほら、約束だ。だからもう、そんなことで泣くなって」

 トブネは、ウルウルと瞳を潤ませ、思いきり目の前の館長の首にかじりつく。

「わーん。僕もう一生、デイビス博士についていきますぅ。カメリアなんて、どうでもいいやい」

 こ、この浮気者が、と震えるデイビスの下で、トブネはさめざめと溢れる涙を、勝手に彼のシャツで拭っていた。

「ううっ、デイビス博士のいる時代に生まれてきてよかったー。僕がご先祖様から授かった、最大の幸運ですよう」

「節操のない奴……」

「えっ、僕は本気です! 生きている人間の中では、デイビス博士ほど尊敬に値する人はいません。死んだ人間も含めると、カメリアとデイビス博士の二人が、僕の中のツートップなんです」

「俺、そんなに凄い人間じゃないけどなあ。何か勘違いしているんじゃないか?」

「いえ、誰に訊いたとしても、デイビス博士は歴史的偉人だって答えます。それに——」

「それに?」

「僕の憧れは、僕だけが知っていればいいんですよ」

 にこっと微笑むトブネに、デイビスは本気で首を傾げていたが、それで良いのだと思った。自分と博士は違う。博士はどこまでも前へと進める人だから、不必要に干渉することで、その道を阻むようなことがあってはならない——それが彼の示した敬意であり、誠実さの証なのだった。

(それでいいよね。僕は、博士が前に進むのを、誰よりも間近で見ていたいだけなんだから)

 この思いを、彼に知ってもらうことはなくとも——自分は、それで充分だ。すでに、デイビスからは測り知れぬものを受け取っているのだから。

 今よりも二十年近くも昔、トブネは、記憶の底に残っているデイビスの演説を、一度たりとも忘れたりはしなかった。あれは、彼がまだ年少だった頃。何気なく見つめたホログラムの中で、一人のハンサムな中年男性がマイクに囲まれ、おびただしいフラッシュを焚かれているところが映っていた。押し寄せるマスコミの波は、耳をつんざくほどにかまびすしい。感想をお聞かせください、自分はこの栄誉に値すると思いますか、誰にこの喜びを伝えたいですか、と。けれども彼は、それらの名声には関心がないようだった。どこか浮世離れした雰囲気を纏わせたその男は、聞こえぬ声に耳を傾け、その緑色の眼差しを、遠い黄昏がかった、美しい空の上に彷徨わせていた。

 そして、歴史に残る彼の名演説。

 S.E.A.の終身会員に迎えられて、大勢の人間が囲む壇上に登った時、全世界に中継されている、途方もない同時代人たちの注目に臆することなく、群衆たちを見つめ返し、その頬に伝い落ちる一縷の涙を光らせながら、デイビスはこう語った。今日、遠い昔から私に夢を授けてくれた人と同じ場所へ、ようやく辿り着くことができた。けれども、これが始まりだ。未来は絶えず打ち寄せる波のように果てがなく、例え古い波が砕け、新しい光に呑まれる運命であろうと、明日はまた、自分だけの未知の冒険を始めなければならない。

 未知とは何だろうか? それは恐ろしくて、足の竦むものだ。傷つけやすくて、傷つけられやすくて、理解できない鼓動に震えているものだ。そして、未知の前に臨む者は、必ず、自らの人生の意義を問われる。お前は、何のために生きるのだ。何を夢見て、この先に進みたいと願うのだと。長年、私はこの問いの前に立ちすくみ、足を踏み出すことができなかった。けれども多くの人々が私の精神を支え、同じ未来に向かって進んでいることに気づいた時、私は、この恐怖すらも乗り越えなければならないことを知った。なぜなら、私を大空に連れ出してくれるのは、私を励まし続けてくれる彼らではなく、それを受けてここに立つ、私自身なのだと悟ったからだ。

