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お前は『ソウルフル・ワールド』の何が気に入らないんだ


※掲題の通り、本映画に批判的な内容です。


こんにちは。
既に不穏なタイトルですが、現在、動画配信サービス『Disney+』から配信されている、『ソウルフル・ワールド』という映画作品の感想です。ネタバレがバリバリあります。

本記事を書こうと思ったのは、本映画『ソウルフル・ワールド』に対して、あまりに絶賛が多く、その数の圧力が、ある種の人には、しんどいのではないかと感じられたからです。

先に言っておきますが、私が批判したいのは映画の絶賛評ではなく(本当に聡明で、素晴らしい批評ばかりです)、映画そのものです。おそらく、この映画に救われた人は多い。その功績も結果も感想も、まったく否定するつもりはありません。そして、「人生のきらめきは素晴らしい」という、この映画のメインのメッセージも、否定するつもりはありません。絶賛が多いのも、むべなるかな、と思います。

その上で、私の感じる問題は、そのメッセージとは別のところにあります。初めて見た時、私にはこの映画が、究極のディストピア映画に思えました。何度か見直したのですが、それでも、その思いは深まるばかりに感じています。

ディストピアとは

さて、上記で言及している、「ディストピア」とは何でしょうか? それは一見すると、ユートピア的な社会です(というよりも、ユートピアがひとつのディストピアだと言った方が良いかもしれません)。人々は穏やかで、争いもなく、素晴らしい理想的な社会に見えますが、その実、理性的なシステムで徹底的に管理されていて、人々の自由や尊厳が否定され、統率されています。そしてその統率の目指すところは、ほかでもない、住人たちの「幸福」なのです。

本映画作品を観た方なら、もうお分かりでしょう。前述したディストピア社会は、『ソウルフル・ワールド』の「生まれる前の世界」に、人々を統率するシステムは、魂を管理する「ユーセミナー」に、そして、システムの掲げる「幸福」の概念は、本作の「きらめき」なる概念と符合しています。

日常の「きらめき」を伝えるだけなら、何もSFチックな「生まれる前の世界」や「ユーセミナー」など登場させる必要はないでしょう。現に、世に数ある映画は、仰々しいストーリーや設定がなくとも、さりげなくも宝石のように美しい瞬間を描いているはずです。

しかし本作品では、「きらめき」を描くために、わざわざ「生まれる前の世界」と「ユーセミナー」という設定を導入しました。……この二つの存在のせいで、私は『ソウルフル・ワールド』を、どうしても受け入れることができませんでした。

なぜ、製作陣は「生まれる前の世界」や「ユーセミナー」を描きたかったのか? それは自分たちのメッセージが、いかに普遍的であるのかを伝えたかったからだと思います。おそらくは、「眩しい夢」「圧倒的な生き甲斐」を持っていない人々を救うために、より普遍的なメッセージを訴えるものとして、この映画を製作したかったのでしょう。

その心がけ自体は、本当に尊く、素晴らしいものです。けれども私は、このメッセージは、けして普遍的ではないと思います。いえ、普遍的にしてはいけないのです。理由は後述しますが、このメッセージを普遍的であるように取り扱うことは、極めて危険であると考えています。


何がディストピア的なのか

この作品内で描かれる「生まれる前の世界」では、すべての魂が番号で呼ばれており、彼らの個性も、生も、徹底的に管理されています。ユーセミナーが「冷淡」の館に魂を送り込むと、冷淡な人間ができあがるようです。

まず、この設定の時点でおかしいと感じてしまいました。この世に、誰がどう見ても「冷淡」だといえる人間など、存在するのでしょうか? けれどもこの作品では、ユーセミナーが「お前は冷淡だ」だといえば、その魂は冷淡な人間だということになってしまいます。しかも、ジェリーの「(人の個性が)自然に備わると思いましたか?」という言葉から、この先天的な資質は絶対で、環境や努力によっても変えられないようです。人間の精神が、そんなに単純なものなのでしょうか?

そして、どうやら魂たちは、「自分だけのきらめき」が見つからないと、この世に生まれることができないようです。この設定がないと、本映画は瓦解します。なぜって、そうでなければ、ジョーと22番は、わざわざ一緒に「きらめき」探しに必死になる理由がなくなってしまいます。PIXARとしては、反目しあっていた二人が何とか一時休戦して、ともに「きらめき」を探すシチュエーションに持ってゆきたい。その意味では、この制約は、ストーリーになくてはならない重要なルールとなっているのです。

まさしくこここそが、この映画の最も重要な軸であり、私が最も疑問を感じる点です。映画の後半で、ジョーにとって、衝撃の真実が語られます。「きらめき」は、生きる目的ではない。つまり人生に、生きる目的など、なくてもいいのだと。でもちょっと待ってください。そもそも、「きらめき」がないと、魂はこの世に生まれてこれないんでしたよね。他人の人生に「生きる条件」を設けることは、「生きる目的」を設けることと、ほとんど同じなのではないでしょうか? ユーセミナーが、「きらめき」を見出せない魂に「生まれてはいけない」と言い渡すのは、ジョーの信じる「生きる目的」と、何が違うのでしょうか?

