ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」26.キャプテン・デイビス。あなたの夢は、何ですか?
ホテル・ミラコスタに宿を取って、数日。約束当日の朝を迎える。ゆっくりと目を開け、カーテンを引くと、外では数人の住民たちが掃除を行なっていた。まだ肌寒い黎明の中で、そこここに動き回る人々の影は淡く、爽やかな空気の下を踊るように歩いていた。
メディテレーニアン・ハーバーへ出立する前、急いで荷造りした中でも、それだけは持参しようと決めていた服に着替え、鏡を見る。隣にドレスの女性がいても、違和感はない服装だった。ホテルのランドリーサービスを利用しただけあって、皺や汚れはなく、清潔感が漂っている。鷹のピン・ブローチを見て、迷ったが、結局つけぬままに懐のポケットに入れた。
当日は晴天だった。まだ若いはずの地中海の太陽が、強く彼の目を灼いた。まるで一度限りの生命を刻印するかのようであった。オチェーアノで朝食を摂りながら、窓の向こうの海を見る。蒼鉛色に深い影を織り混ぜて波打つその水面は、早くも朝風を吸って、岸辺へと向かって心地よい波音を立てていた。鴎は、乾いたボートの上を歩きながら、その塩をふいた木材に、時折りその嘴を擦りつけ、特徴的な鳴き声をあげている。舫い綱で繋がれた小舟は、波間に揺られてたまさかにぶつかり合い、軋むような音を響かせる。
ポルト・パラディーゾとは、メディテレーニアン・ハーバー内の「楽園の港」を指す街の通称で、中世の王国の歴史を謳う伝統的なウォーターカーニバルを毎年繰り返すだけあって、とりわけ故郷愛が強く、その地の支柱として支えるのは主に輸送業と観光業、次いで商業が後に続く。ホテル・ミラコスタは、そのようなポルト・パラディーゾ内でも最高級のリゾートホテルで、元来、数百年に渡ってワインやオリーブ農場を営み続けてきた村の大富豪、ザンビーニ家の別荘に対して、おおよそ東から西に向かって増築を重ねることで生まれたものである。海に望む、というその名称が表す通り、ホテルから海岸へは徒歩数分もなく、港側に面したほとんどの部屋からは海が一望でき、純白の砂浜が鮮やかなプライベート・ビーチも存在した。重厚な雰囲気とその眺望の美しさから、特に新婚の夫婦に人気があり、ポルト・パラディーゾの市長が司式者を務め、しばしば結婚式が執り行われた。天空に近い位置で鐘の音が鳴り渡ると、それが式の合図であり、麗しく飾られたゴンドラからアコーディオンやマンドリンの音色が流れ、シャンパンで乾杯し、青空を映し込む海面には、幾つもの紅い花びらが浮かんだ。
この土地を彩るものは海だけではない。地中海性気候の典型であるこの地は、夏は温暖で乾燥した空気、冬は冷涼かつ雨雪を降らし、朝には海岸から立ちのぼる霧が、畑に降りそそぐ直射日光を和らげ、葡萄園を潤いの露で満たす。イタリア半島を縦断するアペニン山脈に掠る丘陵地には、早朝によく目を凝らせば、放牧された黒豚が朝霞の匂いを物珍しげに嗅いでいる姿を見ることもでき、リースリング・リオンやマスカットベリー・Aの植わった葡萄畑は涼やかな香りを響かせ、時折り雇われたらしい農夫が、長靴の下に草を踏みしだきながら過ぎてゆく。その近くには、「葡萄蔓の通り」と呼ばれる低く見晴らしの良い階段を中央に、数え切れぬ黄色や紫の花々が両脇に咲き乱れ(花もまたこの地域で高く評価されている名産品であり、出荷・輸出のみならず、住民たちもまた鉢植えやバスケットで園芸に親しんだ)、重みを感じさせる街灯が、曙の中で火を燈されることなく、その鳩羽色の半透明のガラスを吊り下げており、振り返れば古い橋と呼ばれる、大小様々な夕日色の煉瓦の家を組み合わせた、寄木細工のような橋を遠くに見渡せた。ハーバーを横断してゆく蒸気船の、旅愁を掻き立てる汽笛を反響させつつ、十六世紀に至るまでその起源を遡れる、由緒正しきS.E.A.を誇りに育ってきたこの街は、どこを切り取ろうとも必ず漁村ののどかさが映り込む、まさに楽園の名に相応しい充足が漂っている。一人、窓際の席でこれらの景色を見つめるのは惜しく、誰かとともに朝食の匂いに包まれ、その美しさを静かに語り合うような、そんな光景が似合う気がする。
海の中をイメージしたとされるミラコスタのブッフェ内は、伝統を重んじるこの地域には珍しく当世風で、曲線と斬新さのある鮮やかな色合いが目を惹き、波紋の如く揺らぐさなかに、貝や真珠、泡のオブジェや、海藻を模した柱が浮かびあがる。柔らかな絨毯の上を、まだ幼い子どもが笑い声をあげて走ってゆき、慌てて叱りながら追う父母を見つめ、デイビスはぼんやりと、コーヒーカップに手を伸ばした。
待ち合わせ場所は、ミラコスタと海に囲まれるようにして広がる、現地の最も有名な海沿いの広場、ピアッツァ・トッポリーノにしていた。朝食を終えたデイビスが一歩外に出ると、先ほどよりも通行人の数は増えていて、かやかやとした会話のさざめきが、風とともに周囲に響いた。突然、世界が広くなった気がし、そして、この石畳の上に、自分が知っている人は誰もいないのだ、ということが、奇妙に心細く感じられた。
五月十六日。
本当に、その日がやってきているのか? 日にちも、時間も、間違えて伝えてはいなかっただろうか。そもそも、あいつはちゃんとここまで来れるのだろうか? またフライヤーの操縦を、とちったりしていやしないだろうか? 着いたとして、どこかで迷子になっていやしないか?
積み重ねれば抑えようのない心配に溜め息を吐いて、海と広場を隔てる、黒い鉄柵に寄りかかる。まだ稀薄な空。苦しいほどまばゆい太陽光に包まれながら、花の匂いに溺れ、冷え冷えとした潮風に溺れ、光の中でデイビスは目を瞑った。地面の底から反射する日光もまた、どこか違う場所へと心を運ぶようで、空を翔けるような高揚が伝わった。
通行人にはやはりというべきか、腕を組んだ恋人が多く、ちらちらと彼に視線を向ける人間もいる。変な服装をしているのだろうか? それほど浮いてはいないはずなのだが。
「デイビス、おはよう」
「カメリア……」
待ち焦がれていた声が聞こえたのに安堵し、何気なく振り向いたデイビスは、
かっ、可愛いっ。
と——目にした瞬間に、心臓が激しく暴れ狂うのを感じる。まるでまばゆい蒼穹の光が、目の中に飛び込んできたかのようだった。
陽射しを透かした柔らかな巻き髪の下には、糖蜜のような甘い瞳に、すっと通った、彫りを深く印象づける鼻筋。潤んだ艶を映し込む唇は、薄く飴を塗ったかのように見え、黄金の睫毛にまでその優美な色合いを反射させている。繊細な鎖骨をさらしながら滑り落ちてゆくのは、恐らくはおろしたてなのだろう、爽やかな印象のドレス——動くたびに光り輝くそれは、浅瀬の如く透き通るシャンパンブルーに垢抜け、クラシカルに結いあげられた髪は、ほつれもなく清楚にうなじを露わにし、はらはらと朝露のように編み込まれた白い花々も、揺れ動く耳飾りの煌めきに酔い痴れるかのよう。
顔立ちが、いつもと変わっているわけじゃない。それでも、彼の目には、何もかもが違って見えた。オーラが、雰囲気が、まばゆさが——何より、彼の心臓を乗っ取る、凄まじい勢いの爆音が。
(やばっ——)
赤面して俯く。広場にはたくさんの女性が歩いていたが、彼女以上に目を惹く人間なんていない気がする。
「……ちゃ、ちゃんといい服着てきたんだな。悪くないと思うぜ。まああんたには、馬子にも衣装、というか——」
違う。こんなつまらないことで、また彼女を傷つけてはならない。そう思い出した彼は、つらつらと口から出そうになる戯言を遮って、自分の言うべき言葉に全力で精神を集中させた。
「きっ……」
「き?」
「……………………………綺麗………だ」
何を言っているんだ、俺は、と呆れそうになるが、カメリアは羞じらうような微笑みを向けながらも、小首を傾げて彼の顔を覗き込んだ。
「ねーえ、デイビス?」
「……なんだよ」
「どうして、そんな風に顔を背けるの?」
「あんたこそ、どうして俺の顔を覗き込んでくるんだよ」
「そんなに気に入ってくれたなら、もっと目に焼きつけたらいいじゃない。今日のあなたのデートのお相手なのよ? もっと雨あられと、賛辞を降り注がせてもバチは当たらないと思うけど」
「馬鹿っ、からかうなよ。あんまり俺を見るな」
「デイビスも、素敵な格好よね。遠くから見ていて、一人だけ格好良い人が立っているなあって、ついつい、ひとめぼれしちゃいそうだったもの」
ばたたっ、と彼の持っていた鞄が落ちて、周囲の鳩が一斉に飛び立つ。あら、と独り言のようにカメリアが呟いた。
「かっ、かっ、かっ、からかうなって言っただろッ!!!」
「そうだったわね、失礼。あなたが格好良いのは、毎日のことですものね」
「そういうことじゃねえんだよッッッ!!」
うふふ、と恥ずかしそうに訂正するカメリアに、全力で赤くなって叫んだ。落ちた鞄から散らばった荷物を拾いあげるために、地面に膝をつくデイビス。カメリアは、そのうちのひとつに、付箋だらけのガイドブックが紛れ込んでいるのを見つけた。
いつもだったらそれを嬉しがって、すぐに感謝の言葉を彼に伝えただろう。けれども、彼の払ってくれた陰ながらの努力は、心に仕舞っておくままにした。代わりに、暖かい焔が灯った胸を、ちいさく拳で押さえつける。
まばゆい鴎の声が、背後の海から響いてきて、そこで初めて、いつもはカメリアの肩にいるあの隼の姿が、今日は見当たらないことに気づいた。
「そういえば、アレッタは?」
「うん。今日は、お留守番してもらったの」
「……飛べたんだ。アレッタがいなくても」
「もちろんよ」
カメリアは胸いっぱいに幸福をきらめかせるかのように言った。
「今日のこと、たくさん、たくさん想像したんだもの、飛べないはずがないわ。今日は私が、世界で一番、ドリームフライヤーを高く飛ばせるって決まってるの」
デイビスは何も言わず、少しまぶしそうに、カメリアのはにかんだ笑顔を見つめていた。朝の光の中で、潮騒が大きくなっていった。
「デイビスは、どうやってここまで来たの?」
「ああ。数日前にポルトフィーノに着いて、そこのホテルに——」
「えっ」
頓狂な声をあげたカメリアの意味するところが一瞬で伝わり、デイビスは耳まで真っ赤になった。
「かっかかかかかかかかかか、勘違いすんなよっ!! ポート・ディスカバリーから死ぬほど遠いから、単に寝泊まりする場所をとっただけだぞッ!!」
「あっ。そう、ね。そうよね、さすがに」
ほっとしたように胸を撫で下ろすカメリアに、デイビスは少しむっとして眉を吊りあげた。
「……さすがに、ってどういう意味なんだ、それは」
「別に? 深い意味はなくてよ。ただ、あなたって変に生真面目だから、貴婦人を同じ部屋に誘うこともなさそうね、と思って」
「さっ、誘ったとしても、手を出すとは限らねえだろ。ご覧の通り、俺は紳士だし。ファンだって、全世界にたくさんいるんだ。そこまで相手に飢えちゃいない」
「どうかしら、羊の皮を被った狼かも知れないし。油断していると、哀れ、美女はむさぼり食われる運命——」
「おい! 俺はそんなことはしねえぞ、」
「——そうして胃酸でタンパク質へと消化される前に、颯爽と猟師に助け出された彼女は、お礼に花束をプレゼントしてあげるのでした。めでたしめでたし」
「——って、赤ずきんちゃんの話なんかい」
この肩透かしの感覚。
懐かしいようで、なんだか少し安心する。
……でも、あなたは優しいから、きっとそんなことはしないわ。
ぽつりと、聞こえないように呟いたらしい言葉に、デイビスは胸を射抜かれたように感じた。
信頼、してくれている——
彼女が、自分のことを。
その事実が、じわりと泡立つように彼の心を揺すぶった。嬉しさ、を突き抜けて、栄誉にも似た思いが胸に灼きついてゆく。
「い、行こう、か」
ロボットのようにかくついた動きで、エスコートしようとするデイビス。頭に叩き入れた地図のおかげで、初めての地であるにも関わらず、どこにだって辿り着けそうである。
カメリアは少し小首を傾げると、頬のそばの巻き髪がふわりと流れ落ちて、嬉しそうに綻んでいる笑顔を取り巻いた。髪に、天使の輪ができた。
「うんっ——」
烟るように揺れる緩い巻き毛は、宙に繊細な糸を描く飴細工のよう。ふわりと細めた目には、柔らかなハニーキャラメルが蕩けるように透けて、その華やかな色合いの唇に、無邪気さでいっぱいの微笑みを湛えていた。
可愛い。
可愛い。
可愛い。
死んでしまいそうに全身の血が沸き立っている。彼女が擦り寄ると、ほのかに、彼が好きだと言ったすみれの香りが漂ってくる。なぜか、泣きそうに喉が焼けていた。
とても直視できない。というか、両手で顔を覆って、いったん冷静になるまで、時間を止めてしまいたい。今日一日、本当に耐えられるのか。大丈夫なのか、これで。けれども彼女はすこぶる上機嫌で、潮風に揉まれたまま、深い幸福を噛み締めるように彼の隣に立っていた。ああ——楽しみにしている、と言っていた彼女の言葉は、けしてお世辞じゃないらしい。彼女は、自分のことをきらきらと光り輝く瞳で見つめ、愛情の籠もった眼差しをそそぎ、幸せいっぱいといった表情を浮かべてくれる。こうまで分かりやすく、溢れんばかりの感情が伝わってくるのなら。彼女もまた、今まで想いを秘めようとしていたのかもしれない。そして今日、ようやくその自制心から解放され、めくるめく自由に酔い痴れているのかもしれない。そう考えると、胸の奥が切なさでいっぱいになった。
待っていてくれたのだろう。彼が、自分の感情を受け入れられるようになるまで。
そんな彼女に見守られながら、ずっと葛藤を続けていた自分の、分不相応なほど与えられていた果報に、ようやく気づく。
馬鹿だ馬鹿だ、と己を責める一方で、どうしようもなく思いが募っていった。今度こそ、彼女の期待に応えられるような人間になりたい。自分の心を守るためではなく——彼女に、楽しんでもらえるように。
彼はぶっきらぼうに、片手を差し出した。
突然繋いだら、嫌がられるかもしれない——そんな憂虞のせいで、目を逸らしたままでいるのは如何ともしがたく、そんな臆病さと欲望との妥協点にしか過ぎなかったのだが。
「デ、デートなんだろ。デートらしいこと、させろよ」
憮然としたままそっぽを向いていると、なんとかならないのかな、この性格は、と自分の小心さが恨めしくなる。でも、仮に断られたとしても、よほどの理由があるのだと、今なら信じることができそうだった。そしてそれらをすべて吹き飛ばすように——細い指が絡む。心臓まで、一緒に握り締められたかと思った。そうか、目を逸らしていると、まるでタイミングを掴めないのだと理解する。カメリアは酷く上機嫌に、繋いだ手に力を込めて笑っていた。それがますます彼を追い詰めるようで、触れられている部分が妙にくすぐったく、ふわふわとする。そのこそばゆさに、うっかりすれば、たやすく手を離してしまいそうだった。
「な、なんだよ。そんなに嬉しいのかよ。ただ単に、手を繋いでいるだけだぞ」
「うん、嬉しい。すっごく嬉しい。なんだか、初めて出会った日のこと、思い出しちゃったの」
「フローティングシティか?」
「あの時もこうして、あなたと手を繋ぎながら散策したなあって」
心底幸せそうに言うカメリアに鼓動を跳ねあげながらも、デイビスは、今や遠い昔のように思われる、あの美しい夕暮れを思い出した。
ポート・ディスカバリーのフェスティバルの人混みに揉まれないようにと、手を繋いだあの日。
それでも。もし違うとすれば、彼女の手を握りしめているのは、あの時と違う感情で。
過ぎてゆく人も、過ぎてゆく時間も、まるで胸を掻き毟るように愛おしく感じられた。
「こっちでいいの?」
「ジェラート……とか」
「いいわね。ジェラート大好き」
そのほかに何も、会話がない。沈黙。周囲の恋人たちのさざめきが、痛いほどに胸に響いた。
どーすんだ、俺? 何も話題を用意してこなかったぞ。退屈な男と思われているんだろうか? このまま一日中、黙って終わっちまったらどうしよう?
