ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」16.出発しましょう、きらめく海へ
フライヤー再創造の第一歩は、開発用の工具の確保から。
トロピック・アルズに情報収集に行ったカメリアは、そばにデイビスを待たせ、店番からフムフムと話を聞いていた。
意思疎通に随分と苦労していたようだが、何度か聞き直したり、絵を書いたりすることで、何とか伝わったらしい。お待たせ、と彼に声をかけた顔には、静かな安寧が漂っていて、どうも欲しかった情報を得られたように見える。
「なんて言ってた?」
「神殿の近くに、グリーティング・トレイルって場所があるんですって。そこにミッキー・マウスって調査隊長がいるから、彼から工具を借りたら良いんじゃないか、って。知り合いらしくて、先方に連絡をしてくれたわ」
「ミッキー・マウス? どこかで聞いた名前だな」
はて、とデイビスは首を傾げて、記憶を辿る。
そういえば、フライヤーに乗っている最中、二度ほど無線機に混線したことがあったが、あの鼻声の主は、そんなような名前じゃなかったっけ? 記憶違いかもしれないけど——いや、まさかな。
「地図も描いてもらったの。でも不要なくらい、近場だったわね。……あとは」
「それは?」
「……おまけだって」
二人は、チリコンカン味のティポトルタに齧りついた。そういえば、昼食を食べていなかった。ほくほくと温かいそれを齧りながら、地図に従って、目的地へと向かう。
「なんだ、こりゃ」
「指名手配犯みたいね?」
二人は、その場所を見て、首を傾げた。何せ、目的地に着くと、さらに行く手が三叉路に分かれている。近くにある看板には、それぞれの道に対応する顔写真が掲示されていたが、肝心のミッキー・マウスのちょうど顔の上には、「Be out now」と大きく書かれた看板が垂れ下がっていて、その顔を拝むことはできなかった。
彼らは、中央と左側にある看板を見た。中央は自然観察サイト、左側は神殿調査サイト。そのいずれにもやはり顔写真が貼られているが、見えたところで、その正体がよく分からない。
「こっちの人たちは、在宅中みたいだけど。ええっと……」
「人……なのか、これ?」
「鼠と? ……狼? 犬? かしら」
パッと見ただけでは、何の生き物なのかさっぱり見当がつかなかった。どちらも何となく愛らしい感じはするが、うん、絶対に人間ではないな、これ。
二人はひとまず、真ん中の道を進むことにした。自然観察サイト。花咲き乱れ、鬱蒼と木の生い茂る中の舗道を、ザクザクと進んでゆく。道中には、木箱の上に奇天烈な模様をした蝶のスケッチなどが置かれており、このジャングルにはよほど新種が多いのだな、とまざまざと感じさせる。その中に、件のミッキー・マウスにそっくりな模様も混じっていたのだが、もちろんそんなこと、二人は知る由もない。
「こんにちは。来てくださって、嬉しいわ」
ようやく、終着点らしい小屋の中へ入ってゆくと、感情たっぷりの、チャーミングな声に迎えられ、二人はきょろきょろと見回した。開放的な作りの小屋で、ほとんど壁が設けられておらず、その簡素さに見合わない、可愛らしいテーブルクロスを敷いたコーヒーテーブルや、ドット柄のポットを置いたままのストーブなどが置いてある。
「あらあら、どちらを向いてるの? 私はここよ。さあ、右の方を向いて」
地面に無造作に置かれている、ベタベタと、世界各国のお土産のシールが貼られたトランクケース——その上に座っていた人影が、ゆっくりと立ちあがり、デイビスとカメリアに向かい合う。その声は、まるで砂糖菓子のように甘く、愛らしかった。
「?」
「?」
「???」
その場にいた全員が、疑問符を飛ばす。主にデイビスとカメリアは、その対峙しているシルエットの異様さから。そして当の人影本人はといえば、客人二人があまりにも虚をつかれた表情をしていることへの驚きだろう。
「初めまして、あなたたちが、私の新しいお友達ね。私は、ミニー・マウスです。ミニーって呼んでちょうだい」
手を差し伸べてくる、不可思議なシルエット——それはとにもかくにも、顔の左右についている大きな耳が、違和感の原因だ。そして、一歩、前に進み出た彼女は、ようやく外から注ぎ込む逆光から抜け出して、その姿をさらけ出した。
大きな丸く黒い耳に、顔を大きく占めるのは、ぱっちりとした目と睫毛。ヒクヒクとよく動く真っ黒な鼻は、ネズミ科のそれを思わせる。頭にはリボン付きのハットを被っていて、動きやすいサーモンピンクのサファリシャツに、遠くから見ても鮮やかなイエローのスカートを履いていた。身長は少し低めで、カメリアも僅かに見下ろすくらいになる(注、ここでは公式身長ではなく、ディズニーパーク・サイズだとお考えください)。しかしその全身から溢れる人の良さ、そして優しさは、どうにも隠しようのないほどに辺りに放たれているのだった。
「あなたたちが、トロピック・アルズの紹介していた、デイビスとカメリアね」
「……ね、鼠が喋ってる」
「悪いが、あんたよりもすでに耐性があってなあ。もう何が起きても驚かねえよ」
ぽかんと驚くカメリアに向かって、デイビスが言えることは何もない。ただ、慣れろ、と肩を叩くだけ。
「うふふ、そんなにびっくりすることないのよ。私たち、良いお友達になれそうね。それで、あなたたちの相談って、何かしら?」
「ミニーさん。あの……」
「だめよ、カメリア。お友達には遠慮しないで、もっとフレンドリーに話しかけなくっちゃ」
「……み、ミニー、あのね。私たち、あなたにお願いがあって……」
カメリアがおずおずと呼びかけると、ミニーは、にこっ、と嬉しそうに笑った。この子、初対面の私たちにこんな風に笑いかけてくれて、きっととってもいい子なんだろうなぁ——そう思った途端、胸が詰まって言葉が出なくなり、カメリアの目からぽろりと涙が伝い落ちた。
「あらあら、どうしたの? そんなに心配しなくても大丈夫よ。ゆっくり話してみてちょうだい」
ミニーは泣きじゃくるカメリアを抱き締め、優しく背中を叩く。
「どうも、大変なことがあったみたいね」
「俺たちはポート・ディスカバリーからここにやってきたんだけど、移動に使っていたフライヤーが壊れてしまって、新しく作り直したいんだ。それで、そのための工具を貸してもらいたくって」
「まあ、そうだったの。もちろん、喜んでお貸しするわ」
カメリアの後を引き継ぎ、簡単に状況を説明したデイビスに、ミニーはにこにことして返答した。
「ミッキーは今、アニマル・キングダムに調査に行ってしまって、お留守なの。でも、発掘作業の道具は、自由に持っていっていいわよ」
「ありがとう。とても助かるわ」
「デイビス、あなたはすでに、ミッキーとお話ししたことがあるわね?」
「あれ、なんであんたがそれを知っているんだ?」
首を傾げるデイビスに向かって、ミニーははにかむように口許に手をやると、くすくすと肩を揺らして微笑んだ。
「うふふふふ、本当はミッキーから、もうすでにあなたたちのお話を聞いていたの。たくさんのところを冒険してきたのでしょう? ミッキーが、この世界にとっても相応しい冒険心を持った二人がいるんだって、褒めていたのよ」
なるほど、鈴の転がすような笑い声に、愛嬌たっぷりの、ゆっくりとした話し方。性別は違えども、確かにあの無線機で通話した相手と、どことなく通じるものが感じられた。
「ミッキーって、あなたの知り合いだったの? 私、会ったことないわよ」
「あーっと。この話は面倒くさくなるから、後でな」
カメリアからの質問を、粗雑に打ち切るデイビス。今まで彼の身に起きたことなど、上手く彼女に説明できる自信がない。
「それじゃ、あんたはミッキー・マウスの彼女ってことか?」
「ええ、そんなところよ。
そうそう、せっかくだから、この近くにいるグーフィーってお友達も、あなたたちに会わせてあげたいの。彼、とってもおどけていて、楽しい人よ。良いかしら?」
反対する理由もなく、もちろん、と彼らが同意すると、ミニーはそばの壁に立てつけられた、『関係者以外立入禁止』のドアを開け、
「グーフィー!」
と無造作に呼びかけた。え、めっちゃ近くないか。ご近所さんなの? すると、ドコドコドコ、とドタ靴の鳴る音が聞こえ、言及された人物が部屋の中に飛び込んでくる。
「やぁ、ボクが、グーフィー・グーフだよお。君がデイビス。そして、カメリアだね。よろしくう」
ほほう、彼はなんの生き物なのだろう。間近で見ると実に背が高くて、トボけて眠そうな目に、前歯がハの字に離れており、長く垂れ下がった黒耳や、ツンツンとノズルから生えている髭が特徴的である。探検家を思わせるサファリハット、鮮やかなミント色のシャツに、つぎはぎだらけの黄色いズボンを履いて、今にもふらっと冒険に出かけてしまいそうだった。
しかし、この口調は実に印象深い。間延びしたような、あくびの途中のような——一瞬で頭に残る声色である。
「よろしく、グーフィー」
「君たちのことは、すでに、聞いてるよお。ミッキーのお友達なんだってねえ」
「二人は、フライヤーでここまで来たんだけど、壊れてしまったから、帰るためにもう一度作り直したいんですって」
「ワーアーアーア、それは、大変だったねえ。ボクらも、できる限り、協力するからねえ」
「ありがとう、グーフィー」
そう語るグーフィーは、とにかく善良さを凝縮したようなのんびりさで、見ているとどこか癒される。このようなジャングルの奥地で、優しい人物(人ではないが)に二人も出会うのは大変に恵まれているのだなと、カメリアは十字を切って神に感謝した。
「じゃあ、早速工具を見に行こうか」
「うん」
と、場所を尋ねかけたデイビスたちに向かって、ミニーは首を傾げながら質問する。
「ちょっと待って。ねえ、二人とも、まだゆっくりする時間はある?」
「時間? あるといえばあるけど……」
「それなら、お仕事に取り掛かる前に、シャワーを浴びていったらどうかしら? あなたたち、まるで大冒険してきたばかりみたいな格好をしているわよ」
言われてみれば、確かに服はあちこちが擦り切れていて、泥だらけだった。フライヤー消失のショックで忘れていたが、午前中はまだクリスタル・スカルの神殿を探検していたのだ。
「嬉しいわ。それじゃあ、お言葉に甘えて」
「もちろんよ。どんどん甘えてちょうだいね」
「キミのシャワールームは、こっちだよお、デイビス。カメリアと一緒に入ろおとしないでね」
「ばばばばば馬鹿言うなよ、そんなこと俺がするわけないだろッ!!」
「あらあら、デイビスったら照れちゃって。ミニー、ああいうのをツンデレっていうのよ」
「……そこはかとなくズレている気がするけれど、まあいいわ」
……
かくしてデイビス、グーフィーと別れたカメリアは、自然観察の間中、ミニーが宿泊しているのだというバンガローに通される。どうも長期滞在のために、自宅の中のお気に入りの家具は、すべて運び入れてしまったらしい。ハート型の鏡のついたドレッサーに、南国の葉っぱ柄のソファ、花模様のついた絨毯、などなど。
その小屋の備えつけのバスルームで、カメリアは入浴した。シャワーとは言っていたが、ミニーはわざわざ泡風呂を入れてくれたらしい。バスタブに浸かった体は大量の泡に埋もれ、首より下の肌は、まるで透けていなかった。けしてサービスシーンではない。
バスルームの向こう側のリビングでは、ごうんごうんと洗濯機が回り、彼女の着ていた服が盛大に洗われていた。それに混じって、ふんわりと何かの生地の焼きあがる匂いが立ち込めていた。昼下がりの穏やかな光の中で、ミニーは自分に与えられた日常の仕事を楽しんでいるようだった。
「♪ふんふふーん ふんふふーん ふんふふんふふーん」
聞こえてくるのは、そんなハミング。笛のように高いポットの音までが、彼女の口ずさんでいるマーチに、コーラスを合わせているように思える。
「ミニー、どうもありがとう。さっぱりしたわ」
「あら、困った時はお互い様よ。気にしないで」
ミニーは軽くウインクすると、バスローブに身を包んで風呂からあがったカメリアへ、ダイニングテーブルの前の椅子を引いた。
「ほら、ここに来て。あなたがシャワーを浴びている間に、美味しいワッフルを作ってみたの。一緒に食べましょう」
彼女らは同じ席につき、赤い縁取りのされた皿に向かい合った。そこに載っているのは、ミニーの顔の形をした、外をカリッと焼きあげられているワッフル。キラキラと輝く、たっぷりの苺のソースとカスタードソースをかけられ、苺の果肉を振りかけたホイップクリームや、ヴァニラアイスまで乗せられていた。甘く香ばしい匂いが立ちのぼってくる。
「わあ、可愛い!」
「スイーツに囲まれて、香りに包まれるって、幸せね」
そう言いながら、ミニーはナイフとフォークを手渡した。それを受け取ると、彼女の握り締めていた微かな温度が、金属越しに伝わってきた。
こういう人になりたいな。
優しくて、親切で、誰よりも人の心が分かるような女の子に。
私より年下だろうけど、ずっとしっかりしていて、気配りができて、可愛らしくって。きっと、ボーイフレンドであろうミッキー・マウスも、彼女のことが大好きなんだろうなぁ。
「ねーえカメリア、ところでデイビスとは、どこまで関係が進んでいるの?」
——などと油断していたカメリアの気管に、ワッフルにかかっていた苺のソースが入り、思いっきり噎せた。ミニーはニコニコとして、カメリアの慌てふためく様を見守っている。
「と、突然、何を言うのよー!」
「うふふふふ、たまには良いじゃない? ジャングルの奥地で、せっかくの女子会なんだもの。花やいだお話だって、楽しいかと思うの」
歌うように言うミニーは、どうも恋愛関連については相当ませた性格に思え、天使一色、というイメージが、早くもサラサラと崩れ去る。いやまあ、確かに今まで、まっっっっっっったくそんな話をできる人なんていなかったわけだし、それはそれで楽しいんだけど。
「ええっと。彼とは、たまに手を繋いだり、泣いてる時に抱きしめてもらったりしただけ。でもたぶん、深い意味はないっていうか、なんとも思ってなさそうっていうか……」
ごにょごにょと言葉をごまかしてしょげるカメリアを、ミニーはにまにまとして見守っていた。
「うっふふふ、若いのね。青春だわ」
「えっ。ミニー、私よりだいぶ年下だよね?」
「年齢はティーンエイジャーだけど、誕生日はうんと昔なの。ざっと、90年くらい前かしら」
「(なんのこっちゃ)」
ワッフルを切り分けながら、彼女らの恋愛話はしずしずと進んでゆく。恋に恋する乙女が二人集まれば、自然とジャングルさえも麗しい花園と化す、ということか。
「え、えーと。ミニーのボーイフレンドは、ミッキーって人なんだよね」
「ええ、そうよ。ミッキーは私の一番のお友達であり、恋人なの」
「どんなところが好きなの?」
