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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」5.あの人がかけてくれた魔法は、今もここに生き続けているんだ

「平和だなー」

 腑抜けた声とともに、デイビスはごろんと寝返りを打った。土の入り混じった草の匂いが、鼻腔をくすぐってゆく。無精、ここに極まれり、と言うべきか。春の麗かな陽光を浴びながら、彼は陸揚げされたアザラシのように、晴れ渡る午前を満喫していた。

 あのウインドライダーでのフライト騒動があった、翌日。今日も晴れ渡るように青空が広がる、良い天気である。自宅から数分歩いたところに広がっている、芝生を敷かれた丘は、彼のお気に入りのスポットだった。多くの人間が街に出かけにゆく中で、何もないに等しい丘は、意図せずして穴場となっている。蟻の観察をしたり、草の筋を数えたりと、何の社会の益にもならないことで時間を潰しながら、時折り煙草をふかし、春風の中に紫煙を流す。これほど楽しいことは、世に少なかろう。

 久々の自宅での生活は、心に平穏を取り戻させてくれた。昨日のドタバタ騒ぎに限らず、振り返れば、ロマンとか、スリルとか、そういった快楽ばかりを追い回し、心身にまったく休息を与えていなかったような気がする。特にここ数年は、休日問わず働き詰めで、ストームライダーに情熱をそそいでいたのだった。たまには休暇と思って、この二週間をゆっくり過ごそうか。散歩や読書も、悪くない。夜は酒を買ってきて、春の月を見ながらぐうたらするつもりだった。

 南風で飽和状態の頭で、そんなゆるゆるとした計画を立てながら、デイビスはひたすらに怠けている。ダメ人間と言われようが、何でもいい。着替えて、家の外に出ただけでも褒めてもらいたい、というのがデイビスの持論である。

 ああ、なんだかすっごくいい感じだ。
 今日はこのまま昼寝して、明日からまた元気よく頑張ろう。

 シャクトリムシのようにうごめきながら、煙草に火をつけようとしたライターを漁っている間に、その予定を破壊する諸悪の根源は、静かに近づいていたのだった。

「ふんふんふーん。……ん?」

 驚くほど深い青の底の一点から。
 それはまるで、隕石のように——

 どざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ、と物凄い重量の雪崩に巻き込まれ。爽やかな春の草の匂いが漂う中、胃にダンベル以上の重みが直撃し、勢いで、ごろんごろんと麓まで転げ落ちそうになる。

「ふぎゅぅッ——」

 慌てて地面を掴み、なんとか丘に倒れ込んだだけで耐える。重くて柔らかなものを抱きすくめたまま、ぜーはーぜーはーと荒い息をして胃の激痛を逃がしている彼の鼻先を、音もなく、美しい隼の羽根がかすめていった。 
 背後の朝の光を透かして、艶やかにけぶっている鳶色の巻き毛と、その頭に舞い降りる隼。それに、胸元にキラリと光る金糸雀のブローチには、相当にフレッシュな記憶として、海馬に焼き付けられていたのだ。

「え、えーと。チャオ、デイビス」

 とりあえず、取り繕った笑顔で片手を上げてみるカメリア。相変わらず髪に松ぼっくりをくっつけているのは、もはや何かの呪いとしか思えない。

「かっ、カメリア。あんたって奴はぁ——」

 頭をぐるぐるとめぐる罵詈雑言の嵐。遅れて、後方の頂上に軟着陸するフライヤー——車輪が軋んでバウンドし、寸断された草のかけらが飛び散っていた——を見て、デイビスはたちまちのうちに事態を察した。

「昨日の今日で、もうポート・ディスカバリーに戻ってきたのかよ!? まだ二十四時間も経っていないんだぞ!」

「あら、私の世界からすると、あれから一週間は経っているのよ。それに、そろそろお借りしたハンカチを返さなきゃなあ、と思って」

 物凄い剣幕で唾を飛ばしてくるデイビスに、カメリアは慌てて防御壁のように、ぴん、とハンカチを張ってみせた。念入りに洗濯とアイロンがけをしてくれたらしく、真っ白に洗われたそれは、見事に皺ひとつない。それに、少しばかりいい匂いが漂ってきた。思わずデイビスは、鼻孔を近づけてみる。

「おー。すみれの香りだ」

「でしょ、お気に入りの香水を使ってみたのよ。あなたが好きかなぁと思って」

 小刻みに鼻をうごめかすデイビスに、ふりふりとハンカチを振るカメリア。はたから見ていると、長閑な草原の上で犬と飼い主が遊んでいるような、牧歌的な風景——と見えなくもないのだが、しかし我に返ったデイビスは、人間の威厳を取り戻したかのようにぐん、と背筋を伸ばして立ち上がり、野原に正座するカメリアを叱りつけた。

「あのなー。俺は年がら年中暇じゃないし、ずっとあんたと遊んでいられるわけでもないんだからな。そうしょっちゅう来られたって、あんたに構ってもいられないんだからな」

「あら、別にいいわよ。私ひとりで、この時代を謳歌しているから」

「(むっ)」

「お忙しいなら、無理にとは誘わないわ。ねえ、アレッタ。デイビスのことは、放っておいてあげましょうか」

 のんきに辺りを見回すカメリアに、畜生、勝手なことを言いやがって、と歯噛みする。それに実際、彼の予定は清々しいほどに空っぽなのだから、暇かと聞かれれば答えに窮するに違いない。

「それにしても、いい天気ねー。おやつを持ってきて正解だったわ。さ、ピクニックにしましょ」

「おい。わざわざ未来にやってきたのは、ピクニックをするためなのか?」

「ええ、そうよ。この日のために、張り切って準備したんだから」

 そんなの、元の時代でやれよ、とデイビスは追い払いたかったのだが、カメリアは鼻歌を唄いながら、どこからか取り出した大きなギンガムチェックの布を草の上に広げ、持ってきたバスケットを取り出すと、数分のうちに、簡単な食卓を整えた。
 ガラス瓶に詰めたワインと紅茶、焼き菓子、リンゴンベリーのジャム、クロワッサン。素朴と言ってもいいくらいの内容ではあったが、好物ばかりのラインナップに、目を輝かせるカメリア。次いで、デイビスの腹の音が鳴った。そういえば今朝は食材を買い忘れて、何も食べてはいなかった。これも節約と自分を納得させていたものの、いざ食べ物を目の前にすると、羨ましい以外の感情が湧いてこない。

「♪どこにいるの 早くきてよ 私だけの恋人〜〜〜〜。デイビス、よければあなたも、好きなだけ食べていいわよ」

「えっ! 俺もいいのか?」

「ええ。指をくわえて見ていろなんて、意地悪言わないわよ」

「あんたいい奴だな、カメリア。それじゃせっかくだから、遠慮なく——って」

 靴を脱いで布に上がろうとしたデイビス。そこへ、弾丸のような生き物が歓迎してくれる——ぴた、と彼は動きを止めた。髪の毛一筋たりともデイビスの存在を許容しようとはしないその隼は、逆立った砂色の羽と、怒りで四角くなった黒い瞳、さらに凶器のような爪を剥き出しにし、それどころか、目玉をくり抜くほどに本気で嘴をかち鳴らしてくるのである。