 世界の変革を望む、と口にすると、必ず誰かが笑い、誰かが批判する。しかしできることは、ただ信じて、自らの正義を検分し続け、努力することだけだ。私の願いは、過去の苦しみの中から手渡された希望を育み、吹き荒れる嵐の手からその情熱を守り抜き、いずれ咲き誇る世界の美しさを、まだ見ぬ未来へと伝え、世界平和の礎となることだ。その偉大なる系譜の一助となり、自らの功績によって、若者たちを勇気づけられることを誇りに思う、と。

 その言葉は、トブネの胸に、まばゆいばかりの衝撃を与えた。泡立つ驚愕に包み込まれたような——それでいて、世界で一番優しい風が吹き抜けるような。これほど真っ直ぐで、影も曇りもない気高い人間が生きているのだ、という震撼。そして演説が終わる直前、カメラに気づいた彼が、ふと目線をあげ、唇だけで挑戦的に微笑んでみせたあの顔が忘れられない。一瞬で、全部心を持っていかれた。あの人に恥じないように生きなくては、と胸に誓い、そしてその瞬間に、その後の進路が決まったのだ。学芸員の資格を取ってイタリアに渡り、博物館で初めて会った時は、震えるような感動を味わった。噂に違わぬ風格。あの演説の時と同じ、鷹のように鋭くも、どこか優しい緑の眼。緊張で頭が真っ白になり、とにかくカメリア・ファルコのことだけ熱弁を振るったのを覚えている。デイビスは呆れていたが、それでも笑って、分かるぜ、あいつ、本当に格好良い奴だったよな。よし、お前も来月から、俺たちと一緒に頑張ろうぜ、と彼の手を力強く握り締めた。

 デイビスには、最初から、不思議な距離感があった。老若男女に分け隔てなく接し、偉人とは思えない雑な若者言葉で話す一方で、誰の手も届かない無言の情熱を秘し隠し、孤高の雰囲気をも纏っていた。スパニエル犬のように後をついて歩くトブネを鬱陶しがりつつも、けして冷たく遠ざけたりはせず、ふとしたときには、血の繋がらない父親のような暖かい眼差しで見守っている。博物館の館長職も、開発研究が忙しい片手間に請け負った仕事のようでいて、本当はどの学芸員よりも航空史に通暁し、血の滲むような研鑽の果てにその地位を継いだのだということがよく分かる。学者としても、一人の人間としても、彼が人生のうちに払ってきた努力は測り知れず、こんな素晴らしい人が、この世界にはいるんだ、といつもトブネを驚嘆させるほどだった。

 あの人は優しい、偉大な人だ、と誰もが口々に呟く意味が、トブネにも理解できる。彼については、科学者としての一面しか見たことがなかったが、かつてストームライダーと呼ばれる飛行機の現役パイロットだった頃には、若干二十六歳にしてミッションの最高指揮官を務め、嵐の猛威から故郷を守り抜いた経験があるという。かっ、かっけーっ、とトブネは滾った。僅か十歳でナポレオン・ボナパルトと対立したカメリアの信念にも、いやいや格好良すぎるだろ、と感涙を流したものだが、彼の経歴はそれに匹敵するくらいのインパクトがあった。何よりデイビスは、そうした自らの輝かしい功績にもかかわらず、他人を尊重する誠実さに溢れ、その物腰は慈愛に満ちて、けして軽んじることがなかった。いつもドジばかり犯して叱咤されることの多かったトブネは、彼の真摯に接してくれる態度に、救われるものがあったのだ。

 ああ、ドクター・デイビス、あなたは僕のヒーローです。
 いつかあなたのお役に立てるよう、僕も毎日のお仕事を頑張りたいです。

 心の中でそう締めくくり、ぱたぱたと見えぬ尻尾を振るトブネ。そういった感情の分かりやすさは、某故人に似通っていると言えなくもないが、それはまた別の話だろう。

 デイビスはぼんやりとテラスに手すりに凭れながら、世界を見下ろしていた。トブネも隣に並んで、彼の眼差しを辿った。尊敬する博士の見るものは、なんでもかんでも目にしたかった。けぶるように斜めの陽射しは、憂いを含んで立ち込めていて、立体的な光と影を交錯させ、薄い香辛料と、微かな草いきれと、清々しい海の香りを嗅がせていた。