……いや、ユーセミナーの場合は、それよりももっと深刻な問題を含んでいます。

なぜなら、「きらめき」を見いだせない魂には、そもそも「生を享けることをシステム的に不可能にしている」からです。生きる目的ですらない。「きらめき」は、生に必要不可欠の絶対条件になっています。それ以外の生の可能性はすべて拒絶され、誰も反抗することができない。そしてその異様さに、登場人物たちの誰も気づかない。これこそが、本作品で一番気になった点です。

本作のヒロインである魂、22番は、「きらめき」を見つけられない自分に、自信を失っている。でも冷静に考えて、生まれてくる前に、生きるきらめきをみつけられるわけがないんです。食べ物を口にする前に、その美味しさを理解するなんて、不可能ですよね? それなのに見つけることを強要され、彼女は長い間、「生まれる前の世界」にとどまり、メンターから新たな教えを受ける。これ、監禁と洗脳じゃありませんか? 彼女が、ユーセミナーに反抗的に振る舞うのは、当然のことではありませんか?

私は、彼女が本当に憤るべきなのは、彼女に独特の価値観を迫る、この異様な閉鎖的空間だと思います。なぜ、「きらめき」がないと生まれてはいけないのか。「きらめき」がないまま生まれたっていいじゃないか。でもそんな魂は、システム的に生を阻害され、生まれることができない。それは、幸福度に注目した「優生思想」と、何がどう違うんでしょうか?

その後、映画は、22番はたまたま地上に生まれる事態に陥り、「きらめき」を見つけます。彼女は、実際に生きてみることで、ようやく「きらめき」が分かった。それ自体はとても素晴らしいことなのですが、自分が生きてみて初めてわかることを、どうして、生まれる前に他人から強要されないといけないんでしょうか? けれどもこの映画では、その点に最後まで触れられません。「22番がきらめきを見つけられて、無事に生まれる準備ができてよかった。生きるって素敵だね」で終わってしまう。物凄い違和感を覚えます。ここには、ユーセミナーが個人の生に介入してくることへの批判がないのです。けれども、もしも22番が、きらめきを見いだせないまま帰ってきたとしても、いったいそれのどこが悪いのでしょう? 自分が生まれるべきか否かを、どうしてユーセミナーのような第三者に判断されなくてはいけないのでしょうか?

私が何を念頭に置いているかというと、この映画、まるで新興宗教のようなプレッシャーを感じるのです。

「今、幸せですか? 生きる目的が見つからなくて、幸せじゃない人もいますよね。でも誰だって、こんな風に人生を考えれば、幸せになることができますよ! 幸せになれない人なんて存在しないんです、安心して!」

こんな風に。
……この言葉が救いになる方もいらっしゃるかと思います。ずっと幸せになりたかった、でもどうすれば幸せになれるか分からなかった……そのような人々には、希望の光のように響くことでしょう。けれども、私は、こう感じてしまうのです。

「幸せになろうがなるまいが、人の勝手でしょ? 他人の人生の価値判断なんて、何の権利があってできるの?」

私は、例えそれが自分を幸せに導いてくれるものでも、他人に強要されるのは嫌なのです。例え絶望の底にあったとしても、そんな風に介入されるのは嫌なのです。究極の自己中ともいえますが、私のような人間は、他にもたくさんいるのではないでしょうか?


幸せな世界の中で絶望する自由

私は、人が生まれるのにも、生きるのにも、何の資格もないと思います。この世には、退屈な人生も、絶望的な人生もある。死に追いやられるほど絶望する自由はある。幸福など、ひとかけらも感じられなかった人生もあるでしょう。しかし、「きらめき」のない人生であろうと、誰に、何を言われる筋合いはない。

それに対して、「誰の人生にもきらめきはあるよ! ほら、歩くって楽しいでしょ? 風が吹くって気持ちいいでしょ? 人は誰だって、幸福になれるんだよ!」と語りかけ、「きらめきのある人生」という価値観を強要しようとする権力の方にこそ、グロテスクさを感じてしまいます。

ロシア人の大作家、ドストエフスキーの『地下室の手記』に、こんな文章があります。長いですが、引用します。

人間にありとあらゆるこの世の恵みを浴びせかけ、ただぶくぶくと泡が幸福の水面に浮かび上がるほど、幸福の中に頭までどっぷりと浸からせてみるがいい。すっかり経済的に満足させ、ただ眠ったり、甘い菓子パンを食べたり、ひたすら世界史を中断させないように配慮したりするより他に、何一つすることがなくなるようにさせてみるがいい。まさにそんな状況のなかでさえも、人間はまったく恩知らずにも、ただ人を誹謗してやろうという悪意から、実にけしからんことをしでかすものなのだ。(中略)自らの奇妙な願望、すなわち最も俗悪な愚行をなんとしても続けたいと望むのも、ただ次のことを確認したいためである(これこそがぜひとも必要不可欠なことであるかのように)。それはつまり、人間は依然として人間なのであり、決してピアノのキーなどではないということだ。