「ここ?」
「……うん」
「綺麗なところね」
結局、何も話せずに最短距離で着いてしまった。ゴンドリエ・スナック。かつてゴンドリエたちの憩いの場所だった河沿いの街角は、今はイタリアの名物であるジェラートの売り場となっていた。まるで迷わずに辿り着けたのは良いが、いかんせん、メニューがイタリア語である。分からないなりに、デイビスも一緒に覗き込む。彼女は丁寧に指を差して、バニラ、ブラッドオレンジ、ストロベリー、ピーチヨーグルト、と翻訳してくれる。
「あなたはどれにする?」
「……ピ」
「ぴ?」
「…………………………ピーナッ……ツ」
馬鹿にされるかと思ったが、カメリアはからかうこともなく、改めてメニューを見上げた。
「ピーナッツは、ないわよ。甘いものが好きなら、チョコレートとかがいいんじゃない」
「……わ、分かっているよ」
くすくすと口許に手をあてて、カメリアが笑った。
「どれも美味しそうね。私は、ピーチヨーグルトにしようかなあ」
「ああ。俺が買ってくるよ」
「いいの?」
「あんたには、今まで山ほど借りがあるからな」
初期の貧乏っぷりが懐かしいなあ、とデイビスは遠い目をした。あの頃はすっからかんだった財布が、今は驚くほどに潤っている。
カメリアをテラス席に座らせ、カウンターへ行きかけたところで、向こうに行くには、手を離さなければならない——そのことを察し、ふと、言葉にならぬ躊躇いが生まれた。
一瞬、二人の目が名残り惜しそうに絡まった。
デイビスは迷う。向かい合ったまま、なんとはなしに、椅子に座って手を繋いでいる彼女に語りかけてみる。
「こ、ここにいろよ」
「うん」
「ふらふらと、別のところに行ったりすんなよ」
「うん」
「すぐ気になるものがあると、あんたは見に行きそうだから。大人しくしていてくれよ」
「うん」
子どもに言い聞かせているみたいだ、と自分の言動に気づいて、思い直した。もう互いにそんな年齢ではない。
「……待ってろ」
ゆっくりと、手が離れる。
人気の店らしく、列には十人ほど並んでいた。カッコつけて座らせたはいいが、やっぱり、一緒に並ぶんだったな、と考えた。待っている間、少しでも会話できたかもしれないのに。
手持ち無沙汰に困って、ちら、と振り返ってみる。すると、すぐにそれに気づいた彼女は、あの心底嬉しそうな微笑みをふわりと浮かべて、彼の視線に応えてくれた。
胸が締めつけられるようだ。どう立てばいい、とぐらぐらする頭で俯いた時、ちょうど後ろに誰かが並んで、自分の姿を隠してくれたのは、本当に幸運だったと思う。焦れるように財布の口を開き、ジェラートを買う。両手で受け取ると、落とさないように気をつけながらテラス席に駆け寄った。
カメリアは、まだそこにいた。気怠げに頬杖をつきながら、パラソルの下に流れる朝風に吸い込まれるように、遠い生まれたての空を眺めていた。椅子からこぼれ落ちる泡沫にも似て、水色のドレスの裾がはたはたと揺れていた。
何を考えているのだろう?
あたかもそこだけ、時間が止まったかのよう。春の陽を浴び、悠然と風のさなかに生きている彼女は、まるで絵画に描かれたように、重く透明な清らかさを秘めた、何かがあった。その鳶色の瞳に、色鮮やかな青空が映し出されると、暖かい黄昏が入り混じったように、不思議と、懐かしい色合いになった。ああ、この色を、俺はきっと一生忘れないんだろうな——ふと、デイビスはそんなぼんやりとした確信を得る。
カメリアは、ふと自分の上に落ちてくる人影に気づき、子どものように嬉しそうな声をあげた。
「ピーチ! ありがとう」
「何、考えていたんだよ」
「ん? ……そうねえ。これからのこと」
どき、と沼底に石を落としたような鼓動が、心臓に濁り立った。けれども彼女は、予想よりももっと何気ない口調で、別のことを口にした。
「いつも私があなたのことを振り回しているから、今日はあなたに任せるわ。何か、考えているプランはある?」
ちいさな赤い舌をひらめかせてジェラートを食べるカメリアへ、頭の中で考えていた計画を、絞り出すように言った。
「ゴンドラでも……乗ろうか。春は、陸地の花がたくさん見えるみたいで。菜の花とか、チューリップとか、桜草とか」
「うん」
「ワインとかも……あるんだ。ザンビーニって、有名な醸造所があって。そこも、呑みに行かないか」
「うん」
「店は、周りにたくさんあるし……夜は花火をやるみたいだから、それまでに夕飯を取って。ハーバーの近くで待って、そこで観よう」
「うんっ」
至極楽しそうに答え、カメリアは早くも期待が溢れて堪らないようである。
何も異議はないようだった。もっとも彼女なら、どんなプランだって、素敵ね、と受け入れてくれそうな気もするが。
「ありがとう。たくさん調べてきてくれたのね」
「こ、このくらいなんてことねえよ」
居心地の悪い恥ずかしさに耐え切れず、視線を外しながら彼はそう答える。その頬に、カメリアはふっと眼差しを寄せた。
「デイビス。頬っぺたに、ジェラートついてる」
「え?」
軽く頬に押しつけられた、温かくて、柔らかな感覚。それが何だったのかに気づく前に、ふわ、と彼女の体温に包まれた気配が離れる。甘える、というよりは、日常のひとつであるかのようなその一連の流れに、魂に羽が生えて、ぱたぱたと飛んでいってしまった気がした。
こんな慎みを忘れた——見方によっては、媚びるとも言える振る舞いをする女性だったか。それとも俺は、夢を見ているのか?
ぎし、と椅子を軋ませ、目を見開いたまま固まるデイビス。それを見て、カメリアもふと、自分のしたことが不安になったらしく、眉尻を下げた。
「……デートらしいこと、するんじゃないの?」
その言葉の意味を把握してから、遅れて、かーっと俯いた頬へ熱い血が集まってくるのが分かった。今さらながら、彼女は生粋のイタリア人だったことが思い出される。何を期待している? 何を望んでいる? どんなことを言えば良いんだ?
いや、落ち着け。とりあえず落ち着こう。血管が切れたりしたら洒落にならない。ポーカーフェイスを貼りつけろ。
「……ふ、」
「舟? ああ、もうすぐ時間なのね」
「俺……あの、ジェラートの、紙、」
「捨ててくるの? じゃあ、ここで待っているわ」
果たして、何の以心伝心か、テレパシーなのだろう。掠れた声で言い直す前に、たちまち彼の伝えようとしたことを察して、カメリアは自然にそれに受け応え、なんだかそれに愕然とした。
「……か、カメリア」
「何?」
「なんで、分かるんだ? ……俺の考えていること」
何て言うんだろう。
ずっと見てきたから、とか?
あなたはすぐに顔に出るから、とか?
はたまた、私とあなたの仲じゃない、とか?
ぐるぐると、回らない頭でなんとか彼女の口にしそうなことを予想するデイビス。どれを語ってもおかしくはなさそうだったが、そのどれを言われても、自分は爆発してしまいそうだった。
けれども、返事は、思い浮かべたどれとも違っていた。彼女は、パラソルの下で寂しそうに微笑むと、光に満ちた、彼の緑の眼を真正面から見つめた。
「あなたの心が、私よりもずっと大切だから」
どうしてだろう?
どうしていつも、彼女にはけして敵わないと思ってしまうんだろう?
その言葉に裏打ちされた、自分は確かに彼女に愛されている、という事実を感じる一方で、私よりも、なんて、そんなことは言わないでほしかった。
カメリアは立ちあがって、彼の手の中の紙を受け取ると、トラッシュカンに捨てに行った。
「行きましょう。舟に遅れちゃう」
穏やかに促すカメリア。けれども、椅子から立ちあがる前に、じっと彼女の目を見て、デイビスは頑固に対面しようとした。
言え。
言うんだ。
今日だけは、ちゃんと言え。
「あ、あんたの……」
「うん?」
「あんたの方が、大切だ。俺より、ずっと」
言えた。
心の中で快哉をあげるデイビスに対して、カメリアは少し驚いたように彼を見つめていたが、やがてらありがとう、と綿毛のように囁くと、それきり、視線は他の方向へ流れていってしまった。しかし、その耳はザクロのように赤らんでいる。
伝わったのか?