ミニーは蕩けるような微笑みを浮かべると、おもむろに指を折って、数え始めた。
「そうねえ、いっつも笑わせてくれるところ。たくさんお花をくれるところ。格好良いところ。優しいところ。ダンスが上手いところ。ちょっぴりキザなところ。やきもち焼きなところ」
聞いていてカメリアは、あ、もう結構です、と頭の中で白旗をあげた。自分たちの関係と全然違う、正しい恋人とはこういうことだぁ、と打ちひしがれたような思いである。一方の自分とデイビスときたら、もはやドタバタ役者のような色気のない関係になりつつある。
「デイビスが、デイビスがいけないのよ。私はこんなにも清らかな愛に溢れて、ほとんど決壊寸前だっていうのに」
「カメリア、そんなにハンカチを食い縛ってはいけないわ。もうすぐ引きちぎれちゃいそうよ」
「ミッキーはミニーのこと、たくさん愛していそうだもんね。羨ましいなあ」
「ええ、そうね。でも彼の中で一番好きなところは、ミッキーは他の人たちの幸せを、誰よりも願ってるってこと」
その言葉に、ふとカメリアは、顔をあげた。甘酸っぱい苺のソースのように微笑しているミニーは、心の中に仕舞ってあるミッキーの面影を思い浮かべ、そのどこまでも純真な想いを打ち明ける。
「ミッキーはね。……自分よりも、周囲のゲストやお友達を笑顔にすることが大好きなの。だから私は、空っぽになってしまっているミッキーに、彼だけの幸せをあげたくって。そのために、そばにいたいの」
ミニーは、さくり、とフォークで苺を突き刺して、ほんのりと滲んだ薄いピンク色の果汁を、揺れ動くように優しい目で見つめていた。
「何も、特別なことをしているわけじゃない。でも、世界で一番ミッキーを大好きなのは、私だって分かっているから。私は、私のできることをしているだけ」
カメリアはじっとその言葉に聞き入っていたが、やがて静かに、
「ミニーは、凄いのね」
と羨ましそうに呟いた。
「どうして?」
「あなたはもう、その歳で、あなたのやるべきことを確立しているみたい。
私は、どうやったら人の役に立てるか、分からなくて。ずっとそれで足掻いていて、もう十何年も経ってしまったわ」
微かに影を落としたカメリアの表情を見て取ったミニーは、そうねえ、と首をひねる。
「分かるわ、ハピネスを届けるって、とっても難しいことよね。
でもねえ、カメリア、ハピネスというのは、あなたが一方的に誰かに差し出すものではないの。一緒に楽しみましょう」
「楽しむ?」
「難しいことこそ、楽しんで。遠い場所こそ、ワクワクするように。たくさん空想して、思い描いて。
あなたには、この広い広い七つの海のスピリットが宿っている。きっと、夢に辿り着くまでの過程だって、冒険のように胸を高鳴らせることができるわ」
「不思議なことを……言うのね。七つの海のスピリットって、何のこと?」
「うっふふふふ。ねえ、カメリア、あなたがなぜこの世界に生まれてきたのか、知りたい? それはね、世界が、あなたのようなイマジネーションに満ちた冒険家の存在を夢見たからなのよ。だからあなたは、他の誰にも真似できない、あなただけの優しさも、聡明さも持って生まれてきたはず。
あなたはこれから、その優しさと聡明さをひとつにする旅に出るの。それが、あなたの生きる道」
ふわり、と風が入ってきた。何気なく、カメリアはミニーの帽子に手を伸ばして、それが飛ばされてしまわないようにした。すると、そのつばの下に輝いている、彼女の親しみにあふれた瞳と目が合った。帽子に縫いつけられているピンクのリボンが、風と戯れるように宙に浮かぶ。愛らしい顔立ち。長い睫毛に、ティーポットの注ぎ口のようにちょこんと持ちあがった鼻。ふっと心を許してしまいそうな優しさが、そこにあった。けれども、優しいだけじゃない、この子はとても純粋なのだ、カメリアは不意に悟った。そしてその純粋さはすべて、まばゆいほどの世界の肯定につらなっている。
「カメリア、あなたはこの世界の誰よりも、人が生きていることを愛している。彼らが物語を紡ぎ、物語を継いでゆくのを、あらゆる不正義から守りたいと考えているのね。
あなたは、数々の大地の営みを慈しむ、壮大な空の上の物語を描ける人。すでに、自分の使命を分かっているのでしょう。ただ、あまりに壮大すぎて、普通の人たちには、理解するのに時間がかかるだけ。
心配しないで、あなたならきっと大丈夫。
夢を描けるなら、必ず叶えることができるのよ。そして、あなたの夢に救われる人々は、世界にはたくさんいるはず。私は、あなたが必ずそれを実現できるって、信じているわ」
ミニーは静かに立ちあがり、ポットを手に取って、ティーカップに湯を注ぎ足す。湧き起こる湯気は、まるで大空の中の雲のよう。溜め息も涙も吸い取ってしまって、その真っ白な淡い光景は、そこにあり続ける。
「ミニー。あなたは、私の考えを笑わないの?」
「うふふふふ、もちろんよ」
「空を飛びたいって言っても、おかしくない?」
「ええ。私にはあなたが、子どもの頃の夢を失わない、とても偉大な人に見えるわ」
ミニーが優しく答えると、カメリアは一瞬、泣きそうになって顔を歪めた。こんなところで、自分の理解者に出会えるなどと、思っていなかった。
「あとはもう少し、デイビスがあなたの思いに気づいてくれると良いんだけど」
「あら、そこまでは求めないわ。今のままの関係の方が、彼も落ち着くだろうしね」
「どうして?」
「うん、たぶんだけどね。デイビスはきっと、私のことを好きになりたくないんだと思うなぁ」
ミニーは思わず手を止めて、カメリアを見つめた。あまりに自然に告げるので、一瞬、聞き逃しそうになった。
「そんなの……今でもあなたのこと……彼は大切に思ってくれていると思うけど」
「違うよ。寂しいからそばにいるの。たまたま、彼の弱さを肯定してくれるのが、私だったからだよ。でも、それでいいの」
「どうして?」
「んー、どうしてかなー」
カメリアはにこにこして言った。それは本気で理解できないのではなく、ただあまりに多くの事柄からそれを推察してしまったために、口にできないだけなのだろうと感じた。しかしそういった数多くの傷口とも縁を切るように、
「いいんだよ」
と、小さく呟いた。
カメリアは、ミニーが口惜しさとも哀しみとも言いがたい顔をしているのを見て、片付けるわね、と皿を重ねて、シンクに置いた。
窓の向こうには、ラムネ色の空。名も知れぬ美しい鳥が、その長い尾を鎖のようにしならせて、樹の枝で実をつついていた。風に葉の鳴る音が、さわさわと聞こえる。まだ日が傾き始めるまでには、少しばかりの時間がある。
「私は、デイビスとは違う時代に生まれた人間だから。彼はきっと、彼だけの夢を追いかけるだろうし、私にも、けして譲れない夢がある。でもね、彼がどんなに遠くに行っても、きっとヒーローみたいに光り輝いているはずなんだよ。デイビスは、そういう人なんだよ。私は、元の時代に帰っても、彼に負けないようにしなくちゃいけないんだ」
「……寂しい、わね」
「そうでもないよ? 楽しいよ、明日も頑張ろうって思うのは」
カメリアは鼻歌を歌いながら、皿洗いを始めた。
「彼に顔向けができるように、私は私の人生をしっかり生きなくっちゃね。それに彼が楽しそうなら、それにつられて、私も楽しくなっちゃうし。それはどんなに彼から離れていても、そうなんだと思う」
彼女はそう言って、水切り籠の中に数枚の皿を置き、微笑んだ。
「ミニー、ありがとう。ワッフル、とっても美味しかった」
しかしミニーは、それには返事せず、ただスナイパーのように鋭い目線をカメリアに投げかけている。その目つきに、一瞬彼女も気圧されて、たじろいだ。
「…………」
「え、ミニー。どうしたの?」
「カメリア。おしゃれしましょ」
「はい?」
「私のお洋服を貸してあげるわ。さあ、こっちに来て。目にモノを見せてやりましょう」
ずらっとハンガーのかかったクローゼット。その引き戸を勢いよく開けたミニーは、どこのリオのカーニバルかと思うほどに目を引く衣装を、山のように彼女の前に積みあげ、きっぱりと宣言する。
「これだけあれば、変身できること間違いなしよ。後はメイクをして、髪型も変えて。ガラッとあなたの印象が変わるはず」
「こ、これ、全部ミニーのなの?」
「どれがいいかしら? 『アメリカン・ウォーターフロント』、『レジェンド・オブ・ミシカ』、『ヒッピティ・ホッピティ・スプリングタイム』なんかが、ファンからの人気が高かったのよ」
「ええーっと、そうね。動きやすくて、派手すぎなくて、汚れの目立たないものが」
赤い羽根が火の鳥のように逆立っている『ミニー・オ・ミニー』の衣装を見て絶句しながら、カメリアは生返事をした。しかし、こんなジャングルの奥地まできっちりとドレスを持参してくる姿は、あっぱれの一言である。
(まあ、せっかく貸してくれるって言ってくれたんだし。好きなのを選ぼうかなあ)
どうせ、日が暮れるまであと少しなのだ、今日はフライヤーの開発には着手できまい。そう思って服を選んでいると、なんだかワクワクしてきた。ファッションについては、彼女も人並みに興味はある。社交界の貴婦人ほど敏感ではないにせよ、流行の型のドレスが気になったり、新しい化粧に挑戦したりすることもあって、日々、それなりにお洒落を楽しんでいた。
彼に会いに行く前にも、服装は念入りに考え抜いてきているはずなのだが、彼はそれを一度も褒めてくれたりはしなかった。内心、ガッカリすることもあったが、そもそも彼からしてみれば、古い時代のファッションということで、ドレスの見分けすらついていないのかもしれない。今までとは違うイメージの服なら、何か言ってくれる可能性も高まるかも。
試しに、カメリアは少し小首を傾げて、ほわわっと空想してみた。憧れのシチュエーション。なぜか背景は、夕陽の落ちてゆく浜辺で、波のさざめきがBGMの役割を担っていた。
『やあ、良い服を着てきたんだな、カメリア。悪くないと思うぜ。とても綺麗だ』
『あなたのためにお洒落したのよ、デイビス』
『俺のために? 知らなかったな、あんたがそんなに俺のことを愛してくれていたなんて』
『言ったでしょう、私はあなた一筋だって。それは神に誓って永遠なのよ』
『ふふふ、あんたのそんなところ、嫌いじゃないぜ。さあ、上を向きな。あんたへの俺の気持ち、教えてやるよ』
彼女の初心な想像力はそこまでで耐え切れなくなり、きゃーっ、と激しく足をばたつかせる。言い換えれば、これが彼女の思い描ける破廉恥の精一杯なのだった。
(……な、何を妄想しているのかしら)
それを見て、隣にいるミニーは完全にヒいていた。第三者からしてみれば、ただただ不気味な不審人物なだけである。
ひとまず、周囲を圧倒するようなセレブばりのドレスはすべて避け、もう少し気軽に着用できそうな衣装をメインに、鏡の前で当ててみる。その中で、試着するまでもなくカメリアが魅せられたのは、ミントグリーンに染められた、かっちりとした型の襟付きのシャツに、菫色の膝丈のフレアスカート。同色のベルトを上から締めるそれは、艶々とした光沢を放っている。素材はおそらく繻子であろう。それに可愛らしい、小さなポシェット。
ミニーがかつて、ホライズン・ベイに映画俳優として招かれた時、最初に着用した衣装だったらしい。スカートの下に入った深紫のラインは品がよく、機能的で洗練されたシルエットだが、比較すると、並ぶ豪奢なコスチュームの中では大人しめに見え、全体的な色合いも目を惹くものではなかった。晴れ着というよりも、どちらかといえば普段着に近い。見違えるように煌びやかなドレスアップを目論んでいたミニーからすれば、いささか当ての外れたようなコーディネートだった。
けれどもカメリアは、その格好が嬉しくて嬉しくて堪らないらしく、鏡の前で踊るように回って、自分の姿を確認していた。ドレスが当然の時代に生きていた彼女にとっては、膝から下の足を晒すことも、思い切った選択なのだろう。その服で本当にいいの、と訊ねてみると、
「デイビスの故郷にいた女性はみんな、こんな服装をしていたから……」
と、胸に秘めていた長年の夢が叶ったように、喜びに酔い痴れていた。
それを聞いて、華美な変身ばかりしか念頭になかったミニーも心を改め、ポート・ディスカバリーらしいゆるいポニーテールに結いあげると、大人びた清楚なシュシュで飾ってやった。カメリアは、可愛い! と彼女のヘアアレンジの腕を礼讃しただけで、特にまじまじと点検することもなく、ただただスカートの裾をつまみながら、遠い憧れの叶ったようにはしゃいでいて、ああ、そういえば、好きな人に新しい服を見せるって、こんな感じだったな、とミニーは懐かしく思い出す。
「ありがとう、ミニー。これでようやくデイビスも、私に婚姻届を提出してくれるはずだわ」
「言っとくけど、それほどの効果はないわよ」
慎重に釘を刺すミニー。衣装にスピリチュアルなパワーを期待されても困る。
「私、昔の人に見えない? 浮いていない?」
「ええ、バッチリ。今時の素敵な女の子みたいよ」
「そう……」
カメリアは頬を染めて、込みあげる感銘のあまり、泣きそうに両手で顔を覆っていた。この反応だけでも、服を貸した甲斐があったな、とミニーは微笑ましく思う。
「ミッキーは、デイビスが、いずれ二つの夢を持つようになるだろうと言っていたわ。でもカメリア、あなたの場合は、ひとつの夢の中に、二つの目的があるのね」
彼女に軽く香水を振りかけてやりながら、ミニーは囁いた。
「目的というよりも——夢を何としても叶えなければならない、覚悟と言った方が良いのかしら。あなたは一人で生きてゆける、強い人。でも……これから先、遠い道のりになるわね」
カメリアはミニーの方を振り返らずに、そうだねえ、とのんびり言った。子どものように笑っているその眼から、不意に、一筋の涙が零れ落ちた。
一方その頃、デイビスといえば。
「……難しいな、これ」
シャワーの水流の調整に、悪戦苦闘している最中だった。どうもグーフィーが魔改造したらしく、激しすぎるか、少なすぎるかで、ちっとも適正量のお湯が出てこない。
「デイビスぅ、君の服、洗濯しておくからねえ。ボクの服から、てきとおに、取っていっていいよお」
「サンキュー、グーフィー。それじゃあ、シャツとスラックスを借りるよ」
「あと、髭も剃っていきなよお。けっこお、生えてきているからさあ」
言われた通りに洗面所の鏡を見てみると、確かにポツポツとした無精髭が生え始めていた。うお、と後退りするデイビス。そういえば、昨日、今日と剃っていなかったのだ。これでカメリアと一緒に行動していたのか、と思うと、目もあてられない。
そこで美意識の高い彼は、徹底的なスキンケアに取り掛かる。蒸しタオルで顔を温め、シェービングジェルを塗って髭を剃り、アフターシェーブローションで肌を引き締める。仕上げに、美容マスクで顔面を潤していると、洗面所を開けたグーフィーが、その真っ白な顔を見て悲鳴をあげた。
