ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」25.カメリア・ファルコって人間を、知っているか?
「暇だな」
「うん。暇だね」
その日もまた、ポート・ディスカバリーの平和な日常が流れていた、と言うべきか。
岬の彼方に広がるホライズン湾は、水平線の近くにうららかな波の光を散りばめ、銀鱗の如き反射を撒き散らしていた。さわさわと揺れる崖の上の草原は、青臭い匂いの底に、まもなく北半球にやってくる夏の気配を孕んでいる。
背後のドリームフライヤーにも構わずに、若草に囲まれて、仰向けに寝転んでいる二人。カメリアは野の花を摘んで、花冠を作っていた。できあがったそれを、ぽふ、と無造作に隣のデイビスの頭に載せる。
「あら可愛い。お似合いよ」
「………………………………何やってんだ、あんた」
「だって、つまんないんだもん。せっかく天才科学者が遊びにきてあげたというのに、デイビスったら、ずっとゴロゴロしてて」
まるで休日の夫に投げるような言い草だが、その割には彼女も、のんきに野原に寝転んでいた。ぽかぽかだなー、と呟いているのを見る限り、頭の中がすっかりお花畑なのだろう。
「ねー、どっか行かないのー? 遊んでよー」
「うーん、そうだなぁ——」
脇腹を突っついてくるカメリアを、器用に片手だけで防御しながら、デイビスは思考をめぐらせる。
「街に下りても、もみくちゃにされるだけだろうしなぁ。まだあちこちが痛むこの状態では、さすがにキツイ」
「なにせ、この街の英雄なんだもんね」
カメリアは微笑してうなずいた。
キャプテン・デイビスの働きは、瞬く間にニュースとして駆け巡り、今や全世界に名前を知られるようになっていた。一躍、時の人とでも言うべきか。元々歳若く、容姿端麗な人間が最高指揮官を務めたというだけに、報道写真が出てからの反響は凄まじいものがあった。どこの生まれだ、家族構成は、学生時代はどうだった、好きな食べ物はなんだ、等々。しかも、誰の目にも分かりやすく絆創膏や包帯を巻いていたせいで、体を張って街を救った英雄、というイメージを駆り立てるのには充分だった。CWCの広報部は、その効果を大いに利用したらしい。何気なくテレビの報道を観ていて、デイビスは絶句した。絶対加工しただろ、と問い詰めたくなるような入院時のスナップ写真は、いつもの五割増近い、物憂くも美麗なオーラを放っている。世界中からあらゆる連絡方法でデイビスへの熱烈なファンレターが大量に届き、おかげでCWCのバックオフィスはパンク状態になり、慌てて一時雇用者を採用する始末。そんなわけでデイビスは、しばらく人に取り囲まれないようコソコソしつつ、ほとぼりが冷めるまで日陰で生きてゆくつもりだった。
そのような騒動になっている中でも、カメリアの態度はちっとも変わらない。すっかりリラックスして、というよりは気を抜きまくって、日光浴サイコー、とぐでぐでと茹ですぎたキャベツのようにひたすら時を満喫している。だらしねえなあ、と呆れる反面、安堵を感じたりもする。ようやく平穏な日々が戻ってきたわけだ。
「おい。さっきからダラダラ怠けやがって。いい加減、起きろって」
「なんだよー。面白い遊びでも思いついた?」
「そういうわけじゃねえんだけどさ。成果報酬と一緒に特別休暇も貰ったし——新しいエリアにでも、遠出しようかと思って」
上体を起こし、あちこちの傷に痛みが走るのに顔を顰めながら、デイビスが呟く。かつての謹慎期間中と変わらずに呑気に時間を過ごしていられるのは、そのためだった。
補償とも相まって、報酬の値段は驚くほど高額だった。それに生活物資にも困らない。CWCの関係者から、差し入れが山ほど送り込まれたからだ。ベースからは、日持ちのする焼き菓子。スコットからは、ピーナツとウイスキー。ペコからはチュロス、アンドレイからは薔薇の花束。同僚たちからは、煙草と、なぜか大量の魚介類の缶詰。ドクター・コミネからは、扇風機(これが一番、意味が分からない)。というわけで、デイビスの節約生活は、ようやくその長いトンネルを抜け出しつつある。
「遠出、ねえ。いいんじゃないかな。いってらっしゃーい」
「馬鹿、今日じゃねえよ。ただ、準備くらいはしておこうかと思ってさ」
「素敵じゃない、少し羽を伸ばしたらいいよ。療養も兼ねて、湯治なんてどう?」
「湯治……はともかく、行き先だけは決めねえとな」
言って、胡座をかきながら、デイビスは若干顔を赤らめて呟いた。
「い、一緒に、行かないか」
「あらあら、私も連れていってくれるの? そうだね、ひとりで出かけるのは心配だもんね」
カメリアはあっさり承諾した。どうも、介助人としての立場を任されたと思っているらしい。ごろりと寝返りを打ちながら、オッケー、のハンドサインを作るカメリア。一世一代の誘いが、こんな形で受け入れられるなど、情けなくなった。
「それじゃ、ドリームフライヤーでアフリカあたりにでも暇つぶしに行こうかなー。まだ体が痛むのなら、あなたに同乗は無理だよね。遠出の詳細が決まったら、教えてちょうだい」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ」
慌てて、立ち上がろうとするカメリアのドレスの裾を引っ張る。彼女はつんのめって、草の上に顔からつまずいた。慌てて、鼻の潰れた彼女を扶け起こす。
「あんたはどこがいいんだ? 行きたいところは」
「まだ決めていないの?」
「二人で行くんだから、先にあんたの意向を、聞かなきゃと、思って……」
「うーん、そうね。結婚式場の下見とか?」
「なんか久々だな、こういう下らない掛け合いも」
「ま、いつでもどこでも、バッタみたいに跳ね回るのが私の特技だから。はしゃぐのは任せて!」
「い、いつもと違うようにしたいんだよッ!!」
そして、地面に眼差しを落とすと、ごにょごにょと、歯切れ悪く口を動かす。
「そうだな、普段の格好でくるのはあんたの自由だけど、よければ、もうちょっとめかし込んだっていいんだぜ。ええっと、ドレスコードがある場所に寄るかもしれないし、あんただって、着てみたかった服があるだろうし。別にいいんだ、あんたがそのままでいいって言うなら。でも、それなりに、ちゃんとした——に連れて行くこともあるかもしれないから、」
「え? ごめんなさい、今なんて?」
