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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」番外編:もしも原作に忠実なデイビスとカメリアが出会ったら

構想初期では、主人公二人は、アトラクション準拠の性格になる予定でしたが、色々考えた結果、本編では二人とも、アトラクションの印象とは少し異なるところを含んだ性格にしています。とはいえ、根っこの部分は同じですね。
当初の設定では、デイビスはまったくツッコミではない、ちょっと三枚目の海外ドラマキャラ風、そしてカメリアはまったくアホの子ではなく、学級委員長タイプの美人でした。この短編は、その設定に沿って書いたものです。誰だこいつら









「……で、どうやって辿り着けばいいっていうのかしら? ここから」

 ぷしゅー、と気の抜けたエレクトリック・レールウェイの発車音にまかれて。カメリアはトランクケースを下ろし、途方に暮れていた。
 溶けるように紅い唇に、豊かに枝垂れる栗色の巻き髪をまとめ、滑らかな蜜蠟を固めたような艶消しの額には、みずみずしい正午の太陽が照り輝いている。透き通る鳶色の瞳を遠くへそそぐ顔立ちは、華やかな美人と言えるが、しかし人々が彼女を振り返るのは、その容貌というよりも、彼女が身に纏っている、時代遅れのドレスのせいなのだった。やっぱり、この時代には合わなかったかしら、と裾をつまんで——ま、いいわ、とカメリアはひとり頷く。さっさと用を片してしまえば、好奇の目にさらされることもなくなるだろう。

「あーあ、何かいいことないかしらね。素敵な紳士にでも出会えたら良いのに——なんてね」

 ふふ、と愛嬌たっぷりにカメリアはひとり微笑むと、地面に置かれたトランクケースの把手を握った。そして、懐から手帖を取り出し、改めて自分に与えられた手がかりを見つめる。

(ドクター・コミネ、か。もう少しヒントをくれても、罰は当たらないのに)

 古今東西を飛び回る中で、ぜひ会ってみると良い、と紹介された人物。ドリームフライヤーに乗って、ようやく時代と場所を特定できたが、何せ相手の名前以外は、皆目分からない。本当にこの状態で謁見できるのだろうか——カメリアはぱたぱたと顔に風を送りながら、不安そうに辺りを見回した。

 ひとまず、住民たちから情報を集めようかと、駅の脇の石段を、銀のポールに掴まりながら降りてゆくと、清々しい海風とともに、遙かまで見通せる海洋が広がっていた。柔らかな陽射しに濾されて、水平線にばらまかれた反射は絶え間なく瞬き、覚えずカメリアは心を奪われる。快晴で、太陽を遮るものはなかった。長く尾を引いてそそいでくるうみねこの声とともに、バターで炒めた魚料理や、磯の香りが腹に染み渡り、穏やかな潮騒の音が、巨大なガラス張りのヨットクラブの支柱を揺さぶっている。眼下のマリーナは人の賑わいに満たされて、上半身裸で氷漬けにしたジンジャーエールを傾けている船乗りたちや、街の至るところから噴射されるミストを浴びようと飛び跳ねる学生が見受けられる。そのほか、露天のオイスター・バーが売り込みをしていたり、観光客が合金製の椰子の樹の下で熱心に日焼け止めを塗ったり、試験管で海水を汲み取り、水質調査をしている学者もいた。ここ、ポート・ディスカバリーは、埋め立て地の上に建築され、最先端の科学研究が進められている比類なき海上都市であり、九つの島々を雄大な橋や電車の空中架線、あるいは潜水艇、ヨット、飛行船等の多彩な交通網で繋げながら、アール・デコ様式の進歩的なデザイン、ヴィクトリア様式にしばしば利用されるガラスや鉄骨、そして海洋生物の機能美を称揚する、自然と科学が調和した新時代のフロンティアを繁栄させていた。

 とん、とん、とゆっくり階段を下るカメリアの足元へ、昨日の雨水を乗せた薄緑色のガラス張りの建物が、潮風に揺らめく波紋の光を、あちらこちらにちらちらと乱していた。なかなか活気のある街ね、と心を躍らせつつ、カメリアは改めて、周囲を見回す。ちょうど、島から島へと移る潜水艇が到着したらしく、多くのゲストがごった返して、彼女の眼差しを埋めてしまった。困ったわ、どこかのお店に入って、店員さんに訊いた方が早いかしら。そう首を傾げるカメリアの背中へ、どん、と誰かの肘がぶつかり、バランスを崩してよろめいた。

「おっと」

 その時、転びかかった彼女の二の腕を、ぐっ、と後ろから掴む手があった。振り向くと、雑踏の中で、齧りかけのクラブ・サンドイッチを持った背の高い優男が、もう片方の腕でカメリアが転ばないように支えていた。それから、引っ張りあげるようにして彼女を起こすと、この近さにしては響きの有り余った、明るく張りのある声を降りそそがせる。

「ハイ、美人さん、危なかったね。大丈夫?」

「ありがとう。ごめんなさい、人混みには慣れていなくて」

「どういたしまして。おーい、気をつけなってー、ちゃんと左右見なよ!」

 その優男は、カメリアの代わりに、ぶつかってきた背後の人物へと大声で叫び、悪い悪い、と軽く手を挙げてきたのを、おどけたようにその撫で肩をすくめて、応えてみせる。俳優めいた声量の割には、酷く痩せた男だと思った。ひょろっとしたエノキダケのように細身で、華奢な分、横に張り出した耳がより大きく目立って見える。短く切り揃えた黒髪に、目尻は下がりがちで、すっと通った鼻筋、唇には皮肉そうな笑み。中性的なやや甘めのマスクは、親しみやすいが、全体的にどこか上っ調子の感じを受けた。

 彼はそのまま、カメリアを守るようにして肩に手を置き、賑やかな港の雑踏から離れさせた。戸惑いながらも、その力に逆らわずに、人の空いている方へと進んでゆくカメリア。

「君も用心しなくっちゃね。このマリーナは、いつもこんな風にごった返しているんだからさ。特に船が着いたときには、昂奮した連中でいっぱいになるんだ、巻き込まれないようにしないと」

「そうね、あなたのお陰で助かったわ。この街には、初めて来るものだから」

 カメリアは歩きながら礼を言い、彼が別れを告げるのを待ったが、不思議にも、庇われた肩から彼の手は離れなかった。まるで友人と肩を組むのにも似た遠慮のない重みに、おや、と思う。

「ねえ、ところで君、どこから来たの?」

「イタリアよ」

「へええ、移住してきたのかい? あまりそうは見えないけど。今日のランチは、もう済ませた?」

 随分と馴れ馴れしいのだな、と感じ、すぐに違和感に気づく。ひょっとして、口説かれているのか? イタリアでは仰々しい褒め言葉とともに、もっと直接的に誘うものだが、この優男の場合は、やや遠回りに距離を詰めてくるようだ。
 そこで、カメリアの方から手を外しながら距離を取ると、男は驚いた様子で彼女を見つめ、慌てて一歩さがった。

「おや、ごめんよ。つい癖で」

「悪いけど、ナンパはお断りなの。他をあたって頂戴」

「まさか。お暇なら一緒に昼食でも、と思っただけだよ。俺もそろそろ腹が減ってしまってね」

「でもあなた、サンドイッチを手に持っているじゃない」

「おっと。証拠隠滅するから、見なかった振りをしてよ」

 言うが早いか、サンドイッチを毟るように押し込み、口いっぱい、リスのようにもぐもぐと頬張っている姿を見て、思わず、くすりと笑う。それに安堵したように、男も片眉をあげて、剽軽に首をひねってみせた。

「ランチよりも、今は探しているものがあるのよ。あなた、ドクター・コミネという人をご存知ない?」

「コミネ博士かい? 知っているよ、街一番の有名人だ」

「良かったわ、その人にぜひともお会いしたいの。どのあたりに行けば良いのか、教えてくださる?」

 うんうん、とやや顎を突き出すようにして何度も適当に頷きながら、優男はさらにもう一口、サンドイッチをかじる。そして、何か書くものを貸して、というような身振りで指示をするので、手帖とペンを渡した。男は最後の一片を口の中に押し込むと、咀嚼しつつ、簡単な地図を描き始めた。