「ヒエー、おばけー!」
「おい。お化けとはなんだ、お化けとは」
逃げようとするグーフィーの襟首を掴み、その場に押し留めるデイビス。悪意のない言葉ではあるが、微妙に傷つく。
「びよおマスク?」
「ああ。あんたもやってみるか? 鼻パックとか、良さそうじゃん」
ぺり、とシートからそれを剥がしながら、デイビスはグーフィーに誘いかけてみた。目を輝かせるグーフィー。どうやら興味があるらしい。
それから、十分後。
つやっ。
うるっ。
さらららら。
というわけで、現代科学の力に頼りまくったデイビスは、元通りの若さを取り戻す。ふう、やっぱりイケメンはこうでなくっちゃな。
輝くオーラがグーフィーのバンガローから漏れてきているのに気づき、様子を見にきたミニーも、デイビスの姿を見て目を丸くした。
「まあ、驚いたわ。あなた、ハンサムねえ」
「そりゃどーも。カメリアは?」
「お皿を拭いたらすぐに行くから、先にデイビスの様子を見てきてって」
グーフィーはデイビスに言われた通り、鼻にパックをつけて、大人しく放置していた。
「あら、グーフィー、鼻にちり紙がついているわよ」
「今、スキンケア中なんだよお」
「あー、そろそろ良いんじゃないか? 10分経ったよな」
「どうなったんだろおねえ? 楽しみだなあ」
グーフィーがぺりぺりと音を立てて剥がしてみると、光輝一閃、そこだけがピカピカに周囲の光を反射して、磨きあげた黒曜石の如しである。デイビスもミニーも、封印から解き放たれたその眩しさに、思わず目を瞑る。
「思ってた以上の仕上がりになったな」
「これがあれば、夜道も、ランプがいらないねえ」
「鼻パックって、凄いのね。私もたまにはやろうかしら」
「美容液を高いのにしたら、艶が変わった」
「ワセリンの効果に興味がある」
「毛穴探検隊の動画は最高」
即席でできた美容仲間たちと、鼻パック体験は、思った以上に盛り上がった。そこでミニーは、あまりに馴染んでいるデイビスの身の置き方に、ふと疑問を抱いたらしい。
「あなた、もしかして、他にも私たちの仲間たちに会ったんじゃないかしら?」
「あー、なんとなく似た雰囲気の奴には知り合ってきたかもなあ」
ここ最近はおかしなことがたくさん起きて麻痺していたが、そういえば、とデイビスは思い浮かべながら指を折り始めた。
「えーっと、チップとデールには会っただろ。ミニー、グーフィーは今ここにいるし。声だけなら、ドナルドと、ミッキー・マウスも」
「あら、順調にグリーティングを制覇していっているのね。これであなたも、立派なDヲタだわ」
「ウンウン、将来が、ゆうぼおだね」
「?」
そこへ、ようやく仕事を終えたカメリアも、グーフィーのバンガローに顔を出した。着替えたばかりの服。けれども、恥ずかしげに俯いて彼の感想を待つ、というのは性に合わないようで、自らデイビスの前で、スカートの裾を持ちあげてみせ、
「見てみて、お洋服を借りたの。どう?」
と訊ねると、デイビスも不意を突かれたのか、少し驚いたように目を見開いていた。彼にとっては、彼女が愛用しているクラシックなドレスよりも、むしろ今の方が目に馴染むファッションである。というより、一瞬、マリーナの新しい人間がやってきたのかと思った。けれども、自分を真っ直ぐに見あげるその鳶色の眼差しは、ずっと前から覚えのあるものだった。
「おー、着替えたんだ。似合うじゃん」
と声をかけると、その言葉に、それまで所在なさそうにしていたカメリアも嬉しそうな表情を浮かべ、
「本当?」
と満面の笑みに変わる。
「デイビスったら、そんなに見つめちゃって。いくら私が可愛いからって、ちょっとくらい視線を外してほしいわ」
しゃがみ込んで、きゃーっと言いながら赤い顔を隠すカメリア。一体なにを勘違いしたというのだろう。
「ねーえ、デイビスが、似合うって!」
毎度お馴染み、くるくるとお手製のダンスを披露しながら、カメリアはミニーに報告しに行った。とはいえ、すぐそばで様子を見守っていたのだ、わざわざ報告する必要もないのだが。
デイビスはその後ろ姿を見つめつつ、動悸まではいかないまでも、何か鼓動に奇妙な引っ掛かりを覚えていた。それは、可愛いとか見直したとか、そういった甘酸っぱい感情とはまったく別の理由で、ただただそのファッションと人物の組み合わせに、新鮮な印象を抱いたからだった。
————もしもカメリアがポート・ディスカバリーに生まれていたのなら、こんな感じだったのかな。
そんな無益な考えが、不意に脳裏を過ぎる。マリーナで最先端の服を着た女性と比べても、何も遜色もないその姿は、彼の生まれ育った故郷で生活していれば、本当にそのまま、街の曲がり角で出くわしそうな錯覚。海に突き出たテラスで待ち合わせしたり、浅瀬に反射する光を見つめたり、友達とはしゃいでチュロスを齧っている、そんな光景が、自然とデイビスの頭の中に浮かんできた。そしてそれは、現在からは永遠に分かたれた、歴史のifでしかありえない。
「ねえ、カメリア。フライヤー製作のことだけど、もしよかったら、私たちも手伝わせてくれないかしら」
「あ、それ、ボクも言おうとおもってた」
それまで和やかに会話していたミニーとグーフィーは、思い出したかのように、彼らに協力を申し出た。カメリアもデイビスも予想していなかった、それは二番目、三番目の、飛行を目指す仲間だった。
「でも……たくさん助けてもらってしまったのに、これ以上は」
「あら、カメリア。言ったでしょ、お友達に遠慮は無用だって」
ミニーは、あの人の好い笑顔で、にこっと笑いかける。
「平気よ。私、人のために働くのって、大好きなの。それに、あなたたちとこれでお別れしちゃうなんて、寂しいじゃない」
「ボクも、君たちとおしゃべりしたいこと、いっぱいあるしねえ。たくさんの人数で、作った方が、きっと早くおわるよ」
目を見開いているカメリアに向かって、優しい微笑を浮かべたデイビスの目線がそそがれ、どうする? と何も言わずに選択権を委ねた。
「ありがとう、ミニー、グーフィー。ぜひお願いしたいわ」
ゆえに、カメリアも微笑んで、その答えを返した。その場にいた四人は、互いに笑顔を交わして、明日からの作業に希望を抱く。
何も不運なことはないのかもしれない。彼らのような友達に出会えたのなら、今日のことも、いつか、大切な思い出に変わるのかもしれない。そうして、自分に授けられた幸運だけを数えて、前を向いて歩いていこう。一歩ずつ、着実に。
「よかったわ、フライヤーが完成するまで、このバンガローに泊めてあげるから。夜通し、お話しましょ」
その話題って、全部恋バナなんじゃないか、とカメリアは恐れをなした。わ、私の人生に、それほどの持ち玉はない。
「それじゃ、今夜は、そおこおかいだねえ」
「壮行会?」
「そうだよお。おさけが、のめるぞ!」
グーフィーは万歳をして、どこからともなく、色とりどりの紙吹雪を飛ばした。
「東京ディズニイシイの良いところは、アルコオルを、お店がていきょおしてくれることだから(注、2020年10月から、東京ディズニーランドでも飲めるようになりました)」
「私はティーンエイジャーだから、お酒は飲まないけど、二人はどうか遠慮しないで」
「そおいうことだから、おっとなたちは、たくさん飲もおねえ」
グーフィー、あんた成人していたのか、と驚愕するデイビス。確かに背は高いし、その間延びした口調に反して、妙な世慣れ感があることも確かだが。
「あら、グーフィーには、息子だっているのよ。ねえ、グーフィー?」
「マジで!?」
「うん、でんわしたら、すぐ来るとおもうよお。今、ロストリバア・デルタで、フリイ・グリイティングをやっているからさあ」
ピッポッパッ、とグーフィーが電話をかけてから、僅か数分後。颯爽と現れたのは、グーフィーをそのまま少し縮めたような少年。トボけた顔つきなのは親譲りなのだろうが、父親よりももう少し目がぱっちりとしていて、眉毛が整えられ、まだノズルもそこまで長くない。若者らしいくしゃくしゃの髪型に、民族調のカラフルな柄のチューヨ(注、アンデス地方の耳当てつきニット帽)を被り、鮮やかな赤と青のフリンジが目立つポンチョを着ている。そして、出てくる者がみんなドタ靴なのは、もはや何かのお約束なのだろうか。
「やあ、ボクはマックス。会えて嬉しいよ」
「へええ、グーフィーにそっくりじゃないか。可愛いな」
何気なく呟いたデイビスの言葉に、父さんと一緒にしないでよ、とブツクサ言いながら、マックスは少し顔を赤らめた。さてはコイツ、ツンデレだな。めっちゃパパのこと大好きじゃん。
「ねえマックス、これからみんなでパーティをするんだけど、あなたも参加しない?」
「ええ! いいのぉ?」
「ええ、きっと楽しいわよ。メキシコ料理を食べながら、お喋りしたり、踊ったり。美味しいデザートや、ジュースにお酒も……」
と楽しそうに空想するミニーの呟きを聞き逃さず、マックスの目がキラリと光る。
「父さん」
「ダメ」
「ボクも」
「ダメ」
「お酒を……」
「ダメ」
「ちょっとくらい」
「ダメ」
どうやらそういうものに興味を持つお年頃らしく、慎重に切り出した息子の要望を、父親はすべてシャットアウトした。落ち込むマックスの頭を、いい子いい子、とミニーが撫でる。
「でも、これじゃあぜんぜん、おさけを飲める人が、いないよねえ」
しゅん、と萎れた花のように項垂れるグーフィーに、ミニーが提案した。
「ねえグーフィー、それなら、ホセとパンチートを呼んだらどう?」
「おぉっと、それは、とおってもいい考えだねえ」
たちまち、生気を取り戻したグーフィーは、しゃきっ、とアスパラガスの如く背筋を伸ばして、ふたたび電話をかけ始める。
「私も、親友を呼んで良いかしら? あなたたちに、紹介したいお友達がいるの」
「よおぉーし、どうせなら、みんなかき集めちゃおう!」
というわけで、ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナを貸し切り、急遽壮行会が始まった。
ゲストたちが到着する前に、全員で飾りつけをする。一階のホールは数百人が座れる規模に思え、こんな広い場所を貸切で良いのか、と驚愕するが、オーナーであるミゲル曰く、飲み会のためなら、何を差し置いても優先的に貸し出すとのこと。祭り好きのメキシコ人に合わせて、パーティグッズも揃っているそうである。
「デイビスー、もうちょっと左、左!」
「こ、このくらいか?」
ピニャータを吊り下げようとするマックスを肩車したデイビスが、よろめきながらも指示に従うのを、グーフィーがハラハラして見守っている。カメリアはグラスや皿に加えて、ジュースと酒の瓶もテーブルに置き、準備は万端だった。
「今夜のおりょおりは、何が出るのかな?」
「前菜がワカモーレ(アボカドのペースト)とセビーチェ(魚介のマリネ)。
サラダがエンサラーダ・シーザー(シーザーサラダ)。
スープがソパ・デ・リマ(ライムのスープ)。
魚介類が、カマロネス・アル・モホ・デ・アホ(海老のガーリックソース炒め)。
メインが、ポージョ・デ・モーレ(鶏肉のチョコレートと赤ワイン煮込み)。
デザートが、フラン(固めのカスタードプディング)とパランケタ(キャラメリゼしたピーナッツ)」
「おいしそーお!」
「楽しみねえ」
和気藹々と語るグーフィーとカメリア。彼女の頭の上に乗ったアレッタも、一羽だけ早々とオーナーからラム肉を分けてもらい、珍しく上機嫌だった。そして、ほのぼのと夜の宴を待ち切れない様子の四人から離れ、ハート型の電話で招待客と会話する者が一人。
「ミッキー、ふざけているのかしら?」
氷点下まで凍えるような声に、全員がぎょっと肩を震わせ、ミニーの方を振り向く。
「こんな機会、そうそうあったものじゃないのよ。なのに来られないって、どういうこと?」
《ごっ、ごめんよミニー、僕も本当はとっても行きたかったんだ。だけど今、プルートが、ずっと探していたイエティの痕跡を嗅ぎつけてくれて——》
「ねーえ、雪男と私と、どちらが大切なのかしら」
《ミニー、僕はもちろん、君のことが一番……》
「でも、私を選ばないということよね。あなたの気持ちはよおく分かったわ。そこでプルートと一緒に、延々とUMAでも探していなさいよ」
こ、こえー。昼間の優しさが嘘のようなミニーの豹変っぷりに、デイビスもカメリアもぞっと鳥肌を立たせる。
「あの状態のミニーには、近づいちゃだめだよ」
「早く、デイジーとクラリスが到着しないかねえ」
マックスが念入りに警告し、グーフィーが震えながらそう語る。どうも彼らには覚えのある光景らしく、トラウマがちくちくと胸を突ついていた。
「ちなみにうっかり話しかけると、どうなるんだ?」
「狙っていたアトラクションがシス調になる」
「ショーパレが風キャンになる」
「目の前でラインカットされる」
「トゥルる」
「どういう呪いなんだよ、それ」
と、その時。店内に響く、コンコンコン、というノックの音。二階から落ちてきたその微かな音を拾いあげて、今まで垂れ下がっていたグーフィーやマックスの耳が、ぴくりと持ちあがる。
「話は聞いたぜ。酒があるんだって?」
「水臭いじゃないか、もっと早く誘ってくれりゃよかったのに」
早々と戸口に立っている、二つの影。どちらも帽子を被っているようだが、逆光のせいで詳細は分からない。そして断言できることは、けして人間ではありえない。
その二人組が一歩、店内へ踏み出すと、鮮やかなシグナルレッドと、ライムグリーンの姿が現れた。一方の鳥は、上から下まで、真っ赤な羽と上着を整え、唯一色の違うものと言えば、クチバシくらいのものである。腰のベルトには二丁の拳銃、大きなソンブレロを被り、きりりと精悍で、西部劇のような粋な出で立ち。そしてもう一方の黄緑色の鳥は、カンカン帽に紳士的な傘、黒い蝶ネクタイにクリーム色のジャケット。親しみやすい丸いクチバシには葉巻をくわえ、洗練された伊達男風の格好であった。
「わーっ、二人とも、お待ちしていたよお」
と紙吹雪でも散らすように、グーフィーは両腕をあげて喜んだ。
「テキーラの香りが漂えばどこまでも」
「俺たち二人を呼んだようなものさ」
爽やかな夕暮れの風の中、歌うようにそう宣言する二人は、人見知りという概念すら存在しないのか、デイビスとカメリアに向かって一目散に駆け寄ると、熱烈な歓迎をしてくれた。
「やあやあ君たち、よく来た、いらっしゃい。嬉しいねえ、ロストリバー・デルタで、こんな格好良い紳士淑女に出会えるなんて」
「いやいや、ロストリバー・デルタへはるばるよく来てくれたねえ。で、調子はどうだい。元気だった?」
握り合った手を激しく上下に振りながら、二人はデイビスとカメリアに挨拶をした。あまりに握手が激しすぎて、振り回される彼らのポケットに仕舞っていた、色んなものが転がり落ちてゆく。
「初めまして、デイビス。俺はホセ・キャリオカ」