耳ざとく、というよりは単純に聞こえなかったのだろう。カメリアは首を傾げて、彼の言葉を聞き直す。
「あんただって、お気に入りのドレスの一着くらい、持っているんだろ」
「ええ、幾つかあるけど。でも動きづらいのばかりなの」
「動きにくくても、いいんだよ。俺もこの怪我の状態だし、ゆっくり歩くから」
「新しいエリアに行くんでしょ? せっかくだから、色んなところを回りたくはないの」
「だ、だから、その。特別な日くらい、好きにめかし込んでこいよ」
「特別な日? 何かお祭りでもやっているの?」
限界だ。色んな意味で、全身が爆発しそうになる。
肝心な時にだけ察しが悪い彼女の勘を心底呪いながら、デイビスは今まで保ってきた自制心を放り投げるように、一息に叫んだ。
「————つ、つ、次は、デートに誘ってるんだから、好きなだけおしゃれしてこいって、言ってんだよッ!!!!」
言うなり、デイビスは背を向けてうずくまった。耳まで真っ赤だった。茹でダコのようになった顔からは、ぷしゅう、と湯気が出ている。
当のカメリアはといえば——完全にフリーズしていた。男性からそんなことを言われるなど、まるで経験がなかったのである。固まった主人の顔を覗き込むように、アレッタは小首を傾げて上を見る。
「…………えっと。遠出って、そ、そういう意味なの?」
「それ以外に、何の目的もねえよ」
「と、突然そんなことを言われるなんて。全然予想していなくて」
「突然じゃないさ」
「え?」
「ストームライダーに乗っている時から、ずっと本当のことを言おうって決めてた。あんたはそんなこと知らずに、ノコノコとここにやってきたんだろうけどな」
震えているんじゃないか——そう思えるような、小さな声だったが、今度こそ彼女の耳にも届いたようだった。一瞬にして、ティーポットほどにも火照った顔を、見られるまいと慌てて明後日の方向へと逸らす。気まずい沈黙。二人の熱い頰を、ふわり——と風が撫でていった。
デイビスは、顔を伏せている彼女が振り返るのをしばらく待っていたが、いや、さすがに長すぎるだろう、何とか言えよ、と文句を口にしかけて、彼女の顔を覗き込んだ途端、その意気込みも一瞬で失くした。
————カメリアは、泣いていたのだ。
悟られまいと、ずっと声を押し殺していたようだったが、それでも、涙は睫毛いっぱいに溜まって、もはや隠し切れない域まできていることは明白だった。
「な……なんで、泣くんだよ」
「だっ、て。まさか、あなたが——あなたが、そんなこと」
「そっ、そんな突飛なことじゃねえだろ、たかがデートだぞ。あんただって、結婚だの駆け落ちだの、さんざん、俺にふざけたことばかり吹き込んできたじゃないか」
「ぐすん、だって、そんなのは冗談で。まさか本当に叶うなんて思っていなかったの」
「オイ。どんな印象を持ってたんだよ、俺に」
「超ツンデレ豆腐メンタルヤリチン男」
どすぅっ——と弩が飛んできて心臓を突き刺したようだった。だくだくと流れる心の血液を押さえながら、青筋を立てたデイビスが、ゆらり、と傾く。
「ンなわけねえだろうがッ!!! なんっで、そんな謎の結論に行き着いたんだッッッ!!」
「じゃあ本当に違うって言えるの!?」
「おー、言えるともさ! ツンデレになった覚えはねえし、豆腐メンタルだって持ち合わせちゃいねえよッッッ!!!」
「ひっく、だ、だって———
好きって言ったらふざけるなって怒鳴り返されるし、友達になろうって言ったら昔の女の名前で呼んでもいいんだろって皮肉られるし、抱きしめられたと思ったらいきなり川に飛び込まれるし、キスしてもらえたと思ったら、本当はずっと前から懲り懲りだったって叫ばれるし」
二の句が継げねえ。
十トンの石を頭上から落とされたように感じたデイビスは、顔を覆いながら、この世のすべてに懺悔した。
「……分かった。そうだな、それは確かに、泣くかもしれないな」
「でしょう?」
「……あ、あの、さ。カメリア」
「ま、待って。今話しかけられても、私、何も——」
一瞬迷ったが、覚悟を決めた。やるか、やらないか、選択肢はたった二択——けれどもやるなら、今しかない。
デイビスは、両腕で、彼女の背中を強く引き寄せた。いきなり押しつけられた体の、あまりの温度と柔らかさに驚き、その胸を押しあげて、自分の心臓がひっくり返るほどバクバクと高鳴っていることが分かった。眩暈がするって、本当だったのか、と彼は思う。暖かく生きた重みに、全身に震えが走るようだ。びくり、と体を強張らせた彼女も、いつまでも彼の力が強いままでいる理由を察したのか、やがてゆっくりと、遠慮がちに彼の背中に手を回す。そこまで感じて、ようやく息をついたデイビスは、回している腕にさらに力を入れた。抱き合っている、という事実に、過度なほど与えられた意味を味わう。互いの体が離れない感覚。胸いっぱいに、懐かしい匂いが広がった。
「なんでキスしたのかって、あんたは俺に訊いてきただろ。遅くなったけれど、これが答えだ。
……すまなかった。あの時、本当に言いたかったことを言えなくて、酷い言葉ばかりぶつけた。でも本当は……本当は、頭の中がぐちゃぐちゃで。いつか幻滅されるのが怖くて、ちゃんと向き合えなかっただけなんだ」
暴れ狂う心臓を十二分に分かっていながら、ようやく、という細さで、言葉を紡ぐ。
「ごめん。でももう、自分の本当の気持ちが分かったから。二度と、あんたに嘘をついたりしない」
カメリアは、あまりに自分を襲う動悸に震えているようだったが、やがて軽く擦りつけるように頭を寄せ、ちいさく言った。
「……もう一回言って?」
「ご、ごめん」
「もっともっと」
「俺が悪かった。ずっと、謝りたかった」
「ふふん。圧倒的優位な立場にあるというのは、気持ち良いものね」
「…………」
何を言われようとも、彼女に謝罪の言葉を伝えられたという事実は、心を軽くした。本当のことを口にして、救われた思いがするのは初めてだった。
ちいさくしゃくりあげていたカメリアが、彼の服を掴んでいる手を、ぎゅう、と子どものように握り締める。そんな些細なことにも、鳩尾が捻じ切れそうに躍りあがった。
「……ありがとう。キスしてくれて、嬉しかった」
その言葉を聞いて、デイビスの目からも、一筋の涙が滑り落ちた。慌てて、悟られないように手で拭う。たった一粒だけだったから、彼女には気づかれていないはずだ。ただ、込みあげる感情だけは如何ともしがたくて、彼にできるのは、腕に力を込めることだけだった。