 その間も彼は、ちゃんと真っ直ぐに立つこともなく、やたら足を組み替えたり、ゆらゆらと爪先を遊ばせたりと、全体的に一箇所に定まっておらず、何となく忙しない。その飄々とした佇まいと、掴みどころのなさに茶目っ気を混ぜて動かしてみせる表情、それらが合わさって、さぞかし女性には軽薄に声をかけていそうだと、カメリアは心中密かに考えた。ようやく口の中のサンドイッチをすべて呑みくだすと、男はペンの頭を振って、コツコツ、と紙の上の現在位置を叩いた。

「結構遠いよ。ホライズン湾を挟んで、南東側だ。フローティングシティまで行かないといけないね」

「まあ、距離があるのね、困ったわ」

「ポート・ディスカバリーに慣れていないときついよ。船で渡って、そこから電車を乗り継いでいかなきゃならない」

「そう……ね。道に詳しい人がいれば良いのだけれど」

 すると男は、ナンパ成功と勘違いしたのか、両手についたサンドイッチのくずを払うと、颯爽と自分の頭を撫でつけた。

「心配しなくても大丈夫だって、俺が全部教えてあげるよ。そしたらどうだい、一緒にホライズン・ベイで、ドーナツとコーヒーでも……」

 言うが早いか、肩を寄せつつ、ぐっと顔を近づけてくる男。そこから一秒も経たずに、ぱしーん、と乾いた音が響き渡り、桟橋の上を歩く人々は一斉に振り返った。

「いきなり、ビンタすることないだろ!」

「すぐにキスしようとするあなたがいけないんじゃない!」

「合衆国じゃあ、ほんの挨拶だよ!」

「嘘ばっかり。知り合いのアメリカ人の科学者は、そんなことしなかったわ!」

 頬に赤いヒトデマークをひりつかせながら、男は涙目になって叫び、カメリアは負けじと怒鳴り返す。夜の路地裏ではよく見られる光景かもしれないが、真っ昼間の港町では、そうそうにお目にかかるシーンではない。
 男は降参したように一歩下がって、その空っぽの両手を見せつけ、ひらひらと振った。

「分ーかったよ、分かった。もうこれ以上、手は出さないって。約束だ」

「本当なの?」

「ガードの固い女の子を、無理に誘うことはしないさ」

 言いながら、軽く首を傾げつつ肩をすくめる。どうやらこれが、彼のお決まりのポーズであるらしかった。

「とはいえ、人助けは俺の仕事なんでね。どう、せっかく出会ったんだし、ランチくらい一緒にしない? ポート・ディスカバリーが初めてなら、色々教えてあげるぜ」

 カメリアは少し首を傾げて、考え込む。

「いいわ。あなたが勝手に、私にキスしようとしないならね」

 優男はにやりと笑うと、そのひょろりと高い背を少しかがめるようにして、真正面からカメリアと目線を合わせた。

「オーケー。じゃ、取引成立だな」





「へーえ、ドリームフライヤーかあ」

 互いに自己紹介を交わし終わった後で、手帖に描かれたスケッチを見つめながら、デイビスは不思議そうに声を出した。

「本当にこんなので、飛べるの?」

「失礼しちゃうわね。ちゃんと飛べるわよ」

 ぷりぷりしながら、カメリアはドーナツをちぎって口に入れる。

 カウンター席に座っている二人の後ろで、昼時で賑わうカフェの空気は、人の会話に満ちていた。そこへ、テレビの雑音やら、軽快なジャズやら、時々爆発する剛気な笑い声などで、ひっきりなしにさざめきが揺れ動いている。

「しっかし、君、絵が上手いんだな」

「あら、ありがと。そうよ、私、これでも発明家なの」

「じゃ、スケッチは慣れているわけだね。これも、君の発明品?」

「いいえ。これは、ジャポンのニンジャという伝説をスケッチしたものね。それからこれは、サンダーバード。こっちは、エジプト神話の太陽の舟よ」

「へええ、凄いな。どれもこれも、空のことばっかりだ」

 興味深そうにぱらぱらとページをめくりながら、デイビスは感嘆の声をあげる。非現実的なモチーフも多いが、その中には空に結びつかないものなど、ひとつたりともなかった。その鉛筆の確かな筆圧、そして明晰さに満ちた線が、この世の想像力に溢れた瞬間を切り取っている。

「君って、本当に空が好きなんだなあ」

「ええ、そうよ。でも、空を好きなのは私だけじゃないわ。これを見て」

 カメリアは浮き浮きとした口調で、数枚先のページまでめくる。そこに描かれているのは、写真かとも見紛うほどの迫真性で、数人の民族衣装を纏った男女が、高く手を差し伸べているスケッチ。しかし、その耳飾りの翻り、力強い筋肉の躍動、汗の煌めきまで感じさせるような神々しさは、彼女の眼差しでなければ見出せない凄みを帯びていた。覚えず、軽やかに口笛が鳴る。

「ワオ。良いね」

「熱気球の旅で出会った、中国の奥地の少数民族なの。彼らは、天女が水浴びをしに降りてくる、という伝説を語り継いでいるのよ。ドリームフライヤーがやってきた時は、伝説は本当だったんだって、村中が大騒ぎになったんですって。

 これは村のお祭りで、若者たちが雷の神に踊りを捧げているところ。それから——」

 ぱらり、と次のページをめくると、目を天上に向け、一心に祈りを解き放つ少女。その黒い瞳の中には、翼を広げた影が映し出されている。

「美しい瞳でしょう。アンデス山脈に生きる少女ね。彼女は岩山で転んで、脚の骨を折ってしまったのだけれど、村の誰よりも澄んだ瞳で、空を見あげていたのよ。彼女の限りない憧れが、この純粋な眼に溢れだしていたわ」

「君は——君が見てきた世界は、とても綺麗だ」

「ええ、醜いところなんて、ひとつもないの。どの大地においても人々はたくましく、夢に溢れて生活しているのよ」

 次のページには、人々が手を広げて、太陽に祈りを捧げるスケッチ。それは、現実を写し取ったものではないのだろう。肌の色も、顔も、衣装も、年齢も、世界中から寄せ集めた宝石のようにばらばらで、しかしその表情はみな、めくるめく歓喜に染められ、まばゆい光が射してきていた。まるで全員が、ひとつの同じ夢を見るかのように。その胸をときめかせながら、同じ方向を仰ぎ、太陽の恵みの下で懸命に生きている。

 デイビスはその絵に魅せられ、一瞬、何もかもがふわりと吸い込まれるように感じた。彼は思わず、そのスケッチから目を離して、そして隣にいる、まるで大空を翔ける鷹のように物語る、晴れやかなカメリアの瞳を見た。


「素晴らしいでしょう? 世界中の人が、空を飛ぶというひとつの夢を見ている。こんなにも地上の様子は違うのに、私たちの上には、同じ青空が広がっているの。信じられる? この世界に生きる人間たちの心は、大空という、同じひとつの希望に照らされているんだわ。

 空は、人類をひとつに繋げる唯一の世界よ。誰もが空の美しさも、高さも、偉大さも知っている。私はそこに行くの。大勢の人々の煌めく瞳を見つめて——彼らの夢を、私が叶えてあげるの。

 それが私の抱く夢。そして、私の思い描く人生なの」


 デイビスは頬杖をつきながら、柔らかに微笑していた。まるで父親が、夢に魅せられた娘の一生懸命語る物語に耳を傾けるかのように。どこか幸せそうに、そしてその夢の照り返しを受けて、彼自身さえもほのかに輝くような——そんな表情だった。

 そこでカメリアは、ふと我に返って、隣のデイビスを見つめ返す。

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

「もっちろん。君の言うことは、ピアノソナタでも聴くように聞いてるさ」

 カメリアは溜め息を吐いて、氷を鳴らしながら、グラスの中のレモンティーをストローでかき混ぜる。

「デイビスさん。それで、フローティングシティへの行き方というのは」

「やめてくれよ、デイビスさんなんて、仰々しいな。あ、アップルパイ、もうひとつ追加ね!」

 彼が厨房へ叫ぶと、にゅっとトングが伸びてきて、粉砂糖の散った彼の皿へ、ライトを照り返してテラテラと光る、狐色のそれを載せる。顔馴染みなのだろう、赤らんだ顔の店員は、太った腹をゆすりながら話しかけてきた。