「よろしくー、カメリア。俺はパンチート・ロメロ・ミゲル・フニペロ・フランシスコ・クインテロ・ゴンザレスだ」
そう自己紹介する二人は、常に南米のリズムに彩られているのか、他を容易く圧倒する陽気さを放っていた。緑のホセと、赤いパンチート。軽く体を揺さぶっただけで、マラカスの音でも聞こえてきそうである。
「なあグーフィー、あんたたちの情報網は、いったいどうなってるんだ? 会う人会う人俺たちのことを知ってるの、不気味すぎるぞ」
「だって、デイビス、考えてもみてよ。ここでみんなと会うたび、いちいち君たちがじこしょおかいしてたら、読むのが、めんどおくさくない?」
「ええっと、つまり、小説的な都合ってこと?」
「そのとーり。アッヒョ」
アッヒョじゃねえよ、と思いつつ、しかしまあ、小説ってのは便利なものだな、と感嘆するデイビス。一方のパンチートは、何気なくソンブレロのつばをあげて、そこでカメリアの頭上に宿っているアレッタの鋭い瞳と、パチッと目が合った。磨き抜かれた黒檀のような眼球にパンチートの姿を映しながら、身動きひとつしないアレッタ。そうして三秒ほど、時が止まったかのような沈黙が流れたが、まもなくパンチートが、そのけたたましい喉笛を存分に震わせて、
「ハッハー!」
と大声を出しながら飛びあがると、隣にいるホセの首をゴキッと動かして、強引にカメリアの頭上へと目を向けさせる。
「こりゃ、大ごとだ。見ろよ、ホセ。あのお嬢ちゃんの頭を!」
「こいつは凄い。今まで、生きてた甲斐があったってもんだ」
ホセもパンチートに負けず劣らず驚嘆して、二人ともひれ伏すように、それぞれ被っていた帽子を脱いだ。突然の平伏に、飼い主たるカメリアは困惑の色を隠せない。
「ええっと。アレッタが、どうかしたのかしら?」
「良いかいカメリア、鳥の世界にも格ってのがあってな、あんたの頭の上にいるその隼は、まさに雲の上の存在なんだぜ。で、俺たちはといえば、この辺」
「底の底」
「むしろ突き抜けるくらい」
と、宙に描いた三角形のスレスレの方を指す。
「鳥は大事にすれば、必ず恩を返す生き物だ。君の頭の上にいるその隼サマは、よっぽど君のことを気に入っているに違いないよ。ま、これからも失礼のないように世話しなって。きっと、何か良いことが起きるぜ」
「そうなの、アレッタ?」
ホセの言葉に、思わずカメリアは問いかけてみるが、アレッタはどこ吹く風と言った様子で、ぷいっとそっぽを向いていた。相変わらずのマイペースさだなあ、と呆れるしかないカメリア。まあ、誇り高い猛禽類からすれば、これが平常運転とも言えるのだが。
「で、はるばる立派な隼を連れて、君たちはどうしてロストリバー・デルタに来たんだい?」
ホセは蝙蝠傘の柄に寄りかかりながら、葉巻の煙を棚引かせ、親しげに首を傾げた。
「私たち、元の国に帰るために、空を飛びたいの。そのためのフライヤーを、明日から作ろうと思って」
「なーんと! 空を飛びたいのか。カメリア、空を飛ぶコツはなぁ——」
「駄目だ、お嬢ちゃん、コイツの言うことは聞かなくて良い。どうせ、ただの雄鶏なんだから」
と、ホセが乱入しようとしてきたパンチートを押しのけ、嘴を挟む。
「おぉーい、ニワトリだって、ちったあ飛べるぜ? ま、屋根の高さくらいまでならな」
パタパタと、両手で羽ばたく真似をしてみせるパンチート。確かにその体は宙へと持ちあがったが、床からはほんの数センチしか浮いていない。
「ま、飛ぶのに適していない鳥であることは確かだね。ここは俺に任せなって」
「ホセは、何の鳥なの?」
「俺は、オウムさ」
「本当にオウムなの?」
「何か文句があるのかい?」
「いいえ」
不服げに葉巻から雲の輪を浮かばせるホセに、カメリアは澄ました顔で首を振った。
「空を飛ぶにはだね、お嬢ちゃん、まず、自由の風を感じることさ。それからどこまでも飛びたいと思うこと。飛べると信じること。ワクワクすること」
「そうね。でも……フライヤーは時折り、言うことを聞いてくれなくて。今度作り直すものは、本当に大丈夫かしら」
ホセは葉巻をふかしたまま、少し気落ちしているカメリアの言葉をじっくりと考え込んでいたが、
「ちょっとおいで」
と、ホールの隅に招き寄せる。一瞬、彼女が離れてゆくのを振り返ったデイビスと目が合い、その眼差しがちらと、不安げに交わった。
「さて、と。……どこから話そうかな」
カメリアに席を勧めながら、椅子にどっかと腰掛けたホセは、天井を向いて深く考え込んでいた。その間に、彼女は遠くにいる彼の姿を、ふと切なそうに捉えた。デイビスは、マックスやミニーと何か話している。誰が冗談を言ったのか分からないが、皆に混じって、あどけなく笑っていた。その様子を、彼女と同じように認めたホセは、葉巻を咥えた嘴の端に、優しい微笑を浮かばせてみせ、
「そんなに、奴のことが気になる?」
「え? あっ……えぇっと、」
「ホセー、意地悪言って、セニョリータを困らせるもんじゃないぜ」
「しかし、大事な話の時には、他のことは忘れて貰わなくちゃ」
パンチートの横槍に、ホセは肩をすくめると、少し顔を突き出して、低い声で囁いた。
「あの色男はだね、紳士の俺に言わせりゃ、女ったらしのロクデナシさ。でも、君の学ぶべきことが、たった一つある」
「何かしら?」
「あいつぁ、自分の飛行機を信じてる。君は信じてない。フライヤーの制御が不安定なのは、それが原因さ」
ぱちくり、とカメリアは瞬きした。
「君が科学理論を愛するのも、そいつが理由だ。自分の考えだけでは自信が持てないから、確実に信用できる根拠を、外に求めているってワケ」
「私は……」
「心当たりがないとは言わせないぜ? あいつは他人を信じちゃいないが、君の方は、自分を信じちゃいない。そして空を飛ぶには、その心構えだと、ちょいとまずいんだよ」
ホセが少しカンカン帽のつばをあげて、透き通るように魅力的な微笑みを浮かべた。
「お嬢ちゃん、いつだって君は、自分自身を信じていなかった。だから、空を飛ぶのに、他の人間の信じる心が必要だったんだよ。君は、頭の上の隼サマや、あそこにいる色男の力を借りて、そいつへの信頼を動力にして、フライヤーで空を飛んでいたってことさ」
「…………」
「分かったかい?」
温かくそう訊ねるホセに、カメリアは迷いながらも返答をした。
「……私は……デイビスに押しつけていた。私が解決しなければならないことを、代わりに」
「いやいやいや、そうじゃない。真面目な解答はよせよ」
堪りかねたパンチートが、赤い鶏冠をピン、と跳ねあげながら、横から嘴を突っ込む。
「あんたは優等生だが、だからこその困ったちゃんだ。背負いすぎだよ。全部自分のせいにして、自分に価値なんかないと思って、他の誰かのために飛ぼうとしてた。
でもそうじゃない。あんた自身が、立派な翼を生やしていなくちゃ。あのフライヤーは、あんたのものだ。そして、他の誰よりも、あんたのことを愛してる。あんたが、その想いに応えないといけないんだ」
「フライヤーが、私のことを愛している?」
「そうさ。あのフライヤーは、想像の翼で空を目指す飛行機。少しでも翼に問題があれば、瞬く間に制御を失って、落ちてゆく。
もっともっと、心の羽を集めるんだ。君がフライヤーに乗って飛びたいんだってことを、誰よりも示してやらなくちゃ。そうすればきっと、どこまでも高く飛べるだろう」
二人からそそがれる優しい眼差しを見て、初めてカメリアは、自分の対峙すべきものと対峙した。
今まで、自分を嫌いで嫌いで、仕方がなくて、その逃げ口を探すかのように、フライヤーに期待を寄せていた。飛ばなきゃならない。ファルコ家のため、未来のため、人類のため、空を飛びたいと願う世界中の人たちのため。
その抱きしめ続けてきた義務感を、おそるおそる手放して、重荷でいっぱいだった自分の心と向かい合う。深く深く、その奥底へと、潜ってゆく。
フライヤーが私を、愛している。
それなら私は、何を愛してフライヤーを作ったの?
どうして——空を飛びたいと願ったの?
思い出して。
心の中にある、魔法の思い出。
ずっとずっと大切にしてきた、美しい思い出の時を。
私が最初の夢を見たのは、いつのことだった?
まるで、柔らかに風の吹くよう。
至極、薄く軽い服を着て、裸足で、それの前に向かい合うかの如く。不思議な鼓動を感じた。まっさらな紙の上に線を引いたような、その簡素ながらも優美な飛行機。それはうっすらと青空を吸い込んで呼吸し、流れてゆく雲の翳すら、反射するようだった。胸に広がる、大空へのときめき。ここから、すべてが始まる。一であり、全である、その永遠の奇蹟のうちに、このフライヤーで飛び込んでゆく。これがすべての始まりなのだと、私は知っている。
霧が晴れてゆく。
灰色の雲間から光が差してきて、薄暗い感情に別れを告げるかのように。無数の白い鳩が飛び立ち、太陽は地上のすべてを照らし出す。言葉にできない想いも、壮大な旅路も、ここには最初からすべてがあった。翼さえあれば、いつでも冒険に出かけられる。無限の可能性が、鮮やかな眺めを繰り広げて、この人生を死んでも忘れられないものにして。私は、その限りない憧れを知っている。
ああ、そうか——とカメリアは思った。
脆くて、弱くて、傷つきやすくて。それでも、けして消え去ることのなかった気持ち。それは私が、自分の産まれ落ちてきたこの世界のことを、大好きだということ。Porto Mediterraneoは、比類なく美しい街だった。でも気球から、地上を見下ろしたあの日、それよりももっともっと、世界は彼方まで広がっているのだと思った。どんな悲喜も、大空から見ればただただ愛おしく、苦しいほどに愛らしく見える。この世には、もっと見るべきものがある。だから大空を飛んで、この遠い世界を見に行きたかったんだ。
(パパ、人間は美しいの?)
私がフライヤーを創造して、大空へと飛ばすんだ。
(パパ、人間って、素晴らしいの?)
その人類の最初の一歩は、私が踏み出さなきゃいけないんだ。
そして、その知と愛の中で、世界を繋げるのも、世界の平和を願うのも、私がやらなければいけないことなんだ。
(なんて、なんて、なんて素敵なのかしら。ああ、なんて、なんて素晴らしいのかしら——……)
あの時の感動の中で生きて、その想いを、多くの人たちに繰り広げること。それは、途方もなく偉大な人間でなければ叶えられない旅路。それでも、その理想を叶えることを、他の誰でもなく、自分で決めた。
地上に影をもたらすものをすべて振り切って、あの光射す、雲の上の世界へ。
眼下にちりばめられた、人々の夢。それらを誰よりも愛しているのは私なんだと、胸を張って言えるから。
見つけに行こう。
どこまでも、それらに向かって手を伸ばそう。
『世界は、なんて広いのかしら。
私行くわ、いつか、あの空の向こう側へ』
————神の前にだって、誇り高く誓える。
この想いこそが、"私"の原点なんだ。
涙なんかよりも、もっと大切で大きくて素晴らしいことが、この世には途方もなく広がっているんだって。そう信じるために、この世に生まれてきたんだって————
「……ホセ、パンチート。私……私、」
カメリアは震えながら言いさした。
「ようやくわかったの。今まで何が足りなかったのか——ううん。何を思い出さなければならなかったのか。何のために、こんなにもフライヤーを創りたかったのか」
彼女は、手を握る。その中に確かに、なにかを掴み取ったかのようだった。
「そうさ、あんたの中に、足りないものなんて何もないんだ。もっと肩の力を抜いて」
「気楽に」
「元気に」
「余裕たっぷりと」
「優雅に」
ホセは、窓から差し込んできている枝の、燃えるように紅い一輪の花を摘んで、そっとカメリアの髪に挿し込んで飾ってやる。
「————笑っていなくちゃ」
カメリアはしばらくホセを見つめていたが、やがて花の咲き誇るように、にっこりと笑った。
「そうだよ、その調子だ。君はそうしている方が、断然良い。フライヤーは、君が心の底から夢を見る瞬間を待ってる」
「失敗くらい、どうってことないぜ? あんたはディズニーシー史上、最大の発明家なんだから」
「……なれるかな。本当に」
「もちろんだとも。大切なのは、君がそうなれるって、自分を信じることだよ」
ホセは静かにカメリアの肩に手を置いて、その手袋越しの体温を彼女に伝える。
「カメリア・ファルコ。あんたの夢は、なんだい?」
黄金の喇叭のように美しく、けれども穏やかに放たれるパンチートの声に、カメリアは顔をあげた。
「空を飛ぶだけなら、もうとっくに叶ってるはずだ。それでも、まだまだ足りないと思っているんだろう。あんたは空を飛ぶことで、何をしたいんだい」
「私は——私の夢は、」
「そうさ、怖がらずに言ってごらん?」
ホセは葉巻をふかしながら、愛用の蝙蝠傘に顎を寄りかからせ、優しく言った。
「たくさんの人たちが、私の前に生きていた。私に夢を語って……叶ったものも、叶わなかったものもある。私は……私は、そんな彼らの夢を守りたい」
カメリアの紡ぐ言葉は、途切れ途切れだったが、やがて、遠い真実を掘り当ててゆくかのように、底知れぬ力強さを携えてきた。
「私は——生きている人々、生きてきた人々、これから生きる人々の物語を、掬いたい。物語の物語を、紡いで、記憶したい。世界中を飛び回って。たくさんのことに、一緒に触れて。知りたい。この世界に生きる人々の、数え切れない、空の下の物語を」
そして、彼女は答える。何があったって、きっとこの夢は、誰にも穢されたりはしないだろう。
————これは、私だけの夢の物語。
光にあふれる空が、色鮮やかな幾つもの世界を包み込むように。
私もまた、彼らを祝福したい。
彼らが自由に夢を見られるように。素晴らしい未来を目指し、心を高く飛翔させられるように。
もっともっと————強くなろう。
大きくなろう。
人々の心を揺さぶる、壮大な風を湛えよう。
「私は守りたい。肯いたい。どこまでも遠くへ飛んでいって、それらを愛したい」
ホセとパンチートは、毅然として想いを語る彼女の瞳を見つめていたが、やがてニンマリと微笑みながら、互いの顔を見合わせた。
「どうだい、ホセ?」
「上出来さ。俺たちが言うことは、何もないね」
ホセは微笑んで、品の良いジャケットに包まれた肩をすくめてみせた。パンチートが腕を伸ばして、カメリアの頭をくしゃくしゃに撫でる。
「夢は信じれば、必ず叶うもんだ。あんたはもう、大空へ辿り着くための秘訣を知っているはずだぜ」
そんなパンチートの言葉を、カメリアは胸に染み込ませるように受け止めた。胸が晴れ晴れとした清冽さに染まり、まるで大空の大気を吸ったかのようだった。そして、ゆっくりと目を瞑り、まっさらになった自分に問いかける。
誰かのため。
世界のため。
未来のため。
私は——それを、信じられる?
誰かのためを思う自分を、本当に好きになれる?