よく分からない。
横を向いている彼女の瞳は、いつもよりずっとキラキラとして、波打つような反射が多かった。それには、気づかない振りをしてやった。俺は紳士だから。ちゃんと相手を慮って、触れてほしくないことは口にしないことができるのだ。
「カメリア。こっち」
「あ……」
「俺から、離れるんじゃねえぞ」
先ほどよりも確かな力を込めて、繋いだ手を引き寄せる。その胸の中で、踊り狂っている自分がいた。一応は決め台詞を言えたことに、ドンドンパフパフと、盛りあがりが最高潮だったのである。
宮殿の運河は、メディテレーニアン・ハーバーの西側に位置する一角であるが、太陽に愛されたと言っても過言ではないポルト・パラディーゾよりも複雑さを孕んで、ぐっと光と翳を増す。何といっても特徴的なのはその縦横無尽に走る運河の数で、地中海の土砂が募った干潟に作られた水の都は、足場の悪いために侵略は不可、身を隠すのが容易であり、秘密結社や政治犯の潜伏など、秘密裏の役割を担うことも多かった。古い看板に鏤められた守護聖人マルコの有翼獅子は、彼らの培ってきた信仰心の他に、けして屈服を是としない誇り高さをも感じさせる。
水路が複雑に入り組んだその街には、車はおろか、自転車すらも走れないため、必然的に住居の面積を稼ぐために建物は高く、細い路となる。日当たりの悪い箇所が多く、空気には水の匂いと黴臭さ、そしてどこか秘密めいた苦い香りが立ちのぼる。そのような水辺で毎日の暮らしを続けているからか、住民たちはとりわけ甘党が多く、着色料で染めた鮮やかなソーダにも、挽きたてでなければ頑として許されないコーヒーにも、たっぷりの生クリームをかけ、さらにはラング・ド・シャまでその上に刺すので、観光客の舌を辟易とさせることが多かった。名産品はガラスとチョコレート。コクのある深い味わいが特徴的で、大航海時代を機に、交易の中心がエクスプローラーズ・ランディングへと移り変わったことから、貿易都市としての色は潜め、マエストロの文化を重んじ、職人たちが一挙に集まる工房の街へと舵先を切ってゆく。
直射日光の少ないその場所では、住民たちは苦労して光の反射と屈折を愛する。飴色に磨かれた鮮やかなガラス工芸品、シャンデリアやゴブレット、金縁の鏡、燭台に燃えあがる蝋燭、テラスや窓辺からの明かりを無数に揺らめかせる波紋、そして夜になればヴェネチアン・グラスの表面に散らばる宝石のような幻想の海の中へ、仮面舞踏会の如く迷い込んだ思いがするであろう。無論、人間のみならず、太陽の恵みを望むのは他の生き物も同じようで、しばしば窓辺には、観光客に甘やかされた肥満体の猫が、少ない路地裏の陽だまりを楽しむようにうずくまる。張り巡らされた運河には魚の群れが、水中に揺蕩う穏やかな陽射しを喜ぶように逃げ、日陰にも強い品種を植えられた鉢は、そうは言ってもやはり天空を目指し、家々やアルターナの隙間から覗くその鮮やかな青へと、細い茎を揺らしていた。
秋から冬にかけては、高潮と呼ばれる現象により水位が上がり、浸水の被害を受ける。水際なので、その空気は凍てつくほど張り詰めることもあり、今の温暖な季節が最も観光には適していた。カメリアと手を繋ぎながら、路地の合間からそそぐ初夏の光を見つめるうちに、彼女がにこにことこちらを見ているので、つられてデイビスにも微笑が浮かんだ。
「どうした? 何か、いいことあったか?」
「新居はどこにしようかしら、デイビス?」
ずべしゃ、という古典的な音を立てて、デイビスがすっ転んだ。
「TDSに住むならどこの家にしたいかって、結構、会話の鉄板ネタよねえ」
「だからって訊ね方がおかしいだろーがッ!!」
「私、あそこの紅と黄色のお家が良い。河沿いにテラスがあるなんて、とっても素敵じゃない?」
(あっ、聞いてねーな、人の話)
カメリアが無邪気に指差した先を点線で辿り、デイビスは溜め息を吐いた。
「あのなあ、そもそもあれは家じゃねーよ、レストランだ。昔は国内最大級のピザ窯を宣伝していたんだが、最近はどうもそんな文句も聞かれなくなって——」
「わあ、そんなことまで調べてくれたんだ」
「たっ! でっ! ハッ!」
「?」
奇声を発して誤魔化そうとするデイビス。確かにガイドブックは暗記するほど読んだし、ネットの口コミもくまなく目を通したが、その必死っぷりを気持ち悪がられたらどうしよう? いやでも、隠したって、カメリアはどうせ心を読んでくるし———
「……また、変なこと考えてる」
———そして今も筒抜けすぎる。デイビスは顔を覆った。穴があったら入りたい。
「お水、飲んでもいい?」
カメリアは路地の隅に設けられた、円形の貯水槽を指差した。滑らかな白い石を削りあげて、渦巻型装飾と壮麗な彫刻を組み合わせたコンポジット式の土台、そしてその真上からは冷たい水が噴き上がるようになっている。何百年にも渡って人々の靴底を削り続け、くすんだ銀灰色の石畳の上を、何羽かの白い鳩が歩き回るそばで、カメリアが髪を押さえながら屈み込み、斜いに射し込んでくる光芒の中、睫毛を伏せて、その透明に湧きあがる水に清らかに唇を寄せるのを、ぼーっと見つめる。伝統の中に息衝くその流れるようなしぐさは、まるで一枚の絵画のようだった。
————————ああ、綺麗だな……
「え?」
「なんでも!?」
アカン、すぐトリップしてしまいそうになる。メディテレーニアン・ハーバー全体が醸し出してくる魔力は凄まじく、自分までもがロマンス映画の主役になったんじゃないかとか、そんな錯覚に陥ってしまう。
「今、綺麗だな、って思わなかった?」
「お、思ってない」
「そんな後ずさりしなくても」
「あ、あんたが近づいてくるからだろ」
「けど。あまり、逃げない方が——」
「逃げてないから! あんたこそ、変な言いがかりつけんなよっ」
カメリアは酷く困ったような顔をして、異常な量の汗をだらだらと流すデイビスに話しかけた。
「でもさ。そっち、河だよ」
ざっぱーん、と大きな音が立って、初夏の空気の中に水柱があがった。あ、遅かった。だってめちゃくちゃ後ずさってゆくんだもん。
「大丈夫? デイビス」
「あ、ありがとう……」
「インドでも、ロストリバー・デルタでもそうだったけど、あなたって本当に河に落ちたがるわよね」
カメリアは呆れながら、彼の手を掴んで、ずりずりと陸地へ回収した。スコットであれば、見事なダイビングだったな、とニヤニヤしながら語るところである。
「ごめん。格好悪くて」
「ふふ」
こんなはずではなかったのだが。肝腎なところで、いつもこうなんだよな、俺って——と落ち込むデイビスに、カメリアはおかしそうに肩を揺らすと、運河の水で冷たくなった手を温めてやりながら、旭の一筋のように微笑んだ。
「でも、そんなことばっかりやってるあなたの方が、他の女の子に盗られなくて、ほっとするかな」
————やばい。
心臓が、やばい。つーか、デート開始早々、濡れ鼠になってる男に、なんでそんなことが言えるんだ。
「か、格好良い方が、良いに決まってんだろ……」
「あはは、あなたが格好つけて、成功してる時ってあったっけ?」
「(この野郎)」
「いいんだよー、そのままで。……私にはいつだって、あなたが一番格好良いんだもん」
鼓動が落ち着きそうになくて、死にそうになっていた。目を上げられないでいると、突然、ふわりとした重みが、前から覆い被さってくる。
(えっ——)
全身に染みる、透明な太陽のような温度。濡れたシャツ越しに、別の人肌の温もりが貼りつく。じわりと湿り気が広がってゆく彼女のドレスとともに、微かな甘い菫の匂いに混じって、何よりも懐かしい、彼女自身の匂いがした。
何かをする間もなく、カメリアはすぐに身を引くと、その日のために着飾ったであろう自分の衣服が、彼と同じようにすっかり濡れているのを見て、
「あはは、びしょ濡れ!」
と、くるくる踊って、陽の中で楽しそうに笑っていた。
髪からまだ雫が垂れ落ちるまま、デイビスはじわ〜っと泣きそうで、それがもはや何の理由だかもよく分からなかった。今日が終わった後、俺、ちゃんと生きてんのかな。抜け殻みたいになっていそうなんだが。
「Ehi, Senor, Senora. Stai bene?」
濡れっぷりを見るに見かねたのか、岸辺にゴンドラをつけていた反対側の島にいるゴンドリエが、麦わら帽を押さえながらカメリアたちに叫んだ。日頃のカンツォーネで鍛えているのか、張りのある美しい声で、その櫂は深い運河の面を乱れるように煌めかせていた。
「Grazie! Vedi, abbiamo fallito!」
カメリアは、運河を隔てる柵から身を乗り出すと、明るい声で、橋の向こう側へ向かって叫び返す。
「Oh, che peccato! Vieni qui, possiamo prenderti in prestito gli asciugamani!」
ゴンドリエはひらひらと手を振って、そそがれる日差しの下で、快活な笑顔を輝かせた。
「あっちで、タオルを貸してくれるんだって。よかったね」
「ああ。ちゃんと落水も、想定されてるんだな」
「うん、景色にはしゃぎまくった子どもが、よく親の言うことを聞かないで落ちるんだって」
「…………」
二人で、ゴンドリエの島と称される橋を渡って、タオルで身を乾かし、ようやく舟に乗り込む用意ができた。漆黒に塗り潰されたゴンドラは、ヴァスコ・ダ・ガマの新航路発見などによる経済的衰退を受け、十六世紀、および十七世紀に段階的に出された国費倹約の法令で、節制を美とした結果である。どこか品位を感じさせる艶を放ちながら、穏やかな水音とともに優美に湾曲した舟が波紋の上を揺蕩い、長い櫂を操るゴンドリエは、数々の橋をくぐり抜け、やがて広大なポルト・パラディーゾの大海原へと連れ出してくれる、水先案内人であった。その人間が、明朗な発音のイタリア語とともに、舟に乗れ、ということを身振りで伝えてくる。この人物もまた、食い扶持を稼ぐために膨大量の地元の歴史を学ばねばならないのである。
一歩踏み出して、結構揺れるな、と感じたデイビスは、背後にいるカメリアを振り返った。油彩絵の具を塗りたくったような完璧な青空が、鮮やかに目に染みた。
手を差し伸べる。
すると、それまで不安そうな顔をしていたカメリアも、少し現実味がないように頬を染めながらその手を取り、ドレスの裾をたくしあげ、ゴンドラに乗り込もうとした。波のうねりのせいで手に力が入り、次の瞬間には一気に距離が近づく。大きく揺らいだ舟の上へ、辺りの鉢植えからこぼれるビオラの躍るような匂いが掻き乱れ、川には波紋が幾つも広がり、思わず顔を見合わせると、互いの息が重なって、あと少しで擦れ合いそうになった。
ああ〜、やばい、めっちゃドキドキする。何かの映画かよ、これ。
心の中のデイビスは、もはやコイルのようにぐるぐるとねじ曲がっていた。目の前いっぱいに広がるカメリアの戸惑ったような顔と体温に、尋常じゃない鼓動が押し寄せてきて、死にそうになる。恋人たちの聖地と呼ばれるわけだ、こういう何気ないところに動悸のタイミングを仕掛けてくる。
「だっ!」
「だ?」
「大丈夫か!?」
本当に今日は酷いな、と思った。まともなコミュニケーションが全然取れていない。
「へーき……」
「あ、ああ……座ろうか。転ぶなよ」
ゴンドリエは、イタリア人か。なら、英語で話していれば、そんなに内容はバレねえよな? 第三者に、こんな会話を聞かれたくなかった。中学生じゃあるまいし、あまりにもこっ恥ずかしすぎんだろ。
デイビスは舟のへりに座り、両手で顔を覆い尽くした。早くも、その脳内では一人反省会が繰り広げられている。
それでもカメリアは、立ち尽くしたまま、デイビスを見つめていた。間近で彼の唇を目にした瞬間から、言い知れぬ高鳴りを覚え、そんな自分に罪責感と羞恥心が湧いてきた。けれども、胸を占めるその感情があまりにも苦しすぎて、押し殺そうとすることさえもままならない。
キャプテン・デイビスは、彼女にとって、未来の象徴とも言える人間だった。測り知れぬ高度技術の上に立ち、自分には理解できぬ未知を歩み、膨大な明日の光の中にその身を染めている。同じ人間であるはずなのに、彼の方が圧倒的に力強く、勇壮な生き物に見えた。人が過去から学んで未来へ進むというなら、彼は確かに、自分のような古い時代の人間よりも、よほど革新的な世界に生まれた申し子なのだった。
胸に押し寄せてくる、ずっと前から募らせていた憧れと、しかし自分が届くはずがない、彼は未来の人間なのだから、と必死に抑え込もうとする葛藤。
そんな人間が、今はポート・ディスカバリーではなく、ここに生きているという事実が、波紋のように彼女の胸を揺らした。
どうしよう。
どうしよう?
どうしようもなかった。生きて、鼓動して、地中海の太陽を浴びて、彼はそこにいた。デイビスはいつものように、真っ直ぐの髪を風に靡かせ、秀麗な横顔をさらし、顔を赤らめながら呼吸していた。それは彼女にとっては信じがたい光景で、そんな奇蹟が、まるで当たり前であるかのようにそこにあり続け、他の誰も気に留めはしない。だがしかし、そこは彼女の故郷なのだった。花を植え、洗濯し、運河の水を掻き分け、青空の下で歌を唄うその伝統的な世界は、彼と交わることなどあり得ない空間であるはずだった。それゆえに、他の人間にはどんなに些細なことに思えようとも、彼女には、彼女にだけは、彼がそこにいるという事実が、真に迫って響く。
デイビスが、私の世界の中にいる。
同じ場所で生きている、と考えただけで、心がはち切れてしまいそうだった。
「なんだよ?」
視線を充分に意識し、ぶっきらぼうに訊ねる彼に向けて、カメリアは力なく首を振った。デイビスは、もう一度手を伸ばして、彼女を自分のそばに座らせようとしたが、その時にはもう、ほんの少しばかりの隙間を空けて、置き物のように隣に座っていた。周囲を見回す余裕もなく、ただ体を強張らせて、じっと船底の一点を見るばかりだった。
「き、緊張、してんのか」
「うん」
「しなくたっていいだろ。相手は俺だぞ」
「するよ」
カメリアは小さな声で、しかしきっぱりと言った。
「あなただから、するよ」
デイビスが隣を見ると、その手は本当に小刻みに震えていて、それを秘かに意思の力で抑えたがるように、夢見心地で真っ赤になっている顔にはどこか、暴れ狂う心臓に虚しく抗おうとする、頑なな切実さが込められていた。こんなカメリアは見たことがなかった。舞台袖で自分の出番を恐れて神に祈る子どものようで、弱々しいというか、ほんの言葉ひとつでたやすく砕け散ってしまいそうな哀れさがあった。けれども自分の脈搏が、手の震えからどうしても伝わってしまうのに気づくと、はっと、誰かにその熱の入れようをからかわれたような顔つきになり、
「あはは。情けないね」
とその手を後ろに隠してしまった。その姿を目の当たりにして、デイビスまでもが、同じ弱さに心を揺らした。
————俺だけじゃない。カメリアだって、ドキドキしているんだ。
そんな、当たり前といえば当たり前の事実に、胸を打たれた気がした。少しばかり距離を詰めて座り直すと、揶揄されると思ったのか、愛おしさと脅えの入り混じった眼差しで、こちらを見た。
「隠すなよ」
「い、いや——」
「いいから。手、出せって」
少し無理に握った手は、やっぱり互いに脈搏で震えていたし、恐らく自分の掌は汗で湿っていたけれど、もうそんなことはどうでも良かった。深く俯きながら、震える手に強く強く力を込める。
「……同じだろ? 俺も、あんたも」
どくどくと波打つ鼓動のせいで、顔が熱くて、日灼けしたんじゃないかと思った。実際、イタリアを照らし出す太陽は、カンツォーネのように艶があり、温度が高かった。舟が河面を滑り出した。
カメリアはゆっくりと瞬きをして、まだ頬を赤らめたまま、まるで絆創膏を貼ってもらった子どものように、繋がれた手をじっと見つめていた。やがて、風に誘われて、小さな笑みが浮かんだ。それは彼と分かち合う笑みではなく、例えばパンが美しく焼きあがった、野原にたんぽぽを見つけた、そんな何の見返りもない、無邪気な微笑みだった。何も言わずとも、その表情には万感の歓びが込められている。
ああ、カメリアって、本当に俺のこと好きなんだな——手を繋ぎながら、ぼうっと、そんな思いが胸を満たした。今まで、恋愛感情の重い奴は鬱陶しい、と馬鹿にしていたのに、彼女の想いだけは、どうしても馬鹿にすることなどできなかった。
————そこから後は、なんだかもう、ふわっとした記憶の中に溶けていってしまった。
楽しいとか、甘酸っぱいとか、気恥ずかしいとか、そういう次元を飛び超えて。何が起こっているのか、よく分からなかった。やたらと雲のように手応えがなくて、そのくせ、手に力を込められる瞬間は、痺れるように鋭敏で。何もないのに、いきなり鼓動が高鳴って、頬が熱くなっていったのを覚えている。願いの橋の下で、俺は何を願っただろう。確か彼女は、ポップコーンだか、チュロスだか、そんなものを食べられますように、とかそんなことだった気がする。冷静に考えればそれは、彼女が咄嗟についた嘘だったのだろうが、それに対して、自分がなんて返したのかも、よく覚えていない。きっと、くだらぬことを言ってからかったに決まっている。だって、次に浮かびあがってくるのは、口を尖らせて怒っているカメリアの顔だったから。本当に、その時の流れで怒っているのかすら定かではない、切れ切れの記憶。けれども、必ず彼女の顔がそのうちに刻まれているから、自分はよほど見つめていたのだと思う。こんなに惜しむように瞳を凝らしているくらいなら、今まで、もっと傍にいる時に見つめておけば良かった。
デイビス。
名前を呼ばれるたびに、ぞくりと、背筋に戦慄が走る。戦慄——いや、それは火花なのだろうか? とにかく、閃光のような何かが胸いっぱいを満たして、とめどもなく心が揺らいで、慟哭にも似た感情が身体中から衝きあげてくる。幸せなのに、一秒ずつ、何かが削れて、えぐれて、ボロボロになってゆくかのようだった。
なあ、気付いているのか、カメリア?