「デイビス、お前って奴は、まーた懲りずに女の子を口説いているのか」

「おいおい、邪魔するなって。今度こそ、ちゃんと成功させてみせるよ。バッチリだ」

 おどけて答えてみせるデイビスに、むっとカメリアは眉を顰めた。

「デイビスさん。私、口説かれているつもりはなくってよ」

「そりゃそうさ。だって俺、まだ君に何も言っちゃいないぜ」

「じゃ、今ここで言って。私、きっぱりフるわ」

「酷いなあ、言葉でなく、行動で落とそうと思ったのに」

「行動?」

「ドクター・コミネに、会いに行きたいんだろ?」

 デイビスは手帖を閉じると、一瞬、大切なものを惜しむように表紙を撫で、それから丁寧にカメリアに返した。

「紳士たる者、女性を無事に送り届けるのは大事な使命さ。今日はストームライダーのテスト飛行があるんだ。そいつに、君を乗せてってやるってのはどうだい?」

「随分とキザなことを言うのね。それに、ストームライダーってなあに?」

「おや、ストームライダーを知らないの? 最新テクノロジーを駆使した、このマリーナご自慢の飛行機さ。ひとりでフライトなんてつまらないって、退屈していたところなんだ。やっぱり、ゲストがいなくっちゃ、士気が上がらないもんな」

「あなた——飛行機の操縦士なの?」

「そうさ、CWCのキャプテン・デイビスといえば、ここらじゃ結構、有名なんだぜ」

 そう言うとデイビスは、尻ポケットから、まるで煙草の箱でも引き抜くようにして、パイロット証明書を手渡してみせた。美しい菫色のカードに、彼の顔写真と、名前や生年月日が、煌びやかな金文字で刻印されている。そのカードの情報を素直に受け入れられずにいたカメリアが、先ほどの店員にちらと目線を送ると、店員はコンロに乱暴にフライパンを置きながら、グラスの結露が震えるほどの濁声で答えた。

「本物だよ、お嬢ちゃん。そいつは軽口ばかり叩いちゃいるが、ストームライダーのパイロットだってのは、本当だ」

「ほーら、言った通りだろ?」

 片目を瞑ってみせるデイビスに、だって、やすやすと信用できないんだもの、と呟きかけたが、彼は少し肩をすくめただけでカードを受け取り、何も言わずにそれを仕舞った。

「でも、あなたみたいな人が、最先端の飛行機を操縦しているなんて。なんだか、ワクワクしちゃうわね」

「そうこなくっちゃ。どう、一緒にフライトしていかない? 腕前は折り紙つき。それに俺だってたまには、人の役に立つことをするんだぜ」

「そうね、悪かったわ、私今まで誤解してたみたい。あなたって、随分と親切な人なのね」

 その言葉を聞いて気を良くしたデイビスは、すっかり唇を緩ませて、自分の頬をとんとん、と指差した。

「じゃ、お礼はこちらに」

「そんなことだろうと思った!」

「おいおい、冗談だってー。そんなに本気にすることないじゃないか」

 すぐに座席の下のトランクケースを引っ掴み、椅子から立ちあがろうとするカメリアを、デイビスは慌てて引き留めた。

「逆に聞くけど、あなた、今までに本気のことを言ったことあるの?」

「ま、今日のところは、心当たりがないかなあ」

「そんなことで、よく飛行機の操縦士なんか務まるわね!」

「なんだよ、これでも仕事は、真面目にやっているんだぜ?」

 軽薄なテノールを響かせてへらへらと笑うデイビスに、もう、神様ったら、とカメリアは頬を膨らませて天に祈る。確かに私は、「素敵な男性に出会えますように」と、あなたにお願いしましたけれど、でも私は、「紳士」と条件付きで、あなたに祈ったはずなんです。

 それはたぶん、こんなちゃらんぽらんな男性のことじゃなくて————

「デイビス、こんなところで何をやっているんだ」

 振り向くと、ざわめきの中に立っていたのは、一目で筋骨隆々だと分かる、五分刈りの男。眼光は鋭く、唇も分厚いが、なぜか強迫的な威圧感を与えることがなかった。

「よお、スコット、見て分かんないのー? デートだよ、デ・エ・ト」

「違うわよ!」

「この通り、勝ち気な女の子でね、口説き落とすのに苦労してるよ」

 おどけたように肩をすくめるデイビスに、スコットと呼ばれた男は、また馬鹿なことを、と溜め息を吐いて、壁にかかっている時計を親指で示した。

「どうでも良いが、テスト運転は一時間半後だぞ。間に合わないことのないように気をつけろよ」

「了解。またベースに怒られちゃ敵わないからな、ご機嫌取りには注力するよ」

 ひらひら、と手を振るデイビス。まるで紙吹雪のはためくような、実に軽率な動きである。
 スコットが扉のベルを鳴らして去ってしまうと、デイビスは白旗でも振るように両手を挙げた。

「やれやれ、無粋だねえ」

「あなたのお知り合い?」

「俺のバディだよ。スコットっていうんだが、これが数年放っといたチーズみたいにお固い男でね、見てるこっちの肩が凝ってくるくらいさ」

「あなたも、少しは見習った方がいいんじゃない?」

「じょーだん。俺は俺の好きに生きるんだ」

 デイビスはヒョイと肩をすくめると、片方の口角だけを吊りあげ、皮肉げに笑った。

「パイロットを職に選んだのも、それが理由でね。第一に、格好良くて、女の子にモテる。第二に、誰にも譲れない信念がある」

「あら、あなたにしては、真面目なことを言うじゃない?」

「いいや、君はまだ、本当の俺を知らないよ」

「じゃ、教えて頂戴。本当のあなたって?」

 デイビスはふっと微笑むと、店内のざわめきの中から遠ざかるように声を落とし、どこか、熱と感動を込めた青空のようなテノールで、それを告げた。


「自由だ」


 カメリアは、美しい鳶色の目を見張って、デイビスの底なしに輝く目を見つめた。青く薄い瞳は、まるでこの世ならぬ別世界を、生き生きと映し出していた。

「自由?」

「そうさ、これこそが俺のモットーでね」

「自由と傍若無人は、違くてよ」

「君、俺のことをそんなふうに思ってるの?」

「思ってるわ」

「デイビス、やめとけ。いつもそのあたりで、女の子が愛想尽かして逃げちまうだろうが」

「うるさいな、今いいところなんだ。ほっといてくれよ!」

 外部から飛んできた野次に、デイビスはカウンターを叩いて大声で怒鳴り返したが、ますます口笛や笑い声がどっと湧いてきて、さざなみのように店に広がった。
 観衆たちの目にさらされて、予想通りと言うべきか、みるみる頰を真っ赤に染めて、つん、と明後日の方へ顔を逸らしてしまうカメリア。それに苦笑をこぼし、デイビスは銃でも突きつけるように人差し指を向ける。

「でもさ、俺が自由奔放なおかげで、こうしてたまには、君みたいな別嬪さんと食事ができる。そうだろ?」

「知らない!」

「まさか、他の女の子にやきもち妬いてるの?」

「自惚れないでよね。初対面の人に、嫉妬なんてするもんですか」

「やれやれ、機嫌を直してくれよ。君も強情な人だな」

「私は、あなたみたいな軽い人と違って——!」

 振り向きかかったカメリアの面前に、突如として、身を乗り出したデイビスの目がいっぱいに広がる。どこまでも続く渚を思わせるような、薄い青の揺らめく瞳だった。思いがけず息の詰まった彼女へ、追い討ちをかけるように、彼は吐息を押し殺しながら囁いた。


「いいや、違うね。俺と君は、同じ人間だ」


 間近まで迫るその瞳の底に、青い焰のように煮え滾る情念を見透かし、カメリアは言葉を失った。

 まるで、時間の停止したような感覚。

 背後の人間が席を立ち、食器を片付けに行く音が遠ざかってゆく。ナイフとフォークがかち合い、椅子が軋む。息の吹きかかるほどの面前で、その眼光は、なおも不敵な熱情を、滔々としてその深淵に脈搏たせていた。