 また来やがったのかよこいつ、という敵対心とともに、その怒りに燃える黒い瞳と目を合わせたデイビスは、歯を食いしばり、ギギギギギ、と全力でその嘴を押し返す。鳥と格闘する、という切実だが意味不明な事態は、はたから見れば馬鹿馬鹿しいダンスを踊っているように見えるに違いない。

「カメリアあああああああああああああこいつをなんとかしてくれッ!!」

「いけないわ、アレッタ。あなたのお食事は、こっち」

 情けない叫び声をあげるデイビスには構わず、カメリアは生肉の詰まったガラス瓶をバスケットから取り出すと、静かに布の上に置いた。しぶしぶ、と言ってもいいような恨みがましい目を残して、アレッタはガラス瓶の前へと飛び立ち、ピンク色の艶を浮かせている生肉を啄む。鋭い爪と嘴でみるみる肉を引きちぎり、器用に平らげてゆく隼を見て、デイビスはゾッと肌を粟立たせた。一歩間違えたら、俺があの生肉だったんじゃないか? くちゃくちゃとおぞましい咀嚼音を立てて胃袋に流し込んでゆく姿は、怪鳥の一言である。その隣で、平然とビスコッティを頬張ることのできるカメリアも、もはや凡人ではあるまい。穏やかにハミングしながら日光浴をしている飼い主と、威嚇のオーラを漂わせる鳥とのコントラストは、物凄いものがあった。

「あらデイビス。食べないの?」

「しょ、食欲が湧かないんだ」

 鷹に射竦められたネズミのように震えながら、デイビスは首を振った。

「なら、クロワッサンだけでも口にしたら? 自信作なのよ、それ」

「はあ。じゃ、これだけ頂くか」

 勧められるままに力なくクロワッサンを手に取り、一口齧って、デイビスは言葉を失った。表面は卵黄を塗られてカリッと香ばしく、枯れ葉のように繊細にくずおれてゆく生地に、適度に練り込まれたバターの暖かい香り、全体の膨よかなほの甘さ。驚いてカメリアに視線を送ると、彼女は二つ目のビスコッティに手を伸ばしながら、そのクロワッサンに纏わる話を教えてくれた。

「うちのパネッティエーレに作ってもらったのよ。冷めても美味しいものを、と頼んだのだけれど、うまく焼いてくれたみたいね。バターの比率がコツなんですって」

「あんたの家には、パン職人がいるのか?」

「ええ。代々うちに住み込んでもらっていて、今は三代目だったかしら? ファルコ家には欠かせない存在なのよね」

 驕った態度でもなく、無頓着に告げながら紅茶を注ぐカメリア。超がつくほど中流家庭に生まれたデイビスは、彼女との間に、絶壁のような格差を感じた。そういえば、世間離れした言動ばかり繰り返す彼女ではあったが、所作は流麗で落ち着いており、話し方にもどことなく品がある。意外にいいところのお嬢様なのか——と頬杖をつきながら感心するデイビス。ポート・ディスカバリーは新興都市であるがゆえに、こうした古くからの家柄を守り続けてきた人種は、珍しかったのである。

(そんな高貴なご令嬢が、ふらふらと別の時代の男に会いに来ていいのかねえ。まあ、庶民の代表格みたいな俺と違って、彼女にはたっぷりと自由時間が与えられているんだろうけど)

 クロワッサンにぱくつきながら、デイビスは首を捻る。

 半分ほど腹を満たしたあたりで、懐に入れていたCWC支給の通信専用携帯機が鳴った。

「んー? ベースからメッセージだ」

 またお小言かな、と思いきや、その内容は、昨日のフライトや謹慎には一切触れておらず、至極簡素なもの。携帯機の画面には走り書きにも満たない、たった一文しか記載されていなかった。

『ストームライダーのビューポートシールドのビスが不足しているのですが、近日中、業務時間を取れませんか?』

「ビス? 確かあれって、ミステリアス・アイランドの特注品だったよな」

 オレンジピールの詰まった甘い焼き菓子を呑み下しながら、彼は記憶の底にあるその島の情報を引っ張り出す。

 ミステリアス・アイランドとは、ポート・ディスカバリーとは比較的縁の深い、周囲から隔絶された南太平洋の海洋島である。人口は僅かに九〇四人、気候は温暖で、アホウドリや養殖された海藻を除外すれば、自然生物の種は非常に限定されている。約五百から一千年前に二種の海底火山の複合体より誕生し、今なお火山活動が活発に続いているその場所は、降り注ぐ火山砕屑物や火山弾スパター、地獄の釜のように煮え滾った間欠泉カルデラ・フューマロール、有害ガスによって灰色に朽ちた枯れ木など、ほとんど死の島と呼んでも差し支えない厳しい自然環境が広がっている。
 しかしながら、長らく諸国と関係を絶っていたその孤島は、驚くべき高度な科学技術を有していた。というのも、その無人島の開拓に至った伝説的な人物は、世に類を見ない才能を神から授けられ、三十年にも渡る航海の果てに、その神秘的な領域こそを自らの死に処として身を寄せたのである。そして彼の魂の精髄とも称するべき、荘厳な景色の数々と研究結果を岩肌に刻み込み、あらゆる国際機関との連携を阻んで、独自の探究を積み重ねてきたのだ。その外部への依存度の低さと技術の網羅性は目覚ましく、数十年前までは農業・水産業含む第一次産業、工業・建設業含む第二次産業、通信・発電含む第三次産業すべてが島内で完結していた事実からも、その驚異が十二分に伝わるだろう。まさに科学技術のガラパゴス島、と言っても過言ではあるまい。一握りの優秀な科学者(彼らは総じてクルーと呼ばれる)とその招待客を除き、長年非公開とされてきた秘密基地であったが、指導者たる船長の逝去を皮切りに、依然として一日の受け入れ人数や入国審査は厳しく設定されているとはいえ、少しずつ外部との交流も進められ始めている。中でも、ポート・ディスカバリーの掲げる理念はミステリアス・アイランドと深く共鳴しており、高度な環境科学——特に潜水艇分野——に関して、互いに技術協力を締結していたのだ。

 ストームライダーは、その九十パーセント以上の部品がポート・ディスカバリーで製造されているものの、繊細な職人技を要する固着具は、ミステリアス・アイランドから輸入していた。
 たかがビスと侮るなかれ。ストームライダーの活躍する環境は苛酷な嵐の中であるだけに、世界最高レベルの屈強さを備える必要がある。そこで世界中の工場を調査し尽くし、白羽の矢が立ったのが、三十年の航海に耐えたミステリアス・アイランドの潜水艦、ノーチラス号である。度重なる深海の水圧に耐えたその稀代のモデルを参考に、ストームライダーの機体外部を固定するビスは、すべてミステリアス・アイランドに発注されていたのだった。

 ほどなくして、携帯機から着信音が鳴り始めた。アレッタの顔についた肉を拭ってやっているカメリアを尻目に、デイビスは背を向けて電話をとる。

「はい、デイビスです」

『私よ。悪いわね、謹慎期間中に』

「いや、構わないよ。ストームライダーのビスが足りないって?」

『そうなのよ。あの通り、生産国は孤島だし、輸入にも時間がかかるんですって。ビスの到着を待っていると、ストームライダーIIの修理は、あと一か月くらいは遅れそうなのよ。
 そこで思い付いたんだけど、あなた、謹慎中だから給料を減額されているでしょう。今回、直接ミステリアス・アイランドに出張してビスを引き取ってもらえれば、通常出勤分の給料にプラスして、出張費を上乗せすることができるの。書類上の謹慎期間だけは変えられないのだけれど、お金の面だけでも、あなたにはメリットがあると思うわ。どう、引き受けてもらえますか?』