(うん、そうだね。きっと、いつか——私は私を、愛せるようになるよ)
そう答えたのは、高い樹の上で、夜空に包まれ、一人ぼっちで泣いていた頃の《私》。
ずっと、自分に愛されることを望んでいた幼いカメリアが、今を生きるカメリアの心を抱き締め、優しく囁いた。
(やっと、仲間を見つけたね。彼らを大切に思う気持ちがあれば、必ず、自分のことも好きになれるよ)
ホセは立ちあがり、足で椅子を仕舞いながら、カメリアに話しかけた。
「さあ、パーティグラの時間だ。楽しんでいってくれよ、お嬢ちゃん」
「パーティグラって?」
「素敵なアート、コスチューム、情熱的な音楽にダンスー! もう最高のお祭りさ」
「おっとぉ、どうやらもう一人の騎士も、揃ったみたいだしな」
そこでホセたちの視線の方向を振り返ると、またもや、新たな仲間が到着しているようで、どやどやと賑やかになっていた。遠くに見えるのは、二羽のアヒル。うん、アヒル——おそらくは。
「ドナルドったらぁ、あたし、アラビアン・コーストでお買い物をしていたのよ」
「みゃあみゃあ、びょきゅにょしゅびゃりゃしいびしぇいをききぇりゅんでゃきゃら(訳、まあまあ、僕の素晴らしい美声を聞けるんだから)」
「うっふふふふ。こんばんは、デイジー」
親友の到着に、ミニーの機嫌もすっかり上向きになったようで、いつもの笑顔を持ち直していた。どうも呪いのかかる時期は過ぎ去ったようである。
「デイビス!」
「あ、ああ。話は終わったのか」
カメリアが近寄り、声を掛けると、デイビスは少し嬉しそうに振り向いて、そこで彼女の耳元を飾る、燃えるように赤い花に気づいた。鳶色の髪に映えて、いつもよりも華やかに見える。
「その花、どうしたんだ?」
「これ? ホセに貰ったの」
「あっちから、髪に挿してきたのか?」
「うん。君は、笑っていた方がいいよって」
「……そう」
そこまで聞くなり、デイビスはふい、と背を向けた。はいはい、また何か拗らせているのね、とカメリアももう完全に手慣れた様子である。いちいち付き合っていてはキリがない。
「今日はね、このロストリバー・デルタに、とっても素敵なゲストが来てくれたの。私たちの、新しいお友だちよ」
と、ミニーからの紹介に与る二人。新しい人に出会うことは、新しい世界に遭遇することと同じ。色とりどりの会話や微笑みが、今夜の彼らの邂逅を、星の如く輝かせるだろう。
「ハァーイ、デイビス、カメリア。デイジーっていうのは、あたしのことよ。昔から、ミニーの大親友なの。あとはドナルドとも、まあそこまでは悪くない関係ね」
「でいじいー!」
「冗談よ、彼は私のボーイフレンドなの。彼の怒りんぼにはほとほと手を焼いてるけど、憎めないところもあるのよね」
少し低めのアルトで、ラベンダー色のアイシャドウが特徴的なアヒル。身のこなしには、どことなく上品な色香を感じられ、その伏し目がちな黒目は、長い睫毛とともに、烏の濡羽のように艶めいていた。そんな彼女が身に纏っているのは、鮮やかな金細工やビーズの飾りが付けられたチュニックで、杏子色の美しいその衣服の上から、薄いミントティー色のヴェールを垂らしている姿は、どこか異国情緒の妖しさを醸し出している。宝石を嵌め込まれた金の腕輪や、その王冠もまた、彼女の生来の気品を引き立てているかのようである。
そしてその隣にいる、彼女にそっくりな雄のアヒルは、青と赤が鮮やかなソンブレロに、大きな魚の刺繍が入ったブルーのシャツ。その下からはもふもふとした白い尻が、まるで絞り出したホイップクリームをすっと上にあげたように、柔らかい尻尾を突き出している。
「きみてゃち、じょーんじゅはかしぇをしゃがしにきててゃひてょたち?(訳、君たち、ジョーンズ博士を捜しにきてた人たち?)」
「あ、それなら、あんたがドナルドか? その件は色々とありがとな。あの後、無事にジョーンズ博士と一緒に、神殿の外に脱出したよ」
「こちりゃこしょ、ぶじでよかってゃ。よりょしくね、でいびしゅ、きゃめりや(訳、こちらこそ、無事で良かった。よろしくね、デイビス、カメリア)」
彼らは順に、ドナルドとも握手を交わした。この場に集まっているメンバーの中でもトップレベルで舌足らずさだが、併記してある訳と比較すれば、なんとか聞き取れそうだとほっとする。
「ちなみに、この字幕はまもなく消え失せるから、今のうちに慣れておいてね」
「えっ」
「この後、彼の長台詞も待っているから」
「えっ」
「長時間かけて読解してもらえるのか、あっさり読み飛ばされるのか。読者の反応が気になるところね」
「……登場して早々、メタな発言をするなよ」
呆れ返るデイビスの隣で、カメリアといえば、デイジーの身に纏う衣裳にすっかり心を奪われたようだった。
「デイジーの格好、とっても素敵ね。千夜一夜物語のお姫様みたい」
「そうよ、アラビアン・コーストの市場で買ったの。アグラバーを散策中だったんだけど、ドナルドに呼ばれたら、ここに出向かないわけにはいかないでしょ? 慌ててジャスミンに頼み込んで、魔法の絨毯でやってきたんだから」
「魔法の絨毯っ!?」
ぱあっ、とカメリアの顔色が明るくなる。魔法の絨毯といえば、ファンタスティック・フライト・ミュージアムにも切れ端が飾ってある……が、まさか実在するなんて思いもしなかった。
「あら、あなた、ロマンティックなことが好きなの?」
「ええ、大好きよ」
「それなら、あたしたちと話が合いそうね。そうそう、この子も、よくミニーや私と一緒につるんでいるのよ。クラリスっていうの」
とデイジーが語ってくれたものの、見回してみても、紹介された者の姿は、影も形もない。そこへ通りかかったパンチートが、
「やあ歌姫! 今晩の喉の調子は?」
「エエ! サイコーヨッ⤴︎⤴︎」
なんだ今のモスキート音みたいな声は、とデイビスは目を剥いた。よく見ると、その声の持ち主はテーブルの上の酒瓶の陰に、ちょこんとたたずんでいるのだった。
「ハロ-、デイビス、カメリア! チップトデ-ルカラ、アナタタチノコトハキイテイルワヨ!」
かっ、かわえー。華やかな羽のついたヘッドドレスを飾り、睫毛の長く、薄い色の体毛を流したシマリスは、苺のような鼻が大変にチャーミングだった。まるで女優とも見紛う豪華なピンクのファーをドレスに飾りつけ、胸元には煌めくばかりのブローチを光らせている姿は、いかにも都会の貴婦人。なるほど、ミニー、デイジー、クラリスの三人ともに、なかなかにお洒落に気を抜かない性格は共通しているようである。
「クラリスは最高に歌の上手いセニョリータさ。ま、この後の舞台を楽しみにしていなよ。きっと素晴らしい声を披露してくれるぜ」
ホセが手のひらの上にクラリスを乗せて、二人の目の前に連れていってやる。その小さな歌姫と、小指で握手を交わすデイビスとカメリア。続々と集まってくる仲間たちは、みな友人の開くパーティに惹かれてやってきたのだろうが、まさかこれほどまでの人数が集まってくれるとは思わなかった。
「凄いな、グーフィー、俺の頭が追いつかないぜ。酔っ払いの見ている世界って、こんな感じなんだろうな」
「ウンウン、たくさん飲んでねえ。ディズニイキャラクタアの、大集合なんだから。出血、大サアビス」
「出血にしても、さすがに個性が渋滞しすぎているだろ!?」
「個性のないディズニイキャラクタアは、消費者の手によって、淘汰されるからねえ。これが、資本主義社会の、抗えぬ摂理というものだよお」
「……グーフィー、あんた、たまに悟った発言をするよな」
「アッヒョ」
年末セールのような怒濤の登場っぷりにたじろいだデイビスは、指を折って、全員の名前を覚えているか確認した。えーっと、ミニーにグーフィー、マックス、ドナルド、デイジーにクラリス。そして、ホセとパンチートか。意外に覚えられるもんだな。
ホセ———
彼のことを考えると、妙にそわそわとした。彼女に花を贈っただけというのに、なぜこんなに落ち着かない気持ちになるのだろう。見るからに伊達男のようだし、まさかさっき、部屋の隅で口説かれたりしてやいないだろうな。
チラッと隣にいるカメリアの方を振り返る。当然、表情から分かるわけはないのだが、妙にすっきりと重しが取れた顔つきに見えて、明らかに先ほどとは心持ちが異なるようだ。
「なぁに?」
「…………………………別に」
な、なにを話してたんだろ。そんな思いが胸を過ぎるが、カメリアがこちらに帰ってきた直後ならともかく、若干時間が経った今では訊ねにくくて躊躇してしまう。聞けよおおおおおおおおお、気になるならさああああああああ、と地団駄を踏む心の声と鬩ぎ合い、デイビスの顔からダラダラと汗がしたたる。そんなことには構わず、ディズニー界きっての陽キャであるホセとパンチートの二人組は、さっさと特設ステージを組みあげてしまうと、まばゆいスポットライトで舞台の上を照らし出した。その中央に佇んだパンチートは、遠く虚空を見つめ、懐かしそうに顎をさする。
「昔はここでも、ムジカ・メヒカーナっていうライブショーをやっていたんだよなあ。今はディズニーシーも大きく方向転換しちまって、当時とは大分違う様相に——以下略——」
「(あ、面倒くさいタイプのオタクだ)」
「ドナルドー! 三人の騎士のダンスを見せてやろうぜ」
「ちょってょみゃってよ、いまにょみもにょをちゅくっているかりゃしゃあ(訳、ちょっと待ってよ、今飲み物を作っているからさあ)」
「ドナルドぉ、もお、配り始めちゃうよお」
手当たり次第にテーブルの上の瓶の中身を振りかけるようにして、オリジナルのモクテルを量産するドナルド。それをウェイターよろしく、グーフィーが盆に乗せて配り歩くのだが、一歩歩くごとにツルリと滑るので、全員がまるで丁々発止の剣術を行うような素早さで反応し、盆を受け止めた。同時に、各々に怪しい色の渦巻くグラスが配られる。音頭をとったのはパンチートである。
「諸君、グラスは持ったかなー? それじゃみんな、フライヤー完成の無事を祈って、杯を上げてー!」
「「「「「「「「かんぱーい」」」」」」」」
「盛り上がってるー!?」
「「「「「「「「いえーい」」」」」」」」」
「パーティグラの始まりだー! ドナルド、さあ、このピニャータを割ってみろよ! この中には、カラフルで素敵な夢が詰まっているんだ」
ホセが黒い布で目隠しをし、視界が塞がれたドナルドに、パンチートが棍棒を渡す。ガタガタッ、と前方席に座っていた全員が逃亡した。
「みんなも手伝ってくれよ! まずは手拍子。ドナルドがピニャータに近づいたら、拍手してくれよ!」
遠巻きに見ている全員が、仲良く揃った手拍子を始めた。ドナルドはふらふらと危なっかしく歩きながらも、徐々に早くなってゆく拍手を頼りに、ようやく、目に痛いほど鮮やかなピニャータの前に辿り着いた。
「今だー!」
「いくじょー、しょれー!」
掛け声とともに、親を殺されたのかと思うほどの勢いで殴りつけるドナルド。その突然露わにされた暴虐っぷりに、思わず観客たちは息を呑んだが、一瞬の静寂の後、高らかなファンファーレとともにピニャータが真っ二つに割れ、左右に分かれて飛び去ってゆく。それと同時に、何やら遠くから陽気な音楽も聞こえてきた。
♪Eh oh eh oh eh
♪Eh oh eh oh eh
♪Eh oh eh oh eh
♪Eh…
聞いているだけで、体がムズムズする曲である。この圧倒的なライブ感。虹色の舞台照明が踊り狂い、よく見ると、フードサービスキャストやカリナリーキャストまでもが、皿を打ち鳴らしてリズムを刻んでいた。おい、仕事はどうした、仕事は。外から入り込んできた虫すらブンブンと彩りを添えるようで、この果てしない太陽のように射し込んでくる明るさは、さすがは中南米といったところか。そして今、最高潮のスポットライトを浴びて、パンチートが高々と拳を突き上げる。
「レッツ・パーティグラ!」
「「「「「「「いえーい」」」」」」」
「歌い踊れー!」
「「「「「「「いえーい」」」」」」」
「俺たち三人の騎士の歌を聞きたいかー!」
「「「「「「「聞きたーい」」」」」」」」
「もっと情熱的にー!」
「「「「「「「聞きたーい!!」」」」」」」
「ハッハー、そうこなくっちゃなあ。それじゃあ行くよ! ドナルド! ホセ!」
パンチートの投げるソンブレロを掴み、お揃いの帽子を被る三人。パンチートがその真ん中で、両側の二人の肩を抱くと、
「Yaaaaaaaaaaaaaaaaaaa-hoo!」
と出し抜けに歌唱が始まった。それは有名な映画の主題歌を下敷きにした替え歌なのだったが、コンコンコン、というリズムとともに進み出た三人の息はバッチリで、晴れやかに喉を鳴らすパンチートの美声が滑り出る。
♪おいら Caballero
三人 Caballero
みんな軽いと言うけど
♪楽しい友達
どこへ行こうと
いつも三人離れないで
♪皮のパンツに
派手な毛布
大きな帽子は Sombrero
♪輝く姿
金貨のように
俺達三人 Caballero
(ホセの貴重なトロンボーン・ソロ)
♪おお 星が頼りさ
ギター片手にゆくだけさ
♪歌おう Samba
叫べ ¡Aye Carumba!
ふと、そこまで歌って疑問に思ったのか、ドナルドがぽつりと呟く。
「Aye Carumbaって、にゃーに?」
沈黙するホール、凍る空気。ドナルドはなぜそのタイミングで、間合いの悪いことを訊ねたのだろう。
そこへふわふわと、どこからか無数のしゃぼん玉が流れてきた。照明が艶めかしいパープルに切り替わる。ミゲルズのオーナーもご苦労なことだが、この特殊効果のセット、すべて含めて丸ごと貸し切りである。彼らがこれほどまでに壮行会に興奮していた理由が、お分かりいただけただろうか。
しずしずと着飾ったミニーが現れ、周囲からまばゆいスポットライトを集めた。ミニー、あなた本当に派手な格好が似合うのね、とカメリアは感心した。今夜の服装は、セルリアンブルーのイブニング・ドレスである。いつのまにか着替えたデイジーやクラリスまで、お揃いのピンクのリボンに、ドレープの深いドレスを着ている。クラリスだけは身長が小さすぎたので、黒子のデイビスがそっと前に無線機を置いて、拡声器代わりにしてやった。
♪パーティグラ
きらめくドレスで心踊る
♪パーティグラ
ときめく自由な気持ちは
♪ゆめ〜の〜じ〜か〜ん〜
ガールズの煌びやかなバラードに、やんややんやの大喝采である。ホセは舞台に花を投げているし、パンチートは盛んに指笛を吹いているし、ドナルドは無言で三脚にビデオカメラを設置し、ひたすらにデイジーを追いかけている(注、TDRでの三脚使用についてはこちら参照)。授業参観の父親のようだ。
「なんだか、凄いわね」
その熱量に圧倒されたカメリアが、こそっと、デイビスに耳打ちをした。
「ディズニーって、マジでショーに命賭けてるんだな」
「本当よね。たかだか身内での壮行会だというのに、この気合の入れよう。さすがすぎるわ」
「観てる方の手拍子も完璧だし、熱いオタ魂を感じさせるな」
と見ていると、銃声のような派手な音ともに、一瞬で早着替えをするガールズ衆三人。ビクッ、と驚愕するデイビスとカメリア。若干、心臓に悪い。
「パーティグラ・ダンスパーティだよ!」とマックス。
「さあぁ、ダンスしなくっちゃね!」とグーフィー。
二人の声を皮切りに、ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナは、即席のダンス会場と化した。人間が十人中二人しか占めていないその熱狂の渦は、清々しいほどのカオスの饗宴と言える。その中でも特に光るのはマックスとグーフィーで、キレの良い動きと美しいシルエット、そして魅せ時をきっちり把握して繰り出されるテクニックは、アイドル並みのカリスマ性を放ち、Cジャン、脚あげ、撫であげ、親子リフト、極めつけはゲッダンまで、オタ殺しのオンパレードである(注、これらの単語は分からない方が健全です)。パックしたばかりのグーフィーのピカピカの鼻が、ミラーボールの下で目に眩しい。グーフィー、あんた、最高に輝いてるぜ。かといって、このような場に慣れていないデイビスとカメリアを置いてきぼりにせず、きっちり親切に振付けをコーチングし、お手本用に左右を逆にしてダンスしてくれるのは、もはや尊敬を通り越して、感動にすら値する。やっぱ、ディズニーってすげー。俺たち、どこのエンターテインメントを観にきたんだろうな。壮行会って、いったい何なのかしらね。カメリア、ここは夢があふれる、最っ高に幸せなところさ。
「夢!」
カメリアはふと我に返り、ぽんと両手を叩いた。
「そうだわ、フライヤーの設計書を作らなくっちゃ」
「ええ、このタイミングで?」
「明日から着手できるようにするには、今しか製作する時間がないもの。デイビス、あなたは気にしないで、パーティを楽しんでて」
カメリアは、彼のそばをすり抜けるようにして、店のキャストから紙と定規を借りると、少し離れたテーブルの隅に座り、用紙を広げた。その俯きで落ちそうになった耳許の花を、あら、とふたたび丁寧に拾いあげて飾るカメリア。それを見ていたデイビスは、不思議なほど複雑な苛立ちに見舞われた。それは何の言葉にもなる訳でもなく、ただ、何かよく分からない憤懣が胸に持ちあがってきて、そしてその感情が、自分の生まれ持った強い独占欲に結びついている、ということを、どうにもこうにも否定できない。
たかが花だろ? 何を焦っているんだよ。
恋人でもあるまいし、こんなことで嫉妬なんて馬鹿げているだろ。
そんな言い訳は、すべて無意味だった。だって実際に、自分のささくれだった感情は、その程度で落ち着いたりはしない。焦燥にも似た苛立たしさが、胸に込み上げてくるのだったから。
(別に、あいつが何を貰おうが、誰と一緒になろうが、俺にとってはどうでもいいし、何も言う権利なんかないだろ。ただ俺が、誰にでも執念深いだけ。それも口に出さなければ、最初から何もなかったのと同じ。あいつを束縛する権利なんてない。元々違う時代に生きていた人間だ、いついなくなったって納得できる。あいつは、俺とは関係ない。
……本当に?
誰が何を贈ろうと、そんなの勝手だ。でも、何もカメリアじゃなくたっていいだろ。あいつの初めての友達は、この俺なんだ。それを後からやってきて、掻っ攫おうとするなよ)
まるで、自分ではない人間がそれを語るかの如く。
一気に文字となって心に畳み掛けてきたその思いは、身を包み込むように焼いて、デイビスを恐怖させた。まるで自分が自分でなくなり、制御が効かなくなるようで。そんな思いを、卑しい感情だ、と思うたび、ではどうすればよいのだろうかと、ますます自分の首が絞まってゆくように感じる。
一方、広間の大騒ぎから離れて、ひとりぼっちで設計作業に没頭しているカメリアに、クラリスがてとてと、とテーブルの上を歩み寄り、彼女の描く設計書を覗き見る。
「コレッテ、ヒコウキノセッケイショナノ?」
「ええ、そうよ」
「スゴイワ、ガジェットデモ、ココマデノハツメイヒンハツクレルカシラ!」
「あなたも、素晴らしい発明家とお友達なのね?」
「ソウヨ、コレヲガジェットニオシエタラ、ドンナニヨロコブカシラネ!