今は、全部忘れてしまおう。
今まであったことも——
これからのことも——
怪我と緊張のせいで、不恰好なやり方でしか、抱きしめられないことも。
デイビスは、腕の中で寄り添ってくるカメリアの存在を感じながら、その背中を撫で、そっと瞑目した。
「ねえ、デイビス——」
「なんだ?」
「初めて会った日、あなたは私に、自分の夢を教えてくれて。私は、あなたに会えてよかったって——そう言ったよね」
「……ああ。言っていたな」
「これ以上、私からの言葉が必要?」
「必要だよ。浮かれているのが、俺だけかもしれないだろ」
「そう——分かった。デイビス、私ね……」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ! ま、まだ、心臓が……!」
うっとりと潤んだ目で迫りくるカメリアに動転し、遠ざかるように思いきり身を離したが、それでも動揺は止まるどころか、ますます勢いを増してゆくばかりだ。慌てて背を向けると、しゅん、と項垂れたカメリアが目の端に映って、ああ、また馬鹿なことを、と胸の痛みが走ったが、それでも後ろを振り向くためには、マジでマジで動悸がそれどころじゃない。へなへなと地面にへたり込み、一拍遅れて、満足に息も吸えていなかったことに気づいた。
何か口にしなければ——
この沈黙を破らなければ——
咄嗟にデイビスは大きく息を吸い、声の震えを抑えつけるために喉を濡らす。
たった一言。
それで相手の意思は、充分に汲み取れるだろうと予想しながら———
「……た、楽しみに、してくれる——か?」
口の中で言葉を転がすように、カメリアに向かって、精一杯の虚勢を張って確認する。
「うん。楽しみにしてるね、デイビス」
はっきりと、明瞭な調子でそう答えるカメリア。万感の思いを込めた彼にとって、それは一滴の清冽な水のように響いた。怒濤の安心感が、身体中をめぐり始める。堪えていた息を吐き出しながら——デイビスは目を瞑り、頭に浮かんだことを早口で喋り始めた。
「あ、歩きやすい靴で、こいよ」
「ええ」
「でも、あんまり俺の言う通りにする必要はないんだぞ。自分でいいと思ったら、それでいいんだし」
「ええ」
「ゆ、夕食もあっちで食べる予定だから。遅くなるって、親父さんに伝えておいてくれ。あのでも、さすがに、深夜まで引き留めるつもりはないから」
「分かったわ」
「……何を、さっきからニヤニヤしているんだ?」
「だってえ、初めてなんだもの。あなたがこんなに照れているところ」
ああ、分かりすぎるほどに分かっていることを、わざわざ。カメリアは実に勝ち誇ってテカテカとした顔で、デイビスを眺めていた。正直、気味が悪い。
「……あんた、内心面白がっているんだろ」
「そっそそそそそそそそ、そんなことないわよ。私がそんな底意地の悪い人間なわけないじゃない」
「はぁ、今さらだがな。本当に、俺なんかと一緒に行って嬉しいのかよ」
「うん、もちろん。言ったでしょ、楽しみにしてるって」
目線を合わせるために、座り込んだデイビスの前にカメリアもしゃがみ込む。こうしてみると、彼女の方もほんのりと、頬を染めているのがわかった。それでも、彼よりかは幾倍も素直で、己の感情を隠すことなく——いつも大切なものをごまかしてばかりの、臆病な自分とはまるで違う。
それでも———
「あなたと一緒なら、どこに行ったってどきどきするから、いいの」
期待してよいのだろうか?
彼女と同じ場所は、自分にだって、目指すことができるのだと。
鳩が豆鉄砲を喰らったであろう表情をさらけ出して、おそるおそる——彼女と、目を合わせ。
デイビスもようやくへにゃりと、だらしない笑顔を返すことができた。
カレンダーに大きく丸をつけたデイビスは、ごろんと、ベッドに横になった。
何度睨みつけても、その日付は動かない。うむ、間違っていない。確かに——何度も復唱し合って確認したし、相手も日にちを取り違えるなんてことはないはずだ。
約束の日は、一週間後に取りつけていた。カメリアいわく、『乙女の準備期間には、最低でも一週間は必要』らしく。それより以前の待ち合わせは、何がなんでもダメ——とのことだった。ドレスでも新調するつもりなのだろうか。
内心、ほっとした。少なくともカメリアは、「デート」という言葉を、勘違いして解釈してはいないように見える。それと同時に、一週間も先の約束で耐えられるのだろうか——という、ふとした懸念が過ぎった。
早く当日がこないかな、という思いがないわけでもない。けれども心を落ち着かせる休息も欲しいし、下調べをする時間も必要だった。だから、目下のところ不安だったのは、もっと別のこと。それはつまり、この一週間、自分の昨日の言動を思い出して、耐え続けることができるかということだ。切り出すタイミングを外した。尋常じゃないほど腕に力を込めた。終始、変な顔をしていたに違いない。違う、あれは俺じゃない、別の誰かだったんだ。デイビスは自己嫌悪に陥りそうな精神に必死で抗った。この調子では、一生分の鼓動を、ここ数日で使い切ってしまうことになる。
(お、落ち着け。この週末までは、何としても生き延びるぞ)
ぐっ、と拳に人生を握り締め、気合を入れるデイビス。デートの前で力尽きたなら、死ぬに死に切れないものがある。
さて———
恋人たちが二人で出かけるのに、最も気を回さなければならないものの一つが、デートプランである。実際あったことのひとつひとつを思い出すだけでも、顔から火が出ることなのに、さらにどこが喜んでくれるかを想像し、スポットを比べて、スケジュールを策定し、決定しなければならないのだ。どれほど体力が削られることだろうか。
とはいえ、流石にエリアの約束くらいはしてきている。デイビスは買ってきた本屋の袋を開け、パラパラと、講談社(注、社員でもステマでもない)のポケットガイドをめくった。
「えーと、デートにぴったりの場所か。やっぱり、ここしかないよな」
目当てのページを見つけ、その見開きを強く手で押さえつける。
「メディテレーニアン、ハーバー」
何度か、浮かれている同僚が連休を取って、颯爽と出かけてゆくエリア。土産話に紛れて、聞きたくもない惚気話を山ほど持ち帰り、誇らしげに吹聴するのが、同僚に対するお決まりのいやがらせだ。好意的にとれば、それほどまでに良い思い出だった——ということではあるのだろう。メディテレーニアン・ハーバーは、カップルの聖地とも呼ばれるほどの定番だった。
