ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」7.ここは夢の通り道だったのね
フライヤーは今度こそ、東に正しい進路をとって、ミステリアス・アイランドに到着した。狭い島なので着陸に一苦労だったが、最適な場所に離着場を見出し、そこにつけることに決めた。舵はなくとも、体重によって軽く操ることはできるようで、固定した車輪の上に片足を載せて座席から立ちあがったカメリアは、そのまま柱に手をかけたままぐっと体を傾け、フライヤーを大きく旋回させた。フライヤーは彼女の手足のように方向を変え、僅かな偏りにも機敏に反応し、小回りを効かせて着地点に吸い込まれていった。
地面が近づくと、カメリアは靴に引っ掛けて車輪のストッパーを上げ、そのまま跳躍していきなり身を躍らせた。唖然としたデイビスだが、カメリアは膝を曲げて衝撃を殺しただけで、見事に島の地面に降り立つ。遅れて、フライヤーは小さくバウンドしながら、車輪を回転させ、ぴったりと大きなN字マークの上に停止した。上手いもんだな、とデイビスは感心した。高くから飛び降りても平然としている姿は、いかに彼女がフライトに慣れているかを証明するようである。
「お待たせ。ここで問題ないかしら?」
にこにこしながら座席に座った彼に手を差し伸べ、立ち上がらせるカメリア。
「どうもありがとう。今度は大丈夫そうだな」
「ええ。ここは何かの発着場なのかしらね」
「幾つか離着陸の跡があるな。まあ、使って構わないんじゃないか」
彼らはコンクリートでできたその空き地を見る。まるで魔法陣にすら見える、幾何学的な紋様が描かれたその円の付近には、降着車輪の痕跡やオイルの染みが数カ所、摩擦で黒く焼けたゴムとともに残されていた。滑走路は設けられておらず、ほぼ助走は不可能であるために、ヘリコプターか、それに近しい航空機専用なのだろう。ここでも、新しい飛行機が開発されている可能性がある。
ビスは、存外あっさりと手に入った。ポート・ディスカバリーから納品物を受け取りにきた、と告げると、クルーはすぐに注文の品を持ってきて、ご確認ください、と彼に手渡した。袋に入った部品を取り出し、数をチェックするデイビスの背後から覗き見たカメリアは、ちっちゃ、と心中で呟いた。予想と違って、爪の先にも満たない金属片が、数十個単位で彼の掌に載っている。これほどの微細な部品を元に造られているとしたら、さぞかしストームライダーとは、緻密な設計で組み上げられている機体なのだろう。そして当然、その機体のパイロットたるデイビスも、相応の操縦技術が求められるはずだ、と改めてカメリアは彼を見直した。
早々に用を済ませ、彼らはヴォルケイニア・レストランで、遅めの昼食を摂る。地熱発電を利用した食堂らしく、岩肌がなまなましく露出していたが、地面は綺麗に均され、時折り、地震のような微かな揺れが走っていた。薄暗い洞窟に天井に張り巡らされたパイプからは、絶えず地熱貯留庫から汲みあげられた蒸気の送られる擦過音が響いている。それらは、ダイニングルームの奥に設えられた巨大なタービンを回転させて、このミステリアス・アイランド中をまかなう電力を供給し、この食堂の中華料理に必要な強い火力を可能にしているのだった。
ガラス一枚を隔ててフードサービスキャストが忙しく立ち回る様子は、そこが洞窟の内部であるという点以外は、CWCの社員食堂にそっくりだ。二人は、食品サンプルが並べられたショーケースを覗き込む。
「カメリア、酒を頼んでもいいか?」
ようやく食事にありつける、しかも昼からアルコールを摂取できるということで、デイビスは酷く浮き足立っていた。カメリアも、上機嫌なデイビスを見て微笑んだ。彼女は酒こそ手にしなかったが、海老のチリソースとジャスミン茶を並べている。
「美味しい?」
薄暗い洞窟の隅の長椅子に座りながら、カメリアは、興味深そうにデイビスの傾けているグラスを見つめていた。物々しい深い色をした瓶は意外にちいさく、その分内部に波打つアルコール度数の高さを思わせる。
「紹興酒って、私、飲んだことないな。清国のお酒なの?」
「ああ。それなら、試してみるか?」
小瓶の中の液体を軽くグラスにそそぎ直して、初めてならあった方が飲みやすかろうと、粉砂糖もかけてやり、ワクワクと酒を見つめて嬉しそうなカメリアに渡した。虎目石色の、とろりとしたその液体のアルコール度数は、一般的には一六パーセント程度。ワインと同じか、僅かに高めくらい、といったところだろう。
カメリアは渋い顔をして舐めていた。眉間に明らかな皺が寄っている。
「んー……香りが独特だね。ふわっと、鼻にくるというか」
「あんた、酒に慣れていなさそうだもんなあ」
「そんなことないわ。ファルコ家は、地元の有名なワイン農家と契約していて、晩餐に二、三杯は嗜むのよ」
なら問題ないか、とデイビスは納得して食事を続けたが、そのうちにふと違和感に気づいた。どうもカメリアの様子がおかしい。じっと目を動かさないまま、口許を手で押さえて、微動だにせずに鎮座している。暗闇の中でも奇妙に身動ぎが少ないことが見て取れるため、デイビスは恐る恐る、顔を覗き込みながら声をかけた。
「おい。大丈夫か? そんなに舌に合わなかったか?」
「……ふ、ふわふわする。あしもとが」
「お?」
「あの。私たちって、フライヤーからはもう降りたんだよ、ね?」
「い、いくらなんでも、酔うのが早すぎやしないか? まだ口にしてから五分も経っていな——」
「失礼ね。酔ってらいわよっ!!!!」
ドン、とグラスを打ちつけるカメリアにひるんで、デイビスはうお、と身を引いた。
その白い肌には赤みが差して、目が蕩けたようになっている。
なんだ?