 柔らかな杏色の雲が棚引き、フレスコ画の如く神々しい空に、数条の陽の光の帯が茫漠として射していた。夕焼けに照らし出された博物館の玄関口は、何もかもが真っ白に洗い流されたよう、この世の哀しいことも、醜いことも何もなくて、ただすべては解き放たれ、自由なのだということを物語っているようだった。そして印象画の如く、様々な青と向日葵色のステンドグラスを配した門へと向かって、一羽のハヤブサを模した大きな彫像は、その純白の石に滑らかな翼を刻みつけながら、かつて主人とともに出迎えた多くの客人を、今はひとりで、静かに迎え入れ続けていた。

「アレッタに関して残されているエピソードは、ご存知ですか? カメリアは、自分の人生最愛のパートナーを、最期の瞬間まで撫でていて、先に行ってて、と語りかけると、力の入らない腕で、ゆっくりと窓をこじ開けた。アレッタは、彼女の魂が天に飛び立つのを見届けた後で、看護師が不意に気づいた時には、いつのまにか姿を消していたって」

「ふうん」

「あの後、一体どこに行ったんだろう?」

「さあな。主人が生涯を全うしたのを見て、本来の生きる世界に帰ったんじゃないか? あいつは元々エジプトにいた鳥なわけだし、ようやく自らの故郷に戻る時がきたんだろう。

 ……ああ、そういえば、特別展のために、エジプトにも寄らないといけねえな」

「S.E.A.が、最高の飛行機を用意します。ファーストクラスです。機内食も、美食家が唸るほどの出来栄えですよ」

「べっつにいいよー。俺はビジネスでも、エコノミーでも」

「欲がないですねー。今回の特別展は、S.E.A.も肝入りの企画なんです。予算は潤沢にあるんで、バンバン使ってもらえたら。そして、全世界から観客を集めて、カメリア・ファルコの素晴らしい生涯を、未来永劫語り継いでゆきましょう!」

 高く拳を突き上げ、彫刻のようにガッツポーズを取るトブネへ、あー、はいはい、と受け流しながらデイビスは答える。

 風が流れた。海上を飛翔する鴎の声が夕暮れに響き、灯りを点す時間を待ち望むハーバーを包み込む。トブネは、不思議なようにそのハヤブサの像を見下ろして、逸れてしまった最初の話題に戻す。

「僕、前から思っていたんですけど、アレッタの青い目の縁取りって、エジプト神話の天空神ホルスにそっくりなんですよね。それに初代館長がエジプト遠征で拾ってきたわけなので、少なくとも八十年近くは生きたわけですよ。めちゃくちゃ長生きだと思いません?

 それで、もしかしたら……もしかしたらって」

 デイビスは、ふと顔をあげて、太陽を見た。テラスの向こう側に広がる、遠大な虚空。無限の砂の香りとともに、その中を航行してゆく、太陽の船の影が、一瞬、垣間見えたような気がした。それは、死者たちを乗せ、冥界の神オシリスの前へと連れてゆき、その者に永遠の命を授けさせる、神々の中で最も偉大なる王者である。そして、ミュージアムのロタンダに描かれた一枚の絵と、その中央に佇むオベリスクの存在がふと思い起こされ、デイビスは少しの間沈黙していたが、やがて肩を揺らして快活に笑い飛ばした。