無論、この本の編集者にしても、よくよくそのことを分かっているらしい。ガイドブックには、気恥ずかしくて正視に耐えないキャッチフレーズが並んでいる。彼は今まで雑誌のこうしたページは読み飛ばしていたのだった。けれども当日に備えるべき今、デイビスは慣れるために、あえてそれを音読した。
「南ヨーロッパの、伝統ある港町。そこはまさにカップルたちの楽園。シーフードに舌鼓を打ちながら、ザンビーニ兄弟の提供するワインはいかが。ゴンドリエの情熱的な歌に耳を傾ければ、願いが叶うとの噂。運が良ければ、新郎新婦の結婚式に出くわすことも。夜にはロマンチックな夜景が一望でき、ため息の出る美しさ。二人きりの時間を過ごせば忘れられない一夜になり、こっ、こっ、恋人たちに、人気のスポット……」
ガイドブックを掴む手が震えた。こ、これを信じ込み、本気で実践するカップルがどれほどいるというのだろう。しかも今、彼はまさにその波に加わろうとしているところなのだ。ご丁寧にも、手を繋ぎやすい場所、愛の言葉を囁きやすい裏通り、店員にサプライズを頼めるレストランなどが、特設ページを組まれて紹介されている。
うるせえうるせえ、余計なお世話だと呟きながらも、目を皿のようにして読んでしまう。超庶民派の生活を営んできた彼には、マゼランズなるレストランは問題外。ザンビーニ・ブラザーズ・リストランテはカジュアルすぎるし、リストランテ・ディ・カナレットは人気すぎて、予約が取れなさそうだった。カフェ・ポルトフィーノくらいがちょうど良いだろう。写真を見てみると、それほど悪くない雰囲気だった。漁師町らしい素朴なスタイルで、気取ってはいないが、温かみがある。夜になると、橙色のランプに照らされて、ロティサリーチキンやパスタを楽しめるようだ。地中海料理——イタリア生まれの彼女は食べ慣れているだろうか? とはいえ、少なくとも舌に合わないということはないはずである。
まあ——うまく窓辺の席に腰掛けて、夜景でも見たり、音楽に耳を傾けたりしたら——彼女も楽しんでくれるかな。カメリアは、何を注文するだろう。お嬢様のようなので、いいワインを一緒に嗜むかもしれない。あるいは珍しがって、地ビールなんて口にするのだろうか。それからデザートを終えて、外に出て。ぶらぶらと海辺を散歩して。花火なんか見て。彼女のことだ、わぁ綺麗、と目を輝かせてはしゃぐだろう。できればその時に——手を——手が偶然、当たった振りなんかをすれば——
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああうううううううううううううううううう」
ごろんごろんとベッドの上を転げ回るデイビス。世の若者たちは、これほどのこっ恥ずかしい重圧を、耐えることができるのだろうか? 無理だ。少なくとも超人じみた面の皮がなければ、こんな試練を耐え忍べるはずがない。
隣室から、大きな音で壁を叩かれた。うるさくて苦情が入った、ということだ。おもむろに身を起こして正座し、デイビスはこほんと咳払いをした。
デートは丸一日、ということになっているので、幾つかのスポットを回らなければ時間は埋まり切らない。くっそー、ディズニーランドにでも行けたら、それだけで一日潰せるのにな。歯を食い縛りながらパラパラとガイドブックをめくるうちに、ふと、とあるページが目に留まった。
「ファンタスティック・フライト・ミュージアム?」
そこに特集されているのは、大理石で作られたのか、まばゆいほどに純白の博物館。そのなかで一点、吸い込まれるように青いドームが、イタリアの晴れ渡る蒼穹を思わせる。
「へえ、しかもちょうど、特別展をやっているんじゃないか。間違いなく、あいつなら飛びつきそうだな」
何なら今からでも、ヒートアップしている姿が目に浮かぶ。広々とした部屋を走り回って説明を読み、彼のことはそっちのけで、大はしゃぎで目の前の光景に没頭することだろう。
「雰囲気も、悪くはないな。真っ白で綺麗だし、十九世紀初頭に建てられたとは思えねえじゃん。
……この鳥の彫像、アレッタに似ているな。目つきの悪いところなんか、そっくりだ。なになに、博物館の設立者は、ルッカの古物商たるチェッリーノ・ファルコ———」
読み進める目が、止まった。
胸騒ぎがする。
初めて会った日、自分の父親について、彼女はなんと言っていた——?
『お父様もまた——夢を持っているの。子どもの頃に見た夢。とびきり奇想天外で、空想たっぷりで、馬鹿みたいで、ふざけていて、それに——胸を締めつけるような、ロマンチックな夢をね。
あれほどまでに大きな記念碑を、私に残してくれたんだもの。私のできる贈り物といったら、これくらいしかないんだから』
落ち着け。
彼女の父親が、博物館の創設者だと分かっただけだ。それ以上の情報は、何もない。
なのに、なぜこんなに心臓が早鐘を打つ?
ふわり、と血の気の引く音を遠くに聞きながら、デイビスは続きの文言に目を走らせた。
「———当博物館では今年、飛行の研究に情熱を注いだ女性、カメリア・ファルコの生誕百五十周年を記念した特別展を開催。後にメディテレーニアン・ハーバー史上最大の発明家とも謳われ、多くの逆境に立ち向かいながら生き抜いたこの天才の生涯を、肖像画や思い出の品々、研究資料を通して、みなさんとともに振り返ります……」
———カメリア・ファルコについて。
———1801年、博物館の初代館長であるチェッリーノ・ファルコの娘として誕生。幼少期から空を飛ぶことに興味を持ち、飛行の研究に人生を捧げる。当博物館の二代目館長を務め、女性で初めて探険家・冒険家学会(S.E.A.)の会員として認められる。また、仲間とともに空飛ぶ乗り物、ドリームフライヤーを開発。ライト兄弟に先駆けて有人飛行に成功したと伝えられ、航空パイオニアの祖としても知られるだけでなく、世界平和への寄与に尽力し、訪問先の各国で慈善活動を展開。その長年の苦闘と、後世への多大なる貢献度から、「メディテレーニアン・ハーバー史上最高の発明家」として誉れ高い。
————————1875年、没。
ぽたり、と水道から垂れる滴が異様に響くほどの沈黙の中で、彼はその記述を見つめていた。周囲の耳鳴りから引き剥がされるような、奇妙な感覚があった。
死んだ?
何が原因で。
ここに書かれているのは、本当にカメリアのことで、合っているのだろうか?