この妙な迫力は。
たじ、と椅子の背もたれに背を押し付けるデイビスに、カメリアは聴き慣れぬ、凛、と張った声で呟いた。
「わいんのなかにはちえがある。びーるのなかにはじゆうがある。みずのなかにはばくてりあがいる」
「は?」
「花間一壼酒
獨酌無相親
舉杯邀明月
對影成三人
月既不解飮
影徒隨我身
暫伴月將影
行樂須及春
我歌月徘徊
我舞影零亂
醒時同交歡
醉後各分散
永結無情遊
相期邈雲漢」
「お、おう。あんたって酔っぱらうと、突然賢くなるのな。その脳細胞は、今までどこに隠していたんだよ」
「かめりあ・ふぁるこは、うまれるまえから、だいてんさいでしたっ!!」
「……うーん。あんぽんたんの発言だなあ」
未成年の頃から酒を嗜んできただけに、どれだけ呑んでも潰れたことのないデイビスは、久方ぶりに見た酔客の典型に、感動すら覚えた。
乱暴狼藉を働くことはなかろうが、それでも呟いている内容は呂律が回らず、まるで意味もわからない。ぼーっと頬を赤くしながら目の動きを鈍化させているカメリアは、どう見ても精神が遠くの世界に出かけてしまっているようで、参ったな、と呟いた。
「あーあー。紹興酒との相性が悪かったんだな。こんな酔っ払い方じゃ、帰れなくなるぞ」
「かえりたくないー」
しくしくと泣きながら、カメリアは机に突っ伏した。
「かけおちっていったじゃないのー。ほかにあいじんがいたのね。わたしをだましたのねー」
「とりあえず、座ってろよ。今、水を持ってくるから」
「いやよ、いかないで。そありんをちかったなかじゃないのー」
「めんどくせえ酔っ払い方をするな。とにかく、さっさと酔いを醒ませよ」
たった一口呑んだだけで、どうしてそんなに酔うことができるんだ、と髪を掻き回しながら席を立ち、水汲み場の蛇口を捻りにゆく。紙コップを冷たい水道水で満たす——その波紋が、幾重もの柔らかなリボンのように波打ち、複雑な反射を紙に透かしているのにふと気づいた。振り向くと、洞窟の出口からは西日が射して、地熱発電所の役割も担う観照的な洞窟を照らし、外の世界へと導いていた。
一瞬、何もかも忘れて、外の光を捉えた。仕事を終えたらしいクルーの何人かが、帽子を取り、洞窟内へ食事をするために入ってくる。その逆光で、磨耗した地面に艶めいた影が黒々と落ちて、より一層深いコントラストを描いていた。太陽は皓々と橙の光に濡れて、洞窟を覆うパホイホイ溶岩の表面を滑らかに反照させ、背後に響く誰かのお喋りの声も、強い光線のうちに霞ませてしまうのだった。
「でいびす……なに、みてるの?」
「あ、ああ」
いつのまにかデイビスのそばに近寄っていたカメリアが、睡そうに彼の視線を辿った。そして同じように斜陽に胸を打たれ、ゆうひだー、と舌足らずに呟いた。今はその言葉すら陽に染まって、時空に立体的な影を落とすようだった。彼女に水を渡しながら、デイビスは語りかけた。
「ちょっと、外の風に当たるか? 開放的な場所の方が、あんたの酔いも醒めやすいだろ」
「いく!」
「その足で歩けるのか?」
「へいきー、はやくみにいこう。ここからはどんなそらがみえるのかなあ」
てとてと、と光の射す方向へ歩いてゆくカメリア。彼も慌ててその後を追い、転ぶことのないように彼女のそばにつきながら、その動向を見守った。
ミステリアス・アイランド。火山の抱くカルデラ湖を中心に、周囲の洞窟を削岩機で掘り進め、地底走行車や小型潜水艇を擁した秘密基地。多くの者がそこで日々の糧を生み出し、海上における自給自足の生活を養っていた。
指導者である船長が亡くなった時には、クルーたちは大きな悲しみに暮れたと聞いているが、長い時が流れた今、この柔らかな西日に照らされている間は、そのような慟哭の影は垣間見られない。軽い噂話をして笑ったり、志願クルーや有志の科学者を案内したり、研究のスケッチに余念がなかったりと、その表情は無邪気さで満ちていた。おそらくは、彼らなりのやり方で指導者のない時代を受け止め、彼に敬意を払いながらも、前へと進んできたのだろう。
ちょうど、地熱で発電された電力が無線によって送電され、蛾の震えるような微音を発して、ネオンパープルのコイルを備えたカルデラ周辺の照明が柔らかに燈る。灯を入れるには少し早い明るさだが、数珠つなぎに配置された外燈が照ると、不思議と心も暖かくなる思いがした。
カメリアは、レストランにいる間、外に飛ばして待たせていたアレッタを口笛で呼び戻した。優雅に滑空して帰ってきた隼は、たどたどしい足取りのカメリアを危うく見て取ったのか、そのまま主人の言うことを聞かずにデイビスの頭に着地し、その羽を休めた。まさか鳥の巣だとでも思ってはいまいだろうが、意外に居心地良さそうに構えた態度に、若干の不安を覚える。卵でも産んだりしねえだろうな、と。とはいえ、いつも威嚇ばかりしている彼のことを、宿り木程度には認めてくれたようで、少しだけ嬉しかったりする。
この島へはビスを受け取りに立ち寄っただけであり、志願クルーという名目で訪問したわけではなかったため、海底探査の協力や、地底探検に応募することはできない。ネプチューン号と呼ばれる潜水艇を引き揚げているクレーンの下へ、緩やかに科学者らを導く螺旋の回廊を見つめながら、カメリアは羨ましげに、いいなあ、と呟いた。海底を散策するなどというミッションは、彼女の知的好奇心をくすぐるに違いなかった。