「自由?」

 カメリアは、低く息を潜めて言った。

「そうさ。自由だ」

「あなたが、自由の何を知っているというの?」

「俺には、それを追い求める人生の方が、堅物の人生よりもずっと良いのさ。損することもあるけど、昇進なんかより、ずっとロマンがあるんでね」

「それが——あなたの生き方?」

「そうさ、誰にも文句は言わせない。俺はこの街で、こうして生きてゆく」

 デイビスは、テーブルの上に余っていたコーヒーミルクを、ぱちんと、コインでも跳ねあげるようにして宙に放ると、軽く手を振るって、それをふたたび、掌にぐっと力を入れて握り締める。

 その時、遠くを見つめるデイビスの横顔が、なぜだかうねるような潮風を携え、精悍に見えた。壮烈に眉を張り、遙か彼方の水平線を追いかけ、目に遠い懐かしさを浮かべ——軽薄なことを語っている際の彼とは、まるで別人のような風格がある。

「ポート・ディスカバリーのすべてのロマンは、ストームライダーに始まり、ストームライダーに終わる。こいつが出てきたことによって、街は長年のストーム被害から解放されたんだ。マリーナの新時代の幕開けだよ。こいつのおかげで、俺たちは空の街へと、大きな一歩を踏み出したんだ。

 君はまだ見たことないんだろ、この街の期待を一心に背負って、あの巨大な銀の機体が飛び立つところを? 最高の轟音、体にびりびりくる痺れ、目の前を埋め尽くす圧倒的な大空。何より、この巨大な鉄の塊を動かしているのは自分だと思うと、今、ここで死んでも良い、というほどの高揚感が湧きあがってくるのさ。

 ストームライダーは風を切り裂き、どこまでも真っ直ぐに進む。そりゃもう、何も俺を引き留めるものがなくて、何もかもが消え失せたように気持ち良いんだ。その時、俺は世界のてっぺんにいる。誰も俺を止めることなんかできない。どんな鳥よりももっと速く、もっと遠くへ、どこまでも飛んでゆけるんだ。

 生きるってのは、このことだ。世界の頂点に辿り着いて、魂で、本物の自由を味わうことだ。そして、ストームを撃退して——」

 デイビスはその手を、無限の大空を飛んでゆくように、前へと差し伸べた。

「——冷めやらぬ興奮のさなかで、無事に着陸。ゲストは拍手喝采だ。この街のヒーロー、キャプテン・デイビス——みな、口々にそう叫ぶ。そりゃそうさ、ポート・ディスカバリーをストームから守れるのは、世界でたった一人、俺だけしかいないんだからな」

 カメリアは、何か限りなく大きな風が通り抜けたかの如く、蕩然として目を細めていたが、やがて少し首を傾げた。

「でもさっきの人も、あなたと同じ操縦士じゃないの?」

「ま、そのほか、同類が一名ってとこだね」

「もう、すぐ自分の都合の良いように事実をねじ曲げるんだから!」

「でも、本当だぜ」

 デイビスは厳かにその表情を消すと、店内のざわめきに紛れてしまいそうなほど、真率な低い声で囁いた。


「俺が君と同じように、空を飛ぶ人間だっていうのは、本当だ」


 小さな音を立てて、グラスの氷が崩れた。ゆっくりと、耳許に喧騒が戻ってきたようだった。テレビを切り替える音が何度かして、やがてアメリカン・フットボールの中継に切り替わった。ベルが鳴り響き、後ろの方から、マスター、コーヒー二つ、と怒鳴る声が聞こえた。静かに睫毛を揺らして、デイビスは瞬きをした。カメリアは、カウンターに置かれている、その美しく握られた手を見つめていた。

「いいわよ。食べたいものを、好きなだけ頼んでちょうだい」

 デイビスは、不思議そうに振り向いた。

「お礼は言葉以外でも、ちゃんとする主義なの。ここの昼食代は、私が奢るわ」

「おや。ちょっとは俺のこと、信用した?」

「ほんの小指の先くらいはね」

「そりゃ光栄だね。でもこちらとしては、お代よりキスの方が、よっぽどいいんだけどなあ」

 カメリアは呆れたような顔でデイビスを見つめていたが、突然、彼の頬に片手を添えると、軽く吸いつくような音とともに、その艶やかな唇を触れさせた。呆気に取られたようなデイビスの顔に向けて、カメリアは優美な眉をあげると、蠱惑的に微笑んでみせる。

「これでいい、キャプテン・デイビスさん?」

 悪戯にすら見えるその笑顔のクローズアップに、彼はぽかんとしていたが、やがてニッと笑って、彼女と握手するための手を差し出した。

「お釣りが出るくらいさ。待っていろよ、カメリア。きっと君に、最高のフライトを体験させてやるからな!」






 赤銅がかった黄金のドームをトレードマークとして、幾つもの塔や建築を集合させた一塊の施設は、五本のアンテナ、巨大な格納庫に、翻る垂れ幕と、多くの目を引く要素でごった返している。気象コントロールセンター、通称、CWC。その佇まいの偉容に、はあ、とカメリアが見惚れていると、デイビスは入り口へ通じるスロープを悠々と昇り、振り返って、彼女を手招きした。時折り、激しい音を立てて噴射されるミストにびくりとしつつ、真下に波打つ深緑の海や、支柱にへばりついたフジツボを眺めている間、デイビスは搭乗の手続きを取って、関係者パスケースをカメリアの首からさげてやり、手荷物検査に行っておいで、と言う。戸惑いながらも、職員の指示に従い、検査を終わらせると、デイビスはふたたび迎えにきて、ミッション・コントロールルームへと導いた。

 カメリアは物珍しげに、きょろきょろと辺りを見回した。ビビッドな照明を頼りに、工業的な印象のある内装が浮かびあがる。広い部屋を横断するように高い通路が設けられているが、彼女を威圧するものは、それだけに留まらない。青い光芒を放つ壁の円形スクリーン、宙から吊り下げられた複数のディスプレイモニター、それに何より印象的なのは、通路の最終部から階段を渡された、内部に渦を生み出している大きなチューブ型の水槽——何に使うのだろう?——それらがめくるめく異次元の如く、彼女を取り囲んでいる。

 床の矢印に従うがまま、銀のポールの並んだ列に進もうとすると、デイビスは首を振って、彼女の腕を掴んだ。

「君は、こっち。俺と同じ側」

「でも、ゲストはあっちだって——」

 しかし彼は有無を言わさず、関係者のみの鉄扉を開くと、迷わずにさっさとその先へ身を滑り込ませた。

 長い空中通路を越えてコックピットに辿り着くと、カメリアは感嘆の吐息を漏らした。そこは広々と開けた、近未来的な閉鎖空間だったからである。菫青色に透き通る、二階建てを覆えるまでに高い、滑らかなビューポート——その巨大なガラス面と対峙するのは、コントロールパネルと、パイロット席。どこか不釣り合いに小さく見えるそれは、念入りに手入れされて金属の艶を放ち、新品そのもの。剥き出しの配管や小窓に囲われて、影が映り込むほど磨かれた床の上を、硬い靴音を響かせて歩くデイビスは、まるで舞台の上の役者のように見える。彼はポケットから引き出したパイロット・グローブを手に纏うと、そのパイロット席の背もたれに肘を置き、くるりとカメリアを振り返った。

「さ。俺の横に、ナビゲーター席を出して座んなよ」

「いいの?」

「今日はストームも来なさそうだし、特別待遇。ただし、コントロール・パネルや操縦機器には、一切、触っちゃだめだぜ」

「危ないようなら、私、通常の客席の方に移るけど——」

「んーん」

 デイビスは首を振り、俯いた。

「寂しいだろ。あんな離れたところに、君だけひとりぼっちじゃ」

 カメリアは、その優しい瞳の色に、ふっと心を掴まれた。しかし彼は、すぐにその唇を皮肉げに吊りあげて、飄々と肩をすくめた。

「ま、寂しいのは、ぽつんと一人で操縦しなきゃいけない俺の方なんだけどね。パイロットとしての勇姿も、君に見せてやれないし」

「ふふ。確かに、あなたと離れ離れになるのは、ちょっと退屈かもね」

と、カメリアは補助席を組み立てて、そこにふわりと腰掛けた。

「分かった。それじゃここで、あなただけを見てる」

 デイビスは、にこ、と微笑んで、自分もまたパイロット席に身を沈め、ハーネスで固定した。両手をさっと伸ばして袖をまくると、長く、細く息を吐き、手許の操作に集中する。こつこつ、とグローブに包まれた指で、コントロール・パネルを叩き、浮かびあがるホログラムに、飛行ルートを表示。ふと横を向くと、カメリアはけして目線を離すまいと、頑なにこちらを見守っている。その熱心さに、思わずたじろぐデイビス。