あんたにとっては、単なる恋人未満の男とのデートかもしれないけれど、俺にとっては、今日があんたとの最後の思い出なんだ。
血が駆け巡るたびに、鼓動が早くなるたびに、互いの距離はどんどん離れてゆくようで、そのくせ、考えていることの何もかもが伝わってきた。
ひょっとしたら、二度、三度と思い出すうちに、今日の記憶は懐かしい光を湛えてくるのかもしれない。けれども、今からそのようなことを考えると、胸がひび割れて、痛みに呑まれてしまう気がした。
太陽が眩しすぎて、眩暈が起きているのだろう。そう思うくらい——目に、光が滲む。
彼女の故郷は、美しかった。花が咲き乱れ、蝶が舞い、細波が煌めいて、のどかな外輪蒸気船の汽笛が流れる。恐らくは時が流れても、それほど姿を変えていないのだろう。塩辛いような蒼穹が、よく広がっていた。その紺碧に奮い立たされたように、若者の血は濃く、街角は乾き、檸檬色の光が躍っていた。通り過ぎる自転車が住人たちの奥歯をそっと揺すぶる頃、労働者たちは乾燥で罅割れた手を振るい、しばしば家の扉のペンキを塗り替えていた。バルコニーからは花の種がこぼれ、以前塗り込めたらしい色の違う壁が、崩れ掛かった漆喰から覗き、焼き菓子の中にちりばめられた木の実のように見せていた。漁師は、なまりの強い言葉で捲し立て、ラジオから流れるオペレッタに耳を傾けながら網を巻いていた。洗濯にはちょうど良い日和だった。
聞こえてくるのは、踊るようなイタリア語。伸びの良いと言えるまでに朗らかなアクセントや、時折混じる巻き舌は耳に心地よく、母語を操って人と会話する彼女は、デイビスの目には新鮮だった。こうやって毎日を生きているのだ——それは彼の知らない世界で、似ているようで、ほんの少しずつ異なっていた。
誰にでも気さくに声を掛けるポート・ディスカバリーとは異なり、メディテレーニアン・ハーバーの住人は、基本的には挨拶以外の言葉をゲストに発しない。けれども、少しでも何かを褒めたり、気安い隙を見せたりすれば、すぐに暖かい世間話をしてくれるのだった。友達というよりも、家族に近い距離感なのかもしれず、必要な時にだけ会話し、その分世間話は伸びがちで、そして語り口には、懐かしい同郷の人間への親しみが纏いついている。今は、お節介のように見えるパン屋の女将の言葉にしきりと頷き、カメリアは満面に微笑んでいた。時折り、彼の方を手振りで示すので、俺の話でもしてるんだろうな、とだいたいの予想はつく。何やらおまけでもうひとつパンを追加してもらい、鼻歌を唄いながら揃って店を出た。
ベーカリーの前には、パラソルのついた白い席が多く用意されていたが、彼らはそこに座らなかった。
「海を見ながら、ベンチに座って食べようか」
「あっちの方?」
「そう。あっち」
二人きりになれるし。
とはさすがに言わなかったものの、それだけで何となく分かったらしい。彼女は、光の零れるように無防備に笑った。どきどきした。これだけ直接的な好意を感じるのに、やはり彼女の目には、自分を愛してほしい、と求めるような色は宿らなかった。彼の傍にいられることへの嬉しさ一色というか、本当に、一目瞭然の思いしか胸のうちにないのだな、と思った。
二人で花壇の側のベンチに座り、花の匂いに包まれながらパンにぱくつくカメリア。目の前には、椰子の木を通り過ぎて、太陽を跳ね返す青い海が続いていた。そんな景色の中に包まれた彼女は、相当機嫌が良さそうで、ちょっとやそっとのことでは、その浮き足だった心は静まらないように見える。
やるなら、今だろうな、と察したデイビスは、そ〜っと、彼女の肩に頭を載せてみる。触れた瞬間、びくっ、と大げさなまでに向こうの肩が跳ねたので、凍るような恐怖が身体の芯を貫いたのだが、今さら背に腹は変えられない。そのまま凭れかかるように半身を密着させてゆくと、微かに彼女の肩と擦れ合う髪の音が、耳のそばで、じりり、と響いた。
「どっ……」
息が詰まったように、カメリアが掠れた声を絞る。
「どうしたの……?」
服越しに、彼女の心臓が激しく早鐘を打っているのが聞こえた。顔を覗き込むと、その表情も緊張で強張っており、少し俯きながらも、朱を散らしたように赤らんでいるのが見えた。
「……嫌?」
「そ、そんなことはないけど……」
「……じゃあ、このままでいさせて」
言いながら、膝下に置かれている彼女の手をそっと手に取る。先ほどの上機嫌が嘘のように、力が弱く、微かに震えていた。それを落ち着かせるように、ゆっくりと互いの指を絡み合わせると、柔らかな菫の香りが鼻腔を掠め、胸の奥からとくとくと伝わってきていた鼓動が、またほんの少し、高くなった。いまだ強張ったままの体へ、これ以上に体重を預けて緊張させるのも酷に思えて、やっぱり、まだ早かったか、とぼんやり悔いていたのだが、やがて二人の心臓がほとんど同じリズムを打つようになった頃、ほんの微かながらも、彼女の指先に力が込められ、繋いでいる手に応えようとした。デイビスは微笑んだ。何も言わずに握り返すと、そのまま静かに、全身の力を抜いて寄りかかってゆく。ようやく——何年にも渡って気を張ってきて、ようやく、本当に息をつける時間が訪れたように思う。今までなら、こんなことは怖くて、とても恋人にできそうにはなかった。思えば、物心がついて以降は、両親にさえも、こんな風に心を許したことはなかったかもしれない。けれども今は、受け止めてくれる体温が信じ難いほどに暖かくて、引いては打ち寄せる潮騒の音も、中天まで差し掛かった少し眩しい太陽も、何もかもが広く、そして優しいものに思えた。かもめの声が軽やかに宙を翔けて、晴れ渡る空を横断してゆく。目を細め、水平線の彼方を見つめるカメリア。その手に握られたフォカッチャを見ているうちに、俺もパン食べたい、と薄く目を開き、そこではたと気づいた。
あれ、この体勢のまま、どうやって食べればいいんだ? 寄り掛かったままで食べんの? それってなんかおかしくねえ?
彼が何を考えているのかに気づいたカメリアも、くっくっくっ、と笑い声を漏らした。でも、ここで体勢を戻すのは勿体なさすぎる。俺は絶対に身を起こすつもりはないぞ、という証左のように、ぐいぐい重みを預けると、カメリアは呆れ果てて、食べにくいなあ、と呟いた。
「なあ。さっき、何の話をしていたんだ?」
先ほどから気になっていたことをぽつりと訊ねてみると、カメリアはパンをくわえたまま、ん? と不思議そうに彼を見つめた。
「俺の話をしてたんだろ、あのパン屋の女将さんと。なんだ? その、後ろにいる男は、あんたの彼氏なのか、とか?」
途方もなく馬鹿な質問をしたものだと、デイビスの全身を羞恥がつらぬいた。ぱちくりと瞬きしたカメリアは、ああ、と思い当たって、先ほどの会話を簡単に翻訳する。
「うん、あのね。メディテレーニアン・ハーバーにも、ポート・ディスカバリーの英雄の名声は流れてきてるって。若くてハンサムだったから、反響が凄くて、特に年頃の女性たちからは、絶大な人気があるんだって」
「ほら、どーだ、俺はモテるんだぞ。感謝と誇りを持って接してくれよ」
滅多にない優位に立てるタイミングだと、デイビスは勝ち誇ってカメリアを見つめ、ついでにこの隙にと、紙コップに注がれたコーヒーを小指を立てて啜る。それに対して、相も変わらず彼女は最高ににこにことし、
「ええ、世界中があなたを讃えてくれるって、とっても素敵なことよね。
それでね、いつかポート・ディスカバリーの英雄がハーバーにも来てくれれば嬉しいなって思っていたけれど、まさか新婚旅行でこの地を訪れてくれるとは思わなかったって」
コーヒー噴き出した。やけに上機嫌だと思ったら、そんなことを話していたのかよ。
一方のカメリアは、顎に手を当て、真剣な顔をして、ぼたぼたと垂れるコーヒーの染みを見つめ。
「……ミディアム・インパクト・スパッターね(※犯罪学で利用する血痕パターン)」
「何の研究をしているんだよッ!!」
あああああ、何をやっているんだ俺は。こんなの、いつものやりとりと変わらないじゃないか。もっとムードのある会話をしたいし、ムードのあることだってしたい。
デイビスは、それこそ不審者のように大いに狼狽えながら、
「そ、そそそそそそそそそれで、あんたはなんて答えたんだよ」
「なんて言ったかしら? 嬉しくって、自分の返事した内容を忘れちゃったわ」
こて、と困ったような笑顔のまま、カメリアは首を傾げた。こいつ、肝心なところだけ忘れやがる、わざとじゃねえだろうな、とやきもきするデイビス。
「ちゃ、ちゃんと、まだ結婚していないって、そう言ったのかよ」
「んー……あ、そうそう。思い出したわ」
「なんだ?」
「新婚旅行じゃありません。駆け落ちです、と」
胸を張って自信満々に答えるカメリアに、デイビスは顔を隠して、力なく項垂れるほかなかった。
「……はぁ。もういいよ、それで」
……
昼食を終えてからは、幾つかの店を冷やかすことにした。ミラコスタの下を走り抜けるミラコスタ通りには、夥しい数のブティックが立ち並んでいる。実際、この地を訪れた者の多くは、買い物に時間を費やすのである。パラッツォ・カナルの職人たちによる質の良い手工芸品のほとんどは、ここで取引されており、また、トランジット・スチーマーラインによる輸送や、エクスプローラーズ・ランディングからの輸入品もあり、商業の折衝点として、歴史ある店が多く構えられるに至ったのだった。
な、なんかお揃いの買いたい。
とささやかな欲を遂げることを目論むものの、いざ真剣に悩むとなると、どれが良いのか迷う。
マグカップ? タオル? クッション? いや、なんか身につけられるものがいいな。
デイビスが腕を組んで唸っている隣で、カメリアは目をキラキラさせて、棚の一角を指差した。
「デイビス! 私これがいい! これは!?」
「んー?」
「買えるかーーーーーーッ!!!!」
「ちぇー、こんなにおっきくて可愛いのに。あなたってなかなかケチよね」
「つーかこれ、どうやって持って帰りゃいいんだよ。荷物になるの。だから買えないのっ」
「夢がないなあ、お家で抱っこしたかったのに」
カメリアはぷくっと頬をふくらませた。
「じゃあ、ストラップにしよう。それならいいよね?」
「おお、大分価格帯を下げたなあ」
「いっぱいあるなー。どれにしようか」
「これとか」
「また、独特なものを選びやがって。俺はヤダ」
「えー、シリキ様のグッズは貴重なのに」
「あのなあ、これつけて、毎日CWCに出勤しろっていうのかよ?」
「お部屋に飾っておけばいいじゃない」
「呪われそうだろ。もっと可愛いのが良い」
「文句ばっかりだなあ、じゃあデイビスが選んでよ」
「このくらいが妥当なんじゃないか?」
「これって、落下防止用に、輪っかのところへ指輪みたいに指を通すやつ?」
「そうだけど」
「…………」
「な、なんだよ」
「あなたの密かな欲望が透けて見えるわね」
「あ゙ー、もういいだろっこれにするぞ!!」
買ってもらったストラップを、カメリアは早速無線機につけて嬉しそうにしていた。フローティングシティで買った子ども用のおもちゃが、まさかここまで活躍してくれると思わなかったな、とデイビスは思う。これがなければ、ミッキー・マウスとの不思議なやりとりはなく、カメリアと仲直りすることもできなかったはずだ。
「これで、無線でお話している時は、あなたとお揃いの指輪をしているみたいになるかなあ」
「…………」
デイビスは何も答えずに、黙って微笑んだ。カメリアは薬指に輪をはめて、幸せそうに装着の具合を確かめていた。
「やばっ、のんびりと買い物してる暇なかった。ザンビーニ・ブラザーズ・リストランテのハッピーアワー、あとちょっとで始まっちまう」
「あっ、待って。家族に、お菓子を買いたい」
「蒸留所にチーズやおつまみを売ってるから、それでいいだろ。急ぐぞ!」
陽が柔らかに色を載せる、噎せるような光の中を慌ただしく移動して、ふと、何年も前からこんな風に一緒にいたような気がした。ずっと昔から、こうして溶けてしまうように心を許して、二人で同じ時間を過ごしていた気がした。
そうでなければ、彼女が隣にいる感覚が、これほど馴染むはずがない。