しかし他にも見るべきものはある。時折り、蒼白い巨大な水柱を噴きあげる間欠泉や、そのそばを通り抜けて航跡を残す、トランジット・スチーマーラインの鮮やかな船舶など。二人は、ヴィクトリア時代の水晶宮を思わせるガラス張りのドームを張った、潜水艦の修理工場を左手に掠めながら、充分に足元に注意して階段を降りて、カルデラ湖を一望できるドックに辿り着いた。海面の真上に設置されているために、板張りになっている床の下からは、絶え間なく緑青色の海水の洗う音が聞こえてくる。湖は眼前広くを小刻みに波打ち、何か得体の知れぬ怪物が、海底に眠っているような気もした。酔った顔には心地良いらしく、カメリアは涼しげに目を閉じ、透明な夕風に身を委ねていた。汐風がばさばさと吹き荒れる中、水面はいとも簡単に乱れて細波を狂わせ、故人のこよなく愛した潜水艦、停泊して鈍い銅色に光らせるノーチラス号の複製に、ちいさな飛沫をかけた。ドックは、クルーたちに軽食を出すテラス席のカウンターとなっていて、ヴォルケイニア・レストランよりもざっくばらんに、愚痴や労いも含めて交わし合う声が聞こえる。デイビスと同じように、昼からビールを飲み干す者もいれば、今季の海藻の出来がどうのこうのと、肩を回しながら愚痴をこぼす者もいる。時々、クルーを呼び出す店内のアナウンスも独特で、地熱エネルギー用のバルブの解放だとか、海藻収穫装置の動作テストだとかを、緊張感のある声で逐一報告していた。部外者の立場であるデイビスは、なるべくテラスの端の方に寄りながらも、火山と絶海の狭間に生きる彼らの生活を興味深く観察していた。
ところがカメリアといえば、目の前の全てが面白くて仕方ないらしく、あちこちに分身したかのように見て回っていた。どこを見つめていても、いつのまにかちまちまと視界に入ってくる。
「でいびす、でいびす。かんけつせんだわ」
「でいびす、でいびす。せんすいかんよ」
「でいびす、でいびす。おかねがおちてる」
「いちいち報告しなくていいから。大人しくしておいてくれ」
果てしなく語彙力が退行してゆくカメリアを鬱陶しがりながら、デイビスは投げやりに答える。首輪でもつけておきたい気分だった。
「でいびす……」
「何だよ。また何か見つけたのか?」
また叱られると思ったのか、彼におずおずと切り出すカメリアに、デイビスは溜め息をついて振り返った。
「あそこ……」
巨大な巌のごろつく、この世のものとは思えない奇観の数々。死の灰を撒き散らす火山——その岩肌にも、僅かに生き延びられる種類があるのか、黄色い花が一輪、鮮やかに風に揺れていた。金鳳花だろうか。峻厳な火山の岩肌においても、そのほんの僅かな色合いだけで、生き物の少ないその島にも、春の気配が忍び寄っていることを感じさせた。
「……ああ。綺麗だな」
何気なく称賛の言葉を口にすれば、カメリアの周りにぽぽぽっと、ちいさな花が咲き誇ったかと思うと、嬉しくてたまらないように、頬を綻ばせて歓喜の笑顔を向けた。彼に褒めてもらえれば、他には何もいらないといった表情だ。全身で幸せを表現して彼の同意を祝福するカメリアは、デイビスにとっても、なんとなく憎めない存在になりつつある。
(彼女っていうよりは、犬の相手してるみたいなんだよなあ。俺にやたら懐いてくるのも、シッポ振ってるポメラニアンみたいだしなあ)
他人を犬に例えるのはどうかと思うが、カメリアはまさしくそれだった。全身で、構ってほしい、と訴えかけているところなどが特に似ている。酔っているのというのに、なぜこんなにも元気でいられるのだろうかが分からない。それでいて、足取りが危なっかしいのは少しも直らなかった。
「ああ、もう。面倒な奴だな。どうしてウロチョロしたがるんだよ」
誤ってカルデラ湖に落ちないようにと、デイビスがカメリアの二の腕を掴む。ちょうど、翔け抜ける鴎の声を聞いて、海を満杯に胸に浴びせられたような、楽しげな顔をしていたところだった。
「かもめ!」
「はいはい。凄いねー」
「すてきだな。わたしもいつか、あんなふうにとべたらいいのになあ」
羨ましい、というのを通り越して、感動にまで達していそうな声。ここにくる前、フライヤーは雲海のさらに上空を飛んだ——鴎とは比べ物にならないほど高くを飛翔したはずだが、それでも彼女の憧れは休まらないのだろう。考えてみれば、自然界には様々な飛び方がある。蝶のようにひらひらと、隼のように悠然と、イルカのように水から自由になったり、草原を跳躍する偶蹄類までも。そのすべてが彼女には輝かしく映り、その夢を駆り立てる原動力となっていたのだった。
「でいびすは、そらがすきなんでしょ?」
彼女は、振り向きざまにデイビスに訊ねた。酔っている彼女を支えようとしていたせいで、思ったよりも顔と顔の距離が近く、鼻先を突き合わせたような格好になる。
「ああ。好きだよ」
「わたしも。……わたしも、だいすき」
彼女は、綿毛を乗せる柔らかな風のように、目を細めてふわりと笑った。そのまま、風の音に耳を澄ませるようにしばらく動かなかったが、やがてふたたびデイビスを見あげて、
「ねえ。どうしてすきなの?」
と問いかけた。
デイビスの胸を、懐かしい記憶が掠めた。覚えず、薄い微笑を口元に引く。父や母からも、小さい頃によく聞かれたものだった。あなたはいつも空の絵を描き、空の図鑑を読み、旅行に行っても空ばかり見上げている。何があなたを、そんなにも惹きつけているの、と。そのたびになぜ好きなのかの理由も分からず、空は高いから、いつも天気は違うから、と愚にもつかないことを挙げていた。そんな幼年時代の思い出が、遠い手触りとともに掘り起こされる。
「分からない。でも、物心がついた時から、ずっと好きだったよ」
デイビスがそう告げると、ゆるり、と彼女の瞳がまたたいて、大きな想像を膨らませたかの如く睫毛を震わせた。ちゃぷ、と水音がして、海の流れがドックの柱を洗う。風が大きくなってきたようだ。しばらく彼女は、彼の後ろに広がる何かを見ていたが、やがてようやく思い当たったのか、風の中に溶け入るように透明な表情で、
「すてきね。あなたのきおくには、いつだってそらがあるから、そんなにもおおらかなこころをしていて、やさしいのね」
と微笑んだ。