 デイビスは色めき立った。その両目には浅ましい金色の$が浮かんでおり、棚ぼた以外の何物でもない、という表情がギラついていた。
 事実、それはベースからの救済措置であったのだ。彼の節約事情をスコットから知らされたベースが、あまりに不憫になり、仕方なしに現在のタスクをひっくり返して発掘してきた仕事。そのため、彼がここで受けずとも、CWCには何の支障も出ない代物である。それを重々知っているデイビスは、手を引っ込められないうちにと、電話越しにも関わらずグッと胸を反らし、二つ返事で飛びついた。

「いいとも、任せてくれ。何といっても、俺の可愛い可愛いストームライダーのためだからな。ピャッと行って、ピャッと受け取ってきて、ピャッと持ち帰ってくるよ」

『ありがとう。出張にかかった費用は、後ほど精算するから、すべて領収書を取っておいてくれる?』

「……ん?」

『じゃあ、よろしくね。後で詳細を送るわ。頼みましたよ、デイビス』

 ぷつりと、いつもの習慣で音声の途絶えた電話を切りながら、デイビスはたった今、ベースから告げられた内容を胸の中で反芻した。

 出張の費用は、後から精算?

 いや、ねえ。そんな金はねえ。一時的に立て替えるなどという贅沢は、彼の財布には存在しない選択肢だった。さすがのベースも、まさか些末な貯金以外の金額が、彼の手元にまったく残されていないとは、予想もしていなかったのだろう。

 そして——姑息なことに長けた彼の脳は、たちまち糸口を嗅ぎつける。昨日のただ一日を過ごしただけで、金の問題を解決してくれそうな人間。それはすでに、パブロフの犬の如く彼の中にインプットされていたのだった。

 金をたかるわけじゃない。
 ただほんの少し、力を貸してもらうだけだ。
 もちろん、俺はヒモじゃないし、ろくでなしでもない。昨日、ペコが言っていたのは戯言だ——

「なあ、カメリア。確かフライヤーって、時間だけでなく、空間も超えられるんだよな」

「うん、そうだよ。それが何か?」

 ティーカップについだ紅茶を嗜みながら、カメリアは優雅に返答した。古代ローマ人よろしく、怠惰にクッションの上に寝そべり、くつろいでいる。

「ふぅ。やはり紅茶は、ダージリンに限るわ」

「カメリア嬢。お注ぎいたしましょう」

「あら、気が利くのね。お願いしようかしら」

 さっと紅茶のガラス瓶を構えたデイビス。寝転んだカメリアに向かって跪き、完全に恭順を示すポーズである。美しい愛妾ゾベイダと、彼女に忠誠を誓い、踊れと命じられれば死ぬまで踊る金の奴隷のように、その関係性の構図は側から見ても一目で明らかであった。彼の女主人の差し出したティーカップ。デイビスはしずしずとこうべを垂れ、高くからそのガラス瓶を傾ける。まだ若い太陽の光を屈折させて、琥珀色の液体が、爽やかな音とともにそそがれていった。

 紅茶のシャンパン、紅茶のボルドーとも称される、世界三大銘茶のうちのひとつ。ティーカップの内側で高貴に波紋を波打たせるそれは、最高級のセカンドフラッシュを使用し、茶葉の栽培に適したヒマラヤ山麓から直接送られてきたものである。そのマスカットのように馥郁たる香りには、他の紅茶にはない格別の陶酔がある。一口含んだだけで、官能的とも呼べる清々しい香気が、胸のすみずみまで立ち広がってゆく。それはまさしく、浸透する空気と、研ぎ澄まされた鼻の麗しい蜜月、甘い融合。ほう、と鳥の尾を震わせるような溜め息をこぼして、カメリアは目を見開き、その長い睫毛を二、三度打ち震わせた。

「おほほほほ、気分がいいわ。奴隷、なにか芸をなさい。紅茶だけでは娯楽が足りなくてよ」

「カメリア。世紀の天才科学者、我がご主人様」

「あらあら、どうしたのデイビス。今さら分かり切ったことを」

 言いながらも、ぐんぐんとカメリアの鼻が伸びていっているのがわかる。その鼻梁の長さを地面に落ちた影で目測しながら、デイビスは奴隷の如く俯き、流暢に語り出した。

「カメリア、今日はとってもいい天気だよなあ。ほーら、蝶は飛んでるし、鳥が歌ってる。まるで俺たちの周囲が、大自然に祝福されたパラダイスのようだと思わないか?」

「蝶? どこにも飛んでいないけど——」

「おっと、目の前の女性があまりに眩しいから、うっかり目がくらんで見間違えてしまったようだよ。しかし網膜に映り込んだ残像すらも神々しい、俺のような下賤の民には仰ぐのもおこがましいくらいだ。
 俺は思うんだが、あんたのように美しい女性のそばで空中散歩できたら、どんなに楽しいかなって——」

「デイビスったら——まあ、まあ、まあ」

 カメリアはすっかり感激して、ぶわわっと辺りに花を飛ばしながら、彼の両手をしっかと自分の手で包み込んだ。

「分かったわ。あまり乗り気じゃなかったけど、あなたがそこまで言うのだったら、仕方なく駆け落ちしてあげてもいいわ」

「そうだな、ちょっとミステリアス・アイランドまで行こうか、ハネムーンで。一緒についてきてくれるか?」

「もちろんよ、私のデイビス。あなたがそれを望むなら」

 見つめ合う二人。互いの網膜に映り込む姿は、流麗な鼻、白い歯、鋭利に尖った顎、何より星が煌めく巨大な瞳にデフォルメされて、輝くばかりのオーラを放っていた。その頭上で、愛を結びつける白鳩よろしく、アレッタがデイビスのこめかみを突っつき、だらだらと流血させている。まさに地獄絵図である。

「ではでは、フライヤーを準備しなくっちゃねー。今日はアレッタの機嫌も悪くないし、すぐに出発できるはずよ」

 ピクニックの道具を片付け終わると、早速カメリアはフライヤーに近づいて、布巾で座席の革を拭う。気味の悪いほど満面の笑みである。

「ああ、これが二人のかぼちゃの馬車になるのね(うっとり)。ロマンチックじゃないの。ちゃんと埃を拭いておこーっと」

「カメリア、行きっぱなしじゃないからな、ちゃんとこの時代に戻ってくるんだからな。それだけは守ってくれよ」

「努力するけれど、責任は取れないよ。まだ実験段階なんだもの」

「オーケー、了解だ」

 デイビスは親指を上げてそれに賛同した。貴重な財源確保がかかっているとなれば、背に腹は変えられない。それに、まだ解き明かされていない試作品に乗るのは、少しワクワクすることだった。