「ははっ、ただの偶然だろー? お前はなんでも、カメリアを神格化する方向に繋げたがるよなあ」

「わ、笑わないでくださいよ。意外にも、科学と宗教は密接な関係にあるんですから」

「俺はちょっと、そういうのは詳しくなくてなあ。ま、夢があるんでねえの? いーじゃん。小説一本書けそうだ」

 ニヤニヤと笑みを向けるデイビスに、トブネはむっと口を尖らせる。

「あーっ、博士ったら、僕を馬鹿にしていますね?」

「馬鹿にしたりなんかしねえよ。ま、もう本物のアレッタもここにはいない以上、真相は闇の中、ってとこだな」

 デイビスは両手を広げて、お手あげ、というポーズを取った。

「結局、謎は謎のままかあ。これだけ色々考えたのに、本当にただの鳥だったら、拍子抜けですよねえ」

「良いんだよ、色々と夢が広がっただけ、面白いじゃん。こういう良く分かんないことに考察を重ねるのが、BGSオタってやつだよ」

「どちらかと言うと、僕はカメリア一本に絞ったキャラオタですけどね」

「……まあ、好きの形は、それぞれってことで」

 適当にお茶を濁しながら、しっかし、トブネの想像力には恐れ入ったと、デイビスは心中、ひそかに驚いていた。ま、イマジネーションを称揚するこの博物館の学芸員は、そのくらいでちょうどいいのかもしれないな。好きなものには好きなだけ、自分の中の熱を傾けりゃ良い。

 そうして、しばしば奇抜なことをしでかすとはいえ、何よりも自分の愛するものに情熱を燃やしている青年、トブネを見つめながら——デイビスは小さく肩を揺らして、大空の中で微笑んだ。


「でもアレッタは————確かにここに、ほんの少しの夢と魔法を残してくれたよ。

 だからこそ、空の上の物語は終わらない。俺たちは今もこの博物館で、無限のイマジネーションに心を委ねることができるのさ」



 いつもの態度とは似つかわしくない、どこか詩情を含んだその台詞に、トブネは不審げに眉根を寄せた。

「なんですか、それ。昨日の『夢の通り道』のキャッチコピーですか?」

「……あ。この時代まで続いてるんだな、その宣伝番組」

 改めて、ディズニーってすげー。
 スポンサーに一応の縁があるデイビスは、心の中で白旗をあげていた。







 ———あなたの夢は何でしょうか、デイビス博士?

 生きてゆく上で、何度もそう問われた。多くのフラッシュとマイク。もはや人生の半分以上の年月を、そうした注目を浴びながら過ごしてきた。

 ———そうですね、まずは現状の航空機の抜本的な改良。よりクリーンで、より素晴らしい空の旅を提供できるよう、根幹から見直す必要があります。私はかつて、ストームライダーという飛行機のパイロットでもありましたから、荒天の中でフライトすることには慣れています。その経験を、航空機の設計にも活かすこと。幸い、私の勤めていたCWCには、先人たちが残してくれたノウハウが蓄積されています。当時革新的だった機体の設計、さまざまな気象データ、フライトの記録、流体力学とその反応の関係性……それらとAIを組み合わせれば、飛行機自体がひとつの生命体となって浮遊感をもたらし、ゲストが最も空を飛ぶ感覚に近いような、胸の躍るフライト体験を提供してくれるでしょう。現在、ドクター・スコット率いるチームや、ミステリアス・アイランドとともに、共同で研究を進めているところです。

 それから、各人が自由に空を飛べることのできるマシーンの開発。現在、空を飛ぶには高価な航空券を取って、空港に赴いて、セキュリティ・チェックをして……と、たくさんの手続きを経る必要があります。でも、とても面倒だと思いませんか? それにお金も時間もかかるので、貧困の状況下では難しいことですよね。私はもっと気軽に、それこそ紙飛行機を飛ばすような感覚で、憧れの空に舞いあがるSoaring瞬間を、世界中のたくさんの子どもたちに体験させてあげたいと考えています。
 何もそれが、私と同じように、空を目指すきっかけにならなくても良いのです。けれどもたった一度でいい、彼らの壮大な冒険とイマジネーションの海に、心から埋没して、全身浸り切る瞬間を与えたい。それは、今後続く険しい苦難の中でも、彼らを未来へと導く灯火になるかもしれません。空を飛ぶことが、何の役にも立たないとお思いですか? いいえ、それは全生涯を照らし続ける、素晴らしい体験になりうるはずです。たった一瞬で、人はたちまち魔法にかかり、同じ時代に生まれた人々とともに、無限の夢を語り合うことができるのですから。