一瞬、誰のことを話しているのだろうと、デイビスの理解が止まった。けれども、彼女は俺としか会話していないのだ、と思い直し、その眼差しが自分にそそがれていることを自覚する。カメリアの眼の中には、強張った表情をした自分の姿が映り込んでいた。
その言葉には、聴き慣れない、居心地の悪い響きが絡まっていた。ちぎれた首飾りのような——地面にばらまかれた珠のような。何をどうやっても、事実も意図も繋がらず、何を根拠にしたのかも、それを言って何をして欲しいのかも分からない。
「———優しい、なんて。どうしてあんたが、俺にそんなことを言えるんだ?」
だからこそ、彼は訊ねる。茫々たる風の中でぶつけたそれは、どこか警戒と、脅えた声色を含んでいた。
「ちがうの?」
カメリアは少し困惑し、首を傾げて彼に問い返した。
「それは、他人と比べてそう言っているのか」
「ううん、べつに。いいひとがなんにんいても、あなたのやさしさはかわらないもの」
「そんなの、おかしいだろ。何の道理にも基づいちゃいないだろ。第一、優しいなんて、今まで誰からも言われたことなんかない」
「それじゃあ、みんなこころのなかでおもっていたけど、いわなかっただけだよ。あなたのやさしさにきづかないひとなんていないもの」
おそらくは、他人に好かれようとして口にした礼讃ではあるまい。彼女が何かを賛嘆する時は、考えるよりも先に、霊感の赴くがまま、感じたままを舌に載せて、言葉をつらねているようだった。
甘言だとか。
善良に思われたいとか。
好意を返してほしいとか。
そういった自意識を空っぽにして、本当に嬉しそうにそれを伝えようとするので、彼も一瞬、それを信じてしまいそうになる。まるで、彼女は真実を語っているのではないか。自分の目に見えない何かを、彼女が代わりに見つめてくれているのではないか、と。
「でいびすのやさしさは、でいびすのもっているなかでも、いちばんのたからものだね」
カメリアは、ひなたの匂いのする柔らかな髪を風に躍らせて、にこっとデイビスに笑いかけた。豊かな微笑みを浮かべた、その奥底の感情。嬉しさ、期待、友愛、歓び、——それ以外、何が渦巻いているのだろう? デイビスの眩しいほどのシャツの白を反射して、その眼は恐れも、躊躇いもない。彼女とそうして見つめ合うと、どこか遅々として時間は進み、そしてぼんやりと麻痺しているように感じられる。
デイビスは、微かに眼差しを揺らめかせたが、やがて耐えきれなくなったように目を伏せ、彼女から視線を外した。それと同時に、カメリアが身動ぎした。ずっと寄り添っていたせいで、暑苦しくなったらしい。支えようとするデイビスの胸を押して、ふら、とカルデラ湖へ向けて足を進める。飛び込んだりしないだろうか、と一瞬緊張が走るが、彼女は眼下の湖でなく、その上に広がる大空にだけ目を奪われているようだった。黄昏で薄黄色く霞んだ空は、柔らかに雲の反射になみされ、劇的な光も影も、陽射しのうちにはるけく透過させていた。
取り憑かれたよう、とは使い古された表現だが、それでもその時のカメリアの様子は、それ以外に形容の術がなかった。逆光が、彼女の進む先から降りそそぎ、烈しい光の粒を散乱させていた。衿を打ち震わせる風のうちに立っていて、まだどんな言葉にも穢されていない世界の始まりへ、ドレスを翻しながら吸い込まれてゆく——まるで、神に誘われるかの如く。
その姿は、狂気に彩られた啓示者のようである。緊迫の影と風格に支えられながら、無限の欝金の空へと落ちてゆく。いや、歩いている。舞いあがる。汐風に激しくはためくドレスは、窓を開けて大きく迎え入れた黄昏の、最後に揺るがせる淡い帳のように見えた。
そして、彼女は睫毛をあげる。
真っ白に網膜を灼く陽の光に、一瞬ひるんだように目を細めた後、ふたたびゆっくりとその瞼を押しあげてゆく。ねばつくような空気の嵐の中、陽光は力強く、官能的だった。あたりは渾身の虚空ともいえる衝迫に満ち満ちて、風音は反響の如くわだかまり、ばたばたと揺るぐドレスのはためきが映える。
酔った頭を抱えたまま、英語で物事を考え続けるのが限界だったのか、突然、彼女は故郷の言葉で、
「Perché, Papà?」
と空に向かって囁いた。
イタリア語は、天使に対して語るのが良い、と言われるほどに叙情的な言語だが、それが風の中で謳われると、どこからともなく湧き起こる大自然の語り部のように聞こえる。ほのかに乾いた頬に髪を躍らせ、ふくよかな唇で、カメリアはあの日の問いかけを自身に囁き続ける。
「Perché il mondo è così bello? Perché l'essere umano è così meraviglioso? Voglio sapere. Voglio solo sapere. Per questo motivo, sono vivo.」
一編の詩の如く、軽やかな口から紡ぎ出る、この世への混じり気のない讃嘆。
新しい羊皮紙に新しい声のインクで筆記されてゆく、広大な世界に記された、たったひとつの不可思議。それは彼女の知的好奇心を、帆のように煽った。数多くの文字も、数多くの計算式も、すべてがその白紙の膨大な空白を埋め尽くすために費やされたものだった。
それは、大海原の前に立った、ルネサンス時代の人文主義者のよう。人類が限りない期待を湧かせて、潮風を待ちわび、船が滑り出す瞬間を限りなく切望した、あの歴史の一枚絵に酷似している。
世界は、ひとつなのかもしれない。
海を超えれば、別の世界があり、やがてそれはひとつの大きな空の下へと繋がってゆくのかもしれない。
そのことに気づいた人間たちが生み出したのは、もはやひとつの言説では抱えることのできない、「人類」という壮大な概念である。
さまざまな人生の旅路を歩んでゆく、文化も言葉も環境も人種も違う人々との交わり。それをカトリックの思惑一色に塗り潰そうとした後の展開は、途方もない悲劇だったとしか言いようがないが、しかしその膨大さと豊饒さへの立ちすくみは、今なおも人々の心を眩惑してやまない。世界は、広い。世界は——美しいのだと。