 カメリアは、初めて人と相乗りすることもあって、天にも昇る心地だった。フライヤーをぴかぴかに仕上げ、庇の具合を調整し、花まで添えてくれる——搭乗の邪魔にしかならなかったが。しかし文字通り、彼女が浮き足立っていることは明白だった。まだ地上にいるにも関わらず、すでに数センチほど、地面から浮遊しているように見える。

 あらかたの支度を終えて、二人はフライヤーに向き合った。

「さて。どうやって乗ればいいんだ?」

「シートの頭の方に、羽のマークがあるでしょ? このラインよりも座高が低い人は、シートベルトを股の間の輪っかに通して止めるの。デイビス、あなたは大人だから大丈夫そうね。カチッと音が鳴るまでバックルを差し込んだら、黄色い紐を引っ張ってみて」

「よし、装着したぞ。次は?」

「うーん。ここからが長いんだけどー」

 カメリアは眉尻を下げて、どう伝えたらいいものか、という表情をした。

「飛べ! って強く思うの」

「えっ。……それだけか?」

 力強く語るカメリアに、一瞬、流されそうになりながら、デイビスは聞き返した。

「違うの、この後が肝心よ。ずっと強く思っていると、だんだん飽きてくるでしょ」

「うん」

「すると気が散り始めて、だんだん違うことを考え始めるでしょ」

「……うん?」

「すると突然、ふわっと動き出す時がくるのよ。いつか」

「……………………うぅーん?」

 デイビスは思いっきり怪訝な顔を露わにしてみせる。パイロットとして、複雑な飛行の仕組みを勉強してきた彼だけに、その曖昧な情報のみでは、信頼を抱くにはほど遠かった。

「すまないな、疑っているわけじゃないんだが。……もしかして俺たちは今、モーゼの奇蹟を待っているのか?」

「ち、違うわよ。ここが、これから究明すべき課題、そのいちよ。『フライヤーは、何を原動力にして飛んでいるのか』」

「……………………本当に、待っていれば飛べるんだろうな」

 怪しがるデイビスに、カメリアはぴんと胸を張って。

「私を信じろ! ——としか言えないわ」

「なんか、それはそれで、違う映画になってきたよーな」

「たぶん私も、同一作品のことを思い出しているかも」

 二人の頭の中には同時に、マシンガントークの青い魔人と、ペルシャ絨毯が飛び回る映画作品が浮かんでいた。あー、そういえばあれ、主人公が素性を詐称する映画でもあったよな。まさかカメリアも偽って——いるわけはないか、流石に。となかなかに失礼な連想を、自ら首を振って打ち消すデイビス。

 一方のカメリアは、彼とは別の視点から、その物語を回顧していたらしい。ゆっくりと髪を解いて、波打つような巻き毛が、彼女の肩を包み込む。シニョンを下ろした髪は艶を流して、ふっくらと紅らんだ唇を、僅かばかり大人びたように見せていた。

「あのお話は、小さい頃に憧れていたのよね。いつか、空への散歩を誘ってくれる人が、窓辺に現れるんじゃないかって」

「はは。そこから、自力で空を飛ぼうっていう方向に至るんだから、あんたも強いよなあ」

「ええ、でも。……今も心のどこかで、期待しているのかもしれないわ」

 彼女は常らしからぬ、不思議に熱っぽい声で囁いた。

「違う世界に住んでいた男女が、出逢い、落ち合って、恋をして。魔法の絨毯に飛び乗って——どこまでも広がる夜空と、ダイヤモンドのように輝く星々に囲まれて。この世のすべてを見るために、二人きりで、夜の地平線を永遠に翔け抜けてゆくのね」

 恍惚——というよりは、身を焦がすように、それでいてどこか切なく、不思議と寂しそうに。
 カメリアは自分の足下を見つめながら、ぽつりとそう言った。彼女の、どこか陰りのある表情を気に介さなければ、ロマンティックな空想——と結論づけられるのだろう。案外、先ほどの駆け落ちだの何だのという戯れ言も、もしかすれば心に引っかかっていることがあるのかもしれなかった。

 その様子につられて、デイビスは試しに、先ほどの戯れ言が、現実に起きた場合を想像してみる。彼女と駆け落ち——毎日が死ぬほどのドタバタ劇に見舞われそうである。アレッタには突つかれ、あちこち珍妙な場所へ連れ回され、エキセントリックな発明品の実験台になり。まあ、退屈する心配はしなくていいのが、メリットといえばメリットなのかもしれない。しかしそんな事態は、当分憂える必要もないであろう。ありとあらゆる点で、カメリアは彼のタイプからは外れていた。

「あれ……?」

 その時、アレッタがフライヤーの頂点から飛び立ち、滑らかに丘を滑り降りていった。麓に着く前に、その生ける弾丸はぐん、と急上昇の途を辿って、見るも鮮やかな二次曲線を描き、フライヤーの辿るべき軌道を示した。そして、それを追いかけるように——一瞬の、心躍るような浮遊感が、背筋から脳天までを突き抜けてゆく。ぞくりと、デイビスは身震いした。

 いつのまにか、空気が違う。ほのかに冷たい風や、何かが起こるという痺れるような予兆が、大気中に脈打っている。蝶も、陽射しも、風に揺れる草も、どこか息を詰めて、その始まりを期待しているかのような——そして、なぜかひとりでに、フライヤーが軽く地を転がったかと思うと、次の瞬間、たちまち活魚のような勢いを得て、真っ直ぐに太陽に吸い込まれてゆこうとする。その瞬間の浮遊感は例えようもない——理解よりも先に全身を駆けめぐったのは、イカロスが初めて空を飛んだ時と同じ、胸まで迫りあがってくるみずみずしいばかりの興奮だった。平らかな翼を真横に張り出し、めまぐるしく駆け抜ける風を切り、渦巻かせ、沸き立たせ、そしてそれを飛翔の原動力として浮きあがってゆく。足の下がどんどん遠くなり——そう、ステップがないのだ!——宙に放り出された脚は高所の孤独さを謳歌し、足の指は靴を隔てて、めざましい陽光の中を泳いでいった。そして爪先の向こう側には、遠い遠い、魂から滲み出てゆくような眺め。頭から爪先まで、どよめく風の海を真っ二つに断ち割ってゆく——ばたばたと衣服が鳴り、皮膚は太陽に照りつけられてゆく。それは、帆やカイトや気球のように、彼らの全身を怒涛の爽快感で包み込み、まっさらに氷解させてゆくのだった。

 世界中が、フライヤーを軸にゆっくりと回転する。彗星のように深い蒼穹が頭頂を超え、彼らの翻る毛髪が、風にゆれた。悠然と、太陽の光が網膜を照らし出し、まばゆい残像を残して、遥か背後へ過ぎ去ってゆく。次から次へと流れ続ける、光を浴びた建築物が角膜を灼き、轟音を立てて後方に飛びすさり、カモメや海の輝きが瑠璃色の空に映えてゆく。万物がねっとりとした、目に痛いほど鮮やかな絵の具を吸い込み、しかもそれらは活きて、激しい生命に躍っていた。何もかもが遠い眼下に繰り広げられる中を、強烈な陽射しが吹き抜けていった。