けれども同時にそこには、覚えのある単語が記載されていた。「仲間とともに開発」——ドリームフライヤーをみんなで創造した、あの日。真っ青な大空の中に透き通るように笑っていた彼女の鮮烈さが、最後の一文を嘘のように裏切り続けていた。死という現象は、もっと真面目な人間に訪れるものだ。彼女みたいな人間は、死という深刻な事象など、似合いはしない。だって彼女は、そんな悲哀などまるで無縁のように、陽の下で明るく笑い転げていたのだから。
心臓が、粘つくように空虚を増してゆく。
———分かっている。信じたくないだけだと。
だってカメリアは、俺と同じ、人間だ。人間は、必ず死ぬ。当たり前の話じゃないか? カメリアは過去の人間だ。過去に生き、過去に死ぬ。
————そう、死ぬのは、当然のことだ。
何かに導かれるかのように、デイビスは自室を出て、宿舎の廊下の端の、スコットの部屋を叩いた。
「デイビス? どうしたんだ」
「あ、ああ。明日から休暇で、自宅の方に戻るから。だから、」
「挨拶か? 礼儀正しいのは結構だが、荷造りに勤しんだらどうだ。私には気を遣わなくていい」
「いや……あんたにちょっと、聞きたいことがあって」
背筋に冷や汗が伝う感触を気味悪く感じながら、彼の唇は吐息に震えた。
「スコット。あんたは、カメリア・ファルコって人間を、知っているか?」
その単語は、彼にとって命綱となるほどに重大な響きを持っているのに、スコットは、少しも表情を揺るがせはしなかった。まるで教科書に載っている暗記内容をそのまま復唱するように、機械的にその女性の名前を繰り返した。
「ああ、ファルコか? 知っているぞ。それがどうかしたか?」
「ど……どんな印象を、持っているんだ」
「天才発明家だろ。あんな人間は、もう現代にふたたび現れるのは難しいかもな」
「過去の人間なのか?」
「当たり前だろ、何十年前に活躍したと思っているんだ。まだ飛行機も生まれていない、十九世紀の人間だぞ」
ひょっとして、自分は知らない世界線に迷い込んでしまったのではないか、と思った。スコットがカメリアを、自分とはまるで別様に語る。もしかすれば、この世界にいる全員が、それぞれ自分の記憶とは別のことを語るのかもしれない。そうやって語り尽くされた結果、彼女は雲散霧消して、いなくなってしまうのかもしれない——まるで最初から、虚構の人物でしかありえなかったかのように。
「なんで……なんであんたは、カメリア・ファルコを知っているんだ。あいつはアホで、ふざけてばかりで——そんな、みんなに祀りあげられるような奴じゃ——」
「馬鹿、何を言ってるんだ。レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩するとも言われた天才発明家じゃないか。航空史の生ける伝説だぞ」
「教えてくれ。彼女はどんな功績を残した? どんな人生を送ったんだ?」
「お前って、本当にフライト以外に関心がなかったんだなあ」
しみじみと呟いたスコットは、デイビスの肩を叩いて、外へと促した。
「まあ、場所を変えるか。長くなりそうなのでな」
デイビスとスコットは、CWCと対面するJデッキに立つと、湾を隔てるポールに寄りかかり、汐風を浴びながら、静かに波打つ海を見ていた。
もう夕暮れだった。真昼のポート・ディスカバリーを汗ばませていた陽気は、ほつれた糸の如くゆるび始めていた。ホライズン・ベイは夕食の準備を整え終わり、早いディナーを取りにきた客が、ぽつぽつと席に腰掛けていた。ざわめく松が、汐風の通り道を教えていた。スコットは目を細め、潜航しているサンフィッシュ・サブの泡を眺めていたが、デイビスは魂を奪われたように頭上を仰ぎ、薄紅色に染まった柔らかな夕空を見つめていた。
「何を見ているんだ?」
「……飛行機雲、が」
「ああ。訓練生の、ウインドライダーだろう。酷い軌道だな」
「ストームライダーの第三の正式パイロットも、いつか選抜される日がくるのかな」
「まあ、当分はなさそうだな。教官として面倒を見ているが、全員、スキルが低すぎる」
デイビスは、返事もなく、頷きもせずに、ただじっと、空に筋を描いてゆく薄明るい雲を見つめていた。
今日は、煙草を吸わないのだな、とスコットは不思議に感じた。元々、掴めないところの多い奴だとは思っていたが、今日はとりわけ、ぼんやりとしている気がする。その深い緑の眼の中に、夕陽に染まった薄い薔薇色の波の反射が、きらきらと乱れた。
スコットが、静かに口火を切った。
「デイビス。世界で初めて、飛行機の有人動力飛行をしたのは、誰だと思う」
「……ライト兄弟、だろ」
「そう、そう言われてきたよな。ところが、その半世紀以上も前に、飛行機の有人動力飛行を成功させたと伝えられている天才がいるんだ。その伝説の女性の名は、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコ」
デイビスは、その言葉を予期していたように、ぴくり、と一度だけ肩を震わせたきりだった。
「だが、世に膾炙されているのは、ライト兄弟の方だよな。なぜ、カメリア・ファルコの名前は世間に知られていないのか?
これは現代になっても、いまだに解明されていない謎なんだが———
彼女の開発したドリームフライヤー号は、その動力の正体が明らかになっていないんだ。なぜ、あの飛行機が長時間に渡って飛べたのか、誰にも分からないままなんだよ」
「え?」
「ドリームフライヤーの開発後、ファルコが世界中を回って、慈善活動を展開した痕跡は、各地に数え切れないほど残されている。これは動かしようのない事実だ。しかし、なぜこれほどまでに多くの場所をめぐることができたのか? それこそが、航空史の最大の謎なんだ。単なるグライダーが、イタリアの地中海を超えて、オーストラリアやアフリカ、アメリカなど、大陸間を渡れるはずがない。明らかに、何らかの動力が存在したと思われるんだが、なぜかドリームフライヤーの設計書には、その記述が一切残されていないんだ。そこで、飛行を証明する決定的な証拠を欠くということで、彼女の飛行は、公的な記録から抹殺されているんだよ」
彼女とともに何度もドリームフライヤーに搭乗し、その制作すら手伝ったことのあるデイビスは、その飛行機に必要な無限の原動力を、深く知っていた。しかしそれは、設計書には書ける類いのものであるはずがない。
(このフライヤーに乗る人はね、みんな、飛ぶ力を持っているの。想像力があれば誰だって、時空を超えて、世界のどこにだって行けるの)
彼女の"夢"そのものが、彼女から最大の名声を奪う原因となった。
それは、紙の上には残せないものなのだ。どれほど設計書を見つめても、彼女の持つ、あの溢れんばかりの想像力を、ふたたびこの世によみがえらせることは不可能だった。
「言ってしまえば、異端扱いだな。……動力以外の設計については、すべてファンタスティック・フライト・ミュージアムに保存されており、当時としては異様な完成度。グライダーとしては、すでに完璧だったんだ。なのに、推測される飛行距離に設計が追いついていない、そのただ一点で、彼女の飛行記録は黙殺された。その後、ライト兄弟の登場により、《人類初の有人動力飛行》の栄光は、彼らが勝ち得ることになったんだ。
ファルコの発明したドリームフライヤーには、驚くほど画期的な設計技術が詰め込まれていた。固定翼、キャンバー、迎え角、アスペクト比……その数々の斬新なアイディアに、多くの科学者が夢中になり、ドリームフライヤーは《飛行機製作最高の革命》とまで謳われた。
せめて、ドリームフライヤーの動力源が分かっていれば。彼女に与えられる栄誉は、ライト兄弟を優に超越した、航空史最大のものとなっていただろうにな———」
苦々しさとともに呟かれたその言葉によって、デイビスの胸に憐憫が、冷たい清流の如く込みあげるのを感じた。
結局、最後まで、彼女の才能が報われることはなかったのか——しかもまさに、ドリームフライヤーを飛翔させる根源が、形のない"夢"であった、そんな儚いことが原因で。
まるで、夢に裏切られたようだと思った。初めて会った時から、カメリアはずっと夢を叶えたいと豪語していたのに——その結末が、こうなるなどと。
しかしスコットの話は、ここで終わりを迎えることはなかった。
そして、真に深くデイビスの胸を打つことになるのは、寧ろ、以降に語られる内容の方だったのである。
「———まあ、だがそれも、過去の話になりそうだな。今回のストームライダーの活躍で、カメリア・ファルコにも、ふたたび世間からの注目が集まるだろうからな。