「……そんなに、じっと見る必要ある?」

「あら、私には構わないでいいわ、デイビスさん?」

「だって……まあいいか。よし、シートベルトを締めて、黄色い紐を引っ張ってごらん」

 言われた通りに金具を差し込み、黄色い輪を括った紐を何度か引くと、不安そうにデイビスの目を見つめた。

「上出来だ」

 褒められたのが嬉しかったのか、それともフライトへの昂奮を抑え切れなかったのか。カメリアはそれを聞くと、ぱっと燃え広がる期待を目にいっぱいに宿して、シートベルトの固定具合を確認しつつ、無自覚のうちに、少女のようにときめきに満ちた笑顔を浮かべていた。
 けれども、デイビスがニヤニヤとしてこちらを見つめていることに気づくと、きゅっと眉を吊りあげて、取り澄ました顔で反対側を向いてしまった。デイビスはますます、おかしそうに肩を震わせて、今までにないほど明るく笑い出した。

「悪くないなあ。可愛い女の子と、ストームライダーで二人旅っていうのは」

「もう、ふざけていないで、早く出発して頂戴」

「はいはい、それじゃ、ご命令に従って。
 こちらキャプテン・デイビス、ストームライダーIIにようこそ! 快適な空の旅を楽しんでくれ。後で、免税品の販売もあるからな」

「デイビスさんったら!」

「やれやれ、第二のベースと仕事している気分だ。それじゃ、最終搭乗準備。システムチェック、開始」

 溜め息を吐きながら肩をすくめると、デイビスはチェック項目のひとつひとつを、声に出しながら確認した。

「油圧、チェック。緑のチカチカ、チェック。それから——おやつのピーナッツ、チェーック」

 グランドクルーに合図を送り、ゴウン、と燃料パイプの連結が解除された音がする。座席のそばにある受け皿から、器用に投げたピーナッツをぱくりと口でキャッチしながら、デイビスはストームライダーの外側にいるであろうクルーに、軽薄な大声を放った。

「あー、ついでに窓と、灰皿もよろしくね!」

「結局、お仕事だって、真面目にやっていないじゃない」

「とーんでもない。頭のてっぺんからつま先まで、これ以上ないほど緊張してるって」

「どうしてよ?」

「君が、俺のことを惚れ惚れと見ているからだろ?」

「呆れたわ。本当に、浅薄な人」

 はは、とデイビスは明るく笑って、微かに震えていたその手を、カメリアから見えないように隠した。

「右舷エンジン、チェック。左舷エンジン、チェック」

 ふと、その声色が変わったのに驚く。まるで貴金属のように硬質な、朗々と張り詰めた声だった。それに合わせて、順番に激しい燃焼音が噴き出し、床が左右、交互に震動を伝える。
 その燃焼に混じりうる、あらゆる故障の気配を検知しなかったデイビスは、ベース・コントロールとの連絡を取る。

「コンタクト、ベース。ストームライダーII、二番発進口より、発進許可を願います」

了解ラジャー。風向き南東東より、風速、7ノット。二番発進口より、離陸許可が宣告されました》

了解ラジャー。ストームライダーII、発進準備。

 ————ビューポートシールド、Open!」

 真っ二つに断ち割れてゆくシールドの彼方へ、初めて見えてくる、ストームライダーの格納庫。そして、さらに発進口までもがその扉を開き、その向こう側に、果てしなく続く海を露わにする。薄暗い格納庫に、その青は目に焼きつくように印象的だった。まるで、遠い数億年前の生命の根源を指し示すような——そんな鮮烈さが秘められている。

 腕を振るマーシャラーの指示に合わせ、ストームライダーを地上走行タキシングさせつつ——デイビスは前を向きながら、隣にいるカメリアに話しかけた。

「なあ。君は、世界中の人が、空を飛ぶというひとつの夢を見ていて。彼らの夢を、自分が叶えてあげたいんだって——そう言ったよな。カメリア」

 限りなく広がる蒼穹と、大海原。薄暗い格納庫に、溢れんばかりの光が射してくる——その真っ白な光に全身を照らされながら、デイビスは空を見る。その真っ直ぐな瞳も、鼻筋も、唇も。絶え間ない震動と轟音の中で、光と影に洗われ、その姿は光り輝いて見える。そして、唇は真横に引かれて、鮮やかな笑みを創りあげた。



「君のあの言葉を聞いた時、俺は誓ったんだ。

 ————君の夢は、この俺が、大空へと舞いあがらせてあげようって」



 カメリアは振り返り、同じ太陽の光の中に溺れるデイビスを見つめた。次の瞬間、彼はぐん——とスロットルを叩き込み、ストームライダーのまばゆい白銀の翼を、その果てしない大空へと飛び立たせた。

 発進。

 凄まじい轟音が鳴り渡り、鼓動を煽動する。爆発的な炎の噴射により、高圧ガスが超重量の巨体を浮かせると、あとは圧倒的な浮遊感が、一気に全身を掴む。暴力的なまでのGに乗っ取られ、爆速、というのがふさわしい加速。軋むほどにスピードをあげ、ストームライダーの真下を、底なしの蒼海が滑りゆく。その白銀の機体に、滑らかな海の波立ちが反射しては、豪雨のような勢いで飛沫を叩きつけた。カメリアの胸を占める恐怖とは裏腹に、デイビスは軽率に口笛を吹いた。肌を粟立たせるような震動が機内を満たし、何もかもを叩き壊すかのように、心臓をざわめかせる。カメリアが隣を見ると、デイビスも素早く振り向いて、ニヤリと笑った。その間にも、濃密なサファイア ・ブルーの空から降りそそぐ、絶大な陽射しが彼らを照らし出して、止まらなかった。

「デイビスさん……わ、私、怖いわ」

「平気さ、びくびくしてちゃ勿体ないぜ。さあ、思いっきり、目を開けてみなよ」

 きぃん——という耳鳴りとともに、どんどんと加速してゆくストームライダーは、あたかも暴れ馬の如くである。抑えきれない動悸にたじろぎ、カメリアはただうっすらと、目を開けることしかできなかった。どこまでも、どこまでも鼓動は逸る。そして次第に、もはや継続的な恐怖を超越して、彼女の胸には、とあるささやかな勇気が芽生え始めた。そしてようやく、震える瞼をこじ開け、まばゆい光の中に視界をそっと解き放つ。一瞬、世界のすべてが消失した後に、ふたたび、その白光の中から、あまりに甚大な水が洋々として、一面に横溢している。艶やかな潮水は、まるでノアの大洪水を想起させる規模で地球を洗い、なみなみと揺れ動く世界の下半分が、もう半分の青を清冽に澄ませていた。これほどまでに生まれ変わったような感覚を、彼女は知らない。目に映る何もかもが、真っ青に、彼女を呑み込んでゆく。水平線——それはなんと遠いのだろうか。そしてその向こうには、誰も見たことのない世界がある。今、そこへ、突き進んでいる。光り輝く銀の翼は、どんな潮風をも切り裂いて、海の果てへと辿り着くことができた。突如、泡立つような感動とともに、肉体がふっと離れて、生命が飛行機と一体化した気がして、魂が震えた。飛んでいる、この空と海の狭間を。自由の青の世界を、飛翔している。叫び出したくなるような衝動が喉を貫き、それは太陽に射抜かれて、目の眩むほどにまばゆいときめきを燃やした。心臓が早鐘を打って、今にも飛び出してしまいそうである。

(これが、未来の飛行機——)

 目の前に見入るしかないカメリアの胸を、晴れ晴れとした解放感が射してきた。それは今、雲間から飛び出して、その感激をどこまでも明るい光線として放つ、太陽のようだった。

「ひゃっほーう!」

 だがそれは、デイビスにとっても同じだったらしい。このままどこまでも真っ直ぐに前進するかと思いきや、ぐん、といきなり取り舵を切って、左手側に急カーブした。機内が斜めになり、胃がぐっと押さえつけられ、慌てて手すりを握る。その勢いのまま、真っ白な航跡を引くフェリーの上で、さらにぐっと面舵を切る。こ、これがこの飛行機の平常運転なのかしら? カメリアは、今度は反対側にたたらを踏みつつ、困惑しながら話しかけた。

