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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」19.あんたのご立派な理想論なんか、ずっと前から懲り懲りだったんだ

 ドリームフライヤーは、徐々に太陽が雲に呑み込まれると同時に、その高度を落として、ポート・ディスカバリーの岬へ着陸した。崖の方へと近づくと、CWCの特徴的な五本のアンテナやドームが、夕陽を反射しているのが見下ろせた。

 触れ合わせた唇がゆっくりと離れてから、彼らは一度も言葉を交わさなかった。ただ、自らの行為で意識を取り戻したかのように、さっとデイビスが顔を曇らせた瞬間を、カメリアは深く記憶している。

 彼は、震える指で彼女の唇を拭ってやると、苦しげな眼差しを一瞬だけ残して、背を向けるように虚空の方を向いてしまった。その後ろ姿が、激しく何かを悔いているように見え、カメリアは口をつぐんだ。彼女も反対側の空を見たが、瞬きすると、なぜか、睫毛が冷たく濡れているように感じた。

 彼女がドリームフライヤーから降りる時、彼は手を差し出して、それを手伝ってやった。ざわめくように、岬の草が風の音を立てる。けれども彼は何も言わず、すぐに顔を背けた。彼女の眼に脅えているかのようだった。

 頭上は夕間暮れに差しかかり、陰惨な雲と黄金の陽が、勢力を争うような壮麗さで飛び散っていた。周囲には、ポート・ディスカバリーの懐かしい潮の匂いとともに、雨の降る前独特の、物憂げな埃の匂いが漂っていた。

「今日は、もう帰った方が良い」

 風に揺られる草原の上に佇みながら、彼は言った。

「疲れただろ。それに俺……少し体調が悪くて」

 カメリアはゆっくりと、体の冷えてゆく思いで彼の声を聞いていた。さやさやと、風が通り抜けてゆく。彼女はやがて、小さく口の端を吊り上げて、穏やかな微笑みを浮かべてみせた。

「うん、お大事に」

「今日はありがとう。またな」

 別れの挨拶を交わしても、カメリアはまだその場でぐずぐずとしていたが、しばらくしてから、ようやくなけなしの勇気を振り絞ったように、

「デイビス」

と呼びかけた。

 血の気の引くように、彼はその声に耳を傾けた。気のせいか、いつもより数段冷たく、低いように聞こえた。

 カメリアは泣きそうな顔で、心なしか震えながら、デイビスに呟いた。

「……あ、あの。さっき、どうしてキスしたの」

 それは当然の問いだった。問い? いや、困惑なのかもしれないし、糾弾なのかもしれなかった。怒っているのかも、期待しているのかも、冷然としているのかも判別がつかない。ただ彼女は、その鳶色の眼で彼を見ていた。いつもは読み取るまでもなく、全身から感情が溢れていたものだが、今は何も見えてこなかった。いや、脳が麻痺して、目に見えているのに、その情報を砂のように取りこぼしてゆくばかりだった。

 ————軽蔑される。

 真っ先に恐怖したのが、それだった。
 違う。もうされているのかもしれない。無分別、軽薄、不潔、エゴイスト。さまざまな罵倒が、頭の中を一瞬で駆けめぐる。全身が、濁ったように真っ白になり、胃がじわじわとざわついた。

 なんて言えばいい?
 なんて言えば、元の関係に———

「お……れは……」

 ひりつく喉を鳴らしながら、デイビスは震える身を押して、咄嗟に、不自然な明るさをこしらえた声を張った。

「……わ、悪い、嫌だったよな。ただ俺は、何となく——そうしたくなって。か、体が、勝手に」

 カメリアは、思考が痺れたかのように彼を見つめた。その唇から漏れた言葉は、意思が剥がれ落ちたかのようで、何の感情も伴ってはいなかった。

「……どういう、こと?」

 懸命に事態を受け止めようとして、却ってすり抜けるように戸惑いを隠せない眼差しに、デイビスは二の句が継げなかった。

「何の意味も、込められてはいなかったの?」

「い、意味がないんじゃない。ただ、一瞬、理性がなくなったんだ。おかしくなっていたんだよ。悪気があったわけじゃ」

「悪気……?」

 どんどんと強張ってゆくカメリアの顔。
 それを見て、彼女が幻滅に侵されているのを痛いほどに理解しながらも、なら、何を言えばいい、という思いが渦巻いて、彼を追い込むばかりだった。