ネエ、モットコノヒコウキノオハナシヲキカセテ」
カメリアは微笑んで、小皿にフランとティースプーンを乗せてやり、クラリスの前にそっと置いた。
「クラリス、あなたが子どもの頃に見た夢が、たくさん、たくさん詰まっているのよ。この飛行機はね、あなたの行きたい時代の、行きたい場所に行けるの」
「ホントニ?」
「あなたが思い描けば、どんなところにだって飛んでゆけるのよ。大自然の渓谷や、珊瑚礁の海、お伽話のようなヨーロッパの街や、人類の祖先の描いた壁画。夜も眠らぬ大都会や、それに平和になった未来で生きる人々の、素晴らしい世界だって」
その明るい声色に、何やら楽しい会話をしていそうだと、デイジーやマックスも、カメリアのそばへと近寄ってくる。
「ねえ、カメリア。それって、あたしも飛べるの?」
「ええ、もちろん」
「ボク、行きたいところがたくさんあるんだ。本当に、どこにでも行ける?」
「ええ、あなたが思い描けばなんだって、夢は叶うの」
限りない希望に目を輝かせて語る姿は、本当に、生まれたての子どもが、世界の壮大さに目を見開くようで。
「このフライヤーに乗る人はね、みんな、飛ぶ力を持っているの。想像力があれば誰だって、時空を超えて、世界のどこにだって行けるの。身分も、お金も、人種も、思想も、年齢も、肉体も、何だって関係ない。みんなみんな乗せて、みんなの夢を繋いで、あの大空へと舞いあがるのよ。
みんな、自分の生まれた世界がどんなところか、見てみたいでしょう? このフライヤーだけが、みんなをそこに連れて行ける。そうして、この世で息を呑むような光景を、みんなに見せてあげるの。そしてみんなはきっと、この世界の美しさに感動して、生きる勇気をもらえるんだわ」
それが、彼女の夢の始まり。
一人の人間の夢が、素早くペン先を滑らせ、彼女だけの世界を描いてゆく。それは命を吹き込まれ、みるみるうちに、周囲の蕾に過ぎなかった夢をふくらませてゆく。
「ボクは、父さんと一緒に、ロサンゼルスに行きたいんだ。スケボーに乗って、坂道をどんどんくだって、青空の下を大きくジャンプして。夜には、ドジャースタジアムのホットドッグを齧ったり、父さんを、サンタモニカの海の見えるレストランに連れていくんだ」
「あたしは、見た事の無い、新しい世界へ行ってみたいわ。タイやカンボジア、インドの重厚な古代遺跡。そこでドナルドと一緒に西瓜のジュースを飲みながら、真っ赤に落ちてゆく夕日を見るの」
「ワタシハ、サイコ-ノスポットライトヲアビタイノ! パリノオペラザカラ、イビザトウノナイトクラブ、NYノブル-ノ-ト、ソレニモナコノアンバ-ラウンジニモイッテミタイワ! ドンナトコロダッテ、ワタシハイツデモハナガタニナレルハズヨ! チップトデ-ルハ、ワタシニハクシュカッサイデショウネ!」
カメリアの目には、そう生き生きと語る彼らの願いは、この世の何よりも美しい光を放つ、クリスタルの結晶のように見えた。
そして花から花粉がこぼれ、新たに実が重くなり、地面に命をしたたらせるように。
彼女から人類への贈り物に、リボンがかけられ、結ばれてゆく。
それは、各々の抱く虹色の願いが、その本来の輝きを取り戻すようだった。もしも大空の彼方へ、どこにでも行けるのなら、どんな場所をめぐろうか? どんなに素敵なことが待っているのだろうか? うんと腕を広げて、風の中で見えてくるのは、きっと、自分たちの知らない、生まれて初めての世界。誰も見たことのない素晴らしい体験が、一生を通じて心に残り続けるのだろう。想像すれば誰だって、驚異と昂奮に満ちた、壮大な空の旅が、幕を開けてゆく。そしてその眼下には、そう、同じように願いの結晶を輝かせる命たちが、大空に抱かれて生きていて。彼らとの出会いが、また新しい旅の行き先を生み出してゆく。
心のコンパスに従って描かれる、空想の地図。吹き渡る潮風が雲を吹き払い、世界は想像力によって、新たな姿を見せ始める。
「大丈夫よ、あなたたちのために、きっと最高の発明品を残すから。七つの海を超えて、みんなでどこまでも冒険するのよ。さあ、出発しましょう、きらめく海へ」
願いや想いが輝き、その七色の光が未来へと導くように、カメリアの言葉は人々の夢を未知の大空へと誘った。
彼女の夢は、人を惹きつける。
なぜならその想いは、人々のためにこそ捧げられているからだ。
この透明に輝く夢の中には、すべてがある。どんな人間も、きっと彼女に共鳴して、冒険心を震わせるはずだった。
デイビスは、遠くその姿を見守りながら、そのあまりに純粋な夢に震撼する思いがして、自分と彼女とを隔てる圧倒的な距離に気づいた。
(……敵わない。俺は、彼女には)
空を飛びたい、という同じ夢を持っているのに、なぜ彼女はいつも、自分よりもずっと遠くを歩いているのだろう? 自分はすでに夢を掴んでいて、その職で食い扶持を稼いでもいる。なのになぜ?
ストームライダーのパイロットになるのは、本当の夢じゃない。
俺は、ストームライダーに乗って、何がしたいんだ?
どうしたら、彼女のように、ありのままの夢を語ることができる?
何か、途方もなく胸苦しさを覚えて、それを振り切るために、思わずボトルに手が伸びた。頭に血が昇るように、早く濃密な酩酊で麻痺させて、揺らめきの中に溺れてしまいたい。そうすれば、他のすべてを意識しなくて済む。
そうして一人、ぐっと苦々しい顔で、焼けるような酒を流し込む彼を見咎めて、グーフィーは慌てて声をかけた。
「デイビスってば、そんなにつおいお酒、ストレエトで飲むの?」
「悪いかよ」
「悪いよお!」
血相を変えて、グーフィーは彼のグラスにジュースを注ぎ、ぼちゃぼちゃと氷を投げ込んでゆく。
「今夜は、これ以上つおいのは、飲んじゃだめだよ?」
「お、おい。これじゃ、ほとんどアルコールを感じないんだが」
「これでいいのお!」
試しに一口飲んでみて、うっす、とデイビスは顔を顰めた。ちらと漂う酩酊の兆しすらやってこず、酔うにはまったく足りない。
遠くから聞こえてくるカメリアの声は、とても楽しそうで。
こっちに来いよ——などとは、とても言えない。胃が炙られたような寂しさを覚えて、どんどんと心が空っぽになってゆく気がした。
「Oh……でいびしゅー、かわいしょーに。ありぇてるにぇー」
そんな彼にかけられる、哀れみの声。ああ、ついに字幕がなくなったのか、とデイビスは事態を察する。そしてデイジーの言った通り、もうすぐ長台詞がくるんだろうな、とも。
「どうしたんだ、ドナルド?」
「わかりゅよ、わかりゅ。こいすりゅおてょこは、ちゅらいもんでゃよにぇえー」
彼の肩をおもむろにポンポンと叩くドナルド。詳しくはわからないが、何かに同情してくれているのは伝わってくる。
「ドナルド、あんたも飲むか?」
「びょく、てぃーんえいじゃー」
「なるほど」
ドナルドは、小皿に分けた海老をもしゃもしゃと食べながら、デイビスのそばのテーブルに寄りかかった。モフモフとした尻尾が少し潰れて、横から覗いているのが可愛い。
「でいびしゅって、しゅきなたべもにょは、にゃんにゃの?」
「ピーナッツかなあ。というか、アトラクションの中の台詞が、やたらとゲストにネタにされているだけだけどな」
「ぴーなっちゅ? ゆーえすじぇー?」
「いや、違う。というか、そのテーマパークの名をここで出すなんて、勇気あるな、あんた」
「あめりきゃじんはみんにゃ、ぴーなっちゅがしゅきでゃよねえ。でょこのかていにも、ぴーなっちゅばてゃーがあるし。びょくも、ぴーなっちゃばてゃーいりのがーりっくとーしゅとを、よくてゃべるし」
「三月はNational Peanut Month(国民ピーナッツ月間)、十一月はPeanut Butter Lovers Month(ピーナッツバター愛好者月間)って定められてるくらいだしな」
「あてゃまおかしいねえ。でもあめりきゃじんの、しょんなくれいじーなてょころ、きりゃいじゃにゃい」
喋っていたら、ピーナッツを食べたくなってきた。デイビスはパランケタを皿によそって、酒とともにそれを頬張る。カリッとした音とともに、遠慮ないキャラメルの甘さとピーナッツの香ばしさが、口いっぱいに広がった。ドナルドも同じ皿からそれを齧りながら、何気なく思い出を囁く。
「あのひとも、ぴーなっちゅをかじりにゃがら、こにょしぇかいのこてょをおもいちゅいてゃんでゃよね。こーして、ゆーえんちのべんちにしゅわってぃえ、かわいいむしゅめてゃちが、めりーごーりゃんどでぃえあしょんでいるのをみていて。かじょくみんにゃが、いっしょにたのしめてゃらいいのにって、かんがえてぃえいてゃのが、はじまりでゃってゃんでゃよ」
「あのひと?」
「みっきーも、いってぃえてゃでしょ? かりぇの、いちびゃんのしんゆうでゃよ。いまはてぃえんごくにいってしみゃったけでょ、びょくてゃちはみんにゃ、あのひとをわしゅれたこてょなんか、いちにちでゃってにゃいんだ」
そしてドナルドは、語り始めた。
———すべては、一人の男の夢から始まったのだということを。
「あのひとは、しゅべてのきゃらくたーてゃちのおやであり、しんゆーでゃったんでゃよ。いちびゃんしゃいしょに、いのちをふきこまれてゃのは、みっきー。かりぇは、くきょうにおちいってゃあのひとの、しゃいしょのてょもだちとにゃって、ゆめとまほーをわかちあってぃえ、あてゃらしいしぇかいにみちびいてあげてゃんだ。
しょりぇから、びょくらも、あのひとのゆめのなかでうまりぇた。びょくらは、あのひとがだいしゅきでゃった。いちゅもこでょもみたいで、てょんでもないこてょをおもいちゅいて。こにょしぇかいでゃって、あのひとが、おてょなも、こでょもも、みんなたのしめるようにって、しょんなねぎゃいかりゃおもいちゅいてゃんだ。
じゅっと、こにょのまま、えーえんに、びょくたちはいっしょでゃよね、っておもってぃえてゃ。でもあのひとは、やまいにおかしゃりぇてて。いっちゅもにこにこしててゃから、きぢゅかなかってゃ。びょくてゃちは、きぢゅいてあげられじゅに、このしぇかいであしょんでいてゃんでゃ。
ふゆのしゃむいひに、あのひとはにゃくにゃった。ろくじゅーごしゃいでゃった」
ドナルドは、ぼんやりと虚ろな眼差しを宙に向けたまま、その日の冷たい風を思い出したかのように、静かに目を細めた。
「てょくに、みっきーとみにーのにゃげきようは、しゅごかったよ。きゃれらは、いちばんふりゅくきゃらあのひとをしっていてゃし、あのひとのてゃましいの、びゅんしんでゃったんでゃ。
びょくは、あのひとがしんでゃにゃんて、しんじりゃれなかってゃ。でもみっきーはいうんでゃ。"きゃれは、びょくたちのここりょのにゃかにいきていりゅ"って。びょくは、そのこてょばがきりゃいで、きゃれがいきていりゅふりをして、みゃいにちをしゅごしたくにゃくて、じゅっとはんぱつしててゃ。きゃれはしんでゃんでゃ。しょのことを、ごまかしてゃくにゃかった。みんにゃみんにゃ、うしょちゅきで、げんじつとーひで、ほんとーのこてょから、めをそりゃしてるんだっておもってゃ。
でもでいじーが、みゃいにちびょくのてょころにきてきゅれて、なにもいわじゅに、びょくをでゃきしめてきゅれた。しょのうちに、よーやきゅ、きぢゅいたんだ。ここりょのにゃかにいきてりゅってこてょは、いきてりゅふりをしゅるこてょじゃにゃい。あのひとのおもいできゃらまいにち、あしてゃをよくしゅるまほーをまにゃんで、あのひとがいきていてゃというじじつに、けーいをはりゃいつぢゅけりゅってこと。
あのひとがいなきぇりぇば、きょんなになちゅかしいきのうも、うちゅくしいきょうも、しゅばらしいあしてゃもなきゃった。これほでょにふきゃいあいも、にゃみだもにゃかってゃ。あのひとはたしきゃに、びょくらのしぇきゃいをかえてゃんでゃ。しは、あのひとのまほーをけししゃるものじゃにゃい。いにょちはにゃくにゃっても、ゆめはじゅっとじゅっと、びょくらがうけちゅぎ、きゃわってゆく。いきるきょとが、きゃわるきょとなら、びょくらはあのひとのここりょとともに、みりゃいをきゃえて、いきていりゅ」
悲嘆と覚悟の入り混じった、ドナルドの力強い言葉。切々と口にする彼の物語に、デイビスは黙って耳を傾けていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「————MOBILIS IN MOBILI、か」
「にゃーに、しょれ?」
「俺にも友達がいた。一緒にいたのは、たった一日だけだったけどな。でももう、遠い昔に死んだんだ」
やがてドナルドの肩を引き寄せると、勇気づけるように軽く叩いて、そっと語りかけた。
「……残念だったな。その人のこと」
「うん」
ドナルドは、目尻に涙を溜めていたが、それを溢れさせぬように、渾身の力を込めてデイビスに言った。
「わしゅれないでね。このよに、ほんものの、まほーちゅきゃいがいたこてょを」
ドナルドの語る物語。それは、彼の愛してきた人間が、どれほど深く彼の世界の根幹を支えてきたのかということ。
「イエェーイ! おふたりさん、楽しんでるう?」
「よお、グーフィー、おかげさまでな」
「じゃ、お酒、ここに置いておくからねえ。マックスには、ずぇったい、渡しちゃダメだよお」
「父さん」
「ダメ」
「ボクにも……」
「ダメ」
「お酒」
「ダメ」
ひょっとしたらマックスは、その人物を知らない世代として生まれたのかもしれない。けれどもグーフィーは、彼との深い思い出について語り続け、そして息子は、そのかつての偉大な人物へと思いを馳せる。そうして、歴史は続いてゆく。
「父さん、ダンス対決をしようよ!」
「いよぉーし、マックス、負けないぞお!」
ドナルドにとって、それほど思い入れの深い人間なのであれば、グーフィーにとってもきっと同じ悲しみが襲い掛かったはずだった。しかし彼は、そんな気配は少しも見せずに、ただ息子の手を引いて、彼から貰った贈り物——素晴らしい思い出だけを、次の世代へと受け継ごうとするのだった。
みんな、胸が張り裂けそうなほどの悲しみを経験しているのだろうか?
それを受け止めながら、前へ進もうとしているのだろうか?
みんながみんな、自分の中にある悲しみを乗り越えようとしているのなら。
なら、俺ができることって、一体何なんだ?