ま、お前の頑張りのお陰だよ、うん。ベースも喜んでいるんじゃないか」
何気なく呟かれた単語に、聞き流せることのない違和感を覚えて、デイビスは顔をあげた。
「ちょっと待てよ、スコット。なんでそこで、ストームライダーの名前が出てくるんだ?」
「繋がっているからだよ」
「繋がるはずがない。カメリア・ファルコとは、生きていた時代が違うんだぞ」
「あのな、デイビス。ストームライダーを造ったのは、誰だ?」
「……ベース、だろ」
「ベースは、大学時代に、カメリア・ファルコの研究をしていたんだ。そこで初めて、ドクター・コミネと出会ったんだよ。ドクター・コミネもまた、元々は、カメリア・ファルコの若き研究者だったのさ」
「えっ——」
「だから驚いたんだよ。CWCの職員たるお前が、カメリア・ファルコを知らなかったなんてな。この組織の創設者である二人を結びつけた存在は、ファルコなんだ。ベースとドクター・コミネは、非常に強固な信頼関係で結ばれた研究パートナーだった。そして彼らは、世界中の気象研究者に賛同を呼びかけ、このポート・ディスカバリーに、史上類を見ない科学機関、気象コントロールセンターを設立したんだ。ほら——それが今、私たちの目の前にある、あれだよ」
夕暮れの中に、陽を照り返す黄金のドームが光る。
どこか懐かしい五本のアンテナや、ストームライダーの帰還を導く夜間誘導灯の光の柱。
増築を繰り返し、ヴィクトリア朝からアール・デコ調まで、多くの建築様式と歴史を含んだ、近未来的な建物。気象コントロールセンター。
それらのすべてが、大きな歴史の流れの中の一点に置かれた気がした。
そして、別のもう一点から、光が差し込んでくる。
それは、もっと遠い場所からやってくる、時空を超えた閃光。まるで、時の隔たりを廃棄し、目の前の景色とは異なる次元から指し示すかの如く。恐るべき強烈さで、それは幻のような光景を運んでくる。
そこに浮かびあがるのは、時空を超越した、一人の天才発明家の後ろ姿。
まるで、時代の産声を告げる黎明のように。
その小さな火種は、時空を超えて、彼の時代へとちいさな光を投げかける。
「彼らがCWCの創設に踏み切ったのは、当時、数百年を誇るS.E.A.本会の活動が、前世紀末に設立された分会に圧倒されつつあったためだ。五百年近くの歴史を誇る、由緒正しい本会と比べ、S.E.A.分会は、ヘンリー・ミスティック卿が中心となって作られたとされる非公式の会だが、その裏では大いにハリソン・ハイタワー三世の権力が働いていたらしく、とかく成金ばかりが集まっていて、活動が派手でね。箔付けとして、華々しい宣伝や、本会のネガティブ・キャンペーンまで行われ、徐々にその名声は、古色蒼然たる本会から、分会の方へ奪われてゆくかと思われたんだ。
そこで、かねてより名誉挽回の機をうかがっていた研究者たちは、分会設立前、S.E.A.本会の最後の終身会員であった科学者、カメリア・ファルコを旗印として、アメリカにおけるストーム研究を使命に据え、立ちあがったんだ。それが気象コントロールセンター、つまりCWCだ。元々、S.E.A.本会も、プロメテウス火山の噴火等の自然災害研究が活発だった組織だ。その系譜を継いだという形で、CWCは非公式ながらも特別な立場につく。そして、その二つの組織の交流を表す記念として、ドリームフライヤーの設計を基盤とした、二つのまったく新しい飛行機が開発された。ドクター・コミネが発明したのはウインドライダー、そしてベースが発明したのは、ストームライダーだ。まあ、経営方針に関する意見の相違で、ドクター・コミネはストームライダーの完成前に、CWCを去ってしまったがね——その後、ベースは一人でCWCを支えながら、ストームライダーのパイロットを養成するために、世界中から募集をかけた。そして、その職に夢を見た、私やお前のような人間が、CWCに入所することになったわけだ」
「じゃあ……ストームライダーの完成を、これほどまでにポート・ディスカバリーが祝福しているのは」
「むろん、マリーナの景気上昇を促進する狙いが最大だが、裏に秘められた一番の目的は、S.E.A.分会への宣戦布告だろう。CWCは大々的にストームライダーの完成を宣伝し、科学的な名誉や栄光を、分会から奪い返そうとしたんだ。真にS.E.A.の精神を受け継ぐのはどちらなのか、世界を相手に問いただそうとしたんだよ。
お前も、不思議だと思わなかったか? 画期的な発明であるとはいえ、まだ有用性も完全には立証されていないストームライダーが、なぜここまで、対外的に大きく宣伝されたのか。まあ、大富豪だらけの分会を視野に入れただけあって、私は少しやり過ぎだと思うがな。その奥底には、ポート・ディスカバリーの基本テーマたる『科学の平和利用』を揺るがすS.E.A.分会への、激しい対抗心があったわけだ。だからこそベースは、初期から半官半民の形でCWCの経営を進め、ストームライダーに莫大な資金が投じられるように手を打っている。何でも、このあたりでドクター・コミネと対立したようなんだが、詳しくはよく知らないな。まあ、側から見たらあまりに経済の方向に傾きすぎたようにも思えるが、ベースは金に目が眩んだんじゃない、あくまでポート・ディスカバリーの精神に忠実だったんだ。
同じ北米大陸で火花を散らすこれらの機関は、東のS.E.A.分会、西のCWCと言われるほどに対立していてね。とかく拝金主義に走りがちなS.E.A.分会に対抗して、CWCは、本来の純粋な人道主義に立ち戻ることを理念に掲げ、正義心に基づいた科学を追求することを誓約した。CWCが、徹底的に軍事との結びつきを拒否していたのは、設立時のこの理想を、断固として守り抜いていたからだよ。
こうして考えてみると、ベースは、本当にカメリア・ファルコの熱心な研究者だったんだろうな。父親が亡くなった時、ファルコの存在が救いになった、まるでヒーローのようだったと、いつか酒を飲んだ時に言っていたしな。それに最初のフライトの時、普段は慎重なベースが、あれほど多くのゲストをストームライダーに搭乗させようとしたのは、まさしく亡きファルコの夢を叶えようとした、ベースの深い願いが込められていたんじゃないか」
「カメリア・ファルコの夢———」
スコットは、静かにその言葉の先を引き継いだ。
「———物心がついた頃からファルコは、鳥のように自由に空を飛ぶことを夢見ていた。
最初に飛ばした紙飛行機が、空高く舞い上がった時、空を飛びたいという自分の夢を、多くの人と分かち合いたいと思った」
その、たったひとつの願いから、すべては始まった。
それは、なんと素朴な願いなのだろう。
誰しもが心の中に秘めた夢。
そして、そこから、すべては動き出してゆく。数々の人々を、歴史を巻き込み、夢も野望も舞いあげて、新たなる時代を連れてくる。
「ファルコは言った。科学は、人殺しの道具じゃないと」
「……ストームライダーは、人殺しの道具じゃない」
「それは、人の命を守るために存在するんだ」
「世界平和のため……」
「科学は、夢を叶えるためのものだ。お前も、ストームライダーを見ていれば、分からないか?」
デイビスの喉は、何も声を発せられなかった。スコットは順繰りに、その特徴を挙げていった。
「安定性を求めた、高翼機」
「まるでトビウオのようなデザイン。主翼から尾翼に至る、滑らかな流線と黄金比。大勢のゲストの搭乗を前提とした座席」
「何より。人を守るため、平和を齎すために大空へと飛び立つ飛行機。それは、まるで——」
「———そんなこと、あるわけねえよッ!!」
デイビスは叫んだ。スコットは驚いて、隣にいる相棒を見つめた。
「ストームライダーは、唯一だ。ドリームフライヤーとは何も関係ない。全部嘘っぱちなんだ!」
「なぜ、そうもむきになって否定する?」
「だって。ストームライダーは最新テクノロジーを駆使した、超高性能な飛行機で——」
「デイビス。ここは時空を超えた、未来のマリーナだぞ」
スコットは、幼い子どもを諭すように言った。しかしデイビスの額には、冷たい汗が滲んでいた。
「未来を生み出すには、過去から学ぶしかない。何もないところから明日は創り出せないんだ」
———分かってるよ。でもそんなのは、
「ここは、多くの先人たちの功績があって、初めて成立する街だ。だから、過去に生きていた科学者たちに、最大の敬意を表して——」
———カメリアに使う言葉なんかじゃ、なかったんだよ。
「我々は、彼らの支払ってくれた涙と労苦に、感謝しなければならないんだよ」
———なんで、あいつの人生が、すべて終わったことのようにされているんだ?