フィレンツェやシエナも及ばないと言われるほどに華やかな美術を極め、今なおも藝術家を数多く産出するルッカに生まれ落ちた彼女は、その貴族の血に、深く創造的な精神を受け継いでいる。世界の荘重さに胸を打たれた人々が、こぞって想像力を刻み込んだ街に生き、数百年前の神聖な気風を吸い続けたイタリアの地。その伝統のうちには、今なおも世界に驚嘆する人々の歓声が息づいていた。彼女には、かくも生きる者たちを熱狂させる森羅万象の創造主の真意が、この夕刻の下では、すぐ鼻先まで突きつけられているかの如く感じた。
「————Voglio volare via.」
狂おしいほどの願望をただ一言に載せて、彼女は黄昏の空に天上的な眼差しをそそいだ。絡まる鳶色の髪が、透き通った飴のように、彼女の頬に細い影を落として揺れていた。
デイビスはイタリア語を知らない。それゆえ、彼女が何を自分自身に問いかけているのかを理解することは不可能だった。
ただ、彼女があまりに恍然と風に身を委ねているので——正直に言えば、我を忘れていた。彼女の魂全体が、誰にも汚されることのない感情で、洗い流されているようで。
が——彼女に目を奪われるのも、そこまで。
こてりと、肩に頭を凭れさせると、そのまま、カルデラ湖を遮るデッキの手すりに、ずるずると寄り掛かっていってしまう。
「お、おい」
慌てて、カメリアを助け起こすデイビス。腕を掴んで立ち上がらせようとするが、力が入らないらしい。
「どうした。電池切れか?」
「うー」
「下手にふらふらと歩くからだ。じっとしてろって言っただろ」
「じっと、してた」
「本当かよ……」
言いながら、先ほどまでの不可思議な昂揚が、ゆっくりと重力を取り戻して体に落ち着いてくるのを感じる。馴染むように消えかかってゆくのを実感して、一番に覚えた感情は、安堵だった。それとともに、くたり、と物も言わなくなったカメリアの顔を覗き込む。
嘔吐はしていないし、顔色も悪くはない。ただ眠くなっただけか——と判断して、空を仰ぐように力を抜くと、覚えず息をついた。元より、たった一杯にも満たない酒を飲んだだけだ。それなのにこれほどまでに心配しなくてはならないのは、いかに彼女が今まで意表をつく言動を見せてきたのかを思い知るようだった。
「大丈夫ですか?」
座り込んでいる彼女を見て事態を察したのだろう、一人のクルーが、ギャレーの椅子から立ちあがり、彼らに近寄ってくる。やや目つきの鋭い、狐顔の中性的な男。水中農園の誇りを意味する青緑のコスチュームに身を包み、赤の切り返しとNマークのついたハンチング帽を被る姿から、恐らくは海底がその仕事の担当範囲だと思われる。
「すみません。連れが、悪酔いをしてしまって」
「ひょっとして、紹興酒を飲まれました? この島のものは、ネモ船長の舌に合うように調合した当時のままですから、通常のよりもかなり強いんですよ」
「げ、そうなのか。ごめん、カメリア」
「奥様は、大分と酔いが回っているようですね」
「いや、俺たちは夫婦なんかじゃ——」
「でいびすは、かめりあの、おっとでしょー!」
何やら訳のわからない呟きに、顔から湯気が出るデイビス。しかしそのクルーはといえば、カメリアが唱えた別の言葉に引っかかったらしい。彼を指差し、
「デイビス」
そして、酔い潰れて赤らんだ彼女を指差し、
「カメリア」
「な、なんだよ。こいつの言っていることは、全部でたらめだぞ!」
「失礼、私はネモ船長の遺言を代々預かっているクルーでありまして。生前の彼から、お言付けがございます」
あまりに当然のように紡がれるその言葉に、デイビスは困惑した。ネモ船長など、会ったどころか、会話したこともない。神秘の島に纏わる伝説として、偶然に耳にしていただけだ。
「そもそも生きていた時代が違うんだから、俺と知り合いな訳がないだろ。彼はもう故人だし」
「しかしネモ船長はあなたのことを、親友と」
「会ったことない奴と、友達になんかなれやしねえよ」
「本当ですか?」
そのクルーは、どこまでも透き通る氷のような眼で、彼を見つめた。
「ネモ船長の故郷は、インドだったのです。その故国を捨てて、ここに棲みついたのですよ」
デイビスは驚いて、クルーを見返した。
……
「これに、心当たりはありますか?」
マグマ・サンクタムの中に設えられた薄暗い研究室で、シックに磨き立てられた机の抽斗から、ひとつの貴金属をクルーがつまみあげる。音もなく差し出された彼の掌の上には、ちいさな指輪。嵌め込まれている赤い石は、僅かな光量を吸って、血のように奥深く照り返している。
デイビスはソファに座ったまま、その宝飾品を受け取り、静かに眺めた。
「ダカールの、指輪です。俺たちが霊廟の前で拾った」
「私どもは、その言葉を待っていました。本当にずっとずっと……長年に渡って」
クルーは深く息をつくと、彼に背を向けて、懐からマッチを取り出し、軽い音を立てて擦った。
茫、と燃えあがるちいさな炎は、洞窟内に朧ろな明かりを齎らした。その明かりが原因で、長い間その研究室に安置され続けると見える故人の調度品が、その姿を闇から浮かびあがらせる。ランプや、液体の干からびたフラスコ、植物の標本、クリスタルの原石や積み重なった書物、夥しい手記や筆記具、様々なホルマリン漬け、それに今はもう点くことのない豪奢なシャンデリアが、妖しい光の下に煌めいた。クルーやデイビスの顔立ちにも深い影が落ちて、瞳には揺らめく光源を映し出している。
カメリアはくたりとなって、革張りの古いソファに腰掛けるデイビスの肩へ、己の頭を軽く凭れさせていたのだが、閉鎖的な空間の中で火影が眩しかったのだろうか、微かな声を漏らして身じろぎした。その目蓋に光があたらぬようにと、目許に手で覆いを作ってやりながら、デイビスは指輪をクルーの手の中に返した。クルーはそれを受け取ると、音を立てずに机の上に置き、次いでマッチの炎を葉巻に点じて、