まるで、黄昏れ始めた世界の中に塗り込められた、石や、煉瓦や、風と同じように、彼らは自然の感情を分かち合っていた。
「とうちゃくー。はー、汗かいた」
カメリアはぱたぱたと手で煽ぎ、顔に生ぬるい風を送った。頭上高くを椰子の木が揺れて、大きな葉擦れの音を零した。青を緩め始めた空が、天高くに雲を押し流していた。
「それにしても、食べてばっかりだね、私たち」
「べ、別にいいだろ。たまたまレストランが多かっただけだ」
「ワインなら大丈夫だと思うんだけど。酔ったら、ごめんね」
「いいよ。そうしたら、ミラコスタの部屋で少し休めばいいさ」
カメリアは、はっと、衝撃を受けたように口許に手をあてた。
「やっぱりそういう魂胆だったのかあ、デイビスもなかなかの策士よねえ。いよいよこの小説も、最終回間近で路線変更して、R-18に突入するわけね」
「だからしねーよ、そんなことはッ!!!」
こ、このムードのなさは何とかならんのか。ワナワナと震えるデイビスをよそに、カメリアはワイナリーの入り口に掲げられた看板のメニューを見る。
「ザンビーニ家のワインかぁ。まだ続いているんだね」
「飲んだことあるのか?」
「うん、この時代より、何代か前の農園主の作ったものだけどね。お店がファルコ家と近いから、直接契約を交わしていて——」
言いながら、流れる汐風に惹かれるように、カメリアは何気なく小高い丘を見あげた。
そこに、それはあった。
まるで天国へと向かうような、見通しの良いなだらかな階段の続く先。風にさやめく葡萄畑も、菜の花でいっぱいの花壇も、崩れかけた水道橋の遺跡も、深緑に繁る樹々も抜けたその彼方に。
ギリシャの蒼穹を思わせる美しい紺碧のドーム、一面を雲で創造したかの如く、柔らかい乳白色で彩る、大理石を張り巡らせた壁。その背後には、薄汚れたまま数百年の時を経てきた、杏色の、意義深い家々を抱きながら——
建築当時と変わらぬ、天の宮殿のように荘厳な姿で。飛行の精神を称揚するその博物館は、丘の上に、優美に聳え立っていた。そして壁に掲げられ、はたはたと潮風に棚引いている蒼い垂れ幕には、遠くて見えにくいが、一人の女性の姿を描いているように思われた。
「何見てんだよ。そっちに、ワインはねえよ」
デイビスは彼女の手を掴むと、有無を言わさずに引っ張った。振り返ったカメリアの、あまりに狂おしい衝撃でいっぱいになった表情も、大きく見開かれて揺らめく瞳も、わななく唇も。全部、気づかない振りをした。
「あっ、水色のチュロスだって、美味そうじゃん。へー、パイナップル味なんだ。ワインに合うかな」
「ねえ、デイビス——」
「何だよ?」
メニューに目を落としたまま、繋いだ手を握り締め、デイビスは震える声で問いかけた。
甘い匂いのする潮風が抜けた。椰子の木が、またばらばらと、硬い葉擦れの音を降りそそがせ、鳩が舞い立った。
カメリアは静かに微笑すると、
「入ろっか」
と独り言のように呟き、薄暗い店内に足を踏み入れた。
気づいているのかもしれない。
壁の飾り皿が可愛い、といそいそ観察するカメリアの後ろ姿を見つめながら、デイビスはそう考えた。
(カメリアは、俺とのことを、どう思っているんだろう——)
そんな根本的な問いが持ちあがってきて、胸がざわつく。
聞いてしまえば、たぶん戻れなくなる。けれども、何も聞かずに、自分だけでそれを決めるのは、本当にそれで正しいのだろうか。
いや、少なくとも、自分の中では答えを出さなくてはいけない。それもしないままに、彼女に全てを委ねて、責任をなすりつけてはだめだ。
「あれがいい」
「ん?」
「あの、黄色い葡萄を描いたお皿」
彼がずっと思案に暮れている間、まだ飾り皿を見ていたのか、と思って、なぜだか、急に微笑ましく感じられた。カメリアは少し首を傾げたまま、気に入った皿の絵柄を見つめていた。
「ワインは、どれがいいんだ」
「シャルドネにしようかな」
「オーケー」
眺めの良いテラスの一等席を選び、絵のような景色を背に、グラスを載せた盆を運んで、デイビスは腰掛けた。よく陽が射してきて、世界は明るく、柔らかに波を煌めかせているハーバーが一望できた。他に人はいなかった。カメリアは、ベンチに腰掛けようとして、
「あ、お父様へのチーズを買うの忘れた」
と座る寸前で思い出したようだった。
「チェッリーノさんにか?」
「うん。待ってて、すぐに買ってくるね」
と言いながら席を立ち、髪を靡かせて行ってしまった。
デイビスは頬杖をついて、束の間、誰も座っていないベンチに目をやり、無言で何かを考えていたが、やおら鞄を掴んで立ちあがると、急いで階段を駆け下り始めた。踊り場から、階下にいるちいさな彼女の後ろ姿を見つけると、手すりから身を乗り出して、
「カメリア! 俺も行く」
と叫んだ。
その声で、カメリアは振り返ってデイビスの姿を見出し、その急切な様子に驚いたように階段の下まで引き返すと、静かな声で問いかけた。
「どうしたの? 何か他に、買いたいものがあるの?」
「そういうわけじゃなくて、……」
カメリアは、赤くなったデイビスの顔を、階下からしばらくの間見あげていた。しかしやがて、
「そうだね。一緒に行こう」
と朗らかに微笑して、踊り場にいるデイビスが、彼女の傍らへ歩み寄るのを待ち続けた。
手すりを握り、一歩一歩、コトリ、コトリと靴音を立てながら、降りてゆく。彼女は、階段の下で身動ぎせずに、近づいてくるその姿を見あげていた。視界に入れたその姿以外が、徐々に曖昧に揺らいでいって、髪を彩る照明の艶や、彼に眼差しをそそいでいる目を縁取る、鳶色の睫毛までもが、不思議な神の恩寵に守られているように思えた。側に立つと、その睫毛が、緩やかに瞬きをして、櫛のような光翳の筋を落とした。見慣れた顔立ちが、照明の下で、小さく、優しく浮かびあがって、微かな鼓動の震えに揺れていた。
「……あ、あの」
「どうしたの?」
デイビスは、相手の言葉に耳を傾けながら見つめるカメリアの深く澄んだ双眸を、吸い込まれるように見つめ返した。
「鬱陶しかったら、言えよ。遠慮しなくて良いんだからな。あんただって、ずっと俺にくっついて回られたら、煩わしくなることくらい、あるだろ」
不意打ちされる前に、先回りして、言っておこうと思った。
もしも何気なく、そうね、ちょっとしつこいかもね、と冗談まじりに言われたら、子どものように深い哀しみに囚われそうで、それが怖くて、酷く傷つく気がして、反応を待つ間、吐く息が震えた。
けれども、万が一そう言われたら、素直にその言葉を受け入れて、彼女を一人にしてやろうと思った。そばにいるだけでは、彼女の内面など分からないから。だからこうして、少しずつ確かめ、相手を尊重することが必要なのだと言い聞かせる。その結果、例え一緒にいる時間が短くなったとしても、気づかずに自分の都合で振り回して、彼女に嫌われる原因を作るくらいなら、それで構わない。
そう考えていると、カメリアは、必死に言い聞かせるあまり、涙ぐみそうになっているデイビスの掌を、そっと両手で包み込むと、あらゆる怖いものから彼の魂を守るかのように、深い声色で囁いた。
「大丈夫。何を考えているのか、わかるよ」
それは、口で交わされる会話ではなく、彼の心へと直接向けられた語りかけ。暖かい静寂に満ちあふれた瞳が、見あげるように彼の顔を覗き込んでいた。今までずっと、求め続け、見失い続け、取りあげられ続けたもの。恐らくは、この眼が、ずっとほしかった。
他の人間だったら、自分のこれほどまでに過敏な傷つきやすさは、からかわれていた気がする。いや、過去には実際にその弱さを揶揄されて、冗談半分で話の種にされたことが何度かあった。それが普通の人間の愛情表現で、交流の仕方なのだと思っていた。だから自分も、何も言わないか、笑っていた。
けれども彼女は、伝えてくる。大丈夫だよ、と。他の人がどうであろうが、強がったり、自分を責めたりする必要はない。どんなに傷つきやすくたって、繊細だって、あなたは誰よりも優しい心を持っているって、分かっているから、と。
デイビスはしばらく、陽射しを捧げ尽くすように暖かな鳶色の瞳を、その揺らめく眼に捉え続けていたが、やがて顔の見えなくなるくらいまで深く俯いた後、包み込まれた自分の手に力を込めて、小さな声で囁きかけた。
「今日は、ずっと一緒にいたい」
「うん、そうだね。そうしようか」
賛同を示したカメリアは、震えている彼の濡れた頬を拭うと、手を繋いで、メニューの前に連れてゆき、
「どれが美味しいのかな? デイビス、どう思う?」
と、何も見ていなかったかのようにさりげない口調で訊ねた。
———自分は、彼女に理解されている。彼女が考えていることも、陽射しが溢れるかのように分かる。
言葉だけではなく、空気も、眼差しも、身動ぎも、繋いだ手でさえも、あらゆる物事が彼女との会話になるように。こんなことは、今までになかった。見つめるものが柔らかに変わり、そして互いの裸の意思に触れる。その刻々とながれる対話の中に、自分も、彼女もいる。一緒にいる限り、互いのすべてを分かち合える。
「美味しい」
「ああ。俺のも呑むか?」
「呑む。私のもあげる」
本当に大切なものは何なのか、分かっている。ながれてゆく時間の、この、ほんの一瞬。戯れる蝶のようにひそやかな、ほんのちいさな囁き。一度も声になることのない、けれどもふと浮かびあがった思いが、積み重なるようにしてすこし前を照らし出す。肌など、肉体など、なくなってしまった気がした。劇的な言葉を交わしたわけでも、印象的なことが起きたわけでもないのに、この人と過ごす時間が、一番忘れがたいと思った。それは焰でもなく、太陽のようですらなく、ひたすらに何にも喩えられない、目に見えないこの空気の中で、静かに取り交わされた。
夕刻が近づいてきていた。
今度はちゃんと酔わなかった、とドヤ顔を披露するカメリアを、仕方なしに褒め称えてやった。それでもやっぱり、ほのかに頬に赤みが差しているのを見て、可愛いな、と思ったりもする。大人しく、薄っすらとした黄金を湛えるグラスに口をつけているカメリアは、花の妖精のようだった。
目が合うと、ひとつ瞬きを残して、胸の中の幸せを精一杯伝えるように微笑んでくれる。そうして、いつも手向けてくれていた彼女の思いやりを、自分はどれだけ取りこぼしていたのだろう。今はそのひとつひとつが、例えようもなく優しいと思った。それは、その向こう側に、彼女の心があると分かっているからだ。だからこそ、そのすべてを、見逃せるはずがない。記憶したい、すべての瞬間を。
二階のテラスの席に座って、向こうに見える海を見ながらワインを呑んでいると、時間を忘れそうだった。けれどもこうして、一秒一秒が過ぎてゆき、やがて日が沈んでゆくんだろうな、と感じる。様々な思い出が胸をよぎっていった。そういえばピクニックしたな、とか。ニューヨークの遊園地ではしゃいだ夜は、楽しかったな、とか。言葉を交わさなくても、一緒にいるだけで分かち合えるものはあって、たくさんのことを話したいようでいて、何も言わずに寄り添うだけで、最も深く理解し合えている気がした。けれども、時々不安になる。相手と心が通じ合っている、というのは、自分の一方的な思い込みではないだろうかと。
試しに、こっち見ろこっち見ろこっち見ろ、と心の中で強く念じてみると、彼女は肩をすくめて笑った。ぎょっとしたが、念じている時の彼の顔がおかしかったらしい。
「あなたって、本当に分かりやすい人だわ」
「わ、悪かったな」
「悪くなんかないわ。心根が、素直なのよ」
彼女の言葉は、物事を、一番飾り気のない場所へと差し戻す。彼のことをずっと、あなたは優しい、素直な人だ、と囁き続けたカメリア。今となっては、本当に自分がそうなのかは分からなかった。だが、彼女の言葉を信じ、それに近づいてゆけるように努力してゆきたかった。
カメリアの手は汐風の中に置かれて、グラスに残ったワインの反射を受け、浅瀬の水底のように波紋が揺らめいていた。その手を、風から庇うようにそっと握り締めてみると、彼女は静かに振り返り、彼の目を見つめ返す。心の底まで見透かすような眼差しだった。そして、ゆっくりと瞬きをすると、善良な慈愛を露わにして、あの驚くほどに情深い声が、その唇から発せられるのだった。
どうしたの、デイビス?