あいつは生きている。
誰よりも真っ直ぐに夢を追いかけていたんだ。
あいつのこれまでの労苦に感謝するっていうなら。
まるで、ドリームフライヤーの存在は、ストームライダーの布石でしかなかったみたいじゃないか。
「安心しろ。ストームライダーに乗ったお前の活躍を見て、カメリア・ファルコも、天国で喜んでいるだろうさ」
スコットはそう囁き、デイビスの背中を叩いた。しかし彼は、その事実が耐え難いように、震えながら目を見開いていた。
「スコット。……最後に、あんたに、聞きたい」
「なんだ?」
「あんたにとって、カメリア・ファルコって、どんな人間なんだ?」
スコットは、ふっと目を細めて、自らとは直接的な関係のない、けれども確かに縁の深い、その歴史上の人物に思いを馳せた。やがて彼は、その薄い唇を動かして、ゆっくりと呻くように呟いた。
「この大空を翔ける飛行機の、すべての始まり。
そして、時代に恵まれることのなかった、不遇の英雄。……そんなところだろうな」
———目の前が、死の影に覆い尽くされてゆく。何もかもが冷えて、干からびて、意味を失くすように。
それはまるで、彼がこの時代に生きているという事実が、彼女が死んでいるという宣告に、追い討ちをかけるようだった。
デイビスは、数日先の予定だった飛行機のチケットを取り、すぐさまイタリアへ向かった。まだ宿も決まっていなかった。ホテル・ミラコスタのキャンセルをおさえ、一泊した翌日、S.E.A.の本部へと向かう。
そこは、初めて踏み入れる彼女の世界。今まで様々なところを一緒に旅してきた——でもここは、それらとは訳が違う。トスカーナ地方に降りそそぐ太陽が踊り、地中海の潮騒が揺れる。彼女の故郷が、そこにあった。まばゆいトッポリーノ広場の向こうに、輝く海と、巨大な火山が見える。陽気な音楽を流すスピーカーの下を歩いて、ざわざわとさざめく人々の笑い声にも背を向け、彼は孤独に足を進めた。石畳の模様はやがて、柱状節理を均した地面へと取って代わられ、険しく冷え固まった溶岩を光らせる岩肌が、彼の真横まで迫ってきた。
フォートレス・エクスプロレーション。それは、メディテレーニアン・ハーバー入り口の守りを堅牢とするために建てられた、石造りの砦である。一五三八年八月、人々がまだ異端審問で肉を焼き、黒死病に倒れ、貧困に苦しみながらも、その砦を譲渡された協会は、探検・冒険に関する四つの指針を元に、この世に産声をあげた。遠くからでも煌びやかに日の光を反射する、豪奢な黄金のドームを中心として、堅牢な石を積み上げて回廊や階段を構築した、中世スペイン風の要塞。その立地は、要塞の石橋を渡り、探検者たちの行き交う広場を横切って、噴水に彫刻された怪魚の口から清らかな水が滴り落ちるそばを抜けた先にある。かつて、暗黒時代を切り開いて、人間たちの無知蒙昧の風を、理性で払ったとされるロマンの始まり。地球儀が轟音を立てるように、その時、世界が軋みをあげて走り出した。めぐる潮風も、めぐる星空も、すべてがひとつながりになり、人々の智慧を切り開いた。
太陽の光が、濃かった。
くっきりとした影が地の上に落ちて、彼の足下を黒く染めていた。
死。
ストームライダーに乗って、己れの死と向かい合った。生と死、まさにその境界線を掻い潜ってきた彼には、それを馴染みのない概念であるとは思わない。
しかし、自分はすでに、誰かの死後の世界を生きているのだという認識は、今まで一度も抱いたことはなかった。
物心がついてから、大切な誰かを亡くした経験もない。死なせまい、としてストームライダーに乗り続けた。そこで把握されていたのは、なんら実感のない、社会通念としての死でしかない。自分が、親しい人の死を通り抜け、ひとり生きてゆくなど、考えてみたこともなかったのである。
(デイビス君。僕も彼女も、いつか死ぬよ)
死ぬわけがない。死ぬとしても、それは遠い未来の話だ。それが現実で、たった今、もう死んでいて、今すぐにそれを受け入れなければならないなんてわけがない。
しかし最も辛いのは、世界が、ポート・ディスカバリーが、ストームライダーが、まさにカメリア・ファルコの死を土壌として未来へ邁進していることだ。彼女が世界にもたらした変革が、あまりに大きすぎて。まるで彼女の死は、現代から要請されており、そして自分は、カメリアの死を搾取して生きている、という意識を免れない。
デイビスは立ち止まって、その石造りの門を見た。旧式の落とし格子で、その両側の巻き上げ機は完全に門を開いたまま、かつての防御の役割を終え、今は冒険者たちにその扉を開いている。その先に、銀鼠色の堅牢な砦が聳えていた。
(ここが、S.E.A.の本拠地————)
胸がざわめいた。強靭な神の思想。科学それ自体が神聖さに彩られ、瞑想と哲理に満ちている。宇宙は神の法に支配され——そして自分たちはその駒なのだと、本気で信じていた頃。一歩足を踏み入れた途端、冷たい壁に鳴り響くチェンバロのフーガも、装飾の影とともに揺らめく中世風の松明の焔も、石壁に反響してゆく靴音も、何もかもが異次元だった。時が止まったように遥か昔年の空気を漂わせるその空間は、彼に得体の知れぬ恐怖を与えるだけ。底冷えのする過去の迷宮へ迷い込みながら、彼は石造りの要塞を歩いてゆく。太陽系の惑星を模したアーミラリー天球も、ダ・ヴィンチが発明したオーニソプターも、地球平面説の上に繰り広げられる寓話の世界も、彼女が愛好しそうなものばかりだった。吐き気がした。そのまま、古い先人たちの亡霊が、過去へと連れ去っていってしまうような気がして。
もはや何も語らずに姿を掻き消した、永久に戻らない、過去の人間たち。そして、今を生きる生者は、彼らの残した地でさざめき笑いながら、自分たちの現世を独占し、お喋りをしていた。その、埋めるに埋められぬ絶対的な乖離が、彼の心を引き裂いた。時の流れによるどうしようもない力関係が、かつて生きていた人間たちを、命のない物として貶してゆくようだった。
「ロマンティックね」
恍惚としたように、天井から吊られて振るう振り子の、鈍い黄金の針を見つめながら、恋人同士らしい二人連れの女が言う。かちり、と音を立てて、針に押されたピンが倒れた。振り子の影は揺れるごとに大きくなったり、小さくなったりしながら、下から照らし出される照明によって、何か奇妙な衝迫を持って、胸に響いた。