「ねーえ、デイビス」
「ああ、ミニー。どうしたんだ?」
「何をぐずぐずしているのかしら?」
笑顔を貼りつけて語るミニーに、デイビスの顔が硬直する。そのままグイッと彼の首根っこを掴むと、ミニーは声を潜めて、デイビスとぼそぼそ会話し始めた。
「さっきから黙って観察していれば、あなたったらチラチラチラチラチラチラチラチラとカメリアの方を見ながら、声もかけないでいるじゃない?」
「そっ、そんな見てねえ、よ……」
「あら、そう? それじゃ、さっきから手が震えているのは、どういうわけなのかしら」
あんたがこえーからだよ、と答えたかったが、間違いなく言い訳にしか聞こえないであろう。グイグイと迫ってくるミニーの迫力に押されながら、トン、と壁に背をつけるデイビス。しまった、もう逃げ場がない。
「いい加減及び腰になっていないで、ストームライダーに乗る勇気の1/10でも出して、さっさとテラスにでも誘いに行きなさいよ」
「なんで俺が、ストームライダーのパイロットだって知っているんだ?」
「ここに講談社(注、社員でもステマでもない)の『東京ディズニーシーベストガイド 2010-2011』があるから」
「もう今回の章、本当に何でもありだな」
ミニーはおもむろにストームライダーのページを開き、その中の文章を音読した。
「『ゲストはお調子者のデイビスの機に搭乗』。ふ〜〜〜ん、あなた、お調子者なんですって? このへっぴり腰の様子じゃ、とてもそうは見えないけど。『デイビスの操縦にゲストは不安いっぱい!』『デイビスは任務を遂行しようと果敢にストームに挑む!』へ〜〜〜え、果敢に挑む、か。へ〜〜〜え」
「分かったから、新手の拷問はよしてくれ。恥ずかしいだろ」
涙目になって顔を覆い隠すデイビス。精神攻撃はやめてほしい。
「ちなみにこのガイドブックでは、『デートしたいディズニーキャラクターは?』の一位がミッキーとなっているわ」
「二位はドナルドか。この本、全体的にカップルを意識してるんだよなあ」
「そうね、巻頭では、わざわざデートプランまで考えてくれてるし。ポート・ディスカバリーもプランに入っているわよ。『「ストームライダー」でドキドキのミッションに参加!!』『ウォーターヴィークルの上で2人きり♥』」
「頼むからマジで音読するのはやめろ。故郷がそうやって紹介されるの、死ぬほど恥ずかしいんだよ」
ミニーはぱたんとガイドブックを閉じると、赤面しているデイビスに目を向ける。
「じゃ、ようやく彼女に声をかけるってわけね?」
「ああ、行ってくる。はっ、はなっ、話したいことがあるからな」
頷くデイビス。ミニーはそこで初めて、彼に向かって優しく微笑んだ。
「頑張ってね」
よし、と気合いを入れ直したデイビスは、呪文のように自分に言い聞かせながら、部屋の隅に向かって歩み寄り始めた。
行け行け行け行け。
怯むな怯むな怯むな怯むな。
ズンズンと影を纏わせて近づいてくるデイビスに対して、そばにいるデイジーもクラリスも、二重の意味で身を引いた。カメリアは椅子に座ったまま、きょとんとして彼の顔を見あげている。
「そ、外の風に、当たらないか!」
開口一番、何の前置きもなくそう告げるデイビスに、
「いくー!」
まったく緊張が走る間も与えず、両手をあげて喜ぶカメリアを見て、デイビスはかくっと肩を落とした。こんなに呆気なく賛成してもらえるなら、もっと早く言えば良かった。
「ワーオ、デイビスってば、まるでちゅうがくせえみたいな誘い方だねえ」
「良いのよ、多少不格好でも」
ミニーは微笑んで、隣のグーフィーに囁いた。
「こういうのは、ハートが大事なんだから。気持ちが伝われば、それだけで相手は幸せになれるのよ」
「ミニー、キミって、良いこと言うんだねえ」
「ええ。スクリーンデビューから90年以上経った大女優の、含蓄のある言葉でしょ?」
「…………」
そんなわけで、テラス。
ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナは、その席数の割には混雑度が低いレストランであり、特に川べりの席はカップルにオススメである。夕暮れの風に吹かれながらゆらゆらと川面に映るカンテラの光を見つめ、ワカモーレと季節のカクテルでもつまめば、最高の気分に浸れる。考えようによっては、TDS版の簡易ブルーバイユー・レストランであるとも言えよう。ただし、ディズニーシーのレストランは、ロストリバー・デルタ側からアクアスフィア・プラザ側へと順に営業時間を終えることになっているので、店じまいが最も早いレストランのひとつであることには注意すべきである。今夜は貸し切りなので、彼らは遅くまでテラスに出ることができるのだったが、もし閉園間際にどーしても何か食べたい、と思った通常ゲストの皆さんは、帰宅民たちの流れに沿って、マンマ・ビスコッティーズ・ベーカリーへと赴こう。
「気持ち良いな」
「そうねえ。夜は特に、ここはロマンチックね」
うっとりとした声で呟いたカメリアは、そこで大量のボトルをストーンヘンジの如くテーブルに並べているデイビスをチラリと振り向き、
「で、なーんでそんなにお酒を持ってくるのかな?」
「べ、別に。お守り」
「どういう宗教の教えなの?」
考えてみれば、自分はなぜこんなにも緊張しているのだろうかと思った。彼女とは泊まりの旅だってしているし、自分の部屋に招いたこともあるし、命の危険だって、一緒に何度も掻い潜ってきた。それなのに、ただ会話するだけのことが、こんなにも不安で仕方がない。自分は彼女と、いったい何を話したかったのだろう?
いや、話題など何でも良い。ただ、膝を向かい合わせて、この人物とゆっくり会話してみたかった。何を思っているのか。どういう風に答えるのか。どんなことで笑って、何を望んでいるのか。そういうことを、会話のやりとりの中で、時間をかけて知りたいと思った。
カメリアは、すぐにふざけて、俺の心を守ろうとする。全部自分の冗談にして、俺が俺を責め立てる前に、その矛先を自分の方へと集めて、笑いに変えてしまう。
そうして、明るく煙に巻いてしまう彼女ではなくて、その向こう側にいる、本当の彼女と会話したかった。どちらも傷つくことなく、不安に駆り立てられるわけでもなく、ただ、何の曇りもない笑顔を交わし合って。文句があっても良い、悪口が飛び出しても構わない、恐れずに互いの心をさらけ出して。
でも、どうすればいい? どうすれば、俺に心を許してくれる?
一緒にグラスを重ねて酩酊させるのは、何か非人道的なことをやっているかのようで。でも、それ以外に何の手段も思いつかない。糸口もなく、話題もない。分からない。どうしたら、彼女と会話できるのか。
「お酒、もらってもいーい?」
「……あ、」
そんなことを素知らず、飲み物を求める彼女から身を引くように、デイビスは思いっきり後ずさった。腰がテーブルにぶつかり、がちゃちゃんっ、とグラスや瓶が倒れ、ころころとテーブルの上で弧を描くように転がる。
「どうしたの?」
「……あ、あんたは、」
「?」
「……もう……飲まない方が良いんじゃないか。すでに酔っているみたいだし」
「そんなことないよ? むしろあなたの方が、足元が危ないんじゃないかしら」
そう語る彼女も、実際は蜜のように蕩けた眼で、ほんのりと顔を染めていた。この調子で、よくぞ精密な設計書なんぞ書けるな、と驚くほどである。そんな彼女の耳許を飾っていた花が、川風で落ちかかっているのに気づき、元通り、髪に挿し直してやった。少し赤みがかった鳶色の髪なので、確かに花の鮮やかな色彩は、よく映えている。そこまで考えて贈ってやったのだとしたら、ホセは本当に洒落男なのだろうな、とぼんやり考えるデイビス。
「……か、可愛い?」
「えっ?」
「お花の、あった方が」
「…………」
「…………」
沈黙。この間が、若干気まずい。突然そんなことを言われるなどと、思ってもいなかった。
カメリアは斜め下に俯きながら、自分の指を弄んでいる。どんな内容でも良いので、彼からの言葉を待っているようである。
「…………か、可愛い。よ」
ちいさく呟いたデイビスの声に、カメリアはぱっと顔をあげて、その表情が、泣きそうになるのをこらえながら、じわりとした喜びに浸っているように見えた。それにつられて、デイビスも深く心を揺さぶられ、慌てて彼女から目を逸らす。
なぜ、そんな過剰反応をするのだろう。
たった四文字だ。そのくらい、バーで出会った初対面の女にだって、いくらでも囁く台詞にすぎない。
だがそれまで、そんな褒め言葉をカメリアに言ったことはあっただろうか? 彼女だって、ずっとその四文字を待っていたのではないか? それなのに、そんな簡単に喜ばせられるようなことは、一度も口にしたことがなかったのだ。
「ありぇ、きゃめりやとでいびしゅは?」
「さっき、酔いを醒ましにテラスに出て行ったわよ」
不意にその時、彼らは店内で語られる声の中に、自分たちの名前が混じっているのを聞き取った。いわゆるカクテルパーティ効果というものだが、デイビスは不自然なまでにびくりと体を震わせる。
「…………ッ!!」
「あ、えっ?」
咄嗟に、デイビスはカメリアの腕を掴むと、そのまま彼女の身体を引き寄せて、四阿のテーブルの陰に隠れた。薄暗い屋根の下、ぴったりと密着し合う二人。手すり綱のすぐ向こうを滔々と流れる川の音や、求愛のダンスを踊る蛍の光、それに曖昧な黄濁色を投げかけるランプだけが、周囲を非現実的に彩っている。
テラスの入り口からは、煌々たる店内の明かりに照らし出されて、三人の特徴的なシルエットが覗いている。そしてそれぞれの口調が、その正体を補足した。
「ありぇ?」←ドナルド
「いないわねー」←デイジー
「サンポデモシニイッタノカシラ!」←クラリス
まるでブレーメンの音楽隊のように戸口に積み重なった影は、揃って首を傾げた。彼らがこの四阿まで足を運んできたら、人間関係的に即終了な訳だが、幸い、彼らは事態を察したらしく、それ以上に踏み込むことはやめたようだった。
「やれやれ、デイビスも、ようやく勇気を出したってわけね。まったく、意気地なしなんだから」
「セッカクナンダモノ、フタリッキリニサセテアゲマショ!」
「とくをちゅむ、ってやちゅでゃよねー」
そう言いながら去ってゆく三人に、安堵が湧いて出るどころか、去り際の発言内容に顔から火が出る思いで、いやもうこのまま死なせてください頼むから、つーかなんで全員にバレているんだよおおおおおお、と頭を掻き毟りたくなる。そうなると、今度は互いの密着度合いが気になってきて、パチッとカメリアと目が合うと、そのとんでもないクローズアップさに、一気に動悸が全身を駆け巡った。狭い狭い狭い狭い近い近い近い近いやばいやばいやばいやばい何やってんだ俺。心臓がマンボのリズムで鳴り響き、ドコドコと凄まじいドラムロールを奏でている。だんだんノッてきたのか、掛け声の幻覚すら聞こえる始末である。
ウ--------ッ、マンボ!!!!
脳内で決めポーズがキマる。ラテンダンスはぴったりと身を寄せ合って踊ることで知られるが、あの状態をたった今味わっている、というかこの体勢はもう、互いに抱き合っているようなものではないのか? 頭の中がぐちゃぐちゃを通り越して、真っ白になってきた。カメリアは嫌がっているかもしれない。友達だって言ったでしょ、と頬を張り飛ばされるかもしれない。けれども、現に自分はおかしな行動に出ているのだから、怒られるのは当たり前のことだ。友情を恋人の布石にするな、と彼女に突きつけたのは、自分ではないのか? 例え彼女に軽蔑されたとしても、何も反論できやしない。
いつまで経っても喋ろうとしないデイビスに、カメリアは首をひねって問いかけた。
「デイビス……あなた、また何かやらかしたの?」
「ば、馬鹿っ、いつだって俺が何かやらかしてると思うなよ!」
「じゃあどうして私たち、身を隠しているの?」
「……ほ……」
「ほ?」
デイビスは彼女を抱き締めたまま、半ばやけくそになって叫んだ。
「他の奴らに、あんたを横取りされたくねえからだよ! 悪いかよ、人一倍独占欲が強くてよッ!!」
トゥンク…
カメリアの胸に、野ばらのようなときめきが花開く。苦節十数話、さんざん(間違った方法で)愛を告白してきたにも関わらず、彼にこんなことを囁かれたのは初めてである。そして念願の想い人からの熱烈な抱擁に、じ〜んと感動が芽生えてくるカメリア。あぁ、幸せだなぁ。もうここで死んでもいーや。どうせこの後はいつもの通り、邪険に扱われる流れが見えているだけに、今だけでも存分に抱きついておくことにして、犬のように頭を擦り寄せる。おー、めっちゃ鍛えてあるー。彼の暖かく薄いシャツに包み込まれて、煙草と、皮脂と、柔軟剤の匂いがした。
かくして平和に抱擁を喜ぶカメリアとは対照的に、一方のデイビスはまったくそれどころではなく、思いがけずぴったりとした密着感に、脳内に飛び込んでくる情報量が張ち切れて、バクバク立てる動悸が生命の限界を迎えそうだった。なんなんだよなんなんだよなんなんだよこれ。すべての感触が一斉に押しつけられて脳髄を焼き、哀しいかな、せっかく異性と抱擁しているというのに、どれがどこの体の部分なのかすらも皆目分からない。そんな馬鹿なことってあるか? 集中しようにも、体も頭も真っ白に麻痺して、まるで五感を意識することができない。どーしてここぞという時にバグるんだ? 汗が物凄い勢いで吹き出してきて、すでに全体的に湿っているし、絶対に汗臭いはずで、それなのに嬉々として顔を押しつけてくる彼女の精神が知れなかった。こいつ汗フェチか? まさか変態なのか? 特に脇がやばい、確実にシャツに汗染みができている。お前、絶対脇の臭いを嗅ぐんじゃねえぞ、とカメリアを強く抱き返すのを装って、その頭の動きを完全にロックし、同時にきつく両脇を締めた。あとお前は気づいていないだろうが、股間を圧迫するな。そこには命の危険を感じるほど大切な器官があるんだ、圧迫するのはマジでやめろ。デイビスは手を伸ばして、さりげなくカメリアの脚を後方へとずらし、睾丸をガードした。これで今、互いにどういう体勢になったんだ? ヘッドロックしてるけど、互いの下半身は不自然なほど離してあるし、とんでもない遠距離から抱き合ってることになってねえか? バクバクバクバク、と心臓がめちゃくちゃに鼓動し、上半身が蒼ざめ、喉がカラカラに渇き、緊張からか、なぜか腎臓のあたりが痛くなってくる中で、ふと気づくと、抱き寄せている自分の手が震えていることが分かった。拳を握り締めようとしても、不自然に言うことをきかない。な、なんだよ、これ。何の力が、俺の手に宿り始めているんだよ。
「デイビス。ぐるじい」
「ご、ごめん」
胸の中にいるカメリアは、力を入れすぎて、本当に死にかかった魚のような顔色をしていた。慌てて抱き締めている腕を緩めると、けほこほと小さい咳を繰り返して、生理的な涙で目を濡らしている。ほぼ、殺人事件の一歩手前であった。そのまま、しばらく荒い呼吸を繰り返しながら、彼の腕にしがみついてくるので、責任を感じて軽く背中を叩いてやる。
「だ、大丈夫か? 息、できてるか?」
それはほとんど、自分にも向けられた言葉だ。実際、ウーパールーパーのように口をパクパクさせながら、頭が回転するように渦を描き、酸欠状態になっているのが分かる。心臓の音が治まらない。何やっているんだ、俺は? だめだ、全然何も考えられない。これは現実なのか? 夢の中で、何か試行錯誤やっているんじゃねえか? というか、なぜカメリアとこんなことになっている? 無意識下の何かが夢になって現れたのか? 俺はカメリアのことが好きなのか? それとも嫌いなのか? 性欲なのか、愛情なのか、なりゆきなのか? 見んなよ見んなよ、頼むから絶対に俺の顔を見んなよ、と心の中で必死に彼女へと拝み倒したが、その願いは脆くも崩れ去る。
「大丈夫。でもさっきから、ずっとドキドキしてる」
カメリアは少し頭をもたげると、彼の胸に柔らかな頬を擦り寄せ、心底嬉しそうに、満面のはにかんだ笑顔を差し向けた。
何かの血管が、切れた音がした。そして怒濤の出血の感覚がめぐり始め、あ、終わった、と感じた。次の脈搏の一音で、自分は確実に終わる。
んあーーーーー、と頭が爆発しそうになったデイビスは、勢いよく彼女から身を引き剥がすと、そのまま手すり綱を乗り越え、El río perdidoに頭から飛び込んだ。
「でっ、デイビス!!」
ざっぱーん、と水飛沫が噴きあがる中で、突然の意味不明の行動に、カメリアが悲鳴をあげる。デイビスといえば、ワニやらティラピアやらがいるはずの夜の川で、しっかと血走る目を見開き、生まれる前の胎児のような格好で深淵へと沈んでゆく。
俺は——
ラブコメの——
主人公じゃない。
全ては錯覚。全てはジャングルの見せた幻想なんだ。
ごぼごぼと泡を撒き散らしながら、呪いのように唱えて煩悩を洗い流した後で、一気に川底を蹴りあげ、水面から顔を出す。
「デイビスー! しっかりしてー!!」
ほとんど半泣きになっているカメリアの目の前で、口に入った川水を水鉄砲のように噴き出したデイビスは、すでに営業を終えているトランジット・スチーマーラインに向かって泳いでゆくと、停留所の柱を掴み、デッキに上陸し、階段を登り、橋を渡って、道を通り過ぎ、ふたたび階段を降りると、角を曲がり、水を滴らせて、ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナのテラスへ帰ってきた。
暗闇の中、濡れそぼった人影が佇んでいる姿は妖怪のようであるが、彼は完全に正気を取り戻していた。神妙に項垂れているその頭に、太った鴨が載っているのを見て、動揺するカメリア。そのままデイビスは、夜の虫の音が鳴り響く中で、静かに語りかけた。
「ごめん、カメリア。驚かせてしまって」
彼の言う通りである。ガチで驚愕した。
「あなた、何がしたかったの、デイビス?」
「それが……俺にも、よく分からない」
「ていうか、アルコールが入ってる状態で夜の川に飛び込むなんて、マジでおかしいよ?」
「あ、ああ。俺も、トチ狂っていたんだろうとしか思えない」
大量の水滴をしたたらせながら、煩悩とともに記憶までさっぱり洗い流したデイビスは、ただただ自分の行動を理解できず、そうして二人とも首をひねった。悪魔にでも取り憑かれていたのだろうか。
「と、とりあえず、中で着替えでも借りようか。熱帯とはいえ、水で体を冷やしちゃまずいし」
「いや……」
「え?」
デイビスは、室内へ戻ろうとするカメリアの腕を掴むと、決然たる調子で言い切った。
「ここがいい。ここで、話そう」
「……う、うん」
彼女が着替えを促したのは、何も彼の体調を気遣っただけでなく、ずぶ濡れの格好の人間が目の前にいるだけで、気が散るからである。ぽたぽたと滴を垂らしている人と二人きりなんて、シュールすぎるんですけど。
「それじゃあ、あんたは酔っていないんだな?」
「う、うん。少し酔ってたけど、今ので完全に醒めたよ」
「そうか。よかった」
デイビスは、ようやく冷静を取り戻した声で呟き、カメリアに椅子を勧めた。
「そんなことが、よかったの?」
「いや。……酒の入っていない中で、二人きりで、会話がしたかった」
川風が、彼の低い声に入り混じる。自らも席につくと、眼差しを遠くEl río perdidoに彷徨わせ、そしてその横顔に輝く憂いを秘めた眼は、川岸の青葉を映し込んで濃度を深め、不純物を内包した緑柱石のようだった。
川辺のあちこちから響く、低いカエルの合唱。ぽちゃりと、何かが跳ねる音がする。いつになく真剣な物言いに、カメリアはドキドキと胸を高鳴らせた。こ、告白でもされるんだろうか。この状況で? いまだにポタポタと水滴を垂らし続けているせいで、周囲の床は、そこだけが集中豪雨に見舞われたかのようになっており、むしろ濡れていない自分の方がおかしいのかと思うほど、違和感が物凄い。
「俺……ずっと、あんたと話したくて。でもあんたが、ちっとも俺の方に来ないから。……今日は、あいつらと話したいのかと思って」
「だ、大丈夫だよ、遠慮しなくたって。いつでも話しかけてもらって」
「だって他の奴らから、あんたを引き剥がすことになるだろ」
「話したいことがあったんでしょ? それは、何のことなの?」
「……わ、分かんねえけど。でもずっと、何かを話してみたかった、はずなんだよ」
そう呟くと、デイビスは、指を組み合わせた両手を額に当てて、すっかり俯いてしまった。
目を閉じたら分かるかと思ったけど、何も見えてこなかった。暗闇の中で、ひたすらにぐちゃぐちゃな感情だけが募ってゆく。
なんだ?