息を奪い去るように、その声は彼の中の、一番脆くて暖かいところに触れる。彼を静かに見つめながら浮かべられたカメリアの微笑みは、白い林檎の花のひとひら、ふたひらが、煦々たる光の中にこぼれ落ちるようだった。甘い歓びに酔い痴れるでもなく、底抜けの明るさを放つでもなく。ただ、心の奥に秘めている事柄に気づいて、傷つきやすいそれをそっと抱き留めるようで、そうして彼以外のことは何もかも手離して、変わりゆく子どもを母親が見守るような眼差しのまま、彼の心の動き出すのを待っている。恐らくは、このまま沈黙が続いたとしてもけして無理強いをせず、その奥底の思いを、時間の流れの中で受け止めてくれるだろう。待つということ、相手が安らぐまで、何も言わずに信頼するということ、それがカメリアの示す、最も暖かみに満ちた深切さだった。
その声を聞くと、何も言えなくなる。この世で一番優しくふぶいてくる風を、全身に浴びたような気がする。いつもなら、それが怖くて、目を逸らすはずだった。けれども、堪え切れないと思いながらも、じっと彼女を見つめ返すしかなかった。どちらも声をあげなかったし、身じろぎもしなかった。彼女はそっと労るように、繋いだ手の親指で、繰り返し彼の手の甲を撫でてくれた。それだけで、ひそやかに心に語りかけるような彼女の気配りが伝わってくる。彼の手を掌中の珠のように慈しんで、けれども、その掴みかけた儚い沈黙を壊さぬよう、それ以上は何も口にすることはなかった。
「キス……」
やがて、デイビスが口火を切った。その日の彼は、何をするにも、ちゃんと言葉に出すことを課していた。それはリハビリのようにぎこちなかったが、自分には必要なことなのだと、愚直に従った。テーブルの日向の上で繋いだ手に意識をそそぎながら、ゆっくりと舌を動かす。
「…………キス、が、したい。……あんたと」
低い切れ切れの声が空気を震わせると、カメリアが、傾き始めた陽の光の中で、そっと目を細めた気がした。微笑するかとも思ったのだが、今度は笑うこともなく、表情を変えることも、頷くこともなかった。酷く素直な、どこか遠い目で見つめたまま、
「どうぞ」
と、真面目な声で言った。
陽は、柔らかな色に変わっていた。昼というには静かで、夕暮れというにはまだ眩しい時刻だった。デイビスはおもむろに席を立ち、反対側にしつらえられている、彼女と同じベンチに腰掛け、その手を握った。軽く木の軋む音とともに、カメリアの顔へ、薄い翳が落ちる。すでにそばに生えている蔦の葉が、透けるように陽を乱れさせ、その肌は複雑な光と翳を反射していた。彼女の澄んだ鳶色の瞳の中で、自分の像が揺れていた。髪をよけ、頬を撫でると、彼女は瞼を伏せた。人形のように見えた。
一拍置いて、唇に、微かな感触が触れてきた。そっと押し当てるだけの、挨拶のようなさりげなさだった。長い時間が過ぎたのか、それとも束の間なのか分からなかったが、その中ほどで、少しばかり顔が傾き、擦れ合った。握り合う手に、同時に、静かな力が込められた。遠くの方で、子どもたちがはしゃぎながら駆け出す声が聞こえた。それからまた少し経って、柱に絡まる蔦が、乾いた枯れ葉を数枚、地面に落とした。それ以上は何が起きることもなく、微かな風が通り過ぎ、やがてゆっくりと衣擦れの音がして、暖かい気配が離れていった。潮風が吹き、二人の髪をさらった。葡萄の匂いが鼻腔を掠め、そして過ぎていった。カメリアはようやく、はにかんだように笑った。つられて、デイビスも笑い出した。白ワインの滴が、グラスの底に陽を浴びて光った。結局、その日彼らが交わした接吻は、そのただ一度きりだった。
夕食を終えた後で、深い闇を跳ね除けるように輝く無数の街燈の下をそぞろ歩きながら、彼らは黒々と波打つ海の音を聞く。広場の石畳は、まるでダンスホールのように光芒に照らし出されて、人々のドレスは少し冴えたようにその色合いを変え、どこか高揚した胸を衣の下に仕舞っていた。ミラコスタの巨大に立ちはだかる壁は、その四角い窓のひとつひとつに、今夜そこで眠る人々の明かりを灯していた。そこには、少しばかり浮き足立った生活が秘められていた。おびただしい光の中で、メディテレーニアン・ハーバーは、暖かな銀河のようだった。そのあまりに充足した虚空に、時折り、酷く心細くなる。するとカメリアは立ち止まって、彼が追いつくまでの猶予にとどまる。その、距離。幾尋も離れたような、人間と人間の間。誰が横切ろうとも、何も揺るぐことのない、このちいさな何メートルか。
彼女は、名前を呼ばない。彼だけを見つめ、彼が辿り着くのを待っていた。まるで、彼女の世界にはたった一人、彼だけしか存在していないかのよう、それゆえに、これほど宇宙の奥底から押しひしゃげてくる虚しい闇の中でも、もう一人の人間の名を呼ぶ必要はない。海の匂いが、ミラコスタの堂々たる佇まいを覆い、カーテンを開けるメイドが描かれたトロンプ・ルイユや、節税のために潰された窓、均等に割り振られた数多くの宿泊客たちの命を区切り、ベッラヴィスタ・ラウンジを行き交う人々の影法師を、たまゆらの波紋のようにおびただしく、夢々しく見せた。中は橙黄色の明るさが満ち溢れて、まるで世界中の家庭の暖かさを詰め込んだかのようだった。けれども彼らは、そこを訪れなかった。もっと深い、真っ黒に沈んだ海の方面へ、時折り頭上を過ぎてゆく街燈に目を細めながら、そばにい続けた。生ぬるい風が、柔らかに彼らの服の裾を揺さぶり続けた。闇に包まれたハーバーの彼方に見えてくるのは、ちらちらと、夥しい猫の目のように瞬く蠟燭の群れ。その一帯だけは、今も十六世紀の闇の払い方を頑なに護り続けている——数時間前には、その黄金の丸屋根を黄昏に照り映えさせていたに違いないフォートレス・エクスプロレーションや、揚々たるマストの輪郭をちらつかせるガレオン船の背後に、この地を包容するように聳え立つ、険しい火山の影が夜空を庇っている。あれはVulcano Prometeoと呼ばれている山なのだ、とカメリアは彼に教えた。ポート・ディスカバリーのプロメテウス火山と似ているようだが、死火山であるそれとは異なり、今でも時折り、火口から火を噴く。その様は、伝説のプロメテウスが齎した人類の原初の炎を思わせる。
「あそこが、この地域一帯の始まりね」
と、桜色の唇が紡ぐ。
「カルロス一世から賜った砦を拠点として、十六世紀に誕生した協会。大航海時代には、多くの冒険家や探検家たちがあそこに集まって、情報交換をしたんですって」
そう語るカメリアの、何気なくその唇に目を留めて、デイビスはふっと視線を逸らした。
「S.E.A.か」
「知っているの?」
「ああ」
「あの砦は、メディテレーニアン・ハーバーに生きる私たちの誇りなの」
その港町に降りる闇は深かった。しかし、それを払うように明かりは灯されて、そんな光景のひとつひとつが、愛おしかった。誰も彼もが、地平の上に照らし出された。みな平等で、みな孤独だった。街燈の灯りが地面に当たるだけの場所に影を落としたまま、カメリアは夜の匂いを浴びていた。広場の簡素さに包まれて、その背丈は酷く心細い。デイビスは無言で自分の襟を押さえ、イタリアの地面を見下ろしていた。夜は暗く、深く、そして広かった。これらの光景は、もうこれから先、ほとんどの人類に思い出されることはなかったのだとしても、しかし今は何よりもその暖かさを誇っていた。無数のランプが、祈るように、儚いように、ぼんやりとした透明な光芒を海へと投げかけている。
デイビスは、陸と海を隔てる黒い鉄柵を掴み、隣にいるカメリアに向かって、静かに語りかけた。
「……あのさ、カメリア。今日は大事なことを、あんたに伝えたくて」
茫洋とした海風が、全身を包み込み、心が躍るようだった。
不思議と彼女は、彼の方を振り返らなかった。海の黒さを見つめながら、なぁに? とだけ、ちいさく呟いた。
「もう、ここには来るなよ」
カメリアは、身動ぎもせずに、黙念として彼の言葉を聞いていた。
さらさらと、彼女の髪が流れる微かな音が聞こえた。
「あんたの生きるべき時代はここじゃない。それを言いたくて、今日は誘ったんだ」
言い終えた後で、しばらく沈黙が続いた。海を前に俯いているカメリアの肩が、酷くちいさく見えた。その肩が震え始めるのが怖くて、目を逸らす。そばで、情熱的な愛を囁きながら通り過ぎる、着飾った紳士淑女の衣擦れの音が聞こえ、彼らは笑いさざめきながら、カフェ・ポルトフィーノの方へと連れ添っていった。ミラコスタの外壁に備えつけられた時計は、青と白の美しい光を放ち、その宝石のような星座の装飾のうちに、細い長針を僅かに揺らした。
彼女は、自分のためというよりも、彼のためにこそ、夜の波間に広がる沈黙を置いているように思えた。まるで、告げることよりも、その答えの方こそが重みになることを知っているかのように。
「うん。私もずっと、そう思ってた」
至極、短く。
ぴくり、とデイビスは肩を震わせた。海の匂いが漂い、風が抜けた。
「あなたには平和な時代が似合うわ、デイビス。体に気をつけて。最後は、笑顔でお別れしましょう」
デイビスは、静かに隣の女性の方を向いた。その言葉に嘘はなく、明るい——本当に曇りのない笑顔が、浮かびあがっていた。
それは暖かかった。
そして、果てしなく寂しかった。
夜の底で、はたはた、とドレスの裾が微かな音を立てていた。遠くで、夢のようなイタリアの民謡がスピーカーから流れ、風に掻き消えそうになった。帰ろっか、とカメリアは呟き、また幸せそうに微笑んだ。星はしんしんと降りそそぐようで、濃密な宇宙が、闇夜を巨大な墓土の如く遠ざけていた。そしてその時、これが最後なのだ、という意識が、はっきりと湧きあがった。こうして、彼女の笑顔を見るのも、言葉を交わすのも。この先、一度も叶わなくなって、そしてもう、一度も会えなくなる。
彼女は、このまま死んでしまう。
俺の知らない世界で。ここで別れたら、完全に人生は分かたれて、彼女は過去の人間になってしまう。
それはまるで、自分が彼女を見捨てて、命を助けられなかったのと同じようだと思った。
「————どうして、何も言わないんだよ?」
自分でも背筋の凍るほど、ぞっと冷たい声が出た。カメリアは微かに目を見開いて、初めて、戸惑ったようにデイビスを見た。その様子に奇妙な苛立ちを覚えた。今まで、どんなに下手な伝え方でも分かってくれたにも関わらず、一番大切で、一番言葉にならなくて、一番感じてほしいことだけが伝わらない。
でも、言葉にしたら、すべてが出てきてしまいそうで、堪えられるものなんて何もないと思った。耐えられない。込みあげる感情を口にしなければ、耐えられない。
「あんたって、ずっとそうだよな。何を言うにも、何を言わないにも、俺のことしか考えていなくてさ。自分の考えは、ねえのかよ。どうして何でもかんでも、無理に俺に合わせようとするんだよ」
「デイビス、私……」
「俺と会えなくなって、平気なのかよ。デートだって言っただろ。もっと俺に期待してくれよ。楽しみにしてたんだろ? いつもみたいに、俺のことを振り回してくれよ。楽しかったんなら、戻る必要なんてどこにもねえだろ。他に何もいらないだろ!? 帰りたくないって、ここにいたいって、さんざんわがまま言って、俺のことを困らせてくれよ——!!」
滅茶苦茶だ。ここにいるべきじゃない、と突き放しておきながら、残酷な表現で焚きつけて、彼女からの否定の言葉を期待する。情けなくて、くだらなくて、ごみみたいな感情だ。捨てたはずなのに、ふたたび、身勝手な願望が込みあげてきて、それがあまりに馬鹿馬鹿しくて、自分が泣いていることにも気づきはしなかった。この先、彼女のいない未来など想像もしたくなくて、明日からひとりで生きてゆけるかどうかも分からなくて、その事実から逃避しているだけだ、と心の内で誰かが囁く。そんなことは分かっている。でも、それならどうしたらいいのか、誰も教えてくれなどしない。何が彼女のためになるのかも、何が彼女の幸せに繋がるのかも、全部全部、ひとりで考えるしかなかった。だから、けして分かりはしない。何が本当の正解だったのか、本当にこれで、彼女が一番幸せになれるのか。
そしてその日、それだけは絶対に口にすまいと心に決めていた言葉を、デイビスは叫ぶように口にした。
「あんたが好きだ。誰よりも好きだ。他の何を捨てたっていい。あんたと、ずっと一緒にいたい」
それは、今までずっと押し殺してきた想い。
胸が氷のように痺れて、どうしようもなく痛んでいた。けれども、今言わなければ、きっと一生彼女に伝えることなど叶わない。だから今だけはと、決めていたことを裏切って、全身で迸るように、それを口にした。
「もう一度、俺の時代に生まれてきてくれよ! どんなに歳が違ったっていい、美人じゃなくたっていい、偉大なことなんかしなくていい、英雄になんかならなくたっていい。俺に会うために、もう一度この世に生まれ変わってきてくれよ。せめて、婆さんになっててもいいから、百年でも二百年でも、生きてみせろよ。このまま、本当に俺と別れたって平気なのかよ!? ふざけるなッ!! それなら、それなら最初から会わない方が、ずっとましだったじゃないかッ!!