 一人の男の夢ワン・マンズ・ドリーム


 彼の人生はすべて、人類を繋げ、精神を飛翔させることに捧げられているのだと、その対話は結ばれていた。それは確かに、彼の意志が選び取り、歩んできた道だった。人類貢献——言葉にすれば呆気なくて、芝居がかったように聞こえるが、その内容はもっと些末で、花の種を毎日植え続けるようなものだ。自分に捧げられる拍手も、夢見るような瞳も、熱狂も、その積み重ねがなければ、きっと与えられはしなかった。

 英雄と称されたこともあった。
 天才と崇められたこともあった。

 しかし、欲しいのは名声ではない。そのような讃美の裏に秘められた、人々の夢見る想い。自分は、それに応えたい。

 彼が研究に没頭する間にも、世界は前進する足をゆるめなかった。信じられないことが実現されるとともに、新たな問題が見出されてくる。しかし、その絶え間ない葛藤の中で、確かに争いは消え、武力を放棄する国は増えてゆき、少しずつ平和に近づいていっているのだろう。彼女といつも落ち合っていた岬に植えた、あのチェッリーノから受け継いだ松ぼっくりは、数十年の時を経て育ち、今も地球の裏側で、ポート・ディスカバリーの風を浴びているはずだ。歴代の館長が幼少期に登ったとされる松の木もまた、このメディテレーニアン・ハーバーに揺れている。

 デイビスは改めて、博物館をゆっくりと見回した。

 物語は、すべて語られるわけではない。
 ここで、たくさんの涙を呑み込んできた。実験がうまくいかず、すべての計画が白紙に戻ったことも、予算が足りずに敵対者に頭を下げたことも、別の機関に研究者を引き抜かれたこともある。立ち塞がる障害はどれも泥臭く、冷酷な現実を突きつけてくるものばかりで、なぜこんなことになってしまったのかと、何度も悔しさに歯噛みし、完膚なきまでに打ちのめされた。

 しかし、その真っ白な博物館の中では、必ず彼の想いに応えるものがあった。こんな姿を誰にも見せたくないと、閉館したその場所で涙に暮れていたデイビスは、やがて不思議な鼓動を感じて、顔をあげる。

 そこに漂うのは、何億年前もの始祖鳥の化石から、虚構の中に繰り広げられた人々の空想まで、彼らを空へと駆り立てていた、純粋な夢。それは、あまりにひたむきに空を目指していた、幼少から今までの自分の人生を貫く、何よりも好きだった想いとまるで同じだった。思い出す、自分が何を志して研究しているのか、何のためにこの世に生まれてきたのかを。蒼穹は彼を誘い、心に翼を生やして、いつだって素晴らしい世界へ連れ出してくれた。光り輝く太陽。そして、無限に広がる青の中で、それは彼に、尽きることのない自由を教えてくれたのだ。

 さあ、夢を見よう。

 そんな声が、湧きあがってくる。震える息を押し殺し、立ちあがる。どんなに敗北したって良い、またここから新しく、夢を見ることを始めよう。イマジネーションがあれば、それが夢になり、夢を思い描けば、それは叶うはず——きっと、どんなことだって叶えられるはずだ。その言葉を支えにして、ふたたび涙を拭い、真っ直ぐに自分の中の想いを信じて、明日を創造することができる。生きる限り、その挑戦は繰り返されてゆく。何度も何度も、陽が、夜明けを告げるように。きっと俺は、この思い描いた先に辿り着く。

 そして、何より。








《————あらあら、思い出に浸るにはまだ早いんじゃない、デイビス? さあ、顔をあげて。落ち込んでいる暇なんて、ちっともないわよ。

 大丈夫。あなたの物語はこれからも、ワクワクするような冒険でいっぱいなんだから。きっとこの先も、太陽みたいに笑って生きてゆけるはずよ》






 あの、風の響くような声。

 それが聞こえるたびに、心がざわめいて、若き青年の日の頃に連れ戻される。涙が出るほど力強く、胸が揺さぶられてゆく。

 変化がもたらされたのは、何も彼の心の中だけではなかった。
 まるで、その声の向こう側にもうひとつのまばゆい世界が広がり、たった今、一陣の夢の風に身を委ねたかのように。部屋中に高らかに響き渡る隼の声とともに、鮮やかで、喜びに溢れ、そして何より希望を吹き込まれた星屑が広がり、めくるめく生命を授けてゆく。それはまさしく、魔法の始まりだった。しかし真に夢を信じる者でなければ、その素晴らしい光を、けして目にすることはできなかったであろう。