 デイビスは、魂の底まで魅入られたように、その鳥瞰の世界を見ていた。ウインドライダーやストームライダーで、今までに何度も飛んだことがある——だが、これは根本的に飛行の意味が違う。果てしない速度で切り裂くような、勇邁なフライトではなく、ただ鳥のように自由気ままに——風の導かれるがまま、雄大に飛んでゆくのだった。

 ようやく、わななく口が動いた。
 本当は、ずっと感動を分かち合いたかったのかもしれない——それでも、胸に湧き上がった思いを、ようやく詰まらずに外に出せたのが、この瞬間だった。彼の声は、高く高く、隼の声のように澄んだ空に響き渡った。

「カメリア——嘘みたいだ。俺たち、飛んでるぞ!」

「ほらね、信じていれば、飛べるって言ったでしょ?」

「ああ、あんたの言ったことは本当だった。カメリア、あんたは正真正銘の天才だ!」

 少年のような声をあげて、喜びを爆発させるデイビス。声はたちまち大気の質量に呑まれて、皓々たる碧空に蒸散していった。ウインドライダーでは得られない壮大な臨場感が、彼を押し包む。カメリアは母親のようにデイビスを見つめながら、自らも同じ夢に浸るように、暖かい微笑を投げかけていた。昨日のフライト時と、ちょうど立場を入れ替えたようだ。今日は、彼が処女航海に目を見開き、そして彼女こそが、この大空の水先案内人なのだった。

 しかしデイビスの快哉は、大声だけでは到底収まるはずもなかった。カメリアの手を握りしめ、吹きつのる風の中で、激しい畏敬の念をその瞳に煌めかせ、熱心に囁いた。

「カメリア、あんたは間違いなく、史上最高の科学者だよ。俺が保証する。誰よりも偉大で、聡明で、人類の航空史に名を残す、本物の発明家なんだ!」

 深く芯の通った声で放たれる称賛——それが面と捧げられてくる戸惑いで、カメリアは少しばかり、頬を赤らめて俯いた。
 デイビスはすぐに新しい光景に夢中になり、手を伸ばして、吹き抜ける風を捕まえようとしていた。まるで彼自身が鳥になったかのようだ。青空をバックに生き生きとはしゃぎ、その意識はどこまでも未来にしか向けられていなかった。

 カメリアは身を乗り出すと、どこまでも響く指笛を吹き、前方を飛んでゆくアレッタに合図を送る。

「アレッタ! 西の方角よ。海を超えて、ミステリアス・アイランドに向かうの」

 先導するハヤブサは、それを聴くと、ぐん、と高度を向上させた。つられて、フライヤーもさらに浮遊感を増して追いかけてゆく。そして彼らは雲の中へ——一瞬にして視界が薄暗く曇り、体感温度が瞬く間に下がる。冷たい水滴の漂流を突っ切り、足も二の腕も湿りながら冷えてゆく。幾つもの灰色が波打つ氷晶の層を過ぎ越すと、そのままフライヤーは一気に、遮るもののない雲海の上へと飛び出した。

 それはまるで、大自然の藝術品。
 ウラヌスが練り、アフロディーテが膨らませたかのような、神々の生きる次元。

 弾けるように明るい別世界が、頭上のどこまでも浸してゆく。天は、すっかり蒼い光で洗い流され、足下すらも、もはや地上が見えない——幻想的な雲霞の峰々が、何千フィートもの霧を噴きあげており、いかなる生き物にも穢されたことはない。雪化粧を施された地平線とは比較にならないほどの壮観。腕を伸ばせば、巨大な雲と触れ合った痕跡を、漣の如く残すことができるはずだ。彼らは、まさにその虚空の只中を飛翔していた。

 氷を奥歯で噛み締めたかのように——冷たい、うまれたての空気のさなかに、ぽつんと四肢が凝結している。人の存在とは、なんとちっぽけなものだろう。空は嘘みたいに広大で、天頂のほとんどは量り知れぬほど濃密に青黝く、すうっと眦が透き通って、全身が空を見つめる瞳孔そのものと化したよう。太陽は睫毛に引っかかり、目を閉じても目蓋が灼き焦がれるようで、そのまばゆさに、いよいよ空を飛んでいる、という実感を肺にひしめかせた。

 デイビスは釘づけになって、その世界を見つめていた。
 もしもカメリアが、自らの情熱をこの景色のためにそそいでいたというのなら。彼女の精神は、どれほど鴻大な夢で満ち溢れているのだろう?
 彼女が求めてきたもの——その一端が目の前に現れているこの間は、心が澄み渡ってゆくようだった。そして、その狂おしいほどの清浄さが迫れば迫るほど、カメリアの存在が、どこか遠く、透明になってゆくように感じられる。

「さあ、デイビス。私たちが向かっているミステリアス・アイランドって、どんな場所なの?」

 カメリアは軽やかな声で、隣の同乗者に尋ねた。彼女の気配から心細さを感じていたデイビスは、慌てて懐からあんちょこを取り出し、以前調べたその詳細を物語った。

「ミステリアス・アイランドっていうのは、太平洋に浮かぶ、非常に狭小な島なんだ。活火山のカルデラ湖を中心に、研究所や造船施設、地熱発電所がひしめいているというけれど、何せ写真が禁じられているんで、詳細は分からない。国連には認められちゃいないが、ほとんど独立国家だな。
 男のロマンそのものみたいな島だぜ。孤高の天才科学者、ネモ船長の築いた秘密基地。どの国にも属さない神秘の孤島で、未知の技術が使われているって話なんだが、長年誰にも知られず、ずっと謎に包まれたままだった。それが、船長が亡くなってから、少しずつ、他国との交流も増えてきたのさ」

「へええ、面白そう。世界にはそんな不思議な島があったんだね」

 カメリアも好奇心をほだされて、血が沸き立つのを抑え切れない様子だった。根がスリル好きの二人である。小説の中でしか聞かれないようなその島の背景に、期待はうなぎ登りになるばかりだった。

「秘密基地、ねえ。一体どんなところかなー? やっぱり、最初に合言葉が必要で。大きな樹の上に、偵察用の部屋や、吊り橋を作って。ぶらさがる蔦、拾ったガラクタや木の実をたくさん置いて。釣り道具なんかもあるはず」

「天下のネモ船長なんだぞ、そんな子どもの遊びみたいなものを作るもんか。やっぱり、海底洞窟とか、地底探検の入り口とか、秘密の怪獣とか」

「もう。どうしてそうやって、無骨なものばかり想像するのかしらね」

 ワクワクと、好き勝手に自分の空想を繰り広げるデイビスとカメリア。軍事とはほど遠い街に住む二人なだけに、具体的なイメージがさっぱり思いつかず、それゆえあれこれ議論をするのに相応しい題材だったのである。
 しかし二人の間で一致していたのは、とにかく今までに見たこともない景色が、その島を覆い尽くしているだろうということ。ネモ船長、という謎の人物も手伝って、彼らの妄想は留まるところを知らなかった。

 その矢先、アレッタがふっと高度を落としたかと思うと、巨大な雲海の底へと吸い込まれていった。若紫色の微妙な雲の陰を潜り抜け、みるみるうちにアレッタの姿は小さくなってゆく。