 こんな状況下で、本音なんて言えない。言ったら、気持ち悪いと拒絶されるかもしれない。そうなったら最後、いよいよ彼女は、自分の元から離れていってしまうだろう。

 いつものように冗談でいい。後腐れなく、馬鹿にしたり、呆れられたりして。また明日、違う国に飛んで行こうよ、と笑って——自分の内面など、永遠に気づかれないままでいい。ただそれだけの欲望をざわつかせて、必死に弁解を振るっていた。

「あんたが楽しそうにしていたから、俺も嬉しくなって、ついふざけて、キスしたくなったんだよ。何も恋愛だとか、結婚だとか、大袈裟なことを考えていたわけじゃない。ある程度親密な仲なら、悪ふざけでキスすることくらいあるだろ。嫌だったなら、忘れてくれ。もう二度とこんなことはしない」

 それを聞いたカメリアの表情が、いや、顔色が、みるみるうちに変わっていった。
 彼はたちまち、自分が間違ったことを口にしたことに気付いた。その時の彼女の顔———


 見たこともないほど【傷ついた】、その深い傷口を隠し切れないというように、大きながらんどうの目で彼を見つめていたから。


 一瞬で、心が砕け散る。目の前の人間にそんな顔をさせているのは、自分以外の何者でもないのだという事実に。
 先ほどまではあんなに明るく笑っていたのに、今はもう自分の惨めさに閉ざされて蒼白になり、数時間前の光は微塵もなかった。

 デイビスは後ずさりながら、嫌われる恐怖に耐えかねて、震える声で訊ねた。

「か、カメリア——あんたは、あんたは俺のこと……どう思って」

「——どうして、忘れなくちゃいけないの?」

 それには答えず、蒼醒めた顔を動かして、瞳を絶え間なく揺らめかせながら、カメリアは掠れた声で詰問した。

「忘れろなんて、どうしてそんなこと言えるの? ふざけていたって、本気で言ってるの? 結婚するわけじゃない? どうして私にそんなことを言うの? あなたは失敗したと思ったら、取り消して、うまく逃げればいいのでしょうけれど。私が今まで、どんなにあなたのことを考えていたか、分かる? 一方的に胸を掻き乱されて、ふざけただけだと言われて。どうして何もかも簡単に握り潰して、なかったことにしようとするの……!!」

 冷や水を浴びせられたように————

 デイビスはカメリアを見つめたまま、一歩も動けなかった。生まれて初めて聞く彼女の語気の激しさが、一瞬理解できず、遅れて、水が砂に染み入るように静かに正体を掴んでゆく。

 カメリアは、立っているのがやっとと言って良いほどに血色の悪い顔で、彼の瞳の奥を見つめている。

 気の遠くなるほどに強い、その眼。
 しかしそれは、ショックと悲嘆で磨かれ、刃のように破綻がなかった。

 彼女が見つめているのは、きっと俺じゃない。くだらない男だと蔑み、せせら嗤い、予防線を張っていたのとは別の——自分ではない『自分』。

 彼女は、初めからずっとその『自分』を見出し、見つめ続けてきたから。だから、初めて見るような激越さで、こうまで感情を露わにしているのだと思い知る。

 彼女が見つめ続けているもの。
 それは———

 空を愛していて。
 心から冒険を求めていて。
 彼女の自由に憧れ、夢想し——心の奥底で、狂おしいほどの切望を積み重ねてきた『自分』だ。

 処世術で武装して、保身のことばかり考えていた「俺」じゃない。
 だから、会話しようとしているのも『自分』の方で、虚飾や欺瞞で塗り固めて笑っていた俺じゃない。

 全身が凍りつくようだった。
 「俺」を求めているんじゃない。
 今、この場で、『自分』をさらけ出すことを求めているのだと。
 けれどもそれは、死刑宣告に近い何かだった。本心を吐くつもりがないなら、お前などいらない、とでも言われているかのように。

「どうでもいいなら、何とも思っていないなら、そう言えばいいじゃない! 私の気持ちも考えないまま——キスしないでよ。軽々しく、なかったことにしないでよ! 私は、いつもあなたの隣で都合の良いことを言うために、にこにこしているわけじゃない!」