 周囲の壁に架けられた、多くの、しんと静まった額縁——それらが魔法の光に触れた途端、絵画のすべてに、空に魅せられた魂が吹き込まれた。蝶たちは一斉に活き活きと青い翅をはためかせて躍り出し、愛らしいたんぽぽがみるみる白い綿毛を舞いあがらせ、斜陽を浴びる地球儀はくるくると回転し、本は素晴らしい音を立ててそのページをめくり、そしてあらゆる飛行機が、額縁を超えて、あの果てしない大空へと飛翔してゆく。しかしそれらの光景は、この世の中で何度となく繰り広げられた、無数の生命の営みである。それを思えば、我々の生きている世界そのものが、この壮大な魔法にかかっているのかもしれなかった。この世に生きるすべてのものが、太陽の光の下で命を鼓動させ、輝かしい天の青へと飛び立つことを、夢見ているのかもしれなかった。

 デイビスは振り返った。
 自らの天上の世界に還ったアレッタが、たったひとつ、この地に残していってくれたもの。その魔法は、終わらない夢に彩られ、煌めく光の粒子の中に、大好きだったものがよみがえってくる。

 彼の眼差しの中で、肖像画に描かれた人物は、あの生前の暖かい眼を細めて、幸せそうに微笑んでいた。何もかもが、かけがえのないあの頃のままだった。胸がいっぱいになった。きゅっとあがった口、好奇心に満ち溢れた頰、それに栗色の見事な巻き髪と、深い愛情を奥底に秘めた、何よりも美しい鳶色の瞳。確かにそれは、この世に残された絵画の中でも、最も優しく、最も生き生きとした、最も見る者の胸に友情を掻き立てるような表情を浮かべている——そう、もしも彼女と同時代を生きた人間があれば、まるで彼女の精神がこの世に還ってきたかのようだと、目を瞠ることだろう。しかしながら、その肖像画にはたったひとつだけ、大きな欠点があったのである。もしも彼以外の他の人間が、その時の絵画を見たのなら、それを描いた画家が誤って、別の作品とモチーフを混ぜてしまったのだと思い込むだろう。なぜなら、絵の中のその人物は、自分の肖像の裏に隠していた———彼女の生きていた時代にはありえない、ポート・ディスカバリー製の無線機を耳にあてて、鈴のように軽やかな声を響かせ、笑っていたのだから。

 デイビスもまた、いつかの青春を思わせるように、眩しい笑顔をこぼした。青空に雲ひとつなかったあの日に彼と出会い、その後の人生を変えてくれたように、いつもその面影は、彼の悩みや苦しみを感じ取って、あるべき方向へと勇気を与え続けてくれた。歴史に刻まれた彼女の生涯は、愛と平和に溢れている。そして、今もなおその理想郷を示し続ける彼女の存在は、太陽のようだと思った。それがある限り、光り輝くこの冒険とイマジネーションの海で、世界は美しいと、人間は愛おしいと信じ、前に進むことができる。