「アレッタが降下したら、目的地が近い合図なの」

「そうか、楽しみだな。どんな島なんだろうなあ」

 ほどなくしてフライヤーを包み込む、不安定に腰の浮かびあがるような浮遊感に、二人は顔を見合わせて笑い出した。ちょうど、フライヤーも降下を始めたのだった。そして雲の向こうに、待ち焦がれていた島が見えてくる——見えてくる——見えてくる———

 いったい、どんな世界が待っているのだろう?
 二人が息を呑む準備ができた——その直前で——




 ————なぜかぴたりと、空間が静止した。

「ん?」

 思わず、デイビスの口から怪訝な声が漏れた。
 フライヤーは浮いている。雲も目の前を覆っている。だから、光景は何ひとつ変わっていなかった——いや、何も変わらない・・・・・・・ことこそが異常なのだ。一切の物理法則が完全に停止し、彼だけそこから置き去りにされたようだった。風もなく、音もなく。霧さえもが、風圧によって緩やかに後方に流されてゆく、まさにその一瞬を切り取った状態で硬直している。
 何が起こったか分からなかった。けれども異様な光景が目の前を独占し、そして世界を、死んだような沈黙が支配している。何もかもが静まった次元。フライヤーはその壮大な推進力を失って、静寂の底に鎮まっていた。

「ええと。……これは、どういうわけだ」

 デイビスは、同乗している仲間に話しかけたつもりだったが、返事はかえってこなかった。不安に耐え切れずに、隣を振り向く。カメリアは、期待のあまり両手を組み合わせた格好のまま、やはりその場に停止しているのだった。試しに、ぺしぺし、とカメリアの頭を叩いてみるが、彼女もやはり微動だにしない。柔らかな巻き毛さえ、引力からも解放されたように浮遊していた。隣にいるのに、隔絶されているという事実が、掌に、じっとりと嫌な汗をかかせてゆく。

 すると、彼のズボンのポケットが、直方体の容積を主張して震え出した。昨日、カメリアから貰った無線機の片割れを、入れっぱなしにしていたのだ。しかし、チャンネルはどこにも合わせていないはずだった。混線だろうか? デイビスはポケットから引きずり出して、それを耳に押し付けた。

 ノイズとともに飛び込んできたのは、今までに聞いたこともない声質の持ち主だった。奇妙に甲高い、くぐもった裏声というか、鼻声というか、そんな感じ———

《もしもし、ミッキー・マウスです(注、特定の個人名とは関係ありません)。ごめんね、せっかくいいところなのに、映像が止まっちゃったんだね。システム調整が必要みたいだ。安全のために、少しそこで待っていてくれる?》

「システム調整?」

 ぽかんとして、デイビスはオウム返しに訊ねた。

《うーん。ほんのジョークだと思ってくれて、構わないんだけど……》

「俺には分からねえジョークだな。ここでこうして、調整の完了を待っていればいいのか?」

《そうそう、すぐに終わるから。あ、シートベルトは、そのままでお願いね》

 何はともあれ、不安極まりないこの凍結した世界に、話の通じそうな声が飛び込んできたのは、彼を安堵させることではあった。一応、無線は切らないままにしておく。一度途絶えたら、二度と繋がるような気がしなかったから。

 無線機の向こうから、トンテンカンテン、何かの金属を叩く音とともに、『Steamboat Bill』の軽快な口笛が聞こえてくる。それ以外は世界に速度を奪い去られて、自身の微かな衣ずれや、呼吸音が耳につくほどに静謐である。風は吹かず、光は強く、動くものも何もない。物凄くシュールな光景だな、これ、と思いながら——手持ち無沙汰になったデイビスは、何気なく、カメリアの方へ目を差し向けた。

 彼女は両手を握り合わせたまま、ぴくりとも動こうとしない。ただ静かに瞼を閉じて、眠っているような——彼の知らない遠くへと、意識を手離してしまったような。
 それは、時という概念が消え失せた芸術品のようではあったが、しかし生身の人間であるという事実ひとつが、彼女にぼんやりと見惚れることを妨げていた。

 カメリア、と囁いてみる。先ほどまで、同じ興奮を分かち合っていた彼女は、今はまるで反応を返さなかった。脈を測っても、手応えはない。伝わるのは、ゴムのように柔らかな手首の温かさだけ。

 それが、途方もなく——虚しかった。答えの返ってこない人間に、独りで話しかけるという行為は。
 いきなり、彼女との交流から切り落とされたような、幕が降りてしまったような、そんな拒絶された印象を受ける。

《人間が止まるって、怖いだろう?》

 不意に、無線機の奥から、彼の心を代弁する声が聞こえた。

「ああ。……不気味だな」

《二度と動き出さないんじゃないかって、思うだろう?》

 その言葉の冷たさに心臓を握られたように、デイビスは思わず、激しい敵意を目に躍らせる。それを察して、慌てたように声の主が弁解した。

《安心して、彼女はちゃんと生きているよ。今はほんの少し、僕が時間を止めているだけだから。でも覚えておいて、夢はある日突然に始まり、そしていつか終わってしまう。かけがえのない瞬間を、しっかり、君の宝箱の中にしまっておいて》

 デイビスは、釈然としないままに、その言葉を脳に染み込ませた。助言のような——それでいて呪いのような奇妙な響きが、その中には入り混じっていた。
 ぽりぽり、と頰を掻くような音とともに、声はちいさく呻く。

《そうだよね、せっかく楽しい雰囲気だったのに、映像が止まっちゃったら、君も怒るはずだよね。

 ……それじゃあ、時が止まっている間、ほんの少しだけ、僕と昔話をしようか。デイビス、君はどうしても忘れたくない人を、心の中に持ってる?》

 デイビスは首を振った。その性格上、他者との交流は多い方だったが、誰か一人の人間を心に深く刻むという経験は、今までに持ったことがなかったのだ。その素直な反応に、声は苦笑して続きの言葉を紡ぐ。

《そうか、それでもいつか、君もそんな人に出会うと思うよ。映像が止まる前に、少しだけ耳に入ってきたんだけど、君たちの交わす会話は、とっても夢に溢れていたからね。夢を持つ人間は、必ず別の夢を持つ人間を、引き寄せるものなんだよ。そうやって、夢と夢は繋がり合って、未来に向かって膨らんでゆくものなんだ。

 ねえ、君の故郷、ポート・ディスカバリーは、一人のお爺さんの夢ワン・マンズ・ドリームから始まったんだったよね。

 僕もまた、一人の人間の夢ワン・マンズ・ドリームから生まれたのさ。デイビス、君の遠い祖先——それは何も血の話じゃない——そこには、僕の大切な人の夢が入り混じっている。君の隣にいる、カメリアもだよ。君たちにとっては、もう思い出せないほど、昔の人なのかもしれないけれどね。

 だけど僕は、君たちよりも、とってもとっても彼に近い場所にいたんだ。僕らはいつも親友だった。そして僕は彼の夢を受け継ぎ、これからの日々を生きてゆく。だって、彼のことを誰よりも大好きだったから。ずっと忘れたくなかったから》

 そう語る声には、遠い懐かしさが滲んで、数多くの青春の思い出がざわめいているようだった。止まっている時間の中に、それはいつまでも漂い、響き合い、笑い声をこぼしてゆく。二度と戻れない、しかし消えることのない記憶の渦だった。