「ネモ船長。あなたのご友人が、やってきてくださいましたよ」
そう囁きながら、故人の愛用していたらしい灰皿に立てかけた。静かな紫煙が部屋に立ちのぼった。沈黙して葉巻の煙を見つめるその肩が、微かに歔欷に震えているようにも見える。彼は、代々遺言を預かってきたと語っていた——恐らく、それを受け継ぐための長い交流と責任が、その胸に思い出されてきたのだろう。
そして彼は、一番上の抽斗の二重底を持ちあげると、長年そこに封じ込まれていた手紙をデイビスに差し出した。それはかなり古めかしく、年月に伴う汚れも付着していて、すでに書かれてから何十年も経っているのだろうことを感じさせる。Nの印璽を施された、赤い封蝋——それを慎重に開封したデイビスは、埃に満ちた臭いとともに、便箋を広げて読み始める。
『デイビス博士
私のコレクションである膨大な蔵書の海のうちに、いつかあなたの名前が見つかるのを待っていたのだが、一向に見当たる気配がない。あの時の、「これから有名になる」という誓いが嘘だったのか、それとも「自分は未来人だ」という言葉が冗談でなかったのか、どちらかは分からないが、おそらく心の親友であるあなたに再会できる見込みのないまま、私はこの世を去ることになりそうだ。
もしかしたら、あなたは、「ダカール」の名で私のことを探していたのかもしれない。しかしもうそんな人間は、この世には存在しない。改名したのは、私はすでに追われる身だからだ。
私はインド独立戦争を計画し、中心人物として名を轟かせたために、身代わりとして父母や妻子を殺された。私が戦士から学者へと変わった時、その呪われた名を捨て去った。無論、英国からの追手を逃れるためが一番の理由だが、その一方で、もう私をダカールと親しげに呼ぶ者はこの世にはいない、みな私のせいで処刑されてしまったからだ、と考えると、このままのうのうと生きてゆく自分が辛抱ならなかったためでもある。
家族が皆殺しにされたのは、私の責任ではない。英国との闘争の、そしてインド独立の尊い犠牲となったのだ。そう思いながらも、彼らの優しく話しかけてくる亡霊が、心の中から消えない。私の何の責任もないというなら、では彼らには何の責任があったのか? 私の家族以外の戦士たちもそうだ。荒れ狂う銃弾に蜂の巣にされた者、剣で血塗れに刺し貫かれた者、目隠しをして大砲で処刑された者。誰が彼らの死を償えるだろう。みな、自分たちの人生の主人公であり、全ての人間が兄弟だった。しかし時代は、その事実を認めることなく、人々を殺戮のうちへと呑み込み、彼らの生涯を一文字たりとも残そうとはしなかったのだ。
私は過去の亡霊である。未来はあまりにまばゆく、重く、私の手に汗をかくようにのしかかる。私は、唯一私と生涯をともにしてくれたノーチラス号とともに、死んだように生き、生きながらにして屍にならなければと思った。三十年もの間、私は孤独の墓場の中を彷徨った。私の心を満たしてくれるのは、この生命を持たない海底探査の相棒と、舷窓から見える紺碧の海だけだった。
しかしそのようにして過ごしていたある日、ふと、あなたから聞いた未来の街の話が、脈絡もなく私の胸によみがえった。軍事もなく、身分の差もなく、みな平等で、学者として自然の研究を重ねていると。夢か真なのかは分からない。けれども、その想像だけは、初めて苦痛もなしに、あるべき未来として頭に浮かんできた。そしてその想像のうちに、あなたが毎日、研究の傍らで書物に目を通し、科学者の名に目を走らせている姿も思い浮かんだ。不思議なことだ。あなたが私の功績を探すという、ほんの些末な光景が、以降の私の生涯を分岐させることになるとは。
このまま海中を彷徨して死ねば、あの日、私に夢を与えてくれたあなたに嘘をつき、そして私はあなたの人生の貴重な時間を奪うことになる。換言すればそんなところだろう……しかし、なぜ家族への罪の意識よりも、その思いの方が勝ったのかは分からない。ひょっとすると、家族はすでに過去の人間だが、あなたはこれからを生きる人間だからかもしれない。そして私は、あなたも知っての通り、元来から非常に生意気で負けず嫌いだったので、あなたのような行きずりの人に失望され、 "夢を叶えられなかった人間"として処理される事態に、大いに反発しようとした。海底から引きあげた葡萄酒を煽りすぎたのか、それとも、遅れに遅れた反抗期だったのか——軽口はさておき、私は持てる知識と技術のすべてを、私を慕ってくれるクルーたちに託し、彼らが彼ら自身の力で道を切り開いてゆくことを望んだ。老人である私にはできなかった、未来を見つめるという行為も、これからの可能性に溢れる若者ならできるのだから。そうして繰り返し、繰り返し希望を手渡すことで、あなたが昔年の日に語った未来の場所に、いつか人類は辿り着けるのかもしれない。海の冒険も、空の冒険も、地中の冒険も、私とは違った方法で、それこそ胸を掻き乱し、永遠の少年の夢を追いかけるようなやり方で。
故国は、いまだ闘っている。私は、沈没船から引き揚げた金貨で独立運動を支援し続けたが、今となってはそれすらも正義であったのかは怪しい。しかし、気運は終わらない。終わってほしくないとも思う。これからもインドでは、様々な人間が死ぬ。不条理と怒りに打ち震えて。私は、その事実とどうしても和解することができない。臨終の近づいてきた今も、生きることは耐え難く私の肩にのしかかっている。
もしも、未来が犠牲をともなって前に進んでゆくものだとすれば、その償いは如何にして払えば良い? 私は正しかったか、間違っていたのか? 犠牲は、その後の進歩によって、正当化されるものなのか? 私は、どのように未来の人々に裁かれるのだろうか?