「まだまだ休むなって?」

《当然でしょう、館長さん。我らが栄えあるミュージアムのために、きっちりお仕事してくださいな》

「やれやれ、二代目館長は厳しいな。第二のベースと仕事している気分だ」

《ふふふ。でも感服したわ、まさか館長に就任したあなたが、これほど歴史に名を残す偉人になっていたなんてね》

「ほーら、見直した? やればできる男なんでね、キャプテン・デイビスは」

《ふふ……そうねえ。あなたはいつだって、そんな人間だったわね》

 軽やかな声で笑う彼女は、本当に少女のように初々しく。その仕草のひとつひとつが、心に響くほどに懐かしくて、そして愛おしかった。

 その優しい緑の双眸を、昔と同じやり方で細めた館長は、肖像画の前の手すりに片肘を預けると、からかうように肖像画の人物を仰いで、深い声で囁いた。

「惚れ直したか?」

《これ以上、好きになんてなれっこないわ》

「そいつは残念だな。でもこれから先、もっともっと好きになる」

《それは、あなたがヒーローだから?》

「当然さ。ヒーローは幾つになったって、最高にカッコいいもんなんだ。

 なあ———そうだろ、カメリア?」

 優しくそう言う、年老いた笑顔に、かつて若い頃に輝いていた面影が重なった。そう、彼はいつだって、彼の物語の主人公だった。この人は、これからもその眼差しで人々に希望を生み出しながら、険しい道のりを進んでゆくのだろう、と彼女は信じている。孤高の天才、ドクター・デイビス。だが彼は言う。自分はひとりではない——未来に生きる誰かのために、闘っているのだと。それが自分の愛する故郷、ポート・ディスカバリーから学んだ思想であり、偉大なる先人たちから受け継いできた、自分たちの生きる使命なのだと。

 人類がどこまで遠くに辿り着けるか。それは多くの人間からすれば、天上の世界の話なのかもしれない。けれども彼女はその最前線で、誰よりも全人類への貢献を願って闘い、空を飛ぶという自由の喜びを、この世に生きる人々と分かち合おうとした。その生涯は完結したにも関わらず、全身に光を浴びて、今なお、遠くの大空を求めている気がする。そして彼は、彼女の示した道のさらにその先を、永遠に目指し続けることになろう。彼が倒れても、またその彼方が。一歩踏み出すたびに、また別の物語が。過去は現在を鼓舞し、絶えず新しい未来へと導く。彼女の面影は、彼から最も遠く、けれども最も身近な場所で、彼が夢を叶えるのを待っているように思えた。

 彼の生きる道は、彼が切り開く。夢も、情熱も、その先の未来も、すべて彼の精神が創りあげたものだ。そうして彼は、いつだって自分の物語の主人公であり続ける。誇り高く、胸を張って、未知の光を浴びながら。

 この博物館は、そんな永遠の光の中に建っていた。
 時が止まったわけではなく——時を、超越している。過去から未来へ、吹きなぶる風の中に身を晒し、太陽の光を浴びて空を志した人々。その精神を輝かせて、人々の情熱が満ち溢れ、遠い日々を夢見続けている。

 彼がこの博物館を守る職を受け継いでからも、展示品は増え続け、讃えるべきものは尽きない。

 ロタンダの広大なドームの下に吊り下げられているのは、紙飛行機や、巨大な飛行船や、気球、羽ばたき飛行機、初期のヘリコプターや、アルバトロス号のモデル。そのうちの一つに、開発者が詳細に残した設計書から起こしたドリームフライヤーや、それに、今まさに彼が開発中の新しい飛行機——蜻蛉の翅と、不死鳥の胴体を併せ持つような次世代の飛行装置が、鮮やかに翼を広げ、宙を翔けている。

 そして、その下に立つ小さな人影。この少年が、おそらくは本日最後の客となるであろう。暮れかかった時刻は、もうすぐ閉館時間を指す頃合いだが、このゲストが満足するまでは、そっと見守っていようかと思った。

 少年は、かつて空に名を馳せた伝説の名機、ウインドライダーとストームライダーのレプリカを見つめていた。その目は興奮にわななき、唇は熱情に彩られ、何かを語りたくてたまらないように一途な息をこぼしている。ああ、ドキドキしているのか。俺が初めて、ストームライダーを見た日と同じように——肖像画の中の人物はすっかり感激して、両手を握り合わせながら、キラキラと目を輝かせた。