《彼の夢は、僕とともに生きている。それが、僕が永遠に夢を見続けられる理由だよ》

 とっておきの秘密を分かち合うように、特徴的なアクセントで、声の主は笑った。その笑い方が、彼の人柄のすべてを表していた——悪戯で、あどけなく、子どものように純粋で、思わず警戒心を解いてしまいたくなるような暖かさ。そして、そんな声の主が、どれほど深く友人のことを愛していたのか。彼の紡ぐ言葉のはしばしから、堪え切れなかった思いが零れ落ちて、ちいさな輝きを降らすようだった。

「……大切だったんだな。その人のことが」

 感慨の深さに押され、デイビスはようやく肺から声を絞り出す。

《うん、僕たちはいつも二人でひとつだったからね。僕の夢は、彼のもの。彼の夢は、僕のもの。それは、彼がいなくなった後でも、ちっとも変わらないんだよ。あの人がかけてくれた魔法は、今もここに生き続けているんだ》

 言うなり、掌の中のダイヤモンドを投げあげるように、瞬く間に眼前が目眩めく煌めきで覆い尽くされた。いったい、何千、何万、何百万とあるのだろうか——数えるなどと不可能なほどの星々が、果てしない無重力の中で、その輝きの奔流を鋭く瞬かせて、辺りはたちまち夜になる。成層圏を突き抜ける壮麗な宇宙のヴェールが揺れ動き、深淵はどこまでも暗澹として、星々は撒き散らされた彼方で陸離と舞う。

 ただ、薄暗い舞台に朧ろな霧が漂って。果てしない紺碧の闇を斜交いに、幾筋もの柔らかな光の帯が射し込んで。指で招かれたように、どこからともなく星々が湧き起こってゆくのを、何者も止めることはできない。

 デイビスは呆気に取られて、目の前の壮大な景色に手を伸ばした。その縁を、見るも微かな群れ星が寄り集まって、皮膚のそばに透明な波紋を揺らめかせてゆく。手に纏いつく優しい穏やかな感触は、羊水のようであり、深海のようであり、原始の揺らぎのようでもある。青く、ちらちらと閃光を噴きあげて、それは彼の身動ぎと一緒に遊んでいるようだった。

《素敵でしょう?》

 悪戯そうに笑う気配がした。
 続けて、トントン、とタクトで指揮台を叩くような音——すると、それまで野放図に舞いあがっていたダイヤモンドダストが指向性を持ち、膨大な数のそれらは天空へと吸いあげられて、急速に流れ星の軌道を描き始めた。次から次へと、目で追えないほど無数に、彗星の尾は燃える火花を撒き散らし、光の滝を創りあげる。あまりのまばゆさに、すうっと胸が透き通るように冷えて、自分が闇の中の光に呑まれてゆくのを感じた。まるで、鳩尾いっぱいにみずみずしい風が駆けめぐっているみたいに。

 極彩色のパレットで彩られた、夥しいばかりの微粒子。後から後から、厖大な時空を駆け抜ける光輝の粒は、声の魔法により新たな意志を宿して、思うがままに飛び回る。

《人は、夢を見なければ、いつまでも誰かの脇役に過ぎない。けれども夢を見たとたん、君はたったひとりの主人公として、最高の物語を始めることができるんだよ》

 銀河に眠るありとあらゆる光を掻き集めたかのような、おびただしい量の煌めき。それらは妖精の如く自由自在に踊りながら、それぞれの思い描く像を切り取り、彼の前に数多くの幻想を生んだ。あるものは書物に文章を綴り、あるものは絵画の輪郭線を辿り、あるものは映画のフィルムに潜り込んで、カタカタとそれを回転させ。世界全体が、姿を変えてゆく。そして、数え切れないほどの数のページがめくられ、無数の部屋に散らばった額縁を揺すぶって、そこに描かれているすべての時間が、一斉に語り出す。歌や川や風の流れや、伸びをする声、キツツキの小突く音、水車の回る音、何かを絶え間なく書き続ける音、何かを絶え間なく読み耽る音、手拍子や口笛や快哉や話し声の数々が、鮮やかな太陽のように命を吹き込まれ、時空を満たしてゆく。それまで動くことのなかった事物が、外の世界に解き放たれ、初めて魂を震わせるように———

 突然の喧騒に溢れ返ったそこは、世界のてっぺんから降ってくる、物語の洪水だった。

 未だ汲み尽くすことのできない魔法の光に包まれて、音は歌い、踊り、新たな瞬間を奏でる。泡のように浮かびあがり、波のようにたゆたいながら、誰も見たことのない、けれどもなぜか懐かしい、数々の素晴らしい扉の向こうへといざなってゆく。

 水面に映った太陽を仰ぐ、赤い髪のマーメイド。光を屈折させた金魚鉢を覗き込む、青い目のマリオネット。王子と姫が湖のほとりでワルツを踊り、夕暮れにボートで漕ぎ出せば、杏色のランタンが数え切れぬほどに昇ってゆく。夜の時計台の長針へ吸いつくように着地する子どもたち、その鐘の音は階段の上にガラスの靴を取り残し、傍らを美女と野獣が礼装で降りてきて、豪奢なシャンデリアから天使たちが見下ろす上を、ペガサスにまたがった英雄が翔け抜けてゆく。ジャングルの雨の中で手のひらを重ねる男女、流れる滝しぶきの前を首を振って歩く獅子たち、無数の鳩が一斉に飛び立つ大聖堂や、降りそそぐ花びらの中で抱きしめ合う父娘、手を取り合ってヨーデルを踊る小人たちと白雪姫。

 それは、いつか誰かが燃やした、生命の輝きなのかもしれない。
 あるいは、自分が子どもの頃に思い描いた、どこにも存在しない世界なのかもしれない。

 同じものなど何ひとつない——人々の語り継いできた夢を鮮明に浮かびあがらせて、降りそそぐ星の断片は、溢れんばかりのイマージュを乱反射させた。そこでは、限りない生きる喜びが躍動し、そしてすべてが人生への讃歌を謳って、その絶頂に酔い痴れていたのだった。

 数々の物語を見守る優しい声は、今や無線機の彼方を超えて、あちらからもこちらからも響いてきていた。それは、真っ直ぐに胸に射す一条の光のように、夢幻的な情景を創りあげる。

《こんなに不思議なものは、初めて見た、という顔をしているね。でも本当は君も、心のどこかで知っているはずだよ。君も、僕も、たった今、この小説を読んでくれている君たちも、みんな同じ夢で繋がっているんだ。ここはそうやって、数えきれない人々の想いでできあがっているんだよ。

 ———霧を抜けて、青い天鵞絨の広がる世界へ。たくさんの夢が叶う場所へ。君が想像すれば、すぐにそれは現れるはずさ。魔法の光の中で、素晴らしい幻想の世界が、飛び立ってゆくんだ。

 ほら、見てごらん》

 鈴のような音を立てて、新たな魔法が目の前を横切ってゆく。すると世界の角度がのめり込むように傾いて、ゆっくりと、座席が上方に持ちあがってゆく感覚を覚えた。
 輝く金色の額縁のひとつから、風が吹き起こり、清々しい匂いとともに、フライヤーの影が浮かびあがってくる。それは、カタカタと微かな音を立てながら、デイビスの鼻先をゆっくりと旋回した。とても小さい——けれども、確実に空を飛翔しているそれ。その可愛らしい姿に、思わずデイビスも頬を緩めて、手のひらを差し出した。