「……ち、違う——そういう意味で言ったんじゃ」

 抜け殻のように力の入らなかった体が、のろのろと舌を操った。

「俺は、ただ。あんたに侮蔑されるのが……怖くて。どうしたらあんたに見捨てられやしないかって、それだけしか……」

 呟きながら唐突に、目の前が真っ暗に翳ってゆく。
 言い訳できることなんて何もない。彼女が何を求めているのかも、どうすれば信頼を取り戻せるのかということも。たった一言、口にすれば良いのかもしれない。でも、こんな状況でそれを伝えたとしても、受け入れてもらえるはずもない。

 また、見捨てられる。離れていってしまう。それは同じようでいて、今までに経験したこともない恐怖だった。彼女にまで否定されたら、今度こそ終わりだ。これだけ自分を受け入れてくれる人間は、もう二度と、自分の前には現れはしないだろう。

 愛情どころか、友情も、信頼さえも失ってゆくというのは、立っている地面が崩れ去ってゆくようだった。
 鼓動が、毒を吹くように心臓を打って、いつまでも戦慄じみた痛みを引かせない。そのうちに、何かが痺れて、限界が来た。
 心臓が飛び出るように脈搏を速める。違う、違う、と彼は呟いていた。それが現実に言ったのかも、心のうちの言葉なのかも定かではない。

 けれども、カメリアは、微かに当惑したように息を揺らし、彼の目を見た。
 心臓が、もはや限界だった。喉を腫らすように濁り尽くした声で、彼女に向かって、デイビスは叫んだ。


「————空っぽな人間だなんて、軽蔑しないでくれよ……ッッ!!」


 それは、デイビスの語る、初めての本音だった。胸を抉るような切実さを込めたそれは、嘆願を通り越して、ほとんど哀訴に近い。

 失望されたくない自分。
 空虚であることを恐れる自分。
 他人に選ばれる価値など何もない自分。

 それらすべての慟哭を無様だと嘲笑いながら——彼は脳に渦巻く冷たい混乱を、洪水の如くぶちまけた。

「そんな簡単に、理由なんて言語化できるわけねえだろ! 俺だって——俺だって、頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか分からなくて。それでも、あんたが全然嬉しそうじゃないから、俺のことなんて受け入れるつもりがないなら、嫌なら忘れてほしいって言ったんだ。俺は確かに軽薄な男だけど、でもあんたに嫌われて、軽蔑されてまで、無理に手を出すつもりなんてねえよ!

 あんたは俺を優しいと言ったけど、そんなの嘘だ。ずっと前から、俺はそんな人間じゃないって分かり切っていたよ。なのにあんたはいつもいつもそれを否定する。本当の俺とは全然違う妄想をぺらぺら語って、それがどんなに傷つけることかって、想像もしないで笑っているんだ。あんたは俺に何を求めているんだ。確かに俺は低俗だよ、浅ましいよ。だけどあんたに、俺の気持ちの何が分かるんだよッ!!」

 滅茶苦茶な論理で怒鳴り続けながら、ああ、これは彼女に言いたいことではない、闇雲に叫んでいるだけだ、と冷えてゆく頭で感じた。

 「俺」だ。
 鏡に映る「俺」に向かって、罵倒を叩きつけている。いつまで経ってもその鏡を割れない自分に、吐き気がする。なぜ、いつもこうなのだろうかと。

 自分の醜いところなんて、自分が一番知り尽くしている。
 軽率で、狡猾で、卑劣で、利己的で、冷酷で、ドロドロに濁り切った自意識と支配欲と猜疑心。
 それでも生きてゆく以上は、騙し騙しやっていくしかない。愛想を良くして、明るい振りをして、笑っていれば、相手の心を傷つけることもない。そうして何とかやってきた——この人間が現れるまでは。

 自分は空を飛ぶために生まれてきたのだと、輝くばかりの笑顔を浮かべる人間。あのフェスティバルの夕暮れに、彼女に向かって、自分の夢を吐露した。違和感は、それからだった。やけに太陽が明るい。空が燃えるように青い。風が全身にざわめいては囁く——お前は何をしているのだ。そんな夢を、口にできる価値などあるのか、と。