《あんなに熱心に見入っているなんて、なんという才覚を秘めた子なのかしら! ぜひとも、先達からの熱烈な指導を! 篤き薫陶を!》

「まーた、一人でヒートアップしてんのかよ? 本当に館長職に向いてるよなー、あんた」

《あら、いいでしょ? だって人々に素晴らしい飛行の夢を授けるのは、神から賜った私の大切な使命なんですもの》

「へーへー、信心深いことで」

《それにしても、人が夢を見る時の眼差しって、いつの時代も、どんな人間も変わらないものね。

 ねえ、デイビス——あなたの幼い頃も、きっとあんな風に、夢と魔法に満ち溢れていたのかしら?》

「さて、どうだかね——」

 デイビスは笑って肩をすくめると、ゆっくりとその少年に近寄っていった。






 他に誰もいなくなってしまった、真っ白な博物館の片隅。まるで天上とも見紛うような空っぽの世界で、一人の男と少年が、言葉を交わす。それは過去から未来へ、懐かしい思い出から未知の彼方へと手渡される、一枚の手紙のようだった。


 ————よお、坊主。そのゴーグルと、フライト・キャップに興味があるのか。

 ————うん、かっこいいね。昔の人は、こんな格好をして、大空を自由に飛び回っていたんだね。

 ————よかったら、被ってみるか? こいつはおじさんが昔使っていた愛用品で、ずっと宝物なんだ。

 ————どうすればいいの?

 ————ガラスの部分で、目をすっかり覆うんだ。上空では風がモロに眼球に吹き込んでくるからな、絶対に外すなよ。

 ————なるほど、こう被るんだね。

 ————そうだ、似合ってるぜ、坊主。おじさんほどじゃねえけどな。

 ————おじさんじゃないでしょ、おじいさんでしょ。たくさん歳をとってしまって、もうすっかり、しわくちゃじゃないか。

 ————はは、言うなあ、坊主。でも昔は女の子にモテたし、それに心はまだまだ、お前と同じ若造なんだぜ。

 なあ、あそこにたくさんの絵が見えるだろ。あれは、太古から今まで、西から東まで、俺たちが知らない土地の、知らない名前の、無数の人々が夢見てきた証を描いたものなんだ。あそこに飾られている肖像画も、同じ夢に魅せられた人たちだ。あの巻き毛の男の人が、初代館長で、それからその隣の、隼と一緒に描かれている綺麗な女の人が、この博物館の二代目の館長さ。

 空を飛ぶという夢は、人間にとって、普遍的な憧れだったのさ。いつの時代においても、人々にとって、空を飛ぶということは、夢のひとつであり、イマジネーションを膨らませる大事なものだったんだ。坊主、空を飛んでみたいんだろ。世界中の人が、坊主と同じ夢を見ているんだ。世界のどこでも、いつの時代の人も、みんな空を飛びたいって、願っているんだぜ。

 ————世界中の人が、僕と同じ夢を見ているの? 世界のどこでも、いつの時代の人も、みんな空を飛びたいって、願っているの?

 ————ああ、そうだ。だからお前は、ひとりぼっちなんかじゃない。

 額に手を当てた少年に向かって、完璧な敬礼を返した館長は、そこに飾られた一枚の肖像画を、少年とともに見あげた。彼のすべては、そこから始まったのだった。彼女の背景には、青空が広がり、ドリームフライヤーの飛翔に歓声をあげる世界中の人々の姿が描かれていた。それは、彼女が命を賭して燃やし続けた情熱の結晶が、人々の魂に刻みつけられた瞬間でもあった。彼女は、空を飛ぶという自分の夢を、次世代へ繋げたのだ。その胸に宿した愛のすべてを、明日の希望へとそそぎ込んで。

 人の生きる限り繰り返される、自由に向かって挑む人類の、空の上の物語。古今東西に散らばった、どこか荒唐無稽な、魂の憧憬とも言えるこれらの鮮やかな物語は、数多の高潔な精神とともに、空を飛ぶという未来に果敢に挑戦し、誓いを立てる人々の姿を、永遠に想起させることだろう。

 吸い込まれるように肖像画を仰いでいるうちに、何かを心で感じ取ったのか、彼女にも不慣れな敬礼を送る少年。絵の中の人物が、ほんの少し、微笑んだ気がする。デイビスは笑って、小さな未来の飛行士の手を握り締め、力強く囁いた。






 ————————少年よ、大志を抱け。















《完》







Index→https://note.com/gegegeno6/n/nd982dc362c7c

いいなと思ったら応援しよう!