 すると、彼の手のひらの上に——さらに克明に、綿毛や蝶や鳥、そして拍手喝采する人々の影が映し出されて。フライヤーの飛行に合わせ、豊かな風に吹かれているそれらは、次々と影絵の中の時間を移り変わらせていった。

《そのフライヤーは、人々の想いに応える飛行機。たくさんの夢と魔法が詰まっているんだね。けれどもそれは、人々が太古から育んできたイマジネーションがなければ、けして蓄積されなかったものなんだ》

「……俺は、だいぶ変な夢を見ているようだな」

《そうだよ。夢っていうのは、いつだって変てこで、人に伝えるのがとっても難しいんだ》

「ああ。確かに、ここで起きたことはきっと、誰にも伝えられない」

 頭上よりも遥か高くへと吸い込まれてゆくフライヤーの影を見つめながら、自分は今、まさに言及されているその夢の発明品に乗っているのだという、めくるめく高揚がよみがえってきた。

 自分の夢は、他の誰かの夢と同じだ。自分が飛びたいと思うのは、世界中のみんなが、空を飛ぶことを願っているからだ——そう、カメリアもいつか、そんなことを口にしていたはずだった。彼女は最初から、その意味が分かっていたというのだろうか?

 そこまで考えてから、デイビスは声の降ってくる方向を見上げて言った。

「なあ。ひとつ聞いていいか?」

《どうしたんだい?》

「なぜ俺に、こんなことを話した? なぜカメリアには何も言わずに、俺とだけ会話しているんだ」

 声は、ほんの少し考えるように沈黙してから、それはね、とゆっくり口火を切った——慈しむような口振りで。

《彼女はもう、彼女だけの夢を始めているからさ。僕の助言はいらないよ。彼女は、彼女の夢を叶える力を自分の中に持っているから。でもデイビス、君にはまだ、君自身が気づいていない夢がある。だから僕は君に、教えてあげたかったんだ。どんなに素敵な可能性が、君の中に眠っているかって》

 話すにつれて、周囲から霧が立ちのぼり、視界を静かに埋め尽くしていった。徐々に声の方向は遠くなり、反響は大きく、朧げに。そして彼の意識はふたたび、薄い雲がその行き先を覆っている壮大な空へと吸い込まれてゆく。

 ただ、奇妙に神秘的な響きだけが、彼の鼓膜の中にこだまして離れなかった。それは、何かを暗示するように渦巻き、漂いながら、彼の心にメッセージを刻みつける。

《デイビス、僕の前には、君の未来をふたつの夢が支えているのが見える。ひとつの夢は、もうすでに始まっている。子どもの頃から願い続けてきた、飛行士の夢だね。素晴らしいことに、君の長年に渡る情熱と努力が、それを実現させたみたいだ。

 けれども、もうひとつの夢は——まだ、君の中に眠ったまま。もう少し、時間が必要みたいだね。その時がやってくるまで、君は大切なものを、君の中に覚えておかなくちゃ。そうすれば、きっと君の情熱は、誰よりも大きく、激しくなるよ》

「どういう意味だ?」

 思わず問い返すデイビスに対して、思わせぶりに笑い、声は元気に囁いた。

《さあ、調整が済んだみたいだから、お話はこれでおしまい。

 準備はすべてOKさ。

 あ、そうだ。もしも僕の世界に出かけることがあったら、僕の耳をつけて遊んでくれると嬉しいな。

 行こう、冒険の世界へ。夢と魔法の王国を翔け抜けるファンタスティック・フライトが、始まるよ。Ha-ha!》

「えっ、待ってくれよ。まだ俺は——」

 ぱち、と瞬きすると、そこはすでに、生命あふれる躍動の底。みるみる降下を始めているフライヤーの上で、彼は手すりを掴んだまま、微動だにせずに座っているところだった。

「デイビス。デイビスったら!」

 カメリアの声が聞こえる。一瞬遅れて、彼女の顔が恐ろしいほどのアップで迫ってきた。思わず赤面するデイビス。しかしカメリアは、そんな些末なことは気にしない風で———

「どうしたの? いきなり黙りこくっちゃって」

「か、カメリア。あのな、今、あんたが眠っているうちに——」

「何言っているの、眠ってなんかいないよ。ぼーっとしていたのは、あなたの方じゃない」

「あれ……?」

「あ。デイビス、ミステリアス・アイランドって、あの島じゃない?」

 彼女は、洋上に浮かぶ一点を指指した。
 中央にカルデラ湖が広がる、ドーナツ状の孤島。よく目を凝らすと、火口から煙が立ち昇っているのが見える。それは確かに、聞きしに及んだ神秘の島の特徴と一致していた。

「ああ、そうだ、あれだ。よかった、ちゃんと着いたんだな」

 デイビスは溜め息をついて胸を撫で下ろし、深く座席に背を預けた。
 アレッタは大きく鳴きながら、先ほどからずっと島の周囲を旋回している。その声に導かれるように、フライヤーは、島の地面にその車輪を向ける———






 と思いきや——後ろに通り過ぎていって——


「違うっ! そっちじゃねえッ!!」

「あら? どうなっているんだろ」

「カメリア、面舵いっぱいだ! 今の島に着陸してくれ!」

「えーと。このフライヤー、舵取りができないのだけど……」

嘘だろぉッッッ!?!?

 なぜかぐんぐん高度と速度を増して、フライヤーは再度、雲の上へ。今度はそれを追うように、アレッタが毅然として羽ばたいていった。ミステリアス・アイランドで湖の水温を測定していたクルーの一人は、何か小さなものを上空に見かけたような気がしたが、蝿か粉塵の見間違いだったのかと、ふたたび自分の仕事へ意識を戻す。

 ミステリアス・アイランドは、その日も過酷な自然環境に囲まれながら、弛まぬ科学への探究心を、様々な研究や実験へと昇華させていた。ポート・ディスカバリーのような、未来への奉仕を最重要とするやり方ではなく、今、この瞬間にすべてを賭けるように。パホイホイ溶岩の隙間から噴き出す蒸気や、熱湯を煮え滾らせて泡立つヴァルカンズ・コルドロンが、人間以外にほとんど生物の死に絶えた孤島に、騒がしく反響していた。この島に静寂は存在しない。終始魔女の釜の如く沸き返るその不可思議な音は、島に生きる者の精神を未知へと誘い、あらゆる手段を使って解き明かすことを要求する。現代科学では説明のつかない海底の事象も、驚くべき地底の光景も、ここにおけるすべては、一人の船長の夢ワン・マンズ・ドリームに結び付けられるのかもしれない——彼の墓標はなく、生前に出会うことのできた人間も、ほんの両手で数えるばかり。ただ島の地面や、ポールや、その他あらゆる造形物に刻み付けられたNの文字こそが、彼の偉大な功績を表す墓碑銘の代わりを担うに過ぎない。







《これはほんのちょっとした、イマジネーションの物語さ——》

 無線の途切れた向こう側で、静かに呟く、大きな耳を持ったシルエット。
 その影は、少しだけ首元の蝶ネクタイを整えると、光あふれるドアの向こうへ、磨きたてられた靴で踏み出していった。








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