私の死体は、ノーチラス号とともに海に沈めるように頼んだので、あなたがもう私に会えることはないだろう。ミステリアス・アイランドに、よくぞ来てくれた。私が亡くなった後も、自然の驚異に溢れるこの島を愛してほしい。
追伸
カメリアの名は見つけた。まさか彼女が、これほどまでに高名な科学者だとは思わなかった。
子どもであったがゆえに、彼女の言葉をあの時は理解することができず、無礼を働いてしまったが、彼女が生涯に渡って置かれていた境遇を知って、ようやくすべての糸が繋がった。もしあの頃と同じように、そこにカメリアがいるなら、伝えてほしい。「私を許してくれ」と。
追伸2
ついでで悪いが、アメリカン・ウォーターフロントのニューヨーク州パークプレイス一番地に、私の関係者が居住している。
もしもそこに行くことがあったら、同封している手紙を渡してくれないか。無駄かもしれないが、念のため、私の最後の思いを彼に伝えておきたい。
3/7 1891 Capitaine Nemo』
「——って、オイ」
「おや。手紙の中に、手紙があったのですね」
追伸まで読み終わったデイビスは、その封筒のうちに同封されているもうひとつの書簡を取り出した。そこにも赤い封蝋が施されているがために、どう見ても外の封筒から透けている。
「気づけよ、そのくらいッ!!」
「他人の手紙を勝手に開けることは許されませんので。プライバシーの侵害になります」
「あーあー。こりゃ手紙の宛名の奴も、もう死んでんだろ。同封されてから相当な年数が経ってるぞ」
「そうでしょうねえ」
「そうでしょうねえ、って……他人事だな、あんた」
もっとこう、感情ってもんを見せてくれよ、と困惑するデイビスに、平然とクルーが言葉を返す。
「私めが仰せつかっているのは、親友であるデイビス博士に、手紙を届けてほしいという依頼だけでしたから。その同封された手紙は、たまたま思い出して入れただけではないでしょうか?」
「まあこの書きぶりから察するに、結構どうでもよさそうだよな……」
「ああ、あなた様に託されているのですね。それでは、我々が手出しする範疇ではございません」
「……要するに、面倒くさいんだろ?」
「あなたはよく人の心をお分かりになる。さすがは船長のご友人です」
褒め言葉で粉飾して、体良く自分に降りかかりそうなタスクを握りつぶそうとするクルーに、なかなかいい性格しているな、こいつ、とデイビスは値踏みする。
手紙を懐に仕舞う彼を横目にしながら、クルーはふと、人形のようにデイビスに凭れかかり、いつになく物静かなカメリアに視線をそそいだ。
「お連れ様のほうも、起こしましょうか」
「いや、いいよ。体調が回復するまでは、寝かせておいてやってくれないか」
「それは、ミステリアス・アイランドの科学技術を甘く見た発言としか言いようがありませんね」
クルーの片目が、キラリと光る。
「我々どもの開発した技術を、ぜひポート・ディスカバリーの方にもご覧いただきたいのです。この島に来た志願クルーは、よく酒の強さを見誤って、ギャレーで酔い潰れる。それに困惑した我々は、研究に研究を重ね、あるひとつの結論に辿り着きました」
「というと?」
「見ていてください」
彼はそばにある研究用の薬棚から、シャーレと小瓶、ピンセット、それからこまごめピペットを取り出した。シャーレの中には、やたらとフリルがついた深緑の藻類が、照明を浴びてうにょうにょと動いている。あれ、海藻って動物だったっけ、となんだか嫌な予感がした。
クルーは医療用のゴム手袋をぱちりとはめると、生きた海藻をピンセットでつまみあげ、問答無用で、カメリアの口に押し込んだ。
「酔い覚ましには、海藻です」
「むっ!?」
「口の中に、この品種改良した海藻を詰めまして」
「ぐむむむむむむむむむむむむむむむむむむ」
「そこで、海藻エキスをひと垂らし」
「ふぐうっ」
「仕上げに、鼻を十秒ほど摘めば文句のつけようがございません」
じたばたと暴れるカメリアの口と鼻を塞いで、完璧な手管で施術するプロの手腕に、デイビスは呆然とせざるを得なかった。
すまんカメリア。あんたって、ギャグのためにいつも体を張ってくれてるよな。ほんと助かってる。
けほこほけほ、と涙目になってむせながらも、彼女は正気を取り戻したようだった。若干、磯臭い異臭がする。
「おー。おはよう、カメリア」
「お、おはよう。私、あなたに何か変なこと言ってた?」
「別に。何も言ってねえよ」
無意識のうちにあれだけ擦り寄ってきたのかと思うと、なぜか若干、照れる。よかったー、と胸を撫で下ろすカメリアを見て、この後ろめたさだけは、墓場まで持っていこうと思った。
「ダカールが、あんたに『許してくれ』ってよ」
「へ? どうして?」
「この秘密基地は、ダカールが老人になってから造られたものなんだって。昔、あんたに無礼を働いたのがずっと心に残ってて、悪かったって言ってる」
ダカールの境遇については口を噤んだ。彼の行く末を憂虞していたカメリアには、その生涯はより深く胸に刻まれるはずだ。余計な重荷は背負わせなくて良い。
「そっか。ダカールは大人になっても、あの頃の夢を持ち続けたままでいたんだね」
その言葉で初めて、研究室の雰囲気が、少年時代の彼が創りあげた秘密基地の雰囲気と似ていることに気づく。鉱石への憧憬、アンティークや赤茶色への愛好、乱雑に積みあげる癖、大小構わず研究材料を所狭しと並べ、しかもどこか美学を感じられる。ただ、故郷のインドの痕跡だけは、注意深く消してしまったようだった。完全に科学的な観察対象にのみ絞られ、あの瞑想的な空気はどこにもない。
たった一日で、忽然と、あの少年が姿を消してしまったような。
何もかもが、おとぎ話に過ぎなかったような、そんな錯覚を受ける。
煙を燻らせていた葉巻は、ちょうど燃え尽き、すべてを灰塵に変えて、灰皿の上にその残骸を横たわらせていた。
……
「この火山に、プロメテウスと名付けたのは、ネモ船長です」
暗い洞窟の研究室を出ながら、クルーは目を細めて二人に語った。空には桜色の雲が散って、季節の彩りの少ないこの島に、微かな春を届けている気がした。
「プロメテウス火山と科学技術との調和が、彼の一番の関心事でした。彼は毎日、あの皺だらけの指で冷えた溶岩を撫でていたそうです。それに何の意味が込められていたのか、時代を違えた私にはもはや分かりませんが——おそらくは、火山のうちに秘められた情熱と対話していたのでしょう」