「冒険、ロマンス、発見、発明か。こうやって少しずつ、大航海時代の世界は解明されて、今の姿に近づいていったんでしょうね」
「いいよなあ、こういうところ、見てて落ち着く。あとさ、俺、昔からファルコが好きでさあ」
「ああ、あの一人だけ、時代の違う人?」
「うん、今はファンタスティック・フライト・ミュージアムで、カメリア・ファルコの特別展をやってるから。それに合わせて、引っ張り出してきたんじゃないのかな」
「レオナルド・ダ・ヴィンチ以来の天才なんでしょう」
「そうそう。でもダ・ヴィンチより、もっとずっと親しみやすくて、昔の人とは思えないんだよ。彼女曰く——」
「自分と同じ魂を持った人間に出会いたい。そう願い続けてドリームフライヤーを飛ばしたら、ひとりぼっちの自分にも、初めての友達ができたんだって」
彼女が別の人間に語られる、というだけで、胸が張り裂けてしまいそうだった。二人の男女は、そばにいるデイビスの心情など知らない。暗い回廊を駆けると、自分が今、どの時代の、どこの世界を走ってるか分からなくて、眩暈がする。まるで迷路のようだった。
受け入れるしかない。
現実を直視しろと、自分の心臓が宣告する。
俺には、過去を変える力なんてない。どんなに偉大なヒーローになって、ポート・ディスカバリーを守ったって、彼女を迎えた死の運命から守ることは、できない。絶対に。
———なら、俺とカメリアが出会ったことに、どんな意味があった? 死者と出会ったって、何の未来も生まれてくるはずがないじゃないか。
大きくホールの扉を開け放つと、新たな薄闇とともに、膨大な数の灯火が眼に映り込んできた。そして、真っ先に目の前に浮かびあがってきた人物に、デイビスは言葉を失くした。
聖堂——なのだろうか。いや、いかなる宗教からも切り離され、世界史の綺羅星たちにのみ捧げられたその巨大な密室には、恐ろしく深い青の星空が描かれた天井画の下に、ぼんやりと、数え切れないほどの蝋燭が灯されている。そして、周囲の壁一面に、大きな肖像画が飾られていた。緻密な彫刻が彫りつけられた黄金の額縁のうちに、絵の具で塗り固められ、その人影は沈黙している。
一瞬、喪に服しているのかと思った。けれども実際は、それよりももっと哀しいことだった。
葬儀ですらない。触れることすら許されない。
彼女は———偶像のひとつとして、物言わぬ人形のように扱われていた。
恐らく、その肖像画の人物を崇める生者は、そのような意識はまったくないのだろう。だって彼らは、生きているカメリア・ファルコに会ったことがないのだから。生者にできることといえば、文献や遺留品を通じて、その偉大なる生前を偲び、功績を称えることしかない。それが我々に残された、先人たちに手向けられる最後の敬意なのである。しかしデイビスには、その行為自体がなぜか、まだ生きている者を埋葬するような、どうしようもない無自覚の残酷さに満ちているように感じられた。
おびただしい蝋燭に照らされて、記念的な肖像画が眠るその部屋。中央に佇んだならば、偉人たちの眼差しに見つめられ、竦むような印象を受けるだろう。そう、歴史に疎いどんな人間でも知っているような、錚々たる巨人として世界史を変えた人物。イブン=バットゥータ、エンリケ航海王子、プトレマイオス、コロンブス、マゼラン、レオナルド・ダ・ヴィンチ。常人ならば触れられるはずもないそんなところに、なぜ、彼女の絵画が飾られているのだろう?
[Camellia Valentina Falco 1801 - 1875]
その意味は分かっている。けれども、どうしても頭が追いつかない。彼女が賢者たちとともに高い位置で祀られているのは、彼女の魂が、手の届かない異次元へと奪い去られた証のよう。それにその空間には、あまりにも決定的なものが欠けている——彼女の意志もなく、感情もなく、すべては当事者のいないままに第三者に語られ、受け継がれ、手垢にまみれていた。どうして世界は、こんな偽物を祀りあげて飾っているのだろう?
あらゆる生者が捧げる、過去への憧憬と、死者への敬意。膨大に渦巻く此岸の情念を、叩きつけられるように、吸い尽くすように。彼らはただ、その神格化された舞台に座らされ、未来の人間たちに跪かれ、未だ語られ続けている。それは、教会が権力を握る旧世界から抜け出してきた科学者らにとっての、新しい崇拝を捧げる神々とも言えた。けれどもその実態は、ただの傀儡にしか過ぎなかった。彼らの人生はすでに終わりを告げていて、残した面影にすら自由はない。生者たちは、死んだ彼らの業績を、禿鷹のように無数の口で語り続ける。
彼らは、何も語らなかった。動き出しはしなかった。生者が祈りを捧げるのに相応しい、その重々しくも偉大なる表情。何もかもが、後世に好き勝手に扱われて。固まったままの表情は、無論何も伝えようとはしない。その中でも——懐かしいと言える、あの口角のきゅっとした吊り上がりには、見覚えがあった。その痕跡だけが、画家の良心であるような気がした。だってそこだけにしか、彼女の本当の面影は、宿っていなかったと断言できるから。
カメリアはこうじゃない。
ころころと表情を変えて、目を輝かせながら夢を語って——こんな祭壇に祀られるような、あいつは、そんな人間じゃない。
この世から逝去した人間なんかじゃ、ないんだ。
膝から崩れ落ちながら——デイビスは伽藍堂の広間で独り、そこに光を浴びて掲げられている、カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコの、生前に描かれた肖像画を見つめていた。いつも隣にいた懐かしい気配にも、世界史に名だたる偉人然として描かれたその絵の人物にも、けして名を呼びかけることはできなかった。
まるで、誰にも理解されることのない彼女の魂が、彼の手を越えて、本当に天の世界へと旅立ってしまったかのように。
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