 吐き気がする。いつも真っ直ぐに人の心に入り込んで、人が一番大切にしているものを見出そうとして。彼女といると、奥底に秘めていた本心を引きずり出されて、眼前に突きつけられる。それを守ろうとしても、にこにことして、素敵ね、宝物みたいね、と微笑むカメリア。それが本当のことに聞こえるたび、胸がざわつく。
 彼女と出会ったって、どうせ俺の中の何も変えられるはずがない。それなのに、何かをずっと期待し続けて、彼女の素直さを搾取して、自己承認欲求を満たしている自分が、身の毛のよだつほど浅ましかった。彼女のやってくるたびに、心の奥底では嬉しがっているのが、滑稽だった。呆れた振りをして、彼女を嘲笑した顔の裏で——猿の如く、それを望んでいる。その一方で、どんどん自分が虚無の淵に突き落とされていった。自分の中には、何もないのに。なのにどうして、新しい世界を教えてくる? 日を追うごとに、現実と理想の乖離が測り知れぬほど大きくなり、彼女の語る夢見事で頭がいっぱいになって、互いの差を突きつけられざるをえない。彼女の目に映る世界に比べて、あまりにちっぽけすぎる自分。無邪気に掲げられた彼女の夢とは比較にならないほど、我執に満ちた欲望。露悪的な発言は幾らでもするくせに、本当のことは彼女の前では沈黙し続ける、偽善者そのものの愚かしさ。

 もう、自分を偽り続けるのは無理だ。そう気づくには、あまりに手遅れだった。空っぽだと思っていた「内面」に、見たくなかった思いがいっぱいに詰まって、狂おしいほどひしめいていた。

 俺みたいに利己的な人間が、あんたと同じ空の夢を見られるはずがない。俺は違う、そんな人間にはなれないんだ。

 なのに、死んでも見透かされたくなくて、本心を隠しながら彼女の素直さをだしに依存する。
 歪んだ自己嫌悪も、掻き毟るような劣等感も、血反吐の如く吐き出して、そのまま消えて失くせたら、どれほど楽になるだろう。けれども、失望される未来を怖れて、今まで自分に突き立てていた剣が、彼女の与えてくれたすべてを否定し尽くし、拒絶される前に粉々にしようとしていた。

「あんたの語る言葉は、いつもいつも自己欺瞞でいっぱいの、正義ぶった綺麗事ばかりだ。夢なんて体裁の良いことを語って、凡人に憧れを植えつけて——どうしようもない思いを焚きつけて。気づいていないんだろ、自分がどんなに残酷な人間なのかって? 考えたこともないんだろ、自分が自由に夢を語るたび、どんどん他人を追い詰めてゆくような人間だって!

 人類貢献だ、世界平和だなんて。自意識過剰の誇大妄想なんかを捲し立てて、俺の目を眩ますのはやめてくれ。どうせ俺は、あんたのお高い精神には値しねえよ。でも、あんたのいるせいで、何もかも掻き消せねえよ。不可能なんだよ。今さら、どうしろって迫るんだ——ただのちっぽけな男でしかない、この俺に!

 俺はあんたじゃない! あんたにはなれない! あんたのそばにいると、どうしようもない格差を突きつけられている気がして、苦しくて苦しくて、気が狂いそうになる。俺は、あんたみたいな変人じゃない! あんたみたいな偽善者にも、嘘つきにもならない! あんたの期待には応えられない……あんたが期待しているような言葉なんて、俺の中には何もねえよ! あんたのご立派な理想論なんか、ずっと前から懲り懲りだったんだッ!!」

 一度決壊してしまえば、どこにこんな考えがあったのだと思うほど、とめどもない言葉が口をついて出た。カメリアは、硬直した顔で足下を見つめ続けていたが、次第に、胸の奥底から込みあげてくる哀しみに、頭が追いつかなくなっていった。最後まで、ちゃんと聞かなくては、と思えば思うほど、何もかもがすり抜けていって、何も考えられない衝撃だけが胸に残り続けた。

 やがて————

 堪え切れなくなったかのように、ゆっくりと、彼女の頬を涙が流れ落ちていった。

 時が止まったようだった。その涙を見た瞬間、ようやくデイビスは、自分の言葉が確実に刃として、彼女の心を刺し貫いたのだということが、はっきりと分かった。カメリアの耳には、まだ自分を切り刻む声が響いていて、虚ろな眼差しを宙に向けたまま、彼から言われたことのひとつひとつを、ぼんやりと反芻しているようだった。


「—————分かっ、た…………帰るわ」


 じっと、どこか一点を取り憑かれたように見つめながら、カメリアは静かに声を絞り出した。

「あなたの言ったことは……全部正しい……と思う。
 ……ごめんなさい。今まで、一度も——そんなことを考えずに、あなたを傷つけてきて」

 涙を見たことで、ようやく、ひとつひとつの重さが胸に響いてゆく。たった今、自分が怒濤のように叩きつけた言葉。

 ————俺は今、何を言った?