「ちょ、ちょっと、デイビスさん。危なすぎない?」

「なーに言ってんだよ、せっかくストームライダーに搭乗したんだ、ワクワクする体験をしないと仕方ないだろ?」

「そりゃ、そうだけど……」

「じゃ、張り切っていかなくちゃ! そーれっ」

 爆音を立ててストームライダーを飛ばすデイビス。すると、目の前には潮風を浴びて颯爽と駆けるヨットが迫ってきた。高いセールが風を切る中、色とりどりの帆布をはためかせるそれは、ストームライダーの機体の底を擦るようにして近づいてくる。

「あれっ、あれあれあれあれ?」

「デイビスさん!」

 慌てて、名を呼びかけるカメリア。しかし衝突の直前で、激しい風音を立てて急上昇したストームライダーは、そのまま紙一重の差でヨットの帆を叩きつけるように靡かせると、ふたたび面舵を切りながらスピードを上げてゆく。

「ははっ、なーんちゃって。このキャプテン・デイビスが運転しているんだ、そんなミスするわけないだろ?」

「はあ、心臓が止まるかと思ったわ」

「ドキドキした?」

「あなたに対してではなくってよ!」

「いいの、いいの、なんだって。スリルを感じてもらえたんならね」

 カメリアはくすくすと笑いながら、波立つ海面に誘われたのか、満面に喜びの表情を湛えて、前へと身を乗り出す。すると、ストームライダーの真下に、透き通るエメラルドと、真っ白な波から飛び出してゆく、生命に溢れたものが泳いでいるのに目を奪われた。

「デイビスさん、見て見て、イルカがいるわ! それも、こんなにたくさん!」

「へーえ、君って、こういうのが好きなのか」

「ええ! きっと、私たちのこと、友達だと思ってるのね」

「どうだい。ストームライダーって、悪くない乗り物だろ?」

「とっても素敵! ああ、信じられないわ、ここはなんて素晴らしいの!」

「お、おい。そんなにはしゃぐなって」

 徐々にカメリアの強張りも溶けてきたらしい——その目は旺盛な好奇心に溢れて、すべての恐れが無に還したかのようである。

「ね。あそこにあるのが、フローティングシティ?」

「あれより、もっともっと奥だよ。あれは、シーホース・アイランドさ」

「わあ」

 ストームライダーは、その街のすぐそばを鳥のように横切ってゆく。ポート・ディスカバリーに多くある人工島のひとつで、カメリアは、そこに栄えている都市——真下を過ぎてゆく、スパイス・ラックのように区切られた高層ビルや、無数の貝を敷き詰めた噴水広場、深海まで続く水中博物館、太陽光を利用したガラス農園と、自動収穫を行うロボット・トラム、そしてその島のアイコンである、真珠色に光り輝く螺旋階段状の塔を見下ろした。先ほどまでのマリーナの趣とは少し異なり、美しく、メタリックでありながら、どこか目に馴染む曲線が、優美なタツノオトシゴを思わせる。ビルの上には、夕陽に臨むための特製テラスが設けられ、仕事終わりの研究者たちは、搾りたてのジュースを飲みながらそこに横たわる。彼らの上には、どこまでも茜色の夕焼けが広がるであろう。マリーナの特製合金を利用し、少し古びた赤銅を思わせる金属が差し色に目立つその場所は、文字通り、他国の人間の目には黄金郷の如く映った。

 その時の彼女の表情を形容するなら、恍惚、それ以外になかった。感動のあまり喉をつまらせ、激しく胸を弾ませながら、喘ぐように熱っぽい声で、そっと囁く。

「なんてたくさんの、不思議なものがあるのかしら。こんな——こんな街、見たことないわ。同じ人間が住んでいるとは思えない。これが未来だなんて、夢みたい……」

 カメリアは、細胞のひとつひとつから湧きあがる喜びで、全身をわななかせていた。その子どものような素直さを意外に思い、隣にいるカメリアを、眩しげに見つめる。その目は熱心にビューポートの向こうへとそそがれ、表情は滲むように明るく、そして限りない夢を見ていた。

「気に入ったかい?」

「ええ、ええ——こんな素敵なことは、生まれて初めてよ!」

「そいつはよかった。思う存分、楽しんでくれよ」

「デイビスさん、もっともっと速く!」

「よーし、待ってましたあ。行くぜ、カメリア、フルスロットルだ!」

 デイビスはスロットルレバーを叩き込み、ぎりぎりまで海に接近すると、その水面を千々に吹き飛ばした。ざあ——と喝采めいた水しぶきをあげて、ひとつひとつがダイヤモンドよりも強烈に輝く、その無数の水滴を突き破り、もっと彼方へ。そこには、果てしない未知の世界が広がっていた。誰も、こんな光景を見たことがない。地図にも、記憶にもない広大な海の上で、すべてが頂点を極めていた。

 幾千、幾万の反射が、この雄大な大海原を輝かせることだろう。透き通るディープ・ブルーの水底には、幾つのドラマが繰り広げられていることだろう。生命が溢れ、その世界の美しさを謳っていた。カモメは、膨大な風の中に白い翼を羽ばたかせ、飛び魚は銀鱗を閃かせて、鰭に陽を滑らせる。遙か、張り裂けるほどに漲る爽涼感に身を委ね、目を瞑ると、飛行機なんて何もなくて、本当に自分が飛んでいるかのようだった。いや、飛んでいるのかもしれない。本当は、最初から飛べたのかもしれない。夢が叶うように、願いが届くように、今、ここで奇蹟が起きているのかもしれない。ただほんの少しの勇気とともに、鳥のように、この両腕を広げたならば。そうすれば、この自由のさなかへ、永遠に旅立ってしまえるのかもしれなかった。潮風のようなデイビスの笑い、そして鈴のようなカメリアのさざめきは、黄金の陽射しの中でひとつに響き、踏み躙られることのない命の輝きとなる。二人の冒険家を乗せて、激しい風を刈り取り、陽だまりを断ち割って、ストームライダーは空をゆく。清らかな海の匂い、勇壮な風音、燦然と打ち砕けてゆく無数の反射光。スピードをあげて、さながらこの大自然の一部となったように飛翔するストームライダー。何も欠けているものなどない、何も。その壮大な太陽の下の旅路に、眩暈がするかのようだった。

(素晴らしいな)

 空と海。その二つの無限の間で、デイビスは息を吐く。粒子を撒き散らすように輝く、銀色の両翼。その影と戯れるように、イルカが爽やかな水しぶきを立てて飛び跳ねる。

(ストームライダー。やっぱり俺には、お前がいなくちゃ、だめなんだ)

 海は限りなく彼らを誘い、未知の世界へと連れ出した。確かにこの先に、彼らの知らない国々が、待っていた。みずみずしい好奇心に、胸がざわめく。この限りない世界の果てへ、どこまでもどこまでも飛んでゆきたかった。

「ねーえ、デイビスさん?」

「なんだい?」

「あなたって、冒険は好き?」

「ああ。大好きさ」

 カメリアは、その栗色の深い睫毛を瞬かせると、恍惚とした眼差しを、蒼穹に高くのぼる、唯一無二の太陽へと差し向けた。

「こうして空を飛んでいると、この世は何もかもが美しくて、何も恐れることはなくて。人生は素晴らしい冒険旅行で、生きる限り、私たちは偉大な冒険家なんだって——そんな気が、してこない?」

「同感だね。一度この自由を味わっちまったら、もうこの世の誰にも、俺たちを止めることなんてできない」

「ふふ」

 涼やかな笑い声が、機内にこぼれる。そしてそれに続けて、ゆっくりと、陶酔した言葉が紡がれた。

「それが、私たちの生きる意味。この限りない冒険とイマジネーションの海に、私たちが生まれてきた意味」

 デイビスはゆっくりと、隣にいるカメリアに目線を流した。測り知れぬ光に照らされる人間。はらはらと、黄金に透き通る巻き髪が揺れている。その激しい明度と強度の中で、天使のような彼女が微笑むと、世界全体が重力をなくして、無限の浮遊感のさなかへと飛びあがってゆく気がした。