頼む、何とか言ってくれよ! 一人は怖い——こんな夜の中で、ひとりぼっちになるのは怖い。同じ夢を見る人間がいなければ、たった一人で、乗り越えられるはずがねえんだよ! ここで生きるって、この世界に残るって、そう言ってくれよ! カメリアッ!!」
叩きつけるように激情の限りをぶつけるデイビス。それがいくら彼女を傷つける内容だとしても、伝えずにはいられなかった。
凍るような星の海の下、カメリアは栗色の髪を揺らしながら、ただ哀しげに微笑んで、デイビスを見つめていた。それが憎くて——怖かった。自分の涙の意味が、少しも伝わっていないかのようで。いや、もしも彼女がすべてを理解していて、その表情を向けられているとしたら、その方がもっと堪えられないと思った。彼女は、自分の知らない時代に囚われて——そして、その人生を終えてしまう。そんなのは絶対に認めない。だって、いつもひとりぼっちを恐れて、救いを求めていたのは、あんたじゃないか。けれども今は、ただ二人の終わりを迎え入れるように、少し困ったような表情で微笑するだけだ。分かっている、彼女は自分のためを思って、けして涙を見せないと決めているのだと。だからこそ、欲しいのはそんな配慮なんかじゃないと、全身が激しい怒りに震えていた。
「あんたなんて、大嫌いだ。いつもいつも、なんてことのないように笑って、俺の心をめちゃくちゃにしてゆきやがって。誰よりも、誰よりも大っ嫌いだ……!!」
夜の闇の中で、潮騒は、心にざわめくように泡立った。星が、彼らの外に張りめぐらされた暗闇を侵し、強大に膨れあがっているように見える。見ていると、あまりの星の光に呑み込まれるかのようである。世界に、ひとときも安寧はなかった。遙かまで遠く、無音の轟音を孕んでおぞましく、宙に浮かんだ星々は、脳をえぐるように輝いていた。そしていずれもが、爆発的に震える虚空を、物悲しげに見つめていた。
夜は深い。
しかし、彼女にとっては、そうではなかった。
ここは、別の光で溢れ返るほどに眩んでいた。
ふいに、カメリアの首が傾げられ、手が伸ばされた。抱きしめられるのかと思ったが、そうではなかった。その温かい手は、彼の頬に添えられて、じっと、何かを確かめるようにデイビスに触れていた。
何か、彼を慰めるような言葉が、その舌に載せられるのかと思った。けれども、その予想も外れた。彼女が口にしたのは、まったく違う言葉であった。
「ねぇ———耳を澄ませて」
宇宙の真ん中で呟くような声で、撫でた頬にそっと囁きかける。
それまでずっと、彼女しかそそがれていなかった意識が、ようやく別の場所へと解放される。震える息をつくと、狂おしいほど潮にまみれた吐息が、暗闇に溶けた。
「聞こえる? 波の音。きっと、風が海を揺すぶっているのね」
カメリアは静かに微笑んで、黒い海に響く小さな水音に、耳を傾ける。
確かに、聞こえた。寄せては戻る波。今までに訪れたどんな海の街も、この音を宿していた。夜はすべての時空を近づけ、そして遠ざける。ちらちらと、背後のミラコスタの電球や、ポンテ・ヴェッキオから漏れるランプを反射して揺れ動く、遙かまで広い海。要塞から漏れる蠟燭も、博物館の最後の灯りでさえも、その夜は溶かし込んでいた。
何万年、何億年と、そうして波をちらつかせていたのか分からなかった。
ただ、星の光すらも、波間に輝かせて。この地に生きてきた、無限の人々の息吹が、その下に眠っている気がした。
「遠い昔のことよ。私を初めて空に連れて行ってくれた人が、飛んでゆく鳥を見ながら、独り言のようにぽつりと呟いたの。前に少し、触れたことがある人物かもしれないわね——その人は墜落事故で、ずっと前に亡くなってしまったのだけれど。
彼女は、こう言ったのよ。
空を飛ぶって、何なのだろう。
私は何のために、空を飛んでいるんだろう——って」
目に見えない汐風の中で、カメリアは夜空を見あげた。まるで、遙か昔のS.E.A.で交わされた、太陽系の天体についての議論を、その頭上の彼方に確かめるかの如く。
「まだ幼かった私は、その言葉の真意がよく分からなくて、恐らくはぐらかしてしまったんでしょうね。あの人が、酷く寂しそうな顔をしたのを覚えている。そして、私のようになってはだめよ、と囁いて、誰にも理解されないことを悟った孤独の中で、笑っていたわ。
けれども、時が経つごとに、あの人が何を思ってそれを呟いたのか、分かるようになったの。生きることで、私は死したあの人から遠ざかるはずなのに、徐々に彼女の魂に近づいていっている気がする。分かるのよ。あの人が何を恐れていたのか、何を望んで、空に飛び立っていたのか。
あの人は、歴史上初めての女性。気球操縦士という職業に就いて、永遠の名を刻んだわ。けれども内面は、その偉業から受ける印象とは正反対。神経質で気難しいばかりに、多くの人に奉仕しなくてはならないと信じ込んでいた。あの人は弱かった——とても弱い人だったわ。傷ついて傷ついて、何かで傷口を埋めたくて、それを飛行に求め、称賛を浴びることでガラスのような精神を保っていたのよ。当時の皇帝だったナポレオンにも気に入られて、でもそれこそが一番の重圧で、飽き性である彼に見捨てられまいと、身の危険を顧みずに必死だった。気絶したり、低体温症に襲われたりしながらも、何度も何度も飛行した。ナポリ王もルイ十八世も、夢中になった。拍手喝采だったわ、誰もあの人の弱さに気づかずにね。そして、大衆に応えるための花火が、彼女の命を奪ったの」
彼女の口から語られる、彼の出会ったことのない一人の飛行士の人生。けれども、そのすべてが見知らぬことだとは思えなかった。
その精神の繊細さも、人々の期待も、重圧も。デイビスには、どこか、覚えのあるものに感じられた。
「……その人、は。俺に似ていたのか?」
「そうね。あなたがもしも、私の時代に生まれていたら、あんな風に気の狂うほど追い詰められて。そうして、亡くなっていたのかも」
「でも——俺、は」
「そうよ。あなたは生きようとした。あんなに激しい嵐のさなかでも、他人のために、そして自分のために生きたいと願ったの。それが、私たちと決定的に違うところね」
「なんで。なんで今、そんなこと——」
「死にたかった」
カメリアは、懐かしむように、ぽつりと言った。
「死にたかったのよ、私もあの人も。いずれ墜落死を迎えるために、空を飛んでいたの」
デイビスは、その言葉を受け入れがたいように、ひたすらにカメリアの眼を見つめていた。彼女は振り返って、ふっ、と笑った。
「そんな顔しないで、デイビス」
「だっ、て。……あんたみたいなヘラヘラした奴が、そんなこと、」
「なぜ、死に言及することを恐れるの? 人は必ず、死ぬわ。
それに私はもう、あなたの生まれてきた時代には死んでいる。それは当たり前のことよ」
「当たり前じゃ、ねえよ!」
「……そう?」
「なんでそんな簡単に言うんだよ。確かに俺たちは、全員死ぬよ。でも人間が死ぬのは、当たり前のことじゃねえんだよ。だから俺は、ストームライダーに乗って、みんなを守りたいって思ったんだ!」
「ええ、それがあなたの夢ね。でも私の場合は、違ったの」
カメリアは神妙に睫毛を伏せると、低い声で、呟いた。
「私の夢は、私が死んだ後のこの世界に平和がもたらされ、人々が大空の下で、自由に夢を見る時代になること」
「違う!」
「死後のことしか、考えられなかった。自分の生きる時代を、直視する勇気がなかったから」
「違う。そんなのは、違うんだ」
「遺したかった。せめても、人々を傷つける時代に、抗いたかった」
「ふざけるなよ。他人のためじゃない、自分のために飛行機に乗れよ。あんたは飛行士なんだろ! 飛行士の誇りは、生きて、飛び続けることだ!」
「大丈夫よ、死なないわ。……あなたに出会って、気が変わったの。
ミニーは前に、私にこう言っていたな、『あなたはひとつの夢の中に、ふたつの目的がある』って。そうねえ、いつのまにか、そんなことになっていたのかも。人生っていつも、予想のつかないものね」
一面の降るような星空。ああ、星が美しいのは、こんなにも世界は広くて、けして理解しきれないということを教えてくれるからだ、とカメリアは思う。
彼女は星空を仰ぎながら、そっと、懐かしそうに囁いた。
「ドリームフライヤーで時空を超えて、あなたと初めて会った時。空は突き抜けるように青くて———
あなた、一文無しだったわね」
「今、それを言うか!?」
「未来は聡明な人ばかりだと思っていたのに、こんな情けない人もいるんだって。そしたらなんだか、馬鹿らしくなっちゃった」
「わ、悪かったな。あんたにたかるほど、スカンピンでよ」
カメリアは鈴のように笑って、デイビスを振り返った。
「それに、ね。ウインドライダーにも乗せてくれたでしょ? まさか私のたった一言で、あんなに無茶してくれるとは思わなかったけど。楽しかったなあ——
あのね。未来は、私の考えていたよりずっと明るくて、平和で、優しかったの。だめだったのは、私だった。まだまだ、いくらでも頑張れるはずなのに——それこそ、誰に何を言われようと関係なく、あなたみたいに空を飛べるはずだわ。だって飛行の精神の根本は、自由を目指す心なんですもの。
あなたは私に、色々なことを教えてくれた。向こう見ずだし、平気で人に反抗してばっかりだったけど、確かにそういうところは私に足りないなと思ったの。あと、好きなものを好きっていう強さ。自分の意見を押し通すやり方。図々しさ」
「ちょいちょいディスるのは、なんなんだ?」
「それでね、考えたの。——デイビス、どうしてあなたみたいな人が、この世に生まれてきたのかしら。
私は、あなたに何ができるんだろう。
あなたの生きる世界に、いったい、何を残してあげられるんだろう——って」
思ってもみない形で自分の名を語られ、心臓が深く鼓動した。カメリアは汐風を浴びながら、海の音に掻き消されることのない、静かな声で言った。
「ウインドライダーは、ドリームフライヤーを前身として造られた飛行機なんでしょう?」
「……気づいて、いたのか」
「あなたはやがて、私の発明品の後継機に乗るのね」
カメリアは、微笑ましい子どもの悪戯でも見守るかのように、ふと笑みを浮かべた。
「あの飛行機には、ドリームフライヤーへの憧れが詰まっていたわ。あれほど精巧に作りあげているなら、わざわざ真似をしなくてもいいような、数々のオマージュ。私でも忘れかけていた部分まで再現して……そのために、少しばかり無茶して実装している箇所もあったわね。けれども技術は、私に理解できないものばかりで、この飛行機ができあがる頃には、私はもうこの世からいなくなっているんだろうということも、なんとなく察せられた。
まさに、次世代の乗り物だったわ。さぞかし、ワクワクしながら創ったのでしょうね。あれが大空を飛ぶことを夢見て、たくさんの人が語り合って。未来は、想像よりもずっと美しくて——人々は太陽のように輝いていた。
それでも、デイビス、私が出会った中で、あなたが一番綺麗な人だった。あなたは他人のために飛行機に乗り、平和な未来を齎すのが夢だと言った。そして、俺が行かなきゃいったい誰が、本当の大空へ連れ出してくれるんだって——あなたはそう語っていたでしょう?
あなたはヒーローだった。私が心の底で、ずっと描いていた理想像。あなただけが、私の夢の先を力強く歩いていた。
あなたは美しかった。誰よりも美しかった。いつだってあなたは、自分の故郷を愛して、そこに生きる人々を、真っ直ぐに守ろうとして。私の弱さにも、あなたの苦しみにも、絶対に、この命の輝きを穢されてはならなかった」
それは、彼女の語る、もうひとつの英雄譚だった。
彼がけして知ることのない——彼女の目に映った、一人のヒーロー。
それは、不器用で、繊細で、けれども底なしの光を心に宿していて。そして、誰よりも、故郷の人々を想う青年。
この人のように人を愛することができるのなら、きっと、何も怖くはない。
同時代の人間すべてを恐れるカメリアにとって———その存在は、まるで、天啓のようだった。
失いかけていた、人への真っ直ぐな想いも、誰かを守ろうとする誓いも。デイビスにはすべてがあって、何よりもそれに魅せられた。だって、その青空のような優しさは、幼い頃の自分が憧れていた、理想の《私》だったから。
この世界は、やがてあの人が生きる世界。
世界はやがて、彼を受け入れ、彼を生まれさせる。それはこの先に待ち受けている、彼女が立ち向かうべき、途方もない事業の果てのように感じた。
——————彼が、未来で待っている。
それは、なんと力強い確信なのだろう。どんな形で倒れても。例え死んでも。その骨を、いつか未来に生まれてくる彼のあの手が、必ず拾いあげてくれるかのようで。
彼がこれから先、絶対に生きることに絶望しないように。私は、ありったけの美しさをこの世に刻み込み、デイビスが、デイビスとして生きるための道を切り開こう。
誰に理解されなくても構わない。
あの人だけは、この胸に燃え盛る情熱を受け取って、前に進んでくれるから。だからこそ、私がここで立ち止まってはいけない。
彼が世界を愛し、愛されるようになるために。
この世のどんな不条理にも負けない———《ヒーロー》に、なるんだ。
———それが、彼女の物語の幕開け。そして、未来へと向かって、時間は動き出す。
英雄として生きる。
それは、彼女が人生に対して、"仲間"も"共感"も求めるのを切り捨てた瞬間だった。独りでも良い、英雄として生きる。この先に生まれてくる、たった一人に未来を届けるために、自分のこの道を貫き、世界を変革する。長い旅路が始まり、彼女は階段を登る。この人生を生きること、それは遠い未来に生まれてくる彼が、平和な世界に生きて、あの日、自分と出会うことだ。
これから先、二度と彼に会えることはなくても、あの日の出会いは未来に残る。私の夢は、彼に託され、彼の夢は、さらなる少年たちへと託される。止まることなく、時は進み続ける。
私には、叶えるべき夢がある。
何を失っても、果たすべき努力。それは彼に出会った時点で、自分自身の意志で、決めたのだ。
———世界は、人間たちの物語で満ち満ちている。
私は、それを守り、この地に平和を育むために、たったひとつの物語を描こう。それは、彼へと受け継がれるべき、空の上の物語。あなたに向けて、私はこの物語を紡ぎ続ける。
きっと、この物語を読む者は、未来に生まれてくるから。無駄などではなかった、この邂逅は。人生そのものが、未来への愛となりうるのだと、その時、初めて知った。ともに生きなくても、死してなお、彼に残せるものはある。遠い過去から未来へと受け渡す、これは英雄から英雄への最大の贈り物。
これもひとつの————命の証なのだと。
「元の世界に帰れば、欲望と権力が渦巻き、西欧が他国を侵略してゆく時代が待っている。けれどもドリームフライヤーなら、国境を超えて、飢えた人々と一緒に耕し、虐げられた人々とともに闘い、絶望した人々と自由を語り合うことだってできる。ワクワクするでしょ? 世界平和のための冒険——今まで、誰もそんなことをしてこなかったわ。でも空を飛べるようになれば、それができる。人々の心を繋げられれば、きっと、世界は変えられる。