俺はずっと、話題がそこにいくのを期待している。
でも、自分が何を話したいのかよく分からない。
カメリアは少し戸惑うように瞬きをしていたが、やがて、
「じゃあ、デイビスが思い出すまで、私が別の話でもしていようかなぁ」
と笑って、凜々と降るような星々を見あげた。
「さてさて、良い夜ですね、なにかお酒でも作ってあげましょう。デイビスは、どのお酒の味が好き?」
「……青いのが好き」
「なるほどー、じゃあ、これかなあ」
カメリアは一本のボトルを手に取ると、おもむろに、彼のグラスへ湯水の如く注ぎ始めた。仰天したデイビスが、慌てて、ボトルを奪い取る。
「ばっ、馬鹿っ、ブルーキュラソーはそんなにドバドバ使うもんじゃねえよ! どんだけ甘いと思ってんだ!」
「めっちゃ、色濃いね」
「当たり前だろ!」
どんぶらこと揺れ動くそれは、さながら理科の実験で使う毒々しい色水のようである。仕方なしに、自分のグラスから少しばかり、カメリアのグラスにキュラソーを移して、ライチのリキュールとグレープフルーツ・ジュースを加え、軽く混ぜてやった。それを差し出すと、
「凄い! 空の色だぁ」
と喜び、しげしげと光に透かして眺めている。アルコール度数は低いから、酩酊しがちな彼女でも、問題なく飲み干せるだろう。
一方の手元に残ったグラスといえば、なみなみと青い液体に満たされて、もはや救済は不可能だった。トニックウォーターを注ぎ足してみたものの、完全に化学実験に失敗したかのような、不気味なネオンブルーに光り輝いている。
「ねえ、そっちの青いの、どうするの?」
「飲むしかねえだろ。注いじまったんだから」
「へええ。デイビスの胃袋、真っ青に染まっていそうだなぁ」
「お前が俺のグラスに注いだんだろーがッ!!」
くだらぬ諍いをしているうちに、夜は徐々に深まり、新たな顔を見せ始めた。燦々と虫の音が鳴り、El río perdidoの河面に映った光が、滑らかな波紋を舐めとるように揺れる。良かれと思ってやったことをさんざん叱られ、カメリアはすっかり凹んでいた。
「だってパンチートが、カクテルは俺に任せろー、っていっぱい作ってくれたから(注、元々cocktailとは、 "雄鶏の尻尾"を意味しています。由来は諸説あり)。私だって、やってみたくなったんだよ」
「まさかあんた、作ってもらったカクテル、全部飲んだのか?」
「ううん、ほとんどはホセとパンチートが飲んだよ。だから、ほら」
カメリアが指差す方向には、積みあがった酔っ払いの山。なるほど、さっきから声がしないと思ったら、そこに倒れていたのか、と。
「……この分だと、明日の成人組は、まともに動けなさそーな」
「そういうデイビスだって、飲んでばかりじゃない。明日、本当に大丈夫なの?」
「俺は、残らねえからいいんだよ。このくらいなら、ほぼ飲んでいないのに等しいし」
「……アル中(ボソッ)」
「あ゙?」
「な、何も言ってないよー」
その時、El río perdidoの川面から、何かの跳ねる音がした。二人が夜の川を見下ろしてみると、危険を感じたグリーンバシリスクが、凄まじい速さで水の上を駆けてゆくところだった。わぁ、と目を丸くするカメリア。見れば見るほど、ロストリバー・デルタの自然は奥深かった。一瞬乱れた川面もやがて落ち着いて、後は凍るような星々が、真っ黒な川の水面に反射し、水晶の欠片を撒き散らしたように輝いている。これほどに星がよく見えるのも、地上の灯りが慎ましやかなお陰なのだろう。
「ミステリアス・アイランドの海を思い出すわね」
「ああ。懐かしいな」
「それにケープコッドの夜も、こんな感じだった」
二人は今までの旅路を思い出して、静かに微笑んだ。インド、南太平洋、アメリカ、中南米、と移動してきて、ようやく世界半周くらいである。まだまだ行ってみたい国が山ほどあるし、今までに行ったことのある場所さえも、何度でも訪れて探索したかった。
「もうちょっと、遊んでもよかったかなぁ。ケープコッドをお散歩したら、他に何か面白いものが見つかったかもしれないね」
「まーなー。あんたは早々に寝ちまうし」
「ううん」
カメリアは、少し声をひそめて、夜風の中でそっと言った。
「ちょっとだけ、あなたのことを待ってたよ」
そして、デイビスの心臓が不自然に跳ねあがる前に、彼女はニヤ、と口角を吊りあげる。
「プロポーズにでも来るかなー、と思って」
「行かねえよッ!!」
「あはは。そうだよねえ」
カメリアはぐっと伸びをして、他愛ない笑い声をこぼした。その声を聞いて、デイビスは心の中で反省する。また傷つけたかもしれない。そんな力いっぱい、否定するんじゃなかった。
「明日から、本格的にフライヤー作りかあ」
「うん、有り難いよね、みんな手伝ってくれるんだって。これだけの人数がいれば、早く終わりそう。前は、私ひとりで作っていたから、何日もかかったけど」
「……なあ、カメリア」
名前を呼ぶと、彼女は顔をあげて、真っ直ぐに彼を見つめ返した。ランプの光芒が照らし出すその表情は、驚くほど素直であどけなく、とても天才発明家だとは思えなかった。
「元の時代に帰っても、あんたはひとりでやっていけるか?」
夜風の中で、吹き千切れそうなほどに静かな、その言葉。カメリアはしばらく黙っていたが、やがて星空の下で、嫣然として微笑んだ。
「大丈夫だよ。私には、みんなとの思い出がある。大好きな人たちの楽しい時間を思い浮かべれば、ここではない場所に行ったとしても、けして間違った道を歩んだりしないわ」
安堵するとともに、何か裏切られたような、はっきりとした哀しさが、胸の底を吹きさらった。
じじ、と羽虫が顫えるような音を立てて、テーブルの上の、ランプに灯る炎が揺れ動く。それにそっと手で覆いを作り、夜の横風から守ってやりながら、カメリアは薄闇の中で穏やかに答えた。
「きっとこれからも、私の孤立は続いてゆくし、暗い時代は終わらないと思う。でも、友達の笑顔や夢が胸に輝いている限り、それが進むべき方向の道しるべになるんだって分かったの。今夜のことだって、絶対に忘れない」
彼女の瞳の中で、微かな炎が、柔らかに煌めいた。まるで霊感に包まれた魂のように、静かに人間の奥底で揺らめくそれは、その穏やかさの一方で、彼女の胸に秘めた情熱を思わせる。
彼女の人生は続く。自分の知らないところで。
いつまでも一緒にいられるわけではないと、分かっていた。こうして過ごせる時間もいつかは尽きて、フライヤーが完成すれば、彼女も自らの生きてゆく世界に帰ってゆくのだろう。
「また来いよ。ポート・ディスカバリーに」
デイビスは、芯の通った声で、そう囁いた。
「誰かに何かを言われて、元の時代が嫌になったらさ。ちょっとくらい逃げたって、誰も文句言わねえよ。俺の故郷は、そのくらい受け入れる度量はあるよ」
そうだ。きっとポート・ディスカバリーなら、カメリアも変人呼ばわりされることなく、気兼ねなしに息をつくことができる。それが彼女の息抜きになるのであれば、何度だって、この時代に逃げてくれば良い。絶対にここであれば、居場所は用意してやれるはずだから。
自分にしては、いつになく優しい言葉を口にできた、つもりだった。
けれども珍しく、カメリアは何も言わなかった。少し困ったように微笑みながら、満天の星空を見あげ、遠い宇宙から降りそそぐ悠久の光に、思いを馳せているようだった。長い沈黙が、テラスにたゆたった。
「デイビスが生まれてきたっていうことは、この世界にとって、とても幸運なことだったんだなあ」
ようやくぽつんと呟かれた言葉は、まるで独り言のようで、幸せそうでありながら、どこか遠い国の出来事のように告げられた。
「……い、いきなり、何を言うんだよ」
「うん、今、ふと思ったの。きっとみんな、デイビスみたいな人が生まれてくるのを、待っていたんじゃないかなあ、と思って」
「そんなこと……ねえよ。なんであんたが、そんなこと言えるんだよ」
そう言うと、カメリアはふわりと、湯気立つパンを割ったように笑って、その先を続けた。
「私だったら、そうだもん。いつかデイビスが生まれてくるんだなって思っただけで、ワクワクするもん。あなたがいたら、未来はきっと優しくて、格好良くて、素敵な方向に変わってゆく。だからあなたが、この世界に生まれてくる日を、ずっとずっと待ってたの」
あまりに無邪気な——それこそ、何の媚びもてらいもない言葉を耳にして、デイビスの胸が波打つように揺らいだ。
本当のことを言え。俺はそんな言葉に値するような人間じゃない。吐き気のするような屑だって、自分でも分かってるんだって。
けれども口にしたら、それでカメリアの笑顔が崩れ去るようで、何も言えなかった。そうして壊れた笑顔は、自分のせいで、二度と彼女のもとに戻らないんじゃないかという気がして。
「大丈夫。デイビスは、きっと幸せになれるよ。世界中から絶賛されて、尊敬されて、たくさんの人に愛されて。カメリアさんが、どーんと保証してあげましょう!」
彼女はきっぱりとそう言い切ると、自信満々に胸を叩く。
「あんたに保証されても、全然説得力が……」
「じゃあ、アレッタも。ね? そうよね、アレッタ?」
けれども頭上のアレッタは主人の言葉は聞かず、つーんと黙殺している。オイ、と思わずツッコみそうになった。
「カメリア?」
それきり、声が聞こえなくなったので、おそるおそる名前を呼んでみる。それでも返事はかえってこず、隣の椅子に座って、そっと顔を覗き込むと、彼女は静かに睫毛を伏せたまま、すっかり深い呼吸を繰り返していた。
(……また、寝た)
どうも酒との相性が、壊滅的に良くないらしい。後から酔いが回ってきたのか、と上着を被せてやりながら、そういえば自分のグラスが空いていた、と気づく。
デイビスは新しい酒瓶に手を伸ばしかけて、ふと、その手を止めた。ウイスキー、ジン、テキーラ、ブランデー。そして、少しの間ためらった後で、隣の炭酸水の栓を抜いて、静かにグラスを満たしてゆく。柔らかに泡立つ音がした。
じっとグラスの底を見つめていると、から、と溶けた氷が崩れ、鈴のような音をもたらした。店内では、これまで開催してきたショーのメドレーを行っているらしく、手拍子や歓声とともに、『イッツ・ベリー・ミニー!』の音楽が流れてきている。
「……でいびす?」
「ん?」
「みにーたちのところに、いってもいいよ。わたしにはあれったがいるし」
「……うん、」
デイビスは、カメリアの頭を撫で、くるる、と喉を鳴らしたアレッタを抱きあげると、自分の膝の上に休めさせてやった。彼の体温に包まれると、アレッタも睡魔に襲われ始めたのか、主人と同じように柔らかに目を瞑る。
ミゲルズの店内は、ディズニーキャラクターたちの踊る影が戯れていて、まだまだ眠ることを知らぬようだった。静かに炭酸水を口にするデイビスの肩を、時折り、触れるか、触れないかといった近さで、カメリアの肩が掠める。微妙としか言いようのない距離が、今は一番、自分には心地よかった。
それから数十分後。
ショーを終えたミニーが、そこで未だ不在の二人に気づき、温かい毛布をかけにくるまで、彼らは虫や蛙の声の鳴り響く星空の下で、互いの肩に寄りかかり合いながら、柔らかな寝息をこぼしていたのだった。
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