言って、クルーは遠い眼差しを、その火口に向けた。微かに白煙が靡いている——今でも時折り、噴火することがあるのだと、クルーはそう語った。その一瞬は、島中の人間が思わず手を止める。そして、激しい轟音と灼熱の炎、粉塵を見つめるうちに、それがネモ船長の生前の魂を象徴するかのように思え、みな沈黙して祈りを捧げるのだと。
デイビスの故郷、ポート・ディスカバリーにもまた、プロメテウスという名を冠する山があった。しかしあれは死火山だ。今は穏やかな苔と美しい高山植物が繁り、目にも暖かな景観を添えているはずである。別の山が同名を分かち合うなど、通常はありえないはずだが、それでもこの島は国家と認められていない以上、正式に名付けられたものではないのだろう。そう思うと、この過酷な環境を備えたこの険しい火山も、どこか孤独な、打ち捨てられたような様相を帯びているように見えた。
「火山は生きています。時折り、激しい溶岩を滾らせた噴火活動を見せますが、それと同時に、内部は驚くべき美しさで満ちている。水晶は音響を奏で、きのこは巨大に育ち、風のトンネルや、火の湖、大聖堂、黒曜石の滝、軽石の橋など、我々の想像も及ばない、未知の世界を秘めているのです。
海も同じです。数々の嵐に沈んだ船、海賊に襲われた船、幽霊船と謳われた船。それらは遙か奥底の墓場に眠り、深海の生き物を棲まわせながら、かつてこの世を彩った失われた大陸の宝物を、今は誰の目にも触れぬ深さで輝かせ続ける。そこには謎と伝説、そして哀しいドラマが無数に横たわっている。
ネモ船長は、我々には恐ろしいとしか思えない世界も、一歩踏み入れば素晴らしい価値を湛えていることを知っていました。彼はこの島で孤独に生を終えたと、クルーのみなは言うけれど。……けれども私には。ここが、彼の夢のたゆたう跡地のようで」
そう言って、彼は口を閉ざした。ちょうど、あかあかとした夕日がプロメテウス火山を染め抜き、真っ赤に照らし出された岩肌に克明な陰翳を刻みつけながら、トワイライトの大空との激しい対比を彫刻しているところだった。
時を超えてもなお、故人の面影は生き続け、賛同者らはその遺志を継ぎ、科学の発展という使命を担う。遠くから響いてくる削岩機の音も、風洞に当たって聞こえるらしい自然風の呻き声も、カルデラ湖から絶え間なく昇る泡立ちも、おそらくはネモ船長が耳を傾け続けてきたものだ。そうして、その神秘の島は依然として、過酷な自然への讃仰を失ってはいなかった。
それまで静かにクルーの話を聞いていたカメリアが、ぷるぷると肩を震わせる。
「……こっ、ここは夢の通り道だったのね」
「カメリア。スポンサーに気を遣わなくていいから」
まあ一応、オチはついたけど、という風にデイビスは両手を挙げる。このまま、ナレーションとともにCMでも入れられそうな雰囲気にまとめられそうだった。
「ダカールは科学者になって、幸せだったのかしらね?」
「さあな。幸せ、とまではいかずとも、何かしら科学に救われるものはあったんじゃないか」
「そうだね。……そうだといいけれど」
「ま、俺たちには分からねえことだけどな」
言って、デイビスは同封されていた手紙を取り出し、裏面を見た。封筒には、「Harrison Hightower III」と宛名が書かれている。
「というわけで、次回はアメリカン・ウォーターフロントか。訪問先はNYだな」
「ニューヨークっ!?」
俄然、目をきらめかせたカメリアが、デイビスに抱きつかんばかりに顔を寄せた。その背中には、やっぱり、ぱたぱたと左右に振られるシッポの幻影が見える。
「……まーた、酔いが回ってるんじゃないか?」
「そんなことないわ。ニューヨークって聞いて、ぱっちり目が冴えたし」
「やれやれ。大都会で勝手に迷子になっても、俺は回収しねえからな」
「うんっ」
うんじゃないだろ、と呆れながらも、嬉しそうに手紙の住所を見つめるカメリアを前にすると否定する言葉は口にできず、よかったな、としか言えなかった。それほど楽しみにしているのなら、また遠征のためにフライヤーも出してくれるだろう。
しかし、考えてみれば彼自身も、その国際的に名の知られた都市を訪れるのは初めてだった。世界中からアメリカン・ドリームを追い求め、青く晴れ渡った港に巨大な客船で辿り着く人々。富める者も貧しき者も、マンハッタンに超高層ビルが立ち並ぶ壮観を見れば、たちまち心を躍らせるのだろう。ブロードウェイ、新聞売り、ホットドックのワゴン。けして眠らぬ街、誰もが夢見る街、すべての欲望が集う街、それがこの場所だ——と。
「素敵ね。自由の国の大都市、ニューヨーク。どんな冒険が待っているのかしら!」
くるくると踊りながらアレッタと戯れるカメリア。いつのまにやら、彼の頭を巣としていたはずのハヤブサは、デイビスをあっさりと捨てて主人の元に帰っていた。
一過性といおうか、束の間の平和だったのか。遠い目で鳥のつれなさを儚みながら、それにともない、別の言葉も思い起こされた。酒に酔った彼女が、彼と真っ直ぐに見つめ合いながら言ったこと。
(あなたのきおくには、いつだってそらがあるから、そんなにもおおらかなこころをしていて、やさしいのね——)
馬鹿な奴だと思った。
能天気な奴だと思った。
どうせ彼女も、すぐに俺に幻滅するさ。目に入れても痛くないほど大切に育てられた、世間知らずのお嬢様なんだろう。
けれども————
——彼女が生涯に渡って置かれていた境遇を知って、ようやくすべての糸が繋がった——
あれほど西欧の人間を憎んでいたダカールが、そう手紙に記述するに至ったのは、どういった理由なのだろう?
彼女は、元の時代には居場所がない、と言った。裕福な生まれで、夢に溢れていて。これ以上、何を恵まれないことがあるのだろう? それとも彼女は、自分に知られたくないことを隠しているのだろうか?
デイビスは、遠くのフライヤーを整備しているカメリアを見つめ、口の中で呟いた。
「カメリア。あんたは一体、どんな人生を送ってきたというんだ?」
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