いつか、この世にポート・ディスカバリーが生まれて、そこでは誰もが平和を愛して、ストームライダーが飛び立つのを夢見る。私は知っているの、今は存在しなくても、未来には必ずそんな街が生まれるんだって。人々は自由に科学を研究して、一度も肌の色で揉めたことがなくて、どんな嵐にも命を奪われることはなくて。そんな素晴らしい故郷で、あなたは世界中の人に称賛されて、英雄のように笑っているのね。
あの日、あなたが夕暮れの中で語ってくれた夢は、この世から平和がなくなった瞬間に、存在しなかった可能性として消えてしまうのかもしれない。でも、私が生きている限り、そんなことはけしてさせはしない。カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコは、誰よりも素晴らしい夢を描ける天才なの。ポート・ディスカバリーは、けして幻の街なんかじゃない。私は確かにあの理想郷で、最高に格好良いヒーローに出会った。誰にだって、この思い出を消させやしないわ。あなたと出会ったあの日に繋がる歴史は、必ず、私が世界の上に築きあげてみせるって——あなたの夢を聞いた瞬間に、私は誓ったの。やがて種は芽吹き、花が咲きこぼれ、風に触れて、新たな時代を連れてくる。この地上に、平和の街が築かれ、あなたが生まれてくる。あなたは生きる、太陽のように、故郷を愛して、大空へと飛び立って。いつか、世界中の人々が、キャプテン・デイビスの名を口々に讃える日がやってくる。そしてそれこそが、私がこの世に生まれてきた、最大の意味なんだって。
あなたとキスしたり、一緒にお料理を食べたり、お店に出かけたり。そんな関係になれなくても、きっと誰よりも、あなたの夢を守る存在になれるなら。それは私にとって、一番誇り高い人生よ。だって私は、夢に向かって突き進むあなたの笑顔が、大好きだったんだもの」
「————カメリア」
「これが、私の恋の仕方なの。なかなかロマンチックでしょ?」
そう言って、カメリアは静かに微笑むと、手を伸ばして、涙に濡れているデイビスの両頬をそっと包み込んだ。指先が、優しく目元を拭う。忘れたくない感触が、肌に痺れて、沁み通ってゆくようだった。
「たくさん悩んでくれてありがとう、デイビス。あなたは、何が私のためになるのかをずっと考え続けてて、結論を出してくれたのね。あなたが私を傷つけたり、人生を縛りつけたなんて思わないで。私は誰にも譲らずに、今あるこの人生を選んだの。あなたと一緒にいることができて、とても幸せだったわ」
その言葉で、デイビスは思い知る。彼女は本当に、大空のように——心から自分を愛してくれたのだと。溢れんばかりの愛情をそそいで、そして己の辛さも苦しみも、けして足を止める理由にはせず、世界を変えようと願い続ける。彼女からの愛情は、彼女の夢や生きざまと同じだった。だからこそ彼女は、まばゆい輝きを背負いながら、彼のそばで微笑んでいたのだと。
彼女のいない世界は、空っぽなんかじゃない。彼女が懸命に生きて、哀しい物事と闘い、変革し、そして遺してくれた未来だ。やがてそれが彼の舞台となるのに恥じぬよう、持てる情熱のすべてを賭けて、この先の世界が平和になるよう尽力し、彼に夢を託したのだ。世界の真新しい時代も、昨日を忘れ去るように輝く明日も、それ自体が、彼女の願いを語り継ぐ大きな前進だった。そして彼の前に解き放たれた朝の光は、忘却された永遠の過去から、限りない時の海を超えて手渡されていた。
————あなたが夢を叶える日を、信じてる。あなたならきっと、その遠い場所へと辿り着けるって、分かっているから。ずっとずっと、信じているわ。
本当は彼女が自分にそう伝えることを、心のどこかで知っていた。けして受け入れられないと思っていたのに、その言葉に秘められた覚悟で、全部、救われたような気がする。そしてその瞬間、彼女の命のかけらが、確かに彼の心にも芽吹いたように感じたのだ。
カメリアは手を伸ばして、デイビスの背中を抱きしめた。あやすように暖かい温度に包み込まれ、そしてそっと頭を撫でられる。その手つきに、心が張り裂けるような思いがした。それはけして、恋人同士の間で交わされる甘い戯れではない。もっと大きな、胸に染み込む感情によって衝き動かされていた。それは恐らく、同じ世界に生まれた、友達、のようなものだった。
「怖くない。怖くないわ。みんな、夜闇の中で、震えるように生きている。それを切り開いてゆけるのは、明日の光だけ」
「カメリア……」
「大丈夫。あなたは、一人でも生きてゆけるほど強くなった。ここから先は、あなたの物語よ」
彼女の暖かさが、夜の中の胸に宿る。涙を隠すように、デイビスが強く抱き返すと、彼女は肩を揺らしてくすぐったそうに笑った。彼女は泣いてなどいなかった。ただ、一瞬一瞬を慈しむように、ちいさく彼の背中を叩いて、幸せそうに微笑んでいた。
「俺が、好きか」
「ええ。大好きよ」
「今だけは、離れないでいてくれるか」
「ええ。あなたのそばにいるわ」
「ごめん。俺は、あんたを傷つけるばかりで。あんたから貰ったものを、何ひとつ返せなくて。たくさんのことを教えてくれたのに、何も、何も——」
「そんなことないわ。記憶の中の私はいつだって、楽しそうに笑っていたでしょう?」
「ああ、あんたはいつも俺に笑いかけて、世界は美しいんだ、人間は素晴らしいんだって教えてくれて。そんなあんたのことを、俺は大好きになったんだ」
彼女を抱きしめながら、自分の中の一番脆くて、一番大切で、一番輝かしいものに、身を委ねる。
この世界のどこにも、カメリアはもういない。けれども、思い出も、過ごした時間も、そしてこれから彼女が遺すであろう壮大な夢にも、まだ温もりが残っている。
それだけを支えにして、自分も、彼女も、未来を切り開いてゆかなければならない。最後の一ページに至るまで、ありったけの夢を描いて。自分には、自分の物語があるのだから。
ああ、そうだ。
夢を見れば誰もが、自分の物語のたったひとりの主人公になれる。
だからこそ。
傷つけてばかりだった自分を好きになろう。
青い光の中で、誰よりも純粋な夢を見よう。
そう、誓えた。だって、自分の中の夢も、情熱も、彼女の想いが流れ込んで生まれてきたものだから。主人公は、たったひとり。でも、一人で描いたんじゃない。一人で、この夢を見たんじゃない。
デイビスは涙を拭って、目の前のカメリアに告げる。
「約束してくれるか。あの日、雲ひとつない青空が広がっていたあの日、どうしようもなく落ち込んでいた俺と出会って、一緒にフライトして、俺の人生を変えてくれるって。俺が俺として生まれてくるための軌跡を、あんたが切り開いてくれるって———そう、約束してくれるか」
緑色の双眸が、不思議な輝きで満たされている鳶色の瞳を見る。カメリアは太陽の光のように笑って、暖かい手を差し伸べた。いつだって握手は、彼らの挨拶だった。それは同じ空の上の物語に魅せられた、自由の精神を宿す飛行士たちの、最初の絆だったのかもしれない。
夜が明けても、きっと時空を超えて、彼女とともに、未来に向かって歩き出せるように。
「約束するわ、デイビス。カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコは、必ず自身の夢を叶え、この未来の礎となることを。
私との思い出が、あなたの中から消えない限り、私は私の夢に向かって前進し、あなたと出会う未来を叶えようとしているの。だから——辛いことがあったら、目を閉じて。昔々、私のように空を飛ぶことに憧れた人間が、未来に生きるあなたを想いながら、一生懸命生きていたのだという事実を、忘れないで」
彼女の永遠に届かない未来のあの日、そして彼の永遠に戻れない過去のあの日から、終わらない物語は始まって。ハーバー史上最大の発明家と、マリーナ史上最高のパイロットの織り成した邂逅は、華々しい航空史の歴史書に語られることはなくとも、他ならぬ彼らの胸に、記憶を刻みつける。
「————キャプテン・デイビス。あなたの夢は、何ですか?」
これからも、彼女の存在は彼にそう問いかけてくれる。何度でも、彼はそれに答えるだろう。例え彼女がいなくなっても、世界に向かって、その答えを大声で響かせるだろう。そして彼は、その夢を実現するために、たった今、新たな一歩を踏み出したばかりだったのだから。
「あんたの夢を受け継ぐことだ、カメリア。あんたの涙を、希望を、情熱を、生涯を、すべてこの手で受け止めて追いかけることだ。そしてあんたの隣で、胸を張れるように生きてゆくことだ。あんたがくれたものを、あんたのすべてを、永遠に忘れずに未来へと受け渡すことだ。カメリア」
だから、強く握りしめる。彼女の夢を。
もう二度と、自分の生きる道を見失わずに、彼女の夢と、彼自身の夢を、繋ぎ合わせるために。彼女の未来と、彼の未来を、結び合わせるために。絡み合った二人の指は、それを象徴しているかのようだった。
そして、すべての糸は繋がる。未来に向かって。
《————みんな、今日は楽しかった?
さあ、空を見あげてごらん。みんなのハピネスが、ここにあるよ。Ha-hah!》
夜空の中、聞こえてくるのは、あの懐かしい、親しみに溢れた鼻声と笑い声。
そこに集まっていた多くの人間が、空を見あげた。それは、普段生きている地上から目を離し、天空が主役となる、貴重な時間。
そして、次の瞬間には、煌めく大輪の色彩が、夜空を埋め尽くした。
大きく、虚空に弾ける音。打ち出され、舞いあがり、人々から感嘆の声が漏れる。
「見て見て、デイビス——ほら、花火だよ。とっても綺麗!」
カメリアははしゃいだ声をあげて、目をきらきらと輝かせた。弾ける閃光に合わせた色とりどりの反射が、彼女の横顔を照らし出し、その瞳をどんな宝石よりも美しく彩った。デイビスは微笑んで、花火が一番よく見える位置を、彼女に譲ってやった。
「見えるか?」
「うん、見えるよ。デイビスは?」
「ああ。俺も、見えるさ」
今、この時代を生きる、数え切れない人々とともに宇宙に包まれながら、膨大な数の星が流れ、広がり、無数の魔法を帯びて光り輝くように尾を引くのを見つめた。あの輝く光のひとつひとつが、この世に花開いては消えてゆく、かけがえのない物語のようだと思った。その何もかもが、きらきらと波に掻き乱されて、降りそそいでゆく。過去の営みは儚く、夢のようだった。けれども、例え地上から無くなったとしても、その存在はけして無意味だったのではない。あらゆる物語のうちに、彼らの喜怒哀楽のうちに、生命の描いた冒険は生きている。彼の生きた時代も、これから生きる時代も、彼が生を享ける前の時代も、彼が逝去した後の時代も。誰かがそこに生まれて、夢を見る。そうして、この世界は、前へと向かって進んでゆく。
それは、いつの時代の、どんな人間の、どんな一瞬でも、同じことだった。誰もが心の中に携えている、人生の物語。交差し、離れ、時に同じ言葉を分かち合いながら、すべてのページは風にめくれて、ひた走るように未来を目指す。デイビスは思う——それこそが、俺たちを繋ぐ、ただひとつの光なのだと。
カメリアならば、ドリームフライヤーに乗って、どこまでもゆけるだろう。きっとその一秒、一秒は、俺の触れることのできない、遠い時代の物語の一ページ。でも確かに俺は、そこに描かれた主人公の輝きに、胸を掻き立てられて。一緒に夢を見て、冒険をして、彼女の生き方にどうしようもなくワクワクしたんだ。
この、限りない夜の中で。彼女を乗せたドリームフライヤーは、美しい光に照らし出されるアクア・スフィアを超え、ミラコスタの屋根を過ぎ越し、一面に輝く黄金の灯火の海を眼下に、色とりどりの花火を反射するハーバーを渡り、冒険心を象徴して浮かべられたルネサンス号も、過去の偉大な冒険家たちを讃えるフォートレスも、プロメテウス火山も、すべてを凌駕して、輝き落ちてゆく無数の火花の中、さらなる星空の彼方へと飛んでゆけるだろう。
知っている、彼女なら、最高の魔法をこの世に残すことを。未来を生きる人々が、どんなに辛いことにも絶望せず、ふたたび前を向けるように。何度でも、この夜の中で夢を見られるように。彼女なら、そんな物語の主人公となって生きてゆくと、信じている。
そしてデイビスは、いつか誰かが彼に囁いた、あの言葉を思い出した。
————あの人がかけてくれた魔法は、今もここに生き続けているんだ————
夢も、魔法も、ここにあると知っていた。
それらは、街の黄金の灯りを反射する黒い海に映り込み、地面に長い影を引いていた。
それらを背負って、今を生きる人々は、明日へと進み続ける。
繰り返し、繰り返し———前に、進み続ける。
「ねーえ、デイビス。花火もたけなわなことだし、この機会に、もう一度言ってくれる?」
「もう一度って、何を?」
「決まっているじゃない。『あんたが好きだ、カメリア』って」
「馬鹿! あんなのは、生涯に一度っきりだ」
「あらあら。シャイな殿方は、口説き文句も知らなくて困るわ」
「…………」
「ま、あなたのそういうところを好きになったんだしね」
初めて出会ったあの日と同じように、瞳の中に幾つもの光を反射させ、今を限りと懸命に生きるカメリア。彼女と手を繋いでいると、心が伝わってくる。鼓動が伝わってくる。時は過ぎゆき、季節はめぐり、いずれ時代は変わってゆく。朝がくれば、この世界に残されている、彼女の死した現実だけを受け止めて、また歩き出さなければならない。それでも、彼女がそばで呼吸して、風のような記憶を残していった事実は変わらない。その過ぎ去った日々は、本当に宝物のようだったのだと、今更ながらデイビスは苦しいほどに実感した。今はただ、空を通じて託されたこの想いが、星のように自分をあるべき場所へと導いてくれるのを祈るだけ。そしていずれは、過去の存在として逝去した彼女ではなく、これから未来に生まれてくる別の誰かに、彼が人生で築きあげてきた、すべての意味を託してゆくことになるだろう。
このまま、永遠に夜が明けなければいいと思った。
だが、明日は明日の風が吹き、太陽はふたたび、未来を求める人々の世界を輝かせる。過去は海が呑み込み、砕け散る波の藻屑へ。今日という蝋燭は吹き消され、明日の明かりが窓から滑り込んで、短い夢に浸る人間たちの肩を揺すぶってくる。そして人々は、喪失に痛む胸を引きずりながら、未来という光の中に、自らの心臓の音をさらけ出すだろう。
夜の海を見つめながら、繋いだ手を握り締めると、微かに力が籠もり、優しい鼓動が返ってくる。それは、同じ夢を見た人間の、同じ掌の温かさだった。例えこれから先、二度と触れることはできなくても、彼の思い出から消え失せることはない。
そしてその時、デイビスは初めて思った。彼女とともに空を飛んだ自分は——世界で一番、幸せな人間だったのだと。
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