 傷つけたのはどちらかなんて、明白だった。
 なのに、重い静寂のせいで、何も頭が働かない。

「……カメ……リア……」

 こんな蚊の鳴く声じゃ、聞こえるはずがない。もっと大きな声を出さなくては。
 デイビスは、からからに干からびた喉を鳴らして、掠れた声で呼び掛けた。

「カメリアっ———」

 彼女は、一瞬顔をあげようとしたのかもしれない。けれども、それを阻む音が、凍るようにその場に響き渡った。
 緊急の呼び出し音。それが鳴った時には、五コール以内に応答することが義務付けられている。耳障りなその呼び出しが使われる意味に、一瞬、身を固くしながらも、デイビスは急いで電話を取る。

 カメリアは何も言わずに、それを見ていた。その眼は、彼に最後の祈りを投げかけるかの如く、目尻に光を灯していた。

「俺だ。スコットか?」

『ああ。デイビス、今どこにいる』

「CWCの裏手だ。本部に向かった方がいいのか?」

『三十分以内に来れるか? ストームを把捉した。CWCの大会議室で、ブリーフィングを行う』

 こんな時に———
 デイビスは舌打ちをしたい気持ちを抑えて、スコットに短く返答した。

「了解。すぐにそっちに向かう」

『頼むぞ。レベルはすでに5ファイブに到達している。発達速度に反して、非常に足が遅い。上陸を許したら、大災害になるぞ』

「ああ、わかった。すまないが、今俺は——」

 その時、曇天の底を吹きさらうように、彼の背後から生温い風が吹いた。
 一瞬でその意味を悟る。拒絶された——もう何も話すことはないと、言葉よりも単直に告げられたかのようだった。

 振り返ると、ドリームフライヤーはもう、影も形もなくなっていた。最初からそこには何も存在しなかったかのように、地面から立ちのぼる微かな風で、草が揺すぶられている。

 しかし、記憶は何もなくなりはしなかった。
 今は本物の嘔気が込みあげる。胃がじくじくと顫動し、胃液が彼の精神を焼き、悪寒が肌を取り包んだ。残されたのは、ただの空虚だった。

『デイビス? デイビス、聞こえているのか』

「……ああ。聞いてるさ——」

 なぜ俺は、電話で会話などできるのだろう。あんなことが目の前で起こった、その後で。
 口を動かし、がらんどうの声で答えている自分は、また体に染みついた処世術で世を渡ろうとしているのだと思うと、言い知れぬ生理的な嫌悪感が込み上げてきた。

(大丈夫。私は、デイビス一筋だから)

 そう言って笑っていた、いつかの姿がよみがえってくる。また意味の分からないことを、と呆れて気にも留めようとしなかったが、今になって、彼女がそれを伝えようとした精一杯の優しさと苦しさが、刃物で抉るように身に迫った。

 いつだって笑顔で、気を遣って、俺の心を守ろうとしてくれて。
 そんな人間に、俺は何をした?
 自分を傷つける声を聞くまいとして、相手を否定し尽くし、拒絶して、想いも人格も踏みにじっただけ。誰よりも純粋だと思っていた人間の夢を、一番醜いやり方でめちゃくちゃにしたのは、俺の方だ。

 電話を切ると、ぼんやりと苦しくて、これは幻なんじゃなかろうかと思った。カメリアは今ごろ、あのドリームフライヤーの上で、ひとりで泣いている。それを慰めてやる権利もない。自分が彼女に返してやれたことなんて、何ひとつだってない。多くのものを受け取りながら、何ひとつ。

 ざわざわと汐風は強さを増してゆき、岬の上の草を嬲っていった。


 ストームが接近している。
 その嚆矢のように、雨が降ってきた。






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