『地下室の手記』ドストエフスキー、安岡治子訳、光文社古典新訳文庫(電子書籍)

例えどのように満たされた幸福のさなかでも、いえ、幸福のさなかだからこそ、愚行を犯し、人間であることを証明しようとする。私は、それこそが、人間の自由なのだと思います。確かに自由は、幸せには直結していないのかもしれない。それでも自由は、人間の尊厳に関わる、最も厳格で、重要な概念なのです。

翻って、この映画ではどうでしょうか? 「きらめき」という幸福を見いださなければ、魂は、この世に生まれてくることができない。これは極めて危険な設定で、「日々の些細なことに幸福を感じなければ、生まれてくる資格などない」と言っているのとほぼ同じではないかと思ってしまいます。

私は、22番が地上で「きらめき」を見つけられたのは、彼女が閉鎖的空間を抜け出して、ようやく、彼女の価値観を阻害されない世界に脱出できたからだと思います。ユーセミナーやメンターからの教育ではなく、初めて自分の見る世界を見出し、自分の力で、それを手に入れたのです。けれどもそれは、「生まれる前の世界」にとどまる限り、けして触れることのできないものでした。つまり、ユーセミナーの支配から抜け出して、実際に生まれてみて初めて、「きらめき」が分かった。ユーセミナーの方が間違っていたのです。

彼女はずっと、外の世界が怖かった。でも実際に出てみたら、外の世界は、自分の思っていたより何倍も自由で、素晴らしかった——この構図、どこかの映画で見たことありませんか? そう、これ、『塔の上のラプンツェル』と同じなんです。

『塔の上のラプンツェル』では、彼女を塔に閉じ込め、自由を奪っている母親が悪役でしたよね。どうして、『ソウルフル・ワールド』では、自由に生まれる権利を剥奪し、魂たちの生管理をしているシステムに対して、批判が入らないのでしょうか? どう考えても、22番を最も苦しめているのは、「きらめきは素晴らしい」という価値観を強要し、彼女が生まれることを許してくれないユーセミナーの人々です。

「最後の枠を埋めなきゃ……」と何度も取り憑かれたように呟く22番。彼女には「自分はだめな奴だ」という劣等感を植えつけたのは、ユーセミナーです。彼らは、社会の価値観に馴染めない彼女を染まるまで、生まれる前の世界にずっと幽閉しています。彼女はまだ「生まれる準備ができていない」という理由で。

生まれる準備とは、いったい何でしょうか? そんなこと、実際に生まれてみる前に、誰が正しく判断できるのでしょうか? 「きらめき」を見つけたら、これから生まれる人生の、何がどう変わるんでしょうか? どうして、生まれることが許されるんでしょうか? 私には、この理由が最後まで分かりませんでした。何より、「今生きている人間は、自分自身で生を望み、生まれることに同意したのだ」と取れるようなこの言い回しは、出生をすべて自己の責任にするかのようで、卑怯であるように感じてしまいます。

結局、人々の生を統率する、このユーセミナーなるシステムは、最後まで打破されることはありません。これからも魂たちは、「きらめき」を強要され続け、それが見つけられない限り、生まれることが許されない。きらめき——要するに、それは幸福です——によって、完全に生管理された社会。究極のディストピアです。それを、普遍的なことのように描くのが嫌なのです。

私ははっきりこう言いたいです。「幸せ」だけが人生じゃない。人には、絶望する自由が備わっています。死に追いやられるほど絶望する自由があり、怒りや、愚かさや、反抗や、生への憎悪に取り憑かれる自由がある。この自由は、例え本人がそれを望まず、苦しめられていたとしても、それでも、その人の尊厳をなんら貶めるものではありません。幸福と絶望を、本人とかけ離れた天秤にかけ、その根本的な価値の部分で測ることなどできない。絶望してはいけない、幸福にならなければならない義務なんて、そんなのどこにもないんです。その自由を奪い去り、ユートピア的な幸福論で逃げ場をなくしてしまうこの作品は、私には、とても息苦しかった。まるで、あなたにもきらめきは必ずある、ないなんて考えるのは怠慢、絶望せずに探し続けなさい、と強いられているのかのようで。

最初にも言った通り、私は、この映画を絶賛する方々を否定するつもりはありません。その方たちには、この映画の「生きているだけで素晴らしい」というメッセージが、真っ直ぐに響いたのだと思います。そのメッセージも、感動も否定してはいません。その点では、多くの方の心を震わせたということで、良作だといえるでしょう。

しかし私には、「生きているだけで素晴らしいと感じられない魂はない」と描かれているように見えてしまいました。メッセージそのものよりも、その描き方に引っかかりを覚えてしまったのです。そこには、人間の「絶望」に対する、ほとんど残酷といってもよい繊細な注意が欠けているのです。

人生における自由は、絶望の残酷さと表裏一体だと思います。そして、息苦しい幸福と、残酷な自由、そのどちらを選ぶかを、第三者が決定してはいけないのです。この映画は、「誰でも幸福になれるよ」というメッセージに集中しすぎて、人間の根本的な自由への敬意が薄れているように感じてしまいました。

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