「なあに?」

 唇が動いて、三日月型をつくると、デイビスも静かに、同じ微笑みを浮かべながら俯いた。

「いや。そんな顔もするんだな、と思ってさ」

「おかしい?」

「おかしくないさ。そっちの方が、ずっとキラキラしてて、いいと思うぜ」

 薄く笑って呟くデイビスに、カメリアは頬を赤らめて、そっと目を逸らした。この人、本当にポンポンと軽いことを口にするのね。どこまで本気で言っているのかしら。

 するとその時、不可解なものが目に映る。カメリアは首を傾げて、遠くの空を指差した。

「あら? デイビスさん、あの灰色のは、何かしら?」

 カメリアの示す方を何気なく見て、首を傾げるデイビス。しかし、やがて近づいてくるその光景に、彼は仰天した。

「げっ、ストームが来ちまった!」

 天と海を繋ぐように垂れ下がるその長大な渦は、漏斗雲を伴い、不気味な灰鼠色に海面へと魔の手を伸ばしていた。その付近だけ、奇妙に分厚い積乱雲が覆って陰に閉ざされ、まるで世界を異にしたかのようである。

 その時、ちょうど管制塔から無線が入った。周波数を合わせて、送信されてくる女性の声を拾いあげる。

《こちらベース・コントロール。キャプテン・デイビス、聞こえますか》

「あーあー、うるさいのが入っちまったなあ」

「どうする?」

「ちょーっと、寄り道することになるけど、大丈夫だよな?」

 そしてデイビスは、隣人がうなずくのを確認すると、無線をオンにして、管制塔内にいる相手に語りかける。

「こちら、ストームライダーII、キャプテン・デイビス。ターゲット把捉。現在地点、フローティングシティ北北西、沖合い15km付近。ベース、ストームの最新情報を」

《Attention。ストーム追跡レポートでは、中心気圧は967hPa。中心付近の最大風速は55m/s、瞬間最大風速は62m/s》

「なるほど。突発的なツイスターか」

《消滅できますか?》

「当たり前さ、俺はストームライダーのパイロットだ、訳ないぜ。よーし、ここからが腕の見せどころだ。しっかり掴まっていてくれよ!」

「きゃ……!」

 急加速。悲鳴をあげかけたその瞬間、デイビスはぐっと力を入れて、片腕でカメリアを支えた。どきりとした。細身の体型だと思っていたが、その腕には、一見しただけでは考えられないほどの力強さが漲っている。

 カメリアが言葉を出さないでいると、デイビスはニヤリと笑って、彼女の方を振り向いた。

「へへー、俺って頼もしいだろ?」

「もう、あんまりベタベタしないでよね」

「ちぇー、つれないなあ。君って、本当に毎日パスタ食ってる?」

「イタリア人が誰にでも気を許すと思ったら、大間違いよ」

 カメリアはむっとしている様子だったが、隣で苦笑しているデイビスを見つめていると、やがて躊躇いがちに、自らを支える手にそっと指を絡ませた。

「……ありがとう、デイビスさん」

 今度心臓を跳ねあげることになったのは、デイビスの番だった。触れられている箇所が熱くて、柔らかな布でも擦れているかのようにこそばゆい。堪え切れないように、そっと腕を自分の方へと引き戻しても、やはり、先ほどまで重ねられていた体温の感覚と、頬に火照る熱さは、当分消えてくれそうになかった。

 しかし、突然聞こえてきた若い女性の声は、無線にも拾われてしまったようで、声色を変えたベース・コントロールからの詰問が、冷たく機内に響いてきた。

《キャプテン・デイビス、まさかあなた——テスト運転だというのに、ゲストを乗せているのですか?》

「え? なんだって? よく聞こえないなあ」

 電波状況の悪い振りを装って返答するも、当然、本気にされるわけもなく。

《キャプテン・デイビス、聞こえているのは分かっています。無線を切ったら承知しま——》

 ぶつり、と音を立てて、その怒りに満ちた声を途中で打ち切るデイビス。コックピットに広がるしんとした沈黙の中、二人は揃って、顔を見合わせた。

「俺の職場にゃ、無粋な奴が多くてね」

 肩をすくめるデイビスに、くす、と笑いをこぼすカメリア。

「本当に大丈夫?」

「言っただろ、昇進より、ロマンが大事。そんじゃま、行くとしますか。ストーム退治にな」

 その言葉とともに、デイビスは操縦桿を引き倒し、ぐん、と高度を上げて、ストームの方向へ吸い込まれていった。みるみる、周囲の青空は不気味な暴風の渦に紛れてゆき、土煙や、水飛沫や、その他細かな障害物が唸り声をあげて飛び交う領域へと辿り着く。さすがにカメリアは不安を隠し切れない様子で、自身の左胸を押さえていたが、大丈夫だよ、と言い聞かせると、縋りつくようにこちらを見つめた。

「今回のストームは、だいたいレベル2くらいかな」

「危なくないの?」

「平気さ。レベル5でさえ消滅させたことがあるんだ、油断しなければ、必ず勝てるって」

 言いながら、ストームの目を見下ろす。積乱雲により暗澹とした眼下は、すでに壮絶な風が吹き荒れて、薄気味悪い風音と障害物の飛来音に埋め尽くされていた。激しい上昇気流が渦を巻いて回転し、周囲の太陽のそそぐ領域と比べると、地獄に閉ざされたかのようである。

「ストームディフューザー、発射用意」

 デイビスも精神を集中させて、深い熱を漂わせるような声を押し殺し、音声命令により装置を起動した。頭上の装甲に格納されたディフューザーが、安全装置を解除し、座標軸を固定。そのまま、撃ち出す方向を修正しながら定めると、不気味な青い発光の中、演算されたエネルギーを正確に蓄積した。

「発射!」

 その声を引き金に、オート発射されたストームディフューザーは、空気抵抗や風力を計算に入れながら、計算された目的地へと吸い寄せられてゆく。まるで嵐を切り裂く、精悍な弾丸。それが描く軌道は計算通り、一部の狂いもない。それもそのはず、ストームディフューザーは、ポート・ディスカバリー中の最新テクノロジーを結集させた、超高性能装置なのである。

 コツコツ、と人差し指でコントロール・パネルを叩きながら、デイビスは静かに言い渡す。

「よーし、そのまま、大人しくしていてくれよ……」

「デイビスさんっ!」

「なっ——」

 その瞬間、あえなく障害物に、かこーん、と哀しい音を立ててぶつかったディフューザーは、コントロールを失い、渦を巻くようにしてストームライダーへと向かってきた。この光景、デジャヴすぎる。

「なんでこっちに帰ってくるんだよー!?」

「避けて! 避けてー!」

 デイビスは、慌てて操縦桿を叩き込んだ。あわや、以前のミッションの失態を繰り返す直前で、がくんと機首が下を向いて、辛うじて難を逃れる。しかし、高度はどんどんと下がるどころか、もはや真っ逆さまの範疇である。

 そして、ストームディフューザーの内部時計のカウントは、ゼロへ。まさにストームライダーの真上で、火薬に着火、猛烈な炎をあげて爆発四散した。凄まじい爆風、炎熱とともに、ディフューザーの破片が飛び散り、その範囲は燎原の火の如く膨張しながら、悪夢のようにストームライダーへと押し迫る。

「くるぞーッ!!」

 デイビスは、カメリアを庇うように腕を伸ばしながら、叫んだ。ごうっと、風がストームライダーの全体を呑み込み、たちまち飛行機は失速した。攪拌されるような衝撃とともに、上へ下へ、怒濤の勢いで揺さぶられるストームライダー。その中は恐ろしいダッチロールの震動に襲われ、椅子にしがみつくのが精一杯だった。そして、ぬめる汗の中、ふっ、と機内の電気が消えるとともに、何やら左右の燃焼音も止んだ気がする。

「あれ。なんだか、静かになった?」

「うわあっ、エンジンが、止まっちまった!」

嘘でしょ!?

「こんなところで、ふざけてたまるかよ!」

 デイビスは胃袋まで冷えた感覚に襲われながらも、数度、蒼白な拳を振るって、スロットルの入りを確かめる。

「頼む、かかれよ——おらっ!」

 その時、インテークに飛び込んだ異物が、何かの拍子で弾き出されたらしい。片側のエンジンだけ、ボウ——と炎が復活し、高圧ガスがふたたび、激しい勢いで擦過音を轟かせる。

「よっしゃあ!」

 デイビスは歓声をあげたが、しかし、片翼だけでは到底、安定など得られるはずもない。そのまま、機体はエンジンのかからない舷を引きずるようにして、大きくロールしながら飛行する。はたから見れば、曲芸飛行かと思う角度——当然ながら、内部にも相当に苛酷な負荷がかかる。観測デッキにまったくゲストが搭乗していなかったのが、せめてもの救いと言うべきか。ピーナッツが一斉に床に落ちて転がり、まるで波浪のように激しい音を立てた。

 その間にも、コックピット内は、凄まじい喧騒が吹き荒れていた。互いの応酬が醜く交わされ、機内にぎゃんぎゃんと響き渡っていたのである。

「昭和の機器は、叩くと直るって言うわよ!?」

「馬鹿! これは、昭和の発明品なんかじゃないって!」

「押して駄目なら、引いてみろよ!」

「よしっ、物は試しだ!」

 ばき。

「……あ」

「なんか変な音しましたけど!?」

「引いてみろって言ったのは、君だろ!?」

「そんな怪力で引けなんて、言っていないわよ!」

 その時、眼前に押し迫る都市の様相——デイビスは歯を噛み締めて叫んだ。

「フローティングシティだ! 突っ込んじまう!」

 もはやエンジンに頼ってはいられない。デイビスはぐっと操縦桿を傾けてエルロンを動かし、機体を傾けると、ふたたび操縦桿を今引き起こしながら、方向舵操作ペダルを踏んだ。一気にバランスを崩したストームライダーは、横滑りしながらその機体を旋回させる。真下に、その合金の灯塔を光らせてそそり立つ、巨大な鉄錆色の灯台が迫ってきた。

「くっ……!」

 あわや、というところで間近の灯室を躱すと、そのまま、飛行貨物船用の広大な空中港内を、縦横無尽に駆けめぐる。突然飛来してきた飛行機に、作業員たちは驚いて逃げ惑い、縦積みにしていた貨物が衝撃波で吹っ飛んだ。薄暗い倉庫から光が投げかけられ、アラートが鳴り響き、赤い警告灯が回転する。揺れるクレーンの鉤や、泡立つ白波、さらには排気筒から煙をあげている、停泊中の船までもを横切って、激しい揺さぶりの中で彼は操縦桿を握り続ける。

「ああっ——!」

「デイビスさん、頑張って!」

 涙ながらに、カメリアは声援を送り、神様、どうか無事に辿り着けますように、と心中で必死に唱え続けた。がくん、と機内を揺るがした衝撃で、ふたたび無線がオンになり、管制塔からの声が飛び込んでくる。

《ベースより、ストームライダーIIへ、応答せよ! キャプテン・デイビス、聞こえますか!?》

「聞こえているけど、今、お喋りしてる場合じゃないんだ! おい、エンジン、かかってくれよ!」

 パイロットの悲痛な叫びが、ストームライダー中に響く。そして、彼らの祈りがついに天に通じたのか、ようやく、ボウ——という轟音とともに、最後のエンジンが回復した。

「やったぞ!」

 ただちに、両舷をフルスロットル。安定したまま急上昇したストームライダーは、薄暗い鉄骨とパイプに囲まれた工業地域を抜け出して、一転、永遠と見紛うほどに遙かな蒼穹に包まれる。陽射しに照らし出された天上の世界は、先ほどまでの暗雲は見事に吹き払われ、平和な黄金の光に満ち溢れていた。その安息のさなかで、二人とも、ほっと胸を撫で下ろす。

「はあ、どうもありがとう。これで何とか、ドクター・コミネのところまで辿り着けそうね」

「ああ、怖がらせて悪かったな。じゃ、フローティングシティの駐機場へ」

 と——語る途中から、がくんと、何かが失われた感覚が機内を包み込む。一瞬の、胃の浮くような浮遊感とともに、ストームライダーの機首はふたたび、重力に引かれて真下に向き始めた。

「……と思ったら、またかよー!」

「死ぬ! 死ぬー!」

「メーデー! メーデー!」

 二人して神への祈りを捧げるも、今度ばかりは聞き届けてもらえなかったらしい。ヘリコプターのプロペラをすり抜け、泡立つ海面へと錐揉み状に落ちてゆくのに合わせて、彼らの頭を、走馬灯がぐるぐると駆けめぐった。

 そして————

 ざっぱーん、という盛大な水しぶき。双フロートのおかげで緩やかに浮上してゆき、浮島のように姿勢を整えたストームライダーは、洗濯機の如く振り回され、ぐったりと座席にもたれかかっている二人を、虚しく波の上に揺らしていた。

「……やれやれ、なんとか着水できたな」

「見事なダイビングだったわね、デイビスさん」

「まあね……」

 茫然自失としながら、デイビスは溜め息をついた。心なしか、襟が乱れているように思う。ビューポートのひび割れを恐れて、シールドを閉じてゆく間、カメリアは度重なる乱暴な運転を経験して、少し怒っているように見えた。

「だから言っただろ、行動で落とすって?」

「くだらない伏線ね!」

「ま、洒落みたいなもんだけどね」

「本当に無茶苦茶な人だわ、あなたって」

「でも、フローティングシティには着いたし。それに、たったひとりのゲストさんも、ちゃーんと楽しんでくれたよな?」

 まったく反省のかけらも見られないデイビスだが、その抜け目のない軽口につられて、思わずカメリアも微笑んだ。

「……まあ、楽しくないわけでもなかったわ」

「ほーら、見直した?」

《キャプテン・デイビス、司令室まで来なさい、今すぐ!》

「……っとぉ。やれやれ、お遊びはここまで、って感じかな」

 お手あげ、という様子で肩をすくめるデイビスに、カメリアはくすくすと笑って、髪を整え直す。

「ありがとう。こんなフライトの仕方もあるんだなんて、驚いちゃった」

「ま、気分転換にはなっただろ? よっ、と」

「ええ。いつかあなたも、私のドリームフライヤーに乗せてあげる」

「そいつは楽しみだ。特等席をとっておいてくれよ」

 ハーネスを外した二人は、緊急用のボートを漕いで、フローティングシティの浜辺へ。一気に開放的な陽が射してきて、彼らの全身を洗う。爽やかに溢れる午後の潮風を浴びつつ、とん、とカメリアのトランクケースを地面に置いたデイビスは、意気揚々として、彼女を振り返った。

「また来いよ、カメリア。そんでもって、急なフライトが必要になった際には、ストームライダーをよろしく!」

「……いえ。もう二度と乗らないわ」

「おいおーい、そんなに冷たいこと言うなって。最後くらい、機嫌を直してくれよ」

 デイビスは本日幾度目か分からない、つんと澄ました顔をしているカメリアと、苦労して目を合わせようとする。すると、不意にその顔が綻んだ。まるでくすぐったさを我慢するような、はにかむように初々しい表情で。

 デイビスはにやにやと笑って、軽薄に問いかける。

「惚れ直したかい?」

「あなたなんか、好きになりっこないわ」

「そいつは残念だな。でもこの先、きっと君は、俺のことを好きになる」

「それはまた、どうして?」

 からかうようにカメリアが言うと、デイビスはその日初めて、心底明るい、無邪気な笑顔をくしゃくしゃにしてみせた。


「俺も君と同じ、空が大好きな人間だからだよ。カメリア」


 海の香りが漂い、潮騒の満ちる中で、静かに見つめ合う二人。やがてカメリアもまた、向日葵のようにまばゆい笑顔を差し向ける。
 ようやく、ナンパ成功かな——と思いかけたその時、ヘッドセットの無線から鬼のような怒鳴り声が届いて、デイビスもカメリアも、思いきり肩を震わせた。

《キャプテン・デイビス、いい加減にしなさい! 女の子を口説いている場合ではありませんよ!》

「おっとっと、忘れてた。こちら、キャプテン・デイビス、ストームライダーII、Over!」

 慌てて無線を切り直すと、彼はニッと笑って、低く漲るような声で言った。


「じゃあな」


 それは、交わらないはずの世界線ですれ違った、ほんのちいさな邂逅。

 マリーナ史上最高のパイロットと、ハーバー史上最大の発明家による、真昼に繰り広げられた、たった一日だけの空の